歯医者へ

 労働後、歯医者に行く。岡山に来てすぐに通った家の近くの医院ではなく、仕事終わりに行ける、会社近くの所である。会社の近辺に住む地元民の同僚相手にリサーチをし、選んだ。同僚らによるプレゼンで決め手になったのは、「私はここで親知らずを、スポーンと簡単に抜いてもらった」という体験者による証言で、それはいい、となってすぐに予約の連絡を入れた。しかしそれからさらに話を聞いてみれば、結局のところ親知らずを抜くのが楽かどうかは、その人の親知らずの生え方次第であるようで、その証言者の場合はとても素直な生え方だったらしい。その証言者の配偶者はと言えば、親知らずの脚がねじれるようになっていて、それはもう歯茎を切開しての阿鼻叫喚があったという。なんだよ騙された、とげんなりしていたら、証言者はさらに、「簡単に抜いてもらったと言っても、それでも痛いし血は出るんだ」と、フォローでもなんでもないことを言って、つじつまを合せていた。それで話のつじつまが合ったことになるのか、よく判らない。
 それで実際に行ってみて、どうだったかと言えば、予約の連絡の際に、親知らずが痛むのでどうにかしてほしい、ということは言ってあったのだけど、僕の口内を見ての歯医者さんの第一声が「歯石がすごい」で、ああまただ、と思った。僕はいつだってそう言われる。言われるたびに哀しくなる。歯石とか歯垢って、なんか本格的に不潔な感じがある。足が臭いとか、フケがすごいとか、それもまあ嫌だけど、粘り気がある分、それらよりもさらに一段、しゃれにならない、マジな不潔感がある。「不潔にもいろいろあるけど、本当にいちばん不潔な人っていうのは、口の中が汚い人のことよね」と、僕の心の中の心ない婦人が、そんなことを言う。本当に心がない。こんな不潔な口をしている男にも、妻がいるのだ。その妻がかわいそうじゃないか。いや、僕の口が不潔だと妻にどんな不利益があるのか、というのは、ファーストキスもまだ未経験のウブな僕なので、よう知らんけども。
 親知らずももちろん虫歯なのだが(とても当たり前の感じで)、それよりもまずは歯石だ、ということで、初日から歯石の除去が施された。歯石で歯周病で歯茎がひどいことになってるよ、などと言われながら、チュルチュルと微妙な痛みが続く、あの作業がなされた。精神的にも肉体的にもつらかった。前の歯医者では「水分を多く取れ」と言われ、それなりに心掛けているつもりだったのだが、それでも溜まる歯石。これはもはや体質なのだろうな。不潔体質。
 そのあとレントゲンを撮る。件の親知らずは、「まあ虫歯だし、噛み合ってる歯があるわけでもないし、抜いたほうがいいだろうね」ということで、次回あたりに抜く流れになりそうだ。ふたりでレントゲン写真を眺めながら、「こ、この親知らずは、抜きやすいタイプの親知らずですか?」と訊ねたところ、「うん。それは大丈夫そう」という答えが返ってきて、これは歯石や親知らず以外にも、細かいほうぼうの虫歯を指摘されたりして、予想はしていたがショックの大きかった今回の診察の中で、唯一の福音だった。痛いは痛いけど、抜きやすいは抜きやすいのだ。よかった。まじめに誠実に生きてきたかいがあった。徳の量で考えれば親知らずが痛むはずもないし、虫歯ができるはずもないし、歯石が溜まるはずもないのだけど、徳に見合うだけの見返りをガツガツと求めたりしないところもまた、僕の徳なのだと思う。死後にでも再評価の機運が高まればそれでいい。
 そんなわけでこれからしばらく歯医者通いが始まる。これからは心を入れ替えて、会社で弁当を食べた後も歯を磨くし、治療後半年しての検診にも必ず行こうと思う。真人間になりたい。そして食後に歯を磨かない同僚たちを不潔人間だと見下してやりたい。

カラオケと焼き肉

 外遊びができない酷暑なのでカラオケに行く。別にそんな言い訳は必要ないのだが、いちおう言ってみた。唄ったのものを順番に挙げて、雑記も併せて書く。
 1曲目、「カントリーロード」(本名陽子)は、もちろん昨今の「耳をすませば」ブームによるセレクト。しかしこの歌、最初がアカペラから始まるので、まだ歌を唄うモードになっていない1曲目に選ぶのはちょっと間違いだった。ぜんぜん音が取れなかった。メロディが始まってからはまあまあ唄えた。途中でハッと思い至り、マイクを置いて、手のひらを体の前で合わす感じで、聖司の工房で唄う雫風に唄うことにした。そうしたらピイガがいち早くそれに気付き、こちらに駆け寄ってきて、マイクを僕の口に向けてくれた。かわいいし気が利く。この子は将来モテる。
 2曲目、「好‐じょし‐」(坂口有望)は、これも最近のブーム、TikTokでその存在を知り、それなりの回数を聴いたので、唄ってみることにした。僕がこれを唄った次にファルマンが予約していた歌が菅田将暉の「さよならエレジー」で、なんだかセレクトが高校生のカラオケみたいだな……、と甘酸っぱい気持ちになった。小室世代の我々も、なんとか現代の流れに取り残されまいと、ジタバタしているのだ。ちなみに性別が逆だけど。
 3曲目、「狙いうち」(山本リンダ)。この歌の冒頭の男声コーラスによる「ヘイ! ヘイ!」の部分が好きで、そこを聴くために曲を聴いたりする。実際に歌を唄ってみたら、思った以上に唄いやすく、さすがは阿久悠だと思った。ウララの部分をノリよく唄えるか不安だったが、問題なかった。
 4曲目、「マイムマイム」(イスラエル民謡)。カラオケにこれが入っているのは、酔っ払いが狭いカラオケルームで踊る余興をするためだろうか。僕はきちんと歌唱する。シャッテンマイ、ベッサソン、ミーマイネーハーイェーシューワ、と繰り返し唄った。ちょっとステップも踏んだ。
 5曲目、「愛をこめて花束を」(superfly)。最近またこれを聴き込んで、車内で唄い込んでいる。そのため前回よりもちゃんと声が出て、歌詞には出ないシャウトの部分とかも再現できるようになってきた。しかし唄ったあとの疲労感はやはりすごい。
 6曲目、「未知という名の船に乗り」(合唱曲)。ちょっと前に存在に気付き、感動した合唱曲。阿久悠作詞、小林亜星作曲。歌はとてもいいのだが、小学生用なので音が高い。「ちょっと疑問もー」のあたりなど、本当にきつかった。
 7曲目、「はなまるぴっぴはよいこだけ」(A応P)は、なぜかいまさら唄ってみた。いつもの、アニメそのものに思い入れはないけど唄ってみるパターン。趣味を同じくする仲間と盛り上がって唄ったらたぶんとても愉しいんだろうなあ、という気持ちになった。家族の反応ポカーン。
 8曲目は「夏祭り」(whiteberry)。前回のファルマンの歌唱がよかったので、今回は僕が唄わせてもらった。しかし前回のそれほどの感慨は湧き上がらなかった。この歌って、6、7年にいちど聴いて、その瞬間にグワッと心を揺さぶられて、そしてまた6、7年後に聴くべき、そんな歌のような気がする。
 9曲目は「手を繋いで歩こうか」(欅坂46)。このいかにもアイドルっぽい曲が、邪道なのかもしれないが欅坂の中で僕はいちばん好きだ。ユーチューブでライブ映像などを見て、振り付けを少し覚えていたので、踊りながら唄った。ファルマンがファンの男性役をやってくれた。
 最後の10曲目は、悩んだ末に「君は薔薇より美しい」(布施明)を選んだ。やっぱりこれは唄っておくか、という感じで。しかしこの頃にはもう喉がずいぶんと疲弊していたので、ディナーショーでさんざん客イジリをしながら唄う布施明、という設定で、ファルマンを客のおばさん役にして唄った。もう持ち歌すぎて、歌詞を見ないで唄えるので、そんなコントだってできるのだ。
 そんな全10曲歌唱。愉しかった。カラオケは愉しいなあ。なんだってそうかもしれないが、回数を重ねれば重ねるほどできることが増えるので、ますます愉しくなる。もはや巧者になりつつある気がする。著しく家族としか行かないのだけど。
 カラオケのあとは、図書館に行ったり、ショッピングセンターに行って8月の島根帰省のおみやげを買ったり、スーパーで食料品の買い物をしたりして帰る。
 晩ごはんは、ここらでひとつスタミナをつけとこうぜ、ということで、焼き肉にする。その下拵えをしながら、焼き肉のタレがないことに気付き、もう買いに出るのも面倒くさかったので、ネットを見てそれっぽいものを自作することにした。玉ねぎをすりおろしたりして。結果、まあまあ成立しないこともないものができあがったが、自作したから余計においしい、ということはまるでなかった。先日、夕飯がハンバーグだった際、おろしのタレが冷蔵庫になかったため、大根おろしをわざわざ作り、それとポン酢で食べたのだが、食べてみて分かったのは、わざわざ家庭で大根をすりおろすよりも、出来合いのおろしのタレのほうがよっぽどおいしい、ということだ。なんかたぶん、オイシクナルヤーツが多量に入っているからおいしいのだと思うのだけど、おいしくなるのならオイシクナルヤーツを入れれば別にぜんぜんいいと思っているので、こういうのはちゃんと商品として売っているもののほうが、自作のものよりも絶対的に優れているのだ。それを解った上で、それでもわざわざ買いに行くのが面倒だったので、自作した。タレに関してはそんな感じだったが、それでもやっぱり焼き肉はおいしかった。焼き肉の肉感は、焼き肉でしか得られないもので、その得られるものの中には、おいしさ以外に、効用方面で、多分にプラシーボ効果が含まれていると思う。焼き肉を食べたのだから俺はいま元気でなければ理屈としておかしい、などと思う。

酷暑3連休

 3連休だった。毎日35℃超えの、すさまじく暑い3連休なのだった。
 初日は午前中にポルガのスイミングスクールがあり、送りついでに見学した。しかしポルガはもう習い始めて数ヶ月が経過するというのに、一向に上達する気配がなく、見ていてもなんにもおもしろくない。しかも観覧席では、習っている子の弟や妹の幼児らがやかましく、プールという建物の設計ゆえにその声や音は反響して増幅し、とてもその場にいられなくなってしまった。最近とみに大きい音が苦手になってきていて、家でも仕事場でも常に着けられるタイプの耳栓の購入を考えているほどだ。またひとつ、僕の友達作りへの障害が生まれようとしている。
 帰宅して昼ごはんを済ませた後、ショッピングモールに出向いた。半月ほど前、出発してからやっぱり行かないことにしたショッピングモールだったが、今回はいよいよ機が熟した感じがあった。まず覗いたのはおもちゃ屋。これから始まる夏休みに向けて、子どもたちに与えるいい玩具はないかと店内をさまよった。店員に、「子どもたちだけで遊べて、夏休みじゅう飽きないで、喧嘩にもならないで、うるさくなくて、目が悪くならないで、知恵もつくおもちゃはないですか」と訊ねたくなった。もちろんそんなものは見つからず(いちど2000ピースくらいあるジグソーパズルを買いかけるが、寸でのところで嫌な予感が発動して取りやめた)、結果的にアイロンビーズというものに初めて手を出してみた。あの昔からある、粗いドット絵みたいなのを作るあれである。あまりにもドットが粗く、完成したものを見ても、なにをかたどったものであるか容易には判らず、受け手の想像力を暴力的なまでに求めてくるそれは、これまで「やる価値がないもの」として無視し続けてきたのだけど、藁にもすがる気持ちで試してみることにした。なるべく飽きられずに長く持てばいいと思う。もちろん間違いなく家じゅうにあの細かい輪っかのビーズが転がることになるのだろうが、レゴほど踏んだときのダメージは大きくないだろうと思う。そのあと300円ショップに行き、浮き輪などを買う。大人でも使えるきちんとしたサイズなのに300円。昔はこれを2000円とか3000円で売っていたのだから、そりゃあ世の中の景気は良かったわけだな、としみじみと思った。あとそのレジのとき、僕の前に並んだ客が、商品をひとつ出して、トレーに100円玉3つと10円玉ひとつを置いたので、ちょっとびっくりした。これが100円玉3つのみであれば、300円を税込と勘違いしたのだなと理解できるが、310円である。それは消費税3%の計算ではないか。もしかしてこの人タイムトラベラーか、と思った。それからユニクロにも立ち寄って、ずっと欲しいと思っていた「ベルサイユのばら」のTシャツを2枚買う。基本的にレディースなのだが、首が広いとか肩がしゃなんとなっているということはなく、男でも特に問題はなさそうな型だったので、買うことにした。しかも最初1500円だったものが、世間ウケしなかったようでもう500円になっている。500円って安売りカジュアルウェアショップの謎のTシャツよりも安いじゃないか。臙脂の、オスカルの軍服を模したデザインのものと、黒の「ベルサイユのばら」ロゴのものを買った。職場へはどうだろうな。後者は普通に着るが、前者はさすがにちょっと厳しいかな。最期に生鮮食品のスーパーに入って、夕飯の買い物。あっさりとネギトロ丼にしようとマグロのサクを買ったが、油断していて氷をもらい忘れ、屋外駐車場に停めていたサウナのような車に乗ってから「これはまずいぞ」となった。マグロのためにも自分たちのためにも冷房を全開にするが、いくら空気を冷まそうとしても陽射しが照りつけるのでぜんぜん涼しくならない。帰宅までは30分あまりも掛かるのである。これはさすがにまずいと判断を下し、途中にあったスーパーに駆け込んで、追加の刺身を買って氷をもらう。そして悲鳴を上げるマグロのサクもそこへ入れた。今にも熱射病で倒れそうになっていたマグロのサクが、なんとか意識を取り戻すイメージが見えた気がした。
 そんなわけで晩ごはんはネギトロ丼。大人のにはスライスした玉ねぎも使い、さっぱりとおいしく食べた。おいしかった。
 2日目はなんとプールに行った。去年にも一家で行った所。これまで子どもたちが、学校やら幼稚園やらスイミングスクールで「プール」と言うのを、家と会社とスーパーにしか行かない日々を過しながらとても恨めしく思っていた。その恨みをようやく晴らす時が来た。時が来たと言っても、もちろん一家で行ったのである。だから子どもの世話をしながらのプールである。じゃあこれは恨みを晴らしたことになったのかと問われると、いまいち確信が持てなくなる。これでひとりでナイトプールとかに繰り出していたら、迷いなくそうだと答えられるのだけど。直射日光を浴びながらのプールは、まあ気持ちよくはあったが、とは言え1時間が限界だった。ポルガは昨日スクールでも目の当たりにしたが、やっぱりぜんぜん泳げるようになっていなくて、月謝を払って通わせるのが、ほとほと嫌になった。たぶんこれは教室が悪いというより、ポルガが人の話を本当に聞かないのが原因だろうと思う。他人に指導をされて、できないことができるようになってゆく、という体験を味わわせるために教室に通わせている面もあるのだが、どうも性格的にその部分が壊滅的にできないらしい。これは今後に向けても本当に不安の募る部分である。夏が来ての約1年ぶりの水泳は、そんなわけでちょっと暗澹たる気持ちになって終了した。
 帰宅後に昼ごはん。スーパーに立ち寄って天ぷらを買ったので、天ざる。茹であがった麺を流水で冷やそうとするが、青いほうを捻っても、蛇口から出てくるのがわりとぬるめのお湯なのでどうしようもない。氷をいくら作っても追いつかない。
 そのあとは昼寝。35℃超えの屋外プールで泳いだあと、昼寝をしないなんてことがあるだろうか。あるらしい。わが家では、する派しない派が1対3の比率になった。こっちがマイノリティなのだった。信じられない。ひとりで倒れるように寝た。
 起きてから夕飯の準備。夕飯は餃子。3連休ではあるが皮から作ることはしない。それでも十分に美味しい。ホーム餃子はまず餃子というだけで基本的なポイントが高く、皮を手作りすることはそこからさらに点数を伸ばそうとする行為だが、しかしやったところでもうそこまで伸び代があるわけでもないと気付いた。それよりもインターバル短めに餃子を作ったほうが、トータルの幸福度数は高いと思う。
 夜は今日が初回の連続ドラマ「この世界の片隅に」を観た。広島が舞台の話で、ファルマンと方言の話になる。僕が「広島と岡山の方言の区別がつかない」と言ったら、ファルマンが「ぜんぜん違う!」と言って両者の違いを解説してくれるのだが、その解説が出雲弁でなされるものだから、いよいよ頭が混乱した。港北ニュータウンっ子にはレベルが高すぎた。
 そのあとはロシアワールドカップの決勝戦。フランス対クロアチア。なんとなく観ておくべきだろうと思ってチャンネルを合わせるが、かと言ってサッカーの試合を90分観続ける技能はない。途中で録画していた「西郷どん」を挟む。「西郷どん」は2度目の島流しが終わって、ここからようやく本格的な明治維新が始まっていくぞ、というところ。ほぼ半年が終了したタイミングなわけだが、じゃあ俺が観るのはここからでよかったんじゃないかな、と思った。「西郷どん」が終わってサッカーに戻したら、点数がやけにサクサク入り、結果的に4対2でフランスが優勝していた。そうか、と思った。
 3日目はもう特にすること、行く場所もなく、家でのんびりと過した。本当に特になんにもしなかった。休みは2日でいいのかもしれない。午前中に近所のスーパーで少し買い物をし、昼ごはんは炒飯と、昨日の餃子の残りでワンタンを作り、スープにした。
 明日からは僕はもちろん労働で、そして子どもたちはぽぽぽ、とフザけた登校をした後、もう夏休みに突入だ。40日あまりの連休だ。こいつらこれから40日間も家に居続けるのか、と思うと、ファルマンの悲観に同情の念が湧く。くじけず生き抜いてほしい。

大雨週末

 雨がすごかった。岡山に来て以来、こんなに強い雨が降り続いたことはない、と思っていたら、誰も経験したことのないようなレベルの雨なのだった。幸い、住んでいる場所や職場のあたりにはそれほどの被害は出ていない。しかし近ごろちょっと縁遠かった災害というものが、久しぶりに接近してきて、ああそうだ、災害というのはこういう感触のものなのだ、ということを思い出した。精神的にも物質的にも、備えを怠らないようにしたいと思う。
 そんな状況だったので、土曜日は外出できるはずもなく、ひたすら家で過した。そして休日にひたすら家で過すとなると、子どもたちが例の如くあまりにもうるさく、頭が疲弊した。途中で雨が小降りになったので、夕飯の買い物のため近所のスーパーにだけ車で行った。パンが届いていない以外、商品は普通に並んでいた。大嵐が来ると、海産物は変わらずあるのに、パンは来ないのか、とちょっと不思議な気持ちになった。晩ごはんは小さい鰯がたくさん入ったパックが安かったので、それを中心に野菜やきのこなどと、天ぷらにした。おいしかった。
 一夜明けて今日は、もうほとんど雨はやんでいたが、天候が戻ったがゆえにテレビ局のヘリコプターが飛びはじめたようで、倉敷市真備町の浸水の様子などが映し出され、それを見てびっくりしたらしい関東の人間たちから安否を訊ねる連絡が来たりした。
 さすがに2日連続で家に閉じこもっているわけにもいかないので、今日は図書館に出掛けた。次の人の予約が入り、返却しなければならない延滞の本というのがあり、昨日図書館職員から電話が掛かってきて、「なる早で返してほしいけどこんな状況だから無理はせんといて」みたいなことを言われたのだった。良心的な連絡だなあと感心した。それで、ルート的に無理はなさそうだったので、行くことにした。
 果たして道には問題がなかった。しかし道中、先ごろ植えたばかりの田んぼの稲が、水位が上がったせいで浮かび上がり、散乱してしまっている田んぼというのがずいぶんあり、痛ましい気持ちになった。今年もこれから農作物が高くなるのだろう。しかし仕方ないことだな、と思った。
 図書館の帰りに、ケーキ屋に寄ってケーキを買う。こんなときに何であるが、本日7月8日は、僕とファルマンが付き合い始めた記念日なのだった。今年でそれは何年になるのだっけと計算したら、僕が19歳、ファルマンが20歳のことだったので、15年前である。すなわち今年で15周年なのだった。ファルマンとは15年よりもよほど長く一緒にいるような気持ちになっているので、まだ15年? みたいな印象になるが、自分が19歳であったあの大学2年生の夏から15年の歳月が経過したのだと考えると、もう15年か……、という気持ちになる。ちなみに今年は交際開始15周年であると同時に、8月には結婚10周年というのが控えている。節目の年を意識しやすいという合理的な狙いでこういうことになっているのだろうか。もちろんそんなことはない。
 午後は家で過し、やはり子どもがうるさかった。子どもは本当にうるさい。休日の家にいる時間のほとんどは、子どものうるささのことだけを考えている。
 晩ごはんは手羽元に味を付けてグリルで焼いたもの。近ごろ味付けに青じそとか酢とか、そういうものを多く駆使するようになった。分かりやすい加齢だ。あと茄子のソテーに野菜スープ。夕食後にケーキを食べた。誕生日とかではないので、ひとつの大きなものではなく、4人が店で好き好きに選んだものを食べる。僕はフルーツの入ったミルクレープにした。おいしかった。ポルガに、「このケーキってどういう意味のケーキか分かる?」と訊ねたら、チョコレートケーキをばくばく食べながら、「分かんない」という答えが返ってきた。結婚記念日ならまだしも、親の交際開始記念日なんか知らんわな。
 そんな週末だった。まあ大雨で、被害ではないが、影響を受けた週末だった。

君がいた夏は遠い夢の中

 また10時まで寝てしまう。ぐいぐい寝ることだ。ファルマンから、「私の睡眠時間に合わせたらあなたには足りないんだよ」と言われるが、特に合わせているつもりはない。自分の中での最低ラインが6時間だと認識していて(実はそれだと短いようなのだが)、その時刻に寝に行く僕に、むしろファルマンが合わせている形だと思う。なぜファルマンはそんなに寝なくても大丈夫なのか。そしてなぜ老人は短い睡眠時間で大丈夫なのか。それは視野の広さと密接な関係があるのではないかと睨んでいる。睡眠は、活動時に得た情報を処理するための時間だと聞いたことがある。だとすればファルマンや老人のように、活動時の視野が狭くて情報量が少ないと、処理しなければならないものが少ないから睡眠が短くても済むのではないだろうか。これまで睡眠時間が短くて済むファルマンのことを、それだけ生きている時間が長いということだから羨ましい、10年単位とかで考えれば、そのうちの4年あまりを僕が睡眠に費やすところを、ファルマンは3年くらいで済む、つまり同じ10年を生きても、僕は6年、ファルマンは7年を生きるということではないか、という風に考えて忸怩たる気持ちになっていたけれど、人間の場合、生きるというのはただ生命活動をしていればいいというわけではなく、得た情報に対して反応し思考するところに意味があるわけだがら、そう考えるとちょっと悔しさは減る。そこまで伴侶と老人を貶めて、ようやく溜飲を下げる休日の朝。爽やか!
 寝室から居間に行ったら、寝起きの目に陽射しが眩しかった。ピーカンなのだった。今年、出張などでなんとなく春から初夏にかけて慌ただしさがあり、いい季節におにぎりを持って公園へ、みたいなことができなかったので、いまさらながらそういうことをしたいと希っているのだが、あまりにもいまさらで、無情にも今日から7月なのだった。7月か。7月1日だというのに、もう夏に飽き飽きしている。Tシャツに飽き飽きしている。世間の流行りにはわりと疎いくせに、夏に対する嫌気だけ、やけに先取りしている。気持ちはもう9月中旬あたりにある。
 午前中はファルマンに仕事があったので、近所の公民館やスーパーに子どもたちと行く。もちろん車である。車内ではフォークダンスの曲をかける。フォークダンスは子どもたちの嗜好に合ったようで、向こうから「かけてくれ」と乞うてくるほどである。「マイムマイム」がかかると僕がヘブライ語で熱唱するのがおもしろいのかもしれない。シャッテンマイベッサソンヒイアイネイワメシュワ。
 昼前にファルマンの仕事がひと段落したので、全員で出掛ける。もちろん車である。ちょっと遠方のショッピングモールに行くつもりだったが、もう午後で混んでそうだったのと、ファルマンにまた夕方からも仕事が来そうなこと、さらにはショッピングモールで特にこれという目的がなかったこともあり、取りやめ、そこまで遠くない位置にあるスーパーマーケットやドラッグストアで必要なものを買って帰った。栄養ドリンクと、炭酸水と、アイスコーヒーを、それぞれ箱で買う。いかにも夏らしい買い物。液体ばかりで夏バテになりがちなところを、栄養ドリンクでなんとかしようとする感じ。
 昼ごはんは買ってきたタコ焼き。7月2日は半夏生で、タコを食べるのがいいとされるが、どういう由来があるのかと言えば、この時期に植えられた稲の苗が、タコの足のように根をきちんと張るように、という理由なのだそうで、どんな理由だったら満足だったかと言われたら別に具体案もないのだが、それにしたって、そんな理由かよ感があると思った。まあ世の中そんなんばっかりだけど。
 午後は夕飯の下拵えをしつつ、子どもたちと人生ゲームをした。人生ゲーム、買ったときに覚悟はしていたが、やるとなるとすごく面倒くさい。なぜ貴重な休日にこんなことをしなければならないのか。いろいろ払ったりしなければならない状況は、現実の人生でいくらでも味わっているのに、なぜゲームでも味わわなければならないのか、と思う(そして現実に給料日以外の「もらう」マスは皆無である)。人生ゲームを集中してやっても仕方ないので、にわかにまた熱が高まっている「耳をすませば」のDVDを観ながらやった。相変わらず、僕が今回の人生で経験できなかった種類の物語だった。しかし「耳をすませば」が公開されたのはたぶん僕が中学1年生のときであり、だからそのとき僕は雫や聖司や杉村よりも年下だったのだ。それからあれよあれよという間に月日が過ぎて、自分の子どもと人生ゲームをしながら、何十度目か判らない観賞をして、何十度目か判らないあの気持ちになった。なるほどなあ。人生ゲームとはよく言ったものだなあ、と思った。あと杉村の名ゼリフ「わっかんねーよ!」は、本物を聴いてみたらぜんぜんそんな口調じゃなくて、ちょっと情けない風に「分かんないよ」と言っていた。おかしいな。またこの現象か。化かされていたのは俺たちだったんじゃないのか。
 晩ごはんはシューマイ。シューマイは刻むのが玉ねぎだけで、餃子よりもはるかに作るのが簡単なのに、餃子ほど家での調理がメジャーではないため、「へええ。シューマイ作ったの!」みたいな反応を得られて(ファルマンは毎回そんな反応をする)、コスパがいいと思う。もちろんとてもおいしかった。あとスーパーで厚切りのハムと卵が安かったので、夕飯だけど堂々とハムエッグとか出してみよう、と考え、出した。シューマイにハムエッグで、なんか微妙に肉過多な献立になったが、悪くなかった。もちろんちゃんとキャベツの千切りも添えたよ。
 そんな7月のはじまり。ここから夏か。嘘だろ。もう終盤であれよ。