ブログとは
なんとなく芯が定まらない日々を過している。精神衛生があまり良くないということだ。日々の暮しには、いろんな事情があるのだ。だがそんなことは書いても仕方ないので書かない。しかし、それではブログとは一体なにを書くべきものなのだろう。どうもTwitterやminneを始めたことで、他者の反応というものに、これまでよりも囚われてしまっているような気がする。ブログだけをやっていた頃は、反応がないのが当然だった。パッピーナを捏造したり、80年後の人類に大人気だと嘯いたり、「人気があるブログギャグ」をさんざんやったが、それは、ブログというのは人気がないのが当然、という前提があるからできるギャグだった。それはちょっと社会主義的というか、キューバの明るさというか、貧しいのは当たり前で、しかしその中で人々は逞しく愉しく生きるのだ、というような清らかさがあった。それに対してSNSの資本主義、能力主義さったらない。反応、すなわち人気、さらにすなわち作り手の能力は、あまりにも残酷に厳然と白日の下に晒される。うまいことすればちゃんと評価してもらえるということは、裏を返せば評価してもらえないのは作り手がダメダメだからだ、ということを意味し、そこに逃げ道は一切ない。この、作り手がダメダメ、というのは、アップするものの内容も当然あるが、それよりも大事なのは、営業能力、アピール能力で、じゃあもう、それって、あまりにも実社会と同じすぎるじゃないか、と膝から崩れ落ちそうになる。実社会にも友達クーポンというものがあって、あらゆる場面でそのクーポン券が幅を利かせるのが嫌だなあと思って暮しているのに、SNSの世界というのは、もはやそのクーポン券によって組成されていると言っても過言ではない。道理でこんなにも嫌な気分になるわけだ。しかしこの、昔はみんな貧しかったけど生き生きとしていた、と回顧する感じもまた、実社会のそれそのままで、あまり性質のいいものではないな、と思う。そしてこういうことを考えると、ブログに書くべきことはますます判らなくなっていく。記録ならノートに書けばいい。手書きがつらいならワードに作成すればいい。それならばブログとちがってなんだって書ける。冒頭の「事情」だって書ける。なんとなく価値があるような気がする、一個の人間の、嘘偽りのない魂の叫びは、オフラインの記録にこそ生まれ得る。その一方で、他人の評価が欲しいならSNSで気張ればいい。魂なんて売ってしまって、有名人物をフォローしまくって、他人が評価してくれそうなことばかりに心を向けて、名声を求めればいい。いまブログは本当にそのどちらでもない中途半端な位置にあり、意味不明だ。ブログはいま、なにをどう、どういうテンションで綴るべき場所なのだろう。本当に分からない。でもこの分からなさ、存在意義のはっきりしなさって、あれに通じるところがある気がしてきた。あれ。MD。我々は、カセットテープでもなければデータ配信でもなく、モーレツでもなければデジタルネイティブでもなく、無気力ではないけれどどうでもいいやとも思ってない、MD世代である。そしてそんな我々は、手書きでもなくSNSでもない、まさにブログ世代でもある。だとすれば、やっぱりこうして、存在意義を不審がりながら、続けるしかないのか、我々はブログを。ブログの半端さこそ、我々の旗印だから。