2025年の年の瀬、そして大切な読者のみなさまへのお知らせ


 年の瀬である。
 今年のクリスマスも見事な平日で、24日が水曜日ともなると、前と後、どちらの週末にずらしても間が抜ける感じがあり、仕方なく暦どおりにクリスマスディナーを催した。
 メニューはミートグラタン、ピザ、ローストチキン、生ハムといったラインナップで、ローストチキンは義実家が「自分たちのついでに買ってやる」というので、ありがたく申し出を受けた。持ってきてくれたのはアヒルかなんかだろうかと思うような巨大なもので、値段を見ると1本1000円ほどもしていた。だとすればついでに買ってくれたわが家の分だけで4000円である。義実家は平時より経済をきちんと回しているなあという印象があるが、年末年始はさらにその箍が外れている感がある。今年も間違いなく豪勢なおせちを予約していることだろう。
 ローストチキンをはじめとして、ワインが進んでしょうがないようなメニューだったが、晩ごはんの際はこれに麦茶を合わせた。なぜならこの日はポルガの塾があり、送迎をしなければならなかったからである。今日は私が送り迎えするから飲めば? とファルマンは言ってくれたが、少し雪の混じった雨が降るような気象条件では、任せられるはずもなかった。その代わり夕飯のときには全体の3割ほどしか食べず、迎えが終わってからきちんと食べ、飲んだ。ローストチキンはやわらかくておいしかった。
 ケーキは、去年そこそこの値段を出したのに前年に比べて明らかに小さく、寂しい気持ちになったので、今年は手作りしようとあらかじめ考えていて、さらに言えば苺も高くて買いたくないので、チョコレートのスポンジとクリームにバナナという組み合わせにした。これはとてもよかった。この時期の苺の高さというのは、本当に常軌を逸している感があり、ケーキを作るにあたりスーパーの苺の値段に一喜一憂せずに済んだのは、すごく救われた。チョコとバナナのケーキは、もちろん間違いのない味で、材料の調達も、味わいも、とにかく気楽であった。ケーキなんてこんなんでいいんだなー、としみじみと思った。ちなみに、もちろんロウソクを立てて、火を点け、ハッピーバースデーを唄うわけでもない、クリスマス特有のグダグダな吹き消す儀式をしたのだが、その際に「今年は涼子がちょっと世間様をお騒がせしちゃって……」とキャンドル・ジュンのモノマネをするのも忘れなかった。われながら律義だと思う。
 子どもたちへのプレゼントは、ポルガが最近はまっているという西洋史の文献、ピイガが電動やすりなどのハンドメイドグッズだったのだけど、中3と小6のクリスマスプレゼントというのは、なんかもう本当に立脚点があやふやというか、ピイガは夜、ポルガは朝、それぞれの寝ているとき部屋に袋を置くという、サンタクロースからのプレゼントが届いたよ的な形式はいちおう取るのだが、一方でプレゼント選びに関しては、数日前に思いっきりファルマンのアカウントで、子どもたちと一緒にamazonで選んでカートに入れたりしているわけで、じゃあもうオープンなのかな、と思って、届いた物品をそんなに隠さない感じで扱おうとしたらファルマンに少し窘められたりもして、なんかもうサンタクロースの存在およびその崩壊具合が、あまりにもまだらすぎて、戸惑うのだった。来年は中学生と高校生になるわけで、もうさすがに親からの手渡しでいいんじゃないのか、いっそamazonの段ボール直渡しでいいんじゃないか、とも思う。
 プレゼントと言えば、年末恒例、自分への1年間おつかれさまプレゼントである。今年は特にこのひと月半ほどよく働いた感があるので、とびっきりのプレゼントを買っても罰は当たらないだろうという思いがある。そういう強い意欲のもと、なにを買ってやろうかと意気込んで、ここ2週間ほど熱心に考えているのだが、これがびっくりするくらい思い浮かばない。去年はさんざん悩んだ末、なにを思ったか老眼鏡を買ったのだった。あれは結局、買った直後しか使わなかった。実にもったいないことをした。老眼鏡自体は腐るものではないので持っておくに越したことはないが、1年間のご褒美にはなり得なかった。今年はあんな失敗をしたくない。でも本当に思いつかない。そろそろネットで注文したものは年内に届かない時期になってきた。参ったな。
 まあそんな感じの、2025年の年の瀬を過している。今日で無事に仕事が納まり、明日からは待望の連休だ。嬉しい。夏のように大イベントもないので、存分に自分の時間を取り、せいぜい堪能しようと思っている。
 それとひとつ、このブログを読んでくれている人に報告がある。
 2018年から始まった「おこめとおふろ」、突然だが、今回が最終回である。7年間、35歳から42歳まで、パピロウの暮しのことを綴るために存在していたブログだったが、このたびその役割を終え、幕を閉じる運びとなった。ブログというのは、あるとき明確にその役割を終えるのだ。ブログって、そうなのだ。ブログってほら、例のあれと例のあれを、繰り返すものですからね。次の展開をお愉しみに!

娘たちの近況、および


 子どもが来年には高校生と中学生になるという事実に、たまにおののく。
 ポルガはこのたび、中学の部活を無事に引退した。ここまで明記せずにいたが、吹奏楽部であった。積極的に学校の話を親に向かってするタイプではないので、そこまで深く知らないが、気の合う友達もいて、それなりに愉しくやったようである。ポルガが1年生時の、3年生が引退する定期公演を観たとき、いまの3年生は立派だが、ポルガの代が上級生になったときあのような風格を身につけることは決してないだろうから、この部活はどんどん衰退していくに違いない、と思ったものだが、それから2年経って、ポルガの代が引退する定期公演では、当時の3年生ときちんと同じ風格を纏っていたので、子どもの成長というのはすごいものだなと思った(ただしそれと同時に、ひとつの場所に長くいて、立場が上がっていくと、存在感というのはオートメーションで付与されるものなのだな、とも思った)。
 部活を引退したので、いよいよ本格的に受験生としてのフェーズに入ったわけだが、前にも書いた通り、成績的に志望している高校はまず大丈夫だという。だというが、受験のことなので、なにがあるか分からない。親としては、推薦で早めに安全に決まってしまえばいいと願わずにおれないが、ポルガの入ろうとしている高校というのは、この地域の勉強のできる子が入るタイプの学校なので、公立校のくせに、公立校だからだろうか、どうも話を聞くにつけスタンスが居丈高で、推薦で合格するような子というのは、もれなく生徒会長などをやっていた子だったりするのだそうで、そういう話を聞くと、自分が中学生だった頃の、内申点とかの体制に縛られるもんかと猛反発し、結果的に地元で行ける高校がなくなってしまった、あの頃の気持ちが甦ってきて、とてつもなく嫌な気持ちになるのだった。自分の人生にとって、中学をいい子で過し、地元のそこそこの共学校に行かなかったことが、結果的に良かったのか悪かったのかは、他方の人生を経験していないから判りようがないけれど(高校が共学でなかったという事実に、身を焦がすような激しい感情に襲われる夜はたまにあるけれど)、ただひとつ確信を持って言えることは、僕はあまり子どもの高校受験に関して口を出さないほうがいいということで、日々の塾の送り迎えも、粛々と寡黙にやっている。まあどういう結果であれ、自己肯定感だけは強く育っているので、それさえ頑丈にできていればなんとかなるだろうと捉えている。
 次にピイガは、小学6年生にしてはやはり身体が小さく、1学年下の従妹にも身長で抜かされ、同級生と一緒にいても下級生の妹のようにしか見えないことから、先日とうとう成長ホルモンなどが正常に分泌されているのかどうか、2泊3日の入院をして、正式な検査を受けたのだった。ちなみになぜ入院する必要があるのかと言えば、寝起きの状態を調べなければならないかららしい。近所にある病院だったのだが、ファルマンも付き添いで寝泊まりし、その間は当然ながら僕とポルガがふたりで暮した。家が静かで、リビングが散らからなくて、ピイガの日々放っているパワーを痛感した2日間だった(だからカロリー収支がプラスにならないのだ)。
 それで診断結果はどうだったかと言うと、成長ホルモンは正常に分泌されていて、ただしその流れが平均よりも2年ほど遅れているようなペースなので、いまは周りの子が成長期なので本当に差が激しいけど、そのうちそれなりに追いつくんじゃないか、みたいなことだったそうで、要するにそれは『診断名:かわいい』ということだなと、父親としてそう解釈した。下の娘はいつまでも小さくて無邪気でかわいらしいと思っていたが、このたびとうとうそれが医学的見地から実証されたのだ。伝説のようなエピソードではないか。
 そんなピイガが、来春から中学生である。もうぼちぼち、制服の採寸である。信じられない。このままだと、嘘みたいな女子中学生が爆誕する。なにか強い思念体が、その特殊な力によって、このような現象を生み出したのではないかと、一種スピリチュアルなものを感じずにおれない。
 ついでに、そんなふたりのティーンエージャー少女の親である僕の近況報告をするならば、最近ハーフバック気味の水着を穿きだしたことから、水着からはみ出る尻のことが気に掛かるようになり、ボディスクラブや風呂上がりのマッサージ、そして尻を持ち上げるための筋トレなど、尻の美容にこだわりはじめた。若かった頃の自分の尻がどうだったのかは知らないが、たぶん大人になって以降では、いまがいちばんきれいな尻をしていると思う。以上です。

血とスピード


 文化の日の3連休を利用して、兵庫で暮すファルマンの上の妹一家が、下の子の七五三のためにやってきていた。中日の日曜日に、写真館での撮影と、そのあと出雲大社で祈祷というスケジュールとのことだったので、タイミングを合わせて一家で出雲大社へと繰り出した。もちろん祈祷に参加するわけではなく、境内で3歳児の着物姿を、親戚として愛でるだけのことである。
 ちなみに出雲大社は目下、出雲地方が最も出雲地方らしさを発揮する月間、すなわち神在月であり、何年か前にこの時期の出雲大社に近付こうとして、だいぶまだ遠い段階での車の詰まり具合に、ほうほうの体で引き返したことがあったので、果たしてどうなんだろうと不安だったが、もう夕方といってもいい時間帯だったこともあってか、そこまでのことにはならず、それでもさすがに直前では駐車場に入るための渋滞に巻き込まれたが、なんとか停めることができ、無事に一同と落ち合うことができた。一同とは、下の妹一家、ファルマンの両親、そして妹の夫の両親という面々である。
 本日の主役である義理の姪は、写真館からここまでの移動中に昼寝をしたとのことで、ぐずることもなく、かわいらしかった。
 着ている着物は、うちのふたりの娘はもちろんのこと、なんとファルマン三姉妹の時代からずっと受け継がれているもので、つまり今回で実に7人目ということになるのだった。最初がどういう状況での購入だったのか、もはや太古の昔の話なので遡りようがないが、それにしたって7人も着れば十分に元は取れたに違いないと思う。
 せっかくなので出雲大社の境内で写真を撮ろうということになり、だとすればそれは当然、この場にいる人間の中で、唯一今日の主役と血の繋がりのない僕が、ひたすらカメラマンに徹して血族の姿を撮影するべきだろうと思っていたのだが、義父が仕切りたがったり、向こうの母親が「修正が利かないので私は入りたくない」などとのたまって写りたがらなかったりして、あまりスムーズにいかなかった。結果、義理の伯父が入っている一方で、母方の祖父と父方の祖母がいない、みたいな謎のメンバー構成の写真も生まれた。そんなもん、どうせ撮ったってハードディスクの肥やしになるだけだろ、と思った。
 このあと一同はお祝いの会食ということで、別れた。わが家は本当に、この日の七五三スケジュールの、出雲大社の場面にちょっと顔を出しただけなのだった。まあ、まったく関与しないのも微妙に変な気もするので、ちょうどいい絡みだったんじゃないかと思う。
 それにしても間がまあまあ空いて誕生した義理の姪は、見るたびにその幼さに驚かされる。ふだん自分の娘たちしか見ないので、特にピイガなんかは、どうしても「幼いもの」のカテゴリに入れがちなのだけど、3歳児を目の当たりにすると、その親としての一種のモラトリアムにも似た意識が、完膚なきまでに粉砕されるのだった。そうだ、うちの娘たちは、来年それぞれ高校生と中学生なのだ。それはもちろんいろんな部分で、まだまだ幼い生きものなのだけど、でも絶対的な幼さを目にすると、やっぱり明確に違う。なにが違うって、要するにフェーズが違う。いつの間にか自分は次のフェーズに進んでいたのだな、ということに気付かされる。今生、僕が再び血族の幼児を愛でることがあるとすれば、それは孫の代ということになる。びっくりする。人生って想像以上にスピーディーだ。おもひでぶぉろろぉぉんでは、17年前の、25歳当時の日記を読んでいるのだ。17年後、ポルガは31歳である。そうなのか。人生って、こんなスピード感なのか。

秋の3連休

 体育の日ならぬスポーツの日による3連休であった。
 初日の土曜日は、午前中に恒例の買い出しを行なったあとは、部屋でダラダラと過した。筋トレなど、あまり精力的にはやらなかった3日間だったように思う。晩ごはんは、フライドポテトや煮豚、餃子の皮のピザなど、酒が進みそうなものを細々と並べるラインナップにした。あと野菜としてミネストローネ的なスープも作った。こういう欲張りな献立を組み立てるようになったのだから、夏の食欲減退からは完全に脱却したのだな、ということを実感した。まあわりと暑い3連休ではあったのだけど。
 この夜に、髪を黒くする処置をファルマンにやってもらう。夏を経て、さらには実は半月ほど前に職場でコロナが流行ったのだけど、その際に週末に合わせて僕も体調を崩し、週明けにはまあまあ回復したものだから結局タイミングを逸して病院には行かなかったのだけど、振り返ってみればやはりあれはコロナだったんじゃないか、という症状があって、それも関係しているのか、髪がだいぶ傷んだ感じになっていたこともあり、金髪もずいぶん続いて飽きてきていたので、このあたりでひとつ仕切り直しとして黒に戻すか、となったのだった。結果、まあ実に黒い。僕は地毛がまあまあ茶色いので、こんなにも黒い状態というのは自然じゃなく、だいぶ違和感がある。黒髪戻しといっても、茶髪的なテイストのやつも売っていたのだが、今回はなんとなくしっかり黒くなるものを選んだのだった。仕上がりとして満足しているかどうかで言えば、ちょっとだけ後悔している。何日かすれば、もうちょっと穏当な色味になるだろうか。あるいはここから少しだけ髪が伸びたくらいのタイミングで、年内には再び脱色するかもしれない。42歳のくせに落ち着かないことだな。
 翌日の日曜日には、久々にカラオケに繰り出した。本当はこれも半月ほど前の予定だったのだが、行くはずだった週末というのが、ちょうどその「十中八九コロナ」の週末であったため、予約をキャンセルするはめになっていた。その雪辱としてようやく行けた次第である。ちなみに今回もポルガだけ別室で、あとの3人で一室というスタイル。3時間唄う。僕の唄った曲は順番に以下の通りである。「黒ネコのタンゴ」(皆川おさむ)、「ファイティングポーズはダテじゃない!」(Berryz工房)、「大スキ!」(広末涼子)、「わたしの一番かわいいところ」(FRUITS ZIPPER)、「だれかが風の中で」(上條恒彦)、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)、「押忍!こぶし魂」(こぶしファクトリー)、「付き合ってるのに片思い」(Berryz工房)、「それもいいね」(Wakeys・こっちのけんと)、「かわいいだけじゃだめですか?」(CUTIE STREET)、「倍倍FIGHT!」(CANDY TUNE)、「人として」(海援隊)、「チョット愚直に! 猪突猛進」(こぶしファクトリー)、「宙船」(TOKIO)、「笑ったり転んだり」(ハンバートハンバート)。数えてみれば全15曲で、だいぶ唄ったものだ。皆川おさむ、上條恒彦、橋幸夫は追悼歌唱。広末涼子は言わずもがなだろう。前回は「Majiで恋する5秒前」を唄ったが、歌詞を見ると「大スキ!」はダーリンとのドライブ中の話なので、こちらのほうが適しているのだった。適しているってなんだろうね。あと今回はアイドルソングを多く唄った。平成のハロプロと、令和の最近のやつ。我ながら趣味が分かりやすいなと思う。愉しかった。急な「宙船」は、その前にピイガが「ブラザービート」や「カリスマックス」などsnowmanを唄い、映像がプロモーションビデオだったりしてとても愉しかったので、彼らが決してこんなことになりませんように、という祈りを込めて唄った。前回の「チキンライス」や「世界にひとつだけの花」とほぼ同じ趣向である。最後のハンバートハンバートは、言うまでもなく「ばけばけ」の主題歌。はじめから唄う心積もりで来ていたのだが、実は序盤にファルマンに唄われてしまい、残念だなあと思っていた。でもファルマンが唄ってから2時間くらい経ってるから別にいいだろ、と思ってやっぱり最後に唄った。夫婦デュオの曲なんだから夫婦で唄えばいいじゃないかという話だが、決してそうはせず、それぞれがひとりで唄うというところがわれわれらしいな、と思った。ともかく愉しいカラオケだった。カラオケ、行くたびにもっと頻繁に行って喉を鍛えたいと思うのだが、なかなかそうはならないのだった。
 晩ごはんは今年初の煮込みラーメン。ちゃんぽん味。煮込みラーメンのちゃんぽん味なんて珍しくていいな、と思って選んだのだが、いざやってみたら、ちゃんぽんが野菜たっぷりの具沢山なのは普通のことなので、鍋とラーメンが合体した愉しさという、この商品の魅力が、いまいち発揮できていないんじゃないかな、ということを思った。もちろんおいしかったけど、これは各自のちゃんぽんをひとつの鍋で供しただけのことだな、と思った。
 明けて最終日の今日は、家でのんびりと過した。サブスクでアニメなどを流しながらミシンを踏むという、なんだかんだでこういう時間がいちばん大事だな、としみじみ感じるような過し方をした。さすがは3連休。心にゆとりがある。
 昼ごはんを少し遅めにして、13時過ぎにスタートの出雲駅伝の中継を眺める。毎年のことながら、コースがあまりにも身近でおもしろい。事前に知らされていなかったのでもちろん気付かなかったが、あとから送られてきた映像によると、沿道に立って応援していた義父母も一瞬映ったらしい。イオンのあたり。なんと身近な話であろう。
 晩ごはんは鶏肉のすき焼き。軽めに炊いた新米とすき焼きの組み合わせが、酩酊するほど美味しかった。近ごろ、ごはんが本当においしく思えるようになってきた。スーパーでの買い物も愉しい。ようやく人間としての暮しが戻ってきたな、と思う。いい季節だ。

42歳


 誕生日である。42歳である。
 土曜日の誕生日であったが、運悪く出勤日であったため、実は先週の3連休で既にお祝いを済ませていた。ちなみに「20日は出勤だからこの3連休でお祝いをしよう」という提案をしたのは、他ならぬ僕である。それに対して家族は「あ、うん……(半笑い)」みたいな反応で、なんだかやるせなかった。結局、僕の誕生日のことを世界でいちばん熱心に考えてくれるのは、僕だということだ。なので後悔のないよう、存分に寿ぐことにした。
 苺のない季節により毎回悩まされるケーキは、これまで主にチョコレートケーキに逃げ、あるいは白玉クリームぜんざいという変化球を放った年もあったが、今年は端から頭にモンブランが浮かんでいた。今年はやけに栗系のスイーツが食べたい機運なのだった。なのでモンブランって家で作ることができるのだろうかと検索をしたところ、マロンペーストというものが販売されていて、それとホイップクリームを混ぜると、いわゆるマロンクリームになるとのことで、モンブランの定義はよく知らないが、要するにスポンジにマロンクリームがたっぷり掛かってるやつが食べたかったので、そういうものを作ることにした。併せて栗の甘露煮も注文し、本人の並々ならぬ熱情により、3連休の数日前に準備は整った。マロンクリームは、本当は黄色いものが好きなのだけど、買ったマロンペーストは濃い茶色で、ホイップクリームと混ぜたら薄茶色になった。たぶんこっちが本当で、愛着のある黄色いやつこそが嘘の色なのだろうけど、こしあんつぶあんのように、所属派閥でないほうのものを食べるときは、少しだけ忸怩たる気持ちを抱く。でも黄色いペーストなど売っていなかったのでしょうがない。まあ、こしあんつぶあん以上に、「味は一緒」である。マロンクリームはデコレーション用で、スポンジの間には、ホイップクリームに、甘露煮とマロングラッセを細かく刻んだものを混ぜ、たっぷりと挟んだ。とにかく栗尽くしなのである。上にはマロンクリームを細い線で幾重にも走らせ、苺の代わりに甘露煮を8個、円周に等間隔に並べる。最後に粉砂糖を振りかけ、手製のモンブラン(もとい栗のケーキ)の完成である。ホイップクリーム、マロンクリーム、そして甘露煮、どう考えても凶悪な糖質、そしてカロリーであろうが、お祝いなのだからして、という勇ましい気概で怯むことなく食べた。ピイガはあまり食べつけない栗を受け入れず、当夜も半分残し、翌日のふた切れ目も食べないとのことだったので、結果的には僕が3切れを食べることとなった。こんな凶悪なケーキを3切れも、と思わないこともなかったが、しかし望んだとおりのおいしさだったので、幸福感とともに腹に入れた。ピイガのことなど気にせず、来年以降もこれでいこうと思う。
 祝いの席の食事は、やはり定番の手巻きずしにした。誕生日の特別予算も下り、刺身類を豪華に買い揃えた。それらはもちろんおいしかったが、しかし手巻きずしの際いつも言っているが、いちばんガツンとおいしいのは、玉子焼きと、アボカドと、たらこマヨの組み合せだったりする。とにかく僕の作る玉子焼きがおいしすぎて、これを欠く鮨が物足りなく思えてしまうほどである。夏の実家でも、僕が作ればよかったな。
 ちなみに今年もお祝いのポスターを描いてもらった(求めた)。こちらである。


 3人による共作で、左がポルガ、中央がファルマン、右がピイガなのだが、共作と言いつつも、ともになにかを描くとか、一連の流れになっているとか、そういうことは一切ない。ファルマンに関してはいちおう、ふたつ前の記事で写真をアップした、夏の手塚治虫記念館での僕の姿を描いているが、ピイガは自分のオリジナルキャラクター、カメラメ先生ファミリーの絵だし、ポルガに至っては、知らないキャラクターが知らないキャラクターに得体の知れないものを無理やり食べさせようとしている場面という、マジでなんでそれを今ここに描くの、マジでなんでなの、という絵で、しかしなんというか、非常にわが家らしい、それぞれ自我の強い感じのポスターに仕上がった。まあこれはこれでいいとしよう。
 そんな感じで、今年も無事に誕生日を祝えたわけで、これに勝る喜びはないとしみじみと思う。42歳の目標は、43歳も同じように祝えるよう、健やかに暮すことだ。あと一攫千金で使い切れないほどの金を手に入れ、めちゃくちゃ楽に生きたい。ただそれだけだ。
 ちなみに決めあぐねていた誕生日プレゼントだが、とうとう決まった。寒い時期の、プール後に着るためのジャージの上下にした。去年の靴に続き、今年も同じような価格帯なので、同型のものを色違いでふたつ買い、変な感じで着ようと思っている。

真夏のエアコン気絶と初秋の模様替え


 実は今年の夏、僕とファルマンが使っている部屋のエアコンが、音を上げていた。
 それは故障した、ではなく、あくまで音を上げた、という感じで、基本的には動くのである。そして動くときは、涼しい空気を出してくれるのである。しかし西向きに窓があり、室外機もまた西向きに設置されているわれわれの部屋のエアコンは、たぶん一日でいちばん温度が高まった状態になるのだろう、14時半から17時半くらいの時間帯、異常を知らせる赤色点滅を表示し、稼働を止めるのだった。それはまさに「もう無理!」とギブアップしている感じで、見方によってはなかなか親しみを感じる人間性であると言えた。
 とは言え室内で過す人間には堪ったものではない。僕がその時間帯に部屋にいるのは週末だけなのでそこまで問題ではないが、なにしろファルマンである。家からはもちろん、部屋からも極限まで出ないことで知られるファルマンだ。すぐに「これはまずい」ということになり、最低限の仕事道具一式を持ち出して、ピイガの部屋へと避難した。もちろん修理の依頼は試みたのだが、時期が時期だけに、だいぶ先になるという返事だったそうである。
 そんなわけでこの夏、ファルマンはずっとピイガの部屋で仕事をしていた。ピイガというのは甘えん坊なので、もちろんそれを拒むはずもなく、むしろ喜んでいた。なんなら寝るのもこの部屋ですればいいのになどと、末っ子らしい、いじましいことまで言うのだった。
 そんなふうにして夏が過ぎ、9月に入って、暑さもまだまだ継続しつつ、しかしさすがにピークは過ぎたようで、そのことをどこでいちばん強く感じるかと言えば、われわれの部屋のエアコンが例の時間帯にも音を上げなくなった、という点によってであり、とりあえずなんとか今年の夏は乗り切ったのだった。エアコンの修理は、先日いまさら「行けますよ」という連絡が来たのだが、真夏のあの時間帯以外は普通に動くのだし、まあ様子を見るか、ということでお断りした。
 それで、じゃあぼちぼちファルマンもこっちの部屋に戻ってくるのかな、と思いきや、ピイガは「戻らないでほしい」と望むし、ファルマン的にもリビングに近いピイガの部屋のほうが仕事をするにあたって都合がいいなどという事情があるようで、エアコンの気絶がきっかけの期間限定の避難のはずだったが、いっそピイガの部屋の一角を正式な仕事場ということにする、ということになり、この1ヶ月あまりで物置と化していたデスクなど、本格的にごっそりと移動することになった。そしてそうなると、その分のスペースが当然ながら空くので、こちらの部屋でも模様替えが発生することとなり、今週末はこの作業に勤しんだ。
 結果としては、これまでファルマンと共有だった部屋が、僕だけのものになった形で、とても寂しい。ああ寂しい。本当に寂しい。でも寂しさにばかり目を向けていてもしょうがないので、ミシンやパソコンなどをのびのび、すげえ機能的な感じに配置し、なるべく部屋が快適になるようにした。これまで週末、ファルマンに仕事があるとき、せっかくの休日なのにミシンができない、などという事態がままあったが、今後はそんな問題からも解放される。なんだか寂しい。心にぽっかりと穴が開いたようだ。
 ちなみに、冗談めかして述べているが、ファルマンが自分の身の回りのものをどんどん部屋から持ち出していくさまは、ある日ごっそりと父のものが家からなくなっていたという経験を持つ母子家庭出身者からすると、微妙にトラウマが刺激される部分があった、ということはここに明記しておく。それだのに気丈に、寂しさのことをわざとおちゃらけて表現するところに、僕の尊さがあるとしみじみ思う。
 もちろん夫婦の寝室としての機能は継続している。仕事はあっち、寝るのはこっちと、ファルマンの部屋はふたつに跨ったのである。これもある種のノマドワーカーか。「ピイガが思春期になって部屋から追い出されたら戻ってくるけん」とファルマンは言う。果たしてそんな日は来るだろうか。ピイガに限ってそんなことにはならないような気がする。いや、寂しいからいつでもこっちはウェルカムだけどもね。

2025年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日


 最終日は帰るだけかと思いきや、実はそうではない。今年の帰省は、(帰省以外のところで)本当に盛りだくさんなのだ。キャッスルイン豊川にチェックアウトギリギリまで居座らないという贅沢をしてどこを目指したかと言えば、兵庫県は宝塚市である。通り道であり、行きの際も宝塚サービスエリアで休憩したりしたのだが、このたびは高速道路を降りて、とある施設に寄ることにしたのだった。どこか。ここである。


 パピロウ、あなたはもう二度と人間に生まれてくることはないのよ。手塚治虫記念館に、火の鳥のTシャツを着てきてしまう、その心安い性格じゃないくせに半端にお調子者の了見が気に障るから、そう決めたわよ……。
 というわけで、さくらももこ、ツタンカーメン、佐藤雅彦と大スケールで巡った今回のミュージアム探訪旅行(もはや帰省にあらず)の掉尾を飾るのは、手塚治虫記念館なのであった。岡山時代からずっと行きたいと思っていたが、意外な形での来訪となった。画像にあるように、建物の前には他ならぬ火の鳥の巨大なオブジェがあり、テンションが上がった。「俺が火の鳥から啓示を下されているようなイメージで」と頼み、ファルマンに撮ってもらった。なかなかいい写真になって嬉しい。入館すると、まさにこの日僕が着ていたデザインの火の鳥のイラストが掲示されていて、受付の真ん前でだいぶ恥ずかしかったが、その前でも記念撮影をした。展示そのものは、まあ「ふうん」という感じで、なにぶん手塚治虫のすごさというのは、わざわざ記念館に来なくても有名すぎるほどに有名なので、新しい驚きのようなものは特になかった。また企画展は「創聖のアクエリオン」がテーマで、これも残念ながらわが家のセンサーには引っ掛からなかった。ミュージアムショップには初めて目にするような商品が多数あり、テンションが上がった。カード全てにさまざまなキャラクターがデザインされている火の鳥トランプなんかを買った。ポルガは「ブッダがあんまりない」とボヤいていたが、ブッダはほら、キャラクターって言うか、キャラクターじゃないって言うか、微妙なところだから。そもそも手塚キャラの中でブッダ推しっていうのやめろよ、と思った。あとプリクラもあって、せっかくだからということでもちろん手塚キャラフレームであるそれを、一家でやった。普段なら考えられないことだが、さすがに思春期の長女も参加してくれた。しかし家族の中で誰もプリクラを撮り慣れている人間がいないため、まあまあ散々な出来になった。でもまあ、僕はもう二度と人間に生まれてくることはないので、これも人間としてのいい思い出としよう。
 ちなみに順番が逆になるが、ここにたどり着く前、ナビの指示に従って道を走っていたら、窓の外を見ていたファルマンが「あーっ」と言って、見ると右手に太陽の塔があった。初めて実物を目にした。想像よりもだいぶ大きくて驚いた。
 それとさらに順序が逆になるのだが(一体どういう構成で日記を書いているのか)、この朝の出発の際、買い出しなどあって豊川の街を走っていたら、ちょっと異様な雰囲気のエリアに入り込んで、そこはかの有名な豊川稲荷なのだった。出雲大社ほどではないが、かなりのメジャー級であろう。今回は素通りしたが、どうせまたキャッスルイン豊川へは、今回のように行きも帰りも両方じゃなくても、泊まることはほぼ確実にあるだろうから、その際は立ち寄ってもいいかもしれないと思った。
 そんなわけでだいぶさまざまなスポットを巡った、5泊6日の、帰省にかこつけた夏の大旅行であった。結局もちろん100%僕が運転をして、まあまあ疲れたけれど、今年も実行できて、そして無事に帰ってこられて、本当によかった。

2025年夏の自家用車横浜帰省 5日目


 前にも書いたが、実家の布団は硬い。どういう作用によるものか、年々硬くなっているような気がする。3日目ともなると、今晩もあの布団で寝るのかと思うだけで憂鬱になる。それくらい硬い。しかし1年で3日しか寝ない身分でマットレスを所望することもできず、耐え忍ぶしかないとあきらめていた。だが今回、これはさすがに体への負担が大きすぎるとなって、次に帰省する際は、車に自前のマットレスを積んでこようと決心した。子どもたちはさすがなもので平気らしいので、僕とファルマンのふたり分でいい。たぶんキャンプ用品とかで、コンパクトに収納できるいい感じのものが世の中にはあるはずだと検索したら、安い値段でいくらでも出てきた。安くていい。そこまでのクオリティなど求めない。現状の、畳に硬い布団だけのつらさに較べたら、どんなものでもあるだけマシだろうと思う。次は忘れず、必ず。
 この日は実家を立つ日で、しかし例のごとくホテルまで移動するだけなので、急がない。午前中はのんびり過し、早めの昼ごはんをお腹に入れて出発という算段だった。この午前に、僕はプールに行くことにした。横浜でプールに行くチャンスがあるかもしれないと思い、用品は車に載せてきていたのだ。子どもの頃によく行った北部(都筑)プール、中学生の頃よく行った中川(山崎公園)プール、そして横浜国際プールと、行きたいプールはいくつかあったが、実は高校時代から住むいまの実家からいちばん近いプールは、住所は川崎市となるヨネッティー王禅寺というプールであると母に教えられ、じゃあそこに行ってみるか、ということで行った。もちろんひとりである。この世でいちばん狭い駐車場なんじゃないかと思うくらい狭い駐車スペースにヒヤヒヤしながら車を停め、たどり着いたプールは、採光はまあまあ良かったが、水深が浅く、うーん、という感じだった。あとシャワー室や更衣室がだいぶ粗雑な印象で、なんだか遠い島根のホームプールのことが恋しくなった。
 プールの帰りに給油を済ませ、出発する。結局、昨日おとといとがっつり外出したので、なんだかあっという間の帰省だった。本日の目的地はどこかと言うと、これがなんとキャッスルイン豊川なのである。さすがにはじめからそうするつもりではなかったのだが、実は今年もポルガの部活に振り回され、1ヶ月ほど前に帰省の日程が1日後ろ倒しになったことで、帰りに泊まるはずだった三重県のホテルはキャンセルし、行きも帰りもキャッスルイン豊川ということになったのだった。好きすぎるだろ、キャッスルイン豊川。
 この日は途中まで新東名を走ったのだが、御殿場を過ぎたあたりで、たぶんあれは富士山の中腹なのだろう、という姿を目にした。上半分は雲が掛かっていたが、いちおうは見えた。あと2025年に新東名を走る以上、どうしたって参らないわけにはいかないスポット、浜松サービスエリアにももちろん立ち寄った。もっとも本来は上り方面でなければならないのだが、そこはしょうがない。広末涼子は奈良県での撮影のあと、ここで同乗男性と運転を交代し、そして掛川PA付近で事故を起したのだ。そしてこの浜松サービスエリアでは、通行人に「広末でーす」と大声で名乗るなどの奇行が目撃されていたという。この一件が報じられて以来、今年も帰省をするなら絶対に浜松サービスエリアに行かなければいけない、行ったら俺も「広末でーす」と叫ぼう、もしかしたら当地には「広末でーす」を記念した撮影スポットができているかもしれない、などと考えていた。残念ながらそんなものはなかったが(上りにはあるのかもしれない)、ああ自分はいまあの現場にいるのだと感激し、聖地巡礼をするファンの心理が初めて解った気がした。ちなみにだが、広末涼子はあの日、車の運転で140キロを出していたと言われるけれど、このあたりの道は制限速度が120キロだったりするので、140キロというのもそこまで素っ頓狂な数字ではない、ということをここに記しておく。これで世間の広末涼子に対する印象が少しでも改善されればそれ以上の望みはない。
 テレビっ子としての欲求も無事に満たし、4日ぶり3度目のキャッスルイン豊川へ。数日前に泊まったホテルにまた泊まるという経験は初めてで、なんだか不思議な感覚だった。この日も思う存分、漫画やサウナを堪能する。前回の月曜日(11日)がけっこう混雑していたので、金曜日なんてもっと混んでいるだろうと思いきや、この日はそれほどでもなかった。前回のサウナでは、テレビで「ラーゲリより愛を込めて」をやっていて微妙な気持ちになったが、この日の金曜ロードショーでは「火垂るの墓」をやっていたはずで、避けていたわけではなく、ちょうどその時間帯にはサウナに入らなかったのだが、さすがにチャンネルがそこに回されてはなかったろうな、などと思った。
 3日実家の布団で寝たあとのキャッスルイン豊川のベッドは、まるでベッドのようだと思った。雲のよう、などと大袈裟なことを言うつもりはない。ベッドがベッドだった。それでいいのだ。実家の布団は、なんかもう布団としての要件を満たしていないように思う。実家の布団への恨み節がしつこい。でも本当に実家の印象がそれだけになるくらいのインパクトだったんだもの。

2025年夏の自家用車横浜帰省 4日目


 横浜での予定は昨日がすべてで、この日はなんの用件も入れていなかった。さてどうしたものか、また子どもたちを連れて、VS PARKのような、人が多くて疲れるだけのような場所に行くはめになるのか、とビクビクしていたら、ポルガが「いとこでカラオケに行きたい」と言い出したので、それはいい、4人でカラオケに行ってくれるなんて、それほど楽なことはない、と諸手を挙げて大賛成した。
 しかし成長した子どもたちが勝手に遊んでくれるのはありがたいが、付き添いがお役御免となった大人は、じゃあどうしよう、となった。せっかく横浜まで来ておいて、家でぐだぐだ過すというのもさすがにもったいない。ファルマンと話し合った結果、ふたりで身軽だということもあり、じゃあ渋谷とか池袋とか行っちゃう? ということになった。去年は東京には足を踏み入れなかったので、島根・鳥取・岡山・兵庫・京都・大阪・滋賀・三重・愛知・静岡・神奈川の、その先への進出である。
 まず田園都市線で渋谷へ。山手線に乗り換える前に、わざわざ外に出て、スクランブル交差点のあたりの様子を眺めた。渋谷駅周辺はここ数年ですごく変わったと言われるが、このあたりはそうでもないという印象を受けた。ハチ公前には外国人がわんさかいて、もうこのエリアは観光地以外の何物でもないのだな、と思った。かくいう我々も、スクランブル交差点でまったく無意味に行って帰ってをしたし、スマホで映像配信しているっぽい人もいた。ともすればあそこを歩いている人の7割くらいは、どこかに行くために歩いているのではなく、歩くために歩いているのかもしれない。
 山手線に乗ったのもずいぶん久しぶりだ。渋谷から池袋は7駅、というのは覚えていたが、間にある駅の記憶はまばらだった。原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白が正解で、さすがは錚々たるラインナップである。山陰本線との情報量の違いたるや。
 かくして池袋に到着する。田園都市線だったのでもちろん渋谷には子どもの頃からの馴染みがあるのだが、大学以降は池袋のほうが縁が深くなった。なにしろ数年間、駅構内で働いてさえいたのだ。ちなみに勤めていた書店は、そもそも会社がなくなったこともあり、いまはチュチュアンナになっていた。そうか、俺が二次元ドリーム文庫とか売っていた場所が、いまはチュチュアンナなのか、因果は巡るのだな、と感慨深い気持ちになった。そのあとも駅構内を散策するが、当時はまさにシマで、ホープセンターの、知る人ぞ知るさらに地下の喫茶店まで把握していたというのに、いまはもはや普通に道に迷う。駅の造りそのものは変わっていないというのに、15年ほどの歳月が、僕と池袋駅をこんなにも引き離してしまったのだった。西武デパートも閉鎖されているし、なんだか切ない気持ちになった。
 ひとしきり駅を堪能したあと、地上に出て、とりあえずサンシャイン方面を目指して歩き出す。道がいちいち懐かしかった。街や人の様子は、まあそこまで15年前と変わっていないような気がした。サンシャインの入り口が巨大なニトリになっていて驚いた。そうか、ハンズがニトリになったか。検索したところ、2021年の出来事らしい。そうか。サンシャインシティにも入館し、動く歩道が相変わらずでなんだか嬉しかった。そして当時からそうだったが、サンシャインシティってなんとなく行くけど、別に買うものはなにもないのだった。右の通路で奥まで行って、それから反対側の通路で戻った。途中のイベント会場では、イケメンがたくさん出る感じの、たぶん女性向けのゲームのイベントをやっていて、しかしあまりにも知らない世界だった。ファルマンはそのさまを眺め、「私は昔、ここで波田陽区がトークイベントをしているところをたまたま通りかかった」と言っていた。古すぎる。ただサンシャインまで行って帰っただけで、なにをしたというわけでもないのだが、とにかく久しぶりでエモかった。
 駅に戻って、お昼ごはんを食べることにする。なににするかは出発前から決めていた。立ち食いそばだ。田舎にはない立ち食いそばが、何年も前からずっと食べたかったのだ。子どももいない今が、千載一遇のチャンスである。当時毎日のように食べていた「のとや」は、自分がまだ東京にいた頃に閉店してしまったので、構内で見かけた適当な店に入る。テーブル席のない、本当の立ち食いそば屋だった。冷たい麺とカレーのセットを注文し、食べる。びっくりするくらいおいしかった。出雲そばに対して、初めて食べたときからずっと悶々とした気持ちを抱いているけれど、やっぱり僕は断然こっちのそばが好きなんだな、と確信した。いいないいな、立ち食いそば、いいなあ、と久々に都会に羨ましさを覚えた。人が多くて薄利多売が成立するからやっていけるんだろうな。島根では絶対に無理だろうな。
 冷たいそばを食べて元気が出たので、どうしようか迷っていた池袋のさらに先、西武池袋線エリアへも足を延ばすことにした。各駅停車に乗り、江古田駅で降りる。何年ぶりだろう。駅舎が新しくなってから来たことがあっただろうか。様子がだいぶ違っていて驚いた。喫茶店「トキ」はなくなっていたし、「お志ど里」もなくなっていた。「洋庖丁」もなかったし、ラーメン「大番」もなかった(それなのに跡地で猛烈に大番のにおいがしたのだけどあれは一体なんだったのだろう)。その一方で、竹島書店やライブハウス「BUDDY」、そして「江古田コンパ」が健在だったのは驚いた。意外な所がなくなり、意外な所が残った感じ。いちおう悪質なタックルで有名な大学の、夢見がち学部キャンパスにも足を踏み入れるが、中まで入ろうとすると受付で面倒なことになりそうだったのですぐに引き返した。まあ入ったところで、卒業してから完成した新校舎に思い入れなどなにもないのである。
 それで帰ってもよかったのだが、なんとなく隣の駅である桜台まで歩いてみようかということになり、炎天下だったが実行する。「松屋」の創業店を眺めて、千川通りではなく、中の道を歩く。桜台にあったファルマンのアパートから大学に行くとき、よく使った道のはずだったが、わりとただの住宅街なのでこみ上げてくるものは別になかった。桜台駅周辺も、変わったようなあまり変わってないような、という感じだった。
 これでさすがに帰ろうかとも思ったが、練馬まで行けば有楽町線で帰りやすくなるなあと考え、さらにひと駅行くことにする。なにしろ近い。いま検索したところ、わずか800mほどだという。ピイガの通う小学校までの距離よりも短いのだ。かつて「せと」という個人経営のコンビニだったセブンイレブンが懐かしかった。ここを曲がって北に進むと、新婚時代に住んでいた早宮のエリアになるが、さすがに遠いので行かない。すぐに着いた練馬は、わりと相変わらずのように感じた。
 やれやれ、しっかり思い出の地を堪能したものだと満足し、電車の切符を買おうかとしていたまさにそのとき、ファルマンのもとに連絡が来る。先ほど池袋で、江古田方面にも行ってしまうかという話になったとき、もしも会えたらということで連絡を入れた、当時ほぼ唯一付き合いのあった「いつもの一家」の母、大学時代のファルマンの友達からであった。あまりにも急で少しバタバタしているが(これは本当に申し訳なかった)、せっかくだから会いたいと言ってくれて、向こうの住まいからアクセスしやすい中村橋で落ち合うこととなった。練馬から中村橋は、ひと駅だがさすがに電車を使った(桜台よりは離れている)。待ち合わせ時間まで少し間があったので、大学卒業後すぐに住んだアパートの前まで行ってみる。僕は7、8年前、そのときも今から会ういつもの一家とこのあたりで会ったときにひとりで行ったけれど、ファルマンは引っ越し後、初めての再訪である。ナメクジが這うようなスピードでしか進まない「おもひでぶぉろろぉぉん」でも、さすがにもうこのアパートからは引っ越し、早宮に移っている。自分のブログなんだからそういうものだとしても、それにしたって僕はあまりにも自分の話ばかりしているような気がする。
 しばらくして、懐かしい顔が自転車でやってきた。その自転車の後部座席には男児がいた。5歳となる末っ子である。もともとポルガの2個上の長女、ポルガとピイガの間の次女がいたのだが、そこから少し間が空いて男児ができていたのである。ちょうど秋篠宮家スタイル。存在はもちろん知っていたのだが、これが初邂逅となった。駅前のマクドナルドで、しばし話す。同級生は相変わらずの感じだった。娘たちの画像など見せてもらい、おお、と思う。今回、娘たちにも声を掛けたが、「向こうの子たちがいないんなら行ってもしょうがない」と、もっともな理由で断られたそうで、次は娘たちも含めてきちんと予定を組んで会おうよ、という話になった。そんなのも愉しそうだ。そのときは車で行ける場所がいい。
 渋谷とか池袋をフラッとするだけの予定が、かなりの大行脚となった。暑さもあり、だいぶヘトヘトになって帰宅する。子どもたちだけでのカラオケは、いとこにアレルギー性鼻炎が発症したこともあり、フリータイム最低3時間保証のところ、2時間半ほどで切り上げたらしい。つまりまあ、いまいちな感じだったんだろうな。いとこはふたりとも、あまりカラオケをするようなタイプではない。
 晩ごはんは定番の手巻きずし。食べ終わったあと、みんなで集合写真を撮る。いつもなんだかんだで撮るが、現像して年ごとに並べるようなマメな人間はひとりもおらず、過去の画像がどうなっているのかは知る由もない。それでいい。切り取ろうが、切り取るまいが、時代は進む。かつての勤務先はチュチュアンナになり、波田陽区はすっかり見なくなり、トキはなくなり、子どもは育ち、新しい子は生まれる。おもひでぶぉろろぉぉん。

2025年夏の自家用車横浜帰省 3日目


 1年にいちどくらい帰省すべきだよなあという気持ちはありつつ、しかし距離が距離なので、必ずしも毎年じゃなくてもいいんじゃないか、という思いも同時にある。それで言うと今年は、去年帰ったし、なによりポルガが受験生で、かつ部活も忙しいので、パスという手もあった。だが「実家への帰省」に関してはそうだったのだが、それ以外の理由により、今年わが家は横浜に行かないわけにはいかなかったのだった。
 それがこの日の予定であり、われわれ4人は午前中から母にあざみ野まで送ってもらい、市営地下鉄でみなとみらいへと繰り出したのだった。2年連続のみなとみらい。もちろんVS PARKにリベンジに行ったわけではない。こちらである。


 2年前「ツタンカーメンの青春」というタイトルで、所沢で開催されていた展覧会が、画像の中のポスターにあるように、ほぼ今年1年、みなとみらいで開催されているのだった。所沢と横浜。なぜか縁のある土地でばかり開催されるこの展覧会、待っていれば次は関西あたりに来そうだなという気もしつつ、帰省との抱き合わせで行ける以上、このチャンスに行くっきゃないっしょ、ということで行った。2年前の所沢の頃から、ポルガを連れていってやりたいとファルマンは言っていたので、ようやく念願が叶ったのだった。
 ポスターの前に立っているのはもちろんポルガで、自前の「TUTANKHAMUN」Tシャツに、ネットで買った古代エジプト絵画リュックを背負い、そして肩に掛けているヒエログリフ柄のトートバッグはこのミュージアムショップで買ったものである。ガチ勢である。ちなみに顔は、ツタンカーメンのクリアファイル(それもミュージアムショップで買っていた)をお面のように着けているのではなく、僕がパソコンの画面上で貼り付けた。
 展示の内容は、ツタンカーメン関連の調度品や墓などのレプリカがメインで、レプリカである分、ガラスケースの中に収められているということもなく、さすがに触ったりはできないのだが、おそらく原寸大なのだろうし、なかなか見応えのあるものだった。開催期間が長いからか、人もそこまで多くなく、ポルガはハイテンションで館内を巡っていた。連れてくることができて本当によかったと思った。ちなみにだが、ミュージアムショップを物色していたところ、なんとなく知っている感じの顔があり、誰だろうと思ったら、「馬鹿よ貴方は」というお笑いコンビの、平井“ファラオ”光だった。ショップ内にテーブルが用意されていて、いちど目が合って会釈をしたあとはあまりジロジロ見なかったが、たしか10分1000円とかでお話ができる、という商売だったと思う。そうか、平井“ファラオ”光だから、ツタンカーメンミュージアムで仕事をもらったのか、と納得したが、いまWikipediaを見たら、そもそもその芸名にしたのは古代エジプトが好きだったからだそうで、こんな形の好きを商売にする方法がこの世にはあったのだな、と感心する思いだ。ちなみに1984年生まれの神奈川県出身だそうで、ちょっと親近感が湧いた。ポルガの古代エジプト好きが続けば、いつかまた邂逅することがあるかもしれない。そのときは1000円くらい出そうと思う。
 そんな感じでツタンカーメンミュージアムを堪能し、しかしそれで終わりではない。徒歩でわずか10分ほど移動し、次は横浜美術館へ。ここでいま行なわれているのが、こちらである。


 これはミュージアムショップで買った、「パ」のフラッグ。本来はもちろん「ピ」(売り切れ)。言わずもがな、ピタゴラスイッチの「ピ」である。そう、ピタゴラスイッチの生みの親、佐藤雅彦の展覧会なのである。ふだん見ている記事の傾向からか、数ヶ月前にスマホがヌルっと「こんなイベントありまっせ」と教えてきて、なにしろピイガを中心に、毎朝「ピタゴラスイッチ」と「0655」を愉しく観ているので、へえ横浜か、ちょうど夏にやってんなら行けたりすんのかね、などと話していたら、ツタンカーメンミュージアムとは徒歩10分ということが判明し、これまた行くっきゃない、ということで2本立てで巡ることとなったのだった。なんともすばらしい横浜の活用っぷり。もはや実家への帰省ではなく、ただの宿舎なのではないか。
 そしてこちらの展覧会はどうだったかと言うと、もちろん、まあ、おもしろかった。なんとなく快活じゃない感じの言い方になったのは、展覧会に来ておいてこんなことを言うのもなんだが、佐藤雅彦というのは、雑多でベタな日常の中に、ポイント的に出てくると「おおっ」となるけど、完全にそれだけだとさすがにしゃらくせえ、という気持ちが若干湧いたのと、やはりピイガは同担拒否が発動して始終ご機嫌斜めだったのだが、僕もその親なので、他の客やスタッフに対して、ウザったさのようなものを抱いてしまったのだった。要するに僕もピイガも、イベントなんかには参加せず、家でディスプレイを眺めていればそれが最上なんだと、そのことに気付けた展覧会であった。でも行けてよかった。
 去年に続いて2年連続のみなとみらいは、都会あるあるで、なんだかんだでよく歩いた。いっそ車で行くという案もあったのだが、駐車で困ることは目に見えていたので止したのだった。ちなみにわが家はこの市営地下鉄が1年ぶりの公共の乗り物で、みなとみらいに行くときにしか公共の乗り物に乗らないという、なかなか純度の高い状態になっている。