目的地までは、途中に無料の高速道路も含んだ1時間弱の道のりなのだけど、今回はこの運転をファルマンにしてもらうことにした。わが家には車が2台あるわけだが、普段ファルマンは専ら軽ばかりを使っていて、フリードを前に運転したのは、鳥取旅行の帰りに本当に少しだけ運転を代わったという、数年前のそれが唯一なのだった。しかし今後、ファルマンがフリードを運転する必要に迫られる場面もあるやもしれないので、どこかで練習をしておきたいね、ということを前から少し話していた。それを今回、実行することにした次第である。先日ドライブレコーダーを設置したことも、この練習をするにあたっての援助となった(ただし逆にとんでもない過失が記録される恐れもあるわけだが)。
結果的にこの首尾はどうだったかと言えば、ひたすら軽だったとは言え、やはり当時から2年以上の経験を積んだことで、鳥取旅行の帰りのときほどどうしようもない感じではなくなっていて、最初こそ「これセンターラインはみ出してない?」みたいな、車体感覚が掴めていないがゆえの恐怖はあったが、それもしばらく運転していたら整った。高速道路では、軽にはない自動運転機能を作動させる、その作動のための操作を実習する予定だったが、「まずハンドルの右にあるそのボタン」とこちらが言っても、「ハンドルなんか見られん」と、前方から一瞬も目を逸らさないので(正しいことではあるのだけど)、結局機能を作動させることはできなかった。あと高速の出口では、普通に反対車線に出そうになったので、とてもおそろしかった。「曲がった先に車線がふたつあると、自分が走るのが右か左か分からなくなる」と言っていて、なんでだ、日本からいちども出たことがないくせになんでだよ、と思った。とまあスリリングな要素はあるのだけれど、とりあえずいざとなればファルマンもフリードを運転できないことはない、ということが確認できたのはよかった。
到着したゴールデンユートピアおおちは、相変わらずの非日常空間で、ウォータースライダーも貸し切りでこそなかったが、家族が数組だったので、順番待ちで並ぶということもせず、あのグループがやっているときはこっちは普通のプールで遊び、空いたら次の時間帯はわれわれがひとしきり占有する、みたいな感じで、ストレスなく平和に遊ぶことができた。やっぱりわざわざ行く価値のある、なかなかいい施設なのだった。
帰りは僕が運転した。ファルマンが行きの運転でグロッキーだったというのもあるが、助手席というのはとにかく退屈なものだということを、久しぶりに長い時間自分が運転しない車に乗っていて感じたのだった。だからまあ本当に、いざってときだな。
帰宅後はプールあとの気怠さもあって、各自ぬるぬると過した。夜になって、近ごろ週末のテレビがぜんぜんおもしろいものをやっていないので、もういっそのこと映画を観ようという話になり、そうなってくるとわれわれの場合どうしたってジブリで、じゃあジブリのなにを観ようかという議論の結果、「耳をすませば」ということになった。人生何度目か知れない「耳をすませば」。観始める前は、実は少し怖かった。もしも「耳をすませば」を観て、ぜんぜん思春期のキャラクターにときめけなくなっていたらどうしよう、と思ったのだ。しかし杞憂だった。ぜんぜん無理することなく、ときめけた。自分の子どもが中学生になってもなんの問題もなくときめけるのならば、もう一生大丈夫なのかもしれない、と安心した。願わくは死の床でもこの映画を観て、ときめきにとどめを刺されて、キュン肺停止のキュン不全で昇天したいものだと思った。
そんな感動の夜だったので、翌日の今日、昨日の余韻が残っているうちに、2年前に上映された実写版の「耳をすませば」を観てみようじゃないか、ということになった。上映当時から存在はもちろん気になっていて、機会があれば観たいと思っていた。それが先ごろからプライムビデオに追加され、そして土曜日にジブリ版を観たとなっては、この日曜日に観る以外ない。というわけでおやつのあと、晩ごはんまでの時間帯で、ファルマンと観た。感想は、なんとも言い難い。純然たる疑問として、どうして作ったの? ということを思った。いろんな意味で、どういう意図で作られることになった映画なのか、さっぱり分からなかった。今後のジブリ版との付き合いのため、この観賞はなかったことにしようと思った。
そんな感じの週末だった。土曜日の夕方から降り始めた雨は、今日一日ずるずると降ったり止んだりを繰り返していて、これはあれだな、梅雨だな、と思った。