学園祭なのでもちろん車で行くことはできない。鉄道を使う。とても久しぶりの電車。いつぶりか考えたら、5月の帰省以来だった。すごいな。本当に電車乗らないな。車じゃなくて電車移動となると、じゃあ片手にチューハイくらい持ってるべきなんじゃないか、という気がした。車を保有していない練馬在住時代、別にそんなことしていなかったが、ふだんよほど「車=酒が飲めない」という圧迫を感じているのかもしれない。もちろんそんなことはしなかったけども。大学へは岡山駅から臨時バスが出ていたのでそれを使った。岡山駅から岡山大学への15分ほどの道は、その途中にファジアーノ岡山のホームグラウンドもあって、ホテルや飲食店などが数多く立ち並んでいた。とは言っても東京の繁華街よりだいぶ悠々とした繁華街具合ではあると思った。
かくして岡山大学キャンパスへと到着した。もちろん初来校である。そもそも僕は受験の時も、悪質なタックル大学の夢見がち学部オンリーだったので、よその大学というものに来たのが初めてかもしれない。なんとなく所沢校舎っぽい感じはありつつ、でももちろん違って、なんだか不思議な感覚だった。キャンパス内には出店が数多く並び、所属する学生たちがにぎやかに呼び込みをしていた。その学生たちの、若いこと。電車に乗らない暮しをしていることもあり、日常であまり若者というものを目にしないせいか、20歳前後の若者という存在のイメージが、自分の加齢とともに徐々に変化していたようで、僕の思う大学生は、もう少し落ち着いていて、なんなら僕と地続きの存在であるような気さえしていたのだけど、現実はぜんぜんそんなことなくて、20歳前後の若者の若者感は、我々がかつてそうだった時代と、ファッション文化がまるっきり違う(男は三代目 J SOUL BROTHERS風、女は韓国風)こともあり、すさまじくかけ離れた生きものだった。きっと僕のイメージする大学生って、まさにこの大学を出たファルマンの下の妹が、その最終更新であるため、そこに引っ張られていたのだと思う。しかし下の妹は僕とともに加齢し、先日とうとう30歳になったのに対し、「大学生」はいつまでも「大学生」のままで加齢しないのである。だから下の妹とは地続きだけど、下の妹だって大学を卒業してもう8年とかになるわけで、なんかもうとにかく若者は若いし自分たちは年を取った。子どもは8歳だし、18歳の大学1年生に対して自分の年齢はダブルスコアだ。なんかその事実をまざまざと見せつけられて、くらくらした。それくらい大学生は若かった。ただし若くて、デジタルネイティブで、国立大学で、どれほどのものを見せつけるのかと思ったら、出し物はびっくりするくらい素朴(いまとても言葉を選んだ)で、拍子抜けした。時代は変わり、人は年を取るが、学園祭はやってる本人たち以外ぜんぜんおもしろくない、というのは永遠に変わらないのだな、と逆に少し安心した。そんな学園祭体験だった。
せっかく電車で岡山駅に出たのだからと、帰りに少しだけ駅周辺をブラブラして、帰った。帰ったら、慣れない電車に乗ったためか、祭りの熱気にやられたか、あるいは精神に去来するものがあったか、夫婦でやけに疲弊し、ふたりとも倒れるように仮眠を取った。とても気が済んだ。もう自分の子どもたちがやるときまで行かない。もう我々は、親の立場でしか学園祭という場にいてはいけないのだ。懲りた。