それにしても蛍なんてこの大都会島根に存在するのか、いったいどれほど車を走らせなければならないのか、と危ぶんだが、助手席の義父に案内された道は、僕が日々通勤に使っている道で、そのだいぶ序盤、自宅から10分くらいのあたり(山の中)に、それまでまるで認識していなかった脇道があり、そこを1分ほど、あまりの暗さ、道の狭さ、静けさにおののきながら登ると、「ここだ」と、なんとなく駐車スペースっぽくなっている場所があり、そこに車を停めて、外に出た。山なので、海抜としては上がっているはずなのだが、(深い……)と思った。真っ暗闇、鬱蒼とした木々、そして謎の祠。あまりにも深い、ディープスポットであった。
実を言うと、僕は以前にも蛍を見たことがある。子どもの頃だ。自然の中で蛍を見た、見に行った、という思い出だけはあるが、それが家からどのくらい離れたどういう場所だったのかはまるで分からない。でもきっと、横浜市内か、せいぜい川崎市くらいだろうと思う。さすがに自宅から10分ということはないだろうが、横浜や川崎にだって山はあり、清流もある。意外と田舎だから、というわけではない。自然というのは強くしぶといので、山も清流もない、完全なコンクリートジャングルなどという世界は、作ろうと思ったって作れないのだ。最近しみじみそんなふうに思う。とは言えやっぱり横浜界隈のことなので、その蛍が見られるスポットには、人がたくさんいた。自分もその一員となり、大勢の人々とともに、蛍が明滅するのを眺めた。もうそれはだいたい30年前の出来事だ。
それに対して、30年後の島根の蛍スポットには、われわれ6人以外、誰もいなかった。山の中を走る車の音も聞こえない。あるのはせせらぎの音だけである。蛍という虫は、飛ぶとき、羽ばたく音がまるでしないものらしい。漆黒の中を、ふわ、ふわ、と熱を持たない光が幻想的に浮かんでは消えた。数はそれほど多くなかった。その頼りない少なさが、ますます闇を濃くしているような気がした。
そんな30年ぶりの蛍との邂逅だった。蛍はきれいな水のある所にしか棲息しない、などと言われるが、逆に言えばきれいな水のある場所にはわりと全国的に棲息するわけで、そんなに儚い昆虫ではないのだろうな、と思った。