通底と書いたが、通底だと、うっすらと全体的にそれがはびこっているかのようなニュアンスに感じられる。2センチくらい、ジャバジャバと水が浸っているな、というくらい。しかし僕の友達がいなさは、もはやぜんぜんそんなレベルではないのだ。天井に顔を向けなければ口が水面から出ないような、そういうレベルで、「友達がいない水」はこの客室に充満している。もはや船自体の転覆も時間の問題だし、さらにいえば僕は室内の配管に手錠で括り付けられて身動きが取れない状態だ。遠くから僕の名を呼ぶローズの声が聞こえてこないかと耳を澄ますが、澄ませば澄ますほど、蛙の鳴き声しか聞こえない。蛙は本当にずっと鳴いている。先日娘らと近所の散歩をしていたら、田んぼには無数のおたまじゃくしが泳いでいた。田んぼに水が張られ、地中から目覚め、鳴き、出逢い、交尾し、産卵し、受精し、無事に生まれたか。営んでいるな、と思う。なんとまっとうに営んでいるのか、蛙。
やけに日記を書かずにいた。なんと半月くらい書かずにいた。あー、書かずにおれてしまうな、と思った。日記を書かなくなったらいよいよおしまいだろうという気持ちと、日記なんか書いたってしょうがないだろうという気持ちが、僕という競技場の中で単行本67巻にしてようやく因縁の対決を迎え、見事なまでの相打ちを遂げた結果としてフィールド上にはなにも残らず、そこには無だけが在った。そして半月の沈黙が生まれた。
それで半月の間はなにをしていたのかといえば、やけに友達と遊んでいた。友達からの誘いというのは、やけに時期が集中するもので、それぞれの友達たちはぜんぜん違う集団なので、共謀しているはずはないのに、そうとしか思えないほど重なるのだった。もっともこれは人間行動学的には説明がつくのだろう。気候とか、情勢とかで、友達と遊びたくなる衝動に駆られるタイミングというのは、集団が違おうがなんだろうが、共通するのだと思う。いわばそれは精神的な意味で、田んぼに水が張られるようなもので、それをきっかけに我々は目を覚まし、活動したくなる。しかし僕は配管に手錠で括り付けられているため、水が張られても地上に這い出ることができず、水底に沈んで溺れ死ぬしかない。だから友達とは遊べない。遊んでいたといったのは嘘だ。嘘をついて本当に申し訳ないと思っている。なにしろそもそも僕には友達がいないのだ。レベチで、あたおかな度合で、友達がいない。