IMAに舞い戻った僕がまずはじめに向かったのはGU(住んでいた頃はなかった)で、そこでTシャツを買った。そして試着室で着替えた。昼ごはんを食べたあたりからの急な気温の上昇で、それまで着ていた長袖の肌着に長袖のシャツがとても耐えられなくなっていたのだ。Tシャツ1枚になったら爽快でテンションが上がった。快適な恰好になったあとは、公園とは反対側の住宅街へと歩みを進めた。かつて住んでいたコーポがあるほうである。ああこんな道だったな、と懐かしかった。とは言えコーポと駅とは徒歩で15分あまりの距離があるため、さすがに途中で引き返した。
そのあとは駅でファルマンたちと合流し、次の目的地へ向けて出発することに。次の目的地は中村橋である。計画ではバスで移動する予定だったが(練馬から中村橋、光が丘を経由して成増へと至るバスがあるのだ)、バス停の位置が意外と遠いようだったので、早々に諦めて電車を使った。大江戸線で練馬駅へ出て、そこから西武線でひと駅。中村橋に降り立つ。ここは僕とファルマンが大学卒業後、はじめに住んだ町だ。
駅前の様子は、そこまで変わっていなかった。西友はもちろんそのままだし、西日本には影も形もない「福しん」も変わらずあった。福しんの向かいにあった回転ずし屋はなくなっていた。「おかしのまちおか」は、我々が住んでいた頃はなかったが、引っ越したあとでなにかの折に訪れたときに、できたことは知っていた(住んでいた頃にあればよかったのに、と悔しく思ったのを覚えている)。そんな様を眺めていたら、先ほどまで一緒にいた友達一家の母と娘が自転車でやってくる。彼女らは光が丘も中村橋も自転車圏内なのだ。そういう位置関係なのだ。
それからみんなで練馬区立美術館のほうへ向かう。練馬区立美術館は昔からあったものなのだけど、何年か前にその建物の前のスペースがリニューアルされて、子どもが乗ったりして遊べるカラフルな動物のオブジェなどが設置され、愉しい空間になっているのだった。このことは数年前に放送され、そのテーマまじかよ、と驚愕した「アド街ック天国」の中村橋特集で知った。それで、そこへ連れていくのと同時に中村橋回顧ができればちょうどいいなあと前から目論んでいたのだ。住んでいたコーポも同じ方面にあり、だからこの美術館や図書館の前を、かつては毎日のように歩いていたのである。しかしこうなる前の美術館前のスペースがどんなものだったのか、今となってはまるで思い出せない。目の当たりにしたその空間は、とてもしゃれた感じだった。子どもたちも喜んで遊びはじめ、一家の母親が見ていてくれるというので、僕とファルマンのふたりで、そこから5分ほどの位置にあるコーポを見にいった。コーポそのものは何の変哲もないものなので、実際に見ても大した感慨はなかったが、そこまでの道のりがよかった。光が丘のプールと一緒で、当時は目に入っていなかったものが見えるようになっていた。当時、特に移り住んですぐは無職だったので時間はべらぼうにあったはずなのに、なんかぜんぜん東京も、練馬区も、中村橋も、いろいろ見て回るということをしなかったな、としみじみと思った。してろよ、と今なら思うけど、当時は当時で、そんなことをする暇がないくらい、自分の中の何かのことで大忙しだったのかもしれないな、とも思った。
充実の思いで散歩を終え、美術館のほうに戻る。美術館は図書館と併設していて、この図書館へはもちろんたくさん通った。しかしさらにはちょっとしたスポーツセンターみたいなものもあり、トレーニングルームなんかもあるということは知らなかった。本当に当時の世界は狭かったのだな。当時の僕がトレーニングジムの存在を知ったところで通ったとは思えないけれど、こんな近距離にそんな施設があることをまるで知らずにいたとは。思わず職員に話しかけてトレーニングルームを見学させてもらった。「トレーニングシューズだけは用意してもらわなくちゃいけないけど、興味を持ったらぜひ来てください」と言われた。通おうかなと思った。
そんなこんなで充実の思い出巡りだった。時刻も夕方になり、さてそろそろ帰ろうかというところで、事件が起る。隣を歩いていたファルマンが、いきなり持っていたビニール袋に顔を突っ込み、嘔吐しはじめたのだ。前兆もない突然の出来事に、えっ? えっ? と戸惑った。ひとまず木陰に避難して休む。まだ母と娘と別れる前だったので助かった。状況や症状から、どうも熱中症ではないかという話になる。母親に子どもたちを見てもらい、僕は水分や塩分のものを買いにいった。しかし水分を与えてもファルマンの調子はなかなか回復せず、立ち上がってもまたすぐに吐き気に襲われていた。これはまずいことになった、と思った。なんてったって練馬である。ここから実家まではどうしたって1時間半ほど掛かる。旅先でのこういう事態の不安さ、心許なさ、というものを痛感する。それでも帰らないわけにはいかないので、しばし休んだところで、母親たちに心配されながら別れ、電車に乗り込む。有楽町線直通の便に乗って渋谷まで出て、そこから田園都市線。どちらも座ることができたのは救いだった。ファルマンは車内でも何度かえずいていたが、なんとかたまプラーザまで持った。それから母の車で家までたどり着いた。たどり着けてよかった。本当にどうなることかと思った。
それからファルマンはひたすら横になった。帰宅した実家には、姪と甥がやってきていた。キャンプから帰ってきたのだ。義兄は別の集いがあるとのことで現れず、姉は風邪を引いたとのことで子どもたちを置いてすぐに帰ったという。昨日のキャンプは、タープに溜まった雨水が滝のようにこぼれるような有様だったそうで、風邪を引くのも当然の帰結だと言えるだろう。僕はそれから改めてドラッグストアに行って、補水液や吐き気止め、ゼリー飲料などを買った。店員に症状を話して相談したら、「今日みたいに雨上がりに急に気温が上がったような日は熱中症になりやすいのだ」と言われた。ここまでの本当に冴えない天候の日々により、熱中症なんて言葉は完全に頭の埒外だった。妻も姉もやられた。どうも今年のGWの気候というのは、あんまりにも性格が悪かったのではないだろうか。あんまりにも。
晩ごはんはピザだった。昨日が春巻で今日がピザ。実家の食事は脂質が多いな。またしてもビールが進んでしまう。ファルマンはゼリーだけ啜り、そのまま寝た。
翌日もファルマンはもちろんヘロヘロだったが、この日は初めからなんの予定もなかったので問題なかった。たっぷり休んだことで徐々に回復はしてきていて、おかゆを少しずつ食べていた。風邪の姉もまたひたすら寝ていたいようで、子どもたちを託しに来てすぐに自分だけ帰った。そのため僕ひとりで4人の子どもの相手をする構図となった。こんなのこれまでの僕だったらウェーとなる場面だったが、2ヶ月前から健康志向になっているので、やってやろうじゃないかと近所の公園に繰り出し、サッカーなんかしたりする。本当に、たまたま僕が健康に目覚めていたからよかったようなものを、だ。これまでの肝臓弱ってるおじさんだったらとても無理で、公園で遊んだ以上の時間を回復のための昼寝に要していたに違いなかった。それに対して現在の溌溂さ! 昼ごはんを挟んで午後にも別の公園に出掛け、さらには地区センターで卓球までして帰った。
晩ごはんは、帰省中に必ずどこかでなされる、定番の手巻き寿司。ここには子どもたちの迎えのために義兄が現れ、一緒に食べた。ちなみに義兄は僕とかなり同じようなタイミングで、「酒をやめてみたら案外そのまま平気になってしまって健康に目覚めた」そうで、運転があるので当然だが、この日もまったく酒を飲んでいなかった(僕は飲んだ)。なぜ時を同じくしてなのかは謎で、世界一どうでもいいシンクロニシティだと思った。「俺よりも4年早く健康に目覚めたのが羨ましい」と言われ、39歳の肝臓弱ってるおじさんが35歳の肝臓弱ってるおじさんを羨むのって、地獄のような図式だなと思った。
食事を終えて、姉一家(の姉以外)を見送る。今回はこんな状況なのでもちろんポルガの姉家への宿泊は実行されない。なかなかにバタバタとした邂逅となった(と言っても僕は1日たっぷり相手をしたけれども)。次に会うのは年末か。
翌日は帰宅の日。ファルマンは昨日の日中をずっと寝たことで、夜にはまあまあ回復し、夕餉の席にも顔を出せるまでになっていた。本当によかった。2日前の夕方の中村橋の絶望感たるやなかった。まったくすごいGW帰省だった。出発と帰宅は早いに限る、ということで新幹線は9時台の便。祖母に別れを告げ、母にあざみ野まで送ってもらった。
岡山まで戻って在来線に乗ったら、だだっぴろい風景にほっとした。光が丘公園とはやっぱりぜんぜん違う、野(でさえないもの)がそこにはあって、そして人がぜんぜん少なくて、ああこっちに安心するようにもう頭がなっているのだなあと思った。