今年度が終わる

 季節の変わり目のためか、この1週間は疲労感が強かった。土曜日というゴールに、ふらふらになりながらたどり着いたようなイメージ。そのため土曜日は、僕以外の3人は終日実家だったこともあり、思う存分にのびのびと過した。
 午前中はいつものスーパー巡り。3月分の食費は底をついてしまっているので、4月分からの拠出となる。本当はそうならないようにしたいのだが、でも仕方ない。買い物をせずに冷蔵庫の備蓄で週末を乗り切ることは可能だが、土曜日の安売りにケチケチして買い控えをしたら、結果的に損だと自分を説得し、存分に買う。たぶん僕の場合、これがストレス解消にもなっているので、いろんな意味でお得になっていると思う。
 帰宅後は裁縫と筋トレといういつものパターン。かなりストイックにそのふたつを行なった。筋トレはなるべく薄着、できれば上半身などは裸でしたいという思いがあり、筋トレで体が温まっている間は、冬でもわりとそれが可能なのだけど、縫ったり、腕立てしたり、縫ったり、腕立てしたり、というふうにやろうとすると、裁縫のときはさすがに寒いので服を着る必要があり、その脱ぎ着が面倒でしょうがないのだが、いよいよ春も本格的になり、日中の気温も15度を超えるようになってきたため、上半身裸のまま裁縫ができるようになって、嬉しい。腕立てをした直後の、パンプアップした大胸筋で、スイムウェアを作る。この時間が、やけに愛しく、愉しい。
 昼ごはんは、ひとりなのでざるそばで済ます。午前中、プロテインと鈴カステラをダラダラと摂取していたので、ちょうどいいだろうと思った。
 午後は少しドラクエを進め、夕方になってファルマンが、仕事が来たと言ってひとりで帰ってきて仕事を始めたので、その少しあと、僕が子どもたちを迎えに行った。ちなみに3人がなぜ実家に行っていたのかと言えば、義両親は春休みの帰省でやってくる次女とその娘たちを、蒜山あたりで向こうの車と落ち合う感じで迎えに行っていたため、その間の犬の面倒を見る必要があったからで、その報酬としてなのかなんなのか、夕食としてテイクアウトの鮨をもらい受ける。やったぜ。昼がざるそば、夜がもらった鮨で、なんだかとても楽で健やかな1日だった。休日かくあるべし、という感じで癒された。
 明けて今日は、タイヤ交換のために昨日に引き続いて朝から実家へ。タイヤ交換は、この日取りを聞いたときは、ちょっと遅いような気がしたが、何日か前に雪がちらついたりもしたので、結果的にはよかったんじゃないかと思う。それにしても今年の冬はやはり性根が悪く、桜の開花予想も大きく外れ、グダグダだった。雲南をはじめとしていろんな場所で、この週末が桜まつりということになっていたが、今週はたぶん1、2分咲きだろう。かと言って来週ということなると、もう盛りは過ぎているのではないかという感じもある。ちなみに来週は予定があることもあり、去年のような実家の面々との花見は実現しなさそうである。
 タイヤ交換のあと、せっかくだからやろうと予定していた洗車も行なう。数日前から黄砂のことが言われているので、タイミングとしてどうなのかという思いはあったが、黄砂に限らず、「いま洗車のし時でない理由」を言い出したらキリがないので、思い切ってやることにした。2台とも。やったらやったで、まあすっきりした気持ちになった。
 そのあとは昼ごはんとして牛丼をテイクアウトしてきて、一同で食べる。久しぶりでおいしかった。もうすぐ2歳になる、次女の次女は、引き続き人見知り期により、接触がままならない。ファルマンには抱かれるというのに。切ない。ただ2歳の姪と触れ合えないことが切ないのではなく、男という生きものの孤独さを改めて感じ、切ない。
 車のことが終わり、昼ごはんを食べたら、もう僕は実家に用はない。2台で来ていることもあり、僕だけ自宅に戻ることにした。今日はファルマンの誕生日祝いをする予定となっていて、ケーキを作ったりしなければならないのである。また晩ごはんのメニューはなにがいいかと事前に本人に訊ねたところ、お好み焼きというちょっと意外な答えが返ってきて、そうする計画を立てていたので、昨晩と昼をおごってもらった礼として、実家にお好み焼きを焼いて届けてやろうと考えたのだった。というわけで、帰宅後はひとりでお好み焼きを焼き、ケーキを仕立てた。男という生きものは、孤独なのである。あるいは僕がとりわけそうなのかもしれない。
 お好み焼きを届けたら喜ばれた。それはそうだろうと思う。義母はかなり料理をするのが嫌いな人なので(本人に言ったら否定されるだろうが)、餃子やお好み焼きをたまにこうして持っていくと、とても喜ばれる。「ごはんと山芋しかなかったから助かったわー」と言っていたので少し驚いた。「タッチ」で、南が上杉家にイチゴをお裾分けしに行ったら、双子の母が「晩ごはんのおかずに困ってたから嬉しい」と言って南をおののかせるシーンがあったが、それを思い出した。
 夕方になってようやく家族が戻ってきたので、わが家もお好み焼きで夕食とする。キャベツが、春キャベツと銘打っていたわけではないが、ちょっとふんわり気味のもので、そのためか仕上がりも軽やかで、とてもおいしかった。実家の面々も喜んだことだろう。
 そのあと冷蔵庫からケーキを取り出して、ファルマンの41歳の誕生日祝いを行なう。今年は誕生日が水曜日なので、年度を挟むこともあって気持ち的にとても早い感じがあるけれど、こういう形になった。お祝いは今日行なったが、ファルマンが41歳になったということへの感慨は、正式に誕生日を迎えてから書こうと思う。まあ40から41って、本当に特になんの感慨もないけれども。
 そんな感じで、日曜日はわりとバタバタしたけれど、土曜日は本当に伸びやかに過せて、結果としてとてもいい週末だった。そして今年度が終わる。しかし新卒の新入社員がいるわけでもないので、明日から劇的な変化があるわけでもない。子どもの春休みももうしばし続く。タイヤがノーマルに戻り、燃費がよくなるのが嬉しい。平和に暮そう。

主におろち湯ったり館について書いた週末の日記

 今週も土曜日が出勤で、水曜日はたしかに休みだったのだけど、なんか週の半ばの休みって逆にリズムが崩れてじわじわしんどかったりするのだよな、という感じもあり、さらには日々の激しい寒暖差もあって、最終的にはじっとりとした疲労感があった。その疲労感で挫けそうにもなったのだけど、だからこそ積極的に癒すための行動をしなければならないと奮起し、今週の予定として当初から目論んでいた、労働後のおろち湯ったり館行きを決行した。いつも言っているが、職場とおろち湯ったり館は、自宅を挟んでまるで逆方向なので、行くことにするまでがかなり億劫と言うか、このまま帰っちゃえばなにより楽だな……、という衝動に駆られるのである。しかしその誘惑に負けて行くのを取り止めると、翌日の日曜日も、そして翌週も、やっぱり行けばよかったな、行かないといけないな、という葛藤に延々と苛まれることになるので、もはやそれを回避するのが目的で行ったようなものである。こうなると僕のおろち湯ったり館行きは、なにを求めての行為なのかいよいよ分からなくなってくる。
 しかし自宅のすぐ横を通り過ぎて、おろち湯ったり館への道のりへと車を進めてしまえば、もうその億劫さからは解放されて、純粋に愉しみな気持ちだけになる。このときの気分の良さは、やはりおろち湯ったり館の持つパワーだろう。日も長くなって、道中はまだ明るかった。この分なら先週から再開した2階での外気浴も、はじめのうちは、すっかり陽が落ちてしまう前の、暮れなずんでゆくさまを愉しめることだろうとわくわくした。
 無事に到着し、男湯は今回も木風呂のほう。サウナ室が大きいので、こちらのほうが嬉しい。いつもは最初にプールに行きがちなのだが、今日は日没のあわいを求めて、サウナから始めることにした。短縮営業の冬時間も終わり、混雑も緩和されたようで、人の入りはほどほどで、サウナ室の温度も高く保たれ、よく効いた。前回、真冬に来たとき、サウナの熱に包まれながら、鼻腔のあたりがほどけていくという、寒いとき人って鼻腔が縮こまるんだな、と実感する感触があったのだけど、前回よりはだいぶ気温の上がった今回も、淡くその感じがあった。顔の中心にある鼻腔がこうも物理的な感じで収縮するのだとしたら、人相というのも寒いときと暖かいときでだいぶ変化するのではないか、などと思った。サウナ室を出て、水風呂ののち、2階に上がって外気浴。ベンチで横になる。雲が猛スピードで移動するような、めまいまではぎりぎり行かない、アルコールを伴わない酩酊感のようなものが訪れる。これがいわゆる「ととのう」なのかどうかは知らないが、1杯目のビールと同じ、受け止めきるには身構えが必要な、もとい快楽の度合がオーバーして、逆にちょっと負担でさえあるというような、そんな感覚。それが純粋に快感なのかどうかは別として、日常生活では生じ得ない角度から、日常生活で溜まった澱が払拭される感じがある。億劫さをおして来た果以があった、やっぱりおろち湯ったり館は裏切らない、と1セット目のサウナで早くも満足した。そのあと何セットか繰り返し、陽はすっかり沈んで、頃合を見計らってプールにも行ってひとしきり泳ぎ、しっかりと堪能した。今回もいいおろち湯ったり館だった。
 今回の客層の特徴として、珍しく若者のグループが多かった。脱衣所で彼らの会話が耳に入ったのだが、「おろち湯ったり館、すげえよかった」という話をしていて、「「ゆらり」はアレだし、温泉津もナンだし」みたいなことを言っていて、なんだよこいつら、愉しそうだな、と思った。「サウナイキタイ」のユーザー同士の絡みは、AMラジオ感があってものすごく嫌いなのだけど、でも実際にこうして仲間グループでサウナに来ている人たちを見ると、愉しいんだろーな! ずっちーな! という気持ちにさせられる。とても久しぶりに、友達が欲しい気持ちがむくむくと膨らんできそうになった。やはり友達というのは、裂傷部分、欠損部分に入り込む細菌なのだな、と改めて思った。
 帰宅して、休日前の夜を愉しむ。平日はきちんと休肝したので、3日ぶりの酒だ。「秋山歌謡祭2024」や、昨日観られなかった「不適切にもほどがある!」など観ながら、ビールや赤ワインを飲む。白ワインから始め、赤ワインにも手を出し、そして最近はすっかり赤ばかり飲むようになった。白に較べて赤はエグい、と最初は思っていたのだけど、飲むようになったら、白のほうがむしろエグいと感じるようになった。なんとなくこの感覚は通っぽいような気がする。「そう? 白のほうがむしろエグいと思うけどな」みたいな。そして赤ワインに合わせて、肴はチーズだったりする。チーズに赤ワイン! パピロウ変わったね!
 翌日の今日は、特に予定もなく、のんびり。午前中はドラクエ11を進める。世界崩壊後、ドラクエ4ばりの、仲間キャラそれぞれの物語のようなものが展開されていたが、今日でやっと主人公(ちなみに名前はパッピローニ)に話が戻った。ここから仲間との再会が描かれてゆくのだろうな。長いな。
 午後は久しぶりにキララ多伎のほうに行って、海を見たりした。肌寒い曇り空の日本海。これが季語でいうところの「春の海」だな、としみじみと思った。しみじみと思ったが、なにも句は思い浮かばなかった。しみじみと思ったが なにも句は思い浮かばなかった 春の海(字余り)。
 晩ごはんは鶏もも肉のステーキと、新じゃがのフライドポテト、マッシュルームの卵スープ。お前それ赤ワインを飲むためのメニューじゃねえか、という感じだが、そう言えば夕食時は飲まなかったな。ワインを飲むと、そこでもう夜が終わる感じがあるから、夕飯時にはちょっと飲みづらいのだ。このあと「光る君へ」を観ながら飲もうと思う。

春だったり冬だったり

 先週の土曜日は労働だった。それなのに珍しくポルガの部活は休みで、擦れ違いなのだった。それで家族3人はどうしたかと言えば、子どもたちはドラえもんの新作映画を観に行ったという。「のび太の地球交響楽」という、音楽をモチーフにした作品。朝いちばんの上映を予約し、当然ながらファルマンが送迎した。子どもたちがふたりだけで映画を観たのは初めてで、成長を感じさせるような、ただ単にゆめタウンまで連れて行ってもらって席に座ってドラえもんを観ただけだからぜんぜん大したことではないような、いまいち判断がつかない感じである。ちなみに僕は小学生の頃、同級生と田園都市線に乗って渋谷に出て、映画を観ていた。それに較べるとやはりだいぶ箱入りな気がする。
 映画を観終えたあとは、3人でマクドナルドを買って帰るという計画を立てていて、前日にファルマンが予約注文のためにマックのアプリをダウンロードしようとしたところ、例の全世界的なマックのシステム障害が発生していて、叶わなかったという。このあまりの絶妙すぎるタイミングに、思わず「このシステム障害は君がダウンロードしようとしたせいなんじゃない」と軽口を叩いたら、「それ、ポルガにも言われた」と言われた。あなたたちって本当に似た性格してるよね、とも。そんなことはないだろう。傍でポルガの発言を聞いていて、こいつ性格悪いな、と思う場面が多々あるのだが、僕がそう感じるということは、ポルガは僕を凌駕しているということだと思う。結局予約はできなかったが、店舗は営業していたため、無事に購入できたらしい。買ったのはもちろんドラえもんのおもちゃが付くハッピーセット。マイクやボンゴなどが当たっていた。鳴り物+ピイガの組み合わせがうるさいったらありゃしない。あとボンゴという言葉が出るたびに、自分が「たたけボーンゴ」とマツケンサンバⅡの一節を唄い出すのが我ながらウザいと思った。
 日曜日は、午前中はポルガが部活だったため、僕とピイガで例のプールに行った。「例のプール」というと、思わずあの「例のプール」を連想してしまうが、もちろんこれは新宿区の話ではない。島根の、だいぶ山奥にある健全なプールである。2月の、あのいま思えばどう考えても異常だった温暖な陽気の日ほどの感動はなかったが、それなりに愉しく泳いだ。ちなみにこの日の営業から、おろち湯ったり館では2階が開放されていた。なんならオープンめがけて行って、今年度の2階の最初の客になるというのも悪くないと思ったが、昨日のこともあったので、午前中はピイガを受け持つことにしたのだった。
 午後は近場の買い物をこなし、あとの時間は筋トレや縫製をして過した。水着作りを着々とやっているが、思ったよりも数がいかない。そこまで集中してやれているわけではないというのはあるけれど、せっかく売り出すのならやはりある程度はまとまった数をこしらえてから始めたいと思っているので、もどかしい。
 それから平日を2日間やって、本日は春分の日で旗日。そして今日が休みでよかった、と心の底から思うような、何度も目が覚める夜通しの暴風雨であった。気温もぐっと下がり、三寒四温という言葉の範疇を大きく逸し、真冬のようになる。暖冬という肩書を保持しながら、陰ではコソコソとこうして悪事を働く、性根が姑息な今年の冬の、ラストにして真骨頂を見たような気分だ。
 午前中はポルガが部活だったため、残った3人は家でのんびりと過した。僕はドラクエ11をやった。昨晩もやっていて、いま主人公が魔王を突っついたせいで世界が崩壊してしまったところ。世界中の人々が希望をなくしてしまってしゅんとしてしまっている感じが、2017年の発売ながら、その3年後あたりの現実世界のようだな、などと思った。
 午後は買い物と、せっかくなので墓参りを行なう。先だっての葬儀では、式に参加しなかった子どもたちは手を合わせる場面もなかったので、ここらでひとつ、じいさんも含めて顔を見せておこうじゃないかと思ったのだった。偉い。普段ひねくれたことを言いつつも、なんだかんだでそういうところは律儀というか、仁義があるというか、人間的に立派だよね、と思う。誰も言ってきたりはしないので、自分で思っておく。雨はやんでいたが、風があり、線香に火を点けるのに往生し、凍えた。
 帰宅して、おやつはおはぎ。あずきときなこをそれぞれ等分し、ファルマンと分け合って食べた。久しぶりでおいしかった。子どもたちは、ピイガは出せば食べたかもしれないが、ポルガが餅系を拒絶するので、ポルガだけふわふわした洋菓子とかだとピイガがかわいそうだと思い、ふたりともそういうものにした。スポンジとカスタードクリームの、おいしそうなやつ。おいしそうだった。なんで親だけ、お彼岸に義理立てておはぎ喰ってんのかな、と思った。
 晩ごはんはひな祭りのあたりにすっかりやり忘れた、ちらしずし。あと先日の手巻きずしの際に唱えた、すし酢の香りを嗅ぎながら食べると玉子焼きとかたらこマヨとかアボカドとか納豆とかの、本当はすしじゃないやつが滅法おいしく感じられるという説を立証するため、そういったものたちをごちゃまぜにした、サラダというか、もはや酒の肴そのもの、みたいな和え物を作り、サイドメニューとして小鉢で出した。結果はどうだったかと言えば、もちろん美味しかった。テレビではドジャース対パドレスの、韓国で行なわれるメジャー開幕戦が中継されていた。大谷とダルビッシュの初対決ということで、これは観なけりゃいかんと思ってチャンネルを合わせていたが、いざ試合が始まると、数ヶ月ぶりに目にする野球は、そうか、そう言えば野球ってこういうものだったな、という、あまりなにを愉しめばいいのか分からない感じで、早々にチャンネルを切り替えた。選抜も始まったし、いよいよ球春ですね。
 そんな感じの、先週末からの日々でした。

17年

 これは本当にまぐれなのだけど、ちょうど先ごろ「おもひでぶぉろろぉぉん」で読み返した、「ファルマンの父方の祖母が餅を喉に詰まらせて植物状態になる」という、2007年の1月下旬に起った出来事が、このほどようやく終結したのだった。
 丸17年である。上の義妹が成人式をした年であった。下の義妹はまだ高校生であった。つまり当時彼女は17歳だったので、彼女の人生の半分、祖母は眠り続けていたということになる。長い。あまりにも長い。かつて麻生太郎がボヤいたように、もはや魂があるのかないのか分からない祖母に、その年月注ぎ込まれた保険料のことを思うと、日々せっせと働くことって一体なんなんだろう……、と虚無的な気持ちになったりもした。でも17年前のあの日、「とりあえず生かすことは可能」という診断結果に対し、親族が処置を断るという選択肢もなかったわけで、これは本当に難しい話だ。なにより誰もそれが17年も続くとは考えていなかったし。とりあえず親族にも、ご本人にも、おつかれさまでした、という言葉をかけるよりほかない。
 僕は故人にいちどだけお会いしている。在学中に島根に行ったのは1回だけだったと思うので、そのときだ。これぞまさに一期一会というものだな、と思う。もちろんそこまでしっかり絡んだわけではないので、印象というのは特にない。でも会ってはいるんだよな、という感慨はあった。俺もなかなかこの一族の中で古参になってきたものだな、と。
 木曜日の朝に亡くなり、金曜日が通夜だった。仕事を少し早上がりして、僕もホールへと向かった。ほぼ身内だけの式なので、集まっていたのはほとんどが知った顔だった。義父の妹の娘、すなわちファルマンの従妹と久々にお会いした。いつぶりかと言えば、祖父の葬式以来だろう。親戚あるあるの定番、「喪服でしか会わない」のやつだな。関西に住む上の義妹一家はまだ到着しておらず、翌日の葬式からの参加ということだった。また従妹の下には従弟もいるのだが、そちらはいま関東に住んでいるため、明朝の早い飛行機で来るらしい。通夜の儀式はつつがなく終わった。純度の高いメンツなので、僕はどうしたってわりと部外者的な感じで、それでいて通夜というのは、ご遺体とかなり接する場面があるため、なかなか戸惑った。下の義妹や従妹は肩を震わせたりしていたが、ファルマンは一切そんな様子がなく、前日に初めて祖母の遺体と対面したときも、ファルマンは開口一番に「鼻毛」と口に出して言ってしまい、顰蹙を買ったそうだ。ドンマイドンマイ、僕は好きだよ。
 翌日は午前に火葬、午後から葬儀というスケジュールで、午前中のそれにはわが家からはファルマンだけが参加することとなり、午前は子どもとのんびりと過した。ちなみにこのタイミングで鳥山明の訃報が届いており、追悼の気持ちを込めてドラクエ11を進めた。
 昼ごはんを食べてから再びホールへ。上の義妹一家と、従弟が参上していた。上の義妹一家は、日記にも書いたとおり、2月下旬に会ったばかりで、別れるとき、どうせまた1ヶ月後の春休みになったら会うのだなー、などと思っていたら、それよりさらに短いスパンで顔を合わせた形だ。こっちが移動しているわけではないので、居住地が関西であるという距離を感じさせない遭遇ぶりである。それに対して従弟は本当に久しぶり。当然こちらも祖父の葬式以来である。その頃が20代半ばから後半くらいで、いまが34歳。前回のときの記憶が残っているわけでもないが、彼にとっての母と姉が通夜の際に「老けたよ」と評していた通り、なかなか貫禄が出ているように感じた。太ったというわけではなく、なんというか、トーンが落ちたというか、渋くなったというか、若々しさがなくなったというか、くすんだというか、とにかくこれがリアル加齢というものだな、と思った。向こうもこちらを見てそう思ったろうか。彼の数年間がたまたまそれが顕著に出る時期だったのであり、こちらも一律にあの変化が起っていて、身近な人間では気づきにくいが、数年ぶりに対面したら僕も劇的に変わっているように見えているのだ、とは思いたくない。おそろしくてしょうがない。いや、人は老い、そして死ぬものだけども。それを痛感させる最たる行事にまさに参加している身の上なのだけれども、それだから余計にかもしれない、数年ぶりに会う親戚に「老けたなー」って思われるのきっつ、と思った。
 葬式は、ご遺体が遺骨になった以外は、通夜とあまりやることに違いはなかった。お坊さんが戒名の説明をする際、脇の台に置かれた位牌を取ろうとして、水平チョップのようになってしまい、位牌を思いきり倒したのがおもしろかった。ファルマンとは席が離れていたのだが、いまあいつは絶対に笑いをこらえているのだろうな、と思った。ファルマンは昔から、葬式のときはずっと頭の中で志村けんが躍動するのだそうだ。そのあとはひたすらお経。今日は鳴り物要員もいて、やかましかった。どうも一丁前に、音の強弱や鳴らす所作などにこだわりがありそうで、なんじゃそりゃ、と思った。死後の世界のことは生きている人は誰も分かってない、分かりようがない、ということを、みんなもう知っているのに、なんでお坊さんって、あんなふうに「こういうものですよ」という感じで振る舞えるのだろう。あれって一体どういう精神構造なのだろう。嘘を自分で信じ込み過ぎて、嘘と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。あるいはもう完全にビジネスライクなのだろうか。それならそのほうがよほど健全だと思う。そして僕はそのビジネスにはお金は払いたくないな、ということを今回改めて思った。もしもいま僕が突然に死んだら、何宗なのかも知らないが、家のなんかしらの宗派の寺の取り仕切りで葬式がなされることになるが、それは事前にきちんと、決してやってくれるな、ということを意思表明しておかなければならないと思った。僕の葬式は和民かサイゼリヤでやってほしい。そこでみんなリーズナブルに、食べたいものを食べ、飲みたい酒を飲んでほしい。そして願わくば、最後に死体でフィッシュパニック(胴上げ)してほしい。そうすれば、僕は文字通り浮かばれると思う。
 とまあそんなことを思った、久々の葬式だった。式はこれでおしまい。ファルマンのいとこたちと、別れの挨拶を交わす。「また長いお別れだね」と口からついて出たのだが、もうファルマンとこのいとこたちの共通の祖父母は、これにていなくなったわけで、滅多なことを言うものではないが、次の葬儀は次の世代の番ということになり、そう考えれば彼等との再会は本当にだいぶ先のことになりそうだ。その頃にはもうどうしたって、お互いに「老けたなあ」と思わずにはいられないに違いない。
 そのあと納骨などもあったが、火葬と同じくそちらはパスし、義妹の娘を含めて子どもたちを連れて僕だけ先に実家に帰った。ちなみに子どもたちは、通夜も葬式も、ホール内のホテルのような控室で遊んで待機し、式には参加していない。なにしろ故人とはいちども触れ合っていないので、その距離感は仕方がないと思う。17年間というのは本当に長かった。僕は「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっているので、強い実感とともにそう思う。ただそのおかげで、ということもないが、今回の一連の葬儀に悲愴感はほぼなかったと言ってよく、この、親戚一同が喪服を着て式に参加しているのに、故人に対しての喪失感がない感じって、あれだな、これはもはや法事だったのだな、とも思った。葬式と、17回忌を、足して2で割ったような、今回はそんな儀式だったような気がする。不思議な感触で、なんだか早くも白昼夢のような記憶になりそうな気配がしている。