微妙なクリスマス週末

 11月の終わりくらいにクリスマスケーキの予約をしたのだが、受取日、すなわちクリスマスディナーを何日にするか、カレンダーを見て困ってしまった。24日が火曜だったからだ。やっぱりやるなら週末がいい。ファルマンから「私はクリスマスディナーっぽいメニューなんか作れない」という訴えもあり、そういう意味でも週末である必要があった。というわけで22日、日曜日に執り行なうことにしたのだが、自分的にも世間的にも、なんか微妙にまだクリスマスに気持ちが入っていない感じがあって、少しふわふわとした。ここ数年のカレンダーを確認したら、去年までの3年間は、24日が金曜、土曜、日曜と、うまく週末に当たっていたようで、それですっかり平日クリスマスというものに耐性がなくなってしまったらしい。今年からの3年間は平日が続くので、慣れなければならない。
 そんなわけでこの週末は、クリスマス要素と年の瀬要素がマーブル状に入り混じる、なんだか掴みどころのない感じだった。
 金曜日の夜は、職場の忘年会だった。相変わらず、時間が長く感じられた。ぜんぜん愉しく思えない飲み会だが、中心のおじさんが満足げであれば、それはそれで理解できるのだけど、決してそんなこともなさそうで、だとすれば本当に夏と冬のこの会というのは、誰のどんな情念で開催されているのだろう、と思う。唯一の救いとして、食事はわりとおいしかった。飲み物の選択肢に日本酒がなかったので(嘆かわしいことですね)、ビールのあとは赤ワインにした。思えば2024年は僕のワイン元年であったな。
 翌日土曜日は、一家でショッピングモールへと繰り出した。ポルガの部活はやはり秋口までがメインで、3年が引退して以降は明らかに流してる感じがある。また新年度を見据えた春先あたりから活発になるのだろう。ショッピングモールではメガネを見た。今年1年のご褒美として、リーディンググラスを買うことにしたのである。英語圏では老眼鏡のことをこう呼ぶのだそうだ。すばらしいと思う。おい日本人、そういうとこやぞ、と思う。お店の人に要望を伝え、検査をしてもらい、「じゃあこの1.0のやつですね」という案内をされ、何種類かフレームの選択肢のある中でひとつを選び、それを買った。買ってから、この1.0というのは別に僕の視力に合わせて調整をするものではなく、共通の規格なのだ、だからもうそのレンズが嵌まったやつが用意されていて、それを買って帰るだけなのだと、初めてリーディンググラスのシステムを知り、だとしたらこれってわざわざメガネ屋で何千円か出して買わんでも、ネットで、もっと安い値段で、いろんなフレームの選択肢があったんじゃないか、と気づいた。まあ検査もしてもらったし、勉強代と捉えることにしようと思う。帰宅後、本を読むときや、裁縫をするとき、着けたりしている。でも実はまだ、そこまで必要じゃないってことなんだろうな、というのを感じている。まあ腐るものではないので、転ばぬ先の杖的な感じで持っておいて損はないと思った。
 午後はプールへと繰り出した。12月の土曜日の半端な時間だというのに、まあまあ人がいた。もっともこの「まあまあ人がいた」というのは、あくまで島根県感覚なので、よその地区の人に共感してもらえるかは分からない。土曜日の余裕から、たっぷり歩き、たっぷり泳いだ。気持ちがよかった。
 晩ごはんは、ぶり大根と、かぼちゃの煮物。どちらも醬油味。ぶり大根は昨日の時点から心に決めていて、かぼちゃは冬至ということで売り出されていたので、縁起物だし食べておくか、という気持ちで急遽採用した。日本酒が進むいいメニューだった。
 明けて日曜日は、夕方にケーキを取りに行く以外は予定がなく、家でのんびりと過す。ファルマンと子どもたちは午前中に実家に行って、祖父母からクリスマスプレゼントを受け取っていた。ポルガはペン軸とペン先のセット、ピイガは豪華な色鉛筆。なんだかやけに絵を描くのが好きな姉妹のようじゃないか。まあ実際よく描いているけれど。
 午後は、もらったそれらを使って、早速クリスマスポスターを描いていた。ふたりとも個性のよく表れたいい出来だった。また写真に撮ってここにアップしようと思ったら、ファルマンに「ポルガは自分の絵をインスタにアップしたりするし、やめときなよ」と窘められたので、自重することにした。ややこしい渡世だな。
 いい時刻になったので、買い出しとケーキの受け取りに出た。スーパーは、ディスプレイ的にも、人出的にも、クリスマスのような、クリスマスでないような、本当に微妙な感じだった。案外平日でも24日にやる人のほうが多いのだろうか。
 クリスマスのメニューは、ひと晩味を付けておいた骨付きの鶏肉と野菜をオーブンで焼いたもの、フライドポテト、チルドのシンプルなピザに自前で具をたくさん載せたもの、2種のパスタ(たらこクリーム・ペペロンチーノ)、コーンスープ。日付こそ微妙ながら、それでも家族で囲むクリスマスディナーは、格別の多幸感があった。クリスマスが年末にあるのっていいことだな、7月とかにあったらあんまりいいイベントにならないだろうな、などと思った。
 食後はケーキ。箱から取り出してみると、去年と変わらない程度の価格を出しているはずだが、明らかに去年よりもワンサイズ小さくなっていた。それはそうだろうとも思ったし、言い知れぬ格別の侘しさを感じもした。わが家の場合、約10日後にリベンジの機会があるので、その際は大きさにこだわって手作りをしようと心に誓った。
 そんな感じのクリスマス週末だった。子どもたちにプレゼントが届けられるのは当然25日の朝である。なんだか本当に間が抜けた感じだな。来年、再来年のために、どうするのが正解なのか、よく考える必要があるかもしれないと思う。

11月から12月へ

 意外と「おこめとおふろ」を20日間も書いていなかった。ブログを複数持っていて、さらには新しいブログなんかも作ってしまったので、どうしたってこういう事態が出てくる。しかし他のブログならそれも仕方ないかもしれないが、「おこめとおふろ」はなんてったって日常生活の記録のブログである。僕の各ブログにはそれぞれの担当陣営がついているわけだけど、いちばんアクがなくて穏和そうな「おこめとおふろ」担が、実はいちばん苛烈であるというのは、よく知られた話だ。そのため、かの人たちのことを思うと、20日間も放置してしまったことに罪悪感を覚える。体調を悪くした人もいたかもしれない。本当に申し訳なく思う。
 さて11月パピロウ月間が終わり、12月に入った。今年もあと1ヶ月である。信じられない、とも思うし、この1年間の日記を読み返したばかりだから納得がいく、とも思う。
 11月最終日の土曜日は、午前中はいつものように買い出しに出た。いろいろ高い。家のおやつが枯渇したので、この日はおやつをいろいろ仕入れたのだけど、お菓子も以前に較べてすごく高くなった。板チョコが130円とかする。板チョコは100円(あるいは以下)という固定観念があるので、値札を見るたびにぎょっとする。100円という値段は固定にして大きさのほうを変えてくれよと思っていたが、このあと行ったダイソーで実際にガーナの板チョコが売られていて、それはなんか虚を突かれるような、自分が巨人になってしまったと錯覚するようなサイズだったので、やっぱりこれはこれで切ないな、と思った。
 午後は部屋にこもり、裁縫や筋トレをして過した。11月末日の土曜日ということで、これまでの僕だったら当然、2階が閉鎖される最終日でもあり、おろち湯ったり館が頭に浮かんでくる状況だったのだけど、今年はそうはならない。おろち湯ったり館とは、お別れをしたのだ。別れたことに後悔はないつもりだが、輝いていた日々のことに思いを馳せると、やはり切ない気持ちがこみ上げる。
 ところで部屋では、寒かったのでストーブを点けていた。先日灯油を汲んできて、今年のストーブ生活が開始したのである。しかしそうしたら空気が澱んだようで、気分が悪くなり、夕方くらいからやけにしんどくなった。我ながら日々フレッシュに生きているなと感心するが、ストーブを点けたときは換気を心掛けなければならないということを、シーズン初めですっかり失念していたのである。そんな中で筋トレ。ダンベルフンフン。それは参るよ。もしかしてバカなんじゃないか。
 晩ごはんは、午前中の買い物のときが寒すぎたので、想定していたメニューを取り止め、これはおでんしかない、と急遽おでんに差し替えたのだけど(昼ごはんのあとにもう仕立てていた)、そんな具合になってしまったので、おでんを夕飯から晩酌までグダグダやり続けるという青写真は露と消え、これはもう、早めに寝就き、たっぷり睡眠時間を確保して、とにかく体を回復させねばならないとなって、消化不良だった。そんな11月末日だった。
 12月初日の今日は、なんと一家でカラオケに行った。一家で行くのはだいぶ久しぶり。岡山以来だ。もっとも一家と言いつつ、部屋はふたつである。思春期である上の娘は、家族と一緒にカラオケなんかしないのである。さらには「離れた部屋にするよう店員に言え」という注文までつけてきた。実に思春期だなあ。というわけでポルガはひとりで、僕とファルマンとピイガは3人で、それぞれ唄った。3時間。
 僕が唄ったのは順番に、「はたらくくるま1」(のこいのこ)、「黄金の海で逢えたなら」(関取花)、「ぼくドラえもん」(大山のぶ代)、「フクロウの声が聞こえる」(小沢健二とSEKAI NO OWARI)、「トップ・オブ・ザ・ワールド」(カーペンターズ)、「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行)、「ホネホネロック」(子門真人)、「芝生」(ハルカリ)、「唇よ、熱く君を語れ」(渡辺真知子)、「許婚っきゅん」(ano)、「はたらくくるま2」(子門真人)、「彗星」(小沢健二)、「天国街道」(リュックと添い寝ごはん)、「君は薔薇より美しい」(布施明)というラインナップ。大山のぶ代と西田敏行、そしてハルカリはいつもの追悼歌唱。ハルカリがなぜ追悼なのかと言えば、作詞が谷川俊太郎だからであるという、ちょっと意味の分からない執念を見せてみた。昨日やや崩した体調がまだ万全ではなく、どうなることかと危ぶまれたが、やっぱりマイクを持つとそこはプロ、そんな内実などおくびにも出さず、張りのある声を響かせたので、さすがだなと思った。
 しかし帰宅したあとは、また少し寝た。昨日からの合計で半日くらい寝ていないか。これは僕の身体が、冬仕様へとメタモルフォーゼしている現れかもしれない。だったらいい。まだ寒さは本格的じゃないのに、あまりにもつらすぎないかと思っていたが、要するに身体がまだぜんぜん冬のそれになっていなかったんだろうと思う。そう信じたい。
 あと身体的なことでついでに言うと、流行語大賞の「ゴーーーン」の項で述べたことだが、10月終了時点で今年の射精回数は、2023年(記録108回)ととてもいい勝負だということが判明し、ここからはちょっと意識的に回数増量な感じで行こう、去年の僕より今年の僕は1年分だけ年齢を重ねているけれど、こと年間射精回数に関しては、去年の数字はいまさら増やせないが今年はがんばれば増やせるという圧倒的なアドバンテージを有している(今後もこのアドバンテージは有し続ける)ので、おとなげなく1年前の若い俺をねじ伏せようと思考し、そういう発想のもとで11月を過した結果、どういうことになったかと言えば、実にすばらしいパフォーマンスとなり、もしも僕に射精のパーソナルトレーナーが付いていれば、とても褒められたに違いない数字を叩き出すことに成功したのだった。11月の旧称は霜月だが、僕にとってはシモ月だな(笑)、ってなもんで。なるほどこれならば「おこめとおふろ」を20日間書かなかったのもやむなしである。これにより12月に相当な余裕ができた。射精貯金である。もはや取り組む上での焦点は、来年のことも鑑み、どのあたりの数字で打ち止めにするか、という次元になっている。ゆとりがあるっていいな。
 まあそんなような、11月から12月への移行でした。愉しく暮しています。

嬉しいのんびり週末

 先週の3連休がバタバタだったので、4日間の労働をこなして手に入れた、特になんの予定もない週末が、とても愛しい2日間だった。
 土曜日の午前中は、いつものスーパー巡りに繰り出し、そのままプールへも赴いた。ここまでの4日間は、プールに行くこともままならなかったので、久々である。午前中の陽射しが水面を照らし、気持ちがよかった。
 午後は家族で少しだけ買い物に出たが、基本的に家の、それも自室にこもり、好きなように過した。岡山で手に入れたニット生地や、ネットで注文した水着用の生地など、いま新しい生地が充実しているので、とても満ち足りているのだった。注文する前もだいぶ長い期間ワクワクしたし、届いて以降は当然テンションが上がるので、非常にコスパがいいと思う。それの裁断をしたり、合間で筋トレをしたり、のんびりと過した。午前中にプールをやったことでの、うっすらとした倦怠感もまた、いいエッセンスになっていたと思う。
 晩ごはんは、手羽元のフライドチキンと、フライドポテト、そして納豆のパスタ。最初はもちろんビールだけど、そのあとの赤ワインのこともだいぶ念頭に入れているメニュー。ワインの情趣というものが、最近になってようやくきちんと理解できてきた感がある。
 プールに行って、裁縫をやって、揚げ物を食べて赤ワイン。至福の休日であった。
 翌日の日曜日も、引き続きゆったり過す。午前中はcozy ripple名言・流行語大賞のための読み返し作業に勤しみ、無事に11月までの記事を完読した。読みながら候補語をピックアップしていくわけで、この時点で選考はすでに始まっている。さらには、パピロウヌーボでのプロ角と優香の掛け合いなどもうっすら考えはじめている。愉しい。
 午後は、ポルガが英検の受験だったので、その送迎がてら、出雲ドームで行なわれていた産業博というものに3人で赴いた。この企画には、なんだかんだで3年連続で顔を出している。この3年、毎年規模が大きくなっているのは、コロナ明けのグラデーションということなのだろうな。今年の様子が、本来の状態なんだろうと思う。ファルマンとピイガは、それなりに愉しんだようだった。僕は出雲ドームに行く用事があると、大抵の場合、その向かいにある生鮮食品おだというスーパーに行くことのほうが主目的になり、今回もその例で、ひとり買い物を済ませてからドーム内に足を踏み入れ、ふたりを探しがてらぐるっと回ったら、もうそのあたりでポルガから試験終了の知らせが来たので、さっと切り上げた。
 晩ごはんは、なんとなく食べたい機運が高まったので、少し面倒だったが、かつ丼にした。満足のいく出来になったのでよかった。
 岡山に行ったりするの、それはそれでワクワクするが、こういう大した用件のない週末の尊さというのもすさまじいものがあるな、と思った週末だった。

11月の岡山へ

 岡山に行ったのだった。3連休の最終日、11月4日のことである。
 前回はたしかGWだったよな、とぼんやり思っていたが、いま日記で確認したら、4月初頭であった。ということは7ヶ月ぶり。11月に入り、今年って経過がやけに早くないか、と思うことがたびたびあるのだけど、この7ヶ月にもだいぶ驚く。
 行った目的はもちろん、ポルガがいつもの友達と遊ぶためであり、他の3人はその送迎ついでに岡山で半日を過すという、前回と同じパターンである。ちなみに先月に亡くなったファルマンの母方の祖父のことも、もちろん頭には思い浮かび、告別式にはファルマンしか参加できなかったので、どこかのタイミングで墓参りに行かなければならないとは思っているのだが、今回はまだ四十九日前ということもあり、そちらの用件は見送った。
 島根から岡山への所要時間は、2時間半から3時間といったところで、その往復をしつつ、中学生がとりあえず満足する程度の時間、遊ばせてやらねばならないので、出発時刻はどうしたって早くなる。7時半になる前に車に乗り込み、車内で朝ごはんを食べながら移動する。山間部の霧がすごかった。
 友達とはいちおう11時の待ち合わせにしてもらっていたが、滞りなくたどり着けたので、連絡して30分早めてもらった。最寄り駅に戻ってくる電車の時刻は事前に定めてあるので、合流が早ければその分だけ遊ぶ時間が稼げるのだった。
 というわけでポルガを降ろし、ここから5時間ほどを、なんかかんかして過さねばならない。これについて、7ヶ月前はわりとあぐねて、かつての職場の方面へ車を走らせるなどという錯綜をしたが、2度目ともなると慣れたもので、というより達観し、今も密接にコミュニケーションを取っている友達のいるポルガ以外、残りの3人は、引っ越しの時点で7歳だったピイガはしょうがないとして、7年あまりも暮した岡山に、実はもはやなんの感慨もないのだ、会いたい人もいなければ行きたい場所も特にないのだ、薄情な人間なのだ、という厳然たる事実を正直に認め、ジタバタせず、7年暮した経験などない人とまったく同じ時間の潰し方、すなわちショッピングモールに行く、という選択をした。全国津々浦々、どこにもあって、そして決して裏切らない、天下無敵のイオンモールである。イオンモールの包容力は、どんな人間も取りこぼさないのである。
 もちろんイオンに行ったからには、パンドラハウスに行って、ニット生地を見るのは欠かせない。暮していたときにはまるで享受しなかった恵み。島根の手芸店では、ニット生地はほとんど売ってない。ただし今回は時期が悪かったか、収穫はそこまでではなかった。冬用の生地が売り場の面積を多く取っていて、ショーツに使えそうな薄手のニットは肩身が狭そうだった。まあしょうがないな。次に行くときは、暖かくなっている頃だろうから、次回に期待だ。
 やがて昼時になったが、前回フードコートで失敗したのでなんとなく忌避感があり、時間もまだまだあったので、今度はアリオに移動することにした。車で15分ほど。それにしても岡山の人は本当にウィンカーを出さない。ジョークじゃなく出さない。もちろん全員が出さないわけではないけど、「出さない人が多い」って、とんでもない土地柄だと思う。
 このタイミングでアリオに行ったのは、昼ごはんを竹清にしようという魂胆があったからだ。香川県のうどん屋。当時はけっこう利用していた。でも久しぶりに行ってみたら、当時と変わりはないのだけど、行列だし、座席の確保が大変だし、うどんはセルフで湯がかなければならないし、つゆも自分で注がなければならないしで、わりと大変じゃないか、と思った。なんで幼児ふたりを連れて、たびたび来ていたんだろう。今はもう、上の子は友達と遊ぶようになり、下の子も小5で、楽になったものだと思った。ちょうど隣の席に、夫婦と幼女ふたりという、当時のわが家のような一家が来て、お母さんは娘たちの世話をし、お父さんがうどんの世話をしていて、どちらもなかなか大変そうで、こんなんだったなあ、と思った。ちなみにファルマンは今回、「初めてうどんを湯がいた」と言っていて、本当に当時いちども、うどんのほうの作業はやらせることがなかったらしい。湯切りが不十分だったらしいファルマンの丼のつゆはなんか濁っていて、「味が薄い」と言っていた。やらせると途端にそうなるのかよ、と思った。
 久しぶりのうどんを堪能したあとは、アリオやアウトレットをウロウロし、ソフトクリームなんか食べたりして過した。まあ本当に、ショッピングモールで休日をこなす、という感じに過した半日であった。
 ぼちぼちいい時間になったので、ふたたびかつての最寄り駅へと戻り、ポルガを待ち受ける。無事に予定通りの電車で戻ってきた。予定通りの電車とは、すなわち16時半到着の電車である。ここから島根に帰るのだ。なかなかじゃないか。3連休の、初日か、中日だったらいいだろう。しかしいろいろ都合もあって、最終日なのだ。翌日は労働なのだ。帰り道は西に向かって走るから、夕暮れが長く続いた。
 帰宅は20時前で、時刻としてはそう深いわけではないけれど、いかんせん疲れた。労働は半覚醒でやり過ごしたし、それなのにその晩から取り掛かった日記の文章は、ご覧のとおりに大いに崩れた。2日経って、ようやく回復したように思う。この日に限らず、盛りだくさんの3連休だったのだ。無事に済んでよかった。

らしいぜ松江

 子どもが、試験であったり、部活であったり、学校以外の活動であったりで、なかなか都合が合わないのだが(ちなみに両親は、仕事がない限りは一切の対外活動がない)、3連休初日の土曜日は珍しくなんの予定もなかったので、気候もいい折、ここでレジャーをせねばならないという使命感に駆られ、実行した。
 大きな公園に行って遊び、お弁当を外で食べる、というのが至上命題であったわけだけど、その一方で、松江にある県立図書館に行きたいという個人的な希望もあり、この両立にとても腐心した。というのも、松江方面にはそういう、小学校高学年と中学生を満足させるような、アスレチックやアクティビティのある大規模な公園というものが、まるでないのだ。松江って本当に、身内なのか外部者なのか我ながら判断がつかない立場からいうのだけど、なんか絶妙にうまいこといっていない街で、大都会でもなければ田舎でもなく、どちらのメリットも見事に取りこぼしている感があって、今回の目的地選びでもしみじみとそれを痛感した。いっそのこと隣接する安来市や鳥取県は境港市、さらには米子市まで足を延ばして、ファルマンも子どものみぎりに遊んだという、大型アスレチックのある大山まで行くのはどうかとさえ考えたのだが、さすがにそれは1日の行程としてはハード過ぎるだろうと考え、やめた。結果として、遊具的なことはすっぱり諦め、松江市街にある、とりあえず野原はありそうな公園に目星をつけた。ちなみに地図を眺めているときに目についた島根大学が、もしかしてと思い検索したところ、学園祭はこの3連休の後半2日だったので非常に惜しかった。去年の広島大学のようなことにはならなかった。ちなみにわが家は、なんだかんだでこれまで岡山大学、広島大学と学園祭に行っているのだった。別に強い情熱があるわけではぜんぜんないのだが。
 というわけで、とにかく松江に向けて出発である。出発前、おにぎりを拵える。ずいぶん久しぶりだ。一家でのお出掛けの前におにぎりを仕立てるという、その行為が好きである。そしてそういうことに固執するから、子どもが育ってその機会が失われつつあることに寂しさを感じ、厄介なのだと我ながら思う。
 行程は、まず県立図書館。ドライブも兼ねて、高速道路は使わず地道で行く。昨晩に新しいプレイリストを作ってみんなで曲を入れたのだが、シャッフル再生した曲は前半、なぜか僕とファルマンのものばかりが立て続けに流れ、しかもその選曲は嫌がらせのように盛り上がらないものだったので(僕は最近お気に入りに追加した曲を中心に入れたのだが、客観視して初めて、近ごろの自分がダウナーな感じの女性シンガーの曲ばかりを聴いているということに気付いた)、残念だった。専用のプレイリストを作って家族でドライブという行為に、移動がやけに愉しかった夏の帰省の幻影を見てしまっているのかもしれないと思った。宍道湖は陽射しに照らされてきれいだった。
 島根県立図書館に来たのは、実は初めてではない。初めて来たのは第一次島根移住の際で、確認したら2012年9月のことであった。実に12年前。辰年のときだけ来る一家。12年前なので、行く前はぜんぜん当時の情景が思い出せなかったが、行ってみたら、そう言えばこんな感じだったかな、という感じがあった。前回ここに来たのは、ファルマンの仕事の資料がここにしかなかったからだったが、今回の来訪の目的は主に僕で、仕事ではなく趣味の、いわゆる性的だったりする本が、検索すると県内でここにしかない、というのが数点出てきたので、行くっきゃないとなったのだった。そして、いちど行って利用者カードさえ作れば、あとは地元の市立図書館で受け取りや返却ができる仕組みがあるに違いないという狙いもあった。入館し、まず申し込みをする。用紙に記入をしてカウンターに持っていくと、「おふたりは既にカードを作られていますね」と言われたので驚いた。当時は実家の住所だし、なにしろもう12年間利用がなかったのだから、てっきり失効になっているものと思っていた。これで失効にならないのだとしたら、死去した人間のデータも残り続けるわけで、いつか県立図書館の利用登録者数は日本の人口を超えるのではなかろうか(1日に5人くらいは増えているだろう)。おかげで僕とファルマンのカードだけは、ラミネートなしの仮発行のものとなり、「家で以前のものを探してください」と言われてしまった。そんな出来事もありつつ、しかし県立図書館の蔵書はやはりなかなか充実していて、あらかじめメモしてきたものに加え、その本のある書棚に行けば、その近辺にも見逃せないものがあったりして、とてもいい収穫だった。わざわざ行った果以があった。ちなみに今回の本から早速、返却は市立図書館でできる仕組みでの貸し出し処理をしてもらったので、今後こちらまで足を運ぶ機会はそうそうないだろうとは思う。
 図書館のあとは、昼ごはんを食べるために公園へと向かう。悩んだ末に選んだのは、松江の中心地から少し東側にある、楽山公園という所。遊具がないというのは織り込み済みだったが、緑豊かな遊歩道があります、といった感じで紹介されていたので、それならばいい景観で弁当を食べるようなスポットもあるだろうと思ったのだった。ところが、である。駐車場に車を停め、こちらがたぶん公園エリアということだよなあ、というほうへ足を進めてみると、あまり整備されていない感じの、饐えた臭いのする池と、ひたすら生い茂るうす暗い林ばかりで、とても食事ができるような感じではなかった。もちろん子ども連れなど誰もいない。奥に野球場があり、少し覗いたら草野球をやっていたが、それも完全に選手ばかりで、周辺で選手の家族がピクニック気分で和気あいあい、ということも一切なく、なんだか非常にエンタメ性のない、必要最低限の、こう言っては何だが、非常に松江らしい要素の横溢した公園であった。仕方なく駐車場のほうへ戻り、仕方ないから車で食べようかねえ、などと話していたが、駐車場の脇あたりは、それでもいちおう野原のようになっていて、座るための場所などもあったので、そこで食べることにした。車を降りて、公園に繰り出す前には、目に入らなかった場所。でも実はそこがこの公園のピークであったという。ロケーションとしてはそんな感じだったが、それでも外でごはんを食べるという目的は果たせた。この予定に合わせて昨日の晩のメニューとした唐揚げの残りも含め、おいしく食べた。たとえこんなおかしな場所でも、外で食べるごはんはおいしい。
 そのあとは松江イオン。生地はさすがに買わなかった。ゲームセンターに行って、ポルガは音ゲーをし、ファルマンとピイガはクレーンで遊んでいた。珍しくふたりとも景品をゲットすることができ、特にファルマンはドーパミンをドバドバ出している感じでおそろしかった。おやつのミスドを買って帰る。ミスドはおらが町にだってあるけれど。
 帰りは高速道路。4時前には家にたどり着くことができた。久々に一家の予定の合った休日の外出として、十全であったような、もうちょっと高みを目指せたような、この微妙な感じこそ、まさに松江といった感じだな、という1日であった。

41歳

 22日に誕生日を祝ってもらい、かくして41歳となる。
 40歳から41歳という、単なる数字による印象の違いは、もちろんないわけではないけれど、たぶん当人にしか知覚できないくらい繊細なものだろうと思う。だからそれについてはとやかく言わない。ただ1年前の自分と較べたとき、腰であるとか関節であるとか、さらには目や耳といった器官にも、一時的なものではない、これを加齢によるものと捉えないのは至難の業だろ、というような、じっとりと湿り気のある不調が現われはじめているという、年を取ったことの実感を抱きやすい事象がたびたび散見されるようになった気はするのだけど、それに関して語ることの箍を外してしまうと、そのあとはもう坂を転がり落ちるようにその話題を唱え続けてしまう気がするので、これについてもとやかく言わないでおこうと考えている。
 とにもかくにも、41歳である。
 誕生日祝いの宴のメニューは、手巻きずしにした。持ち帰りの鮨という案もあったのだけど、食費とは別でその予算が下りるならば、その資金で買い出しをして自分好みの手巻きずしのほうがいいという、当人のめんどくさい希望を通すこととなった。かくして買い出しから、玉子焼きを作ったり、酢飯を拵えたりするのも、すべて当人で行なった。それでいいのか。それがいいのだ。最後のほうなんか、おいしそうな具材はどんどん揃うし、これから俺の誕生日祝いだし、ということでテンションが上がって、バースデーソングのプレイリストを当人がスマホで流しはじめる始末であった。その結果、思春期の長女から「うるさい、ヘッドホンして」と文句を言われた。嘘だろ、俺の誕生日の祝いなんだぜ? と愕然とした。
 手巻きずしはもちろんおいしかった。盛り合わせとかを買うと白身魚を持て余す、という経験則から、今回はネギトロとサーモンと海老をそれぞれ買い、生もの系はそれのみとした。ただしそれでも余った。ピイガなんて、なにを包んでいるのかちゃんと見ていないけど、もしかしたら納豆とか玉子焼きとかばっかりなんじゃないのか。
 食後にケーキ。ガトーショコラだの、クリームぜんざいだの、9月のバースデーケーキには毎年腐心していたが、今年はちょうどバナナとキウイフルーツが家にあったので、ロールケーキをリクエストし、採用される。ファルマンとピイガで、午前中に作ってくれた。現代のネットのレシピは優秀だ。ちゃんと包めていたし、ちゃんとおいしかった。画像を載せようかと思ったが、撮った写真は、ベージュ色の皿に、たまご色のスポンジのロールケーキがズドンと乗った、なんとも言えないものだったので、よしておく。
 代わりに恒例の誕生日ポスターを載せておこう。


 去年の、膝から崩れ落ちそうになるようなものではなく、今年はきちんと描いてくれた。姉妹での合作である。ロゴや家族の似顔絵、オリジナルキャラであるカメラメ先生などを先にピイガが描き、空いたスペースにポルガが、やはりオリジナルキャラを描いた。相変わらず、ポルガはぜんぜん誕生日のお祝いイラストということを意識せず、自分の描きたいものを描く。これはもう反抗期とかそういうことではない。こいつの心性だ。
 ちなみにピイガの手による似顔絵は、左下がポルガ(切るのを拒む髪がうっとうしい)、右下がピイガ、紙面の中央あたりでヒット君に乗って空を飛んでいるのがファルマン、そして中央最前にいるのが僕。アップにするとこう。


 まあまあ似ているような気がする。LINEのプロフィール画像にしようかな。
 ちなみに誕生日プレゼントは、思案した挙句、今年こそは生地に逃げず、靴にした。しかしネットで注文したのだが、まだ届いていない。早く届いてほしい。
 そんな感じで、加齢の実感であったり、娘の思春期であったり、もちろんそれ以外にも、日々の懸案はそれなりにありつつも、それでもこうして家族3人から誕生日を祝ってもらえたのだから、これ以上望むことはない。本当にありがたいことである。これからの1年も、愉しい日々が続けばいいと思う。

9月雑談

 2週連続の3連休がある9月である。8月の盆休みから、地に足のつかない感じがずっと続いている気もするが、じゃあ週6勤務が何週も続くことが地に足がつくということなのか、と言えばもちろんそんなこともない。と言うか、そんな考え方は最悪過ぎる。
 日々がどことなくふわっとしている原因は、連休とかではなく、なにより暑さによるものではないか、とも思う。9月になってもまだ暑さは続くんだろうと、8月から覚悟はしていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。まだ猛暑日とか言っている。9月の猛暑日は、8月のそれよりも、湿り気がある分、なおタチが悪いように感じる。でもこの頭のおかしい暑さも、やっぱり9月20日までのようで、20日の最高気温の予想が35℃であるのに対し、21日は29℃と、もはや律義過ぎると言いたくなるほど、きっかりそこで季節が分かつ。「暑さ寒さも彼岸まで」の彼岸とは具体的にどこを指すのかと言えば、春分の日、秋分の日を中日とした前後3日間、合計7日間だそうで、今年で言うと9月19日~25日ということになるが、だいぶずるいと思う。このあたりの日付で7日間の幅を持たせれば、まあ結果はついてくることだろう。でも安全策過ぎて配当は低い。もっと慧眼っぽいことを言っているんだと思っていた。「暑さ寒さも彼岸まで」と、今後したり顔で言う人がいたら、鼻で嗤ってやろうと思う。それに対して僕の、「暑さは俺の誕生日まで」の豪胆な一点買いと来たらどうだ。しかもこれがよく当たるからかっこいいじゃないか。
 誕生日と言えば、つい先日、クリスピー・クリーム・ドーナツが発表した、366日の誕生日ランキング(どの日に多く生まれているか)というのを目にしたのだが、9月20日は全体の4位だった。4番目によくある誕生日ということである。ちなみにこのランキングをなぜドーナツ屋が発表したのかと言えば、クリスピー・クリーム・ドーナツの誕生日が9月9日で、そして9月というのは1年で最も誕生日の人が多い月だからだそうだ。なるほど表を見ると9月はやけに成績がいい。1位は9月25日で、2位こそ5月2日だが、3位は9月26日、そして4位は9月20日という具合である。このあたりに誕生日があるというのは、はなわがずっと前にテレビでそんなネタをやっていた記憶があるけれど、やっぱりクリスマス的なことで仕込まれたのかな、と思う。気になったのでちょっと検索してみたら、フランスで最も多い誕生日は9月23日で、これに関してもやっぱり同じような理由が指摘されていた(年末年始のパーティーが原因だ、という説もある)。ちなみにだが、日本の9月23日生まれのランキングは345位である。この理由は簡単。秋分の日で祝日だからだ。またうるう年の場合、秋分の日は9月22日になり、だから今年もそうなのだけど、その影響もあってか、9月22日生まれも245位と、エリート集団である9月後半の中でその2日が足を引っ張っている。しかしその祝日を避ける傾向によって、その前後に誕生日がより集中するという現象もあるようで、5月2日が全体2位というのも当然その現象によるもので、5月1日が5位、5月8日が6位である一方、5月3~6日は350位前後が続く。こうしてみると、出産日というのはかなりコントロール可能なのだな。
 9月20日あたりに誕生日がある人は、将来年寄りになったとき、誕生日と敬老の日の祝いがごっちゃになる、という、世にも珍しい「未来あるある」があるけれど、今年の敬老の日はわりと早めに来たこともあり、すっかり油断していて、横浜の祖母へのプレゼントを注文し忘れた。連休に入ってから気付いた。仕方ないので当日に電話をして、「1週まちがえていたので、遅れてなにか送ります」と伝えた。
 散漫な日記になった。俺は悪くない。9月なのに猛暑日とかになるのが悪い。

8月から9月へと

 怒濤の8月が終わった。
 暑くて、パリ五輪で(これは実はほとんど印象にない)、南海トラフ地震注意で、横浜への自家用車帰省で、大社高校フィーバーで、風邪で、そして台風10号。なんかそんな、わりと盛りだくさんの8月であった。
 ずいぶん久しぶりの風邪は、咳や痰がしつこく長引いたが、ここ2日あたりでようやくほぼ完治したのではないかと思う。8月最終日で土曜日だった昨日は、去りゆく8月への挽歌として、午後からプールへと繰り出した。新しく半年会員となった8月だったが、これまで行って水の中に浸るたびに、「体おもっ!」と、水泳という運動への向かなさを痛感していたわけだけど(もちろん水泳に限らないが)、労働後ではない、さらには翌日も休みであるという、末日にしてようやく巡ってきた万全の態勢に、途中襲ってきた、800くらいで手を打っておこうかという悪魔の囁きを強い精神力で振り払い、なんとか1キロを泳ぎ切った。達成感もあって、気持ちがよかった。おかげで8月もいい顔で逝ったと思う。
 これはあくまで中国地方の話になるが、この昼過ぎまでまだぐずついていた空模様は、プールから出たあとの夕方あたりから、完全に台風一過の様相となった。今回の台風10号は、冒頭にも書いたように、このクドいまでに要素が多かった8月の掉尾を飾るのにふさわしい、もはや変態的なアクションで、日本全体を翻弄した。ここまで日本人の誰にとっても他人事でない動きをする台風は珍しいに違いない。その中にあって、中国地方の、それも山陰側というのは、どちらかと言えば被害が軽微だったほうなのだろう。最初に上陸した九州はもちろんだが、東海方面がひどいようで、今月まさに縁を持った、津であるとか、豊川であるとか、あのあたりもだいぶ激しかったようだ。南海トラフ地震注意に怯えながら彼の地を渡ったのは、わずか半月前のことだ。あのときも台風7号から若干の睨みを受けたけれど、もしもあのときに今回のような台風が来ていたらと思うとゾッとする。さすがに心が折れていたろうと思う。日本って過酷な環境だな。
 子どもたちの夏休みは数日前、8月最終週の半ばに終わったのだけれど、金曜日は台風のために休校となり、早々の3連休となった。しかしもはや休みに慣れ切った子どもたちには、3連休なんぞわざわざ喜ぶ対象には足り得ない様子である。驕っているな。ちなみに今回、始業式における校長の話で、「120%大社高校の話がなされる」という予想を打ち立てていたのだが、ポルガの通う中学校では的中したものの、ピイガの小学校の校長は一切しなかったそうで、ずいぶんひねくれてるな、と思った。けっこう改革派の人らしいので、こんなときも逆張りしてくるようである。
 台風を経て、月も代わり、季節はひとつ先へ進むのかと思いきや、なんのことはない、台風一過にかこつけて、このあと夏の陽気はしばらく続くようである。やはり20日までは耐えるしかないのか。
 9月が始まり、今日は車検に行ってきた。軽のほう。2年前に頼んだ所にあまりいい印象を持たなかったので、別の所に行ったら、こちらはずいぶんよかった。きれいだったし、人の感じもよかったし、なにより安く済んだ。車検が安く済むというのは、あまり積極的にあれもこれも治療をしようとはしない歯医者みたいなもので、実際にいいことなのかどうなのかは判らないが、少なくとも目先の家計的にはもちろんいい。ここでガクンとテンションが下がるんだろうなあと予期していた車検が意外とリーズナブルに終わったので、得をした気持ちになった。悪くない幕開け。なんてったって誕生月だ。なるべく気分よく過したい。
 誕生日プレゼントでなにをもらうか、考え始めているが、案が浮かばない。欲しいものが思い浮かばないということは、満ち足りていることか。ちがう、となんとなく否定したい気持ちはあるが、まあ実のところ、案外そうなんだろうとも思う。今年も生地になるのかな。

2024年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日

 いよいよ夏の帰省も最終日である。目が覚めたとき、とうとう地震から逃げ切ったな、と思った。実際、先週の木曜日から1週間ということで始まった注意期間は、この前夜に終了していたのだった。ああよかった。
 今日は豊川から島根まで、ひたすら長い移動。でもそうは言ってもそれだけなので、10時まで桃源郷をじっくり味わうことにする。朝風呂にももちろん行った。ただしサウナはせず。サウナはどうしてもしたあとで怠くなってしまうので、運転に差支えがあるだろうと判断してやめた。風呂に浸かってのストレッチが気持ちよかった。
 ゲームセンターに行ったり、漫画を読んだり、チェックアウトまでしっかり堪能し、後ろ髪を引かれながらホテルをあとにした。すぐにでもまた行きたいくらい快適な空間だった。実はこれで宿泊代は往路の津のホテルより安いのだ。たまんねえな、常宿にしようかな、と思った。
 ホテル近くの地元スーパーに寄り道し、食料やおやつを買い込んで、いざ最後の移動へと突入した。走り始めは、近付く台風7号の影響であろう、不穏な雲や強風があったが、なにしろ西へ西へ、台風とはどんどん離れてゆくわけで、三重に入ったあたりですっかり平常に戻った。どうせなら行きとは別のサービスエリアに行こうということで、滋賀の土山サービスエリアや、岡山の勝央サービスエリアなどに寄った。島根の実家へのおみやげとして、昨日沼津で富士山モチーフのチョコを買っていて、今日は追加として琵琶湖モチーフの焼き菓子なんかを買った。富士山と琵琶湖のみやげが同時にあるってなんかすごいな、でもわが家は今回まさにそういうことをしたんだよな、と思った(横浜の実家へは、蒜山・宝塚・浜松で買ったみやげを渡した)。
 中国道に入ってからは、明らかに車の数は少なくなり、この日は一切の渋滞にまみえず、18時前には無事にわが家へとたどり着くことができた。これなら大丈夫。次回からは行きも帰りも豊川だな、と思った。ちなみにもしものときのためにファルマンにフリードの運転を練習させていたわけだが、結局はいちども代わらなかった。代わってもらった場合、助手席で余計に疲れることになるのは目に見えていたからだ。まあ得てして、運転手というのは、酔わないし、逆に疲れなかったりするものだ。
 そんな今夏の横浜帰省だった。初めて自分の運転する車で、ここまで本州を横断したので、とても愉しい経験だった。これまであまり馴染みのなかった滋賀・三重・愛知・静岡あたりの県が、とても身近に思えるようになった。途中でも書いたが、京都だってそう遠くないことを知ったし、京都のジャンクションでは福井などの北陸方面に向かう案内もあった。そっちだって行こうと思えば行けるのだ。というわけで今回の横浜行きの感想としては、「高速道路がおもしろかった」ということになる。次回もおそらくこのやり方で行くことになるだろう。成功してよかった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 5日目

 昨日はヘトヘトになったが、この日は今回の旅程のスケジュール的に最も楽な日で、というのも、往路の「島根→津:津→横浜」というのが、比率として「5.5:4.5」だとすれば、この日の宿泊場所は愛知県の豊川市であり、「横浜→豊川:豊川→島根」は、「3.5:6.5」という感じだからだ。今日はただ、横浜から愛知の、それもやや西側まで行けばいいだけの日。
 だから出発も悠々で、なにしろ公共交通機関ではないので自由なのだが、15時からのチェックインよりも早く着いてもしょうがないので、まあ11時半くらいに出ようかね、という感じだった。テレビでは台風7号のことが盛んに報じられていて、関東に最接近する明日は新幹線が計画運休する、などと言っていた。世が世なら、である。わが家の場合、この日のうちに愛知県に移動するので、ギリギリで台風の影響は受けずに済みそうだった。それにしたって、南海トラフ地震注意に始まり、台風まで発生して、帰省というのはこんなにもアドベンチャーなものであったろうか、と思った帰省だった。
 祖母と母、いとこふたりに見送られながら、出発する。出発してわりとすぐ、やっぱり綾瀬のあたりで渋滞に捕まる。行きも帰りもということは、常態として渋滞しやすいスポットなのだろう。これがなければ小一時間くらい、所要時間が短くなるのにな。そこを抜けたあとは快調だった。途中、駿河湾沼津サービスエリアで休憩。ちなみにだが、行きも帰りも富士山は見えなかった。天候的に見えなかったのか、新東名を走ったところで決して見えるものではないのかは判らない。
 豊川へは15時半くらいに着いた。愛知県に、通過するだけでなく足を踏み入れたのはこれが初めてだと思う。豊川はバイパス沿いにあらゆるチェーン店が並ぶ、典型的な地方都市という感じだったが、やはり三大都市の近くで人口規模が大きいのか、チェーン店の層の厚みを感じた。ありとあらゆる店が揃っていた。その一方でごみごみしている感じもなく、田んぼなんかも普通にあったりして、ずいぶん暮しやすそうな場所だな、と思った。
 往路の津は伊勢神宮という事情があったからだが、復路のここにはどういう目的があったかと言えば、土地そのものには関係がない。近隣の観光スポットを検索したところ豊川稲荷があったけれど、行くつもりはなかった。じゃあなにかと言えば、それはひとえに宿泊施設だ。その名もコロナワールドという、温浴施設にゲームセンター、映画館、ファミレス、ボーリング場、そして(わが家には関係ないけど)パチスロが1ヶ所に集まった施設に、キャッスルイン豊川というビジネスホテルも併設されていて、宿泊客は風呂もサウナも入り放題ということで、そんなのもう桃源郷じゃん、と思って、あんまり横浜と島根の中間地ではないなとは思いつつ、ここっきゃないと思って予約を入れたのだった。そんなわけで、施設そのものをレジャーとして堪能するため、ほぼチェックイン時刻めがけてやってきたというわけである。
 期待がだいぶ大きかったので、実際どうなるか不安だったのだが、行きのホテルの名前は出さないのに対し、こちらは明確に書いているということが示すように、ものすごくよかった。本当に桃源郷だった。部屋はトリプルルームで広く、エレベータで降りればそこはゲームセンターで、ひとしきり遊んだらサウナ。宿泊客は専用のエレベータで、一般客がお金を払う入り口の奥から入ることができる、というシステムがよかった。なんかもう、どうしてこんなに甘やかしてくれるの、われわれ一家は庇護対象なの、というくらい心地がよかった。さらには岩盤浴コーナーでは漫画が読み放題と来て、子どもたちも大喜びの様子だった。10時のチェックアウトまで目一杯いよう、この夜が40時間くらいあればいいのに、と思った。晩ごはんは施設内のレストランで食べる。ウェルカムドリンク一杯無料のチケットがもらえ、選択肢の中には生ビールもあり、心が千々に乱れたけれど、ホテルでは酒を飲まないという当初の誓いを守り、なんとか耐えた。生ビールの選択肢があるのにウーロン茶! もはや聖人の所業ではなかろうか。ちなみにこの食事の際、大社高校の2試合目がもう終盤で、やはりスマホでスコア速報を更新しながら確認していたのだが、タイブレークの末に勝利ということで、さらに多幸感のある夜となった。寝てしまうのが惜しかったけれど、翌日の運転は長いので、そうも言っていられず、寝た。

2024年夏の自家用車横浜帰省 4日目

 そう言えば、気になる人は気になっているであろう、『実家においてオートメーションで祖母が行なう衣類の洗濯に、この2年あまりですっかり、手作りのビキニショーツしか穿かないタイプの人になったパピロウは、どう立ち向かったか問題』なのだが、前回の帰省から1年半経って、祖母は95歳となり、実はうすうすそんな予感はしていたが、祖母はさすがに日々の洗濯係からは引退した模様で、そして母というのはあまり洗濯を積極的にするタイプの人ではないので(よく洗濯機を回したあと干すのを忘れて丸一日経ったりしていた)、帰省中の洗濯はセルフと言うか、なんなら祖母と母の分も一緒に回してわれわれが干す、みたいな形になったのだった。そしてそれはほぼ理想的な形と言っていいもので、滞在中は勝手に回し、勝手に干し、勝手に取り込んで、勝手に畳んだのだった。とは言え初日からそのスタイルが確立されていたわけではないので、そこではショーツは洗濯に出さず、かと言って荷物の中に入れていた、実際には穿いていないのに洗濯に出すカムフラージュ用のボクサーパンツもまた、出さない、すなわち下着はなにも洗濯に出さないという選択をしていたのだけど、滞在3日目となるこの日、初めてショーツを洗濯に出し、横浜の空の下に干したのだった。いったい僕はなにについて、こんなに言葉を弄して語っているのだろうかと、我ながら思う。
 さすがに洗濯を引退した祖母だが、しかし傍から見れば変わりなく元気そうで、長生きの年寄りというのは基本的にそういうものなのだろうとも思うが、なにより自分の健康についての自信、そしてそれを自分のみならず周囲へも十全に認識させようとするガツガツ感が、とにかくすごいと思った。実際、体もまだよく動くようで、それは誇るべきことだろうとは思うが、週一で通うようになったというデイサービスにおいて、自分よりも年少でありながらもはやよぼよぼの老人たちに較べ、自分がどれほど健康体であるかを朗々と語る祖母の姿を見て、人間および生き物の本性、とにかく長く生き抜こうと思ったときに必要なのは、倫理や貞節などでは決してなく、他者を見下して自尊心を高めることとなのだな、と思った。今回の祖母の言い回しで感心したのは、「80代の人もみんな杖をついているが、私は杖のつき方を知らない」というものだ。この驕り高ぶりと来たらどうだ。「負け方を忘れてしまった」というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、それと同種だ。ただし「負け方を忘れてしまった」のほうは、フラグと言うか、そんなことを言っている奴はいつかコテンパンに痛い目に遭うだろう、という気がするけれど、95歳の祖母は、もう何を言っても許されるので、要するに最強だと思った。いいなあ、95歳で、「杖のつき方を私は知らない」と言える人生。血筋としては素質があるはずなので、目指して生きていこうと思う。
 さて全体4日目の予定だが、この日は特に予定を入れず、事前に姉に、「この日にいとこで一緒に遊んでやってよ」とだけ打ち合わせをしていた。この日もなにも、近所に住むいとこたちは隙あらばこちらにやってくるわけだが(そのためこの前日などは、来てくれるなとわざわざ頼む必要があった)、せっかくの1日フリーということで、横浜に来たからには、みたいな所へ繰り出したいという思いがあった。しかし前日ポルガはあんな状態だったし(回復したようだったけれど)、なにより山陰よりもやはり強く感じられる関東の暑さに参っていたしで、「家で4人で桃鉄でもすればいいんじゃない?」と提案したのだが、もちろんあえなく却下され、結果的にみなとみらいにある「VS PARK」という屋内型ゲーム施設に行くことになった。ちなみにもうひとつの候補として、渋谷および原宿という、これはこれでド田舎の中学生にとってはだいぶ訴求力のあるスポットに繰り出すという案もあり、どちらかと言えば僕はそちらのほうがよかったのだが、具体的にどこでなにをするというプランのないそちらに対し、「VS PARK」のホームページはやることが明確かつ魅力的で、どうしたって子どもたちの希望はそちらに傾いてしまったのだった。島根からスタートし、8県2府を跨った今回の旅路で、最後に東京都まで踏破したいという思いがあったのだが、残念だった。僕が利用していた頃とは様変わりしたらしい渋谷の街を、今回こそは味わいたいと思っていたが、また持ち越しになってしまった。
 というわけで、みなとみらいに向けて出発する。母も姉も来たので、計8人の大所帯だ。あざみ野から市営地下鉄で桜木町まで。ちなみにこのときわが家4人は、去年3月の帰省以来、1年半ぶりに公共の乗り物に乗った。田舎暮し、マジで公共の乗り物に乗らない。そして公共の乗り物って、乗らずに生きていると、どんどん乗りたくない気持ちが強まってくるものだな、と思った。
 みなとみらいは、「USP」で確認したところ、2015年の9月以来であるらしい。当時、ポルガは4歳、ピイガは1歳。シルバーウィークでの帰省の最終日、新幹線で岡山に帰るという日に、ファルマンの大学時代の友達と集ってごはんを食べ、最後に子どもたちにせがまれコスモワールドでメリーゴーランドに乗ったところ、想定外に時間がかかり、このままでは乗るはずの新幹線に乗り遅れてしまう、となって、コスモワールドから桜木町駅まで全力疾走した記憶がある(子どもにはもちろんない)。当時からの違いとして、聞き知ってはいたがロープウェイができていた。なるほどなあ、という感じのロープウェイだった。「VS PARK」の入る施設までは、ランドマークタワーの足元などを通りながら、歩く。途中のビルでドラクエのイベントをやっていて、巨大なスライムが吹き抜けの中空に浮かんでいたので、写真を撮って義妹に画像を送って自慢した。
 わりと歩いて(都会特有の、気付けばわりと歩くやつ)、目的の商業施設に到着した。施設はコスモワールドのすぐ隣だった。ここまでもそうだったが、中もすごい人の数。お盆だから逆に関東からは人が減っているんじゃないか、という希望的観測は泡と消えた。「VS PARK」も当然ながらすごい行列で、たじろぐが、8人でわざわざここまで出向いている以上、じゃあやめよう、というわけにもいかず、並ぶ。これが実に長かった。当初見えていた列は、先へ進んで道を曲がるとさらに奥に続いていたので、心底うんざりした。わが家は、島根在住者なんですよ! 行列耐性が、日本でいちばん低いと言って差し支えないんですよ! 容赦してくださいよ! ファルマンは途中からうずくまり、スマホをじっと眺めるだけになり、なにを見ているのかとそっと覗いたら、あだち充の漫画を読んでいた。この人は今、あだち充の漫画を読むことで、ギリギリ踏ん張っているのだな、と思った。
 並んだ末にようやく入った「VS PARK」は、その名の通り「フレンドパークⅡ」や「VS 嵐」をモチーフにしたような施設で、中には「そのまんまじゃねえか」みたいなゲームもあった。入場まで待たせる代わりに、中はそこそこの混雑に抑えるという仕組みのようで、2時間の制限時間の中で、並んでるだけでぜんぜん遊具にありつけねえじゃねえか、ということはなく、それなりに遊んだ。子どもたちは愉しそうだった。大人は、もう行列の時点で腰などがだいぶ悲鳴を上げていたので、子どもたちの撮影を中心にやって、あと穏当そうなゲームを少しだけこなした。ヘロヘロだった。
 退場後は、もう15時近くになっていて、昼ごはんがまだだったので空腹だったが、施設内のフードコートには人が溢れていたので諦め、駅に戻る途中のファストフードで済ませた。連休中の観光地なのだから当然だが、とにかく、とにかく人が多かった。
 夕方に帰宅したら、祖母によって洗濯物が取り込まれ、畳まれていた。初めて油断してショーツを干した日にこんなことになったか、と思った。祖母はたぶん、ファルマンかポルガのものと思ったろうな。
 実家で過す最後の晩ということで、夕飯時にはふたたび叔父と義兄もやってきて、食卓を囲んだ。叔父とは今回、ほとんど会話をしなかったな。広島大学に遊びに行ったという話も、するのを忘れてしまった。最後に全員での集合写真を撮ってお開き。くたくたになった1日だった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 3日目

 実家の布団は硬い。重くて硬い。寝るのが和室なので、昔ながらの考えではマットの類は必要ないということになるが、いまどきの高機能マットレス(決して高価というわけではなく)に慣れた身からすると、地べたに薄布1枚敷いたくらいの状態で寝ているような気持ちだ。移動の疲れが取れないどころか、朝には寝返りも困難なほど体がバキバキになるので、なんとかしたいという思いはずっとあるのだが、1年半ぶりに3日だけ泊まる立場で、マットレスを買えとも買うとも言えない。母も物が増えるのは嫌がるだろう。というわけで耐えるほかないのだった。
 日程3日目の予定は、午後からの藤子・F・不二雄ミュージアム行きとなっていて、午前中はのんびりと過す。今日も姉の子どもたちがやってきて、4人でわちゃわちゃとやっていた。わが子が、どちらの実家においても、いとこと愉しそうに触れ合うさまを見るたびに、不思議な気持ちになる。友達とも、きょうだいとも違う、いとこというのはとても独特の距離感の存在なのだな、と思う。自身のいとこ経験値が皆無なので、娘らを見て学習している。ちなみにだが、この前の晩に眺めたアルバムで、僕が幼稚園児くらいの頃の写真で、知らない家族とディズニーランドに行っているものがあり、誰かと母に訊ねたら、それがいとこ一家であった。父の、姉だか弟だかの一家ということだ。一家には同年代の男児もいた。だから、実はいちおう経験はあったのだ。完全に忘れているけれど。
 昼ごはんに、たこ焼きを焼いた。最近またレベルが上がったたこ焼きを、実家の面々に振る舞ってやろうと思ったのである。こちらでいつも買っている粉が、横浜のスーパーでは手に入らなかったけど、まあまあおいしくできた。
 そのあと、Fミュージアムへと向かう。母が送迎してくれるというので甘えた。公共交通機関で行こうとするとかなりの回り道なのだが、実は実家から車で30分かからない。この距離感を思うたびに、ああ僕は、ドラえもんがたまらなく好きだった小学校低学年あたりの頃、藤子・F・不二雄とこんな近い位置関係で暮していたのか、と思うのだった。Fミュージアムに来たのはこれで3回目。前回は、2020年の年明けだった。今回もだったが、当時から中国人の客が多くて、そのあとすぐに新型コロナが流行したので、少しどぎまぎしたものだった。今年は藤子・F・不二雄生誕90周年ということでさまざまなキャンペーンが組まれ、プライムビデオでもいろんなアニメが公開され、わが家のFの機運もまた高まっており、横浜に行く以上はそりゃあ行くだろう、とこれも半ばオートメーションのように定めた目的地であった。しかし意欲的に赴いたはずが、やはり3度目ともなると常設の展示にはもう感動できないし、なによりポルガのコンディションがあまりよくなかった。長距離移動後すぐのいとことの激しい絡みに加え、今朝は母に合わせて早朝に起き、長い散歩などしたものだから、あっという間にキャパオーバーとなり、せっかくのFミュージアムで青い顔をしていた。当然機嫌も悪くなり、その機嫌の悪さに対して我々も不愉快になってくるので(もう少し自分の余力をわきまえろよ、という文句もある)、実に険悪な雰囲気の一家になった。そんな状況で入店したカフェでは、注文した品がいつまでも出てこない、あとから来た客のフードメニューが次々に運ばれてくるのに、ココアとかしか頼んでいないわれわれの注文品がいつまでも来ない、という悲劇に見舞われる。注文から30分が経過したところで、さすがにこれはもう退店しようと思い、店員にキャンセルを申し出たら、「今できたのでお持ちします」と言われ、運ばれてきたココアとカフェラテは、すっかりぬるくなっていた。これはどうやらわが家の今生のFミュージアムは終わったようだな、と思った。また最後に位置するミュージアムショップで売られている商品の高いこと。どうやらこのミュージアムはもう、中国の富裕層しか相手にしないことにしたらしい。そっちがその気なら、こっちももう行かないまでだと思った。
 帰宅後は、母と祖母と、わりと普通の晩ごはんを食べた。一時よりは復調したものの、ポルガがあの調子だったので、カフェで待っている間に姉に連絡し、今晩は子どもをこっちへ寄越してくれるなと頼んだのだ。というわけでこの晩は早めに寝仕舞いし、回復に努めることにした。

2024年夏の自家用車横浜帰省 2日目

 2日目。早く寝たので、6時台に起きた。起きてすぐ、とりあえずこのホテルでの被災は免れたのだ、と思った。ピイガも起きたが、確認するまでもなく隣室のふたりはまだ起きていないだろう。ピイガに断りを入れて朝風呂に行った。少し大きいだけの単なる風呂だったが、それでもまあ、せっかくだから入っておこうという貧乏根性である。そのあと寝起きの悪いふたりとも合流し、朝ごはんはホテルのビュッフェ。宿泊プランに入っていたので、ワホーイと会場へと向かった。特段豪勢ということもなかったが、普通においしく、なにより朝のビュッフェはテンションが上がることだよ、と思った。
 そして出発。この日はこの地から横浜への移動だけの予定だが、さすがにこの日に伊勢参りをスライドさせるという考えはなかった。津から伊勢神宮は、60キロくらいあるらしい。行って、回って、また三重県の北部まで戻ってこようとすると、どう考えても半日以上かかるだろう。いま自分たちが、人生でいちばん伊勢神宮に近付いているという認識はありつつも、さすがによした。縁があればまた機会は巡ってくるだろう。
 津からまた高速道路に入って走り出すと、すぐに中京工業地帯のあたりに出て、海上を進むような沿岸の道が、若干おそろしくも気持ちよかった。長島スパーランドの、信じられないようなジェットコースターの骨組みを目にし、震え上がったりした。そのまま愛知県を突っ走り、新東名に入り、静岡県の浜松サービスエリアで休憩。なかなか賑わっていた。車はさらに進み、とうとう神奈川県に入る。島根をスタートし、鳥取、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、三重、愛知、静岡と来て、ラストの神奈川である。来れるもんだな、繋がってるんだな、と思った。1日でやれと言われるとつらいが、2日がかりの悠々スケジュールだったこともあり、新鮮で愉快な経験だった。飛行機は論外として、時間に余裕さえあれば、新幹線よりもこっちのほうがいいな、と思った。家族水入らずで過せるし、ホテル代、高速代、ガソリン代を含めてもたぶん安上がりだ。今後はこれで決定だな、と思ったが、子どもがこうしてようやく長距離の車移動に堪えられる年齢になって、そして子どもが帰省についてきてくれる間だけだから、人生の中でかなり限られた期間だろうけども。
 厚木を過ぎて、もうほとんど実家のエリアだな、となったところで、綾瀬から町田にかけてのところで、この旅程でいちばんの渋滞に巻き込まれたが、それでもなんとか横浜青葉インターチェンジまでたどり着いた。ここまで来ればいよいよホームである。いつも島根の街を走っている車で走る青葉区の住宅街は、傾斜のある土地にギューっと建物を詰め込んでるんだな、というギチギチ感がすごかった。実家に到着したのは15時台。母と祖母が出迎えてくれた。祖母は、第一声がなんだったかは忘れたが、第三声くらいが、「次はいつ来るんだ、正月は来るのか」だったのは覚えている。濁してもしょうがないのではっきり言った。「正月は確実に来ないよ」。
 われわれの到着が伝わり、近所に住む姉の子どもたちもやってくる。姪は高1、甥は小6である。再会は去年の3月(WBCをやっていたので覚えやすい)以来だが、どちらも大した変化はなかった。この期間、4人の中でいちばん発育したのはポルガだろうと思う。身長がファルマンに匹敵するポルガは、縮みつつある母の身長を超えていた。そして子どもが4人揃うと、毎度のことながらとても喧しかった。島根のほうのいとこは、ピイガの1個下の子はおとなしいし(心を開いた相手には延々としゃべり続けるけれど)、その妹はまだ2歳なので、4人いてもほぼポルガとピイガのうるささしかないのだけど、こちらの4人は、4人がそれぞれしっかりとうるさいので、本当にすごいことになる。久々に味わうその感じに、ああそうだった、こんな感じだった、こんな感じの、すごいストレスなのだった、と思った。
 晩ごはんまでの間に、納戸からアルバムを持ってきて、眺めた。僕の幼少期のアルバムである。相変わらずかわいかった。もちろん今も今で至極かわいいのだけれど(そのうえ40歳としての艶も出てきた)、やっぱり手足が短いかわいさというのは格別だな。自分の小さい頃の写真を見ることでしか満たされない容器が満たされるのを感じ、満足した。
 やがて叔父や姉夫婦も現れ、一族が全員集合し、晩ごはんのメニューはもはやオートメーションの手巻きずし。叔父は叔父だったし、姉は姉だったし、義兄は義兄だった。集う感じも、手巻きずしも、人間も、実に不変。こうも不変ならば、もう実際に集合しなくても、VRでもいいのではないかと思うほどだった。
 そんな感じで全体の2日目は終わった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 1日目

 横浜帰省から無事に戻った。
 南海トラフ地震注意に怯えつつ、さらには台風7号に追い立てられながら、しかし結果的には何事もなく、住まいへと戻ってくることができたのだった。本当によかった。
 移動日のホテル宿泊も含めれば5泊6日にも及ぶ日々を、これから綴っていく。ちなみに車だったので、ノートパソコンも持っていったのだが、結局いちども起動させなかった。毎日日記を書いておけば楽だったろうにな。
 出発は8月11日であった。発生から1週間が経過し、注意報も解除された今となっては、結果論として過剰な反応ということになってしまうが、降って湧いた南海トラフ地震注意に、出発前の2日間はだいぶ悩んだ。移動は長く、そしてその道程はだいぶ南海トラフの警戒地域である。わざわざこのタイミングで、南海トラフの話題は普段、はっきり言って他人事である山陰の人間が、ノコノコそっちへ出ていく。これで本当に被災したら目も当てられない。宿泊先が実家だけならまだいいが、行きは三重県、帰りは愛知県の、それぞれなんの土地勘も縁故もない地方のホテルに泊まるのである。もしもその夜に地震が起ったら――? とまあ、不安は大きかったのだが、実際に取り止める踏ん切りもつかなかったので、決行した。
 行きの宿泊先は三重県と書いた。三重県は津市である。津は、スムーズに島根から横浜を目指すのであれば、少し寄り道になる位置にある。ではなぜ津かと言えば、今回のこの帰省には、伊勢参りというオプションも付けていたからだ。せっかく車でこのあたりを通るのだから、いつか行きたいと思っていた伊勢神宮観光も兼ねようではないかと。三重県の南方にある伊勢はだいぶ遠いが、早朝に出発し、昼あたりに着いて、半日ほど伊勢神宮を巡り、そして夜に津のホテルに入る、という算段を立てていた。しかしこの予定は、ポルガの部活動の影響(あまり誰も行けると思っていなかった上の大会に進出してしまったのだ)により、急遽中止することになった。11日の午前に部活が入ってしまったのだ。残念は残念だったが、この旅程の初日に、早朝に起きて炎天下で伊勢参りというのは、やったらけっこうハードだったかもな、とも思う。
 というわけで昼過ぎ、ポルガを学校で拾っての出発となった。伊勢参りがなくなったことで、この日は津まで行ってホテルにたどり着ければそれでいい。渋滞がなければいいな、と思いながら長い旅路が始まった。車内では、このために作ったプレイリストをひたすら流した。横浜帰省用として、2ヶ月ほど前から、ひとり10曲、計40曲というプレイリストを、12個作っていたのだ(ポルガやピイガは意気揚々とやっていたが、僕とファルマンは120曲を選出するのに大いに苦労した)。1つで大体2時間あまりとなるそれを、順番に再生し、最後に家に戻ってきたときは、ナンバー10の途中だった。自分が聴きたいと思って入れた曲と、家族の選んだ聴いたことのない曲が流れるので、飽きずに道中ずっと愉しめた。日々の運転でもだが、音楽のサブスクはだいぶ車中のQOLを上げてくれていることだな、と改めて思った。
 道は、岡山(倉敷)との行き来では、広島県を通る、しまなみ街道を使って尾道まで出るルートだが、検索したところ今回のような場合はそっちではなく、しまなみ街道ができるまでは使っていた、鳥取県を通って蒜山や津山など岡山県の北部に出て、そこから兵庫県へと進んでゆくルートのほうが早いということで、久しぶりにそっちの道を走った。途中、蒜山高原や宝塚北のサービスエリアで休憩した。宝塚には手塚治虫コーナーがあったので、寄ってよかった。兵庫県を越えると大阪府で、さらには京都府、そして滋賀県も少し掠める。ちなみに大阪と京都は、イメージしていたような風景ではぜんぜんなかった。そういうものだな。島根だってほとんどの地域は神の国でもなんでもない。それにしても京都だ。「京都市街」みたいな表示のインターもあり、ここを降りたら京都観光ができてしまうのかー、と思った。宿泊先さえ確保できれば、片道4時間ちょっとくらいで、京都旅行ってできるんだな。今回の経験を通して、これまでなんとなく畏敬の対象で遠かった京都が、存外そうでもないのだということを知った。そのうちやれたらいい。そして滋賀を抜けたらそこはもう三重県である。この道程において、大阪や京都あたりの渋滞が不安だったが、そこはぜんぜん問題なくて、でもなぜか唯一、滋賀から三重までの間の、具体的にどのあたりだったかもう忘れたが、トンネルが連続する山道のあたりで、何十分間かの渋滞に巻き込まれた。まあそのくらいで済んだのはよかったと思うべきか。
 ちなみにこの道中で、島根県代表である大社高校の、甲子園1試合目が行なわれており、ここというのはファルマンの上の妹とその夫の出身校であり(妹のほうが2つ上で、高校時代は面識がなかったという)、さらにはパピロウヌーボでおなじみのプロ角マキコこと江角氏の出身校でもあるため、わりと身近に感じているのだった。しかし初戦の相手が、春の選抜の準優勝校である兵庫の報徳学園ということで、これは無理だろう、まあ甲子園に行けてよかったよね、などと思っていたら、勝ったのでとても驚いた。試合状況はファルマンが助手席でちょいちょいチェックする形で確認していたのだが、試合が終わってしばらくしてから、そう言えばラジオで聴けたんだな、と気づいた。
 そうして無事に津に到着。ホテルは市の中心地にあって、街と道の感じが、なんとなく岡山を彷彿とさせた。ホテルに入る前にガソリンを満タンにし、あと地元のスーパーで夕飯を買い込む。事前にわざわざ調べさえした地元のスーパーは、しかし期待していたような愉しさのない、いまいちな感じだった。ちなみに酒は買わない。事前の宣言通り、ホテルでは飲まないのだ。5時間近い運転ののちに! 飲まない! 南海トラフ地震注意だから! だいぶん忸怩たる思いを抱えながら、酒をカゴに入れることなくレジを通した。
 ホテルはごく普通のビジネスホテルで、トリプルの部屋があれば、小学生添い寝無料とかで1部屋で済んだのだが、うまいこといかず、ツインの部屋を2つ取ることになり、その部屋割りをどうするかで少し悩んだ。結果として、寝つきがいい組(僕とピイガ)と、寝つきがクソ組(ファルマンとポルガ)で分かれることにした。これはとてもよかったと思う。部屋でごはんを食べたあとで、性分としてどうしても甘いものが食べたくなって、ホテル近くのコンビニまで買いに行くことにした。ポケモンGOをするポルガを誘い、ふたりで夜の津を歩く。コンビニは通りを1本入った、住宅街の中にあった。そもそも伊勢神宮に行くつもりで取った、だから今となってはぜんぜん泊まる謂れのない津に、なぜか一家4人で来ていて、ひと晩泊まるのだと、そして今はその津の中でも、絶対に地元住民しか使わないようなコンビニに娘と歩いて来て、プリンを買うのだと、そういうことを思うと、なんだかとても不思議な気持ちになった。津! 津て! 俺の人生に、津で過す一夜があるだなんて! 部屋に戻り、プリンを食べ、大浴場(サウナはなく、なんの面白味もない浴場だった)で風呂を済ませたあとは、僕もピイガも眠気が来たので、ピイガは21時台に、僕も22時台に、早々に寝た。向こうの部屋のことは知らない。ファルマンは「時計を見たら2時だった」などと言っていたような気がする。エアコンの設定が難しかったこともあり、僕もぐっすりとはいかず、浅い眠りの中で地震のことなどを思って途中で起きたりしたが、そのとき見た時計の時刻が2時台だったように思う。幸い地震は起らなかった。
 とりあえずこれが初日の動き。パピロウ名物、数日間に及ぶ出来事の、序盤はかなりしっかり書き込むが、後半はたぶん流し気味になるやつ。2日目に続く。

伏線と予兆の夏

 「パピロウせっ記」に、24歳の自分が結婚についての伏線をまったく張ろうとしなかった話を書いた。それに対して40歳の僕のにおわせと来たらどうだ、という話を今からする。
 まず5月の車検である。この際、フリードにドライブレコーダーを取り付けてもらった。「最近になって、別にヒヤリハットがあったというわけではないが、やっぱりあったほうが安心か、ということになって設置することにした」などと白々しく書いたが、このときには既に計画は頭の中にあり、これはそれに対しての行動に他ならない。
 続いて6月には、ファルマンの運転でゴールデンユートピアおおちまで行く、ということをした。「今後、ファルマンがフリードを運転する必要に迫られる場面もあるやもしれないので、どこかで練習をしておきたいね、ということを前から少し話していた」という、この記述もまた実に白々しい。
 そもそも去年の12月、年末年始に帰省をしないことについて書いた際、ポルガが大人料金になったこともあり新幹線代があんまりにも高いじゃないかよ、ということを記していた。さらには、年末年始にせっかく関東に行ってもどこも閉まっていて果以がない、とも言っている。これらなんかはもはやにおわせですらなく、動機そのままと言ってよい。
 これらの伏線を照らし合わせると、どのような結論が導き出されるか。答えはこうである。
 夏、車で帰省する。
 なぜにおわせなのか、往路も復路も旅行を兼ねた2日がかりで、それぞれの宿泊先を半年以上も前に予約したりしていたのだから、大っぴらに書いていればよかったじゃないかという話なのだが、スケジュールとか体調とか、なにがあるか直前まで分からないので、明記はせず、ひそかに計画を進めていたのだ。実際、つい数日前にポルガの部活動の影響により、ひとつわりと大きなスケジュール変更を余儀なくされる、という出来事が起った。
 それでもまあ、とりあえず行くことは叶いそうだ、という見通しが立った矢先の、宮崎県を震源地とする木曜日の大きな地震であった。島根県でもほどほどに揺れ、どこかで大きな地震があったのかとすぐにテレビで確認したところ、宮崎県だったので、そのときは「そうか」とわりと冷静に受け止めた。しかし帰宅後にテレビを観たら、いつもの地震情報と毛色が違う。これは南海トラフ地震の前触れかもしれない、などと言っている。そして画面に表示される、南海トラフ地震が起った場合に被害が大きいと予測されるエリアと、今回のわれわれの帰省のルート(往路復路の宿泊場所を含む)の、重なり具合たるやどうだ! それはそうだ、まず関西に出て、それから東海道を行くのである。太平洋側をひた走るのである。こんなことあるか、こんなことあるかよ、と思った。元日の能登半島地震というのもだいぶ性悪だと思ったが、盆休みにこれをぶつけてくるというのもだいぶひどい。どうした、今年は。というか令和って本当に災厄が多すぎやしないか。いざというとき思いどおりにいかないことが多すぎやしないか。
 しかしまあ、そこまで過敏になってもしょうがないので、計画を取り止めるということはしない。車に防災グッズを載せ、ガソリンのこまめな補給を心掛け、ホテルに宿泊する夜は酒を飲まないことにした。行くと決めた以上、そのくらいの対策しか打つ手がない。
 まあ大丈夫さ、大丈夫と思って行くしかないさ、と思っていたら、今度は金曜日の夜に神奈川県西部で震度5弱が起ったので、「もう! バカ!」となった。
 予兆とはすなわち伏線であり、伏線はないよりあったほうがいいが、これはそういう話ではないだろう。いや、無防備で行って窮地に立たされるより、ある程度の心の準備ができた状態で行くわけだから、やっぱりいいことなのだろうか。判らない。無事に帰ってくるまで判らない。どうか愉しい日々になりますように、と心の底から強く祈っている。

7月の暑さとパリ五輪と実家と泳ぎたさ

 とんでもなく暑い。真夏である。7月って、最近は夏というよりむしろ梅雨みたいな感じだよね、などと半月前くらいまでは感じていたけれど、最終的にはきちんと夏を仕上げてくる。さすがである。7月のスター性。異常気象という新世代の台頭には、決して屈しない。背負っている看板の重みが違う。
 そして夏というのは、こんなにもとてつもないものなのだな、としみじみと感じている。なぜか毎年きちんとそのことを忘れる。体感というのはわりと刹那的なものだ。それとも僕が特別、忘れっぽいのだろうか。5月終わりくらいの、よく晴れ、気温が30℃近くくらいまでなった日、30℃がこれくらいならば、真夏の猛暑日なんかも、まあ暑いは暑いだろうけど、でもそこまで騒ぎ立てするものでもないな、などと思っていた。とても40年生きてきた人間の発想と思えない。鳥なのか。人生の蓄積というものがなにもないのか。でもそのおかげでくじけずに生き続けられているのだとも思う。
 パリ五輪が、金曜日の夜中、土曜日の早朝に、開会していた。時差は8時間ということで、現地の夕方から始まった開会式は、週末とは言え、とても生で視聴しようとは思えないような時間帯なのであった。そして開会式を観ることができなかったオリンピックの、よそよそしさったらない。そもそもスポーツにそこまで興味がないわけで、オリンピックという大会でいちばん興味があるポイントはどこかと言えば、開会式とかなのである。だからもう、パリ五輪の情趣の8割くらいは、掻き消えたと言ってもいい。


 なんとなく、2021年にアップしていた干支4コマ(最終話)を再掲しておく。日本は貧乏くじを引いた、というのは疑いようのない事実で、実行委員会とか、演出家とか、出演者とかが、あんなにもゴタゴタしたのも、みんな新型コロナのストレスで気持ちがクサクサしていたからで、今ならみんなほがらかに、過去の少々の瑕疵など許容して、とにかくいま、より良いものを作り上げることだけを考えて動けたに違いないと思う。それはそれとして気になるのは、果たしてレディー・ガガやセリーヌ・ディオンは、障害のある同級生をいじめたりしていなかったのか、ということだ。
 土曜日の午前中はいつもの買い出し。しかし肉や魚を買うと、氷はもちろんもらうものの、なるべく早く帰らねばならず、あまり何軒も見て回れない。ササっと済ます。
 買い出しの最後に、ニトリに寄って椅子を受け取る。2週間前にファルマンが購入手続きをした、オフィスチェアである。これまで3年くらい、仕事用の椅子に対する不満を唱え続けてきたファルマンが、先日とうとうカタストロフィーが起ったことで、「いつか絶対に買ったるねん」と言い続けていた数万円のそれを、いよいよ買ったのであった。日々あまりに椅子の文句を垂れるものだから、どうせ買うんだから早く買えよ、とこちらもさんざん言い続けてきたわけだが、3年かかった。3年のうちに、世の中の物価は上がり、たぶん今回買った椅子も3年前のほうが定価が安かっただろうと思う。
 帰宅後に組み立て作業をし、ファルマンは座り心地に感動していた。もちろん店頭でさんざん検討しての購入なので、その良さは保証されていたのだけれども。ただし、しばし仕事をしたあと、「すごくいい。すごく快適。でも快適すぎて眠くなっちゃう」などとも言っている。それは知らん。ちなみにこれまで使用していた椅子は、僕に払い下げになった。ファルマンのように家で椅子に座って何時間も作業をするわけではない僕は、これまで適当な折りたたみ椅子を使っていたのだけど、ファルマンには見限られたこの椅子も、それよりは上等なものなので、じゃあ俺が使うよ、棄てるのも面倒な話だし、ということで受け取った。末永く使っていければと思う。
 午後は歯医者へ。今回の虫歯の治療で、とりあえずこのたびの治療計画は終わり。嬉しい。最後に先生から、「まあこの親知らず、やっぱり大学病院に行って抜いといたほうがいい気もしますけども……」と言われるが、やんわりとお断りした。
 それから夕方になり、ファルマンと注文していた鮨を店に取りに行き、そのまま実家へ。実家には次女とその娘たちが、早くも今週から帰省してきていて、じゃあ土曜の夜にみんなで鮨でも喰うか、ということになったのだった。今年はやけにハイペースで顔を合わせていた次女一家だったが、6月が初めて空いて、たぶん2ヶ月ぶりくらいの対面。それにしたって間が短いけれど。2歳児は寝起きでぐずり気味だったが、やはりかわいらしかった。2歳や3歳あたりまでのかわいさらしさというのは、フォルムの小ささはもちろんだが、魂胆や屈託みたいなものがない純粋さなのだな、などと思った。鮨はもちろんおいしかった。盆や正月じゃないので、セットメニューではなくお好みで頼めたので、選ぶのが愉しかった(こういうときの注文はいつからか一任されるようになっている)。
 夜は、帰ってきたら眠気が襲ってきて、舟を漕いでしまい、眠そうにしている人間が嫌いなファルマンにキレられながら、早々に寝就いた。
 明けて今日も暑い。子どもたちが科学館のイベントに行きたいというので、小4のいとこも実家で拾い、連れて行く。ファルマンが引率し、僕は送迎のみ。帰りにスーパーで買い物をして、晩ごはんを焼売にしよう、昨日の礼として実家に持っていけるし、と閃いたので、食材を買い集め、帰宅後は洗濯物を干したり、その下ごしらえなどをして過した。
 子どもたちを回収して昼ごはんを済ませ、午後からは家にいたのだが、果たして家にいていいのか、悩ましい時間を過した。すなわち、泳いだりしたいよ! という悩ましさである。実はいま、ホームプールの会員期間が切れてしまっていて、もちろん改めて会員になるつもりはあるのだが、なにぶん平日は暑さと労働で疲弊気味、そして休日は休日で大混雑でなかなか近付けないとなると、いまいち申し込みをするタイミングが見出せず、今日なんかもわざわざ大行列の中、新規会員申し込みだなんて、俺も嫌だし運営側も嫌だろうと思うと、とても行けやしないのだった。となれば、もういっそのこと海で泳ぐのはどうか、子どもも連れていくとなると大ごとになるので、俺ひとりでパッと行ってパッと帰るというのはどうか、と考えた。でもいかんせん暑すぎる。陽射しが強すぎる。海水浴とはそういうものだ、と言われればそれまでだけど、やはり慣れない身としては尻込みした。というわけで、泳ぎたさに身を焦がし、悶々としつつ、結局は泳ぐことのない週末だった。
 晩ごはんは焼売。実家にも30個分持っていった。干し椎茸、メンマも入れた本格味。もちろんおいしかった。子どもの送迎以外、特に何をしたということもない1日だったけど、とにかく暑かったので、ビールが無上においしかった。

きちんと堪能した3連休

 金曜日の夜は昨年12月の忘年会以来の、職場の集まりでの飲み会だった。忘年会だけかと思ったら、納涼もやるのか。意外とやる職場だな。しかし意外とやる職場なのに、不可思議なほどに素地はなくて、前回に引き続き今回もまるで盛り上がらなかった。いったい、誰の意欲によって開催されている行事なのだろう。謎である。
 会は2時間でパッと終わり、帰宅もスムーズだったが、いかんせんただでさえ疲弊している1週間の仕事後の飲みの席ということもあり、シャワーを浴びて、ファルマンたちが食べた親子丼が少し残っていたので、そうめんを茹でて上からかけ、親子にゅうめんにして啜っていたら、もう途中から舟を漕ぐほどに眠くなったため、3連休の幕開け前夜だというのに、普段と変わらないくらいの時間に寝就いた。
 目が覚めたら、アラームもないのに起床時間もいつもと一緒だったので驚いた。体内時計アプリが完全に体にインストールされている、と思った。休みの日はいつも躍起になって夜更かしし、親の仇のように生活のリズムを崩そうとしてしまうが、もちろんそんなことはしないほうが断然いいのだ。休日なのに普段通りの時間に起きたら、午前中が長かったので得した気持ちになった。そして長い午前中は、いつものようにスーパーを巡って過した。ただしあまり収穫は芳しくなかった。じわり、じわりと物の値段が高くなり、それに呼応してじわり、じわりとこちらの購買意欲は下がっているのを感じる。
 それとこの午前中に、部活のなかったポルガが「カラオケに行きたい。ひとりで」と言ってきたので、買い物のついででカラオケに連れていって、会員になるなどの受付まで立ち会ってやった。そしてポルガは人生初のひとりカラオケを堪能したようである。こんど友達と行くそうで、その予備練習ということらしい。そうか。まあ中学生ともなれば、もう家族とは行かないわな。寂しいけれど、それはそうだな、とも思う。行きの車で、「もしも中学生ひとりはダメだってお店で言われたら一緒に歌ってあげようか?」と訊ねたら、「その場合は帰る」という答えだった。なんかもう、すっかり中学生の娘だな。
 午後になり、カラオケを終えたポルガの迎えは全員で出た。そのまま墓参りを行なった。こちらのお盆は8月ではなく7月なのである。3月に亡くなった義祖母にとっては新盆となり、ファルマンだけが明日、実家での催しに参加する予定がある。墓はこの午前に実家の面々が来たとのことで、花も真新しかった。一家で線香だけ上げ、辞する。
 その帰宅後は慌ただしく歯を磨き、歯医者へ。実は1ヶ月ほど前から歯医者通いが始まっている。ふいに平日の休みがあった際に、その数日前に奥歯に痛みがあったため、せっかくだから診てもらいなよとファルマンに薦められ、しぶしぶ行ったところ、そのとき痛んだ奥歯は、大方の予想通り、取ろうと思ったら大学病院での手術レベルの処置になるタチの悪い生え方をしている親知らずが原因で、でもそれはもうそのときは痛みが引いていて、今後も適当にごまかしながら生きていくほかあるまい、という結論になったのだが、それ以外の箇所で複数の虫歯を指摘されたので、その治療をしていくことになったのである。今日はその3回目。毎回、2本ずつ虫歯を治されていて、虫歯というのはずいぶんライトに生まれ、そしてライトに除去されるものなのだな、と思った。時代か、僕か、なんかしらのフェーズが代わったのかもしれない。代わったのだろうな。子どもたちは、最初からフッ素を塗ってもらっていて、虫歯などほとんどないし、銀歯なんかもちろんない。ずるい。
 そのあとは、晩ごはんの準備。実はこのあと、おろち湯ったり館へとひとり繰り出す予定を立てていたため、晩ごはんを作っておく必要があったのだ。それで、冷蔵庫から出すだけの、作り置きができるおかずはなんだろうと、午前中の買い物でずっと思案していたが、途中で「南蛮漬けだ!」と閃き、けれど豆アジが手に入らなかったので、豚肉で作ることにした。南蛮漬けはすばらしいアイディアだ、作り置きができるし、なにより気候にとても合っている。いま、とても食べたいじゃないか、南蛮漬け。おろち湯ったり館から帰ったあと、家で豚肉の南蛮漬けとビールだなんて、そんなのもう罰が当たるほどの幸福ではないか、とテンションがいや上がった。
 というわけで夕方から、おろち湯ったり館へ。いつもの週末も、おろち湯ったり館への色気は常にあるのだが、もう1日休みがあれば絶対に行くんだけどなあ、と思いつつあきらめているので、待望の3連休に行かなければ、それはふだんの自分への裏切りだ。今回も男風呂はサウナが広いほうの木風呂だった。1週間ごとに男女で交代しているはずなのだが、最近やけに連続でこちらだ。もちろん広いに越したことはない。まだまだ日が長いので、はじめのうちは明るかった。雲が多く、暑くはなかったが、外気浴でベンチに横たわって眺めるその雲がまったく動いているように見えないほど、風がほとんどなく、外気浴の情趣は少し乏しかった。小雨でも降れば、それはそれで愉快なのだけど、それもなかったので、間の抜けた感じだった。あと習い事の集団なのか、小学生が大勢いたのも閉口した。閉口したけれど、閉口した素振りなどもちろんおくびにも出さない。小学生が集団でいたら、それはそれなりに騒がしくなるだろう。それは仕方ない。それは仕方ないけれど、それでもやっぱり、サウナは「中学生以下は使用禁止」とドアに書いてあるので侵入してこなかったが、水風呂に浸かって「冷てー!」と騒ぎ、水を掛け合ったりして遊ぶのは、さすがに引率の大人が一喝すべきではないかとは思った。しかしまあ、子どもなのでそう長くはおるまい、と思って耐えた。果たして子どもたちはやがていなくなった。そのあとは日も暮れ、なかなかいい時間を過せた。プールへももちろん行き、貸し切りでしばし泳いだ。結果として、おろち湯ったり館としては少しだけ得点が伸びなかった感があるけれど、しかしそれでも別の施設と較べれば十分すぎるほどの高得点である、という感じだった。また行こう。今後は日が短くなる。18時台に暮れなずむくらいのほうが、外気浴としては都合がいい。
 家に帰って、待望の南蛮漬けでビールをやり、幸福に浸る。そしたらそのまま眠くなり、2日連続で舟を漕いでしまう。サウナのあとは殊に眠くなる。まあ起きていなければならない理由もないので、この日も平日のような時刻で眠りに就いた。健康的と言えば健康的であろう。
 翌朝もだらけることなく早めに起きた。ポルガは午前中が部活だったので、その間にピイガと食料品の買い出しへ。済ませて帰ったあとは、ファルマンが実家での法事へと出かけていき、昼ごはんはそちらでの会食なので、われわれ3人は家で、買ってきた総菜パンやインスタントラーメンをもそもそと食べた。食べたあとポルガは学校の友達と遊ぶと言って近所の公園へ行き、やがてファルマンが帰ってきた。坊さんの話が長かった、という感想だった。まあお盆なんて坊さんの話を聞くだけの会みたいなものだから、そうなるわな。用意だけして、手を付けられなかった和菓子なんかがわが家に流れてくるかな、と期待していたが、残念ながらなかった。しばらくしたらポルガが帰ってくる。蚊にとても刺されたそうだ。雨上がりの公園で話していたそうなので、それは刺されるに決まっている。出発前に気にしてやればよかったが、思いが至らなかった。ただ、中学生なのだから自分でやれよ、という気もする。
 午後はずっと家にいて、僕はなにをしていたかと言えば、ファルマンの服を作っていた。いよいよ最後の大詰めとして、ワンピースに取り掛かっているのだが、1枚だけワンピースであるのに加え、生地もかなり特殊なものを選んでしまったので、なかなか難儀していた。それでもなんとか形になったのだが、まだボタンのことなどをする前のものをファルマンに羽織らせてみたところ、これはなかなか着るハードルが高いかもな、という仕上がりで、うーむ、となる。ワンピースって、ちょっと賑やかな柄で作ると、途端にムームーっぽいというか、ソーラン節の法被みたいになるな。ちゃんと完成したら「nw」で報告しようと思う。
 晩ごはんは手巻きずし。3連休の中日ということで、今日は早い時間からダラダラと、手巻きずしをしながら家族で桃鉄をやるという、とても優雅で満ち足りた時間を過そうではないかと画策していたのだった。期待通り、手巻きずしは美味しかったし、桃鉄はおもしろかった。家族とのこういう時間は本当に尊いと思う。
 夜は、晩酌で2週間ぶりの「光る君へ」を観たあとも、ようやく舟を漕がず、起きていようと思えば起きていられるような感じだったが、無駄に夜更かしをしてもつらくなるだけだということは判っていたので、それなりの時刻に寝た。理性的な大人だ。
 明けて3連休最終日の今日は、なんの予定も計画もなく、ポルガが午前の部活から帰ってきたあとで、ちょっとゲームセンターやショッピングセンターに出向いた。ゲームセンターでは、子どもたちはリズムゲームをやっていて、愉しそうだった。もしかしたら、と言うか、もしかしなくても、もう娘たちは、公園の遊具よりもこっちのほうが愉しいのかもしれないな、と思った。
 帰宅後、買って帰ったブリーチ剤を、ファルマンにやってもらう。脱色はいつ以来かと検索したところ、去年の9月にその記述があり、そのあとにもう一度くらいやったのではないかという気もするが、近ごろはもうほとんど黒髪に戻っていた。それで、どうしようかなあ、また髪色を変えようかなあ、いや別にこのままでもいいかなあ、とこのところ大いに迷っていたのだが、今日ようやく決意し、やっぱり脱色することにした。というわけで、とりあえず金髪になる。ここから色を入れるかどうかは、まだ未定。
 晩ごはんは、煮豚やフライドポテト、昨日の残りのアボカドでアボカド納豆や、同じく昨日の残りのたらこで餃子の皮のピザなど、得意のつまみいろいろ居酒屋献立。湿った重たい空気もあり、3日ともビールがとてもおいしい3連休だった。やっぱり3連休はいいな。GWの4連休のあとは、なんか精神のバランスを崩してしまったので、3連休くらいがいちばんいいのかもしれないな、と思った。

7月週末

 暑くて気力が湧かない日々である。毎年のことである。去年の7月はどう過していたのだっけ、と1年前の日記をざっと読み返したら、上旬はやはり気力が湧かないと言ってインスタグラムばかりやり、そして下旬は一家でコロナっぽい体調不良に見舞われていた。そうか、あれはこの時期のことだったか。つまりは暑さで体が参り、免疫力が落ちていたのだろう。気を付けなければ、と歴史に学んで思った。これが日記を書いている果以というものだな。
 週末は、土曜日はあまりにも高温の晴天で、これはもう海へ、プールではなく海へと繰り出すチャンスなのではないか、と心がざわついた。海で泳ぐということを、したいしたいと言いながら、もう何年も踏ん切りがつかずにいて、それが可能な期間は実質的に8月初頭くらいまでだと思うので、これはもう今年あと何度あるか知れたものではない、限られたチャンスなのではないかと思った。ところが情報を探ったら、波浪注意報と高潮注意報が発令されていて、でも注意報かー、うーん、としばし思案して、結局やめた。海で泳ぐことのモチベーションは、クリスタルグラスのようにとてもセンシティブなので、ほんの少しの瑕疵で簡単に崩れてしまうのだった。したい気持ちそのものは、結晶のごとく純度が高いのだけど、しかし同時に質量的にとても微かだ。さああと約1ヶ月、今年はどうなるかな。
 仕方なく土曜日はファルマンのブラウスと、売るためのスイムウエア作製に勤しんだ。おかげでどちらも目処がつく。スイムウエアに関しては、先日購入した生地で裁断した分を、すべて作り終えた。5種類の生地、それぞれ3枚分が取れたので、15枚できた。ただしそのうち1枚ずつは自分用なので、売る用は10枚ということになる。ちなみに何度も言うが、これまでに売れた枚数は1枚である。1枚売れたら、10枚作るのか。阿呆なのか。ちなみにファルマンのブラウスも、2枚できた。既に1枚できていて、当初は2枚の予定だったが、途中でいい生地を見つけて追加したので、合計3枚ということになった。それとワンピース1枚。それはこれから。
 晩ごはんは、たらこスパゲッティとミネストローネ、そしてとうもろこし。あとたんぱく質が少ない気がしたので、鶏もも肉を1枚ソテーにして出した。「新しいカギ」を観ながら食べる。おいしかった。番組内で「ティーチャーを探せ」というコーナーがあり、高校の生徒の中に教師が紛れ、それを出演者が探し当てるというゲームなのだが、おもしろいなあと思いつつ、やはり騙せるのは20代半ばとかの教師ばかりで、40よりも上の教師は、おもしろ違和感要員みたいな扱いになっているさまを眺め、身につまされる部分もある。当たり前なのだけど。2年後には自分の娘も高校生なのだけども。
 日曜日は、午後にゆめタウンへと繰り出し、子どもの夏用の服を何枚か買った。あとポルガが「プリクラを撮りたい」と言い出し、それも目的のひとつだったのだが、わが家としては珍しく3階に上がり、ゲームセンターコーナーへ足を踏み入れたら、その雑多な雰囲気にすっかり気圧され、当初の目的は果たせなかった。しかし帰りに、近所のスーパーマーケットに寄って、そこにはまったく流行っていないゲームコーナーがあるのだけど、そこにもいちおう今時っぽいプリクラ機が1台置いてあるので、そこで撮った。ポルガはひとりで、ファルマンとピイガはふたりで。プリクラをひとりで撮るのって、世間の人はあまりしないことのような気もするが、何を隠そう僕もファルマンも中学時代にやっているので、これは血筋というものだな、などと思った。
 晩ごはんは、手羽元のさっぱり煮と、ミネストローネの残りと、長芋とたらこのサラダ。今日は「桃鉄」をしながら食べた。今年のはじめに一家でやっていた桃鉄は、しばらく休眠していたが、ちょっと前から再開している。いま30年を超えたところ。
 日曜日の夜は録画した「光る君へ」を観ながら晩酌というのが、今年のとても大切な時間だというのに、とある地区の知事選を理由に放送がなく、憤懣やるかたない。知らんよ。なんでだよ。他の地区の知事選は、番組開始と同時に速報テロップが入るだけなのに、なんでなんだ。知らんがな。関係ないがな。都民だけ土曜の再放送を観ればいいだろう。
 まあそんな週末でした。

梅雨入り週末

 中国地方、ようやくの梅雨入りである。遅い。そして満を持しただけあって、紛うことなく梅雨である。梅雨入り前と梅雨入り後が、マーブル状に入り交じるということは一切なく、21日の金曜日の開始時点からきっぱりと梅雨だった。それくらい空気が違った。重みが違う。戦中派と戦後生まれの発言くらい重みが違った。
 土曜日も雨が強く、いつものスーパー巡りのほかは、どこへも出掛けなかった。正確には、夕方にひとりプールに行こうとしたが、なんと駐車場が満車で、車内から眺めたエントランスは人で溢れていたため、すごすごと諦めてそのまま帰った。みんな、雨だから屋内プールくらいしかないな、という発想であろうか。まあ蒸し暑いしな。泳げなかったのは残念だったが、通っているプールが繁盛するのは大事なことだな、などと思った。なんと心が広いのか。
 それ以外は家でなにをしていたかと言えば、まあ裁縫をしていた。先日、Yahoo!フリマに出品している水着が初めて売れて、気を良くして売上金をだいぶ上回る金額の新しい生地を仕入れたので、それで水着を作っていた。まとめて裁断し、ひと工程ずつをいっぺんにやっているので、1日かけて完成品はまだひとつもない。水着はまだ1枚しか売れていなくて、もしかしたらちょっと売値が高いのかもしれないと思い始めているが、しかしこうして製作に取り掛って、作業量のことを思えば、まあ順当なところだろ、などとも思う。
 あとそれ以外に、ファルマンに服作りを懇願されたので、そちらにも取り掛かっている。服を買ったりするのが嫌すぎて、作ってほしいと言うのである。生地代や作業報酬を足せば、ファストファッションの服などはぜんぜん買えるような金額になるのだが、それでもいいから、選んで買うという手間を省きたいらしい。もしかして妻は前世、深窓の令嬢だったのかもしれない。こちらにとっても悪い話ではないので受け入れた。ブラウス2枚、ワンピース1枚を作る予定。
 晩ごはんは野菜たっぷりのスパゲッティと、あととうもろこし。とうもろこしを、丸ごとラップに包んでレンジにかけたもの。今年初で、おいしかったし嬉しかった。家族がとうもろこしにかぶりついている食卓の風景は愛しい。
 日曜日もだいたい同じような感じに過す。ファルマンのブラウスは最初の1枚がほぼ出来上がるが、ちょうどいいボタンがないことが判明し、その仕入れ待ちという状況。ちなみに水着はまだ完成しない。午後に念願のプールにありつく。賑わっていたが、入ってしまえばストイックに泳ぐコースにはあまり関係がない。久しぶりに800mも泳いだら、ヘトヘトになってしまった。晩ごはんは餃子を作った。僕の餃子のおいしさの安定感はすごい。そこまで特別なことをしているわけではないのに、いつも異様においしい。もう僕がおいしい餃子を希求するフェーズを抜けて、餃子陣営が僕のほうに寄ってきているのだと思う。それくらいおいしい。しかしおいしくて食べすぎた。プールでは泳ぎすぎるし、餃子は食べすぎる。わんぱくな日曜日だった。
 夏との折り合いは先週よりもだいぶついてきたように思う。

夏との折り合いと父の日のおくび

 先週の日曜日、これは梅雨に入ったな、ということを呟いたが、蓋を開けてみればぜんぜん雨の降らない1週間であった。気象庁的にも中国地方はまだ梅雨入りの宣言が出されていないようである。しかし降雨こそないが、どうにも湿り気のある暑さで、体がしみじみと重い。30℃になんなんとする気温に、まだ体が対応できていないというのもあるだろう。労働を終えて、帰宅し、晩ごはんを食べたら、あとはもうひたすら眠だるい、という日々だった。夏はこれから3ヶ月あまり続き、さすがにずっとこんな調子ということはないはずだ。どこかでこの暑さと折り合いをつけるときが必ず来る。なるべく早く来ればいいと思う。
 土曜日は毎週定番の買い出しに出る。生鮮食品のほか、ボディーソープを買った。選んだのはにおい対策を謳ったもの。これも夏の出だし特有の現象だろうが、1日かけてじっとりと醸成された汗などのにおいが、夕方ごろにはひどいことになっているような自覚があり、それはとてもテンションが下がることなので、速やかに打開したいと思った。
 晩ごはんはお好み焼きにする。ちなみにだが、今週は父の日ということで、去年のそれを確認しようと思って当該記事を読んだら、なんと1年前のこの土曜日の夜も、僕はお好み焼きをやっていた。先週のゴールデンユートピアおおちに続き、なんか空恐ろしくなった。たぶん去年の僕も、このむしむしとした気候に際し、あまりゴテゴテしたものは食べる気にならないし、かと言ってあまりにもさっぱりし過ぎたものも力が出なそうだしと逡巡した結果、キャベツたっぷりのお好み焼きへと思考が帰着したんだろう。分かるよ。
 今週は、ポルガが試験前で部活がないので、2日とも朝がのんびりだった。そして朝はまださすがに涼しいので、眠りの質は悪くない。平日はどうしても睡眠量に不満があるので(もっと早く布団に入ればいいのだが、起きていたい気持ちもあるわけで、なかなか難しい)、休日は思う存分に二度寝三度寝してやろうと意気込んでいたのだが、いざ休日を迎えてみれば、なぜかそこまで眠れないのだった。平日の朝の、既定の時刻に起きなければならない恨めしさの分だけ、休日にその鬱憤が解消されればいいのに、意外と「もういいかな」という感じで目が覚めてしまう。生きるのが下手なのだろうか。
 明けた日曜日も、買い出し以外は特に出掛けることはせず、ファルマンと子どもたちは昼間に実家へ行き、三姉妹からの父の日のプレゼントの贈呈などをしていたが、僕は参加せず、家でのんびりと過した。なんだか今週末は本当にぼんやりとしてしまったな。
 晩ごはんは、スーパーで買った鮨。ちなみに去年は手巻きずしをしていた。鮨はもちろん美味しく、充足感があった。まだ残っているので、このあと「光る君へ」を観ながら、酒を飲みつつ、つまもうと思う。いい時間だな。
 ちなみにわが家の父の日らしいムーブとしては、ピイガとファルマンとで、プリンを作ってくれた。うん、と思う。父の日でプリンと言うが、ほぼ同一サイズの容器に7つ作製し、3つを実家に持っていき、わが家で4つを食べたので、こう言ってはなんだが、ぜんぜん特別扱いされていない。そのことに少しだけ、釈然としないものを感じている。まあそんなこと、おくびにも出しませんけどね。おくびにもね。

ファルマンの運転とふたつの耳すま

 ポルガの部活がない土曜日だったので、普段より多少色を付けたお出掛けをしたいと考えた結果、ゴールデンユートピアおおちへと繰り出すことにした。去年行ったときはウォータースライダーが貸し切りだったのだよな、いつ頃だったろう、今よりももうちょっと夏の気配が遠い、5月下旬くらいのことだったかしら、などと思いながら自分の日記をあたったら、6月10日のことだった。虎舞竜の「ロード」並みに、ちょうど1年前なのだった。ちなみにその日の日記も、「土曜日はポルガの部活がなかったので、」という書き出しで始まっていて、なんか人の営みというものは、田んぼに水が張られると蛙の合唱が始まるというのと同じくらい、実はシステマティックなのかもしれないと思った。
 目的地までは、途中に無料の高速道路も含んだ1時間弱の道のりなのだけど、今回はこの運転をファルマンにしてもらうことにした。わが家には車が2台あるわけだが、普段ファルマンは専ら軽ばかりを使っていて、フリードを前に運転したのは、鳥取旅行の帰りに本当に少しだけ運転を代わったという、数年前のそれが唯一なのだった。しかし今後、ファルマンがフリードを運転する必要に迫られる場面もあるやもしれないので、どこかで練習をしておきたいね、ということを前から少し話していた。それを今回、実行することにした次第である。先日ドライブレコーダーを設置したことも、この練習をするにあたっての援助となった(ただし逆にとんでもない過失が記録される恐れもあるわけだが)。
 結果的にこの首尾はどうだったかと言えば、ひたすら軽だったとは言え、やはり当時から2年以上の経験を積んだことで、鳥取旅行の帰りのときほどどうしようもない感じではなくなっていて、最初こそ「これセンターラインはみ出してない?」みたいな、車体感覚が掴めていないがゆえの恐怖はあったが、それもしばらく運転していたら整った。高速道路では、軽にはない自動運転機能を作動させる、その作動のための操作を実習する予定だったが、「まずハンドルの右にあるそのボタン」とこちらが言っても、「ハンドルなんか見られん」と、前方から一瞬も目を逸らさないので(正しいことではあるのだけど)、結局機能を作動させることはできなかった。あと高速の出口では、普通に反対車線に出そうになったので、とてもおそろしかった。「曲がった先に車線がふたつあると、自分が走るのが右か左か分からなくなる」と言っていて、なんでだ、日本からいちども出たことがないくせになんでだよ、と思った。とまあスリリングな要素はあるのだけれど、とりあえずいざとなればファルマンもフリードを運転できないことはない、ということが確認できたのはよかった。
 到着したゴールデンユートピアおおちは、相変わらずの非日常空間で、ウォータースライダーも貸し切りでこそなかったが、家族が数組だったので、順番待ちで並ぶということもせず、あのグループがやっているときはこっちは普通のプールで遊び、空いたら次の時間帯はわれわれがひとしきり占有する、みたいな感じで、ストレスなく平和に遊ぶことができた。やっぱりわざわざ行く価値のある、なかなかいい施設なのだった。
 帰りは僕が運転した。ファルマンが行きの運転でグロッキーだったというのもあるが、助手席というのはとにかく退屈なものだということを、久しぶりに長い時間自分が運転しない車に乗っていて感じたのだった。だからまあ本当に、いざってときだな。
 帰宅後はプールあとの気怠さもあって、各自ぬるぬると過した。夜になって、近ごろ週末のテレビがぜんぜんおもしろいものをやっていないので、もういっそのこと映画を観ようという話になり、そうなってくるとわれわれの場合どうしたってジブリで、じゃあジブリのなにを観ようかという議論の結果、「耳をすませば」ということになった。人生何度目か知れない「耳をすませば」。観始める前は、実は少し怖かった。もしも「耳をすませば」を観て、ぜんぜん思春期のキャラクターにときめけなくなっていたらどうしよう、と思ったのだ。しかし杞憂だった。ぜんぜん無理することなく、ときめけた。自分の子どもが中学生になってもなんの問題もなくときめけるのならば、もう一生大丈夫なのかもしれない、と安心した。願わくは死の床でもこの映画を観て、ときめきにとどめを刺されて、キュン肺停止のキュン不全で昇天したいものだと思った。
 そんな感動の夜だったので、翌日の今日、昨日の余韻が残っているうちに、2年前に上映された実写版の「耳をすませば」を観てみようじゃないか、ということになった。上映当時から存在はもちろん気になっていて、機会があれば観たいと思っていた。それが先ごろからプライムビデオに追加され、そして土曜日にジブリ版を観たとなっては、この日曜日に観る以外ない。というわけでおやつのあと、晩ごはんまでの時間帯で、ファルマンと観た。感想は、なんとも言い難い。純然たる疑問として、どうして作ったの? ということを思った。いろんな意味で、どういう意図で作られることになった映画なのか、さっぱり分からなかった。今後のジブリ版との付き合いのため、この観賞はなかったことにしようと思った。
 そんな感じの週末だった。土曜日の夕方から降り始めた雨は、今日一日ずるずると降ったり止んだりを繰り返していて、これはあれだな、梅雨だな、と思った。

ゆる週

 ピイガが今週、初めての宿泊行事、すなわち人生で初めて家族と離れて眠るというイベントに行って、無事に帰ってきた。なのでピイガのいない晩、わが家は夫婦と思春期真っ盛りの娘という3人で、まるで火が消えたようだった。ファルマンが、ピイガへの恋しさを訴える独白ばかりが、残りのふたりに完全に無視され、むなしく唱えられ続けた夜だった。
 行事でどんなことをしたのかは知らないが、疲労感もあり、さらには筋肉痛だとも言うので、この週末は天気こそよかったものの、ポルガもまた土日両日ともに部活だということもあり、特に大きな外出はせずのんびりと過すことにした。
 なにより車検という用件もあった。このたびフリードが初めての車検を迎え、この週末に1泊2日で作業してもらう算段になっていた。土曜日の午前中に車を店へ持っていき、代車で帰宅する。ちなみに代車はフィットだった。
 午後は夕方近くになって、ひとりプールへと繰り出す。今週はなんとなく気が乗らず、平日にいちども行かなかったのだった。行ったら行ったで気分はいいのだが、どうも今年の5月というのは総じてテンションの上がらない月間であった。来月からはすぱっと切り替えたいものだと思う。
 晩ごはんは、ミートドリアと、手羽先を揚げたもの。土曜恒例の朝市で、新鮮そうなアジが売られていたが、どうも魚の気分ではなかった。そして思案の末に繰り出した洋風のメニューは、なかなかよかった。やっぱり週末はパーティーメニューっぽいものがいいよな。
 ちなみにこの週末から、ファルマンの両親は青森に旅行に行っているらしい。ファルマンは、青森に行くなら斜陽館に行くべきだとおすすめをし、両親は娘の提案を受け入れたそうなのだが、今になってファルマンは、「両親は別に太宰ファンでもないのに、果たして行って愉しめるだろうか」と不安を抱いていた。しかし、まああの人たち(主に母)のことだから、行ったら行ったで自分がこれまでも熱心なファンだったかのように愉しめるに違いない、と自分で自分を安心させていた。たしかにそうだろうと僕も思う。若い頃は、浅くミーハーなそういった性分のことを、軽く見るところがあったけれど、実はその能力は、人生を愉しむ上で、とてもすばらしいものなのではないかと感じるようになってきた。この話の流れでファルマンと、いつか行きたい場所、食べたいものはあるかという話になって、僕はしばらく思案したのだけど、特に何も挙げることができなかった。結局、いわゆる「推し」というものがなにもないので、外の世界に強い魅力を感じることがないのだ。でもそれって、とても生きづらい生き方なんじゃないのか。回復アイテムを拒むモードでゲームをクリアしようとしているんじゃないのか、無意味に。特にこうやって、テンションの上がらない5月を過したりしていると、ことさらにそんなことを思う。
 翌日、車検が終わったフリードを回収する。車検代はやはりデデーン、という金額。もっとも今回はドライブレコーダーの取り付けを依頼したことで(品物はネットで買った)、その工賃も含まれているので余計に高いのである。ドライブレコーダーは、車を買ったときも、特に必要ないかな、と思って取り付けをしなかったのだけど、最近になって、別にヒヤリハットがあったというわけではないが、やっぱりあったほうが安心か、ということになって設置することにした。ネットでそれなりの商品を選び、取り付け作業をどうしたものかと考え、ネットで情報を見ると「がんばれば自分でできる」などと書いてあるが、決してできない(特にリアカメラは無理だ)ことを僕は知っているので、どこかしらのプロに頼むしかないなあと思っていたのだが、折よく車検というタイミングだったので、じゃあもうあちらさんに一緒にお願いしてしまうか、ということになったのだった。というわけで帰ってきたフリードには、ドライブレコーダーのモニターが設置されていた。プロの手によるので、もちろん配線なんかもすっきりしてなんの問題もない。いろんな意味で安心だ。
 それから午後は、本当に外出することなく、僕はいったいなにをして過しただろう、特になにをしたということもなく、ゆるゆるしてしまった。よろしくないな。でもよろしくないという自覚が持てているので、まあ良しとするか。どうだ、この力業の前向きさは。
 晩ごはんはハンバーグにし、付け合わせも彩りよく作ることができて、わりと満足感が強かった。明日からは天候が荒れるらしい。ぼちぼち風も強くなってきた。眠りが浅くなったら嫌だなと思いつつ、これから寝るまで愉しく過そうと思う。

幻の塔とおろちとザ・セカンド

 先日ふとした瞬間に、ある風景が脳裏に浮かんだ。
 それは緑生い茂る山の中、小径のようになっている先に、こじんまりとした白い塔があって、上った先にはとても見晴らしのいい景色が広がっている。僕はそこを、小さいポルガとともに訪れていた。そんな情景だった。
 浮かんだそれは淡くぼやけた、とても曖昧な景色だったので、それが実際の思い出なのか、あるいは夢なのか、判断がまるでつかなかった。これはあそこだな、という場所が思い浮かばず、小径の先に白い塔、という舞台設定がやけに嘘くさく思え、どうやら夢のほうがだいぶ優勢だな、と思った。
 ファルマンに相談したところ、そのふわっとした手掛かりで、さすがである、「それは一の谷公園ではないか」とすぐに突き止めてくれた。一の谷公園。第一次島根移住において、何度か行ったことがある。そう言えば第二次では行っていない。記憶の中に小さなポルガだけがいて、ピイガがいないこととも辻褄が合う。「画像があるかもしれん」とファルマンは出そうとしてくれたが、ポルガが小さい頃の写真は膨大な量なので、探し当てることはできなかった。しかし言われてみればたしかにそうだ、あれは一の谷公園だ、という思いが強まった。
 というわけで、実際に行ってみることにした。夢ということで処理しかけていた場所が、実は現実に存在する場所だった、というのは、実際にその場に行くと、滅多に味わえないような精神体験ができるのではないか、などと考えたのだった。
 土曜日の昼過ぎ、部活終わりのポルガを学校まで迎えに行って、そのまま向かった。ドラゴンメイズのときと同じパターンだが、別にそこまで遠いわけではない。
 一の谷公園は、かなり急勾配の坂道を上った先にあった。そう言えばこんな道のりだったな、とその時点で懐かしく、駐車場の感じも見た瞬間に記憶がよみがえってきて、懐かしかった。岡山在住時代、島根に帰省した際に来たこともあったような気がしないでもないが、定かではない。なかったのだとしたら、なんともう10年ぶりくらいということになる。
 入ってすぐの東屋で、持ってきた弁当を食べる。今日は食パンがたくさん家にあったので、サンドイッチならぬハンバーガー的なものを拵えた。顎が疲れたが、まあまあおいしかった。腹ごしらえをしたあとは、公園を散策する。遊具は、あるにはあるけれど、閉鎖中のものが多く、そもそもそこまで大規模ではない。園内の家族連れも、連れてきている子どもは幼児が多かった(10年前の自分たちのようだな、などと思った)。
 遊具よりも、この公園の骨子はなんと言っても自然だ。山にそのまま作られた公園なので、アップダウンのスケールがすごい。さらには、いい意味でも悪い意味でもなく、わりと整備が行き届いていない感じがあって、山に作った公園という人工的な部分が、端のほうからじわじわと山に飲み込まれつつあって、その感じが独特のエモさを演出していた。


 座面の木材の隙間から花が顔を出しているベンチ。
 

 かつては切り拓かれていて、座ればなんかしらの見目好い風景が見られたのかもしれないが、今では草木に侵食されてなにも見えない、そもそも草木が座面を占領していて座ることができなくなっているベンチ。
 ああ、文明って、運営され、管理されなければ、やがてこうやって自然に還るのだな、ということをしみじみ思った。
 そして、途中少し道に迷ったりしながらも、なんとか目的の場所にたどり着いた。


 さすがはいちど夢に違いないと思っただけあって、実際に目の当たりにしても、なんとなく夢の中にいるような気持ちにさせるスポットだった。あまりにもベタだが、ここまでの風景を含め、いよいよ抵抗することができなくなって、ここでとうとう「ラピュタは本当にあったんだ! 父さんは噓つきじゃなかった!」と口に出して言ってしまった。ここまで来れば自分たち以外に人の姿はなく、山の上からさらに高い場所に行くので、気分は完全にラピュタのそれであった。
 塔の屋上からの景色は格別だった。快晴の五月の空の下、見おろす森の木々、そして出雲の街の風景は、感動的だった。急に思い出して、そして場所を突き止めて家族とふたたび来ることができて、なんだかとても貴重な体験をしたな、と思った。
 階段を下りてから、塔の横に立てられた案内板によると、これは1970年に地元のライオンズクラブによって建てられたのだそうで、1970年と言えばもう54年前ということになる。ライオンズクラブと言えば地元の名士たちの集団なわけで、54年前の名士たちは、おそらくもう全員が鬼籍に入っていることだろう。人間の営みというものは、尊いような、虚しいような、とにかくとても切ないものだな、と思った。

 この日の夕方からは、晩ごはんの準備をしたあと、僕だけおろち湯ったり館へと繰り出した。そろそろおろち湯ったり館を済ませておかないといけない、発作が起りそうな機運が高まっていたので、その処理のために行った次第である。サウナの回数を経るにつれ、だんだん暮れなずんでゆくような、そんな時間帯がいいという狙いのもと、18時過ぎから20時過ぎくらいまでの時間を過した。狙いはぴたりと嵌まり、とてもよかった。1回目の外気浴では、まだまだ夕暮れというにも早いくらいの青空で、日中の一の谷公園の塔の屋上でもそうだったが、おとといあたりににわかに激しい風雨があったことで、どうやらとても空気が澄んでいるらしく、青々とした若木の繁る山々が鮮やかで、その風景がサウナ後の軽い酩酊によって軽く揺らぐので、笑い出したくなるほど満ち足りて愉快だった。途中でプールを挟んだりしつつ、2回目の外気浴はまさにマジックアワーというタイミングで、東の空から徐々に群青色に染まりはじめ、3回目ではすっかり全体が薄暗くなった。毎回異なる空の様子が味わえて、大成功だった。今回もこちらの高すぎる期待に、見事に答えてくれたおろち湯ったり館であった。
 帰宅後は、録画していた「THE SECOND」を、ファルマンと晩酌しながら、おっかけ再生で視聴する。金属バットは金属バットらしくてよかった。彼らは優勝したくなったらしたらいいんだと思う。ななまがりが、初戦のパフォーマンスを見てこれは優勝間違いなしだな、ぶっちぎりだな、これはななまがりの大会だったのだなと確信したのだが、結果が敗北だったのでとてもびっくりした。ザ・パンチはとても感動的だった。「死んで~」がご時世的に使えなくなった中で、工夫と技術でかつて以上の輝きを生み出している感じが、愛しかった。最後にいちどだけ出た「砂漠でラクダに逃げられて~」は、元新選組の永倉新八が、年老いてからヤクザに絡まれたとき、威圧感だけで退散させたというエピソードのような、そんな痛快さがあった。また博多大吉のコメントもさすがだと思った。

 明けて今日は、ぐだぐだと過した。今日ぐだぐだと過すために、土曜日におろち湯ったり館の義務を済ませていたわけで、近所に買い出しに出たほかはずっと家にいた。家でなにをしていたかと言えば、ピイガがこんど学校で初めての宿泊行事に行くので、バッグに名札を縫い付けたり、また夏に向けてオリジナルTシャツを作ろうかという気持ちがじわじわと募ってきたので、久しぶりにステカを稼働させたりした(予想通り、まだ調子が整わない)。天気はずっと曇りという感じで、過しやすかったと思うと同時に、公園もおろちも、外気を堪能する系のことを昨日やっといて本当によかった、と思った。

要点を押さえたGW後半

 GWの後半が終わろうとしている。つまり今年のGWが終わろうとしている。寂寞である。
 初日の5月3日は、次女一家がこの前日の晩に移動して、既に実家に来ていたので、午前中から出向いた。春休み以来なので、1ヶ月ぶりでしかない。とは言え次女の第二子は、この間に1歳児から2歳児へという、年齢が2倍になるという大いなる躍進を遂げたのだった。すごいなあ、生まれたばかりの頃というのは。
 人が多かったので、昼ごはんの準備は買って出ることにした。材料はもちろん、ホットプレートまで持ち込んで、ソース焼きそばを作る。4玉を3回やった。
 食べたあとは、なぜだか出雲大社に行こうという話になって、僕の車と次女の夫の車の2台に分かれて出発した。地元民がGWに出雲大社に行くなんてものすごく馬鹿げた話だが、山陰では滅多にないような晴天だったので、出掛けないというのも阿呆らしく、出雲大社はともかく稲佐の浜を歩いたらさぞ気持ちがいいだろうと思った。なるべく混まない道から行こうと考え、大鳥居をくぐってご縁横丁を進む正面ルートではなく、裏側の稲佐の浜のほうから入るコースを選んだのだが、熟慮の果以むなしく、ひどく混んでいて、駐車場に入るまでだいぶ時間が掛かった。いざ駐車場に入る直前まで来たら、交差点の向こう側の、正面ルートから来る車はそこまででもないように見え、もしかしたら最近急に言われ始めた、「稲佐の浜の砂を持って出雲大社の砂と交換するのが正式な参拝法」という、これまで地元民は聞いたことのなかった言い伝えのせいで、今はむしろこっちの道のほうが混むのかもしれない、と思った。ちなみに道々の車は、全国津々浦々のナンバーで、島根や出雲はむしろ少数派だった。それはそうだ。散歩なのか参拝なのか、というような感じで境内を巡り、帰った。渋滞で時間と体力を喰ったこともあり、もう稲佐の浜はいいか、となった。僕的にはむしろそっちがメインだったのだけどな。
 実家に帰還後は、僕とファルマンだけがいったん自宅に戻り、夕方になってまた出発する。晩ごはんは鮨ということになり、ネットで注文したそれを店で受け取ったあと、実家へ再び赴いた。そして一同で食べた。1日、きちんと一族で過したな、県外に住む娘一家も帰省してきたのだし、GWに1日くらいこういう日はあるべきだな、というような日だった。
 翌日、5月4日は、次女一家は向こうの両親とともに泊りがけで広島にプロ野球を観に行く(これはこの一家の恒例行事のようだ)ということで、実家の面々とは絡まず、ゆるゆると過す。ポルガが午前中部活だったので、午後から道の駅キララ多伎へと出向き、昨日の稲佐の浜の雪辱で、海に足を浸したりして遊んだ。3月下旬に来た際は、春先の、まだ冷たい日本海であったが、今回は気候がよかったこともあり、裸足では砂浜が熱いほどだった。海開きはもちろん先で、まだシャワーも稼働していないのに、がっつり海に入って遊んでいる家族なんかもいて、こういう輩って毎年いるよな、と思った。気持ちは分かったけれど。
 晩ごはんは豆アジの唐揚げと、ミネストローネ。前晩の鮨しかり、自分が食事を担当する大型連休期間は、みそ汁が登場しないことが多く、気付けば野菜不足になっていたりするので、2日にわたって使えるような分量でミネストローネを作る。おいしかった。
 食後、せっかくGWだし、ということで久しぶりにトランプを持ち出し、大貧民をした。ちなみにだが、このGWを通し、わが家はとうとういちども誰もswitchを起動させなかったのだった。なんだかすっかりわが家のゲーム熱は下がったな。要するに、あまりゲーマー気質の人間たちではないのかもしれない。各自他にやりたいことがあるのなら、それに越したことはない。
 僕は合間の時間などはどう過していたかと言えば、そこまでバリバリやっていたわけではないが、今年も母の日にリクエストを受けたエプロンを作ったりなどしていた。プールは、会員が4月末で切れてしまい、なにも混んでいるであろうGWに行かなくてもなあという思いから、次の申し込みを先延ばしにしているため、行けていない。サウナもまた、いちどくらい行くかなとも思っていたのだが、結局行かなかった。
 それでは家でひたすら暇を持て余すGWだったかと言えば別にそんなこともなく、なんだかんだでちょこまかと動いた。3日目となる5日は、ポルガの部活もなかったので、午前中から松江へと繰り出した。目的は、ひとえに扱いの悪さによるものだろう、ポルガのスマホの不調を直してもらうためで、せっかく松江に行くのだからということで、なんかしらのイベントはやっていないものかと調べたのだが、意外とめぼしいものは見つからず、わりと純粋に、イオン松江にだけ行って帰った。スマホは店員さんが操作したら、わりとすぐによくなった。これはどうも、ちょっとした設定操作でなんとかなる、「わざわざ来なくてもよかった案件」のようだな、と感じたが、店員さんがやけに感じのいい人で、横溢する「わざわざ来なくてよかった案件」の香りを、ふわっと煙に巻くような感じの説明で、「そんなことなかったですよ案件」にしようとしてくれている様子だったので、こちらもそれに乗っかり、「来てよかった案件」として処理することにした。すばらしい大人たちの処世術だな、と思った。
 そのあと、せっかくだからということで、松江のブックオフに立ち寄る。初めて入った店。しかし近ごろブックオフって、本当に買いたいと思えるものがなく、そしてそれはブックオフではなく、100%僕のほうに原因があるので、かつて愉しめた場所が愉しめなくなったという種類の、いかにも中年的なアンニュイさに襲われるのだった。そしてこの精神の流れは、いつも入店してから思い出すのだ。入店する前は、過去のイメージから、いつもわりと意気揚々としている。ちなみに買わなかったけれど、二次元ドリーム文庫や美少女文庫が、110円の棚にずらーっと並んでいたので驚いた。この現象こそが、僕のブックオフとの距離を象徴しているな、と思った。かつてこれらのレーベルの文庫は、需要によるものだろう、よほど汚れているとかでない限り、滅多なことでは110円の棚には行かなかったのだ。400円とかしたのだ。それが今ではほとんどが110円になってしまった。そして在庫処分のように110円の棚に多く並ぶのは最後の輝きで、そのあとはもはやブックオフというフィールドからいなくなってゆくんだろう。哀しい。並んでいるものには、人生の途中で泣く泣く手離したようなものがわりとあって、ここでまた手元に置いておこうかな、ラストチャンスかもしれないな、などとも思ったのだが、娘たちに隠れてレジを通すのが、不可能ではないだろうが億劫だな、と考えてよした。自分も、ラノベ系文庫エロ小説も、すっかりフェーズが変わってしまったのだな、と切なくなった。娘たちは、漫画や児童書を何冊か買っていた。それでいい。それでいいんだ。
 帰宅した午後は、おやつに買って帰った柏餅を食べ、あとの時間は各自やりたいことをして過した。晩ごはんは、ミネストローネと、スーパーで買った味付きの焼くだけの豚肉だったのだけど、こちらがあまりおいしくなくて残念だった。
 夜は、この前の晩から2日がかりで、金曜ロードショーで放送した「すずめの戸締まり」をファルマンと観終えた。作品の世界観を理解してもらうための説明なんて、いつの間にかもう一切しなくていいことになったのか、と思った。そうだったのか。いつからだよ。
 かくして今日、6日がGWの最終日。ファルマンと子どもたちは午前、兵庫に戻る次女一家の見送りのため実家へ。広島みやげとして、もみじまんじゅうをもらって帰ってきた。僕はエプロンをとりあえず完成させた。今日はもうどこへも行かず、明日からの平日に向けて体制を整えようと思う。
 今年のGWは、遠出こそしなかったが、「渋滞」(出雲大社)、「親戚の集い」、「海遊び」、「高速道路移動」(松江)と、要点だけはやけに押さえた日々だった。というわけで、まあ悪くなかったんじゃないかと思う。ひどい疲労感とかもないし。さあ、ここから夏までは、わりとストイックな日々だな。次女一家もさすがに夏休みまでは現れまい。せいぜい気丈に暮そうと思う。

異世界転生したGW前半

 前半と後半にきぱっと分断されている今年のGWの、前半を終える。
 初日の土曜日は、土曜日なので僕はいつものように、午前中は買い出しに勤しんだ。ちなみに4月の食費も、まあなんとか予算内に収まりそうである。担当している食費のやりくりは、気を抜いたらすかさずオーバーしてしまうような、絶妙な設定になっているため、もう少し余裕があればいいのにと常に思いつつ、なんだかんだで愉しんでいる面もある気がする。
 帰宅して、昼ごはんまでにはまだ余裕があったので、ひとりプールへと繰り出す。ピイガは、混んでいるだろうから、という理由で付いてこなかったのだが、行ってみたら意外と空いていた。世の中、4月はまだプールの機運ではないのかもしれない。
 この日の午後は、どこへ出掛けるということもなく、家で過した。筋トレをしたり、子どもたちの新しいキャスケットを作ったりなど。おやつに白玉を作り、アイスとあんことともに食べる。そして晩ごはんは餃子。ちなみに白玉作りにも、餃子包みにも、もちろんピイガは参画した。そのさまを見て、小学5年生はまだまだ懐っこいものだな、と思ったが、しかしこれはひとえにキャラクターによるものだろう。ポルガはこれよりももっと幼い頃から、食べるものを一緒に作ったりなどまるでしなかった。あいつは将来、どういう食生活で生きてゆくのだろうか。たぶんファルマンの大学時代のような感じになるのだろう。チョコチップスナックと、吉野家と、アセロラドリンクで食いつなぎ、徹夜でネットをし、明け方に寝て、口中に口内炎を作って生きてゆくんだろう。
 2日目は予報どおりに天候に恵まれたので、レジャーデイにする。ポルガは午前中が部活だったため、終了時間めがけて学校まで迎えに行って、そのまま出発する。本当は公園などで食べたかったが、おにぎりを車内で食べた。それでもおいしかったし、テンションが上がった。家族で、車で出掛けて、弁当を食べるの、やっぱり好きだな。車内ではこの日のためにまた、ひとり5曲ずつという約定で作ったプレイリストを流す。僕は最近とてもハマっている歌手から選び、なにしろとてもいい歌なので、家族の心にもさぞ響くことだろうと思ったのだが、全員からポカーンとされたのでショックだった。「山奥のサナトリウムで唄われているような歌」とファルマンに言われ、やっぱり趣味が合わない、と思った。
 レジャーの目的地は、とうとうやってきた、ドラゴンメイズである。雲南市の奥のほうにある、なかなかディープなスポット。目玉は巨大迷路で、存在は前から知っていたのだが、なんとなく機会に恵まれず、ようやく初めての来訪となった。冬は閉鎖するし、真夏は厳しいので、GWというのはこの施設の最も繁盛する時機であろうと推察され、行ってみてあまりにも混んでいるようなら予定を変更し、鬼の舌震にでも行こうかと話していたのだが、もちろんそれなりに賑わってはいたものの、幸いそこまでではなかったため、予定通りに入場した。迷路は選ぶコースによってチェックポイントの数が異なるとのことで、せっかくなのでいちばん多いコースを選んだ。
 このコース選びの説明を受ける段階、もとい駐車場から歩き始めた瞬間からなのだが、いま思い返しても、あれは夢の中の世界だったのではないかと思うような、なんと言えばいいのか、話の通じなさというか、噛み合わなさというか、独特の感性で作り上げられた異常な空気感が横溢していて、とにかく濃厚な体験をした。迷路の要所要所に貼られたポスターには、モチーフが謎のオリジナルキャラクターが描かれ、そいつのセリフの意味がいちいち分からない。また迷路内には、建築基準法や消防法はどうなっているのだろうというような建屋があって、令和の日本とはとても思えなかった。増田こうすけの漫画の中に入り込んだのかと思った。でも総合的な感想としては、「とてつもなく愉しかった」ということになる。そんな不思議でエネルギッシュな施設だった。すべてひっくるめて、こんな体験を家族でできてマジでよかった、と思った。大当たりのGWレジャーだった。
 しかしこの日は気温もかなり高かったので、1時間以上も迷路を歩き回り、だいぶヘトヘトになった。車に戻り、近隣のお店に行って、スポーツドリンクとアイスを買って、全員でむさぼるように食べた。こういうときのアイスの美味しさったらない。そして帰宅後、まだ明るかったがファルマンとすぐにビールを飲んだ。こんなときはビールを飲まなければバチが当たる。疲労とほろ酔いで気怠くなり、とてもいい気持ちだった。
 明けて前半最終日の今日は、ポルガが部活がなかったので、午前中に、GWの特別イベントをやっているという出雲弥生の森博物館へと赴いた。こちらもまあまあ賑わっていた。王墓のボランティアガイドをやっているというのでお願いし、説明を受けながら四隅突出型古墳のエリアを歩いた。回転率などという概念は存在しないようで、とても優雅に、小一時間もかけて案内してくれた。なかなか興味深い話もあって、愉しめた。なにしろ行政が運営する、子ども向けに親しみやすくしているとは言えアカデミックな施設なので、整然とした世界であり、昨日のドラゴンメイズとの落差がすごかった。わが家は今年、ジェットコースターのようなGWを過した、と思った。
 午後は家でのんびりと過した。明日からしばしの平日。そしてGWの後半となる。こちらには次女の一家がまた実家にやってくる予定で、でもどういう日程で来るのか定かでなく、予定が立てづらいというか、もっともそれがなくても、特に計画などはない。ドラゴンメイズもわりと急に決めた感じなので、後半も流動的に、それなりに愉しめればいいなと思う。

のんびりぼやぼや週末

 GW前の週末を、のんびりと過す。
 土曜日の午前中は、この前日にオープンしたブックオフ出雲高岡店へと繰り出した。さらっと書いたが、信じられない文面だ。「ブックオフ」と「出雲」と「オープン」がまさか一文の中に一緒に登場するだなんて。
 ここ数年、更地になにかの建設工事が始まると、ファルマンと「なにができるんだろうね」「ブックオフじゃない?」と言い合うというのが、われわれ夫婦の定番ジョークになっていた。このジョークの笑いのポイントは言うまでもなく、ブックオフが新たにできるはずがない、というところにある。
 そのため今回のオープン、その第一報を聞いたときは、本当に驚いた。ちなみに出雲高岡店というのは、実は2年前くらいに近所の別の場所にあって、それが閉店し、そして今回ホビーオフとハードオフとで合同で新オープンということなので、本当に純粋な新規開店とは少し違うのだけど、それでもすごいことに違いない。
 行ったらもちろん大盛況だった。駐車場は満車で、順番待ちをしてようやく停められた。オープン記念セールなどはなかったのだが、やっぱり地元民の注目度はかなり高いのだった。
 ブックオフができたと言っても、ホビーオフとハードオフとの合同店舗なわけで、本の領分はそんなに大きくないのだろうと覚悟していたのだが、それはまあ事実としては事実だったけれど、在庫が多ければいいというものでもなく、中古屋というのは新陳代謝がどれだけいいかだと思うので、本だけの店よりも集客が良くて、その恩恵により書籍の巡りもよくなるのであれば別にいいな、と思った。
 ホビーオフやハードオフのほうの売り場も眺め、なるほどなあ、などと感じ入った。紙の本が売れなくなって、かつて勤めていたような新刊書店が苦しむのはもちろんのこと、ブックオフも減る一方だと思っていたが、その一方でメルカリやセカンドストリートなどが、リユースの市場を拡大し、なにより人々の中古品に対する意識を変化させて、このような発展を見せ、それが結果としてブックオフを新しく開店させたのだから、なんだか世の中って不思議だな、と思った。大型動物が死んで、それを分解するための微生物が増殖し、その栄養素で植物が繁茂し、その植物のおかげで昆虫が増えるような、なんかそんなサイクルのようだと思った。目の前に困窮があるとすぐに絶望してしまうけれど、長い目で見れば巡っているのだと。そんな哲学的な思いに更けてしまうほど、今回のブックオフ開店は感慨深かった。もしかすると「火の鳥 太陽編」を買ったことも関係しているかもしれない。
 買い物も行ない、午後は家にずっといた。僕はいつものように裁縫と筋トレ。ただし筋トレはあまり調子が上がらなかった。筋トレをするようになって、肉体には明確にバイオリズムがあることに気付いた。筋トレの調子がよく、体の見た目も仕上がっている時期と、なんとなく体がへにゃついていて、筋トレもガチっと決まった感じがしない時期がある。今は後者。ファルマンは「季節の変わり目だから」と言う。ファルマンは1年のうち、300日くらいを指して季節の変わり目と言っているような気がする。もしかすると七十二候で生きているのかもしれない。
 そんなファルマンだが、この日の朝に寝違えたと言って、首を痛そうにしている。痛そうにしていると言うか、痛い痛いと頻繁に口に出しているので、きちんと周りに伝達されている。痛いそうである。こういう痛みの表明について、これまでうっすらと、なんでこの人はこんなにも同じことをアピールし続けるんだろうと、もちろん口には出さないものの感じていたのだが、先日自分が腰をやった経験を通して、なるほどこの人みたいに痛みを外側に放散するのって大事なんだな、と理解した。しんしんとした痛みを、声も出さずに粛々とやり過ごそうとすると、じっとりと気持ちのトーンが落ちていき、どんどん暗い気分になってゆくのだ。そしてたぶんそれは精神を蝕むのだろうと思う。それを回避するため、痛みを大きい声で主張し、逆に陽な感じにするのは、わりと効果的なことであるに違いない。なるほど、今後の参考にしようと思った。
 晩ごはんは鶏の唐揚げにする。土曜の夜の唐揚げにつき、翌日の弁当に回らないので、思いきりにんにくの効いた粉を使う。おいしかった。
 明けて今日は、昨日の夜から降り始めた雨が、一日中しとしとと、降っているような、降っていないような、そんな天候で、気温も低い日曜日だった。ポルガは部活だし、特に外出の予定もなかったので、午前中に僕だけが食料品の買い物に出たほかは、ずっと家にいた。プールは、ピイガにはせがまれたものの、先週連れていったし、僕自身は平日に十分すぎるほどに行っているので、この週末はパスにした。
 筋トレは相変わらず捗らず、わりと漫然と過してしまった。この分では予定がまるで決まっていないGWのことが思いやられる。本当にどうしようかな。ポルガがだいたい部活というのも、計画を立てづらい要因となっている。
 日中、窓の外からカエルの鳴き声が聴こえてきた。雨で土が濡れ、頃合と見て取ったか。七十二候の「蛙始鳴(かわずはじめてなく)」は、新暦では5月に入ってからなので、ちょっと気の早い奴らだが、ぼちぼち田んぼには水が張られているので、まあ大丈夫か。カエルの鳴き声は久しぶりで、まだまだ個体数の少なさからかわいいボリュームだったし、そのときだけで今は聴こえないが、ピークになれば今年もすさまじいことになるだろう。
 午後は久しぶりにドラクエ11を少しやり、少し進むが、終わりが見えない。仲間が揃わない。仲間が揃ったって、そうすぐにボスに再挑戦するわけでもあるまい。長いよ。ポルガは僕よりもだいぶ前にすっかり放り投げてしまっている。僕だって危うい。
 晩ごはんは、ごぼうと椎茸と豚肉の卵とじ。なんか実家でよくこんなメニューが出ていた気がする。山梨っぽい味かもしれない。
 そんな感じで週末が終わる。今日は本当にぼやぼやと過した。

1年ぶり岡山 後半

 次なる目的地はイオン倉敷である。
 せっかくの岡山なのに特にしたいことが浮かばないと書いたが、1年前の成功体験により、イオン倉敷のパンドラハウスでニット生地を買いあさるというのは、岡山に来た以上は外せない用件なのだった。イオンならばピイガがしたいというガチャのコーナーもあるし、なにより数時間をやり過ごすのにイオンほどの最適解は他にないだろう。
 しかしカーナビの目的地をイオン倉敷に設定したところ、所用時間48分と表示され、かなりびっくりする。そうなのだ、もうすっかり現在暮しているスモールシティ(もとい店のあるエリアがそこしかない)の感覚に染まってしまっていたけれど、要所要所に目的地となるスポットが存在するこちらの世界は、ひとつひとつの移動にわりと時間を必要とするのだった。しかも人の絶対数の多さからか、いちいち道が混む。そうだったそうだった、と車を走らせながら当時の感覚を思い出した。ちなみに交通事情に関連した事柄として、岡山と言えばウインカーを出さないことで有名だけど、久しぶりに走ったら本当にそうだった。そういう話って、取り沙汰される、すなわちネタにされるようになったら、それはもう過去の話で、今はもうさすがにそんなことない、というのがよくあるパターンだと思うが、岡山のウインカーエピソードはバリバリの現役だった。片側3車線ある国道2号線で、左右の車線から中央の車線への車線変更がウインカーなしで平然となされるさまを目の当たりにし、ここは修羅の国だろうかと思った。
 それでも幸いアクシデントなく、しかし実際に50分くらいかかってイオン倉敷に到着する。懐かしい。在住時代はよく来たものだ。いろいろ見て回りたい気持ちを抑え、とりあえず空腹を満たすためにフードコートへと向かう。フードコートはとても混んでいた。たぶんそれが人口密度そのものを示しているのだろうが、島根のそれに比べてテーブルの間がとても狭く、田舎者はとてもどぎまぎした。ピイガなど終始周囲に厳しい視線を向けながらうどんを啜っていた。そして食べたものは美味しくなかった。マックに逃げようかなとも思ったのだが、なんとなくそれ以外の、ごはん系の店のものを選んだ結果、大失敗だった。あまりこんなことを言うのもよくないと思うが、やっぱり大企業の提供する食べ物のほうが、コスパ的に絶対にいい。人生何度目か知れない学習をした。
 食事でテンションが下がったものの、気を取り直し、モール内を見て回る。変わっている店も少なくなかったが、建物の造りはもちろん同じなので、ちゃんと懐かしく思えた。あと島根に較べて、客層が明白に都会っぽいと感じた。実際におしゃれなのかどうなのかはよく分からないが、かなり奇抜と感じる恰好をした人がけっこういて、ああこれが新幹線で大都市と繋がっている文化圏というものか、ということを思った。ピイガは目的のガチャコーナーで、スーパーマリオの腕時計のガチャを回し、赤いキノコのデザインのものをゲットしていた。回すガチャ、堅実ないいセレクトだな、と思った。ピイガはクレーンゲームを好まず、よく吟味して納得した上で、回すガチャを選ぶ。(姉と違って)安心感がある。
 そのあと、待望のパンドラハウスへとたどり着き、ニットはぎれのコーナーを見る。期待をこれでもかと高めていて、そうやって高める一方で、どうせ現実はこれには応えられんだろうと冷めている部分もあった。ところがパンドラハウスはきちんと応えてくれたのだった。1年前とはまるで異なる品揃えで、多彩なラインナップが並んでいて、夢のようだった。別の場所に立ち寄っていて、少し遅れてやってきたファルマンとピイガが、売り場を手ぶらで眺めている僕に向かい、「どうだった?」と訊ねてきたので、「まあこんなもんかな、って感じ」と答えたあと、商品棚の空いている一角にまとめておいた、購入するロール状のはぎれを、両手でむんずと抱えて見せると、ふたりは「えっ」と驚いていた。「それ、棚じゃなかったの?」と。そのくらい買った。レジでは店員に「お仕事されてる方ですか?」と訊ねられたので、「趣味です」と答えた。続けて、「このお店のニットは本当にいいですね、いいものがたくさん手に入ってとても嬉しいです」と伝えておいた。4月のこづかいはだいぶえぐられたが、わざわざ来た果以があった。ホクホクした。GWだと近すぎるが、またポルガは夏にでも友達と遊べばいいと思う。
 そのあとはサーティーワンアイスを食べたり、イオンスタイルでトップバリュの鈴カステラを大量購入したりして、イオンモールをしっかりと堪能した。そして元の駅に戻るのにもまた時間が掛かるので、余裕を持ってこのあたりで出発することに。
 ふたたび戻ったかつての地元では、まだポルガが帰り着くまでに少し時間があったので、当時毎日のように行っていたスーパーに立ち寄る。立ち寄ると言うか、これも予定に織り込み済みで、生鮮品のための保冷バッグも家から持ってきていた。しかし分かっていたことだが、今日の物価高になる以前の、4年以上前の安売りスーパーは、もう幻影の中にしかないわけで、わざわざ岡山で買って帰らなくてもいいかな、と思うような、島根に対してわずかな価格差しかなかったが、でもせっかくだから、ということで肉などを多少買った。イオンで鈴カステラを、スーパーでわずかな価格差の肉を買う僕を見て、ファルマンは「あなたって本当にブレないよね」と、あまり感心した感じではない様子で言った。それはたしかにそうだと思う一方で、久しぶりの岡山で本当になんの目的も持たず、実際にやってきても結局なんにもしたり買ったりしなかったお前も大概だと思うけどな、とも思った。
 しばらくしてポルガが駅に戻ってきたので無事に回収する。友達との久しぶりの邂逅はとても愉しかったそうだ。午前中はメダルゲームで遊び、昼ごはんにはピザを食べ、プリクラを撮り、スタバでフラペチーノを飲んだという。なんだかいろいろ初体験を経たようで、とてもよかったんじゃないかと思う。「プリクラ見せろよー、あのいまどきの目がおっきくなる変なやつかよー」とせがんだが、あえなく拒まれた。ウザい父親をやってしまった。
 そうして島根へと帰った。帰りの車中、ずっとではないが、子どもたちは寝ていた。ポルガが車で寝るのは珍しい。よほど昂揚したのだろう。連れていってよかった。

1年ぶり岡山 前半

 6日土曜日、岡山へと繰り出したのだった。
 去年の3月以来、かの地を離れてから2度目の来岡である。今回の目的も、前回と同じく、ポルガが小学校時代の友達と遊ぶため。ポルガのことをやけに肯定してくれる例の友達は、中学生にスマホはまだ早いという方針の家の子だったはずだが、やはり昨今の時勢的にそれは無理だったようで、夏あたりにスマホをゲットし、すぐにポルガとLINEでつながり、それ以降は頻繁にやりとりをしていたようで、そこで春休みに会って遊ぼうという流れになったのだった。小学4年生の3学期という微妙なタイミングで転校させることになってしまったポルガには、親として若干の申し訳なさがあり、こうして岡山時代の友達と強いつながりを保っていることは、救いであるような、逆に申し訳なさをいつまでも掘り返す要素であるような、複雑な思いを抱く。しかしそれはそれとして、ポルガのそのつながりがなくなったら、その他の3人はもはや岡山になんの接点もなくなってしまっているため、行く機会がまるでないことになってしまい、それはさすがに寂しい気もするので、こうしてポルガの交遊をきっかけに岡山に行けるのはこちらとしてもありがたい。ふだん島根からまったく出ないので、山陽の岡山に遊びに行くとなると、それなりに心が躍る。
 しかも今回は、親同伴で美観地区を回った前回と異なり、最寄りの駅で向こうの友達と落ち合ったあとは、子どもたちだけで電車に乗って岡山駅に出て、イオン岡山で半日ほど遊び、再び駅に戻ってくるまでの間、われわれ3人は完全に別行動という計画になっていたため、その岡山での自由な半日をどう過そうかというワクワク感があった。
 それでだいぶ前からいろいろ思いを巡らせていたのだけど、いざ実際に行くとなると、実はどうしてもここに行きたいという場所はなにも思い浮かばず、そのことに少しショックを受けたりもした。6年半も暮したのに、どうして再び訪ねたい場所が特にないのか。もしかして自分はとてもつまらない人間なんじゃないのかと思った。結局あまりプランは定まらないまま、当日の朝を迎えた。
 9時半くらいに集合場所の駅に着いて、10時くらいからイオン岡山で遊ぶためには、島根を6時半くらいに出発する必要がある。6時前に起きて、身だしなみだけ整えて、すぐに車に乗り込んだ。朝ごはんは車内だ。高速道路を使っての大規模なお出掛けは、去年11月の東広島以来で、先週ノーマルタイヤに履き替えたこともあり、冬を乗り越えたのだな、という思いがこみ上げた。折しも当初の予想から1週遅れて、この週末が桜の満開に当たり、道中そこかしこで見事に咲いているのを見かけた。今回のために作成した、ひとり25曲、約6時間のプレイリストは耳新しい曲が多く、心地がよかった。結局お出掛けというのは、目的地うんぬんよりも、この移動時間こそが愉しいのだよな、などと改めて思った。
 道にトラブルもなく、ほぼ予定通り、9時半過ぎに集合場所である駅に到着する。友達は今も住まう、かつてわれわれ一家も住んでいた街の最寄り駅であり、とても懐かしい。去年の3月も美観地区での時間のあと、勝手知ったる安心感からこの地のパーキングに車を置いて、翌日からの横浜行きへと旅立ったわけだが、その際は帰りも含めてわりと慌ただしかったため、そこまで落ち着いて眺める余裕がなかった。しかし今回、無事に友達と落ち合ったポルガが電車に乗って岡山へと出発したあとは、6時間近く自由ということで、3人で少し往時の生活エリアを見て回った。頻繁に利用していたドラッグストアやスーパー、なにより当時の住まい。驚いたことに、ピイガは当時の住まいのことを覚えていなかった。ピイガは生後2ヶ月からそこで暮し始め、7歳になる直前まで過していたというのに。まあ僕もその年齢の頃の記憶なんてほとんどないけれども。
 そうしてしばし居住地の思い出巡りをしたあと、今度は僕が通勤で使っていた道を少し走ることに。これはもちろんノスタルジックから来た行為なのだけど、ひとつだけ言い訳として、この通勤の途中に、当時いつも利用していたガソリンスタンドがあり、そこが滅法ガソリン価格が安かったので、せっかくだからそこで給油をしようと考えたのだった。
 道は懐かしかった。6年半勤めたので、優に千回以上走った道だ。当時は軽だったのであまり感じなかったが、けっこう裏道っぽい道を使っていたので、こんなに狭い道だったのか、などと思った。目的としたガソリンスタンドは、期待を裏切らず安かった。実は前の週に岡山に行っていた三女から、岡山のガソリン価格は島根に較べてだいぶ安いと聞いていたが、本当だった。どれほど違うかと言えば、リッターあたり20円近く違う。ちょっと違い過ぎないか。ここまで違うと、岡山で安く給油できた嬉しさよりも、日頃のガソリン代へのつらみのほうが大きくなる。知らないほうがよかったかもしれない。前からこんなに違ったろうか。山陰は離島なのだろうか。
 ガソリンスタンドをゴールとして、来た道を戻る感じで、次の目的地へと向かうことにした。ここまで来たからには当時の職場のほうへも行ってしまおうかな、とも少し思ったが、さすがによした。職場の近くの公園には、オオキンケイギクが群生するスポットがあったため、シーズンだったら行けたかもしれない。しかし時期にはまだ1ヶ月半ほど早いため、さすがに大義名分がなく、訪ねるのはあまりに感傷が過ぎると思った。
 後半に続けることにする。

今年度が終わる

 季節の変わり目のためか、この1週間は疲労感が強かった。土曜日というゴールに、ふらふらになりながらたどり着いたようなイメージ。そのため土曜日は、僕以外の3人は終日実家だったこともあり、思う存分にのびのびと過した。
 午前中はいつものスーパー巡り。3月分の食費は底をついてしまっているので、4月分からの拠出となる。本当はそうならないようにしたいのだが、でも仕方ない。買い物をせずに冷蔵庫の備蓄で週末を乗り切ることは可能だが、土曜日の安売りにケチケチして買い控えをしたら、結果的に損だと自分を説得し、存分に買う。たぶん僕の場合、これがストレス解消にもなっているので、いろんな意味でお得になっていると思う。
 帰宅後は裁縫と筋トレといういつものパターン。かなりストイックにそのふたつを行なった。筋トレはなるべく薄着、できれば上半身などは裸でしたいという思いがあり、筋トレで体が温まっている間は、冬でもわりとそれが可能なのだけど、縫ったり、腕立てしたり、縫ったり、腕立てしたり、というふうにやろうとすると、裁縫のときはさすがに寒いので服を着る必要があり、その脱ぎ着が面倒でしょうがないのだが、いよいよ春も本格的になり、日中の気温も15度を超えるようになってきたため、上半身裸のまま裁縫ができるようになって、嬉しい。腕立てをした直後の、パンプアップした大胸筋で、スイムウェアを作る。この時間が、やけに愛しく、愉しい。
 昼ごはんは、ひとりなのでざるそばで済ます。午前中、プロテインと鈴カステラをダラダラと摂取していたので、ちょうどいいだろうと思った。
 午後は少しドラクエを進め、夕方になってファルマンが、仕事が来たと言ってひとりで帰ってきて仕事を始めたので、その少しあと、僕が子どもたちを迎えに行った。ちなみに3人がなぜ実家に行っていたのかと言えば、義両親は春休みの帰省でやってくる次女とその娘たちを、蒜山あたりで向こうの車と落ち合う感じで迎えに行っていたため、その間の犬の面倒を見る必要があったからで、その報酬としてなのかなんなのか、夕食としてテイクアウトの鮨をもらい受ける。やったぜ。昼がざるそば、夜がもらった鮨で、なんだかとても楽で健やかな1日だった。休日かくあるべし、という感じで癒された。
 明けて今日は、タイヤ交換のために昨日に引き続いて朝から実家へ。タイヤ交換は、この日取りを聞いたときは、ちょっと遅いような気がしたが、何日か前に雪がちらついたりもしたので、結果的にはよかったんじゃないかと思う。それにしても今年の冬はやはり性根が悪く、桜の開花予想も大きく外れ、グダグダだった。雲南をはじめとしていろんな場所で、この週末が桜まつりということになっていたが、今週はたぶん1、2分咲きだろう。かと言って来週ということなると、もう盛りは過ぎているのではないかという感じもある。ちなみに来週は予定があることもあり、去年のような実家の面々との花見は実現しなさそうである。
 タイヤ交換のあと、せっかくだからやろうと予定していた洗車も行なう。数日前から黄砂のことが言われているので、タイミングとしてどうなのかという思いはあったが、黄砂に限らず、「いま洗車のし時でない理由」を言い出したらキリがないので、思い切ってやることにした。2台とも。やったらやったで、まあすっきりした気持ちになった。
 そのあとは昼ごはんとして牛丼をテイクアウトしてきて、一同で食べる。久しぶりでおいしかった。もうすぐ2歳になる、次女の次女は、引き続き人見知り期により、接触がままならない。ファルマンには抱かれるというのに。切ない。ただ2歳の姪と触れ合えないことが切ないのではなく、男という生きものの孤独さを改めて感じ、切ない。
 車のことが終わり、昼ごはんを食べたら、もう僕は実家に用はない。2台で来ていることもあり、僕だけ自宅に戻ることにした。今日はファルマンの誕生日祝いをする予定となっていて、ケーキを作ったりしなければならないのである。また晩ごはんのメニューはなにがいいかと事前に本人に訊ねたところ、お好み焼きというちょっと意外な答えが返ってきて、そうする計画を立てていたので、昨晩と昼をおごってもらった礼として、実家にお好み焼きを焼いて届けてやろうと考えたのだった。というわけで、帰宅後はひとりでお好み焼きを焼き、ケーキを仕立てた。男という生きものは、孤独なのである。あるいは僕がとりわけそうなのかもしれない。
 お好み焼きを届けたら喜ばれた。それはそうだろうと思う。義母はかなり料理をするのが嫌いな人なので(本人に言ったら否定されるだろうが)、餃子やお好み焼きをたまにこうして持っていくと、とても喜ばれる。「ごはんと山芋しかなかったから助かったわー」と言っていたので少し驚いた。「タッチ」で、南が上杉家にイチゴをお裾分けしに行ったら、双子の母が「晩ごはんのおかずに困ってたから嬉しい」と言って南をおののかせるシーンがあったが、それを思い出した。
 夕方になってようやく家族が戻ってきたので、わが家もお好み焼きで夕食とする。キャベツが、春キャベツと銘打っていたわけではないが、ちょっとふんわり気味のもので、そのためか仕上がりも軽やかで、とてもおいしかった。実家の面々も喜んだことだろう。
 そのあと冷蔵庫からケーキを取り出して、ファルマンの41歳の誕生日祝いを行なう。今年は誕生日が水曜日なので、年度を挟むこともあって気持ち的にとても早い感じがあるけれど、こういう形になった。お祝いは今日行なったが、ファルマンが41歳になったということへの感慨は、正式に誕生日を迎えてから書こうと思う。まあ40から41って、本当に特になんの感慨もないけれども。
 そんな感じで、日曜日はわりとバタバタしたけれど、土曜日は本当に伸びやかに過せて、結果としてとてもいい週末だった。そして今年度が終わる。しかし新卒の新入社員がいるわけでもないので、明日から劇的な変化があるわけでもない。子どもの春休みももうしばし続く。タイヤがノーマルに戻り、燃費がよくなるのが嬉しい。平和に暮そう。

主におろち湯ったり館について書いた週末の日記

 今週も土曜日が出勤で、水曜日はたしかに休みだったのだけど、なんか週の半ばの休みって逆にリズムが崩れてじわじわしんどかったりするのだよな、という感じもあり、さらには日々の激しい寒暖差もあって、最終的にはじっとりとした疲労感があった。その疲労感で挫けそうにもなったのだけど、だからこそ積極的に癒すための行動をしなければならないと奮起し、今週の予定として当初から目論んでいた、労働後のおろち湯ったり館行きを決行した。いつも言っているが、職場とおろち湯ったり館は、自宅を挟んでまるで逆方向なので、行くことにするまでがかなり億劫と言うか、このまま帰っちゃえばなにより楽だな……、という衝動に駆られるのである。しかしその誘惑に負けて行くのを取り止めると、翌日の日曜日も、そして翌週も、やっぱり行けばよかったな、行かないといけないな、という葛藤に延々と苛まれることになるので、もはやそれを回避するのが目的で行ったようなものである。こうなると僕のおろち湯ったり館行きは、なにを求めての行為なのかいよいよ分からなくなってくる。
 しかし自宅のすぐ横を通り過ぎて、おろち湯ったり館への道のりへと車を進めてしまえば、もうその億劫さからは解放されて、純粋に愉しみな気持ちだけになる。このときの気分の良さは、やはりおろち湯ったり館の持つパワーだろう。日も長くなって、道中はまだ明るかった。この分なら先週から再開した2階での外気浴も、はじめのうちは、すっかり陽が落ちてしまう前の、暮れなずんでゆくさまを愉しめることだろうとわくわくした。
 無事に到着し、男湯は今回も木風呂のほう。サウナ室が大きいので、こちらのほうが嬉しい。いつもは最初にプールに行きがちなのだが、今日は日没のあわいを求めて、サウナから始めることにした。短縮営業の冬時間も終わり、混雑も緩和されたようで、人の入りはほどほどで、サウナ室の温度も高く保たれ、よく効いた。前回、真冬に来たとき、サウナの熱に包まれながら、鼻腔のあたりがほどけていくという、寒いとき人って鼻腔が縮こまるんだな、と実感する感触があったのだけど、前回よりはだいぶ気温の上がった今回も、淡くその感じがあった。顔の中心にある鼻腔がこうも物理的な感じで収縮するのだとしたら、人相というのも寒いときと暖かいときでだいぶ変化するのではないか、などと思った。サウナ室を出て、水風呂ののち、2階に上がって外気浴。ベンチで横になる。雲が猛スピードで移動するような、めまいまではぎりぎり行かない、アルコールを伴わない酩酊感のようなものが訪れる。これがいわゆる「ととのう」なのかどうかは知らないが、1杯目のビールと同じ、受け止めきるには身構えが必要な、もとい快楽の度合がオーバーして、逆にちょっと負担でさえあるというような、そんな感覚。それが純粋に快感なのかどうかは別として、日常生活では生じ得ない角度から、日常生活で溜まった澱が払拭される感じがある。億劫さをおして来た果以があった、やっぱりおろち湯ったり館は裏切らない、と1セット目のサウナで早くも満足した。そのあと何セットか繰り返し、陽はすっかり沈んで、頃合を見計らってプールにも行ってひとしきり泳ぎ、しっかりと堪能した。今回もいいおろち湯ったり館だった。
 今回の客層の特徴として、珍しく若者のグループが多かった。脱衣所で彼らの会話が耳に入ったのだが、「おろち湯ったり館、すげえよかった」という話をしていて、「「ゆらり」はアレだし、温泉津もナンだし」みたいなことを言っていて、なんだよこいつら、愉しそうだな、と思った。「サウナイキタイ」のユーザー同士の絡みは、AMラジオ感があってものすごく嫌いなのだけど、でも実際にこうして仲間グループでサウナに来ている人たちを見ると、愉しいんだろーな! ずっちーな! という気持ちにさせられる。とても久しぶりに、友達が欲しい気持ちがむくむくと膨らんできそうになった。やはり友達というのは、裂傷部分、欠損部分に入り込む細菌なのだな、と改めて思った。
 帰宅して、休日前の夜を愉しむ。平日はきちんと休肝したので、3日ぶりの酒だ。「秋山歌謡祭2024」や、昨日観られなかった「不適切にもほどがある!」など観ながら、ビールや赤ワインを飲む。白ワインから始め、赤ワインにも手を出し、そして最近はすっかり赤ばかり飲むようになった。白に較べて赤はエグい、と最初は思っていたのだけど、飲むようになったら、白のほうがむしろエグいと感じるようになった。なんとなくこの感覚は通っぽいような気がする。「そう? 白のほうがむしろエグいと思うけどな」みたいな。そして赤ワインに合わせて、肴はチーズだったりする。チーズに赤ワイン! パピロウ変わったね!
 翌日の今日は、特に予定もなく、のんびり。午前中はドラクエ11を進める。世界崩壊後、ドラクエ4ばりの、仲間キャラそれぞれの物語のようなものが展開されていたが、今日でやっと主人公(ちなみに名前はパッピローニ)に話が戻った。ここから仲間との再会が描かれてゆくのだろうな。長いな。
 午後は久しぶりにキララ多伎のほうに行って、海を見たりした。肌寒い曇り空の日本海。これが季語でいうところの「春の海」だな、としみじみと思った。しみじみと思ったが、なにも句は思い浮かばなかった。しみじみと思ったが なにも句は思い浮かばなかった 春の海(字余り)。
 晩ごはんは鶏もも肉のステーキと、新じゃがのフライドポテト、マッシュルームの卵スープ。お前それ赤ワインを飲むためのメニューじゃねえか、という感じだが、そう言えば夕食時は飲まなかったな。ワインを飲むと、そこでもう夜が終わる感じがあるから、夕飯時にはちょっと飲みづらいのだ。このあと「光る君へ」を観ながら飲もうと思う。

春だったり冬だったり

 先週の土曜日は労働だった。それなのに珍しくポルガの部活は休みで、擦れ違いなのだった。それで家族3人はどうしたかと言えば、子どもたちはドラえもんの新作映画を観に行ったという。「のび太の地球交響楽」という、音楽をモチーフにした作品。朝いちばんの上映を予約し、当然ながらファルマンが送迎した。子どもたちがふたりだけで映画を観たのは初めてで、成長を感じさせるような、ただ単にゆめタウンまで連れて行ってもらって席に座ってドラえもんを観ただけだからぜんぜん大したことではないような、いまいち判断がつかない感じである。ちなみに僕は小学生の頃、同級生と田園都市線に乗って渋谷に出て、映画を観ていた。それに較べるとやはりだいぶ箱入りな気がする。
 映画を観終えたあとは、3人でマクドナルドを買って帰るという計画を立てていて、前日にファルマンが予約注文のためにマックのアプリをダウンロードしようとしたところ、例の全世界的なマックのシステム障害が発生していて、叶わなかったという。このあまりの絶妙すぎるタイミングに、思わず「このシステム障害は君がダウンロードしようとしたせいなんじゃない」と軽口を叩いたら、「それ、ポルガにも言われた」と言われた。あなたたちって本当に似た性格してるよね、とも。そんなことはないだろう。傍でポルガの発言を聞いていて、こいつ性格悪いな、と思う場面が多々あるのだが、僕がそう感じるということは、ポルガは僕を凌駕しているということだと思う。結局予約はできなかったが、店舗は営業していたため、無事に購入できたらしい。買ったのはもちろんドラえもんのおもちゃが付くハッピーセット。マイクやボンゴなどが当たっていた。鳴り物+ピイガの組み合わせがうるさいったらありゃしない。あとボンゴという言葉が出るたびに、自分が「たたけボーンゴ」とマツケンサンバⅡの一節を唄い出すのが我ながらウザいと思った。
 日曜日は、午前中はポルガが部活だったため、僕とピイガで例のプールに行った。「例のプール」というと、思わずあの「例のプール」を連想してしまうが、もちろんこれは新宿区の話ではない。島根の、だいぶ山奥にある健全なプールである。2月の、あのいま思えばどう考えても異常だった温暖な陽気の日ほどの感動はなかったが、それなりに愉しく泳いだ。ちなみにこの日の営業から、おろち湯ったり館では2階が開放されていた。なんならオープンめがけて行って、今年度の2階の最初の客になるというのも悪くないと思ったが、昨日のこともあったので、午前中はピイガを受け持つことにしたのだった。
 午後は近場の買い物をこなし、あとの時間は筋トレや縫製をして過した。水着作りを着々とやっているが、思ったよりも数がいかない。そこまで集中してやれているわけではないというのはあるけれど、せっかく売り出すのならやはりある程度はまとまった数をこしらえてから始めたいと思っているので、もどかしい。
 それから平日を2日間やって、本日は春分の日で旗日。そして今日が休みでよかった、と心の底から思うような、何度も目が覚める夜通しの暴風雨であった。気温もぐっと下がり、三寒四温という言葉の範疇を大きく逸し、真冬のようになる。暖冬という肩書を保持しながら、陰ではコソコソとこうして悪事を働く、性根が姑息な今年の冬の、ラストにして真骨頂を見たような気分だ。
 午前中はポルガが部活だったため、残った3人は家でのんびりと過した。僕はドラクエ11をやった。昨晩もやっていて、いま主人公が魔王を突っついたせいで世界が崩壊してしまったところ。世界中の人々が希望をなくしてしまってしゅんとしてしまっている感じが、2017年の発売ながら、その3年後あたりの現実世界のようだな、などと思った。
 午後は買い物と、せっかくなので墓参りを行なう。先だっての葬儀では、式に参加しなかった子どもたちは手を合わせる場面もなかったので、ここらでひとつ、じいさんも含めて顔を見せておこうじゃないかと思ったのだった。偉い。普段ひねくれたことを言いつつも、なんだかんだでそういうところは律儀というか、仁義があるというか、人間的に立派だよね、と思う。誰も言ってきたりはしないので、自分で思っておく。雨はやんでいたが、風があり、線香に火を点けるのに往生し、凍えた。
 帰宅して、おやつはおはぎ。あずきときなこをそれぞれ等分し、ファルマンと分け合って食べた。久しぶりでおいしかった。子どもたちは、ピイガは出せば食べたかもしれないが、ポルガが餅系を拒絶するので、ポルガだけふわふわした洋菓子とかだとピイガがかわいそうだと思い、ふたりともそういうものにした。スポンジとカスタードクリームの、おいしそうなやつ。おいしそうだった。なんで親だけ、お彼岸に義理立てておはぎ喰ってんのかな、と思った。
 晩ごはんはひな祭りのあたりにすっかりやり忘れた、ちらしずし。あと先日の手巻きずしの際に唱えた、すし酢の香りを嗅ぎながら食べると玉子焼きとかたらこマヨとかアボカドとか納豆とかの、本当はすしじゃないやつが滅法おいしく感じられるという説を立証するため、そういったものたちをごちゃまぜにした、サラダというか、もはや酒の肴そのもの、みたいな和え物を作り、サイドメニューとして小鉢で出した。結果はどうだったかと言えば、もちろん美味しかった。テレビではドジャース対パドレスの、韓国で行なわれるメジャー開幕戦が中継されていた。大谷とダルビッシュの初対決ということで、これは観なけりゃいかんと思ってチャンネルを合わせていたが、いざ試合が始まると、数ヶ月ぶりに目にする野球は、そうか、そう言えば野球ってこういうものだったな、という、あまりなにを愉しめばいいのか分からない感じで、早々にチャンネルを切り替えた。選抜も始まったし、いよいよ球春ですね。
 そんな感じの、先週末からの日々でした。

17年

 これは本当にまぐれなのだけど、ちょうど先ごろ「おもひでぶぉろろぉぉん」で読み返した、「ファルマンの父方の祖母が餅を喉に詰まらせて植物状態になる」という、2007年の1月下旬に起った出来事が、このほどようやく終結したのだった。
 丸17年である。上の義妹が成人式をした年であった。下の義妹はまだ高校生であった。つまり当時彼女は17歳だったので、彼女の人生の半分、祖母は眠り続けていたということになる。長い。あまりにも長い。かつて麻生太郎がボヤいたように、もはや魂があるのかないのか分からない祖母に、その年月注ぎ込まれた保険料のことを思うと、日々せっせと働くことって一体なんなんだろう……、と虚無的な気持ちになったりもした。でも17年前のあの日、「とりあえず生かすことは可能」という診断結果に対し、親族が処置を断るという選択肢もなかったわけで、これは本当に難しい話だ。なにより誰もそれが17年も続くとは考えていなかったし。とりあえず親族にも、ご本人にも、おつかれさまでした、という言葉をかけるよりほかない。
 僕は故人にいちどだけお会いしている。在学中に島根に行ったのは1回だけだったと思うので、そのときだ。これぞまさに一期一会というものだな、と思う。もちろんそこまでしっかり絡んだわけではないので、印象というのは特にない。でも会ってはいるんだよな、という感慨はあった。俺もなかなかこの一族の中で古参になってきたものだな、と。
 木曜日の朝に亡くなり、金曜日が通夜だった。仕事を少し早上がりして、僕もホールへと向かった。ほぼ身内だけの式なので、集まっていたのはほとんどが知った顔だった。義父の妹の娘、すなわちファルマンの従妹と久々にお会いした。いつぶりかと言えば、祖父の葬式以来だろう。親戚あるあるの定番、「喪服でしか会わない」のやつだな。関西に住む上の義妹一家はまだ到着しておらず、翌日の葬式からの参加ということだった。また従妹の下には従弟もいるのだが、そちらはいま関東に住んでいるため、明朝の早い飛行機で来るらしい。通夜の儀式はつつがなく終わった。純度の高いメンツなので、僕はどうしたってわりと部外者的な感じで、それでいて通夜というのは、ご遺体とかなり接する場面があるため、なかなか戸惑った。下の義妹や従妹は肩を震わせたりしていたが、ファルマンは一切そんな様子がなく、前日に初めて祖母の遺体と対面したときも、ファルマンは開口一番に「鼻毛」と口に出して言ってしまい、顰蹙を買ったそうだ。ドンマイドンマイ、僕は好きだよ。
 翌日は午前に火葬、午後から葬儀というスケジュールで、午前中のそれにはわが家からはファルマンだけが参加することとなり、午前は子どもとのんびりと過した。ちなみにこのタイミングで鳥山明の訃報が届いており、追悼の気持ちを込めてドラクエ11を進めた。
 昼ごはんを食べてから再びホールへ。上の義妹一家と、従弟が参上していた。上の義妹一家は、日記にも書いたとおり、2月下旬に会ったばかりで、別れるとき、どうせまた1ヶ月後の春休みになったら会うのだなー、などと思っていたら、それよりさらに短いスパンで顔を合わせた形だ。こっちが移動しているわけではないので、居住地が関西であるという距離を感じさせない遭遇ぶりである。それに対して従弟は本当に久しぶり。当然こちらも祖父の葬式以来である。その頃が20代半ばから後半くらいで、いまが34歳。前回のときの記憶が残っているわけでもないが、彼にとっての母と姉が通夜の際に「老けたよ」と評していた通り、なかなか貫禄が出ているように感じた。太ったというわけではなく、なんというか、トーンが落ちたというか、渋くなったというか、若々しさがなくなったというか、くすんだというか、とにかくこれがリアル加齢というものだな、と思った。向こうもこちらを見てそう思ったろうか。彼の数年間がたまたまそれが顕著に出る時期だったのであり、こちらも一律にあの変化が起っていて、身近な人間では気づきにくいが、数年ぶりに対面したら僕も劇的に変わっているように見えているのだ、とは思いたくない。おそろしくてしょうがない。いや、人は老い、そして死ぬものだけども。それを痛感させる最たる行事にまさに参加している身の上なのだけれども、それだから余計にかもしれない、数年ぶりに会う親戚に「老けたなー」って思われるのきっつ、と思った。
 葬式は、ご遺体が遺骨になった以外は、通夜とあまりやることに違いはなかった。お坊さんが戒名の説明をする際、脇の台に置かれた位牌を取ろうとして、水平チョップのようになってしまい、位牌を思いきり倒したのがおもしろかった。ファルマンとは席が離れていたのだが、いまあいつは絶対に笑いをこらえているのだろうな、と思った。ファルマンは昔から、葬式のときはずっと頭の中で志村けんが躍動するのだそうだ。そのあとはひたすらお経。今日は鳴り物要員もいて、やかましかった。どうも一丁前に、音の強弱や鳴らす所作などにこだわりがありそうで、なんじゃそりゃ、と思った。死後の世界のことは生きている人は誰も分かってない、分かりようがない、ということを、みんなもう知っているのに、なんでお坊さんって、あんなふうに「こういうものですよ」という感じで振る舞えるのだろう。あれって一体どういう精神構造なのだろう。嘘を自分で信じ込み過ぎて、嘘と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。あるいはもう完全にビジネスライクなのだろうか。それならそのほうがよほど健全だと思う。そして僕はそのビジネスにはお金は払いたくないな、ということを今回改めて思った。もしもいま僕が突然に死んだら、何宗なのかも知らないが、家のなんかしらの宗派の寺の取り仕切りで葬式がなされることになるが、それは事前にきちんと、決してやってくれるな、ということを意思表明しておかなければならないと思った。僕の葬式は和民かサイゼリヤでやってほしい。そこでみんなリーズナブルに、食べたいものを食べ、飲みたい酒を飲んでほしい。そして願わくば、最後に死体でフィッシュパニック(胴上げ)してほしい。そうすれば、僕は文字通り浮かばれると思う。
 とまあそんなことを思った、久々の葬式だった。式はこれでおしまい。ファルマンのいとこたちと、別れの挨拶を交わす。「また長いお別れだね」と口からついて出たのだが、もうファルマンとこのいとこたちの共通の祖父母は、これにていなくなったわけで、滅多なことを言うものではないが、次の葬儀は次の世代の番ということになり、そう考えれば彼等との再会は本当にだいぶ先のことになりそうだ。その頃にはもうどうしたって、お互いに「老けたなあ」と思わずにはいられないに違いない。
 そのあと納骨などもあったが、火葬と同じくそちらはパスし、義妹の娘を含めて子どもたちを連れて僕だけ先に実家に帰った。ちなみに子どもたちは、通夜も葬式も、ホール内のホテルのような控室で遊んで待機し、式には参加していない。なにしろ故人とはいちども触れ合っていないので、その距離感は仕方がないと思う。17年間というのは本当に長かった。僕は「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっているので、強い実感とともにそう思う。ただそのおかげで、ということもないが、今回の一連の葬儀に悲愴感はほぼなかったと言ってよく、この、親戚一同が喪服を着て式に参加しているのに、故人に対しての喪失感がない感じって、あれだな、これはもはや法事だったのだな、とも思った。葬式と、17回忌を、足して2で割ったような、今回はそんな儀式だったような気がする。不思議な感触で、なんだか早くも白昼夢のような記憶になりそうな気配がしている。

逃げない2月

 金曜日が祝日というタイプの3連休であった。ポルガが学年末試験の直前であったり、ファルマンの上の妹一家が車検のために兵庫からこちらにやってきたりで、なんだかんだでバタバタし、あっという間に過ぎ去った感がある。
 初日は、初日はなにをしたのだっけ。ポルガを試験勉強のため図書館に送迎したり、そのついでにスーパーで買い物をしたりすると、わりとそれだけで午前中が終わったりして、ふわっと過ぎ去ったような気がする。午後、上の妹一家が実家に到着したので、家族はそちらに行き、ひとり残されたので、のびのびと自慰をしたのだが、天皇誕生日に自慰をするというのは、これは国民として真っ当なことなのか不敬なことなのか、判断が難しいところだな、などと思った。ちなみになのだが、やけに勢いよく飛び出た。現人神のなんかしらの力が作用したのだろうか。だとしたらすごい話だな。ものすごく直接的に国の繁栄に繋がるな。晩ごはんは、数日前から正統派のおいしい醤油ラーメンが食べたい気持ちが高まっていたので、そうしたのだが、万全を期して作ったのに、満足度としては80点に届かないくらいの出来で残念だった。
 2日目は、午後にまた家族が実家に行ったのだが、この日は自慰ではなく、逆に実家までランニングで行く、ということを実行した。なにが「逆に」なのかよく分からないけれど。我が家から実家までは、走って行こうと思えばぜんぜん可能だが、往復となるとちょっとしんどいな、という距離なので、今回のように向こうに既に家族が行っていて、帰りは車で帰れるという状況は絶好のチャンスなのだった。義妹一家に、さしあたって顔を合わす理由もないな、と思っていたけれど、それでもせっかく来ているのにまったく接触しないというのもな、という思いもあったので、そういう意味でもちょうどよかった。まあ正月に会ったばかりだし、春休みにはまたこちらに来るに違いないのだけど。もうすぐ2歳になる第二子が、ひたすらかわいらしかった。警告色のようなガチのランニングウエアで登場したので、ただでさえ人見知り時期のところ、完全に怖がられ、ぜんぜん抱っことかはできなかったけれど。晩ごはんは、鶏の手羽元を、クリスマスに好評だったローストレッグ風に味付けし、じゃが芋やかぼちゃと一緒にオーブンで焼いた。先週に引き続き、お前それ赤ワインが飲みたいだけじゃないか、というメニューなのだった。おいしかった。
 3日目は、子どもたちは実家やら図書館やらで、またその送迎で微妙にせわしなく過ぎた。ピイガはいとこと遊べることを喜びつつも、3連休の間に何度もプールをせがんできた。しかし先週の陽気はやはり奇蹟だったのであり、今週はきちんと2月下旬らしい寒さで、さらには花粉も飛び始めていてクシュンクシュンとやっているので、とても連れていける感じではなかった。でもそれだけまた行きたがるということは、先週のあれがよほど愉しかったのだろう。たしかに本当によかった。人生の歓びとはこういう時間のことを言うのかもしれない、とさえ思った。なので午後にこそっと僕ひとりだけで泳ぎに行った。ピイガに知られると絶対にめちゃくちゃキレられるので、隠している。先週もピイガには子ども用プールで遊んでてもらい、その間に何百メートルかきちんと泳いだが、今週はひとりでがっつりと泳ぐ。せっかくだからということで1キロ泳いだ。ランニングするし泳ぐし、ずいぶん活発な奴だな。晩ごはんは、ファルマンに前日にリクエストを訊ねたら、「手巻きずし」という子どものような答えが返ってきたので、そうした。刺身もおいしかったが、毎度のことながら卵焼きやたらこマヨといったあたりが、くらくらするほどおいしい。でもそれだけだときっとそこまでおいしくないんだよな。なんだろ、刺身の匂いかな。刺身の匂いを嗅ぎながら食べることで、やけにおいしく感じられるのかもしれない。
 まあそんなような3連休で、大きなイベントはなかったが、のんびりと平和に過した。2月は逃げるなどと言われるわりに、意外と長いような気がしている。こちらが短いハードルを高め過ぎたのかもしれない。評判ほどじゃないよね。ちょっと調子に乗ってるよね。

山陰の2月なのに晴れた週末

 2月の山陰とはとても思えない、晴れやかで温暖な週末だった。もちろんこれは期間限定のもので、週明けからは気温が下がり、さらには荒れるという予報である。であればこそ、この2日間の尊さが際立つというものだ。結果的に、こうしちゃいられない衝動に突き動かされた2日間となった。
 土曜日は午後から一家で公園へと繰り出した。公園を目的地としたのはいつ以来だろうか。去年の秋は、なんだかんだでそういうことをしなかったような気がする。行ったのは平田にある愛宕山公園。図書館にも行きたかったのでその選択となった。前回に行ったのがもうだいぶ前で、シカやヒツジやヤギが飼育されているということ以外、ほとんど覚えていなかった。遊具はそれほどでもなかったはず、と思っていたが、行ってみたらたしかにそれほどでもなかった。そもそもがだいぶ小さい子向けで、中学1年生と小学4年生は明らかに対象ではなかった(それでもポルガはぜんぜん気にせず遊んだ。さすがだ)。しかし名前にあるように山に作られた公園なので、案内に従って進むと展望台に辿り着き、そこからの景色がとてもよかった。晴れて暖かいだけでなく、空気がとても澄んでいたのだ。本当にいいコンディションの日だったのだ。東のほうに視線をやると、遠くに雪を被った山があり、どうやらそれは大山であるらしかった。三瓶山にしろ大山にしろ、なるほど名のある山というのは見事な見た目をしているものだな、と思った。とてもいい散歩になった。そのあとは図書館に寄り、さらには平田に来たあともうひとつの理由である、先月くらいにオープンしたダイレックスにも寄った。平田にダイレックスができたとは聞いたが、いったいどのあたりにできたのかと思っていたら、なんのことはない、図書館の本当にすぐ近くだった。まだオープニングセールを継続していて、肉がとても安く、喜んで買い込んだ。ほくほくと、すばらしい平田行きであった。
 晩ごはんは鶏の唐揚げ。ポルガが翌日、お弁当行事なので、そのおかずのためのメニューである。今週から週末限定とした酒がおいしかった。ちょっと久しぶりのビールに体が驚いたのか、喉の奥や胃のあたりから変な音が出た。
 翌日も同じような天候で、ポルガは科学教室の課外活動で、貸し切りバスに乗って遠出だという。うらやましい。もうこの陽気の中、貸し切りバスで移動するというだけで、成功は確約されていると言ってもいい。帰りは夕方ということで、姉ひとりが愉しそうなイベントに参加し、取り残されたピイガがあまりにも不憫になる。そこで前から存在は知っていて、でもなんとなく足が向かずにいた、実は車で30分足らずで行ける屋内温水プールに、とうとう行くことにした。ファルマンは仕事を抱えていたが、初めてのプールでピイガを更衣室でひとりにするのは心配だということで、仕事道具を持って付いてきてくれた。今は休館している行きつけのプールが、ありがたいことにとても近所にあるため、やけに遠いように感じていたが、まあ車で25分くらいなので、実は倉敷時代に児島のプールに行くよりも近いのだ。倉敷時代は、どこへ行くにも30分以上の移動は当たり前だった。今はコンパクトシティ(もとい、栄えているエリアがほぼ1箇所しかない)に暮しているので、感覚がちょっと変わっている。初めて行ったプールは、ファルマンも子どもの頃に何度か行ったという場所で、しかしどうやら近年に改装がなされたようで、とても新しげできれいだった。窓から陽光がたっぷりと降り注ぎ、もちろん空いていて、非常に良かった。プールからガラスを隔てて見学席があり、好都合なことにそこにはテーブルもあったので、ファルマンは快適に仕事ができたという。ピイガは久しぶりのプールにはしゃいでいて、連れてきてよかったと思った。僕もピイガの相手をする合間に、25mのプールできちんと泳ぐということができたので大満足だった。やっぱり50mや100mをしっかり泳ぐと気持ちがいいな。通勤の方向とは残念ながらぜんぜん違うのだが、向こうのプールはまだまだ再開しないので、必要を感じたらまた来ようと思った。
 そんな感じで、2日間とも陽の光を存分に浴びて、山陰の冬で溜めた鬱屈がだいぶ癒された週末であった。まあ実際、冬はもう虫の息と言っていい。しかし虫の息と言うと、春のほうがよほど虫の息吹をイメージさせるため、ちょっとややこしいことになる。

久々連休

 1月は前半に休みを大量消費してしまい、その帳尻合わせのように後半は出勤の土曜日ばかりが続いていた。たぶんこれは、完全週休二日制じゃない会社あるあるだろう。だからとても久しぶりの3連休に、テンションは高かった。
 そのようなわけで、初日には行かねばならぬという使命感から、おろち湯ったり館へと繰り出した。前回、日中に行ったらプールに人が多いしサウナはまだ熱くないしで微妙だったので、やはり夕方から夜にかけてがいいだろうということで、温め直せばいいように晩ごはんを作っておき、ひとり17時くらいから雲南へと車を走らせた。2月ながら、道の心配はまるでない。つまり暖冬だったかと言われると、普通に寒かったわ! と反論したくもなるが、やはり雪は少ない冬だった。しかしいつに降ったものか、湯ったり館の駐車場の一角には、雪が集められ積まれていたので驚いた。
 晩ごはんどきに差し掛かった湯ったり館はもう混雑のピークを超えているだろうと目論んでいたのだが、中に入ると意外と人が多かった。多かったと言っても、もちろん横浜の実家近くのスーパー銭湯のような、ギャグマンガ日和のようなレベルではぜんぜんないのだけど、空いているだろうと当て込んでいたので、ちょっとショックだった。サウナ内での常連客同士の会話によると、どうやら今年の冬から冬時間営業というものが制定され、閉館時間が1時間前倒しになっているため、それで人が多いのだということだった。「ほんにろくなことせん」とその常連客はぼやいていた。その人は、何ヶ月かにいちどくらいしか来ていない僕が、それでも顔を覚えているような、おそらく毎晩ここで風呂に入っている人なので、人生の調和が崩れたほどの出来事なのだろう。でもサウナはしっかり熱かったし、男湯が広いほうの週だったしで、まあまあよかった。2階にはもちろん上がれないのだけど、1階の露天の脇のベンチで外気浴をしていたら、冬の山陰名物の、降るとも降らないともない霧雨のようなものが降ってきて、それを全裸で浴びるのもまた悪くなかった。
 しかし今回のおろち湯ったり館の主目的は、なんと言ってもプールなのだ。なぜならホームプールが冬の休館および、今年はそれに併せて大規模な改修工事も行なうということで、春まで閉まっているのである。そのため実はもう既にしばらく泳げていないし、今後もまだだいぶ水泳になかなかありつけなそうな情勢なのである。普段は、25mよりも短い湯ったり館のプールには、こちらはこちらで独自の魅力もありつつ、しかし泳ぐという行為そのものに格別な感動というものはないのだが、今回はそんな事情なので、なんてったって久しぶりに泳げるというのがとにかく嬉しかった。やっぱり泳ぐと、泳ぐことでしか得られない刺激が体に来て、気持ちがよかった。
 そんなわけでわりとしっかりと堪能できた、今回の湯ったり館であった。やっぱり夜だな。次に行くのは3月中旬から下旬頃か。2階の閉鎖が終わり、そして桜が咲き始めるような、そんな頃に行けたらいい。
 帰宅して、ひとり遅めの晩ごはん。メニューは野菜とソーセージのトマト煮と、合い挽き肉をたっぷり入れたオムレツ。もう完全に赤ワインに照準を合わせたメニューじゃないか。そのとき傾倒している酒に合わせて、作る料理というのは変化するようだ。サウナのあとの満腹と酩酊で、3連休の初日にふさわしい、よい心地の夜だった。
 2日目の朝、ポルガが風邪を発症する。連休中なので病院に行きづらく、どうしたものかと危ぶんだが、いまこの日記を書いている3日目の晩の時点でだいぶ回復し、普通のごはんを食べているので、コロナでもインフルでもなかったようである。それ自体はもちろんよかったのだが、なんてったってポルガは普段の生活態度があまりにも悪い(夜更かし・薄着・部屋がゴミ屋敷のよう)ので、体を壊すのもなるべくしてなった感があり、今後は少しでも悪行を改めてほしいと切に思う。切に思うのだが、中学生ってマジで言うことを聞かないし反省もしないので、始末に負えない。
 ポルガがずっと部屋で寝転がっていたこの日、他の人間はどう過したかと言えば、ファルマンは仕事とポルガの世話をし、僕とピイガはクッキーを焼いていた。今年はなぜか急に、この3連休というものはバレンタインのお菓子を作るのに最適なタイミングなのだなあということを思い、クッキーを焼くことにしたのだった。たぶんこれは、バレンタインは女から男へチョコを捧げるもの、という固定観念が、現代の時流に合わせて、僕の中でやんわりと破壊されたということだろう。おっさんのパンツがなんだっていいのだ。
 せっかく作るのだから、きちんとおいしいものをいい感じに作りたいと思い、実はこの半月ほどせっせと準備していた。クッキーの型や包装、アイシングの材料などを取り揃え、平日の夜に試作で焼いてみたりして、ファルマンを慄かせたりした。その果以もあり、なかなか満足いくものができた。


 これはごく一部で、バターは丸々ひとパック、200gを使うような分量で、オーブンで4回に分けて焼くほど焼いた。アイシングは100均のものに加えて、粉糖と着色料で手作りもし、8色ほど作った。ピイガはイラストを描くように、なかなか上手にやっていた。僕はいざやってみたら、アイデアがなにも浮かばず、ヒット君型クッキーに顔ばかりを描いた。ヒット君型は、オリジナルのクッキー型ってどうやって作ればいいんだろうと検索し、牛乳パックで作ればよいのだという知見を得て、実行したものである。なかなかかわいらしい、商売っ気のある、と言うかこういう人のキャラクターの形のクッキーって既に世の中にいくらでもあるよな、という感じのものができた。
 食べたら普通においしい。クッキー自体の甘さは控えめで、アイシングでちょうどいい具合になった。アイシングは、アイデアもさることながら、絞り袋が途中でぐじゃぐじゃになったり、思うような線が描けなかったりで、少し悔しさが残った。でもこれは、やればやるほどどんどん手慣れるタイプのやつだな、という感触を得たので、また1年後と言わず、気が向いたらやりたいと思う。
 翌日、袋に詰めたものを実家の面々に渡し、さらには横浜へも宅配便で送った。人にあげるのは、本当にそれだけである。冷静に考えると、なんとまあ他者と交流しない一家なのか。つながりというものが、あまりにもない。いやまあ、多少つながっている程度の人から手作りクッキー(それもアイシング掛け)をもらっても、絶対に食べないけどさ。
 3連休はまあそんな、おろち湯ったり館とクッキー作りがメインで、あとはいつも通り、ミシンをしたり筋トレをしたり、酒を飲んだりして過した。久々の連休を十全に堪能できたかと訊かれると、それに対して自信満々にイエスと答えられるのはいったいどんな人間だ、と問い返したくもなるが、ずっとしなきゃいけないと思っていた布置きエリアの掃除もできたし、まあそこまで悪くなかったんじゃないかと思う。連休明けからは春らしさが出てくるという噂もあり、愉しみにしている。前途が愉しみだなんて、すばらしいじゃないか。いや、それはつまり今現在を憂えているということだから、もしかしたらぜんぜんすばらしくないのかもしれない。とにかく早く寒くなくなってほしい。

ポルガ13歳

 ポルガの誕生日祝いを無事に執り行なった。13歳である。中学生という生き物は、13歳~15歳を指す印象があるので、これでやっと名実ともに中学生になったな、という感じがある。 
 誕生日祝いの日の晩ごはんは、定番のたこ焼き。いつもより1.5倍多く作り、実家にもお裾分けした。少し前に、生地の中に細かく刻んだちくわを混ぜるとおいしくなるというライフハックをネットで目にしたので、今回それを初めてやってみた。いつもよりおいしくなったような、いつもどおりのおいしさのような(そもそものレベルが高すぎるのかもしれない)。具のひとつで、カットしたちくわの穴にとろけるチーズを入れたもの、というのがあるのだが、今回は生地にちくわを使用したため、ちくわの代わりに海老にしてみた。海老は海老でおいしかったが、海老の味が強すぎるためか、チーズがあまり感じられなかった。
 ケーキは、本人のリクエストを受け、ピラミッドをモチーフに作った。もとい、造った。買ってきたスポンジを、はじめは同じ大きさのたくさんの直方体を作り、それを積み上げるという、本物のピラミッドと同じ製法で考えていたのだが、あまりにも面倒そうだったので、スポンジを、大きさを段階的に変えた正方形に何枚も切り出し、それを順々に積み上げていくことにした。だからケーキの構造としては、結果的にミルフィーユみたいな感じになった。だいたいの形ができたところで、表面をクリームでコーティングする。本物のピラミッドも、たしか最初はそうやってなめらかな仕上がりだったんじゃなかったか。それがやがて剥がれ落ちて、現在のほぼ石が剥き出し状態になったんだったと思う。ちなみにこのクリームには黄色の着色料を混ぜ、エジプトの砂や土をイメージした黄土色に仕立てた。着色料なんて久しぶりに買ったな、と思い、前回がいつだったかと探ったら、なんのことはない、1年前のポルガの誕生日祝いのケーキで、カラフルなゼリーを作るために使ったのだった。毎年やけに奔放にリクエストをしてくるものだ。ピイガはいつも正統派のショートケーキを求めるので、こういうところに性格の違いが明確に現れるな、と思う。かくしてピラミッド型ケーキが無事に完成した。本物のピラミッドに較べ、かなり急勾配になったけれど、まあまあ要望には応えられたんじゃないだろうか。
 親からの誕生日プレゼントは、手塚治虫の「ブッダ」の愛蔵版全巻。ピラミッドで、ケーキで、ブッダ。もうわけが分からない。ポルガらしい混沌だとしみじみと思う。
 混沌としているのは、もともとの人間性に加え、目下思春期花盛りなので、なおさらなのだろう。日々、苦々しかったり、痛々しかったり、眩しかったり、なんだか目まぐるしい。いかようにも今後の筋道が変化する、人生の中でかなり重要な時期なんだなー、ということを客観的に見て思う。でも当事者は決してそれに気づかない。中学生って、起きてから寝るまで、ずっとがむしゃらだ。こんな思索のない、がむしゃらな生き物、他にいないだろうと思う。それともうちの子が特になのだろうか。個性的なのはいいことだが、もう少し親の言うことに素直に耳を傾けるようになってほしい。無理だろうな。

久しぶりカラオケ

 今日の午前、ポルガが部活で3人が予定なしという、こういう状況が訪れたらぜひやろうと思っていた、カラオケ行きを決行した。岡山時代、わりとよく行っていたカラオケだったが、コロナ禍を経て、島根に住まいも変わって、すっかり疎遠になっていた。そしてその間に長女は思春期に入り、家族とカラオケに行くのを拒む年頃になってしまったのだった。それはそうだと思う。自分は中学生の頃、カラオケはおろかスーパーだって親と一緒に行かなかった。というわけで、ポルガが合法的にいない隙を狙っての、本当に久しぶりのカラオケなのだった。
 ポルガが昼過ぎには帰宅するので、それに間に合うよう、1時間半である。ちょっとタイトな気もしたが、久しぶりのカラオケにはちょうどよかったようにも思う。
 僕が最初に唄ったのは、「唇よ、熱く君を語れ」(渡辺真知子)。この歌は前から好きで、車内でよく聴いている。唄うのは初めてのように思う。伸びやかに唄えるので、喉を開くのにちょうどよかった。
 次が「ロコロコのうた」(ロコロコ・イエロー)。これは「おもひでぶぉろろぉぉん」で過去の日記を読み返す中で、これについて言及している箇所があって、去年十何年ぶりにその存在を思い出し、それ以来よく聴いているのだった。ゲームをプレイしたことはいちどもないが、利用しているサブスクの年末のまとめによると、僕が去年いちばんよくそのサービスで聴いた曲は、なにを隠そうこの歌だった。歌詞が架空の言語で、なんの意味もないのがいい。少々歌詞を間違えてもなんの問題もなく、勢いだけで愉しく歌えた。
 その次が「イケナイ太陽」(ORANGE RANGE)。なぜ唄ったかと言えば、この年末年始、去年のリアルタイム放映時はまったくノーマークで乗り遅れた「ブラッシュアップライフ」を、ファルマンとTVerで一気に観たからだ。ドラマは評判通りすごくおもしろかった。そしてこのタイミングでカラオケに行くならば、それはこの歌を唄わなければいけないだろうと思って唄った。ファルマンが「うまい」と褒めてくれたので、じゃあ本気で歌手を目指そうかなと思った。
 ここからは追悼が続く。まず「愛は勝つ」(KAN)に始まり、その次が「昴」(谷村新司)、その次が「舟歌」(八代亜紀)、そして「たそがれマイ・ラブ」(大橋純子)と、自分の順番時、4曲連続で追悼歌唱を行なった。これはあくまで真摯な気持ちで、岡山時代から行なっているのだけど、さすがにこう連続させると、逆に不謹慎な感じが少しした。
 最後に「COLORS」(宇多田ヒカル)でフィニッシュ。車内で聴いて、これを上手に唄えたら気持ちいいだろうと思い、数日前から少し練習をしていた。でもやっぱり難しい。あまり満足のいく感じにはいかなかった。
 そんな8曲。8曲と言えばけっこうな量だな。1時間半だけとは言え、メンバーが3人だし、ファルマンには2周に1回くらいしか唄わなかったし、こうなるか。カラオケは定期的に行くと、カラオケ筋のようなものがパンプアップされてゆくので(つまり今回は岡山時代に培ったそれが萎えているのを感じた)、今後はそれほど間を空けずに行きたいと思う。カラオケ筋がパンプアップされているとなにがいいのかと言えば、まあ特になにも浮かばないのだけども。

捉えづらい正月

 2024年の三が日が終わろうとしている。
 大みそかから書くなら、夜はひたすらに紅白を映しながら、食べたり飲んだりしていた。普段21時半に寝るピイガは途中からぐずり始めたが、それでもがんばって目を開け続け、無事に最後から3番目の出番であったYOASOBIを見届けていた。YOASOBIのパフォーマンスは、そうまでして観た果以のある、とてもいいものだった。たぶんジャニーズ系のアイドルグループが出演しない紅白は、この1年限りだろうと思う。その年にこれをやったというのが、巡り合せでおもしろいな、と思った。
 のんびりと目覚めた元日は、去年と同じく、おせちにおける骨と皮のような、最低限の要素だけの品を皿に並べた。紅白かまぼこ、茹で海老、れんこんの炒め煮、煮豚、黒豆という面々。ちなみに後半のふたつは母から送られてきたものである。それと我々3人は雑煮を食べ、餅を食べない主義のポルガは、餅の入っていない汁と、前日の残りのクリームパンなどを食べていた。元日からポルガはもちろん和を乱すのだった。
 そのあと、とりあえず初詣へ。いつもの、出雲大社ではもちろんない、近場の、正月なのでそれなりに賑わっている、ちょうどいい規模の神社である。神様への挨拶ののち、全員でおみくじを引いた。子どもたちふたりは大吉で、僕とファルマンは吉。と言うか、僕とファルマンが引いたのは、同じ番数の、同じ文面のおみくじだった。その内容はと言えば、『心正しく行いをすなおにしないと家の内に不和が起こって災が生れます 特に男女の間をつつしめ』、さらには「願望」の欄には、『とゝのう しかし色情につき妨起る』とあって、夫婦揃ってこんなに下半身関係のことを諫められるおみくじを引くだなんて、2024年はいったいどんな年になるのだろう、だいぶ桃色の年になるのだろうか、と思った。
 そのあとは実家に向かい、昼過ぎから新年の集いをする。
 年末には僕はこちらに顔を出さなかったので、次女一家とは夏以来の再会であった。1歳半ほどになる第2子は、それなりに歩くようになっていて、喃語も少し出てきていて、そしてたぶんいちばん人見知りをする時期に入っていた。夏はできた抱っこも、今回はできなかった。ファルマンのように年末から足場固めをしていたら心を開いてもらえたのかもしれないが、なにぶん今回はほとんど絡まなかったのだった。まあ眺めているだけで癒されたので別にいい。
 鮨とおせちの食事を済ませたあと、みんなで外に出て、散歩がてら凧揚げなどする。僕はバトンを持ってきていたので、それを回した。その最中に、ファルマンのスマホに警報が届き、ほぼ同時に、川の近くのスピーカーからなにかアナウンスのようなものが流れた。しかしなにが起ったのかはあまりよく分からず、そのままもう少し外で過したのち、家に戻った。家に戻ってテレビを付けたら、だいぶとんでもないことが起っていて、大いに驚く。「令和6年能登半島地震」と名付けられた、最大震度7の大地震なのであった。まさかの元日の出来事に、現実味がまるで湧かない。海や川からすぐに離れるよう促すアナウンサーの、鬼気迫る声がひたすらおそろしかった。
 晩ごはんの前に実家を出て、スーパーに寄って帰る。昼餉が豪華だったので、晩ごはんは簡単に、レトルトのミートソーススパゲッティと、茹でた肉や野菜などで済ました。
 そして2日である。この朝に覚えていた夢が、初夢と言われる。僕は、ピイガとトランプをしていたら、ピイガが持っている札を8つ折りにしたので叱った、という、なんとも所帯じみた、そして僕はピイガの手癖の悪さをよほど憂えているのだな、という夢だった。ファルマンにどんな夢だったか訊ねたところ、ファルマンは「ん-……」と口ごもったあと、「淫夢だった……」とポツリと答えた。そのあと内容について詳細を語らないので追求しようとしたら、「いや、ちょっと、倫理的に、よしとく」と拒まれた。それでも「俺は? 相手は俺?」と問いただしたところ、「うん、あなたも、出てきたよ」とのことで、「も」かー、と思った。どうも非常に社会通念的によろしくない夢だったようである。前日に引いたおみくじのことが思い出された。色情につき妨起る。
 そしてこの日は、僕ひとりが買い物に行った以外は、なんだかんだで一家で家にこもって過した。3人はまた実家に顔を出す気満々だったのだが、第2子の昼寝のタイミングであったり、第1子は向こう(次女の夫)の家の面々と出雲大社に初詣に行ってしまって、聞いた瞬間に、よく行ったもんだな、と思ったけれど、やっぱり行きも帰りもとんでもない混み具合だったそうで、半日仕事になってしまい、この夜は次女一家はもとから向こうの家に宿泊する予定となっていたため、まるで遊べる時間がなくなってしまったりで、ままならなかったのだった。
 晩ごはんは唐突に食べたくなり、餃子を作った。そしてホットプレートで焼き上がった餃子を囲んで、それを摘んで食みながら、「桃太郎電鉄ワールド」をした。もちろん普段はごはんを食べながらゲームなんてしないのだが、こういうときなので特別である。ちなみにこれまでの数日でゲーム内では10年ほどが経過し、意外や意外、もう何年もファルマンがトップで在り続けている。今作は前作までよりも、盤石の体制が作りづらい気がする。このまま右肩上がりかな、と思いきや、あれよあれよと借金になったりする。それゆえにおもしろい。やっぱり休みのはじめに買ってよかった。
 夜になり、風呂に入っていたら、羽田空港でとんでもないことが起っていた。前日の地震に関連した出来事とは言え、正月からあんまりじゃないかと思う。折しも、「hophophop」に書いたように、いたずらに怖がっている飛行機についてきちんと知識を深めようと、年末の図書館に行って関連本をたくさん借り、読んでいた最中である。そんなタイミングで目にしたセンセーショナル過ぎる映像に、頭がくらくらした。もうああなってしまったら、飛行機が飛べる仕組みとか関係ない。揚力について学んでも意味がない。なんてこったよ。
 それにしても、夏の台風もひどかったが、今回も帰省が悲劇ではないか。帰省することにしていた場合、冬なので飛行機を使う目は基本的になかったけれど、飛行機があんなことになった影響で、新幹線に人が流れたそうで、そして新幹線と言えば、今回の帰省を思いとどまるひとつの要素であったが、全席指定席(指定席を持たない人は通路に立って乗る)仕様なわけで、そこへ想定外の人の流入が起ったのだとすれば、その車内はさぞひどいことになったのではないかと思う。ああ帰省おそろしい。
 3日の今日は、次女一家は今日が移動日ということで、午前中にまた3人は実家へと向かい、僕はホームプールが今年の初営業ということで、初泳ぎをしに行った。午前中ということで、いつもとはぜんぜん違う感じかなと思いきや、泳いでいる人間はわりと見たことのある顔ばかりで(誰とも喋ったことはないが)、要するに会員の、ふだん足繫く通っている人間は、数日間のブランクを経ての待ちに待った営業再開日、夕方までなんか待てず、午前中のうちに来てしまったのだろうと思った。かくいう僕もだけど。今年最初の今日も、去年最後の日と同じく、1km泳いだ。
 午後は、またずっと家にいるのも何だしということで、年末と同じく具体的な目的があったわけではないが、ゆめタウンへと赴いた。初売りセールでにぎやかだった。まあそういう雰囲気を味わいに行ったということで。ちなみにここへは昨日、お笑いコンビのアイデンティティが営業でやってきていて、三女は観に行ったそうだ。もちろん野沢雅子だったらしい。いいなあ。
 晩ごはんは、鶏肉ですき焼きにした。2日連続のホットプレート(IHクッキングヒーター)メニューで、今日もまた行儀悪く、食べながら桃鉄をした。いけませんな。
 まあそんな感じで、三が日は終わろうとしている。わが家は地味に過し、世の中ではとんでもないことが起き、なにをどう思えばいいのか、とことん捉えづらい正月だ。とは言え確かなのは、家族で家で過せているのは、とても尊いということである。初詣でもそれを願った。しかし石川県の人々も、あの日の午前にそれを願っていたに違いなかった。やるせないな。
 休みはいちおう明日まである。しかしもう三が日は終わったし、翌日からは労働が始まるし、なにより明日という日はピイガの誕生日を祝うための日なので、もう実質的に年末年始の休みは今日でおしまいだ。のんびり自由に過した日々だった。開始時にやりたいと思っていたことは、まあまあの率で潰せた。よかったと思う。