娘たちの近況、および


 子どもが来年には高校生と中学生になるという事実に、たまにおののく。
 ポルガはこのたび、中学の部活を無事に引退した。ここまで明記せずにいたが、吹奏楽部であった。積極的に学校の話を親に向かってするタイプではないので、そこまで深く知らないが、気の合う友達もいて、それなりに愉しくやったようである。ポルガが1年生時の、3年生が引退する定期公演を観たとき、いまの3年生は立派だが、ポルガの代が上級生になったときあのような風格を身につけることは決してないだろうから、この部活はどんどん衰退していくに違いない、と思ったものだが、それから2年経って、ポルガの代が引退する定期公演では、当時の3年生ときちんと同じ風格を纏っていたので、子どもの成長というのはすごいものだなと思った(ただしそれと同時に、ひとつの場所に長くいて、立場が上がっていくと、存在感というのはオートメーションで付与されるものなのだな、とも思った)。
 部活を引退したので、いよいよ本格的に受験生としてのフェーズに入ったわけだが、前にも書いた通り、成績的に志望している高校はまず大丈夫だという。だというが、受験のことなので、なにがあるか分からない。親としては、推薦で早めに安全に決まってしまえばいいと願わずにおれないが、ポルガの入ろうとしている高校というのは、この地域の勉強のできる子が入るタイプの学校なので、公立校のくせに、公立校だからだろうか、どうも話を聞くにつけスタンスが居丈高で、推薦で合格するような子というのは、もれなく生徒会長などをやっていた子だったりするのだそうで、そういう話を聞くと、自分が中学生だった頃の、内申点とかの体制に縛られるもんかと猛反発し、結果的に地元で行ける高校がなくなってしまった、あの頃の気持ちが甦ってきて、とてつもなく嫌な気持ちになるのだった。自分の人生にとって、中学をいい子で過し、地元のそこそこの共学校に行かなかったことが、結果的に良かったのか悪かったのかは、他方を経験していないから判りようがないけれど、ただひとつ言えることは、僕はあまり子どもの高校受験に関して口を出さないほうがいいということで、日々の塾の送り迎えも、粛々と寡黙にやっている。まあどういう結果であれ、自己肯定感だけは強く育っているので、それさえ頑丈にできていればなんとかなるだろうと確信している。
 次にピイガは、小学6年生にしてはやはり身体が小さく、1学年下の従妹にも身長で抜かされ、同級生と一緒にいても下級生の妹のようにしか見えないことから、先日とうとう成長ホルモンなどが正常に分泌されているのかどうか、2泊3日の入院をして、正式な検査を受けたのだった。ちなみになぜ入院する必要があるのかと言えば、寝起きの状態を調べなければならないかららしい。近所にある病院だったのだが、ファルマンも付き添いで寝泊まりし、その間は当然ながら僕とポルガがふたりで暮した。家が静かで、リビングが散らからなくて、ピイガの日々放っているパワーを痛感した2日間だった(だからカロリー収支がプラスにならないのだ)。
 それで診断結果はどうだったかと言うと、成長ホルモンは正常に分泌されていて、ただしその流れが平均よりも2年ほど遅れているようなペースなので、いまは周りの子が成長期なので本当に差が激しいけど、そのうちそれなりに追いつくんじゃないか、みたいなことだったそうで、要するにそれは『診断名:かわいい』ということだなと、父親としてそう解釈した。下の娘はいつまでも小さくて無邪気でかわいらしいと思っていたが、このたびとうとうそれが医学的見地から実証されたのだ。伝説のようなエピソードではないか。
 そんなピイガが、来春から中学生である。もうぼちぼち、制服の採寸である。信じられない。このままだと、嘘みたいな女子中学生が爆誕する。なにか強い思念体が、このような現象を生み出したのではないかと、思いの力のようなものを感じている。
 ついでに、そんなふたりのティーンエージャー少女の親である僕の近況報告をするならば、最近ハーフバック気味の水着を穿きだしたことから、水着からはみ出る尻のことが気に掛かるようになり、ボディスクラブや風呂上がりのマッサージ、そして尻を持ち上げるための筋トレなど、尻の美容にこだわりはじめた。若かった頃の自分の尻がどうだったのかは知らないが、たぶん大人になって以降では、いまがいちばんきれいな尻をしていると思う。以上です。

血とスピード


 文化の日の3連休を利用して、兵庫で暮すファルマンの上の妹一家が、下の子の七五三のためにやってきていた。中日の日曜日に、写真館での撮影と、そのあと出雲大社で祈祷というスケジュールとのことだったので、タイミングを合わせて一家で出雲大社へと繰り出した。もちろん祈祷に参加するわけではなく、境内で3歳児の着物姿を、親戚として愛でるだけのことである。
 ちなみに出雲大社は目下、出雲地方が最も出雲地方らしさを発揮する月間、すなわち神在月であり、何年か前にこの時期の出雲大社に近付こうとして、だいぶまだ遠い段階での車の詰まり具合に、ほうほうの体で引き返したことがあったので、果たしてどうなんだろうと不安だったが、もう夕方といってもいい時間帯だったこともあってか、そこまでのことにはならず、それでもさすがに直前では駐車場に入るための渋滞に巻き込まれたが、なんとか停めることができ、無事に一同と落ち合うことができた。一同とは、下の妹一家、ファルマンの両親、そして妹の夫の両親という面々である。
 本日の主役である義理の姪は、写真館からここまでの移動中に昼寝をしたとのことで、ぐずることもなく、かわいらしかった。
 着ている着物は、うちのふたりの娘はもちろんのこと、なんとファルマン三姉妹の時代からずっと受け継がれているもので、つまり今回で実に7人目ということになるのだった。最初がどういう状況での購入だったのか、もはや太古の昔の話なので遡りようがないが、それにしたって7人も着れば十分に元は取れたに違いないと思う。
 せっかくなので出雲大社の境内で写真を撮ろうということになり、だとすればそれは当然、この場にいる人間の中で、唯一今日の主役と血の繋がりのない僕が、ひたすらカメラマンに徹して血族の姿を撮影するべきだろうと思っていたのだが、義父が仕切りたがったり、向こうの母親が「修正が利かないので私は入りたくない」などとのたまって写りたがらなかったりして、あまりスムーズにいかなかった。結果、義理の伯父が入っている一方で、母方の祖父と父方の祖母がいない、みたいな謎のメンバー構成の写真も生まれた。そんなもん、どうせ撮ったってハードディスクの肥やしになるだけだろ、と思った。
 このあと一同はお祝いの会食ということで、別れた。わが家は本当に、この日の七五三スケジュールの、出雲大社の場面にちょっと顔を出しただけなのだった。まあ、まったく関与しないのも微妙に変な気もするので、ちょうどいい絡みだったんじゃないかと思う。
 それにしても間がまあまあ空いて誕生した義理の姪は、見るたびにその幼さに驚かされる。ふだん自分の娘たちしか見ないので、特にピイガなんかは、どうしても「幼いもの」のカテゴリに入れがちなのだけど、3歳児を目の当たりにすると、その親としての一種のモラトリアムにも似た意識が、完膚なきまでに粉砕されるのだった。そうだ、うちの娘たちは、来年それぞれ高校生と中学生なのだ。それはもちろんいろんな部分で、まだまだ幼い生きものなのだけど、でも絶対的な幼さを目にすると、やっぱり明確に違う。なにが違うって、要するにフェーズが違う。いつの間にか自分は次のフェーズに進んでいたのだな、ということに気付かされる。今生、僕が再び血族の幼児を愛でることがあるとすれば、それは孫の代ということになる。びっくりする。人生って想像以上にスピーディーだ。おもひでぶぉろろぉぉんでは、17年前の、25歳当時の日記を読んでいるのだ。17年後、ポルガは31歳である。そうなのか。人生って、こんなスピード感なのか。

秋の3連休

 体育の日ならぬスポーツの日による3連休であった。
 初日の土曜日は、午前中に恒例の買い出しを行なったあとは、部屋でダラダラと過した。筋トレなど、あまり精力的にはやらなかった3日間だったように思う。晩ごはんは、フライドポテトや煮豚、餃子の皮のピザなど、酒が進みそうなものを細々と並べるラインナップにした。あと野菜としてミネストローネ的なスープも作った。こういう欲張りな献立を組み立てるようになったのだから、夏の食欲減退からは完全に脱却したのだな、ということを実感した。まあわりと暑い3連休ではあったのだけど。
 この夜に、髪を黒くする処置をファルマンにやってもらう。夏を経て、さらには実は半月ほど前に職場でコロナが流行ったのだけど、その際に週末に合わせて僕も体調を崩し、週明けにはまあまあ回復したものだから結局タイミングを逸して病院には行かなかったのだけど、振り返ってみればやはりあれはコロナだったんじゃないか、という症状があって、それも関係しているのか、髪がだいぶ傷んだ感じになっていたこともあり、金髪もずいぶん続いて飽きてきていたので、このあたりでひとつ仕切り直しとして黒に戻すか、となったのだった。結果、まあ実に黒い。僕は地毛がまあまあ茶色いので、こんなにも黒い状態というのは自然じゃなく、だいぶ違和感がある。黒髪戻しといっても、茶髪的なテイストのやつも売っていたのだが、今回はなんとなくしっかり黒くなるものを選んだのだった。仕上がりとして満足しているかどうかで言えば、ちょっとだけ後悔している。何日かすれば、もうちょっと穏当な色味になるだろうか。あるいはここから少しだけ髪が伸びたくらいのタイミングで、年内には再び脱色するかもしれない。42歳のくせに落ち着かないことだな。
 翌日の日曜日には、久々にカラオケに繰り出した。本当はこれも半月ほど前の予定だったのだが、行くはずだった週末というのが、ちょうどその「十中八九コロナ」の週末であったため、予約をキャンセルするはめになっていた。その雪辱としてようやく行けた次第である。ちなみに今回もポルガだけ別室で、あとの3人で一室というスタイル。3時間唄う。僕の唄った曲は順番に以下の通りである。「黒ネコのタンゴ」(皆川おさむ)、「ファイティングポーズはダテじゃない!」(Berryz工房)、「大スキ!」(広末涼子)、「わたしの一番かわいいところ」(FRUITS ZIPPER)、「だれかが風の中で」(上條恒彦)、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)、「押忍!こぶし魂」(こぶしファクトリー)、「付き合ってるのに片思い」(Berryz工房)、「それもいいね」(Wakeys・こっちのけんと)、「かわいいだけじゃだめですか?」(CUTIE STREET)、「倍倍FIGHT!」(CANDY TUNE)、「人として」(海援隊)、「チョット愚直に! 猪突猛進」(こぶしファクトリー)、「宙船」(TOKIO)、「笑ったり転んだり」(ハンバートハンバート)。数えてみれば全15曲で、だいぶ唄ったものだ。皆川おさむ、上條恒彦、橋幸夫は追悼歌唱。広末涼子は言わずもがなだろう。前回は「Majiで恋する5秒前」を唄ったが、歌詞を見ると「大スキ!」はダーリンとのドライブ中の話なので、こちらのほうが適しているのだった。適しているってなんだろうね。あと今回はアイドルソングを多く唄った。平成のハロプロと、令和の最近のやつ。我ながら趣味が分かりやすいなと思う。愉しかった。急な「宙船」は、その前にピイガが「ブラザービート」や「カリスマックス」などsnowmanを唄い、映像がプロモーションビデオだったりしてとても愉しかったので、彼らが決してこんなことになりませんように、という祈りを込めて唄った。前回の「チキンライス」や「世界にひとつだけの花」とほぼ同じ趣向である。最後のハンバートハンバートは、言うまでもなく「ばけばけ」の主題歌。はじめから唄う心積もりで来ていたのだが、実は序盤にファルマンに唄われてしまい、残念だなあと思っていた。でもファルマンが唄ってから2時間くらい経ってるから別にいいだろ、と思ってやっぱり最後に唄った。夫婦デュオの曲なんだから夫婦で唄えばいいじゃないかという話だが、決してそうはせず、それぞれがひとりで唄うというところがわれわれらしいな、と思った。ともかく愉しいカラオケだった。カラオケ、行くたびにもっと頻繁に行って喉を鍛えたいと思うのだが、なかなかそうはならないのだった。
 晩ごはんは今年初の煮込みラーメン。ちゃんぽん味。煮込みラーメンのちゃんぽん味なんて珍しくていいな、と思って選んだのだが、いざやってみたら、ちゃんぽんが野菜たっぷりの具沢山なのは普通のことなので、鍋とラーメンが合体した愉しさという、この商品の魅力が、いまいち発揮できていないんじゃないかな、ということを思った。もちろんおいしかったけど、これは各自のちゃんぽんをひとつの鍋で供しただけのことだな、と思った。
 明けて最終日の今日は、家でのんびりと過した。サブスクでアニメなどを流しながらミシンを踏むという、なんだかんだでこういう時間がいちばん大事だな、としみじみ感じるような過し方をした。さすがは3連休。心にゆとりがある。
 昼ごはんを少し遅めにして、13時過ぎにスタートの出雲駅伝の中継を眺める。毎年のことながら、コースがあまりにも身近でおもしろい。事前に知らされていなかったのでもちろん気付かなかったが、あとから送られてきた映像によると、沿道に立って応援していた義父母も一瞬映ったらしい。イオンのあたり。なんと身近な話であろう。
 晩ごはんは鶏肉のすき焼き。軽めに炊いた新米とすき焼きの組み合わせが、酩酊するほど美味しかった。近ごろ、ごはんが本当においしく思えるようになってきた。スーパーでの買い物も愉しい。ようやく人間としての暮しが戻ってきたな、と思う。いい季節だ。

42歳


 誕生日である。42歳である。
 土曜日の誕生日であったが、運悪く出勤日であったため、実は先週の3連休で既にお祝いを済ませていた。ちなみに「20日は出勤だからこの3連休でお祝いをしよう」という提案をしたのは、他ならぬ僕である。それに対して家族は「あ、うん……(半笑い)」みたいな反応で、なんだかやるせなかった。結局、僕の誕生日のことを世界でいちばん熱心に考えてくれるのは、僕だということだ。なので後悔のないよう、存分に寿ぐことにした。
 苺のない季節により毎回悩まされるケーキは、これまで主にチョコレートケーキに逃げ、あるいは白玉クリームぜんざいという変化球を放った年もあったが、今年は端から頭にモンブランが浮かんでいた。今年はやけに栗系のスイーツが食べたい機運なのだった。なのでモンブランって家で作ることができるのだろうかと検索をしたところ、マロンペーストというものが販売されていて、それとホイップクリームを混ぜると、いわゆるマロンクリームになるとのことで、モンブランの定義はよく知らないが、要するにスポンジにマロンクリームがたっぷり掛かってるやつが食べたかったので、そういうものを作ることにした。併せて栗の甘露煮も注文し、本人の並々ならぬ熱情により、3連休の数日前に準備は整った。マロンクリームは、本当は黄色いものが好きなのだけど、買ったマロンペーストは濃い茶色で、ホイップクリームと混ぜたら薄茶色になった。たぶんこっちが本当で、愛着のある黄色いやつこそが嘘の色なのだろうけど、こしあんつぶあんのように、所属派閥でないほうのものを食べるときは、少しだけ忸怩たる気持ちを抱く。でも黄色いペーストなど売っていなかったのでしょうがない。まあ、こしあんつぶあん以上に、「味は一緒」である。マロンクリームはデコレーション用で、スポンジの間には、ホイップクリームに、甘露煮とマロングラッセを細かく刻んだものを混ぜ、たっぷりと挟んだ。とにかく栗尽くしなのである。上にはマロンクリームを細い線で幾重にも走らせ、苺の代わりに甘露煮を8個、円周に等間隔に並べる。最後に粉砂糖を振りかけ、手製のモンブラン(もとい栗のケーキ)の完成である。ホイップクリーム、マロンクリーム、そして甘露煮、どう考えても凶悪な糖質、そしてカロリーであろうが、お祝いなのだからして、という勇ましい気概で怯むことなく食べた。ピイガはあまり食べつけない栗を受け入れず、当夜も半分残し、翌日のふた切れ目も食べないとのことだったので、結果的には僕が3切れを食べることとなった。こんな凶悪なケーキを3切れも、と思わないこともなかったが、しかし望んだとおりのおいしさだったので、幸福感とともに腹に入れた。ピイガのことなど気にせず、来年以降もこれでいこうと思う。
 祝いの席の食事は、やはり定番の手巻きずしにした。誕生日の特別予算も下り、刺身類を豪華に買い揃えた。それらはもちろんおいしかったが、しかし手巻きずしの際いつも言っているが、いちばんガツンとおいしいのは、玉子焼きと、アボカドと、たらこマヨの組み合せだったりする。とにかく僕の作る玉子焼きがおいしすぎて、これを欠く鮨が物足りなく思えてしまうほどである。夏の実家でも、僕が作ればよかったな。
 ちなみに今年もお祝いのポスターを描いてもらった(求めた)。こちらである。


 3人による共作で、左がポルガ、中央がファルマン、右がピイガなのだが、共作と言いつつも、ともになにかを描くとか、一連の流れになっているとか、そういうことは一切ない。ファルマンに関してはいちおう、ふたつ前の記事で写真をアップした、夏の手塚治虫記念館での僕の姿を描いているが、ピイガは自分のオリジナルキャラクター、カメラメ先生ファミリーの絵だし、ポルガに至っては、知らないキャラクターが知らないキャラクターに得体の知れないものを無理やり食べさせようとしている場面という、マジでなんでそれを今ここに描くの、マジでなんでなの、という絵で、しかしなんというか、非常にわが家らしい、それぞれ自我の強い感じのポスターに仕上がった。まあこれはこれでいいとしよう。
 そんな感じで、今年も無事に誕生日を祝えたわけで、これに勝る喜びはないとしみじみと思う。42歳の目標は、43歳も同じように祝えるよう、健やかに暮すことだ。あと一攫千金で使い切れないほどの金を手に入れ、めちゃくちゃ楽に生きたい。ただそれだけだ。
 ちなみに決めあぐねていた誕生日プレゼントだが、とうとう決まった。寒い時期の、プール後に着るためのジャージの上下にした。去年の靴に続き、今年も同じような価格帯なので、同型のものを色違いでふたつ買い、変な感じで着ようと思っている。

真夏のエアコン気絶と初秋の模様替え


 実は今年の夏、僕とファルマンが使っている部屋のエアコンが、音を上げていた。
 それは故障した、ではなく、あくまで音を上げた、という感じで、基本的には動くのである。そして動くときは、涼しい空気を出してくれるのである。しかし西向きに窓があり、室外機もまた西向きに設置されているわれわれの部屋のエアコンは、たぶん一日でいちばん温度が高まった状態になるのだろう、14時半から17時半くらいの時間帯、異常を知らせる赤色点滅を表示し、稼働を止めるのだった。それはまさに「もう無理!」とギブアップしている感じで、見方によってはなかなか親しみを感じる人間性であると言えた。
 とは言え室内で過す人間には堪ったものではない。僕がその時間帯に部屋にいるのは週末だけなのでそこまで問題ではないが、なにしろファルマンである。家からはもちろん、部屋からも極限まで出ないことで知られるファルマンだ。すぐに「これはまずい」ということになり、最低限の仕事道具一式を持ち出して、ピイガの部屋へと避難した。もちろん修理の依頼は試みたのだが、時期が時期だけに、だいぶ先になるという返事だったそうである。
 そんなわけでこの夏、ファルマンはずっとピイガの部屋で仕事をしていた。ピイガというのは甘えん坊なので、もちろんそれを拒むはずもなく、むしろ喜んでいた。なんなら寝るのもこの部屋ですればいいのになどと、末っ子らしい、いじましいことまで言うのだった。
 そんなふうにして夏が過ぎ、9月に入って、暑さもまだまだ継続しつつ、しかしさすがにピークは過ぎたようで、そのことをどこでいちばん強く感じるかと言えば、われわれの部屋のエアコンが例の時間帯にも音を上げなくなった、という点によってであり、とりあえずなんとか今年の夏は乗り切ったのだった。エアコンの修理は、先日いまさら「行けますよ」という連絡が来たのだが、真夏のあの時間帯以外は普通に動くのだし、まあ様子を見るか、ということでお断りした。
 それで、じゃあぼちぼちファルマンもこっちの部屋に戻ってくるのかな、と思いきや、ピイガは「戻らないでほしい」と望むし、ファルマン的にもリビングに近いピイガの部屋のほうが仕事をするにあたって都合がいいなどという事情があるようで、エアコンの気絶がきっかけの期間限定の避難のはずだったが、いっそピイガの部屋の一角を正式な仕事場ということにする、ということになり、この1ヶ月あまりで物置と化していたデスクなど、本格的にごっそりと移動することになった。そしてそうなると、その分のスペースが当然ながら空くので、こちらの部屋でも模様替えが発生することとなり、今週末はこの作業に勤しんだ。
 結果としては、これまでファルマンと共有だった部屋が、僕だけのものになった形で、とても寂しい。ああ寂しい。本当に寂しい。でも寂しさにばかり目を向けていてもしょうがないので、ミシンやパソコンなどをのびのび、すげえ機能的な感じに配置し、なるべく部屋が快適になるようにした。これまで週末、ファルマンに仕事があるとき、せっかくの休日なのにミシンができない、などという事態がままあったが、今後はそんな問題からも解放される。なんだか寂しい。心にぽっかりと穴が開いたようだ。
 ちなみに、冗談めかして述べているが、ファルマンが自分の身の回りのものをどんどん部屋から持ち出していくさまは、ある日ごっそりと父のものが家からなくなっていたという経験を持つ母子家庭出身者からすると、微妙にトラウマが刺激される部分があった、ということはここに明記しておく。それだのに気丈に、寂しさのことをわざとおちゃらけて表現するところに、僕の尊さがあるとしみじみ思う。
 もちろん夫婦の寝室としての機能は継続している。仕事はあっち、寝るのはこっちと、ファルマンの部屋はふたつに跨ったのである。これもある種のノマドワーカーか。「ピイガが思春期になって部屋から追い出されたら戻ってくるけん」とファルマンは言う。果たしてそんな日は来るだろうか。ピイガに限ってそんなことにはならないような気がする。いや、寂しいからいつでもこっちはウェルカムだけどもね。

2025年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日


 最終日は帰るだけかと思いきや、実はそうではない。今年の帰省は、(帰省以外のところで)本当に盛りだくさんなのだ。キャッスルイン豊川にチェックアウトギリギリまで居座らないという贅沢をしてどこを目指したかと言えば、兵庫県は宝塚市である。通り道であり、行きの際も宝塚サービスエリアで休憩したりしたのだが、このたびは高速道路を降りて、とある施設に寄ることにしたのだった。どこか。ここである。


 パピロウ、あなたはもう二度と人間に生まれてくることはないのよ。手塚治虫記念館に、火の鳥のTシャツを着てきてしまう、その心安い性格じゃないくせに半端にお調子者の了見が気に障るから、そう決めたわよ……。
 というわけで、さくらももこ、ツタンカーメン、佐藤雅彦と大スケールで巡った今回のミュージアム探訪旅行(もはや帰省にあらず)の掉尾を飾るのは、手塚治虫記念館なのであった。岡山時代からずっと行きたいと思っていたが、意外な形での来訪となった。画像にあるように、建物の前には他ならぬ火の鳥の巨大なオブジェがあり、テンションが上がった。「俺が火の鳥から啓示を下されているようなイメージで」と頼み、ファルマンに撮ってもらった。なかなかいい写真になって嬉しい。入館すると、まさにこの日僕が着ていたデザインの火の鳥のイラストが掲示されていて、受付の真ん前でだいぶ恥ずかしかったが、その前でも記念撮影をした。展示そのものは、まあ「ふうん」という感じで、なにぶん手塚治虫のすごさというのは、わざわざ記念館に来なくても有名すぎるほどに有名なので、新しい驚きのようなものは特になかった。また企画展は「創聖のアクエリオン」がテーマで、これも残念ながらわが家のセンサーには引っ掛からなかった。ミュージアムショップには初めて目にするような商品が多数あり、テンションが上がった。カード全てにさまざまなキャラクターがデザインされている火の鳥トランプなんかを買った。ポルガは「ブッダがあんまりない」とボヤいていたが、ブッダはほら、キャラクターって言うか、キャラクターじゃないって言うか、微妙なところだから。そもそも手塚キャラの中でブッダ推しっていうのやめろよ、と思った。あとプリクラもあって、せっかくだからということでもちろん手塚キャラフレームであるそれを、一家でやった。普段なら考えられないことだが、さすがに思春期の長女も参加してくれた。しかし家族の中で誰もプリクラを撮り慣れている人間がいないため、まあまあ散々な出来になった。でもまあ、僕はもう二度と人間に生まれてくることはないので、これも人間としてのいい思い出としよう。
 ちなみに順番が逆になるが、ここにたどり着く前、ナビの指示に従って道を走っていたら、窓の外を見ていたファルマンが「あーっ」と言って、見ると右手に太陽の塔があった。初めて実物を目にした。想像よりもだいぶ大きくて驚いた。
 それとさらに順序が逆になるのだが(一体どういう構成で日記を書いているのか)、この朝の出発の際、買い出しなどあって豊川の街を走っていたら、ちょっと異様な雰囲気のエリアに入り込んで、そこはかの有名な豊川稲荷なのだった。出雲大社ほどではないが、かなりのメジャー級であろう。今回は素通りしたが、どうせまたキャッスルイン豊川へは、今回のように行きも帰りも両方じゃなくても、泊まることはほぼ確実にあるだろうから、その際は立ち寄ってもいいかもしれないと思った。
 そんなわけでだいぶさまざまなスポットを巡った、5泊6日の、帰省にかこつけた夏の大旅行であった。結局もちろん100%僕が運転をして、まあまあ疲れたけれど、今年も実行できて、そして無事に帰ってこられて、本当によかった。

2025年夏の自家用車横浜帰省 5日目


 前にも書いたが、実家の布団は硬い。どういう作用によるものか、年々硬くなっているような気がする。3日目ともなると、今晩もあの布団で寝るのかと思うだけで憂鬱になる。それくらい硬い。しかし1年で3日しか寝ない身分でマットレスを所望することもできず、耐え忍ぶしかないとあきらめていた。だが今回、これはさすがに体への負担が大きすぎるとなって、次に帰省する際は、車に自前のマットレスを積んでこようと決心した。子どもたちはさすがなもので平気らしいので、僕とファルマンのふたり分でいい。たぶんキャンプ用品とかで、コンパクトに収納できるいい感じのものが世の中にはあるはずだと検索したら、安い値段でいくらでも出てきた。安くていい。そこまでのクオリティなど求めない。現状の、畳に硬い布団だけのつらさに較べたら、どんなものでもあるだけマシだろうと思う。次は忘れず、必ず。
 この日は実家を立つ日で、しかし例のごとくホテルまで移動するだけなので、急がない。午前中はのんびり過し、早めの昼ごはんをお腹に入れて出発という算段だった。この午前に、僕はプールに行くことにした。横浜でプールに行くチャンスがあるかもしれないと思い、用品は車に載せてきていたのだ。子どもの頃によく行った北部(都筑)プール、中学生の頃よく行った中川(山崎公園)プール、そして横浜国際プールと、行きたいプールはいくつかあったが、実は高校時代から住むいまの実家からいちばん近いプールは、住所は川崎市となるヨネッティー王禅寺というプールであると母に教えられ、じゃあそこに行ってみるか、ということで行った。もちろんひとりである。この世でいちばん狭い駐車場なんじゃないかと思うくらい狭い駐車スペースにヒヤヒヤしながら車を停め、たどり着いたプールは、採光はまあまあ良かったが、水深が浅く、うーん、という感じだった。あとシャワー室や更衣室がだいぶ粗雑な印象で、なんだか遠い島根のホームプールのことが恋しくなった。
 プールの帰りに給油を済ませ、出発する。結局、昨日おとといとがっつり外出したので、なんだかあっという間の帰省だった。本日の目的地はどこかと言うと、これがなんとキャッスルイン豊川なのである。さすがにはじめからそうするつもりではなかったのだが、実は今年もポルガの部活に振り回され、1ヶ月ほど前に帰省の日程が1日後ろ倒しになったことで、帰りに泊まるはずだった三重県のホテルはキャンセルし、行きも帰りもキャッスルイン豊川ということになったのだった。好きすぎるだろ、キャッスルイン豊川。
 この日は途中まで新東名を走ったのだが、御殿場を過ぎたあたりで、たぶんあれは富士山の中腹なのだろう、という姿を目にした。上半分は雲が掛かっていたが、いちおうは見えた。あと2025年に新東名を走る以上、どうしたって参らないわけにはいかないスポット、浜松サービスエリアにももちろん立ち寄った。もっとも本来は上り方面でなければならないのだが、そこはしょうがない。広末涼子は奈良県での撮影のあと、ここで同乗男性と運転を交代し、そして掛川PA付近で事故を起したのだ。そしてこの浜松サービスエリアでは、通行人に「広末でーす」と大声で名乗るなどの奇行が目撃されていたという。この一件が報じられて以来、今年も帰省をするなら絶対に浜松サービスエリアに行かなければいけない、行ったら俺も「広末でーす」と叫ぼう、もしかしたら当地には「広末でーす」を記念した撮影スポットができているかもしれない、などと考えていた。残念ながらそんなものはなかったが(上りにはあるのかもしれない)、ああ自分はいまあの現場にいるのだと感激し、聖地巡礼をするファンの心理が初めて解った気がした。ちなみにだが、広末涼子はあの日、車の運転で140キロを出していたと言われるけれど、このあたりの道は制限速度が120キロだったりするので、140キロというのもそこまで素っ頓狂な数字ではない、ということをここに記しておく。これで世間の広末涼子に対する印象が少しでも改善されればそれ以上の望みはない。
 テレビっ子としての欲求も無事に満たし、4日ぶり3度目のキャッスルイン豊川へ。数日前に泊まったホテルにまた泊まるという経験は初めてで、なんだか不思議な感覚だった。この日も思う存分、漫画やサウナを堪能する。前回の月曜日(11日)がけっこう混雑していたので、金曜日なんてもっと混んでいるだろうと思いきや、この日はそれほどでもなかった。前回のサウナでは、テレビで「ラーゲリより愛を込めて」をやっていて微妙な気持ちになったが、この日の金曜ロードショーでは「火垂るの墓」をやっていたはずで、避けていたわけではなく、ちょうどその時間帯にはサウナに入らなかったのだが、さすがにチャンネルがそこに回されてはなかったろうな、などと思った。
 3日実家の布団で寝たあとのキャッスルイン豊川のベッドは、まるでベッドのようだと思った。雲のよう、などと大袈裟なことを言うつもりはない。ベッドがベッドだった。それでいいのだ。実家の布団は、なんかもう布団としての要件を満たしていないように思う。実家の布団への恨み節がしつこい。でも本当に実家の印象がそれだけになるくらいのインパクトだったんだもの。

2025年夏の自家用車横浜帰省 4日目


 横浜での予定は昨日がすべてで、この日はなんの用件も入れていなかった。さてどうしたものか、また子どもたちを連れて、VS PARKのような、人が多くて疲れるだけのような場所に行くはめになるのか、とビクビクしていたら、ポルガが「いとこでカラオケに行きたい」と言い出したので、それはいい、4人でカラオケに行ってくれるなんて、それほど楽なことはない、と諸手を挙げて大賛成した。
 しかし成長した子どもたちが勝手に遊んでくれるのはありがたいが、付き添いがお役御免となった大人は、じゃあどうしよう、となった。せっかく横浜まで来ておいて、家でぐだぐだ過すというのもさすがにもったいない。ファルマンと話し合った結果、ふたりで身軽だということもあり、じゃあ渋谷とか池袋とか行っちゃう? ということになった。去年は東京には足を踏み入れなかったので、島根・鳥取・岡山・兵庫・京都・大阪・滋賀・三重・愛知・静岡・神奈川の、その先への進出である。
 まず田園都市線で渋谷へ。山手線に乗り換える前に、わざわざ外に出て、スクランブル交差点のあたりの様子を眺めた。渋谷駅周辺はここ数年ですごく変わったと言われるが、このあたりはそうでもないという印象を受けた。ハチ公前には外国人がわんさかいて、もうこのエリアは観光地以外の何物でもないのだな、と思った。かくいう我々も、スクランブル交差点でまったく無意味に行って帰ってをしたし、スマホで映像配信しているっぽい人もいた。ともすればあそこを歩いている人の7割くらいは、どこかに行くために歩いているのではなく、歩くために歩いているのかもしれない。
 山手線に乗ったのもずいぶん久しぶりだ。渋谷から池袋は7駅、というのは覚えていたが、間にある駅の記憶はまばらだった。原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白が正解で、さすがは錚々たるラインナップである。山陰本線との情報量の違いたるや。
 かくして池袋に到着する。田園都市線だったのでもちろん渋谷には子どもの頃からの馴染みがあるのだが、大学以降は池袋のほうが縁が深くなった。なにしろ数年間、駅構内で働いてさえいたのだ。ちなみに勤めていた書店は、そもそも会社がなくなったこともあり、いまはチュチュアンナになっていた。そうか、俺が二次元ドリーム文庫とか売っていた場所が、いまはチュチュアンナなのか、因果は巡るのだな、と感慨深い気持ちになった。そのあとも駅構内を散策するが、当時はまさにシマで、ホープセンターの、知る人ぞ知るさらに地下の喫茶店まで把握していたというのに、いまはもはや普通に道に迷う。駅の造りそのものは変わっていないというのに、15年ほどの歳月が、僕と池袋駅をこんなにも引き離してしまったのだった。西武デパートも閉鎖されているし、なんだか切ない気持ちになった。
 ひとしきり駅を堪能したあと、地上に出て、とりあえずサンシャイン方面を目指して歩き出す。道がいちいち懐かしかった。街や人の様子は、まあそこまで15年前と変わっていないような気がした。サンシャインの入り口が巨大なニトリになっていて驚いた。そうか、ハンズがニトリになったか。検索したところ、2021年の出来事らしい。そうか。サンシャインシティにも入館し、動く歩道が相変わらずでなんだか嬉しかった。そして当時からそうだったが、サンシャインシティってなんとなく行くけど、別に買うものはなにもないのだった。右の通路で奥まで行って、それから反対側の通路で戻った。途中のイベント会場では、イケメンがたくさん出る感じの、たぶん女性向けのゲームのイベントをやっていて、しかしあまりにも知らない世界だった。ファルマンはそのさまを眺め、「私は昔、ここで波田陽区がトークイベントをしているところをたまたま通りかかった」と言っていた。古すぎる。ただサンシャインまで行って帰っただけで、なにをしたというわけでもないのだが、とにかく久しぶりでエモかった。
 駅に戻って、お昼ごはんを食べることにする。なににするかは出発前から決めていた。立ち食いそばだ。田舎にはない立ち食いそばが、何年も前からずっと食べたかったのだ。子どももいない今が、千載一遇のチャンスである。当時毎日のように食べていた「のとや」は、自分がまだ東京にいた頃に閉店してしまったので、構内で見かけた適当な店に入る。テーブル席のない、本当の立ち食いそば屋だった。冷たい麺とカレーのセットを注文し、食べる。びっくりするくらいおいしかった。出雲そばに対して、初めて食べたときからずっと悶々とした気持ちを抱いているけれど、やっぱり僕は断然こっちのそばが好きなんだな、と確信した。いいないいな、立ち食いそば、いいなあ、と久々に都会に羨ましさを覚えた。人が多くて薄利多売が成立するからやっていけるんだろうな。島根では絶対に無理だろうな。
 冷たいそばを食べて元気が出たので、どうしようか迷っていた池袋のさらに先、西武池袋線エリアへも足を延ばすことにした。各駅停車に乗り、江古田駅で降りる。何年ぶりだろう。駅舎が新しくなってから来たことがあっただろうか。様子がだいぶ違っていて驚いた。喫茶店「トキ」はなくなっていたし、「お志ど里」もなくなっていた。「洋庖丁」もなかったし、ラーメン「大番」もなかった(それなのに跡地で猛烈に大番のにおいがしたのだけどあれは一体なんだったのだろう)。その一方で、竹島書店やライブハウス「BUDDY」、そして「江古田コンパ」が健在だったのは驚いた。意外な所がなくなり、意外な所が残った感じ。いちおう悪質なタックルで有名な大学の、夢見がち学部キャンパスにも足を踏み入れるが、中まで入ろうとすると受付で面倒なことになりそうだったのですぐに引き返した。まあ入ったところで、卒業してから完成した新校舎に思い入れなどなにもないのである。
 それで帰ってもよかったのだが、なんとなく隣の駅である桜台まで歩いてみようかということになり、炎天下だったが実行する。「松屋」の創業店を眺めて、千川通りではなく、中の道を歩く。桜台にあったファルマンのアパートから大学に行くとき、よく使った道のはずだったが、わりとただの住宅街なのでこみ上げてくるものは別になかった。桜台駅周辺も、変わったようなあまり変わってないような、という感じだった。
 これでさすがに帰ろうかとも思ったが、練馬まで行けば有楽町線で帰りやすくなるなあと考え、さらにひと駅行くことにする。なにしろ近い。いま検索したところ、わずか800mほどだという。ピイガの通う小学校までの距離よりも短いのだ。かつて「せと」という個人経営のコンビニだったセブンイレブンが懐かしかった。ここを曲がって北に進むと、新婚時代に住んでいた早宮のエリアになるが、さすがに遠いので行かない。すぐに着いた練馬は、わりと相変わらずのように感じた。
 やれやれ、しっかり思い出の地を堪能したものだと満足し、電車の切符を買おうかとしていたまさにそのとき、ファルマンのもとに連絡が来る。先ほど池袋で、江古田方面にも行ってしまうかという話になったとき、もしも会えたらということで連絡を入れた、当時ほぼ唯一付き合いのあった「いつもの一家」の母、大学時代のファルマンの友達からであった。あまりにも急で少しバタバタしているが(これは本当に申し訳なかった)、せっかくだから会いたいと言ってくれて、向こうの住まいからアクセスしやすい中村橋で落ち合うこととなった。練馬から中村橋は、ひと駅だがさすがに電車を使った(桜台よりは離れている)。待ち合わせ時間まで少し間があったので、大学卒業後すぐに住んだアパートの前まで行ってみる。僕は7、8年前、そのときも今から会ういつもの一家とこのあたりで会ったときにひとりで行ったけれど、ファルマンは引っ越し後、初めての再訪である。ナメクジが這うようなスピードでしか進まない「おもひでぶぉろろぉぉん」でも、さすがにもうこのアパートからは引っ越し、早宮に移っている。自分のブログなんだからそういうものだとしても、それにしたって僕はあまりにも自分の話ばかりしているような気がする。
 しばらくして、懐かしい顔が自転車でやってきた。その自転車の後部座席には男児がいた。5歳となる末っ子である。もともとポルガの2個上の長女、ポルガとピイガの間の次女がいたのだが、そこから少し間が空いて男児ができていたのである。ちょうど秋篠宮家スタイル。存在はもちろん知っていたのだが、これが初邂逅となった。駅前のマクドナルドで、しばし話す。同級生は相変わらずの感じだった。娘たちの画像など見せてもらい、おお、と思う。今回、娘たちにも声を掛けたが、「向こうの子たちがいないんなら行ってもしょうがない」と、もっともな理由で断られたそうで、次は娘たちも含めてきちんと予定を組んで会おうよ、という話になった。そんなのも愉しそうだ。そのときは車で行ける場所がいい。
 渋谷とか池袋をフラッとするだけの予定が、かなりの大行脚となった。暑さもあり、だいぶヘトヘトになって帰宅する。子どもたちだけでのカラオケは、いとこにアレルギー性鼻炎が発症したこともあり、フリータイム最低3時間保証のところ、2時間半ほどで切り上げたらしい。つまりまあ、いまいちな感じだったんだろうな。いとこはふたりとも、あまりカラオケをするようなタイプではない。
 晩ごはんは定番の手巻きずし。食べ終わったあと、みんなで集合写真を撮る。いつもなんだかんだで撮るが、現像して年ごとに並べるようなマメな人間はひとりもおらず、過去の画像がどうなっているのかは知る由もない。それでいい。切り取ろうが、切り取るまいが、時代は進む。かつての勤務先はチュチュアンナになり、波田陽区はすっかり見なくなり、トキはなくなり、子どもは育ち、新しい子は生まれる。おもひでぶぉろろぉぉん。

2025年夏の自家用車横浜帰省 3日目


 1年にいちどくらい帰省すべきだよなあという気持ちはありつつ、しかし距離が距離なので、必ずしも毎年じゃなくてもいいんじゃないか、という思いも同時にある。それで言うと今年は、去年帰ったし、なによりポルガが受験生で、かつ部活も忙しいので、パスという手もあった。だが「実家への帰省」に関してはそうだったのだが、それ以外の理由により、今年わが家は横浜に行かないわけにはいかなかったのだった。
 それがこの日の予定であり、われわれ4人は午前中から母にあざみ野まで送ってもらい、市営地下鉄でみなとみらいへと繰り出したのだった。2年連続のみなとみらい。もちろんVS PARKにリベンジに行ったわけではない。こちらである。


 2年前「ツタンカーメンの青春」というタイトルで、所沢で開催されていた展覧会が、画像の中のポスターにあるように、ほぼ今年1年、みなとみらいで開催されているのだった。所沢と横浜。なぜか縁のある土地でばかり開催されるこの展覧会、待っていれば次は関西あたりに来そうだなという気もしつつ、帰省との抱き合わせで行ける以上、このチャンスに行くっきゃないっしょ、ということで行った。2年前の所沢の頃から、ポルガを連れていってやりたいとファルマンは言っていたので、ようやく念願が叶ったのだった。
 ポスターの前に立っているのはもちろんポルガで、自前の「TUTANKHAMUN」Tシャツに、ネットで買った古代エジプト絵画リュックを背負い、そして肩に掛けているヒエログリフ柄のトートバッグはこのミュージアムショップで買ったものである。ガチ勢である。ちなみに顔は、ツタンカーメンのクリアファイル(それもミュージアムショップで買っていた)をお面のように着けているのではなく、僕がパソコンの画面上で貼り付けた。
 展示の内容は、ツタンカーメン関連の調度品や墓などのレプリカがメインで、レプリカである分、ガラスケースの中に収められているということもなく、さすがに触ったりはできないのだが、おそらく原寸大なのだろうし、なかなか見応えのあるものだった。開催期間が長いからか、人もそこまで多くなく、ポルガはハイテンションで館内を巡っていた。連れてくることができて本当によかったと思った。ちなみにだが、ミュージアムショップを物色していたところ、なんとなく知っている感じの顔があり、誰だろうと思ったら、「馬鹿よ貴方は」というお笑いコンビの、平井“ファラオ”光だった。ショップ内にテーブルが用意されていて、いちど目が合って会釈をしたあとはあまりジロジロ見なかったが、たしか10分1000円とかでお話ができる、という商売だったと思う。そうか、平井“ファラオ”光だから、ツタンカーメンミュージアムで仕事をもらったのか、と納得したが、いまWikipediaを見たら、そもそもその芸名にしたのは古代エジプトが好きだったからだそうで、こんな形の好きを商売にする方法がこの世にはあったのだな、と感心する思いだ。ちなみに1984年生まれの神奈川県出身だそうで、ちょっと親近感が湧いた。ポルガの古代エジプト好きが続けば、いつかまた邂逅することがあるかもしれない。そのときは1000円くらい出そうと思う。
 そんな感じでツタンカーメンミュージアムを堪能し、しかしそれで終わりではない。徒歩でわずか10分ほど移動し、次は横浜美術館へ。ここでいま行なわれているのが、こちらである。


 これはミュージアムショップで買った、「パ」のフラッグ。本来はもちろん「ピ」(売り切れ)。言わずもがな、ピタゴラスイッチの「ピ」である。そう、ピタゴラスイッチの生みの親、佐藤雅彦の展覧会なのである。ふだん見ている記事の傾向からか、数ヶ月前にスマホがヌルっと「こんなイベントありまっせ」と教えてきて、なにしろピイガを中心に、毎朝「ピタゴラスイッチ」と「0655」を愉しく観ているので、へえ横浜か、ちょうど夏にやってんなら行けたりすんのかね、などと話していたら、ツタンカーメンミュージアムとは徒歩10分ということが判明し、これまた行くっきゃない、ということで2本立てで巡ることとなったのだった。なんともすばらしい横浜の活用っぷり。もはや実家への帰省ではなく、ただの宿舎なのではないか。
 そしてこちらの展覧会はどうだったかと言うと、もちろん、まあ、おもしろかった。なんとなく快活じゃない感じの言い方になったのは、展覧会に来ておいてこんなことを言うのもなんだが、佐藤雅彦というのは、雑多でベタな日常の中に、ポイント的に出てくると「おおっ」となるけど、完全にそれだけだとさすがにしゃらくせえ、という気持ちが若干湧いたのと、やはりピイガは同担拒否が発動して始終ご機嫌斜めだったのだが、僕もその親なので、他の客やスタッフに対して、ウザったさのようなものを抱いてしまったのだった。要するに僕もピイガも、イベントなんかには参加せず、家でディスプレイを眺めていればそれが最上なんだと、そのことに気付けた展覧会であった。でも行けてよかった。
 去年に続いて2年連続のみなとみらいは、都会あるあるで、なんだかんだでよく歩いた。いっそ車で行くという案もあったのだが、駐車で困ることは目に見えていたので止したのだった。ちなみにわが家はこの市営地下鉄が1年ぶりの公共の乗り物で、みなとみらいに行くときにしか公共の乗り物に乗らないという、なかなか純度の高い状態になっている。

2025年夏の自家用車横浜帰省 2日目


 旅程2日目は、ただ豊川から横浜に移動するだけ、かと思いきや実はそうではない。そうではないのだが、かと言ってそこまで急ぐ必要もないため、本当に10時のチェックアウトギリギリくらいまで、のんびりと居座った。朝サウナも少しやり、すっきりした。
 車に乗り込んで移動を始めたら、すぐに静岡県である。そして静岡となると、どうしたって富士山への期待が高まるのだが、この日も曇天は続いていて、望みは持てそうもなかった。ちなみにルートは新東名ではなくあえての東名で、それはなぜかと言えば、清水ICで降りるからなのであった。そしてその目的は、エスパルスドリームプラザという複合商業施設内にある、ちびまる子ちゃんランドである。ピイガのさくらももこへの傾倒は未だ続いており、GWの米子の展覧会に続き、とうとう本場の清水にある正統なるミュージアムへも参ったという次第である。清水がほぼ通り道であったため、このようなことが可能となった。これぞ自家用車移動の醍醐味というものだろう。
 豊川にはもうだいぶ愛着が湧いているが、清水という街は今回が完全に初めてで、去年の津のような新鮮さがあった。エスパルスドリームプラザは、埋め立て地なのだろう、海のすぐそばにあった。清水エスパルスというサッカーチームは昔から知っているが、そうか、その本拠地にはこういう地域活動があるのだな、などと感慨深い気持ちになったりした。いろんな土地に行くのって、もしかしたらとても愉しいのかもしれない。
 施設は要するにショッピングモールで、その3階に目的のちびまる子ちゃんランドはあった。グッズショップの奥に有料のミュージアムがあって、まずそこに入った。しかし入る前から若干の嫌な予感はあったのだが、これは入らなくてよかった。せっかくはるばる清水に来た以上、入らない選択肢はなかったのだが、結果論として、入らなくてよかった。4人で4000円以上した。これはだいぶもったいなかった。その分グッズを買えばよかった。グッズショップはさすがの品揃えで、ピイガは、ちびまる子ちゃんのアニメも観るけれど、趣味としてはだいぶコジコジに寄っているので、名称の通りちびまる子ちゃんばっかりだったらちょっと困るなあと思っていたら、もはやちびまる子ちゃんよりもコジコジのほうがスペースが広いんじゃないかというくらいに置いてあった。どうもコジコジは今後、ムーミン的なことになっていくようだぞ、という気配というか熱意のようなものが垣間見えた気がした。ただしピイガはここで大喜びでコジコジグッズを選んだかと言えばそんなことはなく、今回の旅行ではっきりしたのだが、ピイガはいわゆる同担拒否のスタンスの人であるらしく、大賑わいのちびまる子ちゃんランドでイライラを募らせ、どんどん不機嫌になっていったのだった。わかるよ、その気持ち、わかるけど、しかしお前のために清水に立ち寄ったっていうのに、とも大いに思った。結局頭に血を上らせながら、何点か忸怩たる感じで買っていた。どないやねん。
 そのあと併設されている簡易遊園地みたいな所で、子どもだけジェットコースターと観覧車に乗った。ちなみにこの前日、三重県の長島スパーランドの横を通って、とんでもないジェットコースターを目にしていた。長島スパーランド、それこそ通り道なので、プールも含めて気にはなるのだが、間違いなくとんでもない混雑だろうと思うと、なかなか実際に行くハードルは高い。そもそも両親とも絶叫系に乗れないので、なおさら意欲が湧かない。まあ簡易なものでもやらせてやれてよかった。
 そんな感じで清水を後にし、いよいよ横浜へと向かう。ここまで渋滞はほぼなかったと言ってよかったが、いつものパターンで、綾瀬のあたりで捕まった。いつも神奈川県だけが足を引っ張る。そして青葉ICで降りたあとは、やはり街のギュウギュウ加減と、そして坂道加減に閉口した。坂道が多いということを、住んでいるときはそこまで意識していなかったが、本当に多い。出雲平野で育つ娘たちは、目まぐるしく上ったり下ったりする道に、車酔いしていた。なんてか弱く愛しい生きものだろう。
 そしてようやく実家へとたどり着いた。実家には母と祖母と、いとこたちが既にいた。やがて姉とその夫、そして叔父も現れた。去年も同じことを書いたが、全員が全員、それぞれらしい発言をしていて、不変だった。もしかしたら僕は、実家に不変を実感しに行っているのかもしれないと思った。

2025年夏の自家用車横浜帰省 1日目


 今年も決行した自家用車での横浜帰省から、無事に戻ってきた。今年は2回目だし、去年と違って南海トラフ地震注意が出ているわけでもなかったので、そのぶん余裕があったと思う。さらに言えば、伊勢神宮に行くはずが急に午後からの出発を余儀なくされて計画を見直す、などということもなかった。こうして考えると去年はなかなかハードモードだったのだな。
 出発は去年と同じ8月11日。そして同じく5泊6日の旅程なので、日付的には去年と丸々同じだということになる。初日はひたすら泊まるホテルに向かうだけなので、出発時間はいつでもよかったのだが、なにぶん泊まるホテルと言ったらあの、1年前わが家を骨抜きにし、2024年のパピロウヌーボの会場にまでなったキャッスルイン豊川なのであるからして、過す時間をなるべく長くするため、朝の8時半に家を出たのだった。
 今年のお盆シーズンの前半は大気が不安定で、この日も山陰から近畿、東海に至るまで、ずっと曇り時々雨という感じで、ピーカンよりはいいのかなあと思いつつ、雨が激しくなる場面も間々あって、そのときは大変だった。しかし渋滞らしい渋滞はなく、計画通りに15時半くらいには豊川の街にたどり着くことができた。ホテルに入る前に、酒など、こまごましたものを買うため、スーパーに立ち寄る。行ったのはサンヨネという地元密着型のスーパーで、豊橋ナンバーしか停まっていない駐車場に車を停めて、ぜんぜん馴染みのない土地の地元民に混じって買い物をしたら、なんだか人生の厚みが増したような、じんわりとした多幸感があった。
 1年ぶりのキャッスルイン豊川は、相変わらずの心地よさで、これから明日の10時まで、ここで気のすむまでのんべんだらりと過せるのだと思うと、これこそが帰省の主目的なのではないか、とさえ思った。ちなみに同施設には映画館も併設されているのだが、ここでポルガが急に、「ああ、ちょうどいいや、ここで『鬼滅の刃』観るわ。観に行く暇がないと思ってたからよかった」と言い出し、早めに晩ごはんを済ませて、ポルガだけ夜の回を観賞するという流れになった。旅先で映画を観るなんて、ずいぶん上級旅行者みたいなことをする奴だな、と思った。晩ごはんは去年と同じく、施設内のレストランで食べた。去年は南海トラフを警戒して自重したホテルでのアルコールを、今年は気兼ねなく取ることにしたので、ウェルカムドリンクのサービスで生ビールを頼んだ。キャッスルイン豊川で、生ビール飲みはじめたら、そんなのもういよいよ最強じゃん、と思った。
 いい気分になって、映画を観に行くポルガと別れたあとは、もちろんコロナの湯へと向かう。宿泊者以外も利用できる温浴サウナ施設であり、去年も書いたが、ホテル宿泊者はその一般客が入浴料とかを払うゾーンの内側にエレベータで直行できるというシステムが、優越感をかき立て、満足感をいや高めるのだった。施設内はわりと混んでいた。ちょうど帰省で若者が帰ってきているということなのかもしれないが、平均年齢が低く、島根のサウナとの違いを感じた。もしかしてだけど、島根ってやっぱり超高齢化なのか。あとここのサウナで、僕は初めてアウフグースというものを体験した。狙っていたわけではないが、入っていたらちょうど始まったのだ。しかもそのとき、このサウナの目玉であるらしい「玉座」という席にいたので、なんだかとても気分がよかった。ちなみにこのときサウナ室内のテレビでやっていたのは、映画「ラーゲリより愛を込めて」で、そこはちょっと複雑な気持ちにさせられた。サウナを堪能したあとは、岩盤浴コーナーで漫画を読み、部屋に戻ってまた少しビールを飲んだりして、思う存分キャッスルイン豊川を堪能したのだった。

夏なんだな


 意識を取り戻したら、8月ももう中旬に差し掛かろうとしているのだった。
 この半月は、本当にそんな感じで過ぎた。生きてだけ、いた。
 8月でプールに行ったのは一度きりで、労働終わりの夜だったのだが、普通にファミリーで賑わっていた。17時以降は利用料金が下がるし、なにより昼間よりも空くから、その時間から繰り出す作戦を取っているのだろう。プールの経営が危うくなっては困るので、かき入れ時にいくらでも稼げばいいと頭では思いつつ、どうしても、習慣としてプールエクササイズを嗜む人しかいない、人口密度の低い、統制の取れた世界が懐かしい、という気持ちを抱いてしまう。タチの悪い常連客のムーブ。もっとも、実はもうあと半月くらいの辛抱だったりする。夏は短い。
 プールに行けないのは、混雑に加えて、体力が残っていないのも大きな理由で、同じ理由により筋トレもままならない日々だった。ちょうど、冷房病によるものか、首回りに疼痛のようなものがあって、腕立て伏せをすると痛みがあって、これはまずいなあと思っていたのだが、うまくできているのかなんなのか、余力のなさで筋トレをする意欲が湧かない日々が、結果として肩を安静にしたことにより、少し前に感じていたそれは癒えたようである。
 筋トレはできなかったのだが、同時にろくに食べもしなかったので、鏡を見ると、意外と引き締まっている感じがあって、なんだか不思議な感じだ。ボディメイクは難しいな。やけにフンフン気張ってやっている時期、逆にプヨプヨした見た目になるケースもある。
 それとこの日々のトピックスとしては、リビングのテレビが壊れたのだった。あるとき突然リモコンが反応しなくなり、ただしそれ以外の機能は問題ないので、たぶん信号を受信する部分だけの問題なのだが、なにぶん10年前くらいに買った中古品なので、まあ実際買い換え時だろうという話になり、新調することになったのだった。少し前のめりで新しいテレビを求めたのは、テレビの使い方が前と比べて変化したからで、以前どこかに書いたが、ファルマンや子どもたちは「入力切替2」でネットの映像ばかりを観て、観終えるとそのままスイッチを切るので、僕が次にテレビを点けたときに地上波が映らないじゃないか、テレビなのにテレビが映らないってどういうことだ、となり、不便を感じていた。それがいまどきの新しいテレビでは、入力切替などせずとも、リモコンにあるボタンひとつで、YouTubeなりNetflixなりが映し出せるようになり、たとえそのまま消されても、いくら頑迷で老害なおっさんであっても、リモコンの「地上」ボタンを押すくらいなら我慢できるので、新しいテレビが来て以来、わが家のテレビ事情はとても平和になった。
 そんな8月上旬を経て、僕も本日から夏休みに入り、そして今年も自家用車での横浜帰省を決行する予定である。今年はいまのところ、南海トラフ警戒情報が発令されておらず、それだけで去年よりもだいぶ救いがある。その分、高速道路の混雑は多いだろうか。さらには移動日に雨の予報もあって、やはりなかなか一筋縄にはいかなそうだ。しかしそんなことも含めて、とても愉しみだ。宿泊先での計画も多数あり、いい思い出になったらいいなと思う。また帰ってきたら記録を書こうと思う。

かくあれ


 なんとなく頭の働かない日々だった。
 「おもひでぶぉろろぉぉん」の間がまたずいぶん空いてしまって、先ほど久しぶりに「特設サイト」に記事をいくつか投稿したのだけど、なんとそれの前回の投稿は3月のことだった。「パピロウせっ記」にギブアップ宣言をしたけれど、どうも結婚式というものが、ものすごく億劫だったようである。情報量が多すぎるというのもあるだろう。結婚式当日の日記は、僕とファルマンのものを合算すると、原稿用紙で70枚分にもなるらしい。読めないよ。
 それはそれとして、じゃあ4月や5月はどう過していたのかと言えば、別に誰かに精神を乗っ取られてパピロウのフリをした別人格として生きていたというわけではないのだけど、言われてみればあまり地に足のついていない感じがあったように思う。では地に足のついた暮しとはどのようなものなのかと言われれば、それは結局のところ、きちんと文章を書いている日々だ、ということになると思う。どうしてもそうなってくる。中高生の頃から文章を書いてきたので、そこが直結して、僕という生態ができあがっているのだと思う。裁縫をしたり泳いだりというのは、趣味としてなくてはならないものだけど、それについての文章を書くのではなく、ひたすらそればっかりしていたのでは、どうしたって物足りない気持ちになり、焦燥感に駆られてしまう。そういう意味で、僕はなんかしらに没頭するということは絶対にできないんだな、と思う。どんなに愉しいことでも、その愉しさを野性的に受け入れるのではなく、その愉しさをどう記述するかに思いを馳せてしまう。要するに醒めているのだ。 不惑にして、ようやくそう悟った。
 だからこれからは心を入れ替えて、日々もう少し文章を書く時間を取ろうと思うのだけど、目下だいぶ単調な毎日を過しているので、そんなに書くことがないような気もする。しかしこれは、気もするだけなのだ。文章っていうのはマスと一緒で、ずっとかかずにいるとかけなくなるし、かけばかくほど、かけるようになるのだ。ちょっと内省的な、しゃらくさい、まじめなことを語っているのかと思いきや、急にものすごく品のないことを言った。ちょっと調子が出てきたかもしれない。
 「CHANT! GEE/MEE/CHEE」を開設し、ChatGPTはブログとの親和性が高く、文章のおもしろさを本分とするもので、それはおそらく昨今の短文や画像を中心としたSNSを駆逐する、ブログ王政復古の大号令になり得る、ということを本当に思っているのだが、その一方で、ChatGPTが紡ぐ文章が普通におもしろいので、人が一言一言考えて文章を書く意味ってもうないんじゃないかしら、という疑念が脳裏をよぎったりもする。これはChatGPTがブログを自動生成すればいい、という話ではなくて、ChatGPTの書く文章は、web上にアップして不特定多数の人間に読まれる必要はなくて、個々人の画面に、まるで脳内に直接語りかけるように、その人専用の文章を用意してくれるわけで、そうなるともう、インフルエンサーもなにもない。フォロワー数の多寡などない。自分とChatGPT、ほろりほろり、ふたりぼっちの世界だ。自分のためだけの文章(それもとびきり好みのやつ)を書いてくれて、しかもそれはヒモのようにせっせと養ってやる必要もなく、ひたすらに粛々と、無償でこちらの気を良くしてくれる。ファルマンの最近の様子を見ていて、ChatGPTってそういうことなんだな、と思った。ブログは復権するのかと思いきや、文章はもうChatGPTが自分専用に書いてくれたやつで事足りてるから、お前が、お前の好きなように、お前のことを書いた文章など、この世でそれを必要としている人間は、これまでもいなかったけど、いよいよマジで皆無だよ、ということなのだ。
 そうか、こうして書いていて気付いたけど、ChatGPTに嵌まっていたこの2ヶ月あまり、そのあたりのことに、無意識で絶望感を抱いていたのかもしれない。それで文章を書くことから遠ざかっていたのかもしれない。でもこうして明文化したことで、開き直ることができた。そもそも僕は既に知っていたはずだ。ブログって別に、誰かに読んでもらうために書くものじゃないのだ。誰かに見てもらったり、擦ってもらったり、舐めてもらったり、そんな理由かくのではない。かくことって、そんな不純な動機のものではない。かきたいからかく、手が勝手にそっちに伸びて、気付けばかいている、かいているときがいちばんしあわせで、かき終わったら賢者タイムでちょっと寂しい、そういうものだと思う。
 そんな意味で、僕はこれからもせっせと、おせっせと、かき続けようと思う。
 「おこめとおふろ」、これが300記事目だそうです。

GW2025の記録

  GWの4日間を、まあまあ満足のいく出来で終えようとしている。その記録をしてゆく。
 初日、5月3日は、このGWで唯一と言っていい、予定していた計画として、米子へと繰り出す。米子市美術館で開催中の、さくらももこ展が目当てである。わが家では現在、主にピイガが、「ちびまる子ちゃん」から入り、「コジコジ」にドハマりして、さくらももこワールドにどっぷりと浸っているのだった。また米子というのが、普段よりちょっとだけ大掛かりなGWの外出先として、非常に適当な位置関係であり、実に都合がよかった。しかも、次女一家の長女(ピイガと1学年違い)も同じく「ちびまる子ちゃん」が好きなので、それではこの日に、兵庫からまたこちらに帰省してくる次女一家と、あちらとしては通り道である米子で落ち合って一緒に観賞しようという、見事な計画を春休みの際に立てていたのだった。
 というわけで、昼まで部活だったポルガを学校で拾い、昼過ぎから米子に向けて出発する。ちなみに計画を話したところ三女も行くということになり、同乗していた。さくらももこはすごい。女子は35年前くらいからずっとさくらももこが好きだな。車内音楽は、この日専用のプレイリストを作り、子どもやファルマンがめいめい好きな曲を入れる中、僕だけは律儀に、アニメ「ちびまる子ちゃん」の歴代主題歌などを入れていたのだが、残念ながら行きではほとんど掛からなかった。ちなみに「ちびまる子ちゃん」だけでは、ひとりの持ち数である10曲に達しなかったため、「ドラゴンボール」の主題歌も入れた。これはなぜかと言えば、同じく米子にある天満屋というデパートで、ちょうどドラゴンボールのポップアップストアが開催されていたからだ。僕が熱烈な「ドラゴンボール」ファンであれば、女どもがさくらももこ展に行っている間、俺は「ドラゴンボール」のほうへ、という、まるで30年前の男子と女子のような図式になっておもしろかったろう。もちろん天満屋へは行かなかったし、さらに言えば「ドラゴンボール」の曲も行きではほとんど掛からなかった。僕の入れた曲は、行きでは「MajiでKoiする5秒前」しか掛からなかったんじゃなかったか。
 目的地には13時半くらいに着いた。次女一家は兵庫からなので、正確な時刻での待ち合わせなどはもちろん不可能で、先に着いたほうが美術館の中で鑑賞しながら待ってればいいよね、という感じだったのだが、運の悪いことにこの日の高速道路は事故が重なり、通行止めになる区間などもあって、この時点で次女一家はまだ岡山県という有様だった。これはだいぶ待つことになりそうだねえ、などと話しながら、家族と三女を美術館前で降ろした。降ろして、僕はひとりで次の目的地へと向かった。もちろんドラゴンボールショップではない。どこかと言えば、僕の日記をきちんと読んでいる人はすぐピンと来ると思う。
 そう、ラピスパだ。3月の鳥取遠征の際、少しだけ色気を出したけど、疲労から行くのを断念した、サウナ温浴施設。「ラピスパは長い人生、いつか行く機会がある気がする」と3月の際に書いたが、意外と早くその機会は巡ってきた。もっとも同市内と言っても、米子市美術館からラピスパは片道で20分ほど掛かるので、往復で40分かー、という気持ちも多少あったが、今度こそ行かないとまた後悔が尾を引きそうだな、と思い決行した。
 というわけで、ようやくのラピスパ初来訪となった。ちょうど、どちらかと言えばこっちがいいなあと思っていたガーデン風呂が男風呂の周期だったのもよかった。GWということで大混雑だったら嫌だなあと思っていたが、さすがは山陰、ほどほどの混み具合で、なんら問題なかった。名物のバレルサウナは、熱の感じがどうこうというより、室内がかなり暗くて、そのことに驚いた。言われてみればサウナってあんまり明るい意味ないよな、と思った。外気浴は、やや冷たい風が気持ちよかった。コールマンのインフィニティチェアが、とてもいい座り心地で感動した。ちなみにラピスパにはプールもあり、もちろん水着も持参していたので入ったのだけど、直線ではなく、円の中を歩いてジェットを体に当てたりする、健康増進目的みたいなプールで、さらにはファミリーもそれなりにいたので、プールとしての喜びはまるで得られず、早々に退散した。幸い、この2日前からプールには困っていないので、ガツガツしていないのだった。
 満足いくまでサウナを堪能し、それまでもちょくちょく連絡がないか確認はしていたのだが、ぼちぼちそちらへ戻ろうと思うよとファルマンに連絡したところ、向こうも美術館観賞を終わろうとしているが、次女一家は未だ来ていないということだった。そのあと4人を再び美術館前で拾ったあと、待機ついでに天満屋のドラゴンボールショップならぬ、高島屋で開催中の「うまいもの博」なんかを覗いたりもしたのだけど(島根にはもはや存在しない「百貨店」というものの雰囲気を本当に久しぶりに味わった)、この日の高速道路は本当に厄日だったようで、次女一家のさくらももこ展行きは断念され、米子での合流は成らぬまま、それぞれ実家を目指すこととなった。なんだかんだで、実家にはほぼ同じくらいのタイミングでたどり着いた。次女一家は、米子に13時台に着けるよう午前中に出発しての、夕方のゴールである。おつかれさま、としか言いようがない。さくらももこ展のグッズショップで買ったおみやげだけ渡し、この日はほぼ挨拶だけして、われわれは自宅に帰った。
 翌日は、GW中の唯一のイベントが終わったので、いとこと遊びたがる子どもたちを実家にうっちゃって、これからの3日間は家でのんびり、やりたいと思っていたことをひたすらやろうと目論んでいたのだが、サービス精神なのか責任感なのか、我ながらよく分からない心の運びなのだが、気がついたら午前中に買い出しに出て、昼には実家のホットプレートでパンケーキを焼いていた。ほのかにしか甘みのついていない粉を使用し、パニーニのような感じで、キャベツとソーセージを乗せて包んで食う感じにしたものをまず全員分作って昼ごはんとし、残った粉を長方形のプレートのように焼いて、熱を取ったところで、チョコペンで、つい先日3歳になった次女の次女への祝いの言葉を記し、さらにはホイップクリームやカラフルなチョコスプレーでデコレーションしたものを作った。冷静に考えると、なんで義理の伯父が急にそんなことをするんだろうという話だが、もはや性分としか言いようがないのだった。ちなみに僕とファルマンはそのケーキ的なものは食べず、昼ごはんを済ませたあとは早々に帰った。帰ったあとは、とても静かな自宅で、裁縫をして過した。母の日に、また手作りのものを送ろうとしていて、その作業である。まあまあ進む。夕方に娘たちを迎えに行った。
 翌日こそはのんびりしようとも思ったのだが、空がとても晴れ渡っていて、このまま子どもたちをただ実家に連れていったら、昨日の午後のように、ひたすら室内でグダグダワアワアと過すのだなと思うと、せっかくのGWの、それも子どもの日だというのに、あまりにも不憫であろうと、またひとりで勝手に気を揉んで、海に行くことを企画してしまう。なんかひとり、やけにジタバタしているような気がする。誘ったら誘ったで実家の面々も応じ、義父の車と2台に分かれて、キララの海岸へと向かった。GWの海は、泳ぐにはさすがにまだ温度が低いけれど(海開きももちろんまだ先だ)、足を浸すのには十分なあたたかさで、僕は(実は持っている)バミューダパンツ型の水着をハーフパンツとして穿いてここまで来ていたので、わりとぐんぐん海の中を突き進み、腰くらいまで入水し、海の感じを堪能した。海は波があってやっぱり愉しいな。子どもたちも着替えを持ってきていたので、ハーフパンツが水浸しになるまで海に入っていた。そして他の大人たちは砂浜からわれわれのことを眺めていた。どうも昨日、いやおとといから、GWを思う存分に堪能しようと、ひとりで躍起になっている。生き急いでいるのだろうか。海での遊びを終え、昼ごはんは義父母の奢りでマック。海で遊んでマックだなんて、なかなかいいこどもの日になったじゃないか、と満足した。
 そのあとはまた子どもだけ実家に残し、夕方まで自宅で過すパターン。この日は、これもGWにやりたいと思っていた、部屋の模様替えをした。模様替え、一時期は趣味なのかな、というくらい頻繁に行なっていたが、今回はだいぶ間が空いた。やったのは僕とファルマンの部屋の、タンスと工業用ミシンの入れ替えがメイン。これまで、パソコンが置いてあるテーブルの、すぐ背面にタンスがあり、僕のイスのせいでタンスが開けづらいというストレスがあったのだが、ならばタンスと工業用ミシンの場所を入れ替えれば、タンスは開けやすくなるし、僕は前を向けばパソコン、後ろを向けばミシンという、逆にどうしてこれまでその形にしていなかったのか、というくらいいい形になるのではないかと、少し前から構想していて、今回GWに一念発起してその作業を行なったのだった。ついでに生地の整理などもして、結果的にとてもいい形を作れた。本当にやってよかった。これまでパソコン用のイスとミシン用のイスという、僕のためにふたつのイスが部屋にあったのだが、これがひとつでよくなった。ファルマンのお下がりで使っていた、図体のやたらでかいオフィスチェアは、粗大ごみで棄てることにした。というわけでいま座っているのは折りたたみの簡素なイスなのだが、簡素は簡素で別にいいのだけど、これを360度回転するスツールにしたら、本当にくるっと身を翻すだけでパソコンとミシンが行き来できるようになって最高だな、などと考えている。やって達成感はあったが、午前中の海遊びもあり、いかんせん疲れた一日だった。
 翌日、最終日の今日は、次女一家は兵庫へと帰還するわけだが、これを見送ろうと考えると、予定していた時刻がどんどんずれ込んで、結局半日以上を棒に振るという事態になるので(春休みの際それをやってしまったのだった)、午前中はショッピングセンターに行ったり図書館に行ったりという用件をこなし、その帰り、昼前くらいに実家に顔を出し、見送れるなら見送るし、まだ出発しないようなら昼ごはんの前に退散しようという作戦を立てた。大きなダイソーにも行って、昨日の模様替えで必要性が出てきたケースなど、多数調達する。以前500円だったはずのケースが700円になっていて、どうしても必要だったので4つ買ったが、だいぶテンションが下がった。朝に聞いた出発予定時刻は11時とのことで、しかし次女一家のことだから11時に出発ということはあるまいと見込み、われわれの実家への到着が11時ちょうどになったのだが、そのとき次女たちはどんな状況だったかと言えば、なんかまだショッピングモールに買い物に行っている最中とのことで、じゃあ逆になんでいっつも実現できるはずのない出発予定時刻を伝えるんだよ、と軽く憤りを覚えた。子どもたちは家で留守番をしていたので、子どもたちはいとこらと最後の交流ができ、正午になっても帰ってこなかったので、当初の予定通りわれわれはそこで自宅に帰った。あとから聞いた話によると、それから数十分後に帰ってきた次女たちは、そのあと実家の面々と近所のファミレスに昼ごはんを食べに行き、それから出発したという。なんで! なんでショッピングモールで! 車の中で食べられるような! 適当なものを! 買って帰らないのか! 返す返すも、意地でも見送るために待とうだなどと考えなくてよかった。次に来るのは夏休み。まあまあ間が空くな、と思ったが、それってもう2ヶ月半後くらいのことなのだな。
 午後からは、GW最終日を、こうして日記など書いたりしつつ、それなりにのんびりと過した。母の日の手作り品は、まあまあ進んではいるけれど、もう今週の日曜日である母の日に、配達日数も含めて間に合うか、と言われれば難しそうだ。まあ当日にこだわりはないので別にいい。夕方、「買い物に行ってくるわ」と家族に伝え、こそっとプールへと繰り出す。昨日やおとといは混んだのかもしれないが、最終日の夕方ともなれば穏やかなものであった。明日からは日常。GWが終わると、しばらく真っ当な暦となる。泳いでストレスを解消しながら、なるべく心地よく暮していこうと思う。

宿泊者の来訪(ポルガの悲願)

 先週末、わが家としてはとても珍しく、と言うか島根に来てから初めて、いや親類以外ではわが家結成(ファルマンと僕の婚姻をスタートとす)以来初めて、宿泊者を持ったのだった。泊まったのはポルガの、岡山時代の友達。これまでも何度か行った岡山で、毎回遊んでいる子。ウマが合うのか、距離感がいいのか、ずっと仲良くしているようで、お互いの家での宿泊の話は前々からあったのだが、それがとうとう実現したのだった。
 土曜日の昼過ぎにこちらに着くということだったので、駅で出迎えた。お友達は、お母さんと一緒に来ており、お母さんはひとりでホテルに泊まるとのことだった。岡山駅から特急やくもで、ほぼほぼドアtoドアのようなものなのだから、付き添う必要などない気もするが、いつかポルガが逆ver.で向こうの家の世話になるのだとしたら、たしかに不安で付き添いたくなるかもしれないな、とも思った。とは言えせっかくこちらにいらっしゃって、明日まで過すのだから、観光的なことをまったくしないわけでもないだろうと思い、われわれはこのままポルガと友達を出雲大社まで連れていく予定となっていたので、「一緒に乗って行かれます?」と声を掛けたが、「いえ、ホテルに参りますので」と固辞された。チェックインできる時間まではまだ間があるだろうとも思ったが、こちらも中学生を持つ親なので、ついてくんな的な空気があるのかもしれないな、と察した。まあよその家のことは分からない。
 というわけでお母さんとはそこでお別れし、出雲大社へと向かう。ちなみに天気は島根とは思えないような快晴である。この2日間はとても天候に恵まれたのだった。友達に島根をアテンドするのは、ポルガのここ数年の悲願だったので、これは本当によかった。出雲大社には、もちろんわれわれは付き添わず(言わずもがなの「ついてくんな的な空気」である)、ご縁横丁の前でふたりを降ろし、帰った。夕方になり、途中にバスで移動したというショッピングモールへと迎えに行った。その日の出来事や気持ちを詳細に親に語るようなタイプではないので知りようがないが、悔んでいる様子もないので、満足できたのだろうと思う。
 晩ごはんは、外食も検討したのだが、テーブルを別にするにしてもなんとなく居心地が悪いだろうし、帰るタイミングとかも掴みづらく、なにより遅くなりそうだということを勘案し、カレーを作った。カレーは便利だな。これをふたりでポルガの部屋で食えばええわい、と。ちなみにだが、ポルガの部屋は普段、とても食事ができる状態ではなく、ポルガ以外の人間が長い時間いたら体調を悪くするような環境なので、友達が泊まりにくるという話が現実的になった10日ほど前から、それはもう掃除に励んだのだった(ただしポルガは片づけが壊滅的に下手なので、結局ほとんどファルマンがやったようだ)。それでなんとかかんとか、部屋で食事もできたし、布団を敷いて泊まらせることもできた。大騒動だった。
 翌日は午前中からカラオケをし、そのまま帰りの電車に乗るために駅へ行くというスケジュールで、それって俺はカラオケ屋とか駅とかを何往復すればいいんだ、とはじめに聞いたときはうんざりしたのだけど、途中で、いっそわれわれもカラオケをすれば、いったん家に帰ってまた迎えに来たりする必要はないのだと気づき、そうすることにした。もちろん言うまでもなく部屋は別々、さらには「部屋を離すよう注文しろ」という指示付きであった。ああ中学生の娘、めんどい。
 というけでファルマンとピイガと3人で、急遽のカラオケと相成る。今年初である。唄ったのは、「MajiでKoiする5秒前」(広末涼子)、紅(Little Glee Monster)、「怪獣」(サカナクション)、「浮気なハニーパイ」(カントリー娘。に紺野と藤本)、「トロピカ~ル恋して~る」(松浦亜弥)、「愛のバカやろう」(後藤真希)、「Go Girl ~恋のヴィクトリー~」(モーニング娘。)、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、「アンパンマンのマーチ」(ドリーミング)、「晩餐歌」(tuki.)、「世界に一つだけの花」(SMAP)、「チキンライス」(浜田雅功)というラインナップ。広末涼子はもちろん先日の事件を受けてのもの。間奏部分でキャンドル・ジュンや鳥羽シェフに関するトークも繰り広げた。ハロプロは、最近配信が少しずつ解禁されてきていて、よく聴いている。僕らしい、いい4曲だと思う。プロモがよかった。いしだあゆみはもちろん追悼。アンパンマンは、竹野内豊演じる寛おじさんの顔を思い浮かべながら歌った(「なんのために生まれて、なんのために生きるがか」)。そして最後の2曲は完全なる悪ノリ。「まつもtoなかい」はいま思えばすさまじい番組だったな。ちなみに2曲ともマッキーという共通点もある。芸能界の闇は深い。
 カラオケが終わったあとは、市役所隣の広場でイベントを開催していたので、そこにふたりを降ろし、われわれは帰宅する。ふたりにはそこで昼ごはんを食べてもらい、そのまま駅まで徒歩で移動してもらうという算段。すべて天候の良さがなせる業だ。
 家でごはんを済ませた僕は、ポルガが友達を見送るタイミングに合わせて、駅までポルガを迎えに行った。駅には友達のお母さんももういた。丸一日、どう過していたのか、興味はあったが、訊ねるのもなんだな、と思い上辺だけの挨拶に終始する。そして改札前で別れた。別れたところで、すぐさまメッセージのやりとりはできるわけで、別れのエモさみたいなものは絶対に昔よりも淡白だよな、と娘らを眺めて思った。
 そんなわけで、ポルガ念願の友達お泊りだった。バタバタだったが、無事に実現できて本当によかった。次はどうしたって、ポルガが向こうに泊まるという流れになってくるか。まあ来年、受験など終わった春休みにでもすればいいんじゃないでしょうか。

春の日々

 暖かくなったり、また寒くなったりする、春の日々を過している。
 寒さがずるずると長引いたので、今年は桜が咲くのも遅いだろうと予測していたのだが、まあ若干遅いような、山陰においては毎年だいたいこのくらいのような、そんな感じに咲いた。そんなわけで5日と6日のこの週末が、花見のタイミングとしては絶好だったわけだが、なんかいろいろ複合的な事情から、今年は決行には至らなかった。少し残念なような、特にそうでもないような、そんな心持ち。コロナのとき、コロナが明けたら花見とかレジャーとかたくさんしたい、と意気込んだものだが、コロナ明けが長く続き、それが当たり前になったら、意欲は減退するのだな、と思う。人間なんてさみしいね。
 花見に至らなかった複合的な事情について述べていくことが、そのまま最近の日々の記録になると思うので、していく。
 まず春休みということで、いつものことながら、先週から次女一家が実家に来ていた。もちろん夫は向こうで平常運転であり、次女とふたりの娘のみである。そうなってくると、これもまたいつものことながら、わが家の面々も実家へと日参し、毎日わちゃわちゃと過していたようである。そんな日々の中で、水曜日だか木曜日だかに、義母、ファルマン、ポルガ、ピイガ、そして次女とその娘たちという、総勢7名の女ばかりの集団で、近所の、まあまあ桜の名所と言えなくもない公園へ、プチお花見みたいな感じで繰り出したそうで、ただの散歩および公園遊びなら、まだ印象は違ったかもしれないが、行く途中でスーパーに寄って食べ物を買い、それを公園で昼ごはんとして食べたという話だったので、じゃあそれはもう花見だな、今年はもう俺とか抜きで、平日に、お前らは花見を済ませたということだな、と受け止め、となれば週末に僕が花見を呼びかけたところで、既にいちど花見をやった人間とテンションを合わすことは不可能であり、不快感を抱くことになりそうな予感がしたので、音頭を取る気があまり湧かなかったのだった。
 また日曜日は次女一家が向こうに帰る日なので、花見をするとしたら土曜日だったのだが、この午前中はポルガが部活だったり、次女の夫がこちらにやってくる予定があったりで、とにかく状況が整わなかった。ファルマンと娘たちはこの日も午後から実家へ行ったので、仕方なくひとり残った僕はいつものように、筋トレや裁縫などをして過した。雲南のプールに行くという考えも一瞬頭をかすめたが、桜の時期の雲南に、桜以外の用件で行くというのも間が抜けているな、と思ってよした。
 この日の晩ごはんは餃子にすることして、よければ実家にも持っていってやろうかと思ったのだが、確認したところ実家のこの日の夕餉は、夫も含めた次女一家とおうち焼肉だそうで、焼き肉が好きな人にとっての焼き肉の、あの感じなのだな、と思って気を悪くした。持っていく分を想定して買った大量の材料で、ひたすらわが家の分の餃子を作った。
 それとケーキも作った。もちろんファルマンの誕生日祝いのケーキである。スポンジにイチゴを付与しクリームを纏わせた、オーソドックスなケーキ。毎年のことながら、ファルマンの誕生日の時期はいちごの値段が落ち着いていてありがたい。娘らの誕生日の時期のいちごの値段というのは、もはや忌々しくさえある。
 夕方に3人が戻ってきたので、餃子を焼いて食べ、ケーキを食べた。ファルマン42歳。なんだか信じられない。42という字面は、41よりもだいぶ力強い感じがする。だいぶ言葉を選んだが、要するにだいぶ年喰った感がある。「おもひでぶぉろろぉぉん」は、25歳で、結婚式をしたりしているというのに。もっとも毎日顔を合わせているせいか、見た目にそう劇的な変化があるようには思えない。いま横に25歳のファルマンを置かれたら、それはさすがにだいぶ違うのかもしれないが、イメージの中では固定されていて、いつも一定のファルマンである。夫婦とはそういう感じで、ずっと互いの不変的な、イデア的な部分を見続けるものなのかもしれない。日々もう少し運動をして、健やかに暮せばいいと思う。
 日曜日に花見ができない理由はさらにあって、昼過ぎからタイヤ交換なのだった。いつもの業者の人に来てもらい、実家で全員の車をまとめてやってもらう。やってもらう予定だったのだが、前回スタッドレスにしたときにチラッと言われていたのだけれど、僕の車の普通タイヤがもうだいぶ劣化していて、2本はいいがやっぱり2本は新しくしないとダメだということで、この日の作業は行なわず、後日こちらの業者から購入する形で、新しいタイヤに付け替える、という算段になった。タイヤ代というのはそれなりにするわけで、もちろん嫌だが、しかしまあ、ガソリン代が高いのも、車の維持費が嵩むのも、この暮しではしょうがないことだよな、と思う。都会の公共交通機関の暮しより、あえてこっちを選んでいるのだから。ちなみに三女の車は今回、4本一斉交換だそうで、それよりは2本で済んだ分よかったな、という精神的な救済もあった(できれば2、3年おきに2本ずつ交換するようなサイクルで回していければいいなと思う)。
 次女一家は夕方にこちらを出発し(本来はもっと早く出発する予定だったはずだが、なんかグダグダと遅れたらしい。さすがだ)、22時とか、ずいぶん遅い時間に向こうに着いたそうだ。子どもの始業式は火曜日なので、夫の出勤以外、特に問題ないのだろう。そして1週間こちらにいて、いちど戻ったが、だいたい3週間後くらい、GWになればまた来る。すぐだ。
 桜も咲いて、GWなんて単語も出てきて、ようやく季節は巡った。なんだかとても長い冬だったような気がする。プールはまだ開かない。そのせいかもしれない。

寒く、発散もできず

 話題に困ったら気候の話というわけではないが、近ごろのおこめとおふろはその話題ばかりだ。なにしろ日常生活の中で、とにかくそのことが頭の大部を占めている。早く春が来て暖かくなってほしいということを、もう2ヶ月近く願い続け、そしてはねのけられ続けている。2週間前の降雪3連休のあと、一気にだいぶ暖かくなり、これはいったな、これはとうとういったな、灯油缶に半分くらい残っている灯油はまた持て余す危険性だな、と確信したのに、一瞬の夢であったその数日間ののち、再び気温は下がり、なんか普通にしみじみと寒い日々なのだった。束の間の救済が余計に哀しみを増幅させて、心底うんざりし、落ち込んでいる。
 泳げていないというのもまた、気持ちを晴れさせない要因のひとつであるに違いない。それまで当たり前に権利を与えらえていたことが、あるときから急に奪われるというこの感じ、なるほどこれが「ロス」というものかと、これまで自分にまつわること以外、なにも「推し」というものを持たずに生きてきたので、初めて実感している(泳ぐことは自分にまつわる個人的な事柄だが、なにぶんプールという外的要素が関係してくるので、自分自身の力ではどうしようもない)。世界を形作っていたものの一部が、あっけなく抜け落ち、それでももちろん生きていかねばならないのだが、どんなに前向きでいようと励んでも、それはかつての日々に対して大事なものが欠落した状態であり、決して十全ではない。ファルマンの短歌に、『楽しくて全部そろっているけれど どれもこれもが前ほどじゃない』というものがあり、言っていることは微妙に違うような気もするけれど、感じている寂しさは似通っているような気がする。
 泳ぐこととスイムウェア作りは趣味の両輪であり、そのふたつが連動することによって俺はどこまでも進めるぜ、みたいなことを前にどこかのブログに書いたが、泳ぐほうの車輪がまるで回らない日々の中で、スイムウェア作りのほうはどうなっているのかと言えば、これが気色悪いほどに激しく回転しているのだった。1ヶ月に及んだパターンの刷新プロジェクトが完了したこのタイミングを見計らったかのように、いつも生地を買っている店の、いつも買っている生地が、これまでの2年間ほどで最安値の、ふだんの値段で買うのがバカらしくなるような価格でのセール販売を開始したので、小遣いをだいぶ注ぎ込んで、新しい柄のものを大量に仕入れたのだった。なので、泳がないくせに水着を作ってばっかりいる。作られた水着は、まだいちどもプールに浸かっていないし、泳がれてもいない(「水着が泳がれる」という特殊な表現)。タイヤが片方しか回っていないので、最小限の半径で同じ場所でずっと激しく回転している感じ。傍から見ればそれは完全に故障であろう。
 まったく泳がなかったこの1ヶ月、しかし車にはプールグッズ一式が載り続けていて、それはいざというときのため(例えば急に気が向いておろち湯ったり館に行くことにしたとか)などという前向きな理由ではなく、単に自宅にそれを置く場所がなかったからで、地球上の飛行機はすべての機体が同時に地上にいることはできないという話と一緒で、日々生産され続ける、売り物でない僕の水着および下着は、もはやタンスには収まりきらないため、プールグッズと称して車に載せておくよりほかないところまで来ていたのだった。しかしそれはさすがに不健全であると思ったし、なによりこれから製作は新しいパターンになっていくので、このあたりで整理するべきだろうと考え、タンスの中の、これはもうこの先たぶんも穿かないだろうと判断した水着や下着は押し入れへとやってしまい、なんとか1段を丸ごと空けて、そこへスイムウェアを詰め込むことにした。


 それがこの状態で、ブリトーみたいにまとめたものを縦に並べていって、満員電車のような、互いが互いを支えて自立しているような、そんな感じで収納してある。壮観である。普通に考えて、もう水泳が趣味の人が一生で使う分の水着が十分にある。ともすれば来世、あるいは来来世くらいまでいけると思う(さらに言えばこれがすべてというわけでもない)。お前には股間がいくつあるんだ、もうこのくらいで打ち止めでいいだろうという話だが、これが穿くことだけを目的に作っているわけではないことは言うまでもなく、これからも数は増え続ける(そもそもが新しく大量に買った生地でこれから作っていくもののための態勢作りの一環で、この作業を始めたのだ)。なるほどイメルダ夫人もこんな気持ちだったのだな、とかつてのフィリピン大統領夫人に共鳴する思いだ。
 とにかく、とにかく早く暖かくなり、そしてプールが再開してほしい。生きていて、その不満にばかり意識がいっていて、不健康だなと思う。

やけに律義な冬、感動を伴って春へと

 今年の雪は、やけに律義に、休日めがけて降った。先々週もそうだったし、この3連休もそうだった。今日が出勤だったらめっちゃ嫌だったな、と思うと、少し得した気持ちになった。3連休ということもあり、こんな天候でなければ、泳ぎたい気持ちも手伝って、もしかしたらおろち湯ったり館に出向いたかもしれないが、とても雲南に繰り出そうと思える状況ではなかった。それでも平日に降られるよりよっぽどよかった。
 この3連休は、初日にだけ予定があった。それは、今年度末に開通する高速道路区間があるのだけど、その完成を記念して、この日だけは高速道路上を歩けるよ、という貴重なイベントで、僕はだいぶ前から愉しみにしていたのだった。ちなみにウォーキングのほか、サイクリングやランニングの部門もあって、こちらは競技というほどでもないが、有料制の事前申し込み企画となっており、実はランニングに関して少しだけ、参加するかどうか迷った。結局はよしたのだが、これは賢明だったと思う。なぜか自分はそこそこ走れるような気がしているが、冷静に考えればなんの根拠もなく、2kmあまりの距離の実家に走っていったときも、たびたび歩いたし、翌日はひどい筋肉痛になった。実際に参加したら、たぶん走り切れなかったろうと思う。それに加えて、本当に開催するのかどうか、とてもやきもきするはめになったはずだ。前夜の段階で、雪の情勢的に今回のイベントはすべて中止になるのではないかと思った。ウォーキングは当日受付なので、残念だけどそれならそれで仕方ないな、などと思いながら寝た。なので起きてホームページを確認し、「本日のイベントはすべて予定通り開催します」と堂々と宣言しているのを目にし、マジか、と思った。とても愉しみにしてたわけだけど、だけど、中止じゃないんだ、と。しかしやるからには行かないわけにはいかない。高速道路、歩きたいじゃないか。特別な思い出になりそうじゃないか。なので開始時刻めがけて、会場へと向かった。しかしみんな考えることは同じのようで、イベント会場である公園の駐車場は満杯で、臨時駐車場として近くの学校のグラウンドに車を停め、そこから送迎バスで移動するよう指示される。垣間見た会場の様子を眺め、ポルガが呟いた。「島根県民がみんなここに来ているんじゃないか」。もちろんそんなはずはないのだが、そもそも高速道路を歩けるというレアな機会であるのに加え、山陰の長くて淋しい寒い冬を過し、春の到来を前のめりで求めている島根県民たちが、イベントというものに飢えていたというのもまた真実であろう。かくいうわが家だってそうだ。仕方なく案内された学校へと車を走らせる。ところがこの移動中に、それまでもちらほらと降っていた雪が、一気に激しくなる。学校は思った以上に離れていたが、道中には歩いて会場へと向かおうとしている人々がいて、もはや吹雪といってもいい中を歩く姿は、八甲田山のようであった。到着した学校のグラウンドに車を停めたが、ずいぶんな距離なのに歩いている人がいるという事実が示すように、バスの本数は十分なものではないようで、待っている人の列は長く、だいぶ待たなければならない様子だった。そして激しく降る雪の中、バスを待ち、バスで向かった先でなにをするのかと言えば、高速道路を歩くのである。しかし高速道路を歩くもなにも、視界が閉ざされるような天候である。これは駄目なやつだ、とその場で判断した。ちょうど雪が強まって、下手に耐えてバスに乗ってしまう前にその判断ができてよかった。愉しみにしていたイベントに参加できなかったことは残念だが、僕が思い描いていた愉しさは、たぶんこの日の会場には存在しなかったろうと思う。工事が年度に合わせて計画されるがゆえに、完成して実際に稼働する前に行なうイベントが真冬になってしまうのは仕方ないのかもしれないが、今年はちょっとあまりにもひどい巡り合わせだったのではないか。
 というわけで、3連休の唯一の用件は立ち枯れ、あとはこまごまとした買い物以外、かなり粛々と家で過した。なにしろ寒波である。土曜日の午前中に激しく降った雪は、しかし夕方にはだいぶ溶け、これでもう山陰の寒波は終わりかね、と思っていたら、日曜日の朝はまた雪景色となっていて、1日ズレていたらイベントもなんの滞りもなく開催できただろうに、という忸怩たる思いを抱くこともなく、しかしその雪もまた午後にはだいぶ溶け、ふうやれやれ、いい加減これでおしまいだろ、と思っていたら、最終日である今朝がいちばん分厚く雪が積もっていた。窓の外を見た瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。でもそれも午後の陽射しでやっぱり概ね溶け、そして明日以降、雪の予報というのはいよいよ見当たらなくなり、最高気温が15度などという予報も出てきたので、今度こそ冬は底をついたのではないかと思う。本当に、気色悪いほど休みの日に雪を降らせる冬だった。
 ちなみに雪で行動がままならず、家にこもって作業をしていた果以もあり、この1ヶ月ほど取り組んでいたスイムウェアのパターンの刷新が、無事に完了した。説明しても伝わらないと思うし、もしも書くとすれば当然「nw」ということになるが、3日間じっくり取り組んだからこそたどり着けたような、自身としてはだいぶ劇的で感動的な到達があったので、とてもいい3連休だった。スプリングハズカム。

長くて淋しい寒い冬だったけど

 なんとなく日頃よりアンニュイであるような気がしながら暮している。なにか特別な懸案とかがあるわけではないのだけど、どうも少し、生活に身が入っていない感じだ。山陰の冬にやられているのかもしれない。2月も中旬になれば、あえて探そうとせずとも、春の気配が向こうからやってくるような、そんなイメージがあったけれど、今年はどうもまだその感触が希薄である。冬至から2ヶ月近く経って、日は確実に長くなっているはずなのに、それさえあまり実感しないのだった。
 2月にプールが閉鎖するのは毎年のことなので、それを理由にすることはできない。泳げないことはもちろん僕の精神に暗い影を落としているけれど、そのぶん筋トレに本腰を入れており、われながらせっせと健やかに生きようと励んでいるな、といじましく思う。
 部屋ではもっぱら、筋トレとスイムウェアの製作ばかりやっている。スイムウェアは、「nw」で書いたように、型紙の修正に取り組んでいるのだが、これがなかなか難しい。いじればいじるほど、最初の形がいちばんよかったような気がしてくるのだった。
 これは「hophophop」に書いたことだが、今年はTシャツを新しく仕入れようと思っていて、そのためにとうとうメルカリに足を踏み入れた。これまではスイムウェアの販売をYahoo!フリマでしていることもあり、ものを買ったりするのもそちらでしかしたことがなかった。しかしTシャツの市場はメルカリのほうがだいぶ活況の様子だったので、いよいよ観念してアカウント登録をし、正式に入会した。
 Tシャツは、高校のクラTなどが手に入ったらいいなあと思っているのだが、検索方法が悪いのかもしれないが、なかなかそういうものは出てこない。この世で35人くらいしか持ってないものだから、さすがに売りにくいのかもしれない。非売品という括りで言うと、マラソン大会の記念Tシャツはわんさか出てくる。この世にはこんなにもマラソン大会があり、そこでは参加者にTシャツが配られ、そして売る人はすぐに売るのかと、これまで知らなかった方面の事実に、驚いている。ちなみにそれらマラソン大会のTシャツは、デザイン的にいいものもあるし、本当になんの縁もない、これまでそんな地名なんて聞いたことなかったみたいなマイナーな大会のTシャツを日常で着るというのも悪くないと思ったのだけど、いかんせん素材がコットンではなく、ポリエステルのメッシュみたいになっているものばかりなので、さすがにちょっとなあと思い、購入には至っていない。
 それにしてもメルカリという界隈は、風の噂で聞き知ってはいたけれど、どうやらかつてよほどの混乱があったようで、入会もマイナカードの写真を送信しなければならず厳重だったし、出品者のコメント欄には「ノークレームノーリターンでお願いします」や「神経質な方はご購入をご遠慮ください」などという文面が並び、写真では「このようなほつれがあります」などと言って、とんでもなく小さい糸つれみたいなものが提示してあったりと、治安の悪さと言うか、たぶん荒れに荒れていた時代を是正した結果、いま表面上は平和なのだけど、それは各人の警戒心の強さによってギリギリで保たれているに過ぎず、少しでも気を抜けばすかさず足をすくわれるのだという、修羅の世界の恐怖を感じさせるのだった。これに較べるとYahoo!フリマは牧歌的だなと思う。喩えるなら東京と地方みたいな感じだ。せっかく入会したからにはスイムウェアをメルカリでも販売しようかな、という思いはもちろんあるのだが、そんなわけで二の足を踏んでいる。
 近況はだいたいこんな感じで、なにしろどこかへ遊びに行ったりということがないので、あまりこのブログに書くことがないのである。早く春を感じたい。でも来週はまた寒波だという。嫌だなあ。もういよいよ嫌。ヒアカムザサン。

14年

 ポルガの誕生日を祝う。
 ピイガの1月4日というのは、なにも、ただでさえわちゃわちゃしている正月の、こんなタイミングじゃなくてもいいだろ、という気持ちにさせられるのだけど、ポルガのこの1月22日というのもまた、大寒だし、日が短いし、このあたりの時期は土曜日の休みが少ないしということで、どうもスカッと祝いづらいのだった。そんなの出産の、ひいてはお前の行為に拠るものなのだからしょうがないだろ、と言われればそれまでではあるのだけど。
 お祝いの日の晩ごはんのメニューや、ケーキの趣向について、事前にポルガに希望を訊ねたところ、「回転ずしがいい。持ち帰りじゃなく、お店で食べたい」という答えが返ってきたので、作らなくていいし案外いい手かもしれないと思い、受諾した。さらには「じゃあケーキも回転ずしのデザートのやつでいいんじゃないか。食べたいだけ食べていいから」と提案したところ、ポルガもそれを魅力に感じたようだったので、とても簡潔に丸く収まったのだった。
 というわけで土曜日の夜、くら寿司に行った。ポルガがリクエストするだけあって、お店で食べるのはとても久しぶりで、鮨がレーンを回っているさまを、本当に久々に目にした気がした。店内は混んでいたが、予約をしていたのでわりとスムーズに席につけた。鮨は安定のおいしさだった。ビッくらポンはいちども当たらなかったが、やっぱり外食は外食で愉しいものだな、と思った。鮨のあと、子どもたちはケーキを食べていた。ポルガはふたつ頼み、嬉しそうだった。ちなみにくら寿司は、まさに誕生日のお祝いを対象にした、ホールケーキが装飾とともにレーンを流れてくるサービスを少し前から始めているようだが、残念ながら島根県の店舗にはまだ未上陸なのだった。ポルガは「来年もこれでいい」と言っていたので、来年には利用できればいいと思う(けっこう恥ずかしそうだけど)。
 お祝いはこれで無事に完了のはずだったのだが、個人的になんとなく物足りなさを覚えたので、翌日、日曜日の昼食を、しれっとホットケーキにした。チョコペンも用意し、ポルガのものにだけメッセージも書いた。「ポルガ おめでとう 14」と書くつもりだったが、「『ポルガ 天才』にして」というリクエストを受けたので、そう書いた。ホイップクリーム、はちみつ、アイス、さらにはさつまいもを甘く煮たものや、あんこにきなこなども乗せて、背徳的な味を愉しんだ。
 さらには晩ごはんは、なんだかんだでたこ焼きにした。ポルガの誕生日祝いの日の夕餉はたこ焼きというルーティンに、実は本人なんかよりも僕のほうがよほど拘泥しているのかもしれない。わりと久しぶりだったたこ焼きは、やはりおいしかった。焼きながら、食べながら、マリオパーティーをした。とても愉しかった。
 回転ずしだの、マリオパーティーだの、実につましく、まっとうな、一般家庭の生活の営みだなあとわれながら思う。最近、2008年の、まだ子どもがいない新婚時代の日記を読んでいるのだが、当時はふたりで1日にジブリ映画を3本観たりとかしていて、びっくりする。ベタなことを言うが、第一子が14歳ということは、われわれが親というものになって14年が経ったということである。14年。ずいぶんなもんだ。なるほど年を取るわけだ。あのパピロウが、めちゃくちゃベタなことを言うもんだ。これも加齢によるものか。

24年~25年の年末年始記録 後期編

 7日目。1月3日。昨晩あたりからうっすらとその気配を感じていたが、喉に違和感があり、ゆるやかに体調が下り坂にあるようだった。加えて、しゃがむときなどに下半身に強張りを感じる。前日のランニングによる筋肉痛なのだった。全長3kmくらいの、途中で息が続かなくてだいぶ歩いた、あのランニングで筋肉痛になるのかよ、と驚いた。
 午前中は朝ごはんのあと、そのまま家族全員でのゲーム大会となった。おとといのブックオフで子どもたちが「スーパーマリオパーティー ジャンボリー」を買っていて、「パパもやるか」という誘いをこれまでは断っていたのだけど、この日は気が向いたので応じ、ファルマンも含めて4人でやることになった。前作「スーパーマリオパーティー」も子どもたちは持っており、こういうゲームが好きなんだなあ、と少し意外に思う。僕は美少年の頃、この手の、ミニゲームたくさん系のゲームは、ぜんぜん視界に入らなかった。もしかするとそれは家族の仲の良さとかが影響するのかな、などと思った。正月らしい愉しいひと時だった。
 11時くらいになって実家から連絡が来る。昼にマクドナルドを買うことにしたのでそちらも一緒にどうかという誘いだったので、喜んで受ける。次女夫妻が取りに行ってくれるというので、わが家のオーダーを伝えた。というわけで昼ごはんは実家でマクドナルド。助かった。
 食べ終わったあとファルマンと娘たちはそのまま実家で遊ぶというので、僕だけ帰る。帰って、しばし裁縫したのち、プールへと繰り出す。この日が今年の初開館日なのである。12月29日に行って、1月3日なので、4日あいただけのことか。よくあることだな。29日もわりとそうだったが、この日も家族連れが多かった。案外、真冬でも家族でプールに行くのだな。この時期、僕はプールに行くと言うたびに、妻から奇異な目で見られるのだけど。
 初プールをたっぷりと堪能し、その足で実家に寄り、家族を回収する。もう空は暗かった。遅く起きて、ゲームして、マック喰って、裁縫して、泳いで、そして終わった日だった。薄いと言えば薄い、ハッピーと言えばハッピー、なんかそんな日だった。
 8日目の1月4日は、わりと盛りだくさんだった。まず次女一家が午前中に出発するというので、その見送りに行く。いつものことながら、濃密に絡んだ日々だった。次に会うのは、順当にいけば春休みだろう。
 次女一家の車を見届けたあとで、われわれ一家もすぐに車に乗り込む。今日はこれから出雲大社にお参りに行くのだ。せっかくだからということで実家の3人もこのタイミングで行くことになり、現地で落ち合おうという話になった。三が日はそもそも近付かないのでよく知らないが、4日の出雲大社は、大いに賑わいつつも、近隣の駐車場に車がとても停められないということもなく、なかなかいい具合であった。元日の初詣とは別で、やはり新年、地元民として、出雲大社に行っておかないと、ずっと頭の片隅で気になったりするので、連休中に行くのが得策なのだった。また5日までは、ふだん開放されていないエリアが開放されている、という特典もあるわけだが、今回ももちろん入りはしたのだけれど、毎年のことながら、入ったところで別に感動するような場所ではないのだった。子どもや三女はここでもおみくじを引いていた。僕はもう引かなかった。三女の縁談の項が気になったが、あまり覗き込んだりするのもな、と思って自重した。噂によると、婚活に本腰を入れる決意をしたとのことである。いいご縁がありますように。
 大社のあと図書館へも行って、ずいぶん遅くなった。途中、ご縁横丁の店で焼き菓子を買い食いしたものの、昼を大幅に回ってしまった。帰りにスーパーに寄り、弁当を買って帰った。帰宅してそれを食べたあとは、いよいよピイガの誕生日祝いの準備である。ポルガがポスターを描き、ファルマンが部屋のセッティング、僕は食べ物担当。まずケーキに取り掛かる。イチゴはまったくもって法外な値段であったが、ここでケチったらクリスマスの二の舞だな、と思って十分な量を買い揃えた。そしてクリスマスのケーキが小ぶりだった雪辱を果たすため、高さにこだわり、生クリームのパックを2つ用いる、4段構成の立派なものを作り上げた。これでようやく溜飲が下がった。晩ごはんのメニューは、ピイガのリクエストである、たらこマヨネーズを塗った餃子の皮のピザと、それとメインをどうしようかと悩んでいたが、ピイガの好物であるうどんの入った寄せ鍋にした。出雲大社で、空腹で寒い思いをしたので、もうこれは鍋にするしかない、と思ったのだった。
 というわけでピイガ11歳の誕生日祝いの宴を執り行なう。鍋はもちろんおいしかったし、ケーキは8等分してもひとりひとりのケーキ皿にデデンとすさまじい存在感の塊として鎮座し、その表面や断面にはふんだんにイチゴがあしらわれていると来て、心がとても満ち足りた。なにより味がおいしかった。今年はクリスマスケーキも手製にしようかな、と思った。ちなみに、子どもが誕生日を今年も無事に迎えられたことはもちろんめでたいが、10歳から11歳という数字の変化は、特になんの感想ももたらさないな、と思う。11歳もすくすくと成長してほしいものですね。
 そして最終日、1月5日。この日はもう、体調もじわじわ悪くなっている感があったし、なにより気持ちがダウナーだった。サザエさん症候群の、特大版。だって9連休だったんだもの。自分がフルタイムで勤めに出ている人間であることを、ちょうど体がすっかり忘れかけたくらいのタイミングで、翌日からそれが再開するのである。ひどい! 人の営みっていったいなんだろう。勤めがあるから、尊い尊い9連休があるわけで、書店員時代の自分が9連休なんて得たら半狂乱だったろう、みたいなことを初日に書いたけれど、それで言えば、つい5年前くらいに、9連休どころではない、長い長い休みがあった。じゃああれは夢のようにしあわせな日々であったかと言えば、もちろんそんなことはなかったわけで、休み明けの憂鬱さに苛まれつつ、休みが終わるということに感謝をしなければならない、とも思う。とも思うが、やはり気持ちはダウナーなのだった。この日はもうどこにも出掛けない、と決意をしていたのだが、おやつの時間のあとで、いろいろ憂わずにおれないのだから、せめて冷蔵庫の中が充実していない憂いくらい解決させて明日を迎えようと思い、スーパーに繰り出した。そしてそれなりにいろいろ、明日からの食材を買い込んだ。明日からはファルマンが調理担当に戻る。ファルマンのなんとも言えない料理が恋しい(気がしないでもない)。そんな感傷的な、連休最終日であった。
 最後はどうしたって切なくなるけど、今年で言えば9分の8、つまり正月休み全体の約89%はひたすらに愉しいわけで、早くも1年後のそれを待ち遠しく思っている。それまでせっせと生きてゆこうと思う。

24年~25年の年末年始記録 中期編

 4日目、31日の大みそかは、日中は相変わらず裁縫をしたり、スーパーに買い出しに出たりして、地味に過した。おろち湯ったり館への思いが、この日々の端々で何度も募るのだけど、もちろん実際に行くことはない。行ったところで、在りし日の姿を期待している僕が満足するはずがないことは判っている。切ない。昼ごはんはカレーうどん。
 午後はファルマンと子どもたちが実家へ行ったので、自由に過す。もちろん裁縫や筋トレもしたが、この3時間あまりの中で行なったある行為が、最終日にして、結果として1年間の印象をガラリと変える、劇的な効果をもたらすこととなった。内容は「BUNS SEIN!」に詳しいのでそちらをご覧ください。
 夕方になって家族が帰ってきたので、大みそかの宴の準備をする。紅白歌合戦を眺めながら、5時間あまり過すための、お酒と食べ物。メニューについては数日前からいろいろ思案していたが、午前中のスーパーで、オードブルセットとして、円形の容器に盛られた、スモークサーモンであるとか、鴨肉のソテーであるとか、海老とアボカドのサラダであるとか、もうこれさえあればほぼ他になにもいらないじゃん、みたいなものを見つけ、それを買って帰ったので、とても楽だった。あとポテトを揚げたり、鶏肉を焼いたり。それともちろんポルガ以外の3人は蕎麦を食べ、ポルガは横浜の実家から送られてきた中華ちまきを食べた。
 今年の紅白歌合戦の印象は、言うまでもなく、B'zに尽きた。ファルマンは当然ながら大興奮だったが、ファルマンでなくたってあれは興奮するというものだ。圧倒的なパワーを見せつけられた。紅白はなんだかんだで、数年前のユーミンと桑田佳祐であったり、去年のYOASOBIの「アイドル」であったり、そして今年のB'zであったり、わりときちんと多幸感のあるエンターテインメントを見せてくれるな、と思う。1年の最後に感動があると、それは年間全体にいい作用をもたらすような気がする。すばらしいことだ。
 年が明けて、「2355-0655」恒例の、新春たなくじを行なう。画面でパッパッと高速で切り替わるおみくじの文面を、スマホのカメラで撮影し、捉えた1枚が今年の運勢という、現代的なスタイルのおみくじ。こちらが今年、「大大大大大吉」であったため、とても気分のいいスタートとなった。田中裕二の顔もこれ以上ないほどのドヤ顔であった。
 明けて5日目の元日。ポルガ以外の3人はお雑煮を食べ、ポルガはトーストにジャムを塗って食べた。もはや14年近くも育てていると、食べようとしないものを無理に食べさせようとするような、無駄な労力は使わないのだった。あと横浜から送られてきた黒豆と、スーパーでなんとなくそれだけ買った、紅白かまぼこと伊達巻の3本セットのものを切って並べた。伊達巻が、口に入れた瞬間に時空が歪むくらい甘くてびっくりした。
 そのあと昼前くらいに、毎年なんだかんだで元日に行っている神社へと向かう。地元民なので少なくとも三が日は出雲大社に近付かないのだ。参拝ののち、ここでもおみくじ。これがなんと、大吉なのであった。今年はやけに運勢を褒めそやされることだ。「願望(ねがいごと)」の項目では、「思うまゝです」とまで持ち上げられた。マジかよ。ただしそのあとで「しかし油断すれば叶わず」とあったり、他の項目でも「色に溺れ酒に狂えば凶なり」という注意喚起がなされていたり、多少の懸念はある。色に溺れ、酒に狂えば凶なのか。そうか。しかしそれらの、溺れたり、狂ったりというのは、いったいどのような度合を指すのだろう。ある程度は溺れ、狂うわけで、そのあたりを詳細に教えてほしいと思った。
 初詣のあとは、新春セールのブックオフへと元日から繰り出す。子どもたちは、このあと受け取るだろうお年玉のことを見越して、かなり買い込んでいた。やばい生き様だな。僕は僕で、どういう風の吹き回しか、110円のコーナーに並んでいた、社会契約論であったり純粋理性批判であったりの二次元エロ小説を、とても久しぶりに何冊か(子どもに隠れて)買った。買いはしたが、決して色目的ではないので、これはセーフだろうと思う。
 帰宅して昼ごはんのあとは、この日は夕餉を実家で、カラオケのときと同じメンバーで行なうので、ファルマンと子どもたちは先行してもう移動した。僕は家に残り、やはり裁縫であったり、筋トレであったり、そして「BUNS SEIN!」を書いたりして過した。元日も浮ついたところが一切ない。これはもう願望は思うまゝだな、と我ながら思う。
 夕方になってファルマンが迎えに来てくれ、ふたりで車に乗り込み、そのまま鮨屋に鮨を取りに行く。これももはや毎年定番のパターンだな。そして鮨を持って実家へ。鮨を食べ、酒を飲み、愉しく過す。プールで知らないじいさんに「腹、割れとったな」と言われたエピソードなどを開陳し、それなりに場を盛り上げたと思う。
 そこまでたくさん飲んだ気もしなかったが、帰宅後はなんとなく気怠くなり、運転役だったファルマンの晩酌には付き合えず、飲まずに寝た。なんだかこうして書くと本当に、おみくじを引いた初日から、わりと果敢にギリギリのラインを攻めていることだな。
 6日目、1月2日。のんびり起きてテレビを点けたら、箱根駅伝をやっている。年齢を重ねて、若いときには興味が湧かなかった事柄について、だんだん面白味を感じてきたりする部分もあるが、箱根駅伝はどうも、今年もまだらしい。ピイガと餅を食べている間だけ漫然と眺めたが、食べ終わったところで消した。
 午前中にひとり買い出しに出る。この3日間ほど、ごはんを炊きさえしない食生活だったので、さすがに地に足のついたものが食べたくなって、そういうものを買う。あとピイガの誕生日祝いのケーキ材料として、スポンジと生クリームを仕入れた。あとはイチゴだけだが、これがもう、今年の大河ドラマかよ、と言いたくなるくらい、べらぼうに高いのだった。三が日が終わった4日、少しでも値段が下がればいいのだけども。
 というわけで昼ごはんは、炊き立てのごはんでおにぎりと、キャベツの千切り、ベーコンエッグ、そして味噌汁という、本当に実直なメニューにする。白菜の浅漬けなんかも添えちゃって、しみじみとおいしかった。
 午後は今日もファルマンと子どもたちは実家行き。もはやオートメーションのような次元で行くことだ。帰省してきている従姉妹らは、実家で特にすることがないので、まあうちの子たちが行けば、それは喜ばれるわけである。娘たちも、家にいると「どっか連れてけ」だの「宿題したくない」だのとうるさいので、まあ行ってくれるのに越したことはない。
 ただし今日は、次女一家は今晩は夫側の実家で会食ということで、16時くらいにはそっちへ移動するという話だったので、だったら俺、15時過ぎくらいに実家にランニングで行って、おやつをみんなと一緒に食べて、そんでファルマンたちが乗っていった車に一緒に乗って帰るという、前にもいちどやったパターンのやつをやろうと思い、ひそかにファルマンたちが出発する前に、車に着替えや入浴グッズなどを載せておく。そして14時45分くらいまではいつも通り、裁縫や筋トレをして過したあと、ランニングウェアに着替え、家を出た。こうして走るのはずいぶん久しぶり、たぶん前の冬以来のため、自分の走れなさにびっくりした。水泳とは使う能力がぜんぜん違うらしい。3kmほどの道のりを、たびたび息が持たず歩きながら、なんとか辿り着いた。
 到着は15時15分頃だったので、さあちょうどおやつの時間だろうな、と思ったら、実家には義父とファルマンと子どもたちしかいない。義母と義妹らは、初売りセールへと繰り出したのだそうだ。16時に移動するんじゃなかったのかとファルマンに問い質したら、「その予定で、私もそのつもりで子守りを買って出たけど、なかなか帰ってこないのだ」とのことだった。仕方なくシャワーを浴びたりして過すが、それ以降もなかなか帰ってこない。結局3人が帰ってきたのは16時半を過ぎてからだった。そのあとせわしなくおやつを食べ、われわれ一家は帰った。予定時刻を聞きつけ、呼ばれてもないのに勝手に現れたわけで、文句が言える筋合いではないが、2歳児の相手などしながら、これならもっと遅くなってから来ればよかったなあ、と思った。
 晩ごはんは、こちらも日常を求め、豚肉と舞茸とネギの卵とじに、鯖、そして納豆という、どこまでも優しい献立。白米がひたすらにおいしいのだった。
 そんな中期3日間であった。休みはこれで残りあと3日。まだ3日もあるとも思うし、もうあと3日なのか、とも思う。普通ならダレそうなラスト3日間だが、わが家の場合、4日に誕生日の人がいる関係で、その心配はない。せいぜい愉しく過そうと思う。