後半3連休

 変な3連休だった。
 まずネットが使えなかった。住んでいる集合住宅のネット回線が、連休前から突然ダウンし、想像していたよりもだいぶ長い期間に渡り、復旧しなかった。これは全国規模で展開する管理会社全体の話だったようで、ネット依存症のファルマンが、禁断症状を発症させながら、スマホのモバイルデータ通信で必死に情報を収集したところによると、界隈ではかなりてんやわんやだったらしい。わが家もファルマンを中心に、もといファルマンばかりがブラックホール並みの比重となり時空が歪みそうなほどに、てんやわんやだった。僕はそこまででもなかったが、今回のダウンの原因がスプラトゥーンのフェスのせいらしい(真実かどうかは定かではない)という話を耳にしたときは、はらわたが煮えくり返った。結局通信は3連休最終日、日曜日の午後に復旧した。もう少しでファルマンは、家賃に含まれているそれではなく、個別の回線を契約するところだった。実際その午前中、店まで行ったのだ。行って、「ネットで手続きしてください」と断られ、すごすごと退散していた。危ないところだった。
 ネットが使えないという状況は、とてつもなく不便というわけではないが(本当にやりたいならスマホである程度はできる)、なんとなく落ち着かないというか、居心地の悪い感じがあった。キャンプの何が嫌って冷蔵庫がないのが僕は嫌なのだ、ということを前に言ったが、電気ガス水道ほどではないけれど、ネットが使えないという状況は、そのくらいの、ちょっと積極的に拒みたい感じの嫌さがあった。
 ネットが十分に使えない状況で、台風が来ていた。これについてはテレビでも情報を収集することはできたわけだが、しかしそれもまた、ネットほど手に取るようには把握できない感じがあり、そうかネットというのは本当に情報を得やすい、万能感を得やすいツールなのだな、と思った。日本列島を、どのくらいの雲を伴った台風が、どのようなスピードで、どのようなコースで進むのか、いつでも知れるって、すごいことだな。今回はそれがなかったため、なんとなく台風との関係が他人行儀だった。コースもまた、先週のそれに較べだいぶ東寄りで、実際ほとんど影響はなかった。
 結果的に影響はなかったのだが、それにしたってFNS歌謡祭のように、2週連続で展開された3連休に、やはり2週連続で律儀に台風をけしかけることはないだろう。ご多分に漏れずわが家も、夏場を越え、ぼちぼちレジャーでも、という気概になっていたというのに、結局どちらの連休においてもままならなかった。まさかこんなことになるとは思っていなかった。目論んでいたレジャーというのが、山陽方面に出るものだったので、大気が不安定な状況で中国山地を越える気にはならなかった。
 そのため連休は、ほぼいつもの週末のように、近場で過した。唯一土曜日に、出雲大社周辺でイベントが開催されていたので、そこには少し顔を出した。13年前に結婚式のあとの披露宴というかそれぞれの親戚を集めての食事会みたいなものを開催した旅館が、イベントに合わせて一般公開、とチラシに書いてあったため、主にそれを目的として赴いたのだが、いざ旅館に行ってみたら、ほとんどの範囲は公開されておらず、そしてあまり歓迎されている感じもなく、わりと来てもしょうがなかったなあと思った。自分たちはかつでここで結婚披露宴をしたのだということを打ち明けたら少しは扱いが変わるだろうかとも思ったが、夫婦ともどもそういうキャラではない。早々に外に出た。
 というわけで連休のうち大体は家にいた。家でなにをしていたかと言えば、やはりショーツを作っていた。ちょっと自分でもびっくりするのだが、先週の3連休と併せて、今回のシルバーウィークにおいて、最終的に数えたら、35枚作っていた。裁断していた35枚を無事に作り終えたところで、さすがに今は少し冷静になっている。そろそろショーツ以外のものを作ってもいい頃合いだと思う。
 そんな感じの3連休だった。どんな感じだ、と思う。連休中、ネットが繋がっていれば、たぶん途中でいちどくらいはブログを書いたろう。そうすればこれほど散漫なふわっとした日記にならなかったかもしれない。しかしそれがなかったから、ショーツが35枚できたのだ、とも思う。禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬。シルバーウィークが終わってしまい、平日が始まった。9月下旬というのは、なにぶんpurope★papiroの誕生日があるものだから、連休が多く、世間的にも浮ついた感じがあるが、今はそれが過ぎ去って、寂寥感が胸いっぱいに溢れている。秋ですね。

39歳

 誕生日を迎える。39歳になった。サンキュー!
 本日は平日なので、昨日、敬老の日の19日にお祝いをしてもらった。毎年のように書いているが、誕生日が敬老の日と極めて近いというのは、生涯をかけて仕掛けるギャグのようだな、と思う。クリスマスと誕生日が近い子どものように、長生きできた場合の将来は、お祝いがひとまとめにされるに違いない。などと思いきや、われわれが年寄りになる頃には、年寄りを敬う習慣は完全に駆逐されていて、敬老の日なんてなくなっているかもしれない。なにぶんMD世代なので、そんな可能性もある。
 敬老の日なので、この日に届くように注文した品物が、横浜の祖母のもとに無事に届いたようで、日中にお礼の電話があった。贈ったのは入浴剤。毎年あげるものが浮かばず、困った末に敬老の日ギフトの特設ページから佃煮のセットや和菓子のセットみたいなものを、仕方なく選んだりしていたが、今年は頭にパッと入浴剤のことが浮かんだので楽だった。これはすごくいい閃きだったな、と我ながら思っていたが、電話口の祖母の口ぶりも本当に喜んでくれている様子だったので安堵した。ただし「下手な食べ物なんかよりすごくいい!」という一言は余計だった。どうした、ここ数年、下手な食べ物を贈ってこられでもしたのかよ。
 誕生日のお祝いだが、折しも猛烈な台風が九州から中国地方に直撃というタイミングで、気候も気圧も優れず、「世界も祝福してくれてる!」みたいな感動は一切ない日だった。出掛けることさえままならず、午前中に僕だけササっと買い出しに行った以外は、ずっと家で過した。家でなにをしていたかと言えば、ひたすらにショーツ作りに勤しんでいた。ショーツ作りって、今年に入ってから始めた趣味なのに、ショーツ作りをしていなかった時代の自分が休日をどう過していたのか、もう思い出せなくなりつつある。それくらい、この日に限らず、3連休を通して暇さえあればやっていた。hophophopに書いたが、初日にはピザを焼くということをしてみたのだけど、材料を機械に入れて作動スタートし、機械が生地をこねてくれている間も、ショーツ作りの作業をしていた。ああ俺は今、パンを作りながら、同時にパンツも作るという、稀有なことをしているな、と思った。「パン作ってる」と「パンツ喰ってる」のジョークがあるけれど、その世界観にだいぶ肉薄したのだった。
 晩ごはんのメニューは手巻きずし。これまでいちおう盛り合わせみたいなものを買っていたのだが、今回からネギトロとサーモンのそれぞれパックだけを買うことにした。それでなんの問題もなかった。ハマチとか貝とか、結局みんなあんまり食べないんだよな。

 
 子どもが恒例の誕生日ポスターを描いてくれた。こちらがピイガ。かわいい。左上から時計回りに、ファルマン・僕・ピイガ・ポルガ・ヒット君・ヒット君・ヒット君・クチバシ・モジャジャ・オオクチアホキリン・ひっとこちゃん・メロヘロ・バネリン・カンガルー(夏休みにピイガが僕に世話をされながらフェルトで作った)・みどご(ピイガの大好きな緑色のゴリラ)である。盛りだくさんで素晴らしい。
 
 
 こちらはポルガ。「これ……なに? 誰たち?」と訊ねたら、「ポルガがいま書いているお話の登場人物だよ」という答えが返ってきて、え、あ、そうなんだ、と思った。「うまいでしょ」と賞賛の言葉を乞うてきたので、「え、その、誕生日おめでとう的なメッセージは?」と思わず問いかけてしまった。すると「ないよ」と平然と答える。相変わらずすごいな。思春期で素直に父親におめでとうって言えない、とかじゃない。本当にただ自分が描きたいものを描いたのだ。やー、さすがだ。
 ごはんのあとはデザート。イチゴがまるでない時期につき、毎年微妙に困る僕の誕生日ケーキ。冷蔵庫にぶどう(シャインマスカット)はお裾分けされたものがけっこうあるのだが、ぶどうのケーキは素人には難しいだろう。かと言って今年はチョコレートケーキも気が乗らなかった。それでどうしたかと言えば、だいぶ思い切った。白玉クリームぜんざいにした。斬新な切り口だろう。誕生日ケーキって、甘いものであれば代替できるのかと言えば、そういうことでもない気もするのだが、でも今年はそうした。しかし悪くなかった。生まれて初めて白玉を作ったファルマンが、茹で上がった白玉を湯から取り上げて直接皿に盛ろうとしていたので衝撃を受けたが、ちゃんと冷やさせ、あんことアイスクリームをたっぷり添えて、食べた。おいしかった。
 誕生日プレゼントは、いろいろ考えた末に、今後必要になる予定の棚をもらおうと思ったのだが、少々お値段が張るのと、現状はまだ必要ないのとで、年末あたりに、去年トレーニングベンチを買った、「今年一年がんばった自分へのご褒美」と合算して手に入れられればいいかな、ということで保留とした。虎視眈々としていることだな。
 そんな39歳の誕生日の祝いだった。当日の今日は台風一過で、今日こそ世界は祝福してくれるかと思ったが、朝から風雨を浴びた車は汚く、下手に気温が下がったせいか職場の空調はうまく回らず空気は淀んでいて、さらには3連休で生活のリズムを崩した体は重く、なんだかあまり具合の良くない日だった。でもたぶん今日が底で、これから364日、調子は上がっていく一方だと思う。母から「三十代最後の一年を愉しんで」とメッセージが届いたが、三十代を惜しむもなにも、自分の中でまだ自分が三十代であることを処理できていないと言うか、受け入れられていない。なので今年は、自分が三十代であるという事実を受け入れるための1年間としよう。1年かけて、とろ火でじっくりと、自分にそのことを理解させられたらいいと思う。無理に決まってっけどな! へへん!

秋が来る

 8月が終わった。夏が過ぎ去ったのだった。7月と8月って、やっぱり大野と杉山みたいな感じがあり、あちらの気が向いて、にわかに仲間に入れられたりすると、そこから見える風景は華やかで、気持ちが昂揚したりもするのだけど、それでも結局は柄じゃないので、またあちらの気が向いて見放されると、なんともいえない寂しさと同時に、一方で結構ほっとしたりもする。7月と8月っていつもそんな感じだ。
 7月、夏本番なのに体力的な問題から意外とプールに行けない、という悩みがあったが(能天気な悩みだ)、7月末あたりに、行ったときに800メートルとか1000メートルとか泳ごうとするからいけないんだと喝破して、300メートルから400メートルくらい泳いで終わりにするスタイルにしたら、途端に行きやすく、そして生きやすくなった。やっぱり泳ぐと精神的に救われる部分があるので、こまめに行ったほうが心が健康なのだ。
 年間会員になったことで、元が取れるかどうかを意識するようになり、その検証のために、実はプールに行った日は記録を取るようにしている。5月からやっている。それによると7月は7回にとどまったが、8月は12回も行った。今後もこの調子を継続したい。
 記録はカレンダー書式のノートに書き込んでいるのだが、プールに行った日に印をするだけでは何だなと思い、長く記録を継続したら価値が出てきそうな事柄として、射精した日にもその符号を記入している。それによると、と7月と8月のそれぞれの射精回数を発表しそうになったが、これは秘匿しておく。
 しかしこれを付け始めて思うのは、14歳の頃からやっておけばよかった、ということだ。初めては14歳だった。そこから今までの射精が全て記録として残っていたら、とても愉しかったろうと思う。なにぶん約四半世紀ともなれば立派なデータである。例えば9月20日から翌年9月19日まで、すなわち年齢ごとの射精回数が最も多かったのは何歳なのか(意外と30代ではないか)。あるいは四半世紀で最も平均射精回数が多いのは何月なのか(5月ではないか、という気がする)。そしてなにより総数を算出し、感慨深くなりたい。さらにはその総数に、一度に放出される精子が2億個だとして、それを掛け算して、その天文学的な数字にくらくらしたい。したかった。後悔だ。もしもタイムマシンがあれば、14歳の、のび太の射精前夜に行って、射精の記録を取ることと、それとついでに、女の子も実はエッチなんだよ、ということを伝えてやりたい。ただしそれを伝えた場合、射精の回数は大きく変動することとなり、歴史は大きく変わって、家族写真から兄さんの足が消えてしまうことになるだろう。
 話が横道に逸れた。夏が終わった話をしている。9月はなんてったって誕生月である。我ながらいい季節に生まれたものだと思う。品がある。ちょうどいいポジションにいる月だ。東京にいた頃は、9月19日までが夏で、俺の誕生日からが秋だな、ということを体感から思っていたが、島根はやっぱりそれより夏は短く、8月限りできっぱり終わったというか、実は8月の終わり頃は既にちょっと怪しかったように思う。じきに普通に肌寒くなる。肌寒くなってきたら、冬用タイヤみたいな話になって、そして気付けば年末年始になるような気がする。しかし年末年始は、わりと最近のことではなかったか。
 話に取り留めがなくなってしまった。1週間もブログを書かないでいると、なんとなく地に足がつかない文章になる。身体が鈍るとか、筋肉が衰えるとか、大げさに言うと、そういうことだ。年齢によるものか、そういうことをしみじみと思う。昨日、自分はあまりにも表情筋を動かしていないのではないかという思いに囚われ、顔の筋肉が弱って、肉が支えられなくって老けるという仕組みの哀しさに打ちひしがれ、なんとかそれから長く逃げ回りたいものだと思い、頬を思いきり持ち上げてみたりした。そういうことを、心がけてやることに、39歳になる秋の哀愁がある。14歳から、四半世紀になるのか。