山陰も桜が満開である。この週末に花見をしない手はないということで、実家の面々も誘い、土曜日に木次に行くことにした。ちなみに春休みに入り、実家には次女とその娘たち(下の子は間もなく1歳となる)も帰省してきているのだった。
しかし木次に行くにあたり、ひとつ問題があった。木次に行ったら、僕はおろち湯ったり館に行きたくてしょうがなくなる、という問題である。去年の11月、2階露天が冬季閉鎖する直前に行き、そして3月中旬に再開した湯ったり館に、行きたい欲は俄然高まっていた。湯ったり館はいつだっていいけれど、春はまた格別なのである。しかし職場とおろち湯ったり館は、ほぼ自宅を挟んで正反対のような位置にあるため、夕方まで仕事をしたあと、さすがに行く気にならない。ならば週末に、ということになるわけだが、こうして自ら実家を巻き込んでの花見を計画してしまったものだから、その機会も奪ってしまった。春のおろち湯ったり館に行きたい気持ちと、親類で花見をしたい気持ちは、僕の中のそれぞれ違う部門で、それぞれの最優先事項として立案されたものなので、これは仕方ないことだった。
ならばなんとかして、親類で花見に行きながら、僕だけがおろち湯ったり館に行くという方法はないものか、必死に探った。しかしどう考えても、車は義父と、僕のフリードという2台で行かねばならず、僕だけが途中でドロンすることはどう考えても不可能だった。木次に行きながらおろち湯ったり館には行けないという事態を前に、僕の心は千々に乱れた。最終的に、花見を終えて、家族らを実家まで送り届けたあと、僕だけがおろち湯ったり館のためだけに木次にとんぼ返りする、という方法しかないだろうと結論付けた。
そんな折、急転直下の出来事が起る。仕事が、もろもろの事情により、金曜日は半日で終わることになったのである。なんたる僥倖。願いが強いとこんな奇蹟が起るのか、と思った。
もちろん移動距離が変わるわけではないが、夕方からやるのと、昼からやるのでは、ぜんぜん気持ちが違う。意気揚々と長いドライブをして、4ヶ月ぶりのおろち湯ったり館へとたどり着いた。週末に行くつもりが、平日の午後になったのだから、混雑度的にも万々歳である。もとより労働に費やされるための時間だったと考えれば、せせこましく時間を惜しむ気持ちも湧かず、じっくりと、それはもうじっくりと湯ったり館を堪能した。
まずプールで泳ぎ、それからサウナ。サウナでは1回目の外気浴で早くも、いわゆる「ととのう」状態になったので驚いた。湯ったり館との相性があまりに良すぎる。あとこれまでのベンチでも十分に満ち足りていたのに、このたびそのベンチに改良がなされていて、座面の半分が背もたれのように稼働するようになっており、これもよかった。湯ったり館はまだ高みを目指すのか、と慄いた。それでも2回目の外気浴では、これまでのフラットなベンチに横たわった。青空以外、視覚的にも聴覚的にもほとんどなにもない空間で、素っ裸で横になっていると、サウナ後の軽い朦朧もあり、日常では決して味わうことのない境地へと至ることができる。たまらなかった。さらに今回は、そのあとで2度目のプールという、新しい展開も試してみた。これもかなりよかった。サウナ後のスッキリ感を伴いながらの水泳は、また別種の快感があった。そして再びサウナへ舞い戻り、骨の髄まで堪能した。
これで翌日の親類との花見で、おろち湯ったり館に行きたくて終始そわそわする、という事態を避けることに成功した。大成功であった。花見は、本当に見頃の桜を、抜群の気候の中、思ったような食べ物を調達し、ノンアルコールビールを飲んで、朗らかに行なうことができたので、とてもよかった。花見はいいな。春に、桜を、大事な人たちと、愉しむことができるという、そのことにしみじみとした幸福を感じる。
とてもいい、年度末と、始まりであった。