梅雨入り前

 ポルガの小学校の運動会が開催される。風は涼しく、陽射しもそれほどでもなく、なかなかの運動会日和だった。よかった。相変わらず場所取りとかの熱情はないので、開会式あたりの時間に合わせて、ファルマンとピイガと3人でのろのろと学校に向かった。ポルガの通っている小学校は相変わらず生徒数がとても多いので、生徒ひとりひとりの見せ場なんてほぼない。その中で、なんとかダンスをする我が子を見つけ、それなりに撮影した。
 去年にも書いたが、やっぱりビジネスライクで、情感とかの入り込む隙のない、工場生産のような運動会だと思った。別に悪い意味ではなく、なにしろ生徒が多いので、そうなるよりほかないのだ。その中でも特に情感ないエピソードとして、校庭には生徒のための座席を置くスペースがとても取れないため、出番でない学年の生徒はその間どうしているのかと言うと、自分の教室に帰り、ビデオカメラで撮影された運動会の様子をモニターで見守るのだという。これでは色対抗の気概が生まれるはずもない。運動会そのものは、入念にリハーサルを重ねての整然とした全体主義的なものでありながら、全体主義すぎる全体に対して注げない個々人の感情は自分の中で処理するしかないため、結果的に生徒たちの思考としては個人主義へと傾くのではないかと思った。ならばむしろいいことだとも思う。
 あとプログラム冒頭の応援合戦において、応援団による寸劇みたいなものが繰り広げられるのだが、ここでは毎年そのときの流行りの芸人のパロディが行なわれ、去年はたしかサンシャイン池崎とブルゾンちえみだったのが、今年はそこまでちゃんと流行っている感じの芸人はいないので果たしてどうなるのかな、と思っていたら、結果は千鳥とフースーヤだった。千鳥は、ああなるほどな、と思うと同時に、って言うか千鳥って方言の口調がそのままネタになっているみたいなところがあるから、家風によっては本当にあのままの感じで喋る岡山の子が千鳥をやっても効果が薄いよな、と思った。もう一方のフースーヤは、ちょっと意外ではあったが、言われてみればたしかに、という感じもした。フースーヤは僕もすごく好きなのだが、そうか、考えてみたら小学生レベルなのだな。
 そして運動会は、1、2年生は午前で終了する。だからどっちの色が勝ったかは、振り替え休日の月曜を経て、火曜日まで判らない。そして火曜日になって結果が判ったところで、いまさらもうどうでもよいし、そもそもはじめから生徒たちに自分の組の色の意識もそうあるまい。なんだか本当に、各々が各々なりに運動会という日を過して愉しめばよいのだ、という放任が心地よい。
 午後はひとり車に乗って、手芸屋に行ったりユニクロに行ったりした。ユニクロでは新発売のドラえもんのTシャツを買う。村上隆のやつじゃなく、原作の絵のやつ。子どもたちの分もお揃いで購入した。最近アニメとかイラストのTシャツばかり着ている。Tシャツって、シュッとしたデザインとか、イケてるグラフィックとか、そういうんじゃなくて、キャラクターのものだよな、という境地に達したのだった。ただし「ネタTシャツ」とか「おもしろTシャツ」みたいなものとはしっかり線を引いておかねばならない。そのギリギリの攻防がTシャツの情趣であると思う。
 晩ごはんは、残り物がけっこうあったので、細々としたおかずをいろいろと並べた。あさりの酒蒸しを作り、おいしかった。他の個体はぜんぜんそんなことなかったのに、ファルマンが最初に口に入れたひとつにだけ異様に砂が残っていたらしく、じゃりじゃりと音を立てて噛んでいて、おもしろかった。「いつもこうだに……」と本人は哀しそうにしていた。全体的に砂が残っていたのなら僕のミスだが、そんなことはなかったので、本人が白状するように、ファルマンの運命によるものなのだろう。特殊能力と言ってもいいかもしれない。
 明けて今日は、のんびりと過す。ファルマンに仕事があったので、午前中に近所の公園へ、子どもたちと自転車で遊びに行った。バトンをするつもりだったが、それほど広くない公園に、珍しくそれなりの数の子どもたちがいたため、ちょっとキャスケットサングラスのおじさんがバトントワリングの練習をするのは躊躇われ、担いでいっただけで終わった。ちなみに今日の僕のスタイルは、バトン入れを右肩から左脇に掛け、タブレット入れを左肩から右脇に掛け、ダブルハンドメイドのクロス掛け状態であり、なんだか愉快な気持ちになった。これが既製品ならば、「これ大丈夫かな?」となるかもしれないが、ハンドメイドならば、誰にも文句は言わせねえぞ、みたいな自信が持てていい。
 昼ごはんは焼きそば。午後になり、スーパーに買い出しへ。わんさかとまとめ買いする。
 帰宅して、夕飯の準備をしながら、夏場所の千秋楽を眺める。大関に昇進する栃の心が躍動するも、どっこい横綱の鶴竜が盤石の相撲で優勝を阻むという、図式としてとてもきれいな場所だったと思う。あの幽霊部員みたいだった鶴竜がここへ来て連続優勝とは驚きだ。
 晩ごはんは、冷凍庫に、もう普通に料理してもおいしく食べられなそうな挽肉の塊がふたつあったので、いくつかの野菜とともにトマト煮にする。それと海老とアボカドのサラダ(サラダの定義ってなんだろう)。サラダには、ちょっと前に買って感動した、玉ねぎのお酢ベースのドレッシングを掛けて食べた。お酢と玉ねぎって、最近になってやけに体がおいしく感じるようになった二者であり、それがタッグを組んでいるのだから、もう脳天を突き抜けるようなおいしさだ。とんかつなどを美味しく食べる一方で、これまでソースやマヨネーズを掛けていたキャベツの千切りには、先日からこれを掛けてあっさり食べるようになった。少しずつ、そうやって変わってきている。

宇野港フェスティバルとオオキンケイギク

 日曜日は宇野港フェスティバルというものに遊びに行った。実は去年にも行った。去年は日記にどう書いただろうと確認したら、まるっきり書いていなかった。日記熱が低かったのだな。
 去年は陽射しがジリジリと照りつけ、大いにつらかった思い出があるのだが、今年は金曜日に降った雨のおかげで空気が冷えていて、とても過しやすかった。去年は矢も盾もたまらず屋台でかき氷を買ったけれど、今年はぜんぜんそんなことにはならなかった。店の売り上げもずいぶん違っただろうと思う。
 先日の総社の祭りに続いて、この祭りでもステージでバトントワリングの演技があった。行なっていたのは別の団体である。岡山にはけっこうな数のバトントワリング団体があるようだ。これが一般的なことなのか、岡山はわりとバトン熱が高い地域なのかは定かではない。
 演技は見応えがあった。いま思えば総社のステージには屋根があったので、だいぶ動きが制約されていたのかもしれない。今回のステージには屋根がなく、そのためバトンも飛ばし放題で、迫力があった。競技に足を突っ込んでいる立場として、研究する心もあり、全体のダンスを眺めるのではなく、ひとりの演者に注目して、特にバトン回しの指使いの部分を食い入るように注視した。その結果、なんか指で回すとかそういうんじゃなく、バトンはもうひとりでに回っているように見えた。すなわち、手首とかが神経レベルで微細な動きをして、きわめて小さな動きと力で、バトンの勘所のみを押さえ、華麗にクルクルと回しているのだった。す、すごい……、と思った。僕のバトン回しは、実に愚直に、バトンを回す手の動きをしてバトンを回しているのだけど、熟練者はバトンを、ただ持っているだけのようにして回すのだ。あれかっこいいなあ。あれできるようになりたい。近ごろバトンを飛ばす練習とかに入っていたけれど、まだまだ早かったかもしれない。もっと基礎練に励むべきだし、なによりその「バトンを回すともなく回す」基礎ができあがれば、それはもう明確に、「バトンをそれなりに器用に回す一般人」とは一線を画すことになるので、だからとにかくそこを重点的に努めようと思った。お祭りのバトンのステージで、こんなにも真摯にバトンへの思いを新たにした34歳の男がいたのだった。
 そのあとは、アトラクションでアクアボールというのをやっていて、ポルガは去年の夏くらいから、水上を巨大なボールの中に入って遊ぶこれを、ずっとやりたいと言っていて、いつかどこかでやらせてあげたいな、ということを思っていたので、待ち時間はそれなりにあったが、やらせてあげることにした。対象は3歳からだったので、ピイガも一緒に入ろうと思えば入れたのだけど、予想の通りピイガは「やらない」ということで、代わりに列に並んでいる時間でヨーヨー釣りなどをさせてあげた。そうして数十分待ち、ようやく順番が来て、ポルガがボールの中に入る。ボールの中に空気が充填され、水上に放たれたポルガは、なかなかに躍動していた。1年間の思いの丈を存分に発散させた3分間だったのではないかと思う。よかったよかった。
 それから屋台で焼きそばやらたこ焼きやら買って、テントで食べた。車なのでもちろんビールは飲めない。もっともビールが飲みたくなるような気候でもなかったし、そもそもこういう場でのビールはあまり好きではないので別にいいのだけど。
 そんな感じでなかなかに堪能できたお祭りだった。
 そのあと立ち寄った公園で、オオキンケイギクが群生していたので、中に入って写真を撮った。オオキンケイギクのいいところは、見栄えが良くてフォトジェニックで、しかも群生地に立ち入ってガンガン踏みつけても、なんてったって駆除対象の特定外来生物なので誰にも怒られない、というところだ。
 そんな、今から立ち入るぞ、という場面の写真。右手でピイガを抱えている。
 

 わざわざ珍しく写真をアップしたのは、オオキンケイギクのきらびやかさもあるけれど、先日作って「nw」にアップしたタブレット入れの、実際に使用している様を見せびらかしたかったから、というのもある。なかなかに気に入っているのである。しかしこうして見るとピイガの足がタブレットを入れているポケットに接近していて、いまさらながらおそろしい。
 そんな風にアクティブに過し、3時くらいにようやく帰宅。もちろん僕だけ寝る。1時間半ほども寝た。

日常乞食

 週末は平穏をテーマに過した。5月に入ってからの10日間ほど、やけにワタワタとしていたため、日常らしい日常を過そうじゃないかとなった。
 土曜日は、GWの前半に注文したファルマンの眼鏡をお店に取りに行った。1週間での仕上がりだったので、実は先週末あたりには出来ていたのだが、ワタワタのために遅くなった。新しい眼鏡は黄色くて大きくて丸い。僕の趣味だ。これは妻をかわいくする目的というよりも、僕がいまこの店で注文するとしたらこれだろうな、というセレクトである。もちろん目の悪さの質が違うため、共有することはできない。しかしもしもいま僕が使っている眼鏡が、ホームランボールとかで破損したらば、僕も同じフレームで注文するだろう。眼鏡がお揃いなんて、とても仲良しの夫婦のようだが、なんのことはない、一方に好みの強い主張があり、一方にそれが著しくないだけである。
 そのあとは公園に赴く。2年前くらいにいちどだけ行ったことのある公園で、園内に水深5センチもない小川が流れていて、足を浸して遊べるので、この時期にちょうどよいと思って行った。小川へは、ポルガは喜んで入り、ピイガは怖がって入らなかった。大人で入っている人はなぜかひとりもいなかったが、我慢できずに僕も靴下を脱いでズボンの裾をまくって入った。水温は思ったよりも低く、気持ちがよかった。他に遊具で遊んだり、もちろん僕はバトンを廻したり。
 帰宅して昼ごはん。焼きそば。
 午後になり、もういちどお出掛け。こんどは買い物。子どもたちの水泳用のタオルや、居間の蛍光灯なんかを買う。蛍光灯は、チカチカし出したわけではまだなかったのだけど、どう見ても明るさが落ちている感があり、もういっそ換えようじゃないかとなった。しかもこれまで昼光色だったのを、ファミリーがごはんを食べる空間なのだから、ということで、オレンジ色の電球色にした。家に帰って付け換えてみたら、雰囲気ががらりと変わり、とてもいいと思った。成功だ。
 そのあとは餃子作りに勤しむ。日常らしい日常と考えたとき、やっぱりスローフード的な発想があり、手数の掛かる料理をしようじゃないかと思ったのだった。もちろん純粋に餃子が食べたかったというのもある。ちなみにスローフードと言いつつも、皮は出来合いのもの。皮はやっぱりハードルが高い。その億劫ハードルはよほどの場面でなければ跳び越えられない。
 出来合いの皮でも十分においしい。これで出来合いの皮が、餡への情熱を台無しにするほど不味ければ状況も変わってくるのだが、別にぜんぜんおいしいのだ。そうしてホーム餃子を、家族でホットプレートを囲み、オレンジ色の光の中で食べた。日常メーターが上昇するのを感じた。
 翌日は雨がちらつく中、図書館へ。前回、GWに向けて家族で思いきり借りたら、ワタワタするばかりで読書はぜんぜん捗らず、たくさんの本を未読のまま返すことになった。なので今回は返却がメインで、それほど借りるまい、と思っていたのだが、気付けば結局、みんなで抱えなければならないほどの量をみんなで抱えていた。まあ図書館ってそういうものだよな。
 帰宅して、昼ごはんはみそラーメンと餃子。
 午後は家でのんびりと過す。僕はミネストローネの調理に勤しみ、野菜をとにかく刻んだ。昨日の餃子でもキャベツを刻んだし、とにかくそういうことをしたかったんだな、と思う。もちろん作業だけが目的ではなく、ワタワタした日々特有の野菜不足感があったので、それを挽回するためのミネストローネ、という意図もあった。10種類以上の材料を抱き込み、鍋いっぱいに作る。夕ごはんに食べたら、もちろんとてもおいしかった。
 そんなわけで、躍起になって、というレベルで日常を過した。その甲斐あって、平穏な日常への飢えが解消した。なんでもない日ばん(ず)ざい(ん)!

GW後半の後半

 こどもの日。GWは明日まであるが、1日を休息日とするため、ファルマンと子どもたちは今日に岡山に帰る。ポルガは朝に姉一家から返却された。姉一家は本日、こどもの国だという。こどもの日にこどもの国。さぞ混んでいることだろうと思うが、混雑なんてこちらで生きる人間にとっては大前提みたいなものなんだと思う。ポルガを送り届けてくれた玄関でお別れする。次に会うのはたぶん年末年始。
 新幹線は14時台の便なのでのんびり。こどもの国ではないが我々も公園とかに行くか、と思うが、ポルガがいつもの感じで若干グロッキー気味なのと、子どもたちに公園を持ちかけたら「行かない。Wii fitする」と即答されたのとで、実現せず。家で過ごす。子どもたちは自宅にゲーム機がない子特有の感じで、よそへ行ったときのゲームへの執着がすごい。まあそれくらいの距離感がいいんじゃないか、という気も実際する。
 焼きそばの昼ごはんを食べたあと、新横浜に向けて出発する。もちろん僕は新横浜までついていくので、母に一家であざみ野まで送ってもらった。
 新横浜では、明日に岡山で落ち合うというファルマンの両親や祖父への横浜みやげを買ったり、別れを惜しんだりする。それから、当初は改札前までのつもりだったが、改札内への入場料が140円だというので入ることにし、ホームまで行った。そしてやってきた新幹線に、妻と娘だけが乗り込み、僕は窓から見える家族に手を振った。とても珍しく、面映ゆい経験だった。
 見送りを終えたあとは、タブレットを駆使し、近くにある手芸屋を検索したところ、ペペの中にトーカイがあったのでそこへ行き、必要としていたものを買う。ひとりで、新横浜で、タブレットで店の位置を調べ、買い物をした、と思った。普通の人にとってはなんでもない行動のような気もするが、なんとなく感慨深かった。
 それから再び市営地下鉄に乗り込みあざみ野へ、とは実はならなくて、今回の日程が決まったときに、これは千載一遇のチャンスだと決行することにした「思い出散歩」をするため、ひとつ前の中川駅で下車する。そして、通っていた中学校、通っていた小学校、幼児期から小学校卒業まで住んでいたコーポ、ラジオ体操をしていた寺、よく遊んでいた公園、「友達ん家」がたくさんあった住宅街、そして通っていた幼稚園などを巡って歩いた。歩いてみたら、これが徒歩で1時間かからない位置関係にあるのだった。地元意識というものが稀薄な僕だけど、この一帯というのは僕にとって紛うことない地元なのだな、と歩いてみて判った。3歳くらいから15歳まで、僕は大体このあたりで生きていたのだ。人生中の悲喜こもごものほとんどがこのあたりで行なわれたのだ。当時と変わった場所もあれば変わっていない場所もあり、とても愉しく、した甲斐のある散歩だった。
 とは言え快晴のポカポカ陽気の下での徘徊である。汗だくになり、大いに疲弊した。実家に帰って、すぐにシャワーを浴びる。そして着ていたものを、帽子を含めてすべて洗濯してもらう。実家に3泊した後の出張3泊、というのが、荷造りをするにあたり大いに頭を混乱させたのだけど、なんのことはない、着替えは3日分きりでよかったのである。キャリーケースの中はすべて清潔、という状態にすることができた。実家は便利だ。
 妻と子どもが帰ったため、実家は祖母と母と叔父と僕という、なにも華やぐ部分のない、壊滅的に陰鬱なメンバーとなり、そうなると晩ごはんも煮物とかになった。まあ煮物とかになるよな、と思った。
 夜、姉にLINEで、思い出散歩で撮影した写真を何枚か送る。姉ももちろん共通の思い出を有しているので、いい反応だった。LINEによって実に姉と語らいやすくなった。こういう距離感の相手にはLINEは有効なのだなー、と思った。
 翌日はGW最終日にして、出張前の移動日である。移動そのものは、東京駅から夕方に発車する便に乗ればいいため、時間はたっぷりあった。午前中から都内に繰り出し、地方都市では満たされないあれやこれやをしよう、という野望もあるにはあったが、地方都市では満たされないあれやこれやってなんやねん、という気持ちもあり、実際さほど浮かばず、調布にあるという武者小路実篤記念館に少し興味があり、そこへ行って、そのあと新宿の大きな手芸屋に行くというコースを考えたりもしたが、昨日の新横浜で手芸グッズは手に入ってしまったので(新宿への思いを断ち切るためにわざとそうした面もある)、荷物が重たいこともあり、まあ別にいいか、となる。それでも本当に東京駅に直行だと、あまりにも自分がつまらない人間であるように思えたので、池袋にだけ出てみることにした。叔父は午前中に広島に向けて帰り、僕は祖母と母と3人で天ざるの昼食を済ませたのち、出発する。山手線は使わず、渋谷から副都心線で池袋へ。2012年に島根に移り住んで以降、練馬に行くときとかに通過したことはあったかもしれないが、降り立ったのは初めて、つまり6年ぶりの帰還だった。かつてはこの駅舎の中で働いてさえいたのだよな、と地下のコンコースを懐かしく思いながら歩いた。そして歩いていたら知っている顔があったのでとても驚いた。かつて、まさにこの駅で働いていた時代に同僚だった、ひとつかふたつ年上の男性だった。彼はいろんな店舗に配属したのち、また元の店に戻ってきていたのだった。しかしこうして気まぐれで歩いていた駅の中ですれ違うなんてミラクルと言っていいだろう。6年ぶりの再会に、お互い大いに盛り上がり、1時間あまりたっぷりと話し込んだ。なんとなくサンシャインのほうにでも行ってみるかなー、くらいに考えていたので、それよりもとても有意義に時間を過ごせた。そして、たぶん普通の流れならLINEを交換するところなのだろうが、そうはせず「またいつか」と言って別れた。
 それから丸ノ内線で東京へ。新幹線の時間まではまだ少し余裕があり、改札を通る前に地上に出て東京駅周辺の街並みでも眺めようかなー、などとも思うが、キャリーケースを引いていることもあり、よす。よしてよかった。「新幹線のりば」という改札を通ったはずなのに、新幹線乗り場にはなかなかたどり着かず、改札の中にひとつの街があるかのように道は続き、ぜんぜん時間に余裕がなくなったのだった。東京こわい。あまつさえ、先ほどたしかに「新幹線のりば」という改札を通ったはずなのに、その中にもういちど「新幹線のりば」という改札があり、頭がくらくらした。近くにいた駅員に、俺はこれをもうさっきいちど通したのだけどここも通るのか回収されてしまわないのか、と訊ねたら、その質問を田舎者に1日2万回くらいされるのか、駅員は「だいじょぶでーす」と無感情で答え、そうしてなんとか2度に渡る改札通過を経て、乗り場にたどり着くことができたのだった。
 そこで今年の僕のGWは終わったような感じ。今も自宅じゃないので、なんとなくそれが続いているような感じもあるが、なんだか不思議な日々だった。

GW後半の前半

 3日の午前に帰省した。2日は天候が荒れて、ポルガの遠足が中止になったのだけど、3日もそれが引き続いていて、最寄り駅に行ってみたら在来線が遅延していて、新幹線の発車時刻に対してどぎまぎした。GWの、ひと月前の予約開始時にやっと取ったチケット、指定席を失ったらつらすぎる。結局なんとか間に合い、事なきを得た。
 新横浜で下車後、いつものようにあざみ野駅まで母に迎えに来てもらい、実家にたどり着く。昼ごはんは家で食べた。家には祖母と叔父もいた。
 今回の帰省は2泊3日であり、なるべく堪能しようと考えていたが、いざ来てみたら、移動日の午後にアグレッシブにどこかへ出掛ける気にもならず、結局だらだらと、なにをするでもなく過ごした。途中で僕とファルマンだけで出て、電器屋に赴き、母の日のプレゼントとして実家用の無線LANの装置を買った。これまで実家にはそれがなく、母自体はそこまで必要としている感じはなかったのだけど、なにしろファルマンも僕もタブレットを持つようになったので、母の日にかこつけて購入し、設置した次第である。これにより実家でパソコンに頼らずともネットが自由にできることになった。1年間で5日ほどだけ便利になった。よかった。
 夕方になり、義兄と姪と甥がやってくる。正月から5ヶ月しか経っていないので、さすがの子どもたちでもそれほどの変化はない。姉は、なんと安室奈美恵のコンサートに行っているとのことだった。それまでそうでもなかったくせに、引退発表以降、急にファンになったそうである。姉らしいことだ。晩ごはんはド定番の手巻き寿司。それなりの人数が食べる献立として、とにかくそれが楽なんだと思う。もちろんおいしかった。
 次の日は、今回の帰省のメインイベントとして、祖母の卒寿の祝いをする。僕の出張によって夏ではなくGWの帰省にすると母に伝えたら、今年は祖母の卒寿の祝いをする計画があり、お盆は祖母は山梨に居がちなのでGWならば逆にちょうどいい、という話になり、それで本来ならばさすがにGWには顔を出さない叔父も召喚されて、一族で集まって祝うことになったのである。これにあたり、姉とプレゼントのことを話し合うともなく話していて、でも祖母にはもう物欲などあまりなくて(当然だろうとも思う)、なににするかまったく思い浮かばず、準備しないまま当日を迎えた。それで結果的に、豪華な花束ということになった。物を欲しがらない人へのプレゼントとして、花束の救いったらない。この世に花束というものがあってよかった。
 お祝いは港北ニュータウンの、ちょっとリッチな中華料理屋で行なわれた。ちなみにランチである。個室で、円卓で、回転台で、おお、と思った。とてもちゃんとした、お祝いらしいお祝いの席なのだった。料理はもちろん美味しく、祖母も喜んでいた。それはそうだ。卒寿の祝いを、子と、孫と、ひ孫にしてもらったら、それは嬉しかろうよ。
 お祝いを終えて帰宅したあとは、子どもたちがNintendo switchなどをするのを眺めながら、のんびりとした。もちろん僕は眠りもした。ちなみに言えば昨日だって夕方に寝た。日中に行動をして、帰宅後に夕飯まで時間があれば、僕はまず寝る。寝ないと持たない。昼が豪華な中華で、まだそれほどお腹がすいていなかったので、晩ごはんはつけ汁に多少の肉や野菜を入れた素麺を提案し、採用される。それをまた一族で食べた。無事に卒寿が祝えてよかった、という1日だった。夜はポルガが姉一家の家にお泊まりした。