インフルB型とピョンチャン閉幕

 先週末にポルガがインフルエンザB型を発症し、そのため日曜日は隔離の意味合いも含め、ピイガとふたりで外に出た。しかし半日そんなことをしたところで焼け石に水で、あえなく今週の半ばに、リレンザ効果でだいたい回復したポルガとバトンタッチで、ピイガが発症した。だから、ポルガは金曜日にやっと解禁されて登校したのだけど、その日までは、体調がよくなって元気を持て余すポルガと、体調不良の不快感に泣き叫ぶピイガの世話で、ファルマンはそれはもうてんてこ舞いの日々だった。そして、夜中にも喉の痛みや熱による寝苦しさを容赦なく訴える子どもたちの世話で、ファルマンの体力は削られ、その結果、当然の帰結としてファルマンも具合を悪くする。もはや病院に行く気も起らず、そのためインフルエンザなのかどうなのかも不明だが、この期間の有様を目の当たりにしていた立場からすれば、それはそうだろうと思った。兆候が出るや否や、素早くリレンザを摂取したので、そもそもB型ということもあり、いまはもう大丈夫になったようだ。ちなみに僕はおかげさまで、ファルマンが厳重に子どもを統制し、食事も寝室も別にして、発症中の子どもたちとほぼ触れ合わないという対策を取ったため、発症の気配はない。もちろんまだ油断はできないけど。しかし今年の冬はインフルエンザの当たり年だった。世間的にインフルエンザの当たり年と言われる年でも、家族がまったく発症しないこともあるわけで、そういう意味で今年はわが家にとって正真正銘の当たり年だった。
 そんな状況だったので、今週はポルガとふたりでの外出となった。図書館へ行って、溜まっていた本を大量に返し、また大量に借りた。ピイガがいると、ピイガはまだ図書館であまり長く静かにできないので、今回はじっくり選ぶことができた。それから店でうどんを食べた。ポルガは最近、うどんを親から分けてもらうのではなく、自分用に1玉頼めるようになったのが、とても嬉しそうだ。
 帰宅して、晩ごはんとしてミネストローネを作った。思えばA型からの快癒のタイミングでも作ったような気がする。ファルマンに食べたいものを訊ねたら、「野菜が多くて、お腹に優しいもの……」ということだったので、どうしたってミネストローネということになる。おいしかった。
 明けて今日は、完全に外出せず、わりとひたすらに通園グッズの作製に勤しんだ。それで無事に終わったかと言えばそんなこともなく、歯ブラシ入れと、着替え入れと、あとランチョンマットの洗い替え2枚という成果。ひたすらに勤しんだと言ったが、実際はYouTubeを流しながらだらだらやったのだった。でもこれで残りは手提げと上履き入れのみ。それも裁断は済んだので、もうすぐだ。もうすぐでようやくハンドメイドブログのこけら落しの記事が完成する。
 晩ごはんは鳥肉とゆで卵の煮物と、ほうれんそうとコーンのバター炒め。食事も今はひとり自分のパソコンデスクで食べているので、ちょっと侘びしい。早く娘たちに競ってビールを注いでもらう日々が戻ってきてほしい(来週の水曜日くらいの予定)。
 夜はピョンチャンオリンピックの閉会式。中国の偉い人はどんなコスプレで現れるんだろうと期待していたら、普通にVTRでスーツ姿で語っていて残念だった。それにしてもオリンピック、韓国の次が日本で、その次が中国なのか。なんだかそれって、東アジアの人間ながら、白ける。もっと遠くでやってほしい。

この世ちゃん

 前に「BYAPEN」にも書いた話なのだけど、「カードキャプターさくら クリアカード編」が、なんか観ていると猛烈にどうしようもない気持ちになる。破壊力が強すぎる。夜に、晩酌をしながら録画したものを眺めていると、特になんでもない日常のシーンとかで、「ぶふぁあっ!」と変な声が出てしまう。それはいわゆるオタクの発する奇声とは異なるもので、そもそも僕はオタクではないし、桜の姿に我を忘れるほど興奮しているわけでもない。むしろ心は冷めているとさえ言える。それなのに、たまに悶え声のようなものが口から発せられてしまう。興奮しているわけではないが、感は極まっているのだ。あまりにもエロい状態になると、抽送したり手で擦ったりしなくても、なんなら勃起という状態を経ずに射精してしまうことがある、と聞いたことがあるが(実体験はもちろんない)、それに近いかもしれない。例え話がそっちに行ってしまうと、なんか余計に話が胡散臭くなるけれど。
 つまりそれだけ思い入れの強い作品だったんだね、と言われればそんな気もしてくるが、しかしやっぱりそれだけが理由でもないだろうとも思う。今回の「クリアカード編」では、前作から歳月が少しだけ経過し、桜たちが中学1年生になっているのだが、ここに大きな理由がある気がする。いくら17年ぶりの邂逅だからと言って、単なる再放送であれば「ああ懐かしいなあ」くらいの感想だろうし、「ゲゲゲの鬼太郎」や「ルパン三世」のようにかつて観ていた作品がリニューアルされて始まっても、「ふうん」くらいにしか思わない。ポイントは、「17、8年ぶり」に、「作品世界ではひとつだけ年度が進んで」続きが描かれた、というところだと思う。だって17、8年前、僕は高校生だったのだ。高校生として小6の桜と相対していたのだ。それだのに今回、中1になった桜と、僕は34歳の二児の父として向かい合わなければいけないのだ。この時空の歪みにクラクラする。心の処理が追いつかなくなる。俺と桜、一体どっちが正しいんだ、と懊悩し、自分の現在地が揺らぐ気さえする。その結果、「ぶふぁあっ!」となる。
 その一方で、中学1年生になった桜の姿を穏やかな目で眺め、「あの桜がもう中学生か……」と感慨にふける気持ちもある。僕の場合、桜は初めて知ったときから年下の女の子だった。そういう意味ではダメージは少ない気がする。職場の、20代半ばの女の子に、カードキャプターさくらが好きな子がいて、当時は小学校低学年だったはずで、彼女にここらへんの感慨について相談したら、「やめてください」と話をぶった切られた。悪いことをした。
 子どもの散らかしたおもちゃに囲まれながら、日本酒を飲みつつ、「桜が、中学生に……」と呟いていたら、いつの間にか隣に来ていたファルマンに、「なにそのこの世一どうでもいい感慨」と呆れられた。妻は「この世一」とよく言う。なんだ「この世一」って表現。

ちょこっとだけやで

 バレンタインデーということで娘たちからチョコレートをもらう。ガーナチョコを溶かし、ハートの型で固め、上にカラフルな細かいチョコレートを散らしたもの。それだのにやけにおいしく感じられたのは、なにかその、気持ち的な、形而上的な、特別な成分が入っていたからやもしれない。ハートの型は、シリコン製のものを購入していて(購入する際にはなにに使うものか、まるでピンと来なかったよね)、ということはこれからは毎年あの型のチョコレートが画一的に贈呈されるのであろうか。されるのであろう。それに対して思うところがあるのか。決してない。毎年固定の型で成形されるガーナチョコレートは、それってもう一種の工場みたいなものだと言える。だからそれに対して思うところがあるというのか。もちろんない。あるわけがない。だってそれには、なにかその、気持ち的な、形而上的な、特別な成分が、毎年それぞれの度合で含有されるのだから、そうして贈られるチョコレートは、毎年ぜんぜん味わいが変わってきて、毎年とても新鮮な気持ちで僕は喜ぶのだと思う。そう思う。それに対しては思う。思うところがないことなどない。深くそう思います。
 ちなみにファルマンからは、「あなたどうせ私が選んだチョコレートだと不満があるでしょ」と言って現金をもらったので、そのお金でチョココとかウィスキー(ハイボール用)とかを買った。さすが結婚9年超、交際開始から14年超ともなると、わかってらっしゃる。「あなたは付き合いはじめの最初のバレンタインの、手作りのトリュフチョコに、それはもう白けたリアクションをしたのだ」と、いったいいつの話を蒸し返すのだという話をまた蒸し返された。僕はプロペ天使、プロペテン師を自称するほどに嘘をつくのが得意なのだけど、しかし人をしあわせにしたり安心させたりする嘘に関してだけはからっきしで、そこだけはとてつもなく正直になってしまうのだった。でもそのくらいの弱点がないとかわいげがないので、それのことはウィークポイントではなくチャームポイントだと解釈している。そしてチョココはおいしい。チョココの、憂いのない、平原のようなおいしさ。
 ちなみに職場でもぽつぽつともらう。習慣のある人と習慣のない人は固定で、いつもくれる人が今年もくれた。友チョコということでもないのだろうが、バレンタインにかこつけて、大袋的なお菓子からひとつずつを、男女問わず配っている人もいて、ブラックサンダーとかハートチョコレート(不二家)とかだと「あざーす」という感じで、ホワイトデーのことも気にせず気楽にもらえるのだけど、これがチョコパイとなると、チョコパイに対してはなんかしらの返礼が必要なのではないかという気にさせられる。そこに境界線みたいなものがある。と言うより、価格とかそういう問題じゃなく、チョコパイというお菓子の威風はいつだって境界線の向こう側にあるのだと思う。チョコパイはロッテだし、なんか実際に北朝鮮とチョコパイの話題というのもあったしで、だとするとこの境界線というワードも、ピョンチャンオリンピック開催中の折、期せずしてなかなか生々しいものに思えてくる。
 まあ、とにかく、ハッピーバレンタイン! まちがえた、ハッピーヴァレンタイン!

オリンピックとおでん

 金曜日の夜はピョンチャンオリンピックの開会式を家族で眺めた。なんだかんだでオリンピックは、開会式くらい、こうしてきちんと家族で観て、そしてそのことを日記に書いておくと、あとから振り返ったときに「ああ懐かしい」ポイントが高いので、その目的のために記しておく。本当は日本の入場あたりで子どもはおしまいにしたかったのだが、ポルガが最後まで観ると言い張り、聖火が点灯した22時過ぎまで観続けた。付き合わされたピイガはつらそうだった。
 観た感想としては、イ・スンヨプが懐かしかった。あと最近のこういうのって映像をたくさん使うので、テレビを観ている分には、スタジアムの中継と映像がいいように差配されて届けられるからいいのだが、観客席で観ている人たちはVTRパートのときは一体どうしているんだろうと思った。東京ではもっと生身でやってほしい。ブラジルではサンバ、韓国ではブレイクダンスみたいのをしていたが、日本ではどんなことをやるんだろう。風の盆とかソーラン節とかがいいなあ。
 その翌日からは3連休ということでワクワク感があったが、初日からあいにくの雨で、仕方なく車で20分ほどの場所にある公共の屋内施設に遊びに行った。公共のそういう施設にありがちな、「遊びながら学ぼう」的な装置がたくさんあり、それなりに愉しめる。行くのは2度目。プラネタリウムもあり、プラネタリウムならばあんまり興味がないので観ないのだが、プラネタリウムのシアターを使っての全天周映画というのをやっていたので、観てみた。なんか恐竜の話だった。映像が前方だけでなくそのまま円形になっている天井のほうまで続くので、画面に入っているような迫力があった。椅子が動いたり3Dだったりするわけではないので、いまどきの豪奢なテーマパークに慣れているような人種ならば、ちゃんちゃらおかしい子供だましのレベルなのだろうが、慣れないので十分だった。十分すぎた。恐竜の視点そのまま、みたいなカメラワークの映像がけっこうあり、それが空を飛んだりもするので、地面が流れて浮遊する感覚に「ムリムリムリ!」となった。さいきん飛行機にすっかりご無沙汰なので、ちょっと喉元の熱さを忘れかけていたのだが、この映像によって飛行機の恐怖を想起し、「なんなら飛行機という移動手段もありだね」みたいなことを思ってしまう心をきつく諌めた。仮想体験としていい効果だった。
 午後は家でダラダラと過した。子どもがやっぱりうるさい。うるさいし物を散らかすし言うことを聞かない。夜には心底うんざりし、これが3連休の初日だなんてことがあるかよ、と軽く絶望した。
 今日は天気が回復したわりに、どこへも出掛けず、だいたいを家で過した。午前中に人生ゲームをする。3連休を迎える前からポルガに参加を乞われ過ぎていて、もはやする前から辟易としていたのだが、実際にやってみたらそれなりに愉しく、さすが人生ゲームだと思った。結果は、ポルガと僕で競ったが僕が勝ち、ファルマンピイガのチームだけが所持金マイナスでボロ負けした。
 それから子どもたちと自転車で近所のスーパーへ。前に自転車をこいだのはいつだろうか。秋くらいだろうか。風が冷たく、寒かった。早く公園に行ける気候になってくれれば、連休の過し方も算段がつきやすいのだけど、まだなかなか遠い。
 昼ごはんは焼きそば。これまで僕は蒸す際に水を入れ過ぎていて、麺がぬめっとなってしまう傾向があったのだけど、今回はそれをしっかりと自戒し、水を少なくしたら、麺にきちんと歯ごたえの残る、気概のある端正な仕上がりとなり、満足感があった。
 午後は、女性陣は雛飾りを出す作業をし、僕はピイガの通園グッズ作り。まずはウォーミングアップということで、作りやすいところとして、ランチョンマットを作る。ポルガの際は中表で縫って返す方式だったが、今回はパイピング仕立てにする。いい具合に仕上がった。非常にゆっくりとしたペースで(そもそもネーム作りにこれまで10日ほどかけていた)、今日の完成品はこれきりなのだが、いちど始めたらそこまで時間はかからないと思う。なんと入園まではまだ2ヶ月近くあるのだ。余裕である。むしろいまもう始めていることが僕としては奇蹟だ。
 晩ごはんはおでん。車でスーパーに行っていたらおでんにはならなかった気がするが、自転車で寒風に晒されたので、これはおでんっきゃないだろう、となった。おでんは、スーパーで小分けに売っている練り物のパックを、あれもこれもと買い過ぎてしまい、家でいざ調理してみて量におののくということが多々あるので、今回はとても自制した。それでも大鍋にたっぷり出来上がる。味は言わずもがなでおいしい。寄せ鍋とかは、本当は不要で、でも慣習で居座っているような存在がいたりするが、おでんにはそういうのが一切ない。全員いい。そこがすばらしいと思う。日本酒を飲み飲み、しあわせな気持ちになる。
 そして明日も休みか。持て余すな。どう過したものか。

友達のいない夫婦と経済

 起きたらファルマンが、「あなたにたくさん友達がいる夢を見た」と言ってくる。ちょっと斬新なパターン。僕が僕の夢の中で、友達に囲まれてハッピーでいるところをアラームに起され、「なんだ夢かあ……」じゃない。僕の夢友達は、僕本人じゃなく、ファルマンの頭の中の僕の所へ、間違えて行ってしまったらしい。相変わらずドジな奴ら! しかしそのあと、「それでたくさんのお友達を家に連れてきて、そうしたら私もわりと社交的で、明るく相手をしてた……」とファルマンは続けて言ったので、実際には絶対にそんなにファルマンは朗らかに対応できないに決まっていて、そんな自分になりたいのかどうかは知らないが(たぶん別に思っていないが)、やっぱりそれは「なんだ夢かあ……」の一種だったのだな、と思った。どちらにせよ哀しい夫婦の日曜日の目覚め。子どもは先に起き、ふたりで過していてくれたので、たっぷりと寝られた。
 準備をして、午前中のうちに買い物に出かける。ファルマンの眼鏡の新調が主目的でのショッピングセンター行きだったが、残念ながら「これぞ」というものには出会えなかったようで、今回も購入には至らなかった。正月に僕が買ったときにお店にあったやつが、いま思えばすごくよかった、あれを買えばよかった、私は注文してもレンズが取り寄せになるから横浜で買うのは尻込みしたが、郵送とか方法はいくらでもあったのだから買うべきだった、ということをこのひと月ずっと言うのだが、もう二度と巡り会えないだろうそれが、イメージの中でだいぶん美化されているのだと思う。厄介な人だ。以前、ちょいちょい買い物をした服屋を覗くが、トレンドが様変わりしていて、ぜんぜん趣味のものがなくなっていて、ショックを受ける。なんか、平面的な、素人が作ったみたいな、のぺっとした服ばかりだった。なんだろうかあれは。しかし、あんなもん誰が着んねん、と思って街の人を見たら、わりとみんなそんな服ばかり着ていてハッとするパターン。流行ってすごい。ほんとツーブロックとか、猫も杓子もしててびっくりする。かりあげくんじゃねえかあんなもん。
 というわけでSCでの買い物はとても不発。そのあと手芸屋に立ち寄り、ピイガの幼稚園の諸々の袋類を作るための生地を選ぶ。ポルガが黄色だったのに対し、ピイガは絶対にピンク。ピイガは、「女の子=ピンク」という図式がピタッと嵌まるタイプで、ああ女の子ってこういうことなんだな、女の子って本当にピンクでお姫様なんだな、と感心すると同時に、あれ? 女の子を育てるのはふたり目のはずだぞ? ひとり目のあれはなんだったんだ? 妖精的な、性別とかそういうんじゃない生きものだったのかな、と思う。ちなみに弁当箱などの持ち物のキャラクターは、ポルガがドラえもんで、ピイガがマイメロディ。これが端的にふたりの人格を象徴している。生地は、いいものに出会えた。薄ピンクをベースに、ウサギをはじめとした動物や、リボンやお城やハートやキャンディやカップケーキなどのイラストが細かく描き込まれた、とても「らしい」もの。よかった。これはいい。本当にピイガにぴったり。かわいく作ってやろうと思う。
 帰宅後はのんびりと過す。先日ZOZOで買った帽子が、サイズ「FREE」だったのに入らない、という悲劇が起り(ファルマンに引き受けてもらった)、「大きいサイズ」という注釈入りの帽子を新たに注文したりした。ウェブで見る帽子にはいろいろな種類があるが、「大きいサイズ」という制約を入れると途端に選択肢が狭まり、ああこれが4Lとかの服を着る人の気持ちなのか、と思った。わりと哀しいものだ。見識が広がった。そうか、僕の頭は、「FREE」として売られている帽子が、普通に入らないのか。道理で頭脳明晰なわけだと思った。
 晩ごはんはサーモンのお刺身に、ポテトサラダ。あと昨日の残りのホワイトシチューを汁物のような感じで並べた。スーパーでキャベツが安ければ、餃子を作ろうかという色気があった。しかし安くなかったのでやめたのだった。ニラはだいぶ落ち着いたが、キャベツはまだらしい。もっともキャベツが高いのは「やだなあ、もう」程度なのだが、冬場に白菜が異常に高いのって、もう自分が買うとか買わないとかじゃなく、お前それでいいのか、と言いたくなる。お前はキャベツと違って冬場に照準を絞ってコンディションを整えればいいのに、それができないって、お前はダメな子なのか、と思う。冬に白菜がこうだと、鍋業界全体が今年は冷え込んだことだろう。思えば今年はほとんど鍋をしていない。