雪の日

 今年一番だという寒波に備え、水曜日の労働はお休みになった。さらには火曜日も、夕方になる前に終業となったので、なんだかとてもテンションが上がった。たまに吹雪に見舞われながら帰る途中、スーパーに立ち寄り、翌日に家から出ないで済むよう、うどんやパンなどを調達した。ちなみに子どもももちろん休校である。
 雪の勢いがどんどん増す、長い夜を過ごす。なぜ長いかと言えば、帰宅も早かったし、早寝をする必要もなかったからだ。出勤であったならば、道中のあれこれを想定し、どれほど早く家を出なければならなかったか。そんなことを思うにつけ、自分はこの夜をきちんと堪能しなければならないと思った。豚骨醤油ラーメンにビールという、偏愛する晩酌に、さらには冷凍の餃子まで付けた。そして満ち足りた気分で眠りに就いた。
 起きたら窓の外は銀世界だった。なんでえ拍子抜けじゃねえか、これは午後から招集が掛かったりしやしないか、などということは一切なく、きちんと、休業はいい判断だったね、と言える度合で積もっていた。子どもたちは学校から、普段学校にいる時間帯は極力外出をしないよう、というお達しを受けていて、しかし窓から眺める、10センチ以上きちんと積もった雪は、なんとも柔らかそうに光っていて、心が千々に乱れている様子だった。聞けばお達しは、自宅の庭程度なら出てもよい、という注釈付きだそうで、集合住宅なので庭はないが、敷地内の駐車場は庭の範疇と言ってもいいだろうと判断し、車に積もった雪を落とすついでに、連れて出てやる。日が出ていたので眩しかった。久々のまとまった雪に子どもたちはテンションを上げて、玉を転がして作っていた。駐車場のアスファルトに積もった雪はきれいで、土で茶色く濁ったりしない、真っ白な巨大な玉が作られた。もうだいぶ大きくなり、転がすのもひと苦労となったあたりで、「そろそろ頭のほうを作ったらどうだ」と声を掛けたら、「頭なんて作らないよ。これはただの玉だから」という、信じられない答えが返ってきた。そんなパターンがこの世にあるのか。結局直径80センチほどもある巨大な一個の雪玉が完成し、駐車場に置いていたら他の住民の迷惑になりそうなので、自分のところの棟の一角まで運んだ。本当にただの巨大な玉なのだった。
 そのあとは予定通りうどんを食べ、午後は縫製をして過した。前から試作したいと思っていたものを、いい機会だからと取り掛かり、作った。作ったものの、あまり期待していた良さを得ることはできず、これはあんまり作ってもしょうがない、ということを学べた試作、という感じだった。残念。
 それが契機となったか、あるいは結果と言うべきなのか、日暮れ当たりの時間帯から、やけに気持ちが落ち込んで参った。なんでこんなに気持ちが下がったのかと考え、今日の行動範囲が自宅から駐車場までだからではないか、と思った。狭すぎる。さらには日中、同室でファルマンが仕事をしていたため、窓にカーテンが掛けられており、外界の光をあまり浴びなかった。ファルマンにとってはそれらはふたつとも日常のことらしいが、僕にはやけに応えた。スーパーへ買い物くらい行けばよかったな、と夜になって後悔した。
 翌朝も雪は残っているため、いつもより早起きして出発時間を早めなければならない。そう思って、気分が優れなかったこともあり、早めに床に就く。そうしたらやはり眠りは浅く、嫌な夢をたくさん見た。インターフォンの音が鳴ったような気がして目が覚めて、時計を確認したら午前1時半だった。まさか実際に鳴ったわけではないだろうと思いつつ、さまざまな嫌な想像が頭をよぎった。午前中の、子どもたちが頭を作らなかった雪玉のことにも思いを馳せ、おそろしい気持ちになったりした。
 翌日の今日は、大きい道に出るまでは、凍結した道がおそろしかったが、無事に職場に就き、フラットな気分で働けた。日中は日が出て、気温も昨日よりはだいぶ高まったようで、退勤の夕方には、雪はもうだいぶなくなっていた。

ポルガ12歳と20年間

 過去の日記を読み返そうと思い、さかのぼっていったら、本当に最初のウェブ上の日記というものは、どうにもこうにも残っていないようだった。これからまだ精細に日記を読み返していくつもりなので、その中で不意に新事実が明らかになってくる可能性もあるが、どうも最初は「everydiary」というサービスで、「purope★papiroの日記」というタイトルで書いていたようだ。20歳の頃である。20歳。20歳って、そこまで遠くない、大人の、今の自分と地続きのもののように思っていたが、実はぜんぜんそんなことない。だって20歳当時から、もうぼちぼち20年が経つのだ。安室奈美恵のように、20歳で子どもを産んでいれば、その子どもがもう20歳なのだ。そのくらい、20歳と40歳は離れている。クレヨンしんちゃんの「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」において、大人たちがみんな洗脳されて子ども返りしてしまうシーンで、不良の高校生グループである埼玉紅さそり隊の少女たちまでがそちら側に入っていて、でもそれは5歳児から見れば自然なことなのだろうと思ったりしたが、年齢って斯様に相対的なものだと思う。40歳からすれば、高校生はもちろん、20歳だってぜんぜん子どもだ。子どもだと思いつつ、ではいったい自分は20歳の頃からどこが成長し、どこが大人になったのだろう、とも思う。この人は急になにを言い出したのか、と思われるかもしれない。ポルガが本日、12歳になったのである。ひと回りで、春から中学生で、自分たちは今年40歳になる、などの種々の要素が、なんとなく節目めいた思いを誘発させるのかもしれない。当日がちょうど日曜日という恵まれた暦だったので、スムーズにお祝いすることができた。
 午前中に買い物に出て、昨日までの買い物で準備しきれなかったものを買い揃えた。その際、コンビニにも寄って、ポルガのリクエストの誕生日プレゼント、マリオカートのコース追加パスを買った。元からたくさんのコースがあるのに、さらに新しいコースを追加するのである。現代っ子の情報への貪欲さはとどまるところを知らない。思えば自分がいちばん、あのスーパーファミコンのマリオカートをやっていた時期が、ちょうどいまのポルガくらいの頃だった。
 昼にラーメンを食べ、子どもたちが追加パスで追加されたコースを嬉々としてプレイするのを尻目に、ひとりプールへと繰り出した。平日の退勤後に行かないこともないのだが、正月以来、陽の光を感じながら泳ぐ気持ちよさに目覚めてしまい、休みの日中に行きたがる傾向がある。今日も実によかった。
 帰宅後は本腰を入れて、誕生日祝いの準備をする。すなわち、ケーキ作りとたこ焼きの下ごしらえである。ケーキは、どんなものがいいか事前に本人に訊ねたところ、「こんなの」と図で示され、色とりどりの星が散りばめられたケーキをリクエストされたため、受けて立とうじゃないかと、食用色素とゼラチンを用意し、カラフルなゼリーを作製した。薄いパットに広げて固めたそれを、クッキーの星型で抜き(だいぶ難しかった)、それをケーキの上に載せ、残った部分はフォークでぐじゃぐじゃに剥がし、ケーキの周りに散りばめた。かくしてだいぶ再現度の高い、目下「銀河鉄道の夜」にハマっているポルガの希望に沿うケーキが出来上がった。
 夕方、大相撲1月場所の千秋楽がまだやっているような時間からたこ焼きを焼きはじめ、時間をかけてゆっくりと食べる。おいしかった。時間をかけて食べたら、殊のほか食べ過ぎて、一同お腹がいっぱいになってしまい、すぐケーキに取り掛かるのは無理だということになって、腹ごなしついでに、今度は4人でマリオカートをやった。20歳の僕と今の僕は、19も年が離れているけれど、ポルガとは8しか違わない。当時の自分は、こんなようなものだったのか、と思うと、信じられない思いがする。20歳からの日々には、さまざまなことがあった。プラスも、マイナスも、いろいろ待ち受けていた。日記に書いたこともあれば、書かなかったこともたくさんあるが、本人なので、読んでいく中で自然と思い出される部分も多くあるだろう。それをこれから時間をかけて本格的に読み返していくつもりだが、しかしあの20歳の、青年という言葉もまだ似合わないような自分の約20年後が、長女の12歳のお祝いの日に、家族4人でマリオカートができているのだから、この20年分の文章を読み返す作業には、安心感がある。
 しばしのゲームののち、ケーキを食べた。スポンジは、7号のものが欲しかったのだけど、あれはクリスマスの頃にしかなかなか店には並ばないもののようで(なのでピイガのときには手に入った)、さらには6号もなく、仕方なく5号と4号を買って、スリムな2段のケーキにした。スリムと言いつつ、2段なのでどうしたってかなりのボリュームである。それぞれ8分の1を切り分け、僕はなんとか食べたが、ファルマンは残していた(子どもたちはペロリ)。
 かくしてポルガが12歳。もともと変な子だったのが、近ごろは思春期も相俟って、いよいよ混沌として来ている。自己肯定感が、弱いとか強いとか、もはやそういう次元ではなく、超然としたレベルに達していて、他人としてこの子どもを眺めたら、一体どう育てたらこういう考え方の子になるんだろう、と疑問を抱くだろうと思う。どう育てるもなにもない。自己肯定感が超然レベルの子どもは、親の育て方の方針などには左右されないのだ。左右されるような性分なら、ここまで超然とはしない。古代生物と古代文明が好きで、「らんま1/2」が好きで、藤子・F・不二雄が好きで、好きな言葉は「パラレルワールド」。春からは中学生。周りに合わせてうまくやるタイプではないので、他力本願にならざるを得ないが、いい気性の子が周囲にいてくれればいいな、と思う。

焼肉の夜

 義父母が、1月に揃って誕生日を迎える孫ら、すなわちポルガとピイガを祝う名目で、焼肉に連れて行ってくれる。なぜ急に外食かと言えば、島根県の飲食店で使えるクーポン券の使用期限が1月末日までという事情があったようだ。どちらにせよありがたい話である。
 はじめファルマンから、「誕生日のお祝いで焼肉に連れてってくれるって」と伝えられた際、僕は本当にナチュラルに、「よかったじゃん。たくさんご馳走してもらいなね」と反応をしたのだけど、「違うよ、あんたも一緒にだよ」と言われ、「えっ……」となった。焼肉屋に、行くの? 俺が? と、すんなりとは受け入れられなかった。焼肉屋という空間に身を置くことに、どうも抵抗感があるのだった。そもそも肉肉とした肉がそこまで好きではない(脂の多い肉を食べるとお腹を壊しがち)というのと、あとなにより、「肉ー!」とか、「焼肉ー!」みたいな感じでテンションを上げる輩が嫌いなので、そういう人々が集う場所にあまり身を置きたくないのだった。
 そんなわけでファルマンに、できれば俺は除外してくれればいいと思うし、あるいは焼き肉屋以外のお店という選択肢はないだろうか、みたいなことを提案する。したところ、ものすごく面倒くさそうな顔をされた。それはそうだと思う。親と夫に挟まれ、面倒な立場だ。本当に申し訳ないと思う。それでファルマンが親と少しやり取りした結果、前者の要望は却下されたが、お店に関してはなんならそっちで選んでくれても構わない、みたいなことを言われる。それでクーポン券が使用できる店一覧のページを眺めたのだが、どうもしっくり来ない。結局のところ、僕は外食があまり好きではないのだと思った。奢ってもらえるなら、スシローか、かつやの、テイクアウトがいい。いや、かつやなんてもう何年も食べてない。もう重くて食べられないかもしれない。ほら、こんな奴を会食に招待するなよ。しようとするから話が面倒になる。僕は辞退しようとしたのだ。その日はひとり家でラ王のとんこつ醤油ラーメンとビールでいい。それがなによりいい。それが許されなかったからこんなことになった。
 それで結局、焼き肉屋になった。とてもとても久しぶりの焼き肉屋だった。練馬でファルマンとふたりで牛角に行って以来じゃないか、すなわち前の卯年以来くらいなんじゃないかと思ったが、よく考えたら第一次島根移住の際、やはり義両親に連れられて、1歳か2歳かというポルガと5人で、焼き肉屋に行ったことがあった(日記を探したが記録していないようだった)。ぜんぜん覚えていない。なにしろそれだって10年だ。それにしても義両親はよく焼肉屋に行くことだ。昨秋、三女の誕生日祝いでも行っていた。あの世代の陽キャって本当によく焼き肉屋に行く。次女の夫の親もよく行くそうだ。モーレツだとしみじみと思う。
 それで久々の焼き肉屋はどうだったかと言うと、やっぱりまあ、良さがよく分からないものだな、という感想を抱いた。皿にちまちまと乗ってやってくる肉片を、ちまちまと焼き、その焼き加減も、いいのだか悪いのだかさっぱり分からず、火は熱く、うるさく、焼いた肉を味の濃いたれにつけて口に入れ、白米を食べるのは、それはもちろん美味しいのだけど、でもその美味しさは、わざわざこんなことをしなくても容易に手に入るものだろう、という気がした。どうにもこうにも、向いていないのだと思った。
 祝われる対象である子どもたちは、ポルガが幼少期のそれ以来、ピイガに至っては初めての焼き肉屋で、終始きょとんとしていた。肉を焼き、白米を食べ、そして味のまぶされたキャベツを食んでいた。キャベツをやけに食んでいたのがおもしろかった。なんかよく分からない外食体験となったことだろう。
 義両親は相変わらずだった。義父は「最初はタン塩」という、ルールなのかマナーなのかさっぱり分からないそれを遵守しようとし、義理の息子はそういう儀式めいたことを頑なに受け入れず、義母はそんな義理の息子にあきれた様子を見せながら、タン塩を思いきりたれにつけて義父に窘められていた。いつも通りだった。
 そんな焼き肉の夜だった。

2023年が始まる

 新年を迎える。2023。あけましておめでとう。
 大みそかから今日までは、振り返れば特になにを成したということもなく、なかなかに正月らしく、だらだらと過した。
 元日は午前中に、近所の神社へ初詣に繰り出した。そこまで大仰ではないが、おみくじなんかも普通にある、いい規模の神社。ここで引いた去年のおみくじは大吉で、かなりいい内容だった。今年はそれが中吉で、内容もあまりピンと来なかった。でもなんというか、個人的に、去年に較べて今年は、神頼み的な気持ちが薄いように思うので、この印象の違いは、要するにこちらの受け止め方だろうとも思った。調子のいい話と言えば調子のいい話だが、とは言え神的なものって、そもそも機能的に、すがりたいときにだけすがればいいんだと思う。今年はそれがそこまで必要ない心持ちだというのなら、それに越したことはない。
 午後は、実家で親戚の集い(と言っても両親と三姉妹とその家族である)が催され、鮨などのはなやかな食事を愉しんだ。年末年始はオートメーション作業だと以前書いたが、この手の集いにまさにその思いを強くする。長女の夫としての立ち回りが、長年の勤続によってどんどん熟達してきたように思う。
 2日は、午後から妻子らはまた実家に行くというので、僕はひとり、家で好きにした。この午後からおろち湯ったり館は開いていて、少しの逡巡はあったものの、やはり行かなかった。でも時間の過し方としてあまり有意義にできなかったので、結果的には行けばよかった。晩ごはんは、まだ昨晩の海産系の豪華食事が体に残っている感じがあり、簡素なものがいいと思い、豚汁とおにぎりとだし巻き卵にした。これがとてもよかった。
 3日は、会員であるプールが今年の営業を始めたので、午前中から泳ぎに行ってしまう。先週の火曜日に行っているので、実は1週間ぶりでしかない。でもすごく久しぶりのような気がした。いつもは退勤後なので、もうここ数ヶ月、泳ぐとき窓の外はすっかり暗くなっていたのだけど、新年ということもあろうが、明るい陽の光の中の水泳は気分が良かった。今年もたくさん泳ごうと思う。
 夕方から夜にかけては、今年最初の記事、「nw」にアップした「クラショー」を作製していた。これがものすごく愉しかった。ショーツを作るのも愉しかったし、記事を書くのも愉しかった。僕の両輪である裁縫とブログが、高純度でマッチしたな、と思った。新年一発目にして、これが到達点かもしれない。そのくらい愉しかった。
 明けて今日は、連休最終日にしてピイガの誕生日である。今日から仕事の職場と、今日まで休みの職場が、世の中では大きく二派となっていて、それは誰しも4日まで休みのほうがいいだろうが、僕の場合はただ休みが多いほうがいいというだけでなく、実利的な理由から、3日までと4日までではぜんぜん対応が変わってくる。しかしそれであっても、1月4日生まれというのはやはりバタバタするのだった。
 今日の午前中は、出雲大社に参拝した。やっぱり地元民として1年の早い段階に出雲大社には参っておきたい。かと言って大渋滞だろう3が日に行くのは避けたい。というわけでの、観光客はもうあらかた帰ったであろう4日である。期待した通り、そこまでの混雑ではなかった。正月で特別に開く本殿も含め、ひと巡りする。初詣は先によそで済ませたが、とは言え出雲大社はやはり特別な気もして、すっきりした気持ちになった。
 午後はピイガの誕生日祝いの準備。ごはんのリクエストは、「餃子の皮のたらこのピザ」とのことで、実に安上がりだが、それではメインにならない。それ以外はお任せということだったので、ちらしずしを作った。お祝いらしい、いい献立になったと思う。食事のあとはケーキ。クリスマスがお店のブッシュドノエルだったので、誕生日はいつもの、出来合いのスポンジを買ってきてデコレーションしたショートケーキである。7号の、大サイズで作る。オーソドックスなショートケーキは、やはり問答無用においしかった。なにしろ久しぶりだ。クリスマスに食べていたら、こうは愉しめなかったろう。かつては実際にそれをしていた。クリスマスは豪勢に、2段にしたこともある。そして1月にはすっかり食傷気味になっている。数年それを繰り返して、このたびようやく学習した。誕生日プレゼントは、年が明けてからネットで注文をしたので、当然まだ届かない。届いて、届いたものを実際に使ったら、また記そうと思う。
 かくしてピイガが9歳となる。8歳が9歳になったというのは、正直言って感慨を抱きづらい数字なのだが、この数日、従妹の0歳児と触れ合ったので、そこからの成長ということを思うと、ずいぶん育ったものだな、と感じる。ポルガ(ちなみに年女)が絶賛反抗期中で、もとから接しづらいキャラだったのが、もはやコミュニケーション面において壊滅状態になっている中、人懐っこく明るいピイガの存在は、わが家の貴重な救いとなっている。相変わらず騒音めいたやかましさはあるものの、しかし無上に愛しい。これからも健やかに育ってほしい。
 そうして年末年始の連休も終わろうとしている。後半(年始)ややダレたが、それでもほどほどに堪能できたのではないかと思う。74点くらいの出来。明日からは労働。年末年始の休みが待つ12月に対し、1月2月の、明確な心浮き立つ予定のない山陰の冬は、過酷である。せいぜい気丈に生きようと思う。