笠岡へ

 3連休の中日。お出掛けをする。あの笠岡の花畑へ、久しぶりに行ったのだった。一時期、ほぼ花が変わるごとに行って、菜の花、ポピー、ひまわり、コスモスという年間の4種をコンプリートして満足し、それ以来だった。日記で確認したら、それはまだ「USP」時代の、17年10月(コスモス期)のことだった。つまり約2年半ぶりになるのだった。歳月の早さよ。今回の来訪は、もともと菜の花畑が見たい気持ちが高まっていた(僕は上記の4種中はもちろん、あらゆる花の中でも菜の花が割と好き)のと、ポルガがカブトガニ博物館に行きたがっていたのと、さらにいえば義父母がまたおじいさんに会いにこちらに出てくるというので、ならばわざわざ家まで足を延ばさなくても、笠岡で落ち合えば、どうせ帰りの通り道なのだし、一緒にレジャーが愉しめるじゃない、ということを提案したら乗ってきた、という要素が合わさって実現した。
 というわけで義父母は用件を済ませてからの現地集合なので、われわれ一家は昼前くらいに、のんびりと移動を開始した。よく晴れて陽射しが暖かく、コートを脱いでサングラスを掛け、たまに窓を開ける必要さえあった、今年のこの腐った冬を象徴する日和であった。
 そして恐竜公園へと到着する。混んでいた。3連休の中日ということや、このあと行く花畑のあるベイファームでイベントが開催されていたという事情もあるのだろうが、明らかに3年前よりも活気がある。当時だってここに来たときは花の咲いている週末だったはずだが、こんなに盛況していなかった。実はなんとなく道中においても、街並みを見ていてそんな印象を受けていた。さびれた地方の街、という印象しかなかった笠岡だったが、なんかしらの作用でちょっと盛り返しているのかもしれない。まさか絲山秋子効果ではないだろう。公園の設備が増えた様子もない。目玉である恐竜のオブジェは、相変わらず堂々と、僕やファルマンが子どもだった頃の恐竜のイメージで造形されていて、令和の時代に眺める、ジュラ紀の恐竜オブジェに、昭和レトロを感じた。羽毛なんてもちろん生えてないし、ティラノサウルスは前傾姿勢ではなく直立している。古き良き恐竜。ここで弁当を食べたり、ひとしきり遊具で遊んだりした後、義父母とカブトガニ博物館で合流した。
 カブトガニ博物館は、以前にもいちど入館した。それも「USP」で確認したら、16年の5月ということで、なんと4年前だ。歳月! そのときわりと愉しめた思い出があった(ピイガは館内の暗さに怯えて泣いたのだった)ので、けっこう期待していたのだけど、今回の印象は、「あれ? こんなもんだったっけ?」だった。やっぱりいかんせん、わずか1ヶ月半前に国立上野科学博物館に行ってしまっているので、目が肥えてしまっているきらいがある。ありとあらゆる時代の、ありとあらゆる生きものが網羅されたあちらに対し、こちらはカブトガニのほぼ一本鎗である。「カブトガニの這った跡の化石」までもが展示され、好きなアイドルの使用済みの割り箸を収集する変態のごとき、偏執的なカブトガニ愛は感じられ、とてもいい、とてもいいことだとは思うのだが、どうしたってこちら側に、そこまでのカブトガニ熱を受け取る入れ物がない。両手で受けようもないのだった。
 そのあとは車で少し移動し、花畑のあるベイファームへ。駐車場に停めるなり、もう咲き誇っていた。今年の冬は、冬の陰鬱なつらさが希薄な冬だったが、それでも春先の菜の花の鮮やかさには心が鷲掴みにされる。菜の花の黄色さ、緑さは本当にいい。潔さだろうか。小細工がない感じで、とても清らかな気持ちになる。ひとしきり花畑の中を歩き、堪能した。すごくよかった。義父母も喜んでいたようだし、今日はいい企画だった、と満足した。義父母とはここで別れた。
 帰り道は海沿いの道を走り、途中で見かけた砂浜に立ち寄った。ナビに案内されるままに走った、まったく予定していない場所だったが、ここが大当たりだった。夏はちゃんと海水浴場となる場所のようで、砂浜の砂がとても細かい。そこへ大きめの貝殻がゴロゴロ転がっていて、ピイガが躍動した。貝殻の、破片のようなものしかない砂浜と、こういう全形のまま残っている砂浜は、いったいなにが違うのだろう。浜からは小堤防が伸びていて、こういうのって立ち入り禁止になっている所がけっこうあるが、ここは一切それがなく、本当に伸びている先っぽまで行けそうで心が躍ったのだが、遮るもののない浜風が強く、小さい子どもと2月の海に落下する恐怖に駆られたため、ぜんぜんそんな先まで行けなかった。あれはまたリベンジしたい。
 そんな具合の笠岡レジャーだった。とても愉しめた。しかし久しぶりに陽射しを大いに浴びて、少し頭や体がくたびれた。今夜は晩酌とテレビでまったり過し、たっぷり寝ようと思う。

カラオケとバレンタインと子ども

 今年初めてのカラオケに行く。なんとなくカラオケ熱が下がっているのだった。たぶん行きすぎたのだと思う。メンバーも家族で固定だし、子どもたちは毎回おなじ歌を唄うし、僕とファルマンも唄いたい曲は大体もう唄ってしまった。完全に停滞期だな。
 唄った曲は以下の通り。
 1曲目、加藤登紀子「知床旅情」。MAXは、前回の「TORATORATORA」で歌い尽くしてしまったので、その定番ギャグはきっぱりと捨てた。そして加藤登紀子。MAXからの急転直下の渋さ。作詞作曲は森繁久彌。
 2曲目、梓みちよ「二人でお酒を」。追悼歌唱。梓みちよの訃報を聞いたとき、あまり知らない人だなあと思ったのだけど、追悼歌唱のためになにか唄える曲はないかと検索したら、ぜんぜん知ってた。この歌の人だったのか。追悼歌唱といえば、野村克也も数日前に亡くなって、この人が佐知代夫人へ捧ぐ歌(「女房よ……」というらしい)とかを唄っていたのは知っていたので、ファルマンもいることだしそれも唄おうかとも思っていたのだが、準備が整わずに唄えなかった。残念だ。
 3曲目、槇原敬之「どんなときも。」こちらは時事歌唱。カラオケのたびに、亡くなった人と事件を起した人(特にクスリ関係)の歌を唄っている気がするな。ところで近ごろ薬物で捕まった有名芸能人の頭文字が、沢尻、槇原、ASKA、ピエールで、SMAPになる、という非常にどうでもいい話題があるが、そう考えたとき僕は電気グルーヴの歌だけはカラオケで唄わなかったな、と思った。もっともカラオケで唄うような曲じゃないんだろう、たぶん。聴いたことがそもそもないけど。
 4曲目、欅坂46「手を繋いで帰ろうか」。これも時事歌唱ということになるか。平手友梨奈の脱退はもちろん大いにショックだ。ショックだけど、当然の帰結のような感じもする。僕はこういう明るい歌をもっと唄ってほしかった。アイドルの女の子に、鬱屈や葛藤みたいなものは、ぜんぜん求めていない。更衣室で、ユッコがメグの胸を揉むような、そんな集団であればそれでいいのだ。
 5曲目、氷川きよし「大丈夫」。年末年始の帰省の日記内で、紅白の感想としても触れたが、最近の氷川きよしは本当にいい。眺めているととても満ち足りた気持ちになる。さらに本人による解脱のこのタイミングでこの歌、というのが最高にいい。手拍子もちゃんとやった。ファルマンもいちおうやってくれていた。
 6曲目、宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」。先日やっていた大型歌番組で、とにかくCDがたくさん売れた順にランキングして紹介、というのをやっていて、3位が「世界にひとつだけの花」(マッキー!)、2位がこれ、1位が「およげ! たいやきくん」だった。なので唄った。1972年発売ということで、当時の風潮はよく判らない。300万枚以上も売れたらしい。この歌がなぜなのだろう、とも思うが、「だんご3兄弟」のヒットは目の当たりにしたし、なんかまあ、そういうことってあるんだろうな、とも思う。カラオケ映像で、宮史郎がハンサム俳優みたいな扱いのドラマが流れて、ファルマンが爆笑していた。どこまで本当で、どこまでギャグなのか、後世の人間にはさっぱり判らない。
 7曲目、子門真人「およげ! たいやきくん」。というわけで1位も唄う。「女のみち」よりは、いちおう価値が見出せる感じはある。それにしたって450万枚って、とは思う。ある程度の年齢に達した男性ならば絶対にやるだろう、子門真人のモノマネで唄った。わりと似ていたと思う。たぶん誰でもわりと似せられるのだと思う。
 8曲目、欅坂46「不協和音」。再び欅坂に戻った。デビュー曲の「サイレントマジョリティー」の時点で方向性は決まっていたとはいえ、「手を繋いで帰ろうか」や「二人セゾン」などの正統派アイドルソング路線という道筋だって、あるにはあったろうと思うが、この「不協和音」で欅坂はもう引き返せなくなったのだな、と改めて唄ってみて思った。切ない。2回目の「僕は嫌だ!」は長濱ねるなので、ちょっと穏やかにいう、というところまで再現したが、家族は誰も気づかなかったろう。
 このあとは「年度別紅白メドレー」という項目を発見したので、ファルマンとそれを唄った。1曲30秒ずつくらい、次々に出てくるやつ。それでまず「98年紅組」を選んだら、なんとMAXの「Ride on time」で始まったので、期せずして今回もMAXの灯は守られた。このしぶとさ、いかにもMAXらしい。そのあと他の年度もやり、ELTやHitomi、浜崎あゆみや花*花など、自分で入力することは決してないが、懐かしいし唄える、という曲がいろいろ出てきて、愉しかった。ぜんぜん聴いたことのない演歌なんかも出てきたが、思った以上にちゃんと唄えてファルマンに絶賛された。「知ってる曲なの?」と何度も訊かれた。天性の才能としかいいようがない。
 そんなカラオケだった。時事歌唱などに囚われ過ぎて、自分の本当に好きな曲とか、十八番みたいなものを、ほとんど唄わなかったな。なにしろ、そういうのは本当に唄い尽くしてしまったのだ。次回以降、どうしたものか。
 帰宅後、午後は家でのんびり過す。ファルマンと子どもたちがキッチンでなんか作業をしていて、なんだろうなあと不思議に思っていたら、夕食後に冷蔵庫から、パウンドケーキを焼くような型を使った、巨大なプリンが出てきて、えっなんでなんで? と思ったら、いっけね! バレンタインデーなのだった。正確には前日なのだけど。卵を大量に使うというハードタイプのプリンは、とても好みの感じで美味しかった。
 翌、日曜日は、終日小雨ということもあり、だいたい家で過した。子どもがうるさかった。休みはいつもしみじみと「子どもがうるさい……」ということを思い、思って、日が暮れる。子どもはなぜああもうるさく、そして物を散らかすのか。僕がいま子どもに、「子ども」以外の名前を付けるとしたら、もっとそういう特徴を織り込む。「とにかくうるさく、そして物を散らかすもの」を意味する言葉にする。実際に子どもがそういう意味になっている言語も、世界にはあるんじゃないか。それともうちの子だけ特になのか。

2月の公園

 大きな公園へ、おにぎりを持って遊びに行く。まだ2月である。無茶だ。でも近ごろ、梅雨じみたはっきりしない天候が続き、気温的にも寒いんだか暖かいんだか分からない感じがあり、さらにはインフルやらコロナやらで人ごみに対する警戒心が強まっているとなったら、なんとなく閉塞した心持ちに傾きがちで、山陰じゃあるまいしそんな精神状態に陥ってたまるかと発起し、繰り出したのだった。
 季節ごとの花が名物の公園だが、時期が時期なのでまだなにも咲いていなかった。もっとも花を尊ぶ人間は一家の中にいない。子どもたちはやはり公園の一角にある、わんぱく広場の遊具に夢中だった。この公園には、過去2回来たことがあり、最初は岡山に来た年の初夏くらいのことで、ポルガは3歳、ピイガはまだ生後半年ほどだった。その頃のことを思えば隔世の感がある。岡山での暮しは長くなり、子どもたちも成長したことだ。
 遊具でばかり遊ばれると、それをじっと眺めるほかない大人たちは寒くて仕方ないので、せっかく大きい公園なんだから散策しようよ、と遊具から引き剥がす。そして歩いた。山に作られた本当に大きな公園なので、遊歩道といってもスケールが大きい。「←植物園」という立て看板があったのでそちらのほうに進むと、もはやこれは散歩でもなければピクニックでもなく、さらにはハイキングでももはやなく、オリエンテーリング的なイベントではないか、と感じるような鬱蒼とした山道を行かされた(しかもあまりに道程が長く、そして本当にひとりの人ともすれ違わなかったので、おそろしくなって途中で引き返した)。そのあとはもうちょっとメインの遊歩道を通って、池の鳥や鯉、亀などを眺めたりして、気温や陽射しもちょうど求めていたような度合で、純然たる散歩を愉しんだ。途中、ひと気のあまりない原野のようなエリアに出たので、今回の公園行きのもうひとつの目的であった、Tシャツ写真の撮影も行なった。この模様は「nw」に書く。一瞬だけがんばってTシャツ姿にはなったが、さすがに外でおにぎりを食べられるような暖かさではなく、駐車場に戻って車内で食べることにした。しかし車に乗り込む前に、売店などの物販コーナーを覗いたら、自由にごはんを食べたりしていい休憩所があったので、これ幸いとそこで食べた。外弁当の情趣の、65%くらいを享受でき、この時期のそれとしてはとても秀逸な結果であろうと思う。
 帰ってからは、おにぎりだけだとお腹が空くのでパンを食べ、そのあとは映画のハリーポッターを観た。実は昨日の夜に「炎のゴブレット」を観ており、そのため今日は「不死鳥の騎士団」を観た。映画のハリーポッターって、観ても「(役者が)成長した!」と、「展開はや!」くらいしか感想が出ない。こんなふうにいうと、原作をきちんと読み切ったことを鼻にかけているようだが、しかしどう考えても、原作を読んでなきゃこんな映画ぜんぜんおもしろくねえだろう、と思った。
 晩ごはんは餃子と、サッポロ一番塩ラーメンをベースに野菜たっぷりのタンメン風に仕立てたもの。餃子は昨日がメインで、今日はその残りを焼いた次第である。どちらもおいしかった。今日は日中は陽をたくさん浴びて運動もしたし、夜はしっかり栄養を摂ったしで、休日の過し方としてたいへん素晴らしく、リフレッシュができたと思う。精神的にけっこう晴れた実感がある。よかった。この冬がちゃんと寒くならなかったのは、いろんな意味で困窮したが、もうこうなったら半端に寒いのもスパッと終わって、外ごはんとか、Tシャツとか、早くそういうのができるようになってほしい。宙ぶらりんの状態は短いほうがいい。