さよなら2021

 仕事はなんとか28日に納まり、おとといから休みに入っている。12月はずいぶん働いた。なのでまとまった休みがとても嬉しいのだった。
 休み初日は午前中に、年末年始の食糧品の買い出しを行なった。12月の食費は、クリスマスというイベントを経ながらも(苺が高いのなんのって)、日々の弛まぬ努力によって、なんとかかんとか余裕を持って終われそうな情勢となり、それで気が大きくなって、今年最後の買い物は、これからの数日間、食べ物関係で困ることが一切ないよう、「迷ったら買う」をコンセプトとし、がしがしとカゴに物を入れていったら、結果的にあったはずの「余裕」はすべて吐き出され、非常にスリリングな数字となった。まあ本当に、これで今年の買い物は終了の予定だから、それでいいのだけど(ただし1月には2度の誕生日祝いが待ち受けている)。
 午後は、子どもたちを実家に預かってもらい、ファルマンはまだ納まらぬ仕事(在宅ワーカーというのは、出勤せずに仕事ができる分、いつまででも仕事ができてしまうのだった)に邁進し、僕は筋トレとハンドメイドをして過した。ゆとりのある時間の中で、思うままに筋トレとハンドメイドをするという過し方は、バタバタだった12月において、強く希っていたことだったので、精神がぐいんぐいんと癒されていくのを感じた。
 晩ごはんは、鮭ときのこのホイル焼きと、お買い得の甘えびの刺身。甘えびって、たまに殻付きで、舟にどっさり乗ってやけに安い、みたいなものが店頭に並ぶが、普段は工場加工品という感じの、殻が剥かれて均一な大きさのそれが平たく整然と並んでいる、しかもやけに高いのしかなくて、どういう流通経緯によってそうなっているのか、よく分からない。自分で殻を剥いて(もちろん食卓で各自が剥くのではなく、事前に僕が全て剥くのである)食べる甘えびは、ねっとりと甘く、とてもおいしかった。頭部などは、なんかうまくやるとおいしいダシとかが出るんだよな、と思いつつ、ノウハウがないので捨てた。捨てたというか、今年のごみの収集はもう終了していて、次はだいぶ先になってしまうため、えびの殻はヤバいということで、袋に入れて冷凍庫に入れた。「去年今年貫く棒の如きもの」という虚子の句があるが、棒の如きものとは、甘えびの頭だったのかもしれない。
 夜には、ファルマンに髪のブリーチをお願いして、やってもらった。1ヶ月半くらい前にも実はやっていて、しかしそのときはとても穏当なブリーチ剤を使ったため、光に当てると茶色いね、というくらいにしか茶色くならず、ファルマンは「そのくらいがいいよ」と諭してきたのだが、やっぱり充足がいかず、今度は激しいほうの商品を買って、(しぶしぶと)やってもらった。その結果、金とはいかなかったが、だいぶ明るい茶色になった。やっぱりなんだかんだで、髪が明るいほうが気持ちが上向くのだった。これからまた数日で色味が変わってくるので、それから判断するが、もしかするとここへ、今度は脱色ではなく色を入れるかもしれない。
 昨日は、ファルマンは引き続き仕事だったため、基本的に家で過した。こんなときにしかできないということで、かねてより「試してみたいね」と口にしていた、リビングのテーブルを座卓と入れ替える、という事業を、ひとりで行なった。これまで使っていなかった座卓は外の物置にあり、それを持って上がり、これまで使っていたダイニングテーブルを解体して、今度は外の物置に持って降りるという工程であり、けっこう大変だった。その結果、想像していたよりもいい具合になった。これまでメインテーブルと、ソファーに対するローテーブルという、ふたつがリビングにあったのが、座卓がそのふたつを兼用するようになったため、部屋が広くすっきりとした印象になった。また戻すのは大変だし、よほどの問題がない限り、しばらくはこれでいこうと思う。
 それ以外の時間は、料理をしたり、やはりハンドメイドをしたりした。のんびり、余裕である。休みが1日しかないと思って、もっと詰め込んで作業をすれば、もちろん作業はもっと進むのだが、休みがけっこうあるとなると、どうしても間延びする。でもそれでいいのだ、その余裕がいいのだ、と思う。それと、2021年、丑年が終わるということで、12月に入ったあたりから、今年でいよいよひと回りとなる干支4コマの牛編のことに、生活の端々で思いを馳せ、やらなければなあ、やらなければなあと懊悩し、オムライスにも、ピイガがクリスマスにもらったホワイトボードにも牛の絵を描くほど、12月下旬にここまで、来年ではなく今年の干支に縛られてる人間が他にいるだろうか、というくらいの状態だったが、しかし(言い訳に過ぎないが)12月は予想以上に忙しく、とうとう1話も投稿しないままここまで来てしまって、それでも29日から休みなのだから、3日あればできるな、などと考えていたのだが、まるでやる気配を見せない自分に、30日の昼過ぎあたりに、「あ、こいつもう、今年の投稿はすっぱりあきらめたな」ということを察し、そう察したら、パーッと視界が開けて、すっきりと解放された気持ちになった。やりきったら、それはもちろんすっきりしたことだろうが、やらないことにしても、それはそれですっきりするのだな、と思った。まあ牛だけに、牛歩作戦ということで、旧正月までにゆっくり投稿しようと思う。
 大みそかの今日は、子どもたちがまた実家に行くというので、それを送りついでに、僕はおろち湯ったり館に行った。送りついでといっても、実家へは車で5分ほどだが、湯ったり館へはそこから30分弱かかるので、ただやっぱりどうしても行きたかっただけの話だ。サウナに行ったらプールのことを想うし、プールに行ったらサウナのことを想ってしまうので、そうなるとどうしたって湯ったり館しかない、ということになる。起きたら雪が舞っていたので、雲南のほうはどうかな、と思ったが、まあ大丈夫だった。2021年の心残りを残さないための湯ったり館は、プールは空いていてとてもよく、たっぷり30分間、20メートル弱くらいのコースを50往復くらいして、しっかり堪能した。大みそかに泳いだのって、人生で初めてかもしれない。一方サウナはけっこう混んでいたため、外気の寒さもあって温度が低く、ちょっと微妙だった。もちろん時期的に2階も閉鎖されているし、そういう意味では残念だったが、でもまあ、行って後悔はない。やっぱり湯ったり館はいい。
 このあとは子どもが帰ってきて、紅白などを観ながら、晩ごはんや年越しそばを食べるだけだ。今年の行動も、日記も、これでおしまい。1月4日に引っ越してきた2021年の島根生活も、いやまったく自分でも信じられないくらいの紆余曲折を経ながらも、なんとかこうして、わりとゆったり、平穏な年末を家族で迎えることができていて、料理を一手に引き受け、さらにはリビングで裁断などしているので、子どもたちと一緒にいる時間も長く、しみじみと幸福を感じている。来年もいい年になりますように。

クリスマス2021

 今年のクリスマスを経る。
 24日の晩ごはんのメニューは、近所のスーパーで予約していたローストチキン以外、ファルマンが「作れる気がしない」「ひどいクリスマスになる」などとしきりに訴えるので、面倒になって、23日の仕事帰りにフランスパンや生ハムやテリーヌなどを買ったほか、夜にミネストローネとマカロニのサラダを作った。かくして迎えたクリスマスイブのディナーは、ローストチキンもおいしかったし、なかなか豪勢でよかった。1年前のクリスマスは、岡山と島根、別々の暮しの中で、非常にゴタゴタ、バタバタしていたので、隔世の感がある。俺も小さくまとまったもんだ、とも思うが、別にそうでなかった時期など若い頃を含めてなかったような気もすることとして、安定は尊いな、ということをしみじみと思った。12月ずっとリビングにあったクリスマスツリーに、今宵ばかりはコンセントを繋いで電飾を点灯させ、食事中も、無音は味気ないからということで、ネットのサービスでクリスマスソングをかけた。それでいろんな曲を聴いたが、その中で「ママがサンタにキッスした」が流れ、これまで不思議と気にしていなかったが、これってぜんぜんネタバレなんじゃないか、と衝撃を受けた。なぜあんな歌が、子どもが聴きそうな他のクリスマスソング群に紛れているのだろう。幸い、今年もピイガはもちろん、ポルガもサンタクロースの存在は信じてくれている。信じるもなにも、イメージする第三者としてのサンタクロースはたしかにいないが、12月24日の夜にサンタクロースになる親がいるのだから、「サンタクロースなんて本当はいない」なんて、逆に間違いだろうとも、毎年身銭を切ってプレゼントを購入しながら、フィンランドの老人の手柄になる不条理を味わっている親として、思う。サンタクロースはたしかにパパだ。でもパパがサンタクロースなのだから、じゃあサンタクロースはサンタクロースではないか。とはいえ今年に関しては、クリスマスだってのに仕事がぜんぜん納まる様子がない僕は、翌25日土曜日も出勤だったため、宵っ張りのポルガが深い睡眠に入るまでなどとても起きていられず、ファルマンに役目を託して早々に寝たため、厳密にはサンタクロースをしていない。ちなみにファルマンは午前1時くらいまで、仕方なく寒い中リビングで待機したらしいが、いよいよ我慢の限界を迎え、さすがに寝たもののまだ眠りが浅そうなポルガの待つ(ピイガはとっくに就寝)子ども部屋に突入し、プレゼントを置くくだりをしようとしたらしいが、そこでやはりポルガは寝ぼけながら起きる様子を見せたため、ファルマンは咄嗟に、自分はあくまで子どもたちの布団を直してやりに来ただけだが、なんかプレゼントが置いてあったよ、サンタさんもう来たんだね的なストーリーを即興で仕立て上げ、なんとかごまかすことに成功したらしい。さすがわが家の北島マヤ。かくして今年のプレゼント配送も、つつがなくはなかったものの、なんとか済んだのだった。
 朝のプレゼントの開封も、僕は見ることができなかったわけだが、見たい気がすると同時に、喜ぶだろうなとこちらが想像するリアクションと、実際の相手のリアクションの相違とか、なんかそのあたりのことを思うと、自分のいない場でやってくれたほうがいいかな、なんてことも思うのだった。もっとも子どもたちの反応はとてもよかったようで、ならばよかったと思う。内容は、ピイガがポケモンのZリングなるものと、お気に入りのポケモンのぬいぐるみと、大きなホワイトボード。ポルガが、「らんま1/2」のCDと、電子辞書。1年にいちど、起きたら枕元に、かねてから欲しいと思っていたものが置いてある朝があるって、どれだけしあわせなことだろう。うらやましいな。まあ僕も、クリスマスプレゼント&1年の慰労という名目で買ったトレーニングベンチの、毎晩すぐ脇で寝ているので、大雑把にいえば同じようなものかもしれないけれど。
 かくしてクリスマスは無事に終わったのだが、去年に引き続いてクリスマス寒波がやってきて、今朝26日の朝、窓の外を見たら雪景色になっていた。雪が心配でやっぱり帰省できない、という決断をした手前、意外とぽかぽか陽気になどなられたら若干困るので(そしたら行くまでだが)、こう完膚なきまでに、年末年始に中国山地や日本アルプスを越えようだなんてよせ、といわれているような気候になると、きっぱりあきらめがつく。年末年始は近隣でおとなしくしていよう。今日は子どもを実家に預け、ファルマンと少しだけ買い出しをして(猛吹雪という局面もあった)、その間に子どもたちは雪で大いに遊ばせてもらったようで、僕もファルマンも雪遊びになんか本当に付き合いたくないので、うまく動けた休日だったと思う。ちなみに週末から冬休みに入った子どもらは、年明け、土日と成人の日がうまい具合に組み合わさり、これから実に半月くらい冬休みなのだった。うらやま! 晩ごはんは鍋ラーメン。身に染みた。汁物を啜って冬をやり過ごそうと思う。

冬山陰

 寒波がやってきて、日本海側を中心に積雪となった週の後半。土曜日の朝、車には数センチの雪が乗っかっていた。あのぽかぽか陽気だった鳥取旅行から約1ヶ月。実に冬である。
 去年まで山陽で暮していたわが家には、子どもたちが雪の日に履く、本格的な防水のブーツがないということで、今週はそれを買いに行く。本当に給付だ。現金でもクーポンでもいい。どっちにしろ子どもにばかりお金を使うじゃないか。
 ショッピングセンターは、なにぶん子ども用品フロアだったため、クリスマス商戦で大いに賑わっていた。各人がおもちゃを抱えて並ぶレジの行列は、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるけど、まあ幸せな風景ということで、短絡的に眺めればいいと思った。目的のブーツは、僕自身が雪国の経験がないため、あまりイメージが浮かばずに買いに行ったのだが、想像していたよりだいぶ長靴寄りの、なるほどそういうものか、というようなものだった。岡山の靴売り場ではついぞ目にしなかったな。そこでポルガは選んで買ったが、ピイガはどれを見せても拒んで、結局買わなかった。どうやらブーツという言葉に、これまで岡山で冬場に履いていたような、ムートン的なものをイメージしていたようで、質実剛健すぎるビジュアルに、納得がいかなかったらしい。次女は女子だ。ファルマンが小さい頃、父親が「城に連れてってやる」というので、ディズニーアニメを観て育った少女ファルマンは、当然シンデレラ城のようなものを想像し愉しみにしていたら、見せられたのは松江城だったのでとてもショックを受けた、という出来事があったそうだが、そのエピソードに通ずるものがあるかもしれない。現実は質実剛健なんだよ。
 買い物のあと、昼ごはんは実家が牛丼のテイクアウトをするけど一緒にどうだと誘ってくれたので、立ち寄ってご馳走になる。ありがたくはあったが、実家は犬がいたり、両親がワーワーしていたりで、少しの滞在でけっこう頭がぐわんぐわんになる。横浜に帰らないことにした年末年始について、どうするんだと問われたので、まあ年始にでも顔を出しますわ、と答えておいた。大みそかにお店の蕎麦を取るからそっちの分も取ってやる、あの店のだ、食べたいだろ、といわれ、やんわりはぐらかしたが、僕はその店の蕎麦があまり好きではないので、お断りしようと思う。おいしいといわれるお店から取ってくる蕎麦より、家で茹でた乾麺の蕎麦のほうがおいしいと思うんだよな。
 帰宅後は、ピイガの学校のジャージのズボンに、ゴムテープを縫い付ける作業をする。学校指定のジャージというのがあるのだが、これが「嘘だろ!?」というくらい高くて、ポルガのものはそれでも、ふたり着るからという理由で(忸怩たる思いで)買ったのだが、1年ないし2年の、それも冬場しか穿かないピイガのそれはどうしても、どうしても買えず、よほど特殊で手が掛かっていそうなものならともかく、紺色に両サイドに明るい色のラインが入っているだけの、なんの変哲もないジャージなので、ちょうどそれ!というものは見つけられなかったが、紺色だけのジャージを買い、それにテープを縫い付ければいいだろ、ということになったのだった。既に出来上がっているジャージの、腰から裾までに、まっすぐに細いテープを縫い付けるなんて芸当が、果してできるだろうかと若干の不安はあったが、まあさすがですよね、ちょっとの模索の末、とても上手にできましたよね。ポルガの正規のそれと較べても、ぜんぜん遜色ない出来映え。はじめにやった左側よりも、あとにやった右側のほうがさらに上手になっていて、別に儲けたいわけではなく、スキルがもったいないので、この地域の、一部の土着の業者を既得利権で儲けさすだけのあんなジャージに大金を支払わねばならない家庭の方に、500円くらいでこの作業をしてやりたいと思った。
 夕方から夜にかけては、今日はもちろんM-1グランプリですよ、と、今日の朝まで本当にそう思っていたのだが、テレビ番組表で、予約録画のためにM-1を選ぼうとしたところで、今晩のラインナップのどこにもM-1の文字がなく、あれ、今日じゃなかったっけ? と本気で5秒くらい思案したのち、気づいた。
 うち、テレ朝とテレ東、映らないんだった。
 山陰って、そうなんです。実家は、衛星だかなんだかで特別な契約をしているから観られるのだけど、そういうことをしていないと、普通に映らない、「一部の地域を除いて」の一部の地域なのだった。なんかもう民放が3局しかないのがすっかり当たり前になっていて、また一方で、「かりそめ天国」などの観たい番組はTVerで観たりするするので、テレ朝とテレ東が映らないという現実のことを、完全に忘れていた。そんなわけで、普通に観られない。M-1観られないんだ!? とちょっと衝撃を受ける。残念。

給付待ち一般家庭

 日曜日をのんびりと過す。どこにも出掛けないくらいのつもりだったが、子どもの服が小さくなっていたり、ドリルやノートなどの学用品が必要だったりという、まさにとっとと10万円くれよ的な案件があったため、ショッピングセンターに出向く。歳末ということで、まあまあ賑わっていた。思えば本当に子どものものにしか今日はお金を使わなかった。そのあと、眼鏡屋を覗いたりもした。現在着けている丸眼鏡が、記録を見たら3年前のちょうど12月に買っているのだけど、どうしたってレンズに細かい傷がついてきて、限界を迎えようとしていて、買い替えを考え始めたのだった。このあまりにもまん丸な丸眼鏡は、とても気に入り、それだから3年も着け続けたわけで、レンズだけ交換する、という手も考えなくもないのだが、どういう理屈か、レンズのみの交換も、フレーム込みの新品も、そこまで値段が変わらなかったりするため、そうなってくると、どうもレンズの交換は馬鹿らしいような気もするのだった。新しく買うとしたら、丸眼鏡は金色の細いフレームなので、せっかくならば真反対の、黒系の太くて四角いようなフレームがいいかもなあ、なんて思う。今日は見ただけ。というか全体的に高い。ああいう店は、既存の眼鏡店に対して、ファスト系というか、簡素で安いという切り口で出てきたのだろうに、地盤が固まるにつれてじわじわと値段を高めてきた感がある。嫌だな。いつか岡山へ行ったとき、またアウトレットで買おうかな。
 帰宅後はすぐにラーメンを作って昼ごはん。おいしい。冬の休日の昼に、冷蔵庫の余り物で作った肉野菜炒めを乗せたインスタントラーメンなんかを家族で食べるの、しみじみと満ち足りる。
 午後は子どもたちが手芸をしたいというので、世話をするともなくしながら、ひたすらキッチンでの作業に勤しんだ。煮卵を作ったり、カステラを焼いたり、夕飯の下ごしらえをしたり。いろいろ自分の部屋でしたいことはあるのに、休日の午後はなんだかんだで、気づけば4時間くらいキッチンにいる気がする。
 夕飯は手巻きずし。手巻きずしセットと銘打ったものではなく、ちょっとした刺身の盛り合わせが安く、さらにはアボカドが安かったので、そこから起案した。手巻きずしは、これまではそれなりに奮発して催すものとして捉えていたが、家族全員、そこまで手巻きずしに豪華な海鮮を求めていないことに気がつき、少々の刺身と、あとは納豆とか、ツナとか、卵焼きとか、たらこマヨとか、そういうものがいろいろあればそれでいいんだと喝破して、そんなわけで肩の力を抜いた感じで行なった。結果として、本当にぜんぜん物足りないことなく、十分に愉しめた。そうか、これでよかったのか。スーパーのウニとかイクラって、高いだけで結局あんまりおいしくないしな。日本酒がぐいぐい進み、多幸感があった。
 夜はようやく自分の裁縫を、あまり遅くない時刻まで、集中してやった。今日はバッグの持ち手にステッチを入れる工程だったので、なにも考えずにガーガー全速力でミシンを踏めて、気持ちがよかった。

あたらいす

 子どもたちは年の瀬、クリスマスにプレゼントをもらうのに、その子どもを養うために1年間あくせく勤労した大人にプレゼントがないなんておかしいのではないか、という大義名分のもと、要するにファルマンにも僕にも欲しいものがあったからなのだが、それぞれ欲しいものを買った。欲しいものといっても、ファルマンが買ったのは高級キーボードなので、仕事道具だし、純然たる経費案件である。ちなみに使い心地はやはりとてもいいらしい。ならばよかった。
 僕は、僕は欲しいものが常にたくさんあるので、その中で今回はどれを選ぼうかという話なのだが、自分会議の結果、トレーニングベンチを選択した。いつかは欲しいと思っていたが、これまではスペース的な問題から我慢していた。それが秋の模様替えで部屋が広くなったことで置ける算段がついたため、とうとう買うことができたのだった。置ける算段といっても、トレーニングベンチがトレーニングベンチとして常に部屋の一部に鎮座するわけではない。そこまでのスペースはない。じゃあ折り畳み式か、といえばそういうわけでもない。僕はこれを、これまで使っていた椅子の代わりとして買った。だから筋トレをするときは部屋の中央までえいこら引きずって移動して使用し、それ以外のときはミシンおよびパソコンデスクの前に、文字通りベンチのように置く、というわけである。
 イメージしていただけただろうか。写真を撮って載せようかとも思ったが、自室なのでさすがによすことにしたため、想像をしてほしい。工業用ミシンの台部分まで含めた横幅が120センチあり、かなり長く、そのため左のスペースにパソコンを置けて、こうして使っているわけだが、その僕がいま何に座っているかといえば、横幅150センチあるトレーニングベンチなのである。背もたれはインクラインからデクラインまでできるように角度が変えられ、バックエクステンション(背筋)をするための突出したシートまで装備する、吟味に吟味を重ねて選んだ本格トレーニングベンチ。全体的に黒光りして、なかなかの迫力である。世の中に、家に工業用ミシンがあって、そのテーブルのスペースにパソコンを置いて、その椅子がトレーニングベンチの人って、どれくらいいるだろう。フルーツバスケットでその条件を出したら、僕とあと何人が立ち上がってくれるだろう。
 デスクに向かう際は、ベンチを横に使っているため、背もたれがないということになる。これは果たしてどうなのかな、とも思ったが、ファルマンと違ってそこまでパソコンで長時間の作業をするわけでもないので問題ない。これまでは座り心地の良い、6980円くらいで買った、2980円くらいの最低限のああいうのより、いわゆるちょっといいデスクチェアを使っていたのだが、僕もファルマンもそんなような椅子で(ファルマンは僕のものよりひと回り大きい重役クラスのものだが)、そして部屋の角を挟んで僕は北に、ファルマンは西に、それぞれ壁に向かって座っていたため、するとどういうことが起るかといえば、互いの背もたれが干渉し合うという、プチストレス事態に陥っていたのだけど、今回のトレーニングベンチの導入によってこの問題が解消した。これ以外の解決方法もいくらでもある問題だったが、意外な解決方法が待っていたものだと思う。
 さあ、夏に向けて、冬はせっせと、筋トレして、裁縫しよう。

鳥取旅行2021晩秋 ~山陰らしく生きてゆく~

 よく寝る。ホテル特有の空気の乾燥は、濡らしたバスタオルを干していたので免れた。
 朝ごはんをもしゃもしゃと食べ、出発の準備をする。チェックアウトの前に、昨日はもう暗かったのでできなかった、ホテル周りの散歩などをした。温泉施設はバリをイメージしていて、中庭なんかもかなり凝っていたので、そこで写真も撮りたかったのだが、残念ながら門が閉まっていて、立ち入ることができなかった。10時オープンというのが、返す返すも恨めしかった。ホテルの宿泊客限定で朝風呂とかやってくれたらいいのになあ。海のほうの道にも出て、昨晩外気浴をしたテラスを眺めたりする。思い切り海に面しているので、海岸にいる人からは見放題なのではないかと思っていたが、そこは一応立ち入り禁止のようになっているらしかった。とはいえやっぱりかなり開けっぴろげなような感じもあり、つまりなんというかこれは、やっぱり僕のような、裸でオープンな場にいる快感を得たい輩の欲求を満たす狙いがあるのではないかな、という気もした。
 2日目の今日は、鳥取において鳥取砂丘という大目的を済ませたあと、そのあとなにをするか正直だいぶ悩んだ結果、ガイドブックに小さく紹介されていた、「むきばんだ史跡公園」なる施設へと向かった。これは弥生時代にこの地にあったという集落を再現した(ゴルフ場を作ろうと思ったら出てきてしまったらしい)公園で、当時の住居も原寸大で建てられていて、しかもだいぶ山の中にあるため、もう風景的にはマジで当時と変わらないんじゃないか、みたいなタイムスリップ感を得ることができた。


 ここの散策中、どこからやってきたのか、ファルマンの顔に尺取虫が1匹取りつき、どうもマスクの上にいたらしいそれが、マスクから眼鏡へと身を伸ばして移ろうとした際、ようやくファルマンの視界に、蠢くそれの姿が入ったようで、ファルマンは飛び上がっておののき、眼鏡とマスクを取って振り払い、そのあと泣いていた。虫で泣かされる女子の泣き方で泣いていた。この公園で、この場面がいちばんおもしろかった。
 それから帰路に入るが、昨日みたいに最短ルートではなく、北西方面に進み、鳥取県の尻尾みたいになっている部分、境港のほうを攻める。道中では冠雪したばかりの大山の姿を拝むこともでき、たっぷり鳥取を堪能した鳥取旅行なのだった。
 境港では、まず夢みなとタワーに立ち寄る。「境港のランドマークタワー」を謳う夢みなとタワーは、それと同時に「日本一低いタワー」(高さ43メートル)でもあって、しかし鳥取には他にあまり高い建物がないので、展望室からはとてもいい見晴らしが愉しめるという、なんかもう自虐なのかなんなのかもはやよく分からない、山陰テイスト溢れるスポットだった。建物の中までは行ったが、やっぱり普通に低すぎて、お金を払って展望室に上がる気にはなれず、地上の施設を冷やかして終わった。お膝元には境港さかなセンターという、魚介類が中心のみやげ物屋街があり、この時期の鳥取といえばやっぱり松葉がにで、生け簀の中には生きたそれがうじゃうじゃしていた。先ほど尺取虫を超至近距離から見て泣いた、虫が大嫌いな女は、「私はちょっと見れない」といって目を背けていた。まあ生きているカニって、普通にわりと気持ち悪いよな。
 それから境港といえば、やっぱりどうしたって水木しげるということになり、いわゆる水木しげるロードにも赴いた。車を置いて、ゲゲゲの鬼太郎を中心とした水木しげる関連のグッズを売る店々が軒を連ねる通りを歩く。まあまあ人通りもあり、賑わっていた。客層は、ほとんど我が家と同じようなファミリー層で、そしてどの家族もだいたい、親世代はまあまあゲゲゲの鬼太郎になじみがないわけでもなく、ああ鬼太郎だなあ、有名だなあ、くらいの感じだが、その子ども世代となると、やっぱりどうしたって、ポケモンやすみっこぐらしに勝てるはずもなく、親に連れてこられたが、なんか絵怖くてかわいくないし、なにをどう愉しめばいいのかぜんぜん分からない、みたいな顔をしていて、もちろんうちの娘たちもそんな感じで、これで親に熱情があれば、それでも子どもにその熱が伝播して盛り上がったりもするのだろうが、なにぶん親もまた、まあせっかく境港に来たんだから水木しげるロードに行ってみようかねえ、他に行く場所もなさげだしねえ、くらいのテンションなので、結局かなりどっちらけな感じだった。水木しげるか。水木しげるねえ。好きな人はすごく好きなんだろうなあとは思うのだけど、うーん。
 後半ちょっとぼんやりしてしまったが、鳥取県はこれでおしまい。島根県へと舞い戻る。鳥取県から島根県へは、江島大橋を使う。かの有名な「ベタ踏み坂」であり、これを渡るというのも、今回の旅行計画の中で、ちょっと愉しみにしていたイベントだった。ところが実際に渡ってみると、「へ?」というもので、どうもこれもまた夢みなとタワーと一緒で、周りに建物がないからやけにそれだけが聳え立っているように見える現象によって、とてつもない急勾配に見えるだけで、実際はそうでもないというのが真相らしい。なんか山陰、すごいな。思えば錦織圭も、あの独特のプレイスタイルは、島根県においては幼少期、それでも敵なしだったから矯正されることなく貫き通すことができた、という話があるし、なんというか分母の小ささ、較べる対象の少なさが、いい方向に作用すると、独自の路線でいいものが確立できるという、なんか教育にも通ずるような、この旅行で山陰両県をたっぷりと味わって、そんなことに思いを馳せた。
 松江からの道は、途中で入れ替わり、ファルマンの運転で帰った。せっかくの遠距離移動なのだから、いざというときのためのフリードの運転練習をしたい、という話があって、しかし往路でなんかあるとあまりにも哀しいので、復路まで待ってもらったのだった。復路ならばまあ、最悪死んでもいいしな、と思いながらハンドルを委ねた。幸いなことに、夕方に西に向かう道のりのため、西日が眩しくて目が開けられないと恐ろしい文句をいいながらも、無事に家に帰り着き、こうして日記もきちんと書き切ることができた。
 とまあ、こんなような1泊2日の鳥取旅行だった。初めての家族旅行だったわけだが、とてもよかった。旅行って愉しいもんだな、家族の思い出ができて嬉しいもんだな、なんてことを思った。途中でも記したが、週が明けてから、山陰には一気に冬がやってきた。10月から駆け抜けたレジャーの日々も、今回の旅行を集大成として、ひとまずおしまいだ。これからは基本、閉じこもって暮す。そういう季節になる。それはそれでいい。

鳥取旅行2021晩秋 ~おすしとおふろ~

 鳥取砂丘こどもの国で遊び終えたあとは、本日の宿泊先に向かう。米子である。無理すれば日帰りできないこともない鳥取砂丘を、あえて1泊2日の旅行にして、宿泊先をどこにするかといえば、もうだいぶ自宅に近い、米子なのだった。グーグルマップで検索すると、自宅から米子までは1時間ちょいである。思っていたより近い。帰ろうと思えばぜんぜん帰れる。でもそういうことじゃない。なぜなら旅行なのだから。
 そもそも白状するならば、僕にとって今回の旅行は、鳥取砂丘はサブ目的であって、メインは宿泊、それも温泉およびサウナなのだった。泊まったのはオーシャンというビジネスホテルで、ビジネスホテルといっても今どきの、家族や仲間で泊まれる部屋もある、そういうホテルである。そしてこの同じ敷地内に日帰り温泉オーシャンという、スパ施設として普通に一般向けに営業している、もちろん同系列の施設があり、宿泊客はそこの入浴チケットがもらえる。すなわち風呂に入って、サウナに入って、ビール飲んで、飯を食べて、寝る。そういうことができる。それがしたいというのが起点となり、今回の旅行計画が始まったのだ。
 ホテルには16時半ごろに到着した。案内された部屋は、ホテルにふたつある特別室のひとつで、ビジネスホテルという感じはまるでなかった。しかも旅行日記の冒頭で後述すると書いたキャンペーン、その名もWeLove山陰キャンペーンにより、宿泊料金は通常の半額となり、ふたりは子ども料金とはいえ、4人で11000円というのは、あまりにも破格なのだった。
 このあとすぐに温泉に行ければよかったのだが、晩ごはんとして用意周到に数日前からweb予約しておいたスシローを受け取りに行ったり、スーパーでビールや朝ごはんを買い込んだり、僕だけそんな用事を済ます。知らない街の、知らないチェーンのスーパーが、旅情を掻き立て、おもしろかった。見たことのないプリンを見つけ、思わず買ったりした。
 部屋に戻ったあと、ようやく温泉へ。日が短いので、17時半くらいでもうすっかり暗くなってしまった。外気浴的に、これはかなり残念だった。さいきんサウナについてこのブログで告白したとおり、僕はサウナに、外で裸になる快感を求めている部分が大いにあるので、あたりが暗くなってしまったらあんまり意味がない。温泉は翌日にも入る権利があるのだが、温泉がオープンするのは10時なので、それを待つつもりはなかった。つまり明るいオーシャンには入り損ねた。せっかく男湯が2階の海風呂で、テラスから目の前の海に向かって裸でデッキチェアに座って休憩できるという、貴重な経験ができる機会だったのに。
 そこだけは残念だったが、まあ温泉もサウナも愉しめた。土曜日の夜なので、まあまあ混んでいた。とはいえ数年前の横浜のスーパー銭湯ほどのことはない。あれはいま思えば、「ギャグマンガ日和」のあの話くらいの人口密度だった気がする。月明りしかなかった(温泉に入る前、家族で赤い月を見た)ものの、目的のデッキチェアは堪能できたし。ちなみにサウナ内のテレビでは、今日開幕の日本シリーズ、ヤクルト対オリックスが放映されていて、それもまた特別な夜の印象を強くさせた。
 約束していた時間に部屋に戻ると、はしゃぐ子どもたちの世話が大変だったことと空腹で、ファルマンの機嫌が悪くなっていたため、すぐに鮨にする。砂丘で遊んで、温泉に入って、家族で鮨を囲み、ビールを飲みながら日本シリーズを眺める。なんだこれ、しあわせかよ、と思う。これ以上があまり浮かばない。
 だらだらと鮨を喰い、子どもたちが寝る時間となり、しかし興奮してあまり寝そうになく、「部屋を暗くして寝かしつけるからお風呂行きなよ」とファルマンがいってくれ、2度目の温泉に入りにいく。駐車場を突っ切り、徒歩1分半。いいなあ。22時前だが、まだまだ人は多い。むしろ夕方よりも多かったかもしれない。日本シリーズはまだ続いていた。9回裏、ここを抑えたらヤクルトの勝ち、というところで、サウナ室の座った位置が、あまりにも熱の高い場所だったため、どうせこのまま決まりだろうと、見届けずにたまらず出る。そして水風呂と外気浴をして、十数分後にふたたびサウナ室に戻ったら、オリックスが逆転サヨナラ勝利していた。そのときサウナ室は盛り上がったろうかな。
 2回目の入浴を堪能し、部屋に戻る。子どもたちは寝ていた。大人だってクタクタだ。鮨の残りを食べきり、眠りに就いた。
 つづく。

鳥取旅行2021晩秋 ~ラクダとリフトとカートに乗って~

 いまこの鳥取旅行の日記を、帰宅翌々日、勤労感謝の日に書いているわけだが、部屋の窓からはサッシを動かすほどの風の音が絶え間なく聞こえ続け、午前中には買い物に出たのだが、雪が混じるのではないかと思うほど冷たく細かい雨が降っていた。明確に山陰の冬が到来した。「週間予報がずれて日曜日の雨が免れた」と前の記事で書いたが、それどころの話じゃない。本当にぎりっぎりの秋だったのだ。この気候があと5日早く襲来していたら、鳥取砂丘も相当にどうしようもないことになっていたと思う。幸運だった。
 

 砂まみれになって思う存分に遊んだあとは、入口のほうに戻り、ラクダに乗ることにした。書くとさらっとしたことのようだが、馬の背を登って海のほうまで来ているので、そう楽なことではない。馬の背を降りて、また馬の背ほどではないが坂を登らなければならないのだ。つら……、と思わず口に出た。砂しかない見晴らしのいい世界で、ずっと向こうの上り坂を人々が這いつくばるように進んでいるのが見える。思わず「道化師のソネット」が頭に浮かび、われわれはそれぞれの高さの山を登る山びとのようだ、とやはり精神世界的なことを思った。鳥取砂丘はとにかくそういう場所だった。
 それでもなんとかラクダのもとに辿り着き、子ども二人を乗せて、あたりをぐるっとひと回り(3分ほど)、2600円也、というのが適性なのかどうなのか、ラクダを飼育したことがないのでよく分からないが、なんてったって観光なので、払う。ファルマンも子どもの頃にこの地で乗っているので(もう7代くらい前のラクダに)、わが家でラクダに乗ったことがないのは僕だけになった。もしも神の気まぐれで、そういう括りで人類が選定されることがあったら、一家で僕だけが排除され、妻と子どもたちは、確実にイスラムの比率が高い、残された人類と生きていくことだろう。


 乗る前に「ラクダのこぶの感触を教えてくれ」と頼んでおいたのだが、ピイガいわく「かたかった」そうだ。そうなんだ。
 ラクダのあとはリフトに乗る。リフトは、半月前の三瓶山において、ちょうどリフトが休止中で乗りっぱぐれた(翌週から稼働再開)という経緯があり、それが鳥取砂丘にはある、ということを事前の下調べで知ったため、その雪辱として乗るために乗るような心意気で乗ったのだが、いま思えば別にぜんぜん乗る必要なかった。砂丘に対し、もっといい位置関係で伸びるリフトを想像していたのだが、実際はあまり意義が感じられないような代物で、どっちらけな気持ちになった。
 最後にみやげ物屋で、実家やポルガの岡山時代の友達へのおみやげを買う。繰り返しになるが、鳥取は、島根にとっても岡山にとっても隣県なのだけども。ちなみに買ったのは砂丘の砂の入ったボールペンで、実に無意味でみやげ物らしいみやげ物だと思う。
 砂丘を堪能したあとは、車で数分の場所にある「チュウブ鳥取砂丘こどもの国」という施設に移動する。広場あり、アスレチックあり、変形自転車ありという、横浜のこどもの国と同じような施設。でも横浜のそれに較べると規模はだいぶ小さく、面積でどれくらいの差があるだろうかと検索をした結果、面積は分からなかったが、「こどもの国」は横浜のあそこを示すのであって、それ以外のこどもの国は、この「鳥取砂丘こどもの国」のように、各地の地名を冠するようになっている、ということを知った。ためになったし、ああ俺は正統なこどもの国が御用達だったのだな、と誇らしい気持ちになった。
 ここの広場で、まずは弁当を食べる。家からちゃんと作って持ってきていたのだ。そしてあわよくば鳥取砂丘で食べられないものかと、馬の背を登るときだってレジャーシートとともに提げていたのだが、しかしそういう感じではなかった(当世流行りのテントなんかも一切なかった。あの雰囲気を守るためにはそのほうがいいと思う)ため、ようやくここで食べることができた。おいしかった。食べたあとは子どもたちはアスレチックで遊び、ゴーカートでデッドヒートを繰り広げた。


 両親は下半身に明らかな、根深い、数日続くことが確実視される疲労を感じ、要所要所でひたすらベンチを見つけ、座った。こどもの国で、大人はひたすら座るのだ。
 つづく。

鳥取旅行2021晩秋 ~地獄と天国の砂丘~

 旅行する。1泊2日の家族旅行である。帰省以外の、家族水入らずの旅行は、実はこれが初めてだ。
 目的地は鳥取砂丘。鳥取砂丘って中国地方に縁などなかった時代から気になるスポットだったが、岡山からも島根からも、近くて遠く、日帰りもできないことはないのだが、なんとなく踏ん切りがつかない距離感で、これまでずっと行けずにいた。それが今回、子どもも大きくなったし、車も長距離移動がしやすいものになったし、レジャー欲の高まりもあるし、後述するがキャンペーン特典もあったりで、いよいよ機が熟した感、今しかない感が極まり、ようやく念願が果たせた次第である。
 土曜日の朝に家を出発する。子どもたちも今回のイベントをとても愉しみにし、この1週間はせっせとオリジナルのしおりを作ったりしていた。誰の影響であろうか。天候は、1週間前には日曜日に雨マークがついていて戦々恐々としたが、当日が近づくにつれて、週間予報としては珍しいことに予報が後ろにずれて、土日はなんとか持ちそうな情勢になった。子どもたちがてるてる坊主を作った成果かもしれない。2021年でも子どもはてるてる坊主を作る。
 行きは高速道路を使い、一路鳥取砂丘を目指す。鳥取砂丘は、島根県と同様に横に長い鳥取県の右端にあるため、その道程はまさに横断である。ちなみに考えてみたら、そもそも僕は鳥取県に足を踏み入れるのが、特急やくもに乗って通り過ぎるのをノーカウントとしたら、実は今回が初めてのことなのだった。岡山にしろ島根にしろ、長らく鳥取県は僕にとって隣県であり続けているというのに、意外とそんなものだ。
 途中、大山の近くの道の駅で休憩を取った。もっとも雲が多く、大山の名を謳う休憩スポットでありながら、大山の姿を拝むことはできなかった。それから羽合であったり、青山剛昌記念館であったり、ほうここがあの、みたいな土地を通り過ぎて、11時頃に砂丘へと辿り着いた。憧れの地というと大袈裟すぎるが、鳥取砂丘という場所に自分の身が在るというのが、なんとなく不思議な心地がした。やはり全国的な観光地なだけはあって、おみやげ屋が林立し、大型バスが乗り入れ、それなりに大勢の人がいた。
 駐車場から少し歩き、人の流れに沿って階段を上がると、その先が砂丘だった。鳥取砂丘鳥取砂丘というけれど、少しイメージを膨らませ過ぎているのではないかという疑いがあり、広大に見える写真とかも、賃貸物件の画像のように、そういうふうに写るよう撮っているだけではないかと、わざわざ何時間もかけて行った自分ががっかりするはめに陥らないよう、心に予防線を張っていたのだが、ぜんぜんそんな心配はなく、砂丘はちゃんとすごかった。砂と傾斜しかない、あまりにも広い空間は、現世とはまるで違う世界だった。


 写真中央手前にいるのがポルガとピイガだが、そんなことよりも注目すべきなのは、奥にある通称「馬の背」と呼ばれる盛り上がりである。豆粒のような人々が登っているが、この坂の角度たるや、とんでもないのだ。45度を軽く超えている、と書こうとして、いちおう検索をかけておくか、と思って検索したら、鳥取県の公式ページの紹介文に、「最大傾斜が32度」とあった。おかしいな。たまたまこの日だけ異常な風が吹いた結果、ありえない傾斜になっていたのではないだろうか。体感として55度くらいあった。
 体感と書いたのは、われわれも頑張って登ったからだ。子どもたちはすいすいと登ったが、僕とファルマンは決死の思いだった。登り始める前から、これはつらいだろう、中腹あたりで、行くも地獄戻るも地獄みたいな事態になるだろうと予期していて、写真右方にあり、ヤラセのようにひとり登ってくれている、もう少しなだらかなコースから行こうかとも思ったが、しかしせっかく鳥取砂丘まではるばる来たのだからと一念発起して挑戦し、果して中腹あたりで「これは地獄だ」「ここは地獄」「地獄ってこういうことなんだ」と嘆き合いながら、それでもなんとか登り切った。人工物がないこともあり、鳥取砂丘は精神世界めいた雰囲気があるため、全編を通して天国のようでもあったし、地獄のようでもあった。人生観が変わったとまではいわないが、文明社会で生活している限りはあまり感じない、一個の人間としての生きることと死ぬことに、少し思いを馳せさせられた。ファルマンは「地獄に落ちたくないから善行をして生きていこうと思った」といっていた。それほどの体験だった。


 登った先には日本海が広がり、砂の具合もよく、人口密度も下がり、ご褒美としてフォトジェニックな風景が広がる。左からポルガ、僕、ピイガ。なんとなく芸術作品のような写真になった。こういうのがいくらでも撮れる。子どもたちは、このあとまた車に乗るんだからもう少し気にしろよ、といいたくなるくらい、砂まみれになって遊んでいた。
 つづく。

サウナについて思う ~仮面の告白~

 思えば21歳くらいの頃、タバコに関しても、なんとなく惰性で吸っていたのを、あるとき急に、俺は他の人たちほどは、タバコの美味さを享受していない気がする、と気が付いて、それから一気に吸う気がなくなり、やめた。やめたらやめたで、ぜんぜんタバコが恋しくなくなって、ああ本当に、別に正式に必要としていたわけではなかったんだな、と少し驚いた。
 いまサウナに関しても、それと同じムードを感じている。
 「ととのう」というのがあるだろう。今年の新語・流行語大賞にもノミネートされた、サウナブームのきっかけとなったといってもいい言葉。サウナ、水風呂、外気浴を繰り返すことで、血流がよくなって、頭が覚醒し、パーッと蒙が啓かれたような状態になることを指すが、実をいうと僕は、本当にきちんと「ととのう」を実感したことはない。ああこれかな、と思う瞬間はあったが、それというのは意識が飛ぶような、地上にありながら少し浮遊するような、そういう感触であって、これをさらに高めれば「ととのう」ということなのかもしれないとも思ったが、だとすればそれって、クスリであったり、首を絞めて意識を失う直前であったり、なんかそういう、少し危険な状態なのではないかとも思った。本当の「ととのう」は違うかもしれないが、どちらにしろ僕はどうやらそこには到達できないようだ、と諦観している。
 そして意識が飛びそうになる、その気配にある種の快感を覚えるという意味なら、僕の場合サウナよりもプールのほうが、手っ取り早く到達できる。トレーニングって結局マゾヒズムなので、もう既にかなり苦しい状態で、なんとか端まで泳ぎ着いたあと、立ち止まって呼吸を整えるかと思いきや、止まらずタッチターンをしてさらに25メートルの旅に出るとき、体は「マジかよ!」と嘆くと同時に、意気を感じるのか、普段の生活では決して引き出されない、なんかしらのものがみなぎるのを感じる。それが僕にとっての「ととのい」なのではないか、というようなことを思う。だからプールはいい。
 それで、前の記事の終わりに引っ張ったが、それだのになぜ僕はこれからもサウナに行かないこともない所存なのか、である。サウナそのものでは、もちろんそれなりの気持ちよさはあるものの、そこまで特別な快感を得られないのに、なぜわざわざサウナに行くというのか。
 それはずばり、裸になるためだ。
 僕はととのえない、ということを喝破する前から、僕はもともと、サウナにおいていちばん大事なのは外気浴だと感じていた。サウナ室の香りであるとか、湿度であるとか、水風呂の温度であるとか、そういうのはそこまで重要ではなく、とにかく外気浴がどれだけ開放的かという、いいサウナの基準は主にそこにあった。そうなのだ、僕はサウナにかこつけて、外で裸になりたかったのだ。
 つづく。

おこめとおふろ

 今週は土曜日も労働だったし、日曜日の今日もファルマンには仕事があったため、午前中に僕と子どもらと3人で近所に買い物に出たほかは、家でのんびりと過した。思えば10月からの年季明けで、あんまりにもはしゃいだと思う。毎週のようにレジャーに繰り出していた。来週は来週でもう既に予定が入っているため、今週くらいはちゃんと休もうと思った。
 買い物は食料品を中心に、まあまあいい具合に買い回れたと思う。毎月の食費が、月末になるとなんだかんだで苦しくなるので、今月からは日々の買い物の記録を取るようにしていて、意識が高まっている。レコーディングダイエットというのがちょっと前に流行ったが、なるほど記録するだけでこうも効果があるものか、と驚いた。食費を30日で割った数字と、実際の残りの食費を月の残り日数で割った数字が、日々激しい攻防を繰り広げている。葉物野菜の値上がりはすっかり解決して、白菜やほうれん草、ネギなど、むしろ普段よりも安いくらいで嬉しい限りだが、油や卵がじりじり高まっていて、なんとももどかしい。
 ちなみに世間で評判の良くない18歳未満の子どもへの給付金だが、差別だの、子どものいない困窮者に支援が届かないだの、いろいろいわれているものの、もらえる身からいわせてもらえば、そんなことは知らん、そんなことは政治家とか活動家が考えればいいことであって、われわれは単純に、やっほい嬉しい、てなもんだ。なんの引け目もない。引け目を感じるいわれも一切ない。もらえない立場だったら、それはやっかむだろう。それだけのことだな。
 午後は筋トレをしつつ、午前中にダイソーで買ったものの整備とか(サプリメントを入れるタッパーなどを買った)、そして今度作ろうと思っている商品の裁断などをして過した。ファルマンが仕事をしていると、すぐそばでミシンを踏むことは、うるさいのでできない、というディレンマがわれわれ夫婦にはある。夫婦にあるというか、僕にある。ファルマンが仕事をしているときに僕がミシンを踏むことは許されないが、僕がミシンを踏んでいるときにファルマンが仕事をするのを僕は(器が大きくて鷹揚なので)気にしないから、ディレンマは一方的である。いまファルマンは、早くも年末進行で忙しい時期に入りかけていて、連日のように仕事をしているため、僕はあまりミシンができずにいる。
 晩ごはんは、安かった白菜でクリーム煮を作った。あたたかく、おいしかった。
 晩ごはんのあとは自分で事前に洗っておいた風呂にいちばんに入り、ゆったり浸かる。最近ヘアパックをする習慣がついていて、今日もやった。髪にヘアパックを塗って湯船に入り、先日図書館でもらったTarzanを読んだりしている。もらった雑誌って、お風呂で読むのにすごくちょうどいい。それにしてもヘアパックしながらTarzan読むなんて、なんかOLみたいだな、と思う。OLってすごく言葉として古く、そんなことはもちろん分かっているのだが、この状況をいい表わすのに、OL以外の言葉を知らない。

サウナについて思う ~永すぎた春~

 労働の帰りにプールに寄る日々を復活させた。幸いなことに、ここ島根でも、通勤のルート上にプールがあるのだった。ありがたいことである。
 プール通いはもちろん運動不足の解消が主たる理由だが、久しぶりにがっつりひとりで泳ぐということをして、運動以前に、気分転換とか、リフレッシュとか、そういう精神作用も含め、要するに僕は泳ぐのが好きなんだな、ということをしみじみと思った。それが同時に運動不足の解消および筋トレになるのだから、いいことづくめである。
 そんないいことづくめのプールを再発見して、ふと思う。
 サウナってどうなのかと。
 ちょっと前からうっすらと、サウナに対する不信感というか、疑いが生じている。どうも自分は、実はそこまでサウナの快楽を享受していないんじゃないかと思うようになった。先日、サウナに関する書籍を図書館で借りて読んで、それで余計に白けた気持ちなってしまった、というのもあるかもしれない。借りて読んでおいていうのも何だが、そういえば僕は、人の好きなもの、人が愛を語るものが、好きじゃないのだ。もっともサウナに関しては、「俺はひっそり好きだったのにブームでにわかが増えてうんざり」ということでは決してなく、思いっきり、おととしあたりからのブームに乗っかってサウナに傾倒した口なので、それでいて「サウナ好きが多すぎてウザい」もなにもあったもんじゃない。
 しかし、これはブームの時期的にもジャンルの雰囲気的にも、大いに共通するところがあるが、キャンプブームというのもあるだろう。これに関して、夏にTwitterにアップしていたヒットくん漫画の中で、「キャンプはもはやオシャレでもなんでもなく、ゴルフの様相を呈し始めている」ということを主張したが、サウナもまた、だいぶそのムードがある。というか、そもそもサウナは、ゴルフとおっさんとワンセットのものだったはずで、それが昨今、北欧にかこつけて、ちょっとシャレオツなものであるかのような扱われ方をし、そしてブームになったわけだが、自分自身それに乗っかってひとしきりサウナを味わった結果、まあ結局サウナというのは、おっさん趣味のものであり、そんないいもんじゃない、という結論に至った。
 こんなことをいうと、それは本当にサウナの良さに気づけていないだけ、入り方が間違ってる、あるいはいいサウナを知らないのだ、なんてことをいわれそうだが、別にそれに対して反論をする気持ちもない。サウナを偏愛する人のことは、それはそれでいいと思うし、その人たちはサウナで僕よりもはるかに大きな快楽を得るのだろうと思う。僕はそうではなかった。そんな結論がこのたび出た。それじゃあプール通いも始まり、僕はもうサウナには行かないのか、といえば、実はそんなこともない気がする。なぜか。なにを求めて僕はサウナに行くのか。それは。
 つづく。

高所作業車とサヒメル

 土曜日はまず、山にごみを棄てに行った。人聞きが悪い。ちゃんと、市の正規の手段のやつだ。山の中にある、持ち込みの出来る集積場に、模様替えによって出たものや、期せずしてそのあと発生した故障電化製品などを車に積み、持って行った次第である。入口ゲートで車の重さを計り、場内で係員の指示に従って積み荷を降ろしたのち、出口ゲートで再び重さを計り、軽くなった分の重量、すなわち廃棄した物品の重さ分だけ、代金を払うシステム。100円くらいだった。岡山からの引っ越しの際にもこういう施設を利用したが、いちどやると、300円なり500円なりの粗大ごみ券を買って取りに来てもらうのが、すごく馬鹿らしくなる。棄てるものたちは、模様替えから今日まで、仕方なく廊下の端に置きっ放しになっていたので、それがなくなってとてもすっきりした。家電がダメになったタイミングも実によかった。
 ごみを降ろしたあとは、軽くなった車で多伎へと向かう。この日に、多伎図書館において貸出期間を過ぎた書籍や雑誌の無料配布が行なわれるという告知を目にし、ぜひ来ようと思っていたのだった。行ったところ、2年くらい前のものだが、ポルガの好きな「るるぶ」や、僕の期待していた「Tarzan」などが箱の中にあったため、ホクホクしながらもらう。普段、図書館で本を借りて読むだけで、だいぶ得した気持ちになっているが、もらい受けるなんて丸儲けだな、と思う。図書館はそれだけの予定だったが、図書館と併設する多伎のコミュニティセンターでは、ちょうど多伎町の催し物が行なわれていて、町民の絵画や写真、手芸や習字などの作品が展示されていたり、交通安全の啓蒙キャンペーンなんかが繰り広げられていた。もっとも先週の出雲ドームのイベントに較べて、とても小規模でこじんまりとしたものである。しかしその中に、「高所作業車体験」というコーナーがあり、駐車場の一画に停められた高所作業車のバスケット部分に乗り込み、アームを伸ばしてもらい、その高さを体験できる、というもので、待ち時間なく乗れるようだったので、ファルマンには撮影係を依頼し、僕と子どもたちの3人で乗ることにした。これまで明確に高所作業車に憧れを持ったことはなかったが、滅多にできない体験であることは間違いない。ぜんぜん知らないで来たが、これはいい時に来たなあと喜びを感じた。しかしそんな気持ちを抱いたのはアームが伸びはじめて5秒目くらいまでのことで、だんだん視界が高くなるにつれ、そういえば自分が極度の高所恐怖症であるということが思い出され、去年の夏に日御碕灯台に行った際も、長い階段を昇った末に、てっぺん付近にある展望テラスに出られるようになっているのを、僕だけが恐怖のあまり一歩も外に出られなかった、という出来事があったが、それなのになぜかいつも、むしろ率先して、高い所に行く企画に参加してしまう。参加して、少し日常から逸脱した高さを感じると、すぐに足が竦んで猛烈な後悔の念を抱く。今回もまさにそうだった。多伎なので、海のすぐそばである。急な浜風が吹くやもしれないじゃないか。そういう安全対策を、果してこの企画は想定しているのだろうか、などと不安に駆られる。子どもたちはまるで平気そうで、ああこの娘たちには生命にとってとても大事ななにかが欠落している、と思う。実際、アームが高くなるにつれ、わりと風で揺れるのだ。とても立ってられず、しゃがんでしまう。あとからファルマンに、「ひとりしゃがんでたけど、あれってどういう意味? 落ちたときしゃがんでると意味あるの?」と半笑いで指摘された。「ここがてっぺんです」と操縦者の人がいい、ああこれでやっと地上に降りれる、と安心したら、「じゃあここで360度回転しますね」と悪魔みたいなことをいいだし、嘘だろ、もう伸びきった時点でアームの限界は超えてるだろ、酷使させすぎだろ、浜風なめんなよ、ポキッと折れるぞ、と思うものの声も出せず、しゃがみこんで震えながら、さらにゆっくり回転するという、地獄のような時間を過した。


 いや、怖いって。マジで。これがゆらーり揺れるのだ。怖すぎるだろ。今後、街で高所作業車を見かけたら、作業をしている人に心の底からの敬意を示そうと思った。
 明けて今日は、天気が悪いという予報もあったので、家でのんびりする予定だったのだが、蓋を開けてみたら晴天で、あれ?となる。雨だから行けないねと、週間予報を見て諦めていた、三瓶山のサヒメル行きが、にわかに息を吹き返す。サヒメルでは現在、ポケモンと化石の特別展をやっていて、うちの子、特にピイガはいま、ポケモンにだいぶハマっていて、せっかくの機会なので連れて行ってやろうとは思っていたのだが、期間は来年の1月までと長いので、慌てて今日行かなくてもいいのだが、しかし行こうと思えば行けるなあと悩み、ホームページなどを眺めていたら、ススキで作った迷路という催しが、これはもう季節的に今週末で終わるようで、じゃあもう行っとくしかないか、となって行った。三瓶山およびサヒメルは、先日の国営備北丘陵公園と同じで、第一次島根移住の際に行ったことがある。向こうは8年ぶりだったが、こちらは2012年11月のことなので、なんと9年ぶりだ。ポルガ1歳。まだピイガもお腹にいなく、完全にひとりっ子の時代である。その頃に較べてポルガは、体は大きくなったが、中身はまったく変わっていないような気がする。9年ぶりの道のりは、すっかり忘れていたが、やはり山なのでなかなかのもので、「凍結注意」の看板も多数あり、1月まで特別展をやっているから焦る必要ないな、などと甘く見ていたが、今のうちに行っといて本当によかった、と思った。ススキのおかげだ。
 行くまでの道はとても空いていて、サヒメルに行く人間なんてわが家くらいなのかな、と思ったが、到着してみたら駐車場は満車で、臨時駐車場に停めなければならなかった。不思議だな。どうしてあんなに道は空いていたんだろう。下から登ってきたのはわが家くらいで、あとはみな、天上から降りてきた方々だったのかな。館内も人が多く、これはこれは、と思ったが、入館料を払ってちゃんと中に入ってみると、人が本当に多いのは館内入ってすぐのポケモンの特別展の物販コーナーだけだ、ということに気づいた。それ以外の場所は、そこそこの感じだった。
 肝心の、というわけでもないが、ポケモンの特別展は、別におもしろくないというか、現実の古生物と、ポケモン世界の古生物(かせきポケモン)の比較をしていて、これを子どもが見たら現実と創作が混乱するのではないかと思った。それよりも普通の展示のほうがおもしろかった。9年前からリニューアルしている部分も多くあるようで、「これが危険生物だ!」という煽りで中を覗くと顔の写真を撮られ、地球にとっていちばんの危険生物はあなたを含む人間なんだよ、といわれる、あの気分の悪いコーナーはなくなっていて、体験型のクイズコーナーになっていて、けっこう愉しめた。館内をひと通り巡ったあと、物販コーナーでピイガにねだられ、発掘ピカチュウのぬいぐるみを買わされる。2300円。高い。いうまでもなく、ぼってる。キャラクターはつええな、としみじみと思う。2300円……。
 そのあとは臨時駐車場に戻り、野原でお弁当を食べたり、ススキの迷路をしたり、キャンプ場のほうへ行ってアスレチックをしたりした(9年前が思い出されて懐かしかった)。そしてこれもまた備北丘陵公園と同じで、前回はとてもアスレチックどころではなかった(ひとりは存在さえしていなかった)子どもは、今回スイスイとアスレチックをこなし、そして前回は子どもの代わりにアスレチックをしたり、それなりに体を張った親は、すっかり体が重たくなっていた。親は9年が経過したことによって、自然を愛でる心が強まったようで、ほのかに色づく三瓶山を仰いで、ほーう、と感じ入ったりした。もうすっかりそっち側だ。山野草とか愛でたい。
 

 そんな感じの9年ぶり三瓶山およびサヒメルだった。返す返すも、秋のうちに行っておいてよかった。

家電の文化

 文化の日である。週の真ん中、水曜日の休みである。ハッピーマンデーで移動する祝日と、移動できない祝日の区別がわからない。たぶん検索するとわかるのだと思うが、あえてそうまでして知ろうとも思わない。週の半ばの休みはもちろん嬉しいが、今週はそれのおかげで楽だと油断していたら、リズムが崩れて意外としんどい1週間になったりするので注意が必要だ。
 今日はもともとレジャーの予定も特になかったところへ、炊飯器がどうもよくない、せっかくの地元産の新米なのに十全においしく喰えていない気がする、と買い替えの必要性を感じていた矢先、おとといの晩に電子レンジがウンともスンともいわなくなる、という事態まで発生したため、今日はどうしたって電器屋へ行かなくちゃならない、ということになった。家電って、よくいわれることだが、本当になぜか連鎖してダメになる。本当になんでなんだろう。
 炊飯器は、年式はそこまで古くないが、義父が単身赴任をしていた頃に使っていたのをお下がりでもらい受けたもので、近頃は底面に接する部分が、おこげというわけでもなく、ただ焼け付いて茶色くなるという症状が出ていて、子どもの頃、実家の炊飯器も、そうなったので買い替えたことがあり、それはつまり炊飯器の末期症状なのだと思う。電子レンジは、なんと僕が実家を出たとき、すなわち22歳、16年前に使いはじめたもので、そう考えれば実に長く持った。ここまで長く使えたのだから逆にめでたい、天寿を全うしたな、といいたくなるほどだ。どちらもこれまで隣り合って位置し、ともに台所を盛り上げていたが、寄る年波には勝てず、今シーズン限りで引退ということになった。今後は指導者としての手腕に期待したい。
 さて買い物の顛末だが、はじめからなんとなく予期していた通り、電器屋の商品は軒並み高価格で手が出ず、どちらに関してもそこまでのこだわりがあるわけではなく、ごはんが5合炊け(普段5合は炊かないが)、そしてオーブン機能付きのレンジであればそれでいいので、そういうのって案外こういうお店のほうがいいかもね、という感じで行った、食料品から医薬品、衣類から家具から家電まで売っている大型ディスカウントストアで、まさにこちらのそんな希望に適う商品を見つけ、ふたつとも無事に購入することができた。よかった。ネットで家電を買うの、なんだかんだでわりと面倒なので、お店でいい具合のものを買って帰れるに越したことはない。ふたつ併せて、ほぼちょうど3万円。思っていたよりだいぶ安く済んだ。
 そんな新しい調理家電を用いて、今晩の献立はハンバーグ。やっぱりごはんのおいしさがぜんぜん違う、ような気がした。なにぶんこの半月くらいは、本当にパサついて、つややかな感じに炊き上がっていなかった。だから、おいしさがぜんぜん違う、ともいえるし、このよろしくなかった半月間よりも前の状態に戻れた、ともいえる。壮健な炊飯器の炊き上げるごはんの、そこから先の品質のことは、正直いってよく判らない。

10月末日

 本日は出雲ドームで開催された、産業未来博というイベントに家族で繰り出した。出雲市周辺の企業や団体が、主に子ども向けの体験ブースなんかを出店するという、なんかそういう催し。催しのエンターテインメント性としては、あまり期待せずに行って、やっぱり期待せずに行ってよかった、という程度の内容だったが、なにはともあれ実は出雲ドーム内に入ったのが、ファルマン以外は初めてのことだったので、それが嬉しかった。木造建築物としては世界最大級(wikipedia)とのことで、天井の感じとかは一見の価値があった。ブースの展示を見ずに天井ばかり見ているなんて、ずいぶん失礼な話だな。
 それでも子どもたちにそれなりに体験をさせて、1時間弱でひと通り見て回ったあとは、ドームのすぐ前にある「生鮮食品おだ」で食料品の買い物。ここはラ・ムーの系列なのかなんなのかよく分からないが、実は共通の商品が置いてあるので、こっち方面に来たときは寄ることにしている。ファルマンから、「あなたってお出掛けとその現地にあるスーパーを絶対に抱き合わすよね」といわれた。たしかに、たまにどっちが真の目的地か判らなくなるときがある。
 そのあとは家に帰る前に、投票所に寄って衆議院選挙の投票を行なった。投票しないのはさすがにもったいないと、貧乏根性から投票に行くわけだが、確固たる信念などは本当にないので、いつも困る。今回は特にあぐね、投票所で用紙を前にして、そこで直感に任せて書いた。投票後にファルマンと答え合わせをしたら、小選挙区も比例代表も、事前に一切話などしなかったのに、まったく一緒の選択をしていたので、夫婦間の理念、というほど立派なものでもない、ものの感じ方に、齟齬は少ないようだな、ということの確認になった。選挙はそんなことの確認をする場ではない。
 帰宅して皿うどんの昼ごはんを済ませたあとは、午後がぽかりと空いたので、カステラを作る。カステラは数ヶ月前から作るようになり、今回で3度目。子どもたちとわーわーいいながら作る。簡単だし、たんぱく質だし、日持ちするし、小腹にちょうどいいので、なかなかにコストパフォーマンスの高い焼き菓子であると思う。これまで1度目は成功し、2度目は焼き加減が微妙で失敗だった。今日の出来は、今日はまだ食べていないので分からない。
 夕方に近所のスーパーに僕だけ買い物に行く。僕くらいのスーパー中毒者になると、休日絶対に一軒のスーパーで買い物を済まさないのだ。こちらではカマスが安かった。なんと立派な、鮮度がいかにもよさそうな、島根県産のものが、8尾で250円。信じられない値段。夕飯のメインは別のものに決まっていたが、思わず買う。買ってはらわたを取っておけば、4尾は明日の夕飯、もう4尾は冷凍していつかの夕飯になる。非常に嬉しい。カマスって実はお店で見ると高確率で買うくらい、好きだ。味が好き。それにしたって破格だ。魚や野菜が安いのは、田舎に暮す大いなるメリットだなと思う。
 晩ごはんは手羽先の竜田揚げと、スパゲッティサラダとポトフ。なぜかクリスマスみたいなメニューになった。竜田揚げはいつもの、片栗粉が白く固まるくらいたっぷり塗した、ゴリゴリ仕上げ。衣がおいしい。
 夜になって開票速報の番組を眺める。NHKの開票速報で、いちばんはじめに当確が告げられたのが島根2区だった。さすがだな。

高橋一生分

 とても時間のかかった机周りの整理が終わり、部屋全体の模様替えの効果も含めて、環境がとてもよくなった。なんてったって、ものがどこにあるのか、自分で把握できているのがいい。これまではそれができていなかった。ダイソーのプラスチックケースに物を詰め、そのケースが壁に土嚢のように積まれていた。なにか必要なものを探し出して、使い、あったケースに戻せばいいものを、手近なケースに適当に入れるものだから、はじめはあったはずのケースごとのテーマは霧散し、やがて混沌とした世界が形成された。混沌は創造を生むかと思いきや、意外とそんなことはなく、むしろ停滞をもたらした。これはとても示唆的な出来事であると思った。真の創造は、整然とした規律のもとでのみ生まれる、とはいわないが、整然とした規律のもとでは、ものの配置が分かりやすくて作業がしやすい、というのは真理である。
 整理をしていて、僕がなにか新しいことをはじめようと思ったとき、すぐにノートやメモ帳を買ってくるのを、ファルマンが「紙なんか一生分ある」とすかさず窘めてくるのを、これまで、なんでそういう意地悪をいうかなあ、と流していたのだけど、ノート類をひとところにまとめた結果、なるほど一生分ある、と納得した。ただし、使っていないノートの余白は一生分あるけれど、それでもやっぱり、新しいことを始めようと思ったら、新品のノートを買ってしまうのだよな。そう考えると、あれはなにかを書くためのノートを買っているのではなく、気合を入れるための儀式のようなものなのかもしれない。
 またそれに関連することかもしれないが、ホッチキスの芯、ダブルクリップ、ゼムクリップ、ガチャ玉と、紙をまとめる系の道具も、異様なまでにあった。異様なまでにあるくせに、ここで挙げたもののうち、この半年間で使ったものといえば、ゼムクリップをなにかの折にふたつくらい使ったかもしれない、というくらいのもので、紙が一生分だとしたら、紙をまとめる系の道具は、ざっと七生分くらいありそうだと思った。しかし今生においてこんなにもペーパーレスが進んだのだから、生まれ変わりが宇宙の時系列に沿うのだとすれば、このあとの転生後の生涯では、ますます紙をまとめる機会は減りそうで、そう考えて大量のホッチキスの芯やゼムクリップを眺めていると、思わず火の鳥に思いを馳せてしまう。これはもはやそういうスケールの話だ。茜丸がもう永遠に人に生まれ変わることはないように、僕だってどうだか分からない。来世に消費を期待しても仕方ないので、ならばいっそのこと、この大量のホッチキスの芯、ダブルクリップ、ゼムクリップ、ガチャ玉で、立体的な火の鳥を造形してみてはどうかと思った。せっかく机周りの整理をして、作業しやすくなって、そんなことをするのかよ。

V6MD

 ファルマンの実家にレコードプレーヤーがやってきた。当時買ったレコードは捨てずにとってあったのだけど、プレーヤーはとっくになくなっていたのが、昨今にわかに世間でレコードブームが起り、プレーヤーも手に入りやすくなったことで、両親のレコード熱がふたたび高まったらしい。たぶん、いまの60代70代あたりの人たちの家庭で、とても多く発生している現象であろうと思う。
 この一連の流れを、僕はあまり快く思っていなかった。快く思わなくないであれよ、と思うが、なんというか、レコードの、レコードにしかない味、みたいなことを声高にいう感じが鼻について、なんとも嫌なのだった。単館系映画とか、絶版本とか、カルト芸人とか、そういうのと同じ。そういうものの存在そのものを否定するわけではないが、それらの周りには必ず、「それの価値が判る自分」を、度合の強弱はあれど主張する輩が存在する。だから嫌いだ。
 そのため義母から、「レコードプレーヤーがあるんよ。いいでしょう」といわれた際、「僕、レコードには一切興味がないんです」と、はっきり答えてしまった。冷静に考えると、そんなこというなよ、と思うが、あいまいな態度を取った結果、聴かされて、その味わいについて感想を述べさせられる展開になったらたまったもんじゃないと思ったので、ぴしゃりと遮断する意図があった。しかしながら義母も負けじと、「それなら余計に聴かさないとね!」といってレコードをかけ始めたので、これは決して、心ない義理の息子が、老いた義父母をいじめた話などではない。ちなみにこの話の顛末としては、どれがいいかと並べられたレコードを、どれがいいもなにもねえよ、と眺めていたら、その中にNSPのベスト盤を発見したので、すげえ、とちょっとテンションが上がって、それをかけてもらい、しっかり聴いた。ただしこれはあくまでNSPが聴きたかったのであって、レコードという媒体にどうこうという思いはない。レコードでなければ聴きたい曲の頭出しとか便利なのになー、と思いながら聴いた。
 レコードに対していい印象を抱いていないのは、上記の理由もあるが、それに加えて、やはり自分がMD世代だからというのもあると思う。親世代のレコードに対して、我々世代のMDは、なるほど象徴的なショボさだな、としみじみと思う。MDには、親たちがレコードに対して抱くような郷愁や感慨は一切ない。しかしその「なさ」が、いかにも我々世代っぽくて、その「なさ」に郷愁や感慨を抱こうと思えば抱ける、という、複雑な様相を呈している。
 話は唐突に変わるが、V6がそろそろ解散ということで、テレビでいろいろやっている。そのためV6に思いを馳せることが多くなり、それで思ったのだが、V6というのはMD世代のシンボル的なグループなのではないかと思った。この文脈では、まるでV6のことをショボいといっているようだが、そういうわけではない。そういうわけではないが、SMAPやTOKIOや嵐に較べて、V6というのは低空安全飛行的な、突っ張らない、地味な、しかし安心感があり、もちろん華やかさもありつつ、身近でもあり、ちょうど今日スペシャルをやっている「学校へいこう」は我々の中高時代のど真ん中の思い出で、そして我々の中高時代というのは、それすなわちMD時代なので、なんかもう本当に、V6ってMDだ。V6はMDの象徴であり、残影だったのではないかと思う。そのV6が、とうとう解散する。これまでSMAPやTOKIOの解散、そして嵐の活動休止に対して、僕は特になんの感想も抱かなかった。それが、まさかV6で初めてこんなもの哀しい気持ちになるだなんて。

とてもよい週末だった

 土曜日の午前、出雲大社に行く。前回が2月16日なので、なんだかんだで8ヶ月ぶりということになる。久しぶりに行ってみたら、わが家から出雲大社は、思っていたよりもだいぶ近かった。近いのだからもっと頻繁に行けばいいとも思うが、気づけばやっぱり、次に行くのは8ヶ月後くらいなんだよな。ああ、でもさすがに1月か2月中に新年のお詣りに行くか。
 ちなみに今回の参拝は、なんとなくぼちぼち顔を出しておくかというふわっとした理由ではなくて、ピイガの7歳のお詣りという明確な目的があった。もっとも7歳のお詣りといっても、きちんと代金を払って祈祷してもらうというようなことはせず、一応ピイガにはそれなりによそ行きの、普段は着ないワンピースを着せたが、それ以外はなんら特別なことはしない、いつも通りの参拝なのだった。
 天気のよい神在月の土曜日とあって、出雲大社は賑わっていた。なにぶん出雲は観光地なので、県外から人が来て活気があるのはいいことだ。1年半にも及ぶ年季が明けて、日本人全体がシャバに戻ってきたような解放感があるなあと思う。賽銭箱の前に行列ができていて、それはすごく久しぶりに目にする情景だった。方々の神様にお詣りをし、前回と同じく財布の中の小銭は駆逐された。でもしょうがない。なにしろいまは日本中の八百万の神様がここに集結しているのだから、その全てに作用があるのだとしたら、コスパとしては申し分ない。たかだか合計で700円くらいの賽銭でそんな考え方をするような奴には、たぶん神様はいいようにしてくれないだろうけれど。
 今回もおみくじを引いた。前回、「人に交はるには、和譲・恭敬・忠恕を旨とすべし。仮にも驕慢の態をなすべからず」という、身につまされるありがたい言葉をいただき、この8ヶ月それが実行できたかといえばそんなことはなく、それだから相変わらず人とうまく交はれずにおる。今回の訓は、「誠心を尽くして神に祈りを深めて依頼し、自己の過信の力に依頼するなかれ」ということで、残念ながら前回ほど刺さるフレーズではなかった。ちなみに文面のバリエーションがどれくらいあるのか知らないが、ともに引いたポルガもまったく同じ文面で、親子で過信を窘められた格好となった。
 参拝のあとは、ファルマンの両親が7歳のお祝いってわけでもないけど、という感じで昼を奢ってくれるというので、実家に赴き、出前のそばをいただく。10月下旬の、晴れた、しかし山陰の屋外は、暖かいような寒いような実に微妙な感じで、参拝客の格好も、Tシャツ姿の猛者もいればダウンを着込んでいる人もいて、というように本当にまちまちで、それなりの服を着ていたわれわれ一家も、やはりなんとなく体が冷えていたような感があったので、温かい麺がおいしかった。
 そのあとは買い物の用事があり、親が子どもたちを見ていてくれるというので、置いてファルマンと出た。主な目的は100均で、いま僕は机周りの整理に燃えており、そのためのケースなどを大量購入した。買い物を終え、買って帰ったハロウィン仕様のミスタードーナツをみんなで食べて、実家をあとにする。
 そうして帰宅し、それでこの日はおしまい、ではない。なんとこのあと、家族でおろち湯ったり館に行く、ということをした。なにぶん明日も休みだと思うと、土曜日はどこまでも目一杯に愉しんでやろうという執念が湧き、常にプールに行きたがっている子どもたちとともに、なんとかファルマンを説得し、実現にこぎつけたのだった。偏愛するおろち湯ったり館だが、実は家族を連れていくのは初めてである。父親がやけに話をする「おろち湯ったり館」なるものに、ようやく本当に行くことができた、という感慨が子どもたちにあったのかどうかは知らない。土曜日の夜ということで、むちゃくちゃ混んでいるだろうか、プールなんか大賑わいだろうか、と不安だったが、蓋を開けてみたら貸し切りだった。島根のいつものやつ。泳がないファルマンは寒いので、ひとり温泉のほうに行ってもらい、子どもたちとしばし泳いで遊ぶ。そして所定の時刻にファルマンに迎えに来てもらい、子どもたちは女湯へ、僕は男湯へと分かれた。温泉のほうもそこまで混んでいなかった。家族と一緒なので、今回はサウナをする時間はない。純粋に温泉だけを堪能する。サウナで体を温めていない状態での2階の露天風呂は、さすがに少し寒かった。雪のよく降る雲南市にあるここは、冬季になると2階は閉鎖される。たぶんもうすぐだ。1階の屋内浴場で体をしっかり温め、出た。出る時間は打ち合わせていなかったため、すごく待たせたり、すごく待ったりが不安だったが、ちょうどよかったようだった。
 帰宅後は、白菜とベーコンの鍋にサッポロ一番塩ラーメンを入れて、手製の鍋ラーメンというか、とにかく体の温まる、おいしくてしょうがないものを作り、おいしくてしょうがなかった。なかなかハードなスケジュールをこなした日の、明日も休みの、味の濃い鍋での、日本酒。疲れもあり、もう朦朧となるくらいの酩酊とまどろみ。やっぱり鍋は幸福感が強いな。冬はしこたまやろう、と思った。
 食後は、なんとなく11時頃までは起きていたけれど、やはり疲労と酔いでなにをするということもなく、少しだけ机周りの整理をしたほかは、ほぼ何もせずに寝た。
 8時間ほどたっぷり寝て、布団は気持ちよく、体はすっかり健やかで、いい朝を迎えた。
 午前中は机周りの整理、昼に焼きそばを作って食べたあとは、食料品の買い物に出て、午後はまたひたすら机周りの整理をした。なぜそんなにも机周りの整理をしているのかといえば、先日ファルマンと僕の部屋の模様替えをして、物の配置が大きく変わったからで、これを機に、溢れ返ってぜんぜん管理できなくなっていた資材を、使わないものは捨て、使うものは使いやすいようにしようと、本腰を入れて作業をしたのだった。合計で8時間くらい費やしたんじゃないだろうか。今日の夕方でようやく一応の完結を迎えた。時間をかけただけあって、非常に快適になったと思う。これで作業効率もアップすることだろう。いい気持ちで新しい週を迎えられそうで嬉しい。
 晩ごはんは揚げワンタンの甘酢がけ。初めて作ったが、とてもおいしくできた。餃子もシュウマイもワンタンも、どうも僕はやけにそこらへんの料理に適性がある気がしてならない。僕の作るそれらは、お店でも食べたことがないくらいおいしい。
 そんな週末だった。とてもよい週末だった。

タブレットに戻ったよ

 スマホにとことん嫌気が差していて、一刻も早くタブレットに戻りたい、という嘆きを9月の終わりに書いた
 そしてこのたび、購入資金が調達できたため、めでたく新しいタブレットを手に入れ、かくしていちどの過ちとしてのスマホを経て、再び僕はタブレットの人となったのだった。
 なにぶんスマホの小ささに対する怨嗟が募ってのこの行為であるからして、タブレットはタブレットでも、すごく大きいやつにしてやろう、そうでなければ意味がない、という発想から、なんと10インチのものを選んでしまった。スマホになる前のタブレットが、たぶん8インチ弱くらいのものだったので、それより大きいなんて素敵だなあ、画面が見やすいなあと単純に思った。そして注文して2日後に届いたものを見て、ちょっと度が過ぎたな、と思った。画面の見やすさと扱いやすさは反比例する。見やすさのほうにあまりに振れ過ぎた。10インチってどんな大きさかといえば、ほぼB5である。大学ノート。8インチのときはまだ携帯電話のほうの自治体に在籍していたのが、10インチになって、いよいよパソコンのほうに移住した感じがある。「反動って恐いね」とファルマンはいった。
 スマホの小ささのなにが嫌だったかって、あんな小さい画面をせせこましく見ている様、というのはもちろんとして、なによりキーボードの打ち間違いが多すぎて、それで大いにストレスが溜ったのだけど、10インチならその悩みからは完全解放だね、と思いきや、画面があまりにも大きすぎて、縦に持った時でさえ、キーを押す親指が画面中央まで伸ばしづらく、なにより空中で手の力だけで持ち抱えてキーを打つ操作をするには機械そのものが重くて、これはこれでスマホとはまた違った形でキーボードは打ちづらいのだった。「過ぎたるは及ばざるがごとしだね」とファルマンはいった。本当にファルマンだろうか。俺の妻の皮をかぶった孔子様ではなかろうか。
 まあそんな新しいタブレットなのだけど、それでも声を大にしていいたいのは、スマホよりかはよほどいい、ということである。僕は本当にスマホがダメだった。スマホユーザーとして過したこの半年間で、精神が腐敗した。これからゆっくり回復していきたい。そして次にタブレットを買うときは、7~8インチのものにしようと思います。

8年越しレジャー!

 恨みを晴らすかのようなレジャー猛攻、今週は、広島県は庄原市にある、国営備北丘陵公園へと遊びに行った。広島県ということは、俗にいうところの「県をまたぐ移動」である。「県をまたぐ移動」という言葉の、人聞きの悪さったらない。しかしまあ、去年は帰省なども含め、それは行なっても決してブログにこうして書き記すことはできなかったけれど、今は一応こうして、この程度のことは書いても大丈夫な空気感になったな、と思う。いやあまったく、空気感ですよ。新型コロナウイルスというのは、いろんな意味で本当にどこまでも空気次第なものだな、としみじみと思う。
 先週に引き続いて並々ならぬ情熱により、僕は昨晩から調味料に浸け込んでおいた鶏肉を起きてすぐ揚げ、おにぎりを作り、卵をゆでて、お弁当をこしらえた。そして洗濯物を干し終わるなり、庄原に向けて出発した。
 道のりはほとんど高速道路なので、楽々である。6月に買ったフリードには、買う前はぜんぜん考慮していなかった機能として、ACCとLKASというのがあって、前者は設定したスピードの範囲内で前の車との車間距離なんかも維持しつつ車が勝手にスピードを加減してくれる機能、後者は車線を車が認識してそこからはみ出さないように車が勝手にハンドルを操作してくれる機能で、「自動運転」という言葉は、いろいろな制約があって堂々とはいえないらしいが、まあ要するに自動運転にほかならず、これがもう、本当にすごく楽なのだ。もちろんそれなりに注意を払いつつハンドルは握っておかなければならないのだけど、それでもちゃんと運転するのとは大違いの楽さ。なんだ、この機能がついている車の奴らは、こんなに楽して高速道路を走っていたのかよ、とそっち側になって逆にムカついたほどである。別にディスりたいわけでもないが、「ワゴン車ってほどでもないけど念のため3列シートのファミリーカー」というジャンルで、フリードと双璧をなして誰もが選択を迫られる某メーカーの某クルマには、同様の機能が付いていないらしいので、純粋に乗り心地だけで決めたけど、本当にフリードにしてよかったと最近になって改めて思った。もう今後の買い替えで、この類の機能がついていない車は絶対に選ばない。もっともこれからは軽とかにもどんどんこの機能が搭載されていくんだろう。「ちゃんと自分で運転しなければならない車」は、今後オートマ車に対してのマニュアル車みたいな存在になっていくのだと思う。珍しく車の話なんかしてしまった。ACCとLKASがあまりにも快適なので、自慢というより、喧伝したい気持ちなのだ。燃費とか馬力とかじゃない、車を選ぶ基準はとにもかくにも、自動運転機能がついてるかどうかだよ、自動運転機能しか勝たんよ、という思いである。
 公園には11時半ごろに到着した。実はこの公園に遊びに来るのは2度目で、1度目はピイガが生まれる前、ファルマンの両親とともに5人で行っていた。いつだろうかと検索をかけたところ、2013年の本当にちょうど同じくらいの時期、10月5日のことだった。そうか、8年も前になるのか。当時の日記では、なぜか公園の名前を濁していて、そのせいで「備北丘陵公園」と検索しても記事が現れず、面倒を被った。なぜ濁したのか、居住地を探られたくないというネットリテラシー的なことだろうかと思ったが、前後の記事を見ると島根県内の公園の名前はバンバン出しているのでそんな意図はなさそうだ。情勢的には、冒頭にも書いた通り、「県をまたぐ移動」となる(当時は予想もしていなかった情況である)8年後の今のほうが、緊急事態宣言は解除されたとはいえ、どちらかといえばよほど他県の公園に行ったことを濁すべきで、なんともちぐはぐな感じである。でもしばらく考えて、きっとこういうことだな、と思った。すなわち、両親主導らしいこの日の公園行きを、僕はあまり好意的に受け止めていなかったんだろう。だから投げやりで、公園名さえも本当にあまりきちんと把握しようとしなかったんだろう。なんとも狭量で厄介な奴だな、8年前の僕という奴は。8年前の。まあたしかにこの日はずいぶんな雨で、寒く、公園行きは普通に考えて中止すべきで、でも決行して、決行した結果、にっちもさっちもいかない感じに終わって、さんざんだったけども。
 それに対して今日は降水確率0%の晴天で、陽射しが出ると暑くて参るほどで、しかし木陰に入ると風は涼しく、素晴らしいレジャー日和だった。8年前の雪辱を果たしたな、と思った。もっとも8年前、たとえ晴れていたとしても、2歳のポルガにこの公園は早すぎたのではないかと、8年後の今日、10歳のポルガと7歳のピイガを連れてきて、遊具やアスレチックで躍動する姿を見て、思った。もっとも8年前であれば、親ももう少し一緒に挑戦したりしてやれたであろうアスレチックは、エリア内を一緒に歩いてやって見守るくらいが精一杯で、そんなことを言えばそもそも、実は今回の備北丘陵公園行きにおいて、8年前のことが頭にあったのと、車が6人乗りになったこともあり、やんわり両親にも誘いをかけたのだが、8年前レンタカーを借りてまで公園行きを主導した両親は、「暑くてへばりそうだから」という理由で誘いを断ってきたので、8年経って子どもはちゃんと成長し、両親や祖父母はちゃんと老いたものだな、ということも感じた。時代は回る。長年ブログを書いていると、視点がだんだん長大になってくるものだ。
 ひととおりの遊具をこなし、弁当を食べ、どんぐりを大量に拾い、コスモスを眺め、広大な公園をたっぷりと堪能した。レジャー欲が大いに満たされた1日だった。
 公園を出たあとは、綿密な下調べにより存在を知っていた、公園近くにある「ラ・ムー」と「ザ・ビッグ」に寄る。どちらも、岡山にはあって島根(ファルマンの免許取得の際に行ったが「ラ・ムー」は松江にはある)にはない、ディスカウントスーパーである。僕にとっては公園と同じくらい、これらの店での買い物は、今日の遠出のメイン目的といってもよかった。目一杯買うつもりで買い物かごやエコバッグを車に乗せていたが、いざ行ってみたら、まあこんなもんかな、という程度にしか買わなかった。安いものもあったし、そうでもないものもあった。岡山時代の買い物の記憶で、「向こうの店はあんなに安かった」「向こうならあの値段なのに」ということを現在の島根で思ってしまいがちなのだが、実はこの1、2年で物価そのものが上がっているので、あの当時の値段のスーパーなんて、もうこの世には存在しないのだ。それなのに、岡山のスーパーは安かった、島根はやっぱり物流が中国山地で滞る分だけ物の値段が高いのだ、などと憎々しく思ってしまって、そんなの精神的に不健全だな、と反省した。買いたいものはある程度買えたので、それなりに満足いった。
 帰宅後のビールがおいしかった。やっぱり日中に陽を浴びたあとのビールは格別だな。アスレチックや遊具をしたわけではないが、アスレチックや遊具をする子どもに寄り添い、園内を巡ったのだ。これほどの運動があるかよ。

年季明けレジャー!

 全国の緊急事態宣言が9月末日をもって解除された、10月最初の週末、気候も全国的によかったようで、各地で人々が外へと繰り出したという。それはそうだと思う。わが家も繰り出した。わが家に関しては、緊急事態宣言の解除は、島根県民ということもあってそこまで直接的には関係なくて、いわば僕の個人的な緊急事態宣言が9月末日をもって解除されたがゆえの、待望の外出と相成った。このあたりの詳細については、とても不定期に更新している「百年前日記」で、いつか書くことになる。最新記事の時間軸はまだ2020年の8月なので、だいぶん先のことになるに違いないけれど。
 それは別にいい。本日のレジャーの話を書く。ところでポルガはなぜか最近、「るるぶ」や「まっぷる」などのガイドブックに大ハマりしていて、図書館でそんな本ばかり大量に借りて、よく眺めている。「山陰」や「中国四国」など、リアリティーのある土地以外にも、「エジプト」や「ニューヨーク」なども借りているので、単純に知的好奇心なのかな、と思う。それでその「山陰」の中で紹介されていた道の駅で、秋鹿なぎさ公園という場所があり、宍道湖のほとりに立地し、そこではカヌーやボートやヨットなどが体験できるのだという。ボートは既にしたことがあるし、ヨットはさすがに難しいだろう。狙いはカヌーだ。体験したい。させたい。しかも体験時期は4月から10月の、それも晴れた日のみだというので、うかうかしていられない、もう行くっきゃないとなり、前夜に急遽決定した。
 その道の駅そのものは、存在を知っていた。夏にファルマンを免許センターに連れて行った際、その前を通った。ただの道の駅だと思っていたが、あそこで実はそんなことができるのか、とガイドブックで初めて知った次第である。
 しかし冒頭にも書いた通り、緊急事態宣言が解除されて最初の週末、そして好天である。誰もが考えることは同じ、おそらくひどく混み合っていることだろう。すごく順番を待つことになるだろうか。いや、とはいえ島根県であれば、そこまでひどいことにはならないのではないか。運転中、そんな懸念が頭の中を駆け巡っていた。到着して、「ボート乗り場」という表示にしたがって建物の裏手、宍道湖側へと進むと、そこには受付があり、係の人がいて、他に人影はなく、係の人に「カヌーに乗りたいんですけど」と申し入れたら、記名と検温を指示され、それからすぐにオールの繰り方の講習へと進んだ。待ち時間0。さすがの一言である。島根県のこと、見くびっていた。ここはあえて「買いかぶる」ではなく、見くびるといおう。島根の人口密度の低さを見くびっていた。都会で、週末で、カヌー体験大人200円子ども100円という阿呆みたいな価格設定をしてみろ、とんでもないことになる。
 数分の講習ののち、そのまま浅瀬に泊められたカヌーへと案内され、乗り込み、後ろから係の人が押してくれて湖面へと進み出て、ジェットコースターのようなスピードで、気づけば湖上の人となっていた。この一連の流れが、あまりにも早かった。とんでもなく贅沢な望みだが、20分くらい待ちたかったよ! と少し思った。「宍道湖でカヌーを漕いでいる人」になるまでが、こんなスピード感でなされることってあるかよ。
 カヌーは、ひとり乗りから3人乗りまであり、当初ファルマンは乗らずに陸から写真を撮るつもりだったのだが、3人乗りは真ん中に乗る人は漕がずに乗るだけになる、といったらピイガがそれは嫌だと拒み、じゃあパパとピイガでふたり乗りに乗るからポルガはひとりで漕ぎな、といったらポルガがそれは嫌だと拒んだので、仕方なくファルマンもポルガとペアで乗ることになった。そんな編制の2艘で、プロぺ家は初めてのカヌー体験を行なった。
 はじめは心の準備が整っていなかったこともあり、わあわあとやみくもにオールを掻いてやみくもに進んだが、次第に「自分はいま宍道湖でカヌーを漕いでいる」という状況に対して心が追いついてきて、自覚を持って舟を進ませることができるようになった。また相方がよかった。ピイガは、普段ははちゃめちゃな破壊神だが、きちんと指導をされると、わりと忠実にいわれたことを守ろうとするところがあるので、「右に進むために左だけ掻こう」と僕が呼びかけると、そのとおりに、先ほど係員に指導されたとおりにオールを繰って、スムーズにカヌーは動いた。それに較べてファルマンたちの舟は悲惨だった。人の話を徹底的に聞かないことで知られるポルガは、やはり先ほどの指導をつゆほども聞いていなかったようで、オールの持ち方から漕ぎ方まで、どこまでも自由にやって、ファルマンの呼びかけにも応じず、ぜんぜん息も合わさず、なのでカヌーは文字どおり迷走していた。聞かない聞かないとは思っていたが、すごいな、こいつってここまで本当に人の話を聞かないんだな、と感心する思いだった。
 そんなカヌー体験だった。川ではないので、ブイで仕切られた範囲内を、時間内ウロウロするだけである。それでもオールの重たさもあり、かなり体力を使った。これで激流であってみろ、と思った。なるほど羽根田卓也の上半身の筋肉に納得がいった。
 そのあとは来た道を戻って、次の目的地、愛宕山公園へと移動した。ここも初来訪のスポット。それなりに広い公園で弁当を喰うというのが目的で、通り道にある公園を検索したところここがヒットしたのだが、望外の要素として、ちょっとした動物ふれあいコーナーがあり、持ち込みの餌を与えてもいいということだったので、家からスティック状にしたニンジンやサツマイモを持ってきていた。我ながら、コースを練り、朝から弁当を作り、動物の餌まで準備するあたり、熱量が高いな、と思う(なぜ僕がこの週末の外出にここまでの熱情を持っていたのかは、いつの日か書かれる「百年前日記」に詳しい)。
 だだっぴろく、さらには頼みの「園内マップ」みたいな看板がすっかり色褪せて消えてしまっている園内を、カートゥーンアニメみたいな木の看板だけを手掛かりに進む。田舎の大きい公園あるあるとして、なんてったって愛宕「山」公園と名前にもあるとおり、道は基本的に坂道である。だいぶ土で埋まっているけれどこれはいちおう階段になっているので、道として制定されているものだよ、な?みたいな道(なき道)を進んだ先に、なるほど動物の小屋の群が現れた。飼育されている動物は、ウサギ、ニワトリ、ハクチョウ、そしてヤギ、ロバ、カンガルー、シカというラインナップ。クセがすごい。ヤギ以下の動物には餌を与えていいようだったので、金網越しに持ってきた餌をやった。やり始めたら、予想していた以上に動物たちは餌に貪欲で、こういう場所の動物たちってわりと飽食で、ああまた人間が餌持ってきたよ、そこ置いといてよ、みたいな淡白な反応しかしてくれないことがままあるが、ここの動物たちはそんなことなかったので、あげがいがあった。とはいえ絶対的な客の少なさも窺え、果してこれはいいことなのか悪いことなのかと戸惑った。ヤギやシカでこういう体験ができる場所は多いが、カンガルーは珍しいな、と思った。もっともシカとロバとカンガルーとシカ、どれもまあ、大きめの哺乳類ということで、そこまで差があるものでもないな、と金網越しに餌を与えるという行為をとおして感じたりもした。おおらかな、大雑把な感想があったもんだ。
 動物たちに餌をやったあとは、手を丹念に洗って、場所を移動し、それなりにいい場所を見つけ、自分たちの食事をした。おにぎりと、ゆで卵と、公園の前のローソンで買ったLチキ。おいしい。陽射しが強く、アップダウンがつらく、なかなかハードモードだったが、日陰で受ける風はやはり10月の涼しさで、気持ちがよかった。
 そんな週末レジャーだった。これから冬が深まるまで、なるべく多く遊びに出掛けられたらいいな、と思っている。もはや情念のような気持ちで、そう考えている。

松江に行った日はやけに丁寧に日記を書く癖がある

 東京時代に作ったみずほ銀行の口座がずっとあって、でも地方住まいにとってはみずほ銀行の口座を持っているメリットなんてまるでなくて、それでも別に口座を持っているというだけのことなら、わずかな額面の預金に利子がつかないのは当然のこととしても、特に支障もないので放置していてよかったのだが、大学生時代に口座を作った際(江古田支店!)に、悪い大人に騙されたようで、クレジットがらみの「国際ナントカカントカ」みたいなサービスに加入させられていて、これは海外でクレジットカードを使う際になんかしらのメリットがあるとか、なにぶん使ったことがないので(国内でさえクレジットカードなんてほぼ使わない)名称を含めなんにもよく知らないのだが、そのサービス使用料が年間2000円だか3000円だか、毎年無意味に預金から引き落とされていて、それが長年すごく嫌だった。なんとかしたいと思うのだが、電話ではやけに埒が明かず、実店舗に行くしかないと思うものの、地方なのでみずほ銀行が身近になくて、にっちもさっちもいかず、そしてやはり1年にいちど、まったく無意味に、本当に上納金のように預金からお金を持っていかれる、というのがここ何年も続いていた。
 それをこのたび、松江にみずほ銀行の支店があるということを知って、折よく平日の休みがあったので、赴いて口座を閉じることにした。問題なのはあのサービスだけであり、本当はそれだけ解除すればいいのだが、口座を閉じるという強硬姿勢に出たのにはわけがあった。実は以前、岡山時代に、同じ懸念を抱えて、倉敷支店に赴いたことがあった。その際は、まだいろいろみずほ銀行から引き落とされるようにしていた契約などもあったため、口座を閉じるという発想はなく、とにかくそのサービスの解除だけを目的としていた。それで受付に行って、かくかくしかじかでこのサービスをやめたいのだと相談したところ、そんなことがあっていいのかと思うが、行員はぜんぜんピンと来ない様子で、おたくがなにを言っているのかさっぱり分からない、クレジット関係のサービスならば銀行ではなくクレジット会社のほうの話ではないだろうか、いきなり得体の知れないことを言われて困惑している、なんなら警備員を呼ぶぞ、くらいの、後半はもちろん僕が勝手に銀行という空間に対してビビッたために抱いた引け目なのだが、それで仕方なくほうほうの体で逃げ帰るという、とにかくそんな出来事が過去にあったため、もはや今回はサービスの解除は諦め、このために口座引き落としの変更手続きは全てファルマンにしてもらっていたので(実際、地方にいる限りみずほ銀行じゃないほうが圧倒的に便利なのだ)、満を持してみずほ銀行とはすっぱり縁を切ることにしたのだ。
 というわけで、真夏のファルマンの免許試験に続き、珍しくあまり間を空けずの松江来訪となった。そして今回は、本当に稀有なことだが、なんと電車で行くことにした。もっとも松江は微妙に遠く、そして微妙に都会のため、ひとりならば電車という選択肢も、まあまあなきにしもあらずらしい。三女もいつぞや電車で行っていた。そのときは「なんで電車で」と思ったが、自分の立場になって分かった。松江に車で行くの、わりと億劫だ。というわけでの電車。島根に来てから10ヶ月ほどになるが、このたび初めて電車に乗った。岡山時代も、それこそ江古田支店で口座を作ったような時代からは考えられないほどに電車に乗る機会は少なかったが、それでもマリンライナーの存在感はそれなりにあった。島根はその比ではない。それはファルマンも必要に迫られて免許を取るわけだ。
 電車はのんびり走り、のんびり停車し、のんびり松江までたどり着いた。もちろん半端な時間だということもあったろうが、2両編成の車内はスカスカで、4人席をひとりで使い、本を読んだり、田んぼを見たり、うつらうつらしたりしながら過した。
 降り立った松江駅は、やはり微妙に都会なのだった。前に書いたかどうか忘れたが、松江の駅周辺は、岡山ほどではないが、倉敷とどっこいどっこいくらいの規模かな、と思う。岡山と倉敷の関係性は、そのまま松江と出雲のそれに対応すると前から思っているのだが、岡山県の劣勢のほうが、島根県の優勢のほうと同じというのが、まあどうしたって岡山県と島根県のパワーの差だろうと思う。
 みずほ銀行は、事前になんとなく場所は見ておいたのだが、現地に着いたら意外と分からず、グーグルマップもふだん車の設定になっているためかうまく作動せず、困ったなあと思いつつ、だいたいの方角に進んでいたら、幸い交番を見つけたので行き方を聞くことができた。聞きながら、いまどき交番で道を聞くかー、と我ながら思った。
 道のりは15分ほどで、初めて歩く街なので新鮮だし、そこまでの距離ではないのだが、いかんせん暑かった。時刻は昼前で、この日の最高気温は28℃くらいまで上がっていた。汗だくになってしまった。そして言われたとおりに進んで、目的地が近づいたとき、急に見覚えのある風景になったので驚いた。ここはもしかして、と思って見てみたら、ピイガの七五三(2017年11月)の際に、ファルマンが着付けをしてもらった、義母の御用達の呉服屋が銀行の向かいにあった。まったく見知らぬはずだった松江の街でこんな現象が起ったことに、とても驚いた。
 銀行での用事はつつがなく完了した。倉敷のそれのように特殊な申し出ではなく、「口座を閉じたい」なのだから向こうの対応も明瞭だ。ただし「届出印を」といわれ、「実は候補が3つあるんです」と、家から持ってきた3本のハンコを差し出し、「それじゃあ重ならないよう3つともここに捺してください。どれが正しいか確認します」となって、しばらく待っていたら、戻ってきた行員が「3つとも違いました」と伝えてきたので、ぎゃふんとなった。学生時代の俺、適当に口座を作りすぎ! そのツケがぜんぶ未来の俺に! と思った。それで、じゃあなんだ口座は閉じれないのか、今日の松江は無駄足なのか、っていうかもう家に候補となるようなハンコはないぞ、もしかして詰んだのか、と暗澹たる気持ちになったが、行員が続けて「なのでこの場で届出印の変更をして、それから閉じる手続きをします」と案内をしてくれ、事なきを得た。ああよかった。というわけで無事に、みずほ銀行と縁を切ることができた。重ねて言うが、別にみずほ銀行そのものに恨みがあったわけではない。すべてはあの毎年じわじわ引き落とされる謎のサービスのせいだ。口座を作ったのが学生時代ということは、ともすれば20年ほど、無意味に引かれ続けたということとなる。2000円×20年と考えれば4万円。ああもったいない。ああくだらない。
 そうして主目的を済ませたあとは、イオン松江に行って手芸屋を覗いたりしようかなあ、などと考えていたが、暑さでわりと体力が奪われたこともあり、イオン松江はみずほ銀行からだと駅を挟んでまた駅から十数分歩くような位置にあるようで、それって池袋駅からサンシャインシティまで普通に歩く都会の人間には普通のことだろうが、田舎住みにとってはなかなかつらいものがあり、手芸屋でどうしても欲しいものがあるわけじゃなし、もういいやとなって、そのまま駅で電車に乗って帰ることにした。つまりわざわざ松江に来ておいて、本当にストイックに銀行の用事だけして帰ったのだった。まあ、そんなもんだよね、と思う。
 それとこの体験を通して、このたび初めて、妻に駅までの送迎をしてもらう、という経験をした。この事実はなかなか感慨深いものがあったので、ここに記しておく。さらに感慨深いといえば、約20年前に江古田で開かれた口座が、紆余曲折あって松江で閉じられるというのもまた、数奇で感慨深い。人生って不思議。

38歳

 誕生日である。38歳である。
 37歳から38歳なので、感想は何もない。37歳から38歳への移行について、なんかしらでも感傷を抱く者がこの世にいるだろうか。親が37歳で死んだ人くらいのものではないか。思えば僕と母とピイガは、それぞれ30歳差で、両親が離婚したのが、僕が今のピイガと同じ小2の頃だったから、母は38歳の頃に離婚したということになるのかもしれない。無理やりにでもそんなことを思うと、少し感傷的な気持ちになる。なっても得は一切ない。
 誕生日が敬老の日とあまりにも近くて、今はまだ別に困らないけれど、遠い将来、誕生日がクリスマスの人とまったく同じ困惑を周囲に与えるのだろうなあということを思っていたが、今年はとうとうまさに今日が敬老の日となったことで、若干の弊害があった。今日に届くように横浜の祖母にちょっとしたものを贈り、無事に届いて、「ありがとうね」という連絡が来て少し話したのだが、感謝の気持ちの表現と、自分がどれだけ年寄りかというアピールに余念がない93歳との会話において、「今日という日は敬老の日であると同時に、実は孫の誕生日なのだよ」「なんなら贈り物はこちらからの一方的なものではなく、そちらからもなんかしらの物品があってもなんら差し支えはないのだよ」という主張はどう考えても情報量オーバーで、すっぱりあきらめた。もっとも93歳の祖母が、孫の38歳の誕生日を祝うというのは、あまり健全な図式ではないような気もするので、すっかり忘れ去られているくらいでちょうどいいのかもしれない。
 家族からはもちろん祝ってもらった。晩ごはんは鶏の唐揚げで、ケーキはこの時期の、僕の誕生日特有のチョコレートの、カステラのような、シフォンケーキのような、決してガトーショコラではない、チョコレートと小麦粉と砂糖が混ざった感じの、素朴なケーキで、とても素朴な味わいだった。子どもたちもそれぞれプレゼントをくれ、ポルガは卵と一緒にお湯に入れるとゆで卵の黄身の仕上がりが窺えるようになるあの道具(わざわざ買うほどではないがわりと欲しいと思っていたので普通に嬉しい)、ピイガはプラスチックの水筒(こんなんいくつあってもいいですからね)だった。ファルマンからは、サプライズ的な趣向で僕に物を与えてもいいことはひとつもないことをよく知っているので、ファルマンの口座から下りるように楽天で僕が注文したズボン(パンツといいたいところだが、楽天で「パンツ」で検索すると下着とズボンが本当に半々くらいで出てきて、ややこしいので、仕方なくズボンという)をもらった(ただしまだ届いていない)。
 37から38という数字に感慨はないが、それでも年齢をひとつ重ね、それを平穏に家族で祝えたことはもちろん喜ばしい。今がコロナ禍でなければ、かつてのように大勢でパーティーを催すところだけど、そんなこといってもしょうがないし、こうして不自由な時代になったからこそ、本当に大事なものがなんなのかに気づけたような気もする。
 あとこれは誕生日とは別に関係のないことなのだが、たぶん38歳の僕は37歳の僕よりも、ブログが多く書けるようになるのではないかな、と思っている。右手に希望、左手に余裕を持って生きてゆきたい。


 ピイガ作ポスター。
 6月の父の日、輪郭や髪形を四角く描かれて驚愕したが、今回はあごひげで再び驚かされた。ピイガってあんまり僕の顔を見ていないんじゃないかな。あるいは、やっぱり僕がいない時間帯、この家には別のパパが訪れているのではないかと思った。


 ポルガ作ポスター。書いていることのひとりよがりさが、ポルガの話そのもので、こいつは本当に相手にどう思われたいとかなくて、いつ何時も自分のしたいようにするのだな、ということをしみじみと思った。僕の似顔絵は悪くないが、ファルマンのそれには若干の悪意があるし、ピイガに至っては緑色のゴリラとして描かれている。おそろしい。

王ロバ

 王様の耳はロバの耳的なことを、これからいいたい。
 非公開モードや、裏アカウント、鍵アカウントでつぶやくことだってできるだろう。でもそれだと僕の心が充足しない。世の中に向けて、叫びたいのだ。叫ばずにはおれないのだ。しかしその内容は不穏である。本当はあまり口にしないほうがいい。そんなことは判っている。ただでさえ糾弾されやすい世の中である。心の内にしまっておけるものは、なるべくしまっておいたほうがいいに決まっている。でもそれが無理だから、こうして書こうとしている。
 裏アカウントだの鍵アカウントだのといったが、僕の場合、堂々と「papapokke」名義でやっているツイッターが、そんな設定ではないというのに、ごく限られた人の目にしか届かないという意味で、立派にその要件を満たしているともいえる。ビクビクするのは自意識過剰というもので、有名人ならばいえないようなことも、有名税ゼロの気楽さから、いくらでもいえばいいのだという気もする。しかし炎上などという派手な現象にならないにせよ、たったひとりの誰かの気に障り、その人に責められないとも限らない。つながることが主目的のツイッターでは、どうしたってその恐怖が拭いきれない。
 その点、ブログならば安心だ。だってブログだ。ブログ! 誰が読むねん! いま、ブログ、本当に誰も読まない。読むはずがない。だってブログだ。ブログて! ブログにしたって画像とかがあればまだしも、文字だけのブログなんて、本当に誰も読まない。僕も読まない。誰も読まないのに、書き手だけがむやみに存在している。そういう意味でいえば、ブログとはもはや純文学と同等の存在になりつつあるのかもしれない。
 だから、ここならば叫べる。誰も読まないにせよ、一応はワールドワイドウェブに開かれている。そのため王様の耳はロバの耳、ということを叫ぶのに、これが最も適したツールであると思う。
 前置きが長くなった。
 papapokkeのツイッターは、minneと繋げているため、別にそちらに仲間がいるわけでもないのだが、そういう意味でもいえないこと。とてもセンシティブで、光浦靖子とか、ヒルナンデスとか、実際に最近ちょっと取り沙汰されたりもするようなこと。
 すなわち――レジンを使った、中に絵具とかキラキラしたものとかを混ぜて固めた、ピアスだのヘアピンだのの小物雑貨って、あんなもんめっちゃ簡単にそれっぽく作れるだろ、ということだ。
 これは本当に大きな声でいったらダメなことで、あの人たちはこれをいわれるとすごく怒る。「型に流し込むだけじゃないんです!」「ハンドメイドをしたことがない人には分からない!」「哀しい!」などとすごく怒る。
 しかしどう好意的に見ても、やはりああいった創作物というのは、布雑貨よりも絶対に簡単に作れるのだと思う。布雑貨では絶対に出品できないような数を、あの陣営は繰り出す。それはつまり、けっこう作るのが簡単だってことだろう。思うに、設備さえ整えれば、ひとつひとつの作業時間は短いというか、けっこうざっくばらんな感じで、まとまった数を一気に作業することができるんだと思う。
 それで、別にその業界が盛り上がってなければ僕だってこんなことをわざわざいったりしないのだが、どうもminneを眺めたり、世の中のハンドメイドマーケット的なものを俯瞰するだに、レジン固めた系の小物雑貨というのは、ハンドメイド市場においてかなり活況なようで、それが悔しいがために、こうして恨み節を記している。
 なにぶん、女はキラキラしたものが好きだ。キラキラしていれば食いつく。レジン創作に対する理解のなさに加え、いま最もやったらいけない類の、「女って生きものは~」論調まで繰り出してしまったが、レジンのハンドメイド作品の、作る人と買う人の様を見、そしてまるで売れない自分のオリジナルキャラクター柄トートバッグの様を見るにつけ、どんどん気持ちは依怙地になる。
 その依怙地の発露として、このような記事を吐き出すこととなったわけだが、ここに僕の本音はひとつもなく、とっても悪い組織に命令されて仕方なくキーボードをブラインドタッチしたのだ、ということも、悪い組織の人たちが顔のすぐ近くで構えるピストルの恐怖に怯えながらも、せめてもの矜持として記しておく。
 いつかレジンを使った作品に挑戦してみようかと思います。

東京オリンピックがあった夏

 梅雨明け以来、ずっと晴れが続き、あまりにも暑い夏を過していた。 帰宅後のビールが異様に美味く、毎晩ぽーっとなるほどだった。強い渇望で飲む、異様に美味しいビールって、もう液体の範疇を越えていて、液体には溶け切らない量のなんかしらの成分が横溢しているために、もう若干固体のようだと思った。あるいはビールの味の評価として、喉越しということがよく言われるが、考えてみたら単なる液体であれば、喉越しがどうこうなるはずがなく、喉越しを作り出すのは、飲み手側の喉なのかもしれないとも思った。
 約1ヶ月間、日記を書かずにいた。あれよあれよという間に、1ヶ月が経っていた。
 このあれよあれよ中に、東京オリンピックがあった。相変わらずの新型コロナで、開催については直前、もとい開催中もずっと、果たしてどうなのかという意見が噴出していて、結果的にオリンピックを理由にした7月の4連休のせいで感染が爆発したりしているので、どうもこうもなく、感染状況的にはやらないほうが絶対的によかったんだろうが、でももうこれはしょうがなかったんだろうな、とも思う。別に政治家のことを擁護するわけでもないが、もうこれ以上オリンピックのことでぐじゃぐじゃしてても仕方ないので、そこからすべての日本人が解放されるためには、延期はもちろんのこと、中止でもしばらく火はくすぶり続けるので、「やってしまう」のが最適解だったんじゃないかと思う。むりやり潰さないほうがいいことは判っているが、それでも潰さないわけにはいかないニキビのように、オリンピックは早々に済ませてしまうしかなかった。感動もなにもない。単なる処理だ。
 感染は爆発したが、オリンピックが済んだ今(まだパラリンピックは残っているが、パラリンピックはオリンピックよりはるかに規模が小さいのだから、オリンピックをやった以上、開催の賛否などと意地悪なことに言及せず、粛々と行なえばいいと思う)、我々が憂うべき問題は感染の爆発だけになった、ともいえる。これまで我々は、他の国々と異なり、新型コロナウイルスとオリンピックの開催という、ふたつの悩みに同時に苛まれていた。思えばなんとつらい境遇であったか。それがオリンピックを済ませたことで片方の悩みがなくなり、ようやく人並みの状況に身を置けた。これからは、新型コロナウイルスのことでだけ悩めばいいのだ。オリンピックという重たい道着を脱いだことで、ようやくピッコロとまともに闘える。
 我々、だの、闘える、だのと書いたが、もちろんそんな全体主義的な志向があるわけではない。むしろその逆で、この日記を書かなかった1ヶ月は、それでも一応毎日、Twitterに漫画イラストを投稿していたのだが、思った以上に内省的な、自己について見つめ直す機会となったこの試みによって、僕は本当に誰とも仲良くなれなそうな人間だな、ということをしみじみと痛感することとなった。愉しそうであったり、盛り上がっていたり、好きなことに熱中したりしている人が、どうも僕は好きではないようで、そんなのあまりにも最低な人格だろうと冷静に考えたら思うのだけど、逆に、どういう思考回路をもってすれば、たとえば直近の例でいうならオリンピック選手とかになるのだけど、そういう人たちを応援することで自分たちも喜べる、みたいなことになれるのだろう。僕ももう37歳なので、大勢と異なることを誇る気持ちなんてとっくに摩耗している。そんなことを誇っても、現実世界でいいことなんてひとつもないと、既に知っている。それでも考え方は変えようがない。
 感情をなるべく消したい。他人のそれも見たくないし、自分も出したくない。たまたま同時代に居合わせた、同じ科の生きもの程度の、弱い結びつきだろう。そんなものをさらけ出せるほど、深い関係ではない。
 1ヶ月も日記を書かないでいると、調子が戻らない。今後はもう少し間を空けずに書く。

嵐とサウナとイカ

 夜中に嵐の音で目が覚めた。山陰を中心に線状降水帯的なものが発生したのだった。起きてニュースを見たら県内どころか市内においてかなりの被害状況で、わあとなったが、家の周りはとりあえず大丈夫だったし、子どもたちの小学校も休校などの連絡はまるで寄越さないので、なんとなくそんなものかと思った。そもそも山陰の人々は、「夜半の大嵐」というものに、慣れきってしまっているところがある。他の土地の人間ならば、「この世の終わりか?」と思ってしまうような轟音も家の揺れも、冬であれば日常茶飯事だ。だからこれは正常性バイアスのように見えて、山陽のそれとはまた別の、いわば諦観性バイアスみたいな作用なのかもしれないな、と思った。
 今日は労働が休みだった。休みになった、というわけではなく、もともとの休みだったわけで、僥倖、と思った。まだまだ不穏な気候情況とか、あるいは嵐の後片付けとか、そういうことを思えば、本日が休みであったことの、なんとラッキーなことか。やっぱりこういうときに、普段の行ないの良さというか、自分のことは二の次三の次にして、他人がどうすれば幸せになれるのかということばかり考えているから、こういうときに厄介事から回避できるのだよな、神様は見てごじゃるのだよな、としみじみと思った。
 しみじみと思ったので、さらなる幸福を堪能するべく、サウナへと繰り出した。不穏な気候情況などといいつつサウナ。なるほどこれが、災害が起こっているのにゴルフを続行する政治家の気持ちか、と思う。もっとも僕は政治家ではないので、なんの誹りを受ける謂れもない。ここ最近の日々で疲労が蓄積していたため、今日はサウナに行くのだということはあらかじめ心に固く決めていたのだ。
 行き先について、四季荘、ゆらり、湯ったり館と悩んだが(もっとも湯ったり館は水曜日が定休であるのに加え、雲南市にも避難指示が出ていたため、さすがに行くわけにはいかなかった)、「しっとりつるつる北山温泉」というのが、奇数日は男性がサウナの日だという情報を得て、じゃあ初めてのそこに行ってみるか、となった。そしてサウナが主目的なのはもちろんだが、肉体の内外両面のダメージのことを思えば、温泉の効用にも期待をしたかった。そのため「しっとりつるつる」を謳う、まるで化粧水のようなぬるぬるの泉質だというそれに魅力を感じたのだった。
 行った結果の感想としては、全体的にこじんまりとしていて、露天風呂も小さく、外気浴向けのスペースも意識されている様子はなく、微妙といえば微妙だった。ただし今日は前回の松江に較べ、なんてったって条件がよかった。雨交じりの風が吹けばほのかに涼しいというくらいの気候で過ごしやすかったし、僕自身も「癒されるんじゃい!」という強い意欲があったため、快楽の享受に前のめりだった。そのため、まあまあ心地好い時間を過すことができた。ぬるぬるという点については、泉質がアルカリ性ということで、前に化学工場に勤めたときに体験したけれど、アルカリ性のものってたんぱく質を溶かすので、指で触ると指の表面が溶けて、それでぬるぬるするわけで、つまりアルカリ性の泉質でつるつるって、皮膚が溶けてるだけのことなんじゃねえの、ということを、お湯に浸かってから思ったけど、まあ深くは考えまい、ぬるぬるの化粧水のようなお湯でお肌つるつるですよ、そうですよ、プラシーボですよ、こんなこと考えてる時点でぜんぜんプラシーボ効果ないですよ、などと心の中でひとりごちた。
 帰りにスーパーに寄り、最近スーパーでは近海で獲れたイカが多く並んでいて、「刺身用」などというシールが貼られていて、こんなん刺身で食べたらめっちゃうまいんだろうなあ、でもイカって捌いたことないんだよなあ、でも今度の休みの日に一念発起してやってみようかな、イカの刺身めっちゃ食べたいな、と切望していたイカを、買う気満々だったのだが、本当に近海で夜に獲ったものが数時間後に地元のスーパーに並んでいたんだな、ということを実感させる出来事として、昨晩の大嵐で船が出ているはずもなく、イカの姿は売り場に一切なくて、涙を飲んだ。そして夕飯はお好み焼きになった。

父の日とフリードとトートバッグの再出品

 父の日だが労働だった。出勤前、今日が父の日であるということは意識していなかった。前日に意識していたら、夕飯の席などで、娘たちに「明日は何の日だったっけなー」みたいな発破を、かけずにはおれない性格なので、かけていただろう。しかし出勤してからそのことを意識し始めたため、もしかしたら今日が父の日であるということは、わが家において完全にスルーされるのではないか、という危惧を抱いた。おそるおそる帰宅したら、リビングの壁にこんなものが貼り付けられていた。


 ピイガの手によるものだという。嬉しい。嬉しいが、似顔絵、と思う。最初これが僕の似顔絵だとはどうしても思えず、もしやこの家には、僕の不在時に現れる別のパパが存在するのではないかとさえ思った。だって、僕はこれまでの人生で、顔を四角く表現されたことはいちどもないのだ。どこまでも丸顔なのだ。輪郭はもちろんのこと、これでは髪だって角刈りじゃないか。どちらかといえばマッシュ的な髪型を、僕は人生の大半でしている。それだのになぜだ。なぜこんなに現実を歪曲して、上も下も四角く表したのか。本当に不可解だ。あまりにも衝撃的だったので、わざわざこうして写真に撮ってブログに残すことにした。
 この壁の装飾のほか、手作りのみかんゼリーが用意されていた。みかんジュースと、果肉と、ゼラチンで構成された、みかんゼリーであった。そんな父の日。
 日中に、オリジナル生地作成の会社から、再び発注したヒットくん柄の生地が届いていたので、夜はそれの裁断作業をした。最初に作った3点があっという間になくなってしまったので、再販するのである。反応がいいと作りがいがあるなあと思った。
 翌日の今日は、休日で、そしてフリードの納車日なのだった。受け取りは昼前だったのだが、ファルマンとふたりで車を引き取りに行くにあたり、その帰りは、僕がフリードに乗って帰るわけで、ファルマンはひとりでMRワゴンを運転しなければならず、なにぶん保険の開始日を本日からにしていたため、これまでファルマンはMRワゴンを一度も運転したことがなく、それはあまりにも危ないだろうということで、引き取りの時間まで運転の練習目的のドライブをすることにした。僕は、誰かの運転するMRワゴンの助手席に乗ったのが初めてだったので、なんだか新鮮な気持ちだった。ファルマンの運転は、保険の運転者登録が無制限の義母の車で既に体験はしていたのだが、相変わらず実に初々しい、こわばった、肩の凝りそうな運転で、緊張感がみなぎっていた。その運転でガソリンスタンドや手芸屋に行き、なんとかある程度慣らす。
 そのままディーラーに赴き、納車はつつがなく終了した。最後に、そのとき店にいた社員の方々と向き合い、自己紹介のような、今後ともよろしく的な、セレモニーなのかなんなのか分からない、素人の内気な日本人しかいないのにこういう場を持とうとするとこういうことになる、みたいな不思議な時間もあったが、無事に済んでよかった。無事といえば、こうして当日にブログを書いていることからも察せられるように、ディーラーから自宅まで、ファルマンの初めてのひとり運転も、問題なく完遂されたのだった。よかったよかった。
 帰宅後は新車の世話をいそいそと、ということはなく、トートバッグ作りに邁進する。やがて子どもたちが帰ってきたので、家族で新車でお出掛けということをする。出雲大社という案もあったが、必要なものがあったのでショッピングセンターに行くことにした。途中でガソリンスタンドにも寄り、ガソリンを入れる。これまで3000円ほどだったのが、満タンにするのに5000円ほども掛かった。これが普通車か。道中でファルマンにブルートゥースの設定などをしてもらい、スマホの中の音楽が車で掛かるようになった。ハイテクだな。ただし掛かった曲は相変わらず「木綿のハンカチーフ」とかなのだけど。ショッピングセンターでは、子どもたちの買い物のほか、車用のゴミ箱なんかを買った。
 その帰りに、実家にも立ち寄る。ファルマンの免許の取得や、新車の購入に関して、かなりの世話になったので、新車であいさつをしにいかないわけにはいかない。なにぶん6人乗りの3列シートなので、義両親も乗せて、6人で近所をひと回りする。3列シートで、中はだいぶ悠々としているのに、外観はそこまで大掛かりじゃなく、やっぱり「ちょうどいい」なあと思う。どうしてもこのフレーズが口からついて出る。義父からは洗車についていろいろ言われた。まあMRワゴンよりは、新車ということもあるし、僕としても大事に扱いたい気持ちがやぶさかではないのだが、とは言え義父の求めている熱情とはだいぶ温度差がありそうだな、と思う。それなりの頻度での洗車機利用で、なんとか煙に巻きたいと思う。手洗いもなあ、やったら気持ちいい気もするのだけど、どうしてもイメージがなあ。「休みの日に洗車をする」という、その行為がなあ、と思う。
 帰宅後は夕飯をちゃちゃっと食べて、そしてトートバッグを完成させる。4つ作り、そのうちのひとつは自宅用。販売ページの写真にあまり満足いっていないのと、やはりインスタグラムへの色気があり、外出の際ファルマンにバッグを持ってもらって、映えるポイントで写真を撮ろうという魂胆があり、そのためひとつは売らないことにした。というわけで再出品の数は、わずか3点となっている。少ない! 需要に対して、あまりにも供給が少ない! なめてんのか! こんなの、またあっという間に売り切れるに決まってるじゃないか! 買いたい人は、本当に急ぐしかないじゃないか! もう、しょうがないなあ! 急いでください!

ファルマンの免許取得と、その送迎のために過した松江の半日

 ファルマンの自動車教習所は、先日無事に修了したのだった。通い始めたのが4月の下旬なので、1ヶ月半ほどで卒業したこととなる。その事実だけ取れば「順調」という言葉を使いたくもなるが、果たしてそうだろうか。期間が短かったのは、平日に3時間も4時間も、怒涛の勢いで講習を受けたからだし、実地でいちども再講習がなかったのは、どうも本人からの報告を伝え聞くに、「他の地域で免許が取れなかった人は島根に行け」という、まことしやかな逸話が指し示す、島根(スサノオ)マジックがあったのではないかと思う。実際、卒業試験でウインカーを逆に出すという、先生この人とうとう右と左の区別が身につきませんでしたよ、こんな人を外の世界に放り出してしまっていいんですか、と問い詰めたくなる事例があったようだが、それでも合格だったのだ。もっとも交通ルールなんてものは、右に曲がるときに左のウインカーを出すというのは論外だとしても、流動的な部分が多くあり、そういうのは現実世界の道路で学んでいくしかないので、まあそんなもんか、とも思う。
 それで、僕の仕事が休みだった今日、ファルマンを県の免許センターまで送るということをした。第1次島根移住の際には免許の更新がなかったので、島根県のその施設に行くのは初めてで、神奈川でも岡山でもそうであったように、やはりそれは辺鄙な場所にあった。日本で唯一県庁所在地に原発のある島根県なのだから、免許センターくらいもっと便利な場所にあってもいいのではないかとも思ったが、よく考えてみたら、宍道湖の北側のほとりの真ん中らへんというのは、松江市の人にとっても出雲市の人にとっても、同じくらい不便で便利な、とても配慮された場所なのかもしれなかった。
 学科試験から、それに合格したら受ける講習、そして免許証の交付まで、朝から15時ごろまでの一日コースということで、子どもたちが学校に向けて出発するのを見送ったあと、すぐにわれわれも出掛ける。朝ごはんは途中のコンビニで買い、車内で食べた。夫婦でのこんなお出掛けなんて、すさまじく久しぶりか、あるいは初めてのような気がする。免許センターに自分の車で行けないのは、極度のペーパードライバーというパターンはあるにせよ、理屈的には免許取得のときだけだし、なによりこれよりファルマンは免許を持つのだから、こんなふうな送迎なんて今後はしなくなるのだな、ということを思った。
 8時半から9時半までに着けばいい免許センターへ、9時にファルマンを降ろしたあとは、迎えの15時まで自由時間で、この間をどう過すか、ここ数日は思いを巡らせていた。いちど家に帰るという選択肢もないことはなかったが、家から免許センターまでは小一時間かかるので、2往復するのには抵抗感があったし、なにより住所的にはここはもう松江市で、市街地までも20分弱という位置なので、それじゃあまあ松江で過すだろう、という結論に至っていた。
 はじめに浮かんだのはやはりサウナで、免許センターからの近さで検索したところ、「鹿島 多久の湯」というのが見つかり、それはまさに原子力発電所のほう、免許センターから北、すなわち日本海側に車で15分ほど進んだところにあって、なかなか評判もよさそうだし、なにより妻の免許取得のために6時間ほど待機時間があるような状況でなければ、なかなか行くことはないだろう位置のため、これは千載一遇のチャンスだと思った。それで、いやあいいスポットがあったもんだと安心していたのだが、おとといの晩になり、しかし9時にファルマンを降ろしたあと、15分後にそこへ行ってもまだ開いていないんじゃないか、10時とか、10時半からなんじゃないか、と不安になって改めてホームページを確認したら、開館時間どころの話ではなく木曜日は休館という表記を見つけ、行く前に気づいたのはなによりだったが、一気に6時間の過し方計画が暗礁に乗り上げてしまった。仕方ないので、平田のほうに戻って「ゆらり」(宍道湖の左上らへん)か、あるいは斐川のほうへ回って「四季荘」(宍道湖の左下らへん)か、とも思ったが、どうも来た道を戻るのもなあ、と気が進まないでいたところへ、今回の送迎をどこか申し訳なく思っているらしいファルマンから、玉造温泉はどうかという提案を受ける。見ると「ゆ~ゆ」という気の抜けた名称の施設に、サウナがあるようだ。位置は宍道湖の右下らへん。玉造温泉という名前はよく耳にするし、じゃあまあせっかくの機会だからそこへ行っときますか、という結論に至った。免許センターからは車で20分あまり。
 とはいえ、「ゆ~ゆ」の開館は10時からだし、サウナで5時間過せるはずもないので、まずは9時から開いている施設として、松江の中心部を少し通り過ぎて、松江イオンショッピングセンターへと立ち寄る。近くて遠い松江の街は、たぶんピイガの七五三の、写真撮影の時以来だ。いつかと確認したら、2017年11月のこと。時の流れってちょっと早すぎないか。イオン松江にはなんの用件があったかといえば、手芸の資材を買いたかった。噂では「手芸の丸十」が、かつてあったショッピングセンターからこちらに移ったとのことだったのだけど、店内の地図を見ても見つからなかったし、そもそも専門店は10時にならないと開かないだろうと思いあきらめ、イオンの運営するパンドラハウスで購入した。本当にパンドラハウスもあるのに「手芸の丸十」が移転したのだろうか。ちなみに前回、かつて松江にあったショッピングセンター内の「手芸の丸十」に行ったのは、確認したところ2013年8月のことだった。読むと、胎の中のピイガのためにダブルガーゼなどを買っている。そしてこのときのダブルガーゼの余り布が、2020年に布マスクとして活用される……。松江は斯様に滅多に来ないので、わざわざ来た日のことが、定点のように刻まれるものだな。そう考えると、ファルマンの免許のために僕が5時間あまり松江でひとりで過した今日のことも、いつか「松江のあの日」として思い出されるのかもしれない。そんな感慨もあり、まだ途中だが、僕は今日のことをこうして精細に書き記そうとしているのかもしれない。
 買い物を終えて、そこから「ゆ~ゆ」に向かえば、開館の10時にはちょうどいいくらいの時間にはなったが、とはいえ10時からサウナに入り、どんなにがんばったって正午までいられるとも思えず、そのあとの時間をどうするという問題は解決していない。そこで、うすうす目論んでいたことだが、ひとりカラオケをすることにした。先日すでにひとりカラオケバージンは喪失していたため、なじみのない街でも気軽にそんなことができるようになった。それでスマートフォンで近くの店を検索したところ、さすがは県庁所在地の市街地、本当にすぐ近くにあった。受付を済ませて案内された部屋は、これもまたさすがは県庁所在地の市街地というべきなのか、かなり狭かった。ひとりなのでなんの問題もなかったが、久しぶりにこういう狭い部屋を見た。あと片側の壁が思いっきり道路に面した窓になっていて、これがすりガラスでもなんでもないので、入室してすぐに「わあっ」と慌ててロールカーテンを降ろしたのだけど、そのあと、それも自意識過剰だな、と思い直し、再び上げて、外光を浴びながら唄うことにした。2階だったので、外の道路を行き交う車や人は、現実的な大きさで目に入ったが、あっちはこちらのことなんか見ていないし、当人の僕は少し意識せずにはいられないけど、それを抱えながら唄うのもまた愉しいかもしれないと思った。これが、どこかのなにかのように、マジックミラーだったらもっとおもしろいのになー、などとも思った。唄ったのは前のひとりカラオケと同じ1時間半。夏が近づいているからか、桜田淳子や伊藤咲子など、阿久悠のアイドルソングなどを多く唄った。意図したわけではなかったが、そこらへんの歌のカラオケビデオには、やけに水着の女の子が登場し、幸福な気持ちになった。それを眺めていて、「あれ? たしかカラオケビデオに、グラビアとかが表示されるエロ機能ってあったんじゃなかったっけ?」ということを思い出し、家族と来ていたら絶対に使えないその機能は、ひとりカラオケの今こそ使うべきじゃないかと考え、リモコンの項目をあちこち探してみたが、そのような表示を見つけることはできず、あきらめた。いま調べてみたところ、そのような機能があるのはJOY SOUNDで、今日僕が使ったDAMにはないようである。今度のひとりカラオケはぜひJOY SOUNDにしようと思った。最後にカーペンターズの「Top of the world」で締めた。
 カラオケを終えて、時刻は11時半過ぎ。いよいよいい時間になってきたので、宍道湖の右横のところをぐるりと回り、玉造温泉を目指す。しかしサウナに入る前に昼ごはんを済ませておくべきだよなー、どうしようかなー、と思いを馳せていたところへ、ちょうど「はま寿司」の表示を見かけたので、渡りに船とばかりに入店する。そしてパッパッパと5皿ほど食べ、すぐに退店した。湯に浸かりに行く前に軽くつまむ。なんと江戸っ子な寿司屋の使い方だろうか。粋か。それにしたってひとりというものの身軽なこと。
 そして満を持しての玉造温泉。先日の「四季荘」と一緒で、「ゆ~ゆ」はそのうちの施設のひとつで、一帯が温泉街になっていて、ホテルや旅館がいくつも立ち並んでいた。予想外だったのは、「ゆ~ゆ」の浴場がビルの5階にあったことだ。世の中、実際に行ってみないと分からないこと、知れないことが多いな、としみじみ思う。実体験は軽々と想像を超える。あるいは、想像は現実よりもあまりに脆弱なのかもしれない。それで入浴の感想はどうだったかといえば、そもそも今日ここへ来たのは「鹿島 多久の湯」の代替だし、水風呂がないという情報も前もって知っていたが、それにしたって少し残念だった。もっとも施設そのものの魅力の乏しさもさることながら、今日はあまりにも暑すぎたのだ。水風呂がないのは、僕は水風呂よりも外気浴に価値を置くタイプなので別に構わないのだが、ビルの5階というのも悪いほうに作用したか、あまりの熱射にとてもリラックスどころではなく、サウナを出て、冷たくしたシャワーを浴びて、外に出るのだが、外もまたサウナのごとく、じりじりと汗が噴き出るようなありさまで、浴場内にいる間、ただひたすらに暑さにうだっていた。陽射しも暑く、湯も熱く、座ったり寝そべったりできる地面も熱い。考えてみたら、入っていたのがちょうど0時台だったこともあり、日陰もぜんぜんなかった。だからもう、ただ暑かった。普段の労働で、外での作業や、熱の近くの作業のとき、つらいなあ、体力が奪われるなあ、などと感じるのに、なぜ俺はいま休日に金を払ってそれをしているのか、というサウナに対する根源的な疑問まで生じた。要するに、もうサウナはオフシーズンに入ったのだと思う。外気浴で、少しひんやりした風が、陰嚢とかを撫ぜるのがサウナの醍醐味だろう。日が落ちたあとならば話は違うのかもしれないが、近ごろの僕はもっぱら平日の昼間サウナ―なので、暑い間は行くべきじゃないようだ。そのことを思い知った「ゆ~ゆ」だった。
 サウナを終えたあとは免許センターへ、かと思いきや、実はあともう1ヶ所、目的地があった。この目的地があるからこそ、「四季荘」とかに行くわけにはいかなかったのだともいえる。それは宍道湖の右のあたりにある、ディオというスーパーである。大黒天物産という会社が運営するディオは、岡山発のディスカウントスーパーで、ディオ、ラ・ムー、チャチャ、名称はなんでもいいのだが、とにかく倉敷時代にはたびたび利用していた。中には安すぎておそろしい商品もあるのだが、ディオにしかない魅力的な商品というのもわりとあり、ところが近所には系列店がないため、倉敷から持ってきたそういうものが、この半年ほどで枯渇しはじめ、もの哀しく感じていた。そんなディオが、松江にはあるのだ。松江までは進出しているのだ。じゃあこっちにも来いよ、と願わずにはおれないが、とりあえず今はまだないので、今回こうして松江に来る機会を得て、必ず立ち寄ろうと決めていた。ともすれば今回の松江の主目的でさえあったかもしれない。というわけで存分に買い物をした。目的のものは、あるものもあったし、なかったものもあった。まあまあの収獲といえた。店内のPOPみたいなものは全店共通のようで、倉敷時代に目にしていたものそのままで、そういう意味で感慨深かった。
 ファルマンからは途中で試験合格の連絡が入っていた。不合格ならば午前で帰宅なので、この時間に迎えに行くということはもちろんそういうことだ。落ちたらふたたび休みの日に送迎しなければならないので、一発で受かってもらわなければならなかった。もっとも日々のファルマンの学習風景を見ていたら、まさか落ちるはずもないだろうと思っていた。この人は結局まじめで敬虔なのだよな、ということを改めて思った。従順というとニュアンスが異なる。宗教ではないけれど、目の前のことにきちんとまじめに取り組む人のことを、僕は敬虔といいたくなる。そして僕にはそれが欠けている。
 2時45分に迎えにいくという段取りになっていて、僕がセンターに着いたのは2時43分だった。双方待つことなく、玄関で出てきたファルマンを拾うことができた。すばらしい時間配分。思えば手芸用品を買い、ひとりカラオケをして、寿司を喰って、サウナへ行って、お気に入りのスーパーで買い物をして、とても見事に立ち回った半日だった。「見て見て」といって見せてきたファルマンの免許証は、証明写真が、「電波少年」の収録かよ、というくらいに、背景の青色と、着ていた青いブラウスの色が同化していて、顔だけ浮かんでいるようでおもしろかった。

半月ぶり

 友達があまりにもいなさすぎる。レベチであたおかな度合で友達がいない。本来ならば友達がいないという話は、「僕らは瞳を輝かせ、沢山の話をした」に書くべきなのだけど、もう僕の世界には友達がいないということが通底してしまっているため、これはもはや「友達がいない」というテーマの話ではないのだ。日常の話なのだ。
 通底と書いたが、通底だと、うっすらと全体的にそれがはびこっているかのようなニュアンスに感じられる。2センチくらい、ジャバジャバと水が浸っているな、というくらい。しかし僕の友達がいなさは、もはやぜんぜんそんなレベルではないのだ。天井に顔を向けなければ口が水面から出ないような、そういうレベルで、「友達がいない水」はこの客室に充満している。もはや船自体の転覆も時間の問題だし、さらにいえば僕は室内の配管に手錠で括り付けられて身動きが取れない状態だ。遠くから僕の名を呼ぶローズの声が聞こえてこないかと耳を澄ますが、澄ませば澄ますほど、蛙の鳴き声しか聞こえない。蛙は本当にずっと鳴いている。先日娘らと近所の散歩をしていたら、田んぼには無数のおたまじゃくしが泳いでいた。田んぼに水が張られ、地中から目覚め、鳴き、出逢い、交尾し、産卵し、受精し、無事に生まれたか。営んでいるな、と思う。なんとまっとうに営んでいるのか、蛙。
 やけに日記を書かずにいた。なんと半月くらい書かずにいた。あー、書かずにおれてしまうな、と思った。日記を書かなくなったらいよいよおしまいだろうという気持ちと、日記なんか書いたってしょうがないだろうという気持ちが、僕という競技場の中で単行本67巻にしてようやく因縁の対決を迎え、見事なまでの相打ちを遂げた結果としてフィールド上にはなにも残らず、そこには無だけが在った。そして半月の沈黙が生まれた。
 それで半月の間はなにをしていたのかといえば、やけに友達と遊んでいた。友達からの誘いというのは、やけに時期が集中するもので、それぞれの友達たちはぜんぜん違う集団なので、共謀しているはずはないのに、そうとしか思えないほど重なるのだった。もっともこれは人間行動学的には説明がつくのだろう。気候とか、情勢とかで、友達と遊びたくなる衝動に駆られるタイミングというのは、集団が違おうがなんだろうが、共通するのだと思う。いわばそれは精神的な意味で、田んぼに水が張られるようなもので、それをきっかけに我々は目を覚まし、活動したくなる。しかし僕は配管に手錠で括り付けられているため、水が張られても地上に這い出ることができず、水底に沈んで溺れ死ぬしかない。だから友達とは遊べない。遊んでいたといったのは嘘だ。嘘をついて本当に申し訳ないと思っている。なにしろそもそも僕には友達がいないのだ。レベチで、あたおかな度合で、友達がいない。

ヒトカラ裁縫公園

 平日の休みを堪能する。またこのブログが休日日記の様相を呈している。「暮し」をテーマにしたブログは、どうしたってそうなる傾向がある。
 平日なので子どもたちは当然学校で、これまでだとファルマンはいて、仕事だったり仕事がなかったりして、ない場合はふたりで買い物に行ったりしていたわけだけど、ファルマンは目下教習所通いで、毎日3時間から、多い日では昼を挟んで5時間も教習を受けており、この日も5時間コースとのことで、つまり午後3時くらいまで完全にひとりでフリーという状態になった。それでいつもならサウナということになるのだが、今日は裁縫でしたいことがあったので止すことにして、10時の開店に合わせて手芸屋に行った。そして必要なものを買い込んだ。
 その帰りに、なんとなく気が向いて、ひとりでカラオケに行くことにした。実は珍しく連休で、翌日も休みだったため、心に余裕があった。そして翌日はファルマンの教習所が午前のみということで、ならばこんなにひとり自由なのは今日だけだ、これはヒトカラをする千載一遇のチャンスだ、と思ったのだった。というわけで生まれて初めてのヒトカラ体験をした。ヒトカラは、ファルマンから話で聞いていたけれど、休んだり選曲に悩んだりする時間がなくて、慌ただしかった。急な思いつきで来たため、今度カラオケに行ったら唄おうと思っていた数曲以外はその場で考えなければならず、結果としてその点に多少の忸怩たる思いを抱いた。今度またやることがあったら、ソロライブでもやるんか、というくらい本当に計画的に曲をセレクトしていこうと思った。唄ったのは、ちあきなおみの「喝采」に始まり、武田鉄矢の「少年期」や「雲がゆくのは」、フォーリーブス「ブルドッグ」、山口百恵「乙女座宮」、平井堅「君の好きなとこ」、Kiroro「未来へ」、チェッカーズ「ギザギザハートの子守歌」、桜田淳子「20才になれば」、中島みゆき「命の別名」など。またどうしても唄いたかった3曲として、最近はまっているカーペンターズの「Top of the world」、「Yesterday once more」、そして古田喜昭「パーマンはそこにいる」も唄った。前者のふたつは、やっぱり英語を流暢に唄うのは難しく、これはヒトカラで引き続き練習していかんとなあと、いつ家族以外の他人に披露する機会があるのか分からないが思った。後者のそれは、少し前に借りたFのアニメソングCDに収録されていたものを聴いて、サビの部分は知っていたけど、この歌ってこんなにいい歌だったのかと感動し、ぜひ唄おうと思っていたのだった。これは本当にいい歌。聴くたびにほれぼれする。唄ってももちろん気持ちよかった。ただし画面に表示される歌詞によって、自分が1ヶ所勘違いしていたことを知ってしまった。CDで聴くだけだから分からなかった。「実は欠陥スーパーマン」というのが正しい歌詞なのだが、僕はこれを「実は結果スーパーマン」だとずっと思っていた。スーがスーッと消えて、結果としてパーマンだから、「結果」だと思っていた。まさか「欠陥」とは。もっともこの表現はなかなか昭和的なんじゃないか、とも思う。現代はあまり、人格のあるものに対して欠陥という言い回しは使わないんじゃないかと思った。そんな初めてのヒトカラだった。1時間半で、500円程度。なるほどいいもんだな。
 そのあとは帰宅して、ファルマンの教習が終わるまでの時間で、裁縫。母の知り合いに依頼された合唱用マスクを作る。母に10枚ほど作って送ったものを、母が周囲に配ったおかげで、追加の注文が来たのだった。しかし布マスクも、合唱団も、ワクチンも、緊急事態宣言も、東京オリンピックも、なんだかもういろいろ混沌としているな、としみじみ思う。
 終わりの時間めがけて教習所まで迎えに行き、帰宅後はまた次の裁縫作業。やがて子どもたちも帰ってきた。裁縫をしつつ、晩ごはんの支度をする。晩ごはんは、前日に子どもたちにリクエストを訊ね、するとピイガはいつも「うどん!」と答えるので、「晩ごはんにうどんはちょっと……」となるのだけど、雨で少し肌寒かったので、今日は本当に肉たっぷりのうどんを作り、あと炊き込みごはんや、出来合いのごぼうサラダなどで献立とした。おいしかった。
 翌日の今日は、ファルマンが昼に帰ってくるので、遊びに出たりせず、粛々と裁縫に没頭した。おかげでまあまあ進む。これは近日中に「nw」にアップできるだろうと思う。
 夕方に子どもたちが帰ってきたところで、みんなで公園に行った。最近は土日に子どもたちと遊べず、微妙に後ろめたさがあるので、こうして子どもたちが疲れても問題ない金曜日の夕方に積極的に連れ出すようにしている。週末は(あくまで島根レベルで)賑わう大きな公園なのだが、平日の夕方は貸し切り状態で、遊びやすかった。このご時世における公園の貸し切りのなにがいいって、マスクが外せることだ。僕も気合を入れてトレーニングウエアに着替えて行ったので、子らとともにアスレチックを愉しんだ。ジャングルジムに登ったり、縄でネットになっている斜面を移動したりして、まだまだ体は快活に動くな、と確認した。
 帰宅して、晩ごはんは手羽中の唐揚げ。昨日から調味料に漬け込んでおいたため、味はしっかり浸みているし、調理も簡単で、実に計画的なのだった。片栗粉をたくさんまぶし、好みのゴリゴリとした具合に仕上げる。やっぱりひと晩漬け込むと格別においしい。家族から大好評を得たので気分がよかった。

休日つらつら

 山陰で暮していて、しみじみと、やっぱりこちらは山陽よりも寒い土地なのだなと思う。もうネーミングが全てを表していて、いうまでもない自明の理なのだけど、実感として思った。三寒四温という言葉は、3日寒いと4日暖かくて、そんなことを繰り返しながら冬はだんだん春へと移行していく、という意味だけど、山陽のそれは二寒五温くらいのものだったけど、山陰は五・五(5,5)寒一・五(1,5)温くらいの感じだと思う。そもそも5月にもなって三寒四温という言葉に思いを馳せることが、山陽時代にはなかった。山陰ビギナー(ご無沙汰過ぎて山陰処女膜が復活した)のわが家は、その一・五温の日に、これからは暖かくなっていく一方だと早とちりして、毛布を仕舞ったり衣替えをしたりしてしまい、夜半になって慌てて押し入れから取り出したりした。もっともこれでも近代的な賃貸住宅に住むわが家はマシなほうらしく、実家に顔を出して帰ってきたファルマンは、「実家はまた一段と寒い」という。実際、本当につい先日までコタツが出ていたらしい。なんとなく、石川県や新潟県より左の地域は、あまり寒さを声高に叫べない雰囲気、いわば寒さマウントのようなものがこの国にはあって、たしかに北陸よりも右の地域に較べれば、山陰の寒さというのはいくらか緩いのだろうが、だけどなんていうか、この喩えがいいのかどうか分からないが、生活保護を申請できるほどではないけど、でもかなり深刻な貧困だ、というような、リアルなひもじい寒さがこの地域にはある。
 それでも季節は巡る。GWを境に、あちこちの田んぼに水が張られた。以前にも書いたが、水を張った、苗を植える前の、長くても1週間もないこの状態が、とても好きだ。昨年の稲刈り後、何ヶ月もただの荒地のようになっていた場所が、ある日突然大きくて四角い池になる。大袈裟にいうと、陸だった場所が、急に海になるのだといってもいい。米作りという、どこまでも日本人の生活に根差した現実的な行為でありながら、やけにファンタジックだと思う。
 そして田んぼに水が張られると、どこから湧くのか、というくらい間髪入れずに、蛙の合唱が始まる。これが本当にすさまじい。水が張られて以降、この街には絶えず蛙のゲコゲコゲコゲコゲコゲコが響き続けている。主張をしたいのは分かるが、そんなあまりに一斉に鳴いたら、互いに相殺されて意味がないだろう、もうちょっと駆け引きというものをしたらどうなんだ、と思う。そして、そんな猛アピールをした結果、めでたく受精と相成った場合、やがてオタマジャクシが誕生するわけで、なんか蛙って、性そのものだ。都会の夜の繁華街の性の乱れなんて目じゃない。この性の横溢はどうだろうか。
 そんなことを思いながら、昨晩は休みの前夜だったので、ひとり夜更かしをした。チーズカレーヌードルを啜りながらロングのストロング缶を飲むという、ただただジャンクな晩酌をした。アルコールについての印象は、タイミングによってさまざまに変化し、なんとなくこの夜は、酒は酩酊するために飲むもんだよ、夕飯時にビールを1缶なんてのはまったくの無意味で、飲むんだったら強いのをちゃんとした量飲んで、きちんと酔っぱらわなきゃしょうがないよ、という気分だった。ひとりで短時間でストロング缶を干すと、それなりに酔いが回り、ちゃんといい気持ちになった。寝床に行くと、相変わらず寝つきの悪いファルマンはまだ起きていた。いい気持ちになっている僕は、「明日ふたりでカラオケ行こうよ!」といってすぐに寝た。
 翌日の、すなわち今日はゆっくり起きて、ゆったりと午前中を過した。ファルマンは午前中に仕事があった。昼前にそれが終わり、早めの昼ごはんを食べてから、子どもたちが帰ってくる夕方まで、さてどうしようか、ということになった。本当にカラオケに行こうかとも思ったが、やはり酔っていたときほどの乗り気はなくて、また今度ということになった。代わりに、近所のディーラーに車を見に行った。ファルマンが免許を取るので、いま僕が乗っているMRワゴンを主にファルマン用とし、僕用に普通車を買うという計画があるのだ。それはここでの暮しにおいてどうしたって必要なことで、そもそもそのためにファルマンは教習所に通っているわけなのだけど、普通車という大きな出費に思いを馳せるにつけ、また軽自動車のようなかわいげがない普通車の選択肢にテンションが上がらないにつけ、これまでなんとなく気乗りせず、ファルマンを怒らせたりしていたのだけど、先日ようやく候補のひとつを見に行ったら、大きくて新しい車は存外いいもんだと改心し、やっと気持ちが入ったのだった。それで今日は別の候補を見に行った。しかし今日見たのはあまりよくなかった。実物を見る前は、自分の中で今日見に行ったもののほうが有力だったのだけど、実際に中に入って体感したら、先日のもののほうがよかった。見る順番を逆にしなくてよかった。先にこちらを見に来ていたら、車選びそのものにやはりテンションが下がっていたことだろう。まあ高い買い物なので、これで決定というわけにはいかない。気長に選ぼう、といいたいところだが、ファルマンという人間は気長ではないからなあ。
 子どもたちが帰ってくる前に帰宅。夕飯に茄子の揚げ浸しを作ったら、そのおいしさに感動した。油を吸った茄子のうまさときたらどうだ。思わずビールを1缶飲んだ。

休日

 平日の休日。GWの鬱憤を晴らすために全力を注いだ。
 朝はまず寝坊をした。登校の子どもたちが既にいないのはもちろん、ファルマンも教習所の迎えのバスの待ち合わせ場所にいまから出発するというところで、「もう行くから洗濯物を干しといてね」という感じで起こされた。昨晩は昨晩で夜更かしを堪能したが、それでもたっぷりの睡眠時間だった。なんか、豪華客船に乗った夢を見たな。
 ファルマンを送ったあと、朝ごはんを食べて、洗濯物を干す。ついでにずっと気になっていた食器棚の扉の緩みであるとか、居間に置いてある戸棚の整理など、「実際にやったらすぐにできるのだけど、労働の続いている日々ではどうもする気が起きず、やってみたら意外とコスパよく爽快感がある作業」なんかもしてしまう。気持ちいい。休日は尊い。
 洗い物まで済ませたところで、僕も家を出る。どこへ行ったか。もちろんサウナである。今回の目的地は、「湯ったり館」でも「ゆらり」でもなく、「四季荘」。これまでまったく認識していなかった場所で、なんてったって普通の旅館なのだが、このたびここへ、やけに本格的なサウナゾーンができたという情報を得て、その評判を見るにつけ、行かずにおられるか、となって行くことにした。情報を見ると、オープンしたのはGWに間に合わせたのだろう4月26日とのことで、本当にできてすぐである。なにしろまだ1セット分しか施設ができていないとのことで、男女が日替わりで利用する形なのだ。幸い、2分の1の確率で、今日は男性が利用できる日であり、ますます行かずにはおられなかった。
 旅館は、ずいぶんな山の中にあった。温泉を謳う看板は道中にもたくさんあり、いわゆる日本三大美人の湯のひとつとして知られる湯の川温泉のエリアなのだった。そういう、温泉で名高いところが、サウナにも本気を出すというのが、いい。ありがたい話である。フロントの券売機でサウナ付き入浴券を買って入場。ちなみにお値段は900円。なかなかいい値段を取るな、と入る前は思う。入ったあとは思わない。入ってまずある浴場と露天風呂は、普通だ。普通といったって、湯の川温泉の旅館である。ちょっと僕は驕っているのではないか。露天風呂から見える景色は、ひたすら森と空である。普通じゃないだろう。しかし今日の主目的はあくまでサウナである。体を洗ったあとは、バンドを付けた人しか入れないサウナゾーンにすぐ入った。入るとそこにはゆとりのあるスペースに、外気浴のための椅子が5つ並んでいた。椅子というと、あんな椅子を思い浮かべるかもしれない。あんな椅子ではない。なんか、いい感じの、リラックスチェアーのやつだ。そして噂の、水深160センチという水風呂も奥に見える。見える景色はもちろん森と空。そんな空間だった。そんな空間が、無人でそこにあった。無人! 平日の、開館時間直後とはいえ、ここが無人! これって大富豪とかがプライベートで実現するやつなんじゃねえの、と打ち震えながら、まずはとにかくサウナ室に入ることにした。サウナ室は、やはりできたばかりのため清潔で、なにより今般のサウナブームの流れで作られた、今般のサウナだな、という印象を抱いた。座る場所には仕切りがあり、周囲にいる人が気にならず、サウナに集中できる。さらには会話防止の狙いもあるのかもしれない。もっとも今日の僕の場合、なにぶん貸し切りだったので、あまり意味はなかった。それにしたって、これまでどのサウナに行っても、地元の老人同士の会話というのはあって、サウナというのはそういうものだと諦観していたが、それがない世界を目の当たりにして、感動した。これはオープン直後でまだそこまで認知されていないからだろうか。あるいは900円という値段も、老人の溜まり場になるのを阻止しているのかもしれない。あとサウナ内にテレビは必要あるのかどうか問題で、先日「ゆらり」で久しぶりにサウナテレビに遭遇し、そのときは大谷の登板試合が中継されていたので存外よかった、ということを書いたが、こちらにもテレビはあり、あるのだが、そこには延々と、焚火の映像が流れていて、さすがにこれは今般のサウナブームの流れ過ぎるだろうと、若干の馬鹿らしさも感じたが、しかしテレビって、テレビショッピングだったり、サスペンスの再放送だったり、本当にどうしようもないものが流れているときもあるので、これはこれでひとつの正解ということにするべきなんだろうな、と思った。そうして焚火の映像を眺め、パチパチと薪の爆ぜる音なんかを聴きながら、最初の10分あまりを過した。過したあとは待望の水風呂だ。身長ほどの深さのある水風呂などというのは初めてで、どういう感じなのだろうとわくわくした。入ってみたら、新しい世界が開けた、というほど劇的なことはなかったけれど、やはり中腰で浸かるのと全身を埋めるのとでは、その面積の分だけ気持ちがよかった。そもそも僕は、水風呂よりも外気浴に重きを置くタイプなのだ。というわけでいそいそとリラックスチェアーのゾーンへ。椅子は2種類あり、ふたつは脚が曲線になっていて、前後に揺れるタイプのやつ。みっつは体を乗せる部分が帆布のような丈夫な布で、ハンモックのような感じで座れるやつ。まず前後に揺れるほうを選択した。腰を下ろし、空と森を眺める。格別である。無人、無音。なんだこの状態、いいのかこの状態、と思う。罰が当たらないか、と。そのくらい心地よい時間を過したが、椅子に関してはミスったと思った。前後に揺れる機構は、その揺らし方の強弱について、どの程度がいちばんいいのか探求する気持ちが湧いてしまい、どうも落ち着かなかった。こんなことに思い煩わなくていい、と思った。なので2回目の外気浴では、ハンモックのほうを選んだ。こっちのほうが数段よかった。それに座りながら、ウトウトできたら最高に気持ちいいだろうな、ということを思ったが、たっぷり寝ていたため、眠気がまるでなく、それは実現しなかった。ちっとも睡眠不足じゃないのが残念だという、あまりにも贅沢すぎる悩み。結局その、サウナ水風呂外気浴という、いわゆるセットというものを、4回繰り返した。途中ではオートロウリュがあり、それもとてもよかった。この間、とうとう他の客には遭遇せず、あまりにも贅沢な空間と時間を、独り占めすることができた。有り余る幸福感だった。あまりにもよかったので、ちょっと他のサウナ施設がかすんでしまうほどだが、今日は特別だろうとも思った。そのうちテレビとか口コミで評判になれば、人も増えるに違いない。いつかそれに関連して、裏切られたような気持になるショックなことも起きるかもしれないが、それまではちょくちょく行こうかな、と思った。とにかく今日のことは、現実とは思えないようないい体験だった。
 帰宅後は、帰りに買ったかつ丼で昼ごはん。ファルマンももう帰っていたが、寝不足のようで昼寝に入ったため、ひとりで夕飯の下ごしらえや、筋トレをして過した。
 やがて子どもたちが帰ってくる時間となり、ピイガよりも1時間遅いポルガが帰ってきたところで、3人でプールに繰り出す。今日はもとからそういう約束になっていた。そのため、午前中サウナで夕方プールという、あまりまともに服を着ない一日となった。ファルマンがいない3人でのプールは、子どもたちだけでの脱衣所での不安もさることながら、ポルガはともかくピイガは付きっきりでずっと見ていなければならず、行く前から分かっていたことだが、自分のスイミング的な欲求はほとんど満たすことができなかった。でもまあ、子どもたちとプールで遊べたから別にぜんぜんいい。
 帰ったあとはすぐに晩ごはん。マカロニサラダは既に作ってあり、手羽元に味もつけてあり、あとは冷凍のポテトとそれを揚げるだけなのだった。我ながらナイスな段取りである。午前中サウナ、午後プールのあとの、フライドポテト&チキン&ビールはいうまでもなく格別で、休日をとてもきちんと味わうことができたな、と満足いった。去年、休日という意味では、100日以上ひたすら続く休日があったが、その1日1日は、それぞれこんな濃度ではなかった。休みって、限定されると、貴重で、愉しまなければならない意欲がわいて、愉しいのだよな。しあわせってなんだろうな。

上手休日

 散髪に行く。行ったのだ。ファルマンが教習所通いで忙しそうなので、カットを頼みづらく、しょうがないので店に行ってやってもらうことにした。プロによる散髪は、いつ以来か。去年の就活中も、なんだかんだでずっとファルマンに切ってもらっていたので、前がいつだったか思い出せない。とにかくとても久しぶりだ。
 行ったら行ったで、僕の人見知りや人嫌いというのは、ファルマンのようなガチ勢を見ているとしみじみと思うこととして、あくまで自称であって、その証拠に、美容師ともとても気さくにしゃべった。ぜんぜんどもったりしなかった。思えば島根に来てから、職場以外の人間と一定以上の会話をしたことが初めてだったので、なんだか新鮮だった。美容師の娘5歳は偏食がひどく、白米をあまり食べてくれないが、貝類だけはやけに食べるそうだ。貝類かー。
 施術中はもちろんずっとマスクをしていて、耳の周りの産毛をバリカンで刈るときも、「外したほうがいいですか」と訊ねても、「そのままで大丈夫です」とのことで、向こうもすっかり慣れているのだった。マスクはそのとき、minneに出品している、不織布マスクみたいな布マスクを着けていたので、その耳周りの作業のときになって、「え、このマスク、布なんですね」と、こちらが期待している反応をしてくれて、別に意図していたわけではなかったが、嬉しかった。ただし「奥さんが作ったんですか?」という問いかけに対して、謙遜なのか、面倒から回避しようと思ったのか、「そうです」と答えてしまい、我ながら少し複雑な気持ちになった。もう終わりかけだったし、「自分で作ったんです」と答えると、向こうとしても話を展開しなければならなくなって億劫だろう、とも思った。「プリーツの感じとか、すごくお上手ですね」と褒められ、「まあなんか、去年からたくさん作ってましたからねえ」と白々しく応じた。ファルマンはファルマンで、岡山時代、マスクや手提げ袋を褒められたとき、「夫が作ったんです」と即答していたという。僕の言葉は嘘で、ファルマンの言葉は真実だが、そこには共通の、「深く触れてくれるな」という牽制がある夫婦である。
 散髪が終わったあとは、今日もサウナに行った。今日は「おろち湯ったり館」ではなく、平田にある「ゆらり」という施設。ファルマンからは「よう行くわ」と少し呆れられた。たしかに我ながら、柄にもなくアクティブなことだな、と思う。
 湯ったり館と違い、こちらにはプールはないが、露天風呂が広く、悪くなかった。天気がとてもよく、まだそこまで激しくない陽射しが降り注ぐ中、外気浴として、湯に浸かるとも浸からないともなく、岩辺に腰掛けたり横たわったりしていると、仙人にでもなったような優雅な気持ちになり、心地よかった。なんとなく思い描く天国の情景にも、ちょうどいい陽射しと、ちょうどいいぬるさのお湯はあるので、そういう意味でここは天国にだいぶ近いな、ということを思った。
 サウナ室にはテレビが設置されていて、これは島根の施設では初めて目にした。僕はテレビに関して一家言あるようなサウナ―ではなくて、っていうかそのとき映ってる番組によるよね、というスタンスなのだが、今日はBSのNHKで、大谷翔平が先発で投げている試合が流れていたので、それもとてもよかった。野球の1イニングとサウナの滞在時間はとても親和性が高いのだと知った。おっさんたちは大谷の投球を眺めながら、やけに球種の話をしていた。おっさんが球を見て球種を口にするのは、あれは一種のマウントなのかな、と思った。俺は分かるぞ、という。僕にはまるで分からない。
 サウナ室で大谷の投球を見て、水風呂に浸かって、露天風呂のほとりで外気浴して、サウナ室で大谷の投球を見て、水風呂に浸かって、露天風呂のほとりで外気浴して、を大谷が投げた回数と同じ4回繰り返し、僕のサウナも終わった。失点はなかったものの4回までで降板となったため大谷に勝利はつかなかったが、僕の今日のサウナは大勝利だった。
 サウナを出たあとは、今年初のTシャツ姿となって、車の窓を全開にして帰った。
 帰宅後は、晩ごはんの春巻きの下ごしらえをして過し、子どもが帰ってきたところで一緒に買い物に出た。ポルガの服が少ないということで、買わなければならないと話していて、僕が休みの日にこうして出掛けることにしたのだった。しかしながらポルガの、140センチあたりの服というのは、いま本当につまらないことになっていて、どの店に行っても、うすむらさきとかライトグリーンとかの、すなわちニジューみたいなものばかりで、ぜんぜんポルガ向きのものがなく、大いに困った。というより、店に行っても買える服がないので服が少なくなり、困っていたのだった。結局、男の子向けの棚から、これならまあいいだろうと思うシンプルなシャツなどを選び、数点買った。女子向けの服、本当にひどい。こうなってくると、もう自分の手で作るしかないのではないかと思えてくる。
 帰宅後はすぐに夕飯。春巻きはもう揚げるだけの状態だったので、楽だった。この食卓で、このたびコンビニ以外のスーパーでも販売されるようになった、アサヒスーパードライの、開けると泡が出る例のやつを初めて試してみた。みんな大騒ぎしているけど、結局あれって缶のまま飲んでいた人が感動しているだけであって、常にコップに注いで泡立たせている人には関係ない話でしょ、と斜に構えていたのだが、やって飲んでみて、思わず感動した。もう久しく味わっていない、居酒屋のジョッキのビールの感覚がそこにあって、純粋においしいということに加えて、その体験に歓喜した。ファルマンにも飲ませたら、ファルマンもまた目を瞠って打ち震えていた。僕だって、コロナに関係なく居酒屋飲みなんて久しいけれど、ファルマンに至ってはポルガの妊娠以来、そういう酒の席にはいちども行けていないので、これを飲んでファルマンは、「練馬の居酒屋を思い出した」という。古い。遠い。そんな太古の記憶さえをも掘り起すなんて、なんとすさまじい商品だろうか。それは大売れするはずだ、と思った。
 そんな感じで、一日を通してなかなか心地よいことの多い、いい休日だった。

サウナとタケノコ

 休みの日、またもやおろち湯ったり館へと馳せ参じる。プールに行こうか、それともサウナに行こうか、ということで迷うと、いろいろと思いを巡らせた末に、結局おろち湯ったり館ということになる。少し距離はあっても、わざわざ行く価値がある。それに少し距離があるといったって、かつての倉敷から恋焦がれていた頃に較べれば、ぜんぜん近いのだ。先日、倉敷時代の日記を読んでいたら、「おろち湯ったり館が近所にあれば、ものすごく頻繁に通うだろうなあ」と書いてあって、僕はこの頃の僕の思いに報いなければいけない、ということも思った。実際に島根に暮しはじめたら案外そこまで行かないよ、では寂しいではないか。
 というわけで、桜並木もすっかり葉桜となった木次駅前を通ってたどり着いた、平日日中のおろち湯ったり館は、やはり心地よい人口密度で、のびのびと思う存分に堪能した。泳ぐことと、サウナと、外気浴という、僕が外の世界でしたいことなんて、たぶんこの3つを含めた7つか8つくらいしか項目がないので、それだからいつもこうして純度の高い満足感が得られるのだと思う。前回は陽射しが眩しいほどだったが、今回は雲があって、4月の暑くも寒くもない気温も相俟って、外気浴が一段とよかった。最後の外気浴が終わったあと、脱衣所では、髪はさすがに水が残っていたのでドライヤーをかけたが、体はさらさらに乾いていて、タオルをまったく必要としなかった。裸で自然乾燥されるということは、僕はそのとき、木や岩と同じ無生物状態で、すなわち自然の一部になっていた。風化とはよくいったもので、死んだあとの体は朽ちて、なるほど風になるのだな、ということを思った。サウナは人を若干スピリチュアルにさせて、それがサウナを嗜まない人にとっては気持ち悪いのだと思う。
 その日の晩ごはんは、タケノコご飯にした。実家の近くに住んでるあるあるで、春なのでタケノコが回ってきた。お中元とかお歳暮とかビール券とか、そういうもののやりとりをする一定年齢以上の輩は、春にはタケノコ、夏にはトマト、秋にはイモ、冬にはミカンを送り合う習性を持っている。そのおこぼれが、実家の近くに住んでいるとやってくる。ありがたい。タケノコは、タケノコご飯がいちばん好き。この世のすべてのタケノコ料理を食べたわけではないけど、タケノコご飯がいちばんいい食べ方だと思う。ニンジンも油揚げもいらない。純然たるタケノコご飯。お腹いっぱい食べてしあわせだった。
 本日の記事は、ブログタイトル通りのおこめとおふろの話となった。

やけに花だった春

 桜、花の郷に続いて、今度はチューリップを見に行く。春だからといって、躍起になって花を見ている感がある。よほど鬱屈な冬でも過したのだろうか。
 子どもたちの春休みと、僕の休みが重なったので、どこへ行こうかと思案した結果、そういえば斐川のほうにチューリップ畑があったよな、ということを思い出した。かつての第一次島根移住の際、まだ乳児くらいのポルガと3人で行ったことがあった。ということは2013年の4月か、と推察して「USP」を確認したら、4月22日のことだった。乳児のポルガを連れていたのなんて、ちょっと前のことのような気もするのに、それがもう8年も前のことなのか。しみじみとした気持ちになりながら、8年ぶりに来訪した。
 相変わらずネット上に情報は皆無だったが、行ったらちゃんと咲いていた。しかし8年も経っているので記憶が曖昧なのだが、かつては畑がもっと大規模だったような気もした。あるいは8年で僕が成長したということだろうか。身長も30センチくらい伸びたもんな。
 チューリップは、先日の花の郷で喝破した僕の好みの花のタイプとは違うが、それでもやっぱりメジャーなだけあって、見応えのある花だなと思った。形も色も、本当に子どもがクレヨンで描いたような姿をしている。それでいて、花びらが隠すようにしている内部を覗くと、一転アダルトな雰囲気が漂う。アダルトな雰囲気というか、性器そのものだ。あまりにもおしべとめしべ。たまに動物園で、発情期なのかなんなのか、男性器が勃起している動物がいて、少し気まずい思いをしたりすることがあるが、チューリップって常時その状態というくらい、性器が目立っている。しかし子どもの手前、あまりそのことには触れないほうがいいんだろうなあと思っていたら、ファルマンが「おしべとめしべがすごい」と普通に口にしたので、ああそれはいいのか、と思った。エロの箍が基本的に外れていて、頭の中では常にエロいことを考えている(春ということもあり)のに、第三者とぜんぜん打ち解けた会話をしないでいると、一般的な場面でしゃべってもいいエロと、しゃべってはいけないエロの区別がつかなくなる。もう何年もその症例に悩まされ続けている。そのあと、さまざまな色のチューリップを眺めていて、白いチューリップの中には、本当に真っ白なものと、少し黄みがかったものもがある、ということをポルガがつぶやいたので、(それってまるで精液のようだな)と思ったが、さすがにそれはアウトのほうだろうと察して、声には出さなかった。会話ってけっこう頭を使う。
 チューリップをしばし堪能し、さて買い物でもして帰ろうかと車を少し走らせたら、今度は望外の菜の花畑に遭遇し、そこでも車から降りて少し写真を撮った。菜の花はもう終わったと思っていたので、一面に咲くそれが見られてよかった。菜の花は香りがいいな。
 帰宅後、夕方になったところで、子どもたちを連れて散歩に出る。近所の土手や野原を歩くのは久しぶりで、冬の寂しい感じからどんな変化があったろうかと興味があった。行ってみたら、土手には相変わらずの薄茶色のススキみたいなものが群生していて、あの薄茶色のやつって、枯れてるとかじゃなくて、ああいうもので、1年中ああして枯れてるような姿であの場にのさばるのかよ、と思った。春なのだから、劇的な変化が欲しかった。それでも地面からは、青々とした葉っぱが伸びてきていて、やはり冬とは違った。その中で、「これがすごくたくさん生えてる」と僕が指したものを、ポルガが「それはスギナ。つくしがそれになるんだよ」と教えてくれて、なんだこいつ植物博士かよ、と驚いた。8年前、チューリップを見て、小さな手でチューリップの形を作り、体を揺らしてチューリップの歌を唄っていた2歳児は、年頃になってあまり素直に写真を撮らせてくれなくなったが、その代わりにそんな知識を身につけ、親に教えてくれるようになったか、と感慨深い気持ちになった。
 子どもたちの春休みもとうとう終わろうとしていて、ようやく来た春は、早くも終わりの雰囲気をまとい始めた。桜が散って、GWの気配が近づいてくると、季節はすぐに春というより初夏のようになる。そうなれば、次に見頃になる花は、いよいよオオキンケイギクということになるか。忌み嫌われる特定外来生物のオオキンケイギク、島根県でも咲き乱れるさまを見ることができるだろうか。愉しみ。

プールと感傷

 一家でプールに行った。1月にこちらへ越してきて、初めてのことである。もっとも泳ぐことがまあまあ好きな性分の人間が家族内にいない限り、一般的には1月から4月の間に人はなかなかプールには行かないものだと思う。わが家ではファルマンが唯一、一般的なその観念を持っていて、そのためこのプール行きもさんざん阻まれた。生活が落ち着いたからやっとプールに行けた、ということではなく、本当はもっと早い段階で行こうと思えば行けたのだが、ファルマンの繰り出すさまざまな「行けない要因」によってたどり着けずにいたのだった。「風邪気味だから」「生理だから」というのはもちろん仕方ないが、今日こそはなんの問題もなく行けるだろうと提案したあるときなど、とうとう「今日は風が強いから」という理由で拒まれた。車で行く屋内プールに、風がいったいなんの関係があるというのか。そんな長きに渡る格闘の末に、ようやく大ボスも陥落し、到達したプールなのであった。
 日記にも書いたが、先日おろち湯ったり館にて、僕はいちおうの久しぶり水泳を済ませていた。とはいえあれは温泉施設に併設された15メートルプールである。きちんとしたプールらしいプールは秋以来のことで、やっぱり15メートルと25メートルではぜんぜん違うな、と思った。やっぱりプールはいいな。いちど壁が壊れたら、あとはもう気軽に行ける。僕ひとりなら、これまでもいつでも行けたのだが、結局のところ僕も、初見の所(正確には過去にも行ったことがあるので初見ではないのだが、とてもご無沙汰だった)へひとりで行くのは心細くて、最初は家族と一緒に来たかったのだ。それでこんなに時間がかかった。これからはドバドバ行きたい。
 プールといえば、出雲には50メートルのプールはないようで、それは少し残念だ。思えば倉敷にはやけに50メートルプールがあった。けっこう盛んな土地柄なのだろうか。松江には夏季限定で屋外のものがあるようだが、こちらもそこまでして50メートルプールで泳ぎたいわけではないのだ。実際そこまでの泳力があるわけでもない。50メートルプールってでかくてテンション上がるよね、というくらいの話なのだ。児島の夜の屋外プールは愉しかったな。今後、倉敷になんかしらの用件で行くことはあっても、かの地の市民プールに行くなんてことはまずないだろう。三井アウトレットとか、美観地区とか、県外の人間も行くような場所には、当地にいた頃とぜんぜん変わらない感覚が今もあるけれど、市民プールであるとか、図書館であるとか、火曜日は安売りをするのでよく行っていたスーパーであるとか、そういう生活に根差した施設は、かつてあった繋がりがもう途切れてしまった場所として、思い返すと若干の寂寥感が湧く。もっとも現在のわれわれは、現在のわれわれに見合った、生活に根差した施設を獲得しているのだから、無理にその寂寥感に浸る意味はないのだけど。ただ、引っ越しをするとは、移住をするとは、つまりそういうことなのだ、ということを、こういう寂寥感のような感情が伴うときに、しばしば感じてしまう。人生も、体も、ひとつしかないのだから、これをいい出したらきりがないくせに。

ファルマン38

 ファルマンの誕生日祝いをする。
 プレゼントはもう事前にあげていた。アマゾンで売ってる、アマゾンプライムなどのウェブ上の映像ソフトを、テレビで観られるようにするやつ。それとminneに出品していた、グラニーバッグ風トートバッグも、欲しいというのであげた。うちの妻は誕生日に、ブランド物のバッグではなく、僕のハンドメイドのバッグを欲しがるのか。
 晩ごはんに希望のメニューはあるかと訊ね、いつもなら「カレー」ということになるのだが、カレーはほんの数日前に食べてしまったのと、あと明確に口に出していうわけではないが、ファルマンはきっと、前ほどはカレーが好きではなくなっていて、それはカレーというより、油物全般ということになるが、そのためまったく答えが浮かばなかったようで、絞り出した末に、「次の日にお弁当のおかずになるもの」という、俺はいま誕生日祝いの晩ごはんのメニューを訊いたのだけども? という答えが返ってきたので、仕方なく僕の独断で、その前日に豚のひき肉が安く手に入っていたこともあり、シュウマイにした。「だってほら、誕生日ってなるとシュウマイ食べたくなる人だもんね?」と確認したら、「うん、そうそう」と、食べたいものを考えるという難事業から解放された喜びで、ファルマンは激しくうなずいた。もともと食べものに執着のない人だったが、加齢によって食べたいと思うものの範囲が狭まってきて、いよいよファルマンは食の愉しみから解脱しかかっていると思う。
 ケーキは、いつもの感じで作るつもりだったが、なぜかここにきっぱりと希望を表明してきて、「アイスケーキが食べたい」ということだったので、今回は初めてそういうものを作った。いま思えばこれもまた、ホイップクリームが重たいからという理由だったのかもしれない。ファルマンの家ではたまに供されたらしいが、僕はアイスケーキというものにまるで縁を持たずに生きてきたため、ぼんやりとしたイメージしかなかったが、まあ溶かし気味にしたアイスを型に流して、間にイチゴを挟んだり、皿に出したとき底になる部分にスポンジを敷いたりして凍らせればそれっぽくなるだろう、と思って作り、見事にそれっぽい感じになった。アイスとスポンジの組み合わせは、普通においしかった。ただし間に入れたイチゴは、凍ったら味がせず、ただ氷のようになったので、無駄だった。次回もしも作ることがあれば、イチゴ抜きで作ろう。しかしだとすれば、アイスケーキなんて毎年フルーツで困る僕の誕生日にやればよかった。イチゴのシーズン真っ盛りのこの時期に、イチゴのかいのない食べ方をした。
 子どもたちからのプレゼントは、ポルガは夏用のスリッパを、ピイガはファルマンが仕事中につまむためのおやつを入れるポッドだった。これらは3人で買いに行ったのだが、ポッドを選ぶ際、「お母さんはお仕事になると食べ物を食べないから……」とか、「お母さんは蓋があると外すのが面倒でおやつを食べないから……」とか、娘たちもさんざん、ファルマンの食べ物への関心の低さ、そして面倒臭がりさについて糾弾していた。もちろん僕による扇動があった面も否めない。
 誕生日祝いの際などにはいつもいうが、今年もこうやって家族4人、無事にお祝いができてよかった。なによりである。それでもってファルマンは、これで何歳になったのかといえば、いわゆるひとつの、38歳である。38歳! すごい! 7と8では大違いだ。37歳の僕からすると、38歳という数字ははるか高みにあり、もはや霞がかっている。これから約半年間は、配偶者のことを仰ぎ見て暮そうと思う。