サウナとタケノコ

 休みの日、またもやおろち湯ったり館へと馳せ参じる。プールに行こうか、それともサウナに行こうか、ということで迷うと、いろいろと思いを巡らせた末に、結局おろち湯ったり館ということになる。少し距離はあっても、わざわざ行く価値がある。それに少し距離があるといったって、かつての倉敷から恋焦がれていた頃に較べれば、ぜんぜん近いのだ。先日、倉敷時代の日記を読んでいたら、「おろち湯ったり館が近所にあれば、ものすごく頻繁に通うだろうなあ」と書いてあって、僕はこの頃の僕の思いに報いなければいけない、ということも思った。実際に島根に暮しはじめたら案外そこまで行かないよ、では寂しいではないか。
 というわけで、桜並木もすっかり葉桜となった木次駅前を通ってたどり着いた、平日日中のおろち湯ったり館は、やはり心地よい人口密度で、のびのびと思う存分に堪能した。泳ぐことと、サウナと、外気浴という、僕が外の世界でしたいことなんて、たぶんこの3つを含めた7つか8つくらいしか項目がないので、それだからいつもこうして純度の高い満足感が得られるのだと思う。前回は陽射しが眩しいほどだったが、今回は雲があって、4月の暑くも寒くもない気温も相俟って、外気浴が一段とよかった。最後の外気浴が終わったあと、脱衣所では、髪はさすがに水が残っていたのでドライヤーをかけたが、体はさらさらに乾いていて、タオルをまったく必要としなかった。裸で自然乾燥されるということは、僕はそのとき、木や岩と同じ無生物状態で、すなわち自然の一部になっていた。風化とはよくいったもので、死んだあとの体は朽ちて、なるほど風になるのだな、ということを思った。サウナは人を若干スピリチュアルにさせて、それがサウナを嗜まない人にとっては気持ち悪いのだと思う。
 その日の晩ごはんは、タケノコご飯にした。実家の近くに住んでるあるあるで、春なのでタケノコが回ってきた。お中元とかお歳暮とかビール券とか、そういうもののやりとりをする一定年齢以上の輩は、春にはタケノコ、夏にはトマト、秋にはイモ、冬にはミカンを送り合う習性を持っている。そのおこぼれが、実家の近くに住んでいるとやってくる。ありがたい。タケノコは、タケノコご飯がいちばん好き。この世のすべてのタケノコ料理を食べたわけではないけど、タケノコご飯がいちばんいい食べ方だと思う。ニンジンも油揚げもいらない。純然たるタケノコご飯。お腹いっぱい食べてしあわせだった。
 本日の記事は、ブログタイトル通りのおこめとおふろの話となった。