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2025年の年の瀬、そして大切な読者のみなさまへのお知らせ


 年の瀬である。
 今年のクリスマスも見事な平日で、24日が水曜日ともなると、前と後、どちらの週末にずらしても間が抜ける感じがあり、仕方なく暦どおりにクリスマスディナーを催した。
 メニューはミートグラタン、ピザ、ローストチキン、生ハムといったラインナップで、ローストチキンは義実家が「自分たちのついでに買ってやる」というので、ありがたく申し出を受けた。持ってきてくれたのはアヒルかなんかだろうかと思うような巨大なもので、値段を見ると1本1000円ほどもしていた。だとすればついでに買ってくれたわが家の分だけで4000円である。義実家は平時より経済をきちんと回しているなあという印象があるが、年末年始はさらにその箍が外れている感がある。今年も間違いなく豪勢なおせちを予約していることだろう。
 ローストチキンをはじめとして、ワインが進んでしょうがないようなメニューだったが、晩ごはんの際はこれに麦茶を合わせた。なぜならこの日はポルガの塾があり、送迎をしなければならなかったからである。今日は私が送り迎えするから飲めば? とファルマンは言ってくれたが、少し雪の混じった雨が降るような気象条件では、任せられるはずもなかった。その代わり夕飯のときには全体の3割ほどしか食べず、迎えが終わってからきちんと食べ、飲んだ。ローストチキンはやわらかくておいしかった。
 ケーキは、去年そこそこの値段を出したのに前年に比べて明らかに小さく、寂しい気持ちになったので、今年は手作りしようとあらかじめ考えていて、さらに言えば苺も高くて買いたくないので、チョコレートのスポンジとクリームにバナナという組み合わせにした。これはとてもよかった。この時期の苺の高さというのは、本当に常軌を逸している感があり、ケーキを作るにあたりスーパーの苺の値段に一喜一憂せずに済んだのは、すごく救われた。チョコとバナナのケーキは、もちろん間違いのない味で、材料の調達も、味わいも、とにかく気楽であった。ケーキなんてこんなんでいいんだなー、としみじみと思った。ちなみに、もちろんロウソクを立てて、火を点け、ハッピーバースデーを唄うわけでもない、クリスマス特有のグダグダな吹き消す儀式をしたのだが、その際に「今年は涼子がちょっと世間様をお騒がせしちゃって……」とキャンドル・ジュンのモノマネをするのも忘れなかった。われながら律義だと思う。
 子どもたちへのプレゼントは、ポルガが最近はまっているという西洋史の文献、ピイガが電動やすりなどのハンドメイドグッズだったのだけど、中3と小6のクリスマスプレゼントというのは、なんかもう本当に立脚点があやふやというか、ピイガは夜、ポルガは朝、それぞれの寝ているとき部屋に袋を置くという、サンタクロースからのプレゼントが届いたよ的な形式はいちおう取るのだが、一方でプレゼント選びに関しては、数日前に思いっきりファルマンのアカウントで、子どもたちと一緒にamazonで選んでカートに入れたりしているわけで、じゃあもうオープンなのかな、と思って、届いた物品をそんなに隠さない感じで扱おうとしたらファルマンに少し窘められたりもして、なんかもうサンタクロースの存在およびその崩壊具合が、あまりにもまだらすぎて、戸惑うのだった。来年は中学生と高校生になるわけで、もうさすがに親からの手渡しでいいんじゃないのか、いっそamazonの段ボール直渡しでいいんじゃないか、とも思う。
 プレゼントと言えば、年末恒例、自分への1年間おつかれさまプレゼントである。今年は特にこのひと月半ほどよく働いた感があるので、とびっきりのプレゼントを買っても罰は当たらないだろうという思いがある。そういう強い意欲のもと、なにを買ってやろうかと意気込んで、ここ2週間ほど熱心に考えているのだが、これがびっくりするくらい思い浮かばない。去年はさんざん悩んだ末、なにを思ったか老眼鏡を買ったのだった。あれは結局、買った直後しか使わなかった。実にもったいないことをした。老眼鏡自体は腐るものではないので持っておくに越したことはないが、1年間のご褒美にはなり得なかった。今年はあんな失敗をしたくない。でも本当に思いつかない。そろそろネットで注文したものは年内に届かない時期になってきた。参ったな。
 まあそんな感じの、2025年の年の瀬を過している。今日で無事に仕事が納まり、明日からは待望の連休だ。嬉しい。夏のように大イベントもないので、存分に自分の時間を取り、せいぜい堪能しようと思っている。
 それとひとつ、このブログを読んでくれている人に報告がある。
 2018年から始まった「おこめとおふろ」、突然だが、今回が最終回である。7年間、35歳から42歳まで、パピロウの暮しのことを綴るために存在していたブログだったが、このたびその役割を終え、幕を閉じる運びとなった。ブログというのは、あるとき明確にその役割を終えるのだ。ブログって、そうなのだ。ブログってほら、例のあれと例のあれを、繰り返すものですからね。次の展開をお愉しみに!

娘たちの近況、および


 子どもが来年には高校生と中学生になるという事実に、たまにおののく。
 ポルガはこのたび、中学の部活を無事に引退した。ここまで明記せずにいたが、吹奏楽部であった。積極的に学校の話を親に向かってするタイプではないので、そこまで深く知らないが、気の合う友達もいて、それなりに愉しくやったようである。ポルガが1年生時の、3年生が引退する定期公演を観たとき、いまの3年生は立派だが、ポルガの代が上級生になったときあのような風格を身につけることは決してないだろうから、この部活はどんどん衰退していくに違いない、と思ったものだが、それから2年経って、ポルガの代が引退する定期公演では、当時の3年生ときちんと同じ風格を纏っていたので、子どもの成長というのはすごいものだなと思った(ただしそれと同時に、ひとつの場所に長くいて、立場が上がっていくと、存在感というのはオートメーションで付与されるものなのだな、とも思った)。
 部活を引退したので、いよいよ本格的に受験生としてのフェーズに入ったわけだが、前にも書いた通り、成績的に志望している高校はまず大丈夫だという。だというが、受験のことなので、なにがあるか分からない。親としては、推薦で早めに安全に決まってしまえばいいと願わずにおれないが、ポルガの入ろうとしている高校というのは、この地域の勉強のできる子が入るタイプの学校なので、公立校のくせに、公立校だからだろうか、どうも話を聞くにつけスタンスが居丈高で、推薦で合格するような子というのは、もれなく生徒会長などをやっていた子だったりするのだそうで、そういう話を聞くと、自分が中学生だった頃の、内申点とかの体制に縛られるもんかと猛反発し、結果的に地元で行ける高校がなくなってしまった、あの頃の気持ちが甦ってきて、とてつもなく嫌な気持ちになるのだった。自分の人生にとって、中学をいい子で過し、地元のそこそこの共学校に行かなかったことが、結果的に良かったのか悪かったのかは、他方の人生を経験していないから判りようがないけれど(高校が共学でなかったという事実に、身を焦がすような激しい感情に襲われる夜はたまにあるけれど)、ただひとつ確信を持って言えることは、僕はあまり子どもの高校受験に関して口を出さないほうがいいということで、日々の塾の送り迎えも、粛々と寡黙にやっている。まあどういう結果であれ、自己肯定感だけは強く育っているので、それさえ頑丈にできていればなんとかなるだろうと捉えている。
 次にピイガは、小学6年生にしてはやはり身体が小さく、1学年下の従妹にも身長で抜かされ、同級生と一緒にいても下級生の妹のようにしか見えないことから、先日とうとう成長ホルモンなどが正常に分泌されているのかどうか、2泊3日の入院をして、正式な検査を受けたのだった。ちなみになぜ入院する必要があるのかと言えば、寝起きの状態を調べなければならないかららしい。近所にある病院だったのだが、ファルマンも付き添いで寝泊まりし、その間は当然ながら僕とポルガがふたりで暮した。家が静かで、リビングが散らからなくて、ピイガの日々放っているパワーを痛感した2日間だった(だからカロリー収支がプラスにならないのだ)。
 それで診断結果はどうだったかと言うと、成長ホルモンは正常に分泌されていて、ただしその流れが平均よりも2年ほど遅れているようなペースなので、いまは周りの子が成長期なので本当に差が激しいけど、そのうちそれなりに追いつくんじゃないか、みたいなことだったそうで、要するにそれは『診断名:かわいい』ということだなと、父親としてそう解釈した。下の娘はいつまでも小さくて無邪気でかわいらしいと思っていたが、このたびとうとうそれが医学的見地から実証されたのだ。伝説のようなエピソードではないか。
 そんなピイガが、来春から中学生である。もうぼちぼち、制服の採寸である。信じられない。このままだと、嘘みたいな女子中学生が爆誕する。なにか強い思念体が、その特殊な力によって、このような現象を生み出したのではないかと、一種スピリチュアルなものを感じずにおれない。
 ついでに、そんなふたりのティーンエージャー少女の親である僕の近況報告をするならば、最近ハーフバック気味の水着を穿きだしたことから、水着からはみ出る尻のことが気に掛かるようになり、ボディスクラブや風呂上がりのマッサージ、そして尻を持ち上げるための筋トレなど、尻の美容にこだわりはじめた。若かった頃の自分の尻がどうだったのかは知らないが、たぶん大人になって以降では、いまがいちばんきれいな尻をしていると思う。以上です。

血とスピード


 文化の日の3連休を利用して、兵庫で暮すファルマンの上の妹一家が、下の子の七五三のためにやってきていた。中日の日曜日に、写真館での撮影と、そのあと出雲大社で祈祷というスケジュールとのことだったので、タイミングを合わせて一家で出雲大社へと繰り出した。もちろん祈祷に参加するわけではなく、境内で3歳児の着物姿を、親戚として愛でるだけのことである。
 ちなみに出雲大社は目下、出雲地方が最も出雲地方らしさを発揮する月間、すなわち神在月であり、何年か前にこの時期の出雲大社に近付こうとして、だいぶまだ遠い段階での車の詰まり具合に、ほうほうの体で引き返したことがあったので、果たしてどうなんだろうと不安だったが、もう夕方といってもいい時間帯だったこともあってか、そこまでのことにはならず、それでもさすがに直前では駐車場に入るための渋滞に巻き込まれたが、なんとか停めることができ、無事に一同と落ち合うことができた。一同とは、下の妹一家、ファルマンの両親、そして妹の夫の両親という面々である。
 本日の主役である義理の姪は、写真館からここまでの移動中に昼寝をしたとのことで、ぐずることもなく、かわいらしかった。
 着ている着物は、うちのふたりの娘はもちろんのこと、なんとファルマン三姉妹の時代からずっと受け継がれているもので、つまり今回で実に7人目ということになるのだった。最初がどういう状況での購入だったのか、もはや太古の昔の話なので遡りようがないが、それにしたって7人も着れば十分に元は取れたに違いないと思う。
 せっかくなので出雲大社の境内で写真を撮ろうということになり、だとすればそれは当然、この場にいる人間の中で、唯一今日の主役と血の繋がりのない僕が、ひたすらカメラマンに徹して血族の姿を撮影するべきだろうと思っていたのだが、義父が仕切りたがったり、向こうの母親が「修正が利かないので私は入りたくない」などとのたまって写りたがらなかったりして、あまりスムーズにいかなかった。結果、義理の伯父が入っている一方で、母方の祖父と父方の祖母がいない、みたいな謎のメンバー構成の写真も生まれた。そんなもん、どうせ撮ったってハードディスクの肥やしになるだけだろ、と思った。
 このあと一同はお祝いの会食ということで、別れた。わが家は本当に、この日の七五三スケジュールの、出雲大社の場面にちょっと顔を出しただけなのだった。まあ、まったく関与しないのも微妙に変な気もするので、ちょうどいい絡みだったんじゃないかと思う。
 それにしても間がまあまあ空いて誕生した義理の姪は、見るたびにその幼さに驚かされる。ふだん自分の娘たちしか見ないので、特にピイガなんかは、どうしても「幼いもの」のカテゴリに入れがちなのだけど、3歳児を目の当たりにすると、その親としての一種のモラトリアムにも似た意識が、完膚なきまでに粉砕されるのだった。そうだ、うちの娘たちは、来年それぞれ高校生と中学生なのだ。それはもちろんいろんな部分で、まだまだ幼い生きものなのだけど、でも絶対的な幼さを目にすると、やっぱり明確に違う。なにが違うって、要するにフェーズが違う。いつの間にか自分は次のフェーズに進んでいたのだな、ということに気付かされる。今生、僕が再び血族の幼児を愛でることがあるとすれば、それは孫の代ということになる。びっくりする。人生って想像以上にスピーディーだ。おもひでぶぉろろぉぉんでは、17年前の、25歳当時の日記を読んでいるのだ。17年後、ポルガは31歳である。そうなのか。人生って、こんなスピード感なのか。

2025年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日


 最終日は帰るだけかと思いきや、実はそうではない。今年の帰省は、(帰省以外のところで)本当に盛りだくさんなのだ。キャッスルイン豊川にチェックアウトギリギリまで居座らないという贅沢をしてどこを目指したかと言えば、兵庫県は宝塚市である。通り道であり、行きの際も宝塚サービスエリアで休憩したりしたのだが、このたびは高速道路を降りて、とある施設に寄ることにしたのだった。どこか。ここである。


 パピロウ、あなたはもう二度と人間に生まれてくることはないのよ。手塚治虫記念館に、火の鳥のTシャツを着てきてしまう、その心安い性格じゃないくせに半端にお調子者の了見が気に障るから、そう決めたわよ……。
 というわけで、さくらももこ、ツタンカーメン、佐藤雅彦と大スケールで巡った今回のミュージアム探訪旅行(もはや帰省にあらず)の掉尾を飾るのは、手塚治虫記念館なのであった。岡山時代からずっと行きたいと思っていたが、意外な形での来訪となった。画像にあるように、建物の前には他ならぬ火の鳥の巨大なオブジェがあり、テンションが上がった。「俺が火の鳥から啓示を下されているようなイメージで」と頼み、ファルマンに撮ってもらった。なかなかいい写真になって嬉しい。入館すると、まさにこの日僕が着ていたデザインの火の鳥のイラストが掲示されていて、受付の真ん前でだいぶ恥ずかしかったが、その前でも記念撮影をした。展示そのものは、まあ「ふうん」という感じで、なにぶん手塚治虫のすごさというのは、わざわざ記念館に来なくても有名すぎるほどに有名なので、新しい驚きのようなものは特になかった。また企画展は「創聖のアクエリオン」がテーマで、これも残念ながらわが家のセンサーには引っ掛からなかった。ミュージアムショップには初めて目にするような商品が多数あり、テンションが上がった。カード全てにさまざまなキャラクターがデザインされている火の鳥トランプなんかを買った。ポルガは「ブッダがあんまりない」とボヤいていたが、ブッダはほら、キャラクターって言うか、キャラクターじゃないって言うか、微妙なところだから。そもそも手塚キャラの中でブッダ推しっていうのやめろよ、と思った。あとプリクラもあって、せっかくだからということでもちろん手塚キャラフレームであるそれを、一家でやった。普段なら考えられないことだが、さすがに思春期の長女も参加してくれた。しかし家族の中で誰もプリクラを撮り慣れている人間がいないため、まあまあ散々な出来になった。でもまあ、僕はもう二度と人間に生まれてくることはないので、これも人間としてのいい思い出としよう。
 ちなみに順番が逆になるが、ここにたどり着く前、ナビの指示に従って道を走っていたら、窓の外を見ていたファルマンが「あーっ」と言って、見ると右手に太陽の塔があった。初めて実物を目にした。想像よりもだいぶ大きくて驚いた。
 それとさらに順序が逆になるのだが(一体どういう構成で日記を書いているのか)、この朝の出発の際、買い出しなどあって豊川の街を走っていたら、ちょっと異様な雰囲気のエリアに入り込んで、そこはかの有名な豊川稲荷なのだった。出雲大社ほどではないが、かなりのメジャー級であろう。今回は素通りしたが、どうせまたキャッスルイン豊川へは、今回のように行きも帰りも両方じゃなくても、泊まることはほぼ確実にあるだろうから、その際は立ち寄ってもいいかもしれないと思った。
 そんなわけでだいぶさまざまなスポットを巡った、5泊6日の、帰省にかこつけた夏の大旅行であった。結局もちろん100%僕が運転をして、まあまあ疲れたけれど、今年も実行できて、そして無事に帰ってこられて、本当によかった。

2025年夏の自家用車横浜帰省 4日目


 横浜での予定は昨日がすべてで、この日はなんの用件も入れていなかった。さてどうしたものか、また子どもたちを連れて、VS PARKのような、人が多くて疲れるだけのような場所に行くはめになるのか、とビクビクしていたら、ポルガが「いとこでカラオケに行きたい」と言い出したので、それはいい、4人でカラオケに行ってくれるなんて、それほど楽なことはない、と諸手を挙げて大賛成した。
 しかし成長した子どもたちが勝手に遊んでくれるのはありがたいが、付き添いがお役御免となった大人は、じゃあどうしよう、となった。せっかく横浜まで来ておいて、家でぐだぐだ過すというのもさすがにもったいない。ファルマンと話し合った結果、ふたりで身軽だということもあり、じゃあ渋谷とか池袋とか行っちゃう? ということになった。去年は東京には足を踏み入れなかったので、島根・鳥取・岡山・兵庫・京都・大阪・滋賀・三重・愛知・静岡・神奈川の、その先への進出である。
 まず田園都市線で渋谷へ。山手線に乗り換える前に、わざわざ外に出て、スクランブル交差点のあたりの様子を眺めた。渋谷駅周辺はここ数年ですごく変わったと言われるが、このあたりはそうでもないという印象を受けた。ハチ公前には外国人がわんさかいて、もうこのエリアは観光地以外の何物でもないのだな、と思った。かくいう我々も、スクランブル交差点でまったく無意味に行って帰ってをしたし、スマホで映像配信しているっぽい人もいた。ともすればあそこを歩いている人の7割くらいは、どこかに行くために歩いているのではなく、歩くために歩いているのかもしれない。
 山手線に乗ったのもずいぶん久しぶりだ。渋谷から池袋は7駅、というのは覚えていたが、間にある駅の記憶はまばらだった。原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白が正解で、さすがは錚々たるラインナップである。山陰本線との情報量の違いたるや。
 かくして池袋に到着する。田園都市線だったのでもちろん渋谷には子どもの頃からの馴染みがあるのだが、大学以降は池袋のほうが縁が深くなった。なにしろ数年間、駅構内で働いてさえいたのだ。ちなみに勤めていた書店は、そもそも会社がなくなったこともあり、いまはチュチュアンナになっていた。そうか、俺が二次元ドリーム文庫とか売っていた場所が、いまはチュチュアンナなのか、因果は巡るのだな、と感慨深い気持ちになった。そのあとも駅構内を散策するが、当時はまさにシマで、ホープセンターの、知る人ぞ知るさらに地下の喫茶店まで把握していたというのに、いまはもはや普通に道に迷う。駅の造りそのものは変わっていないというのに、15年ほどの歳月が、僕と池袋駅をこんなにも引き離してしまったのだった。西武デパートも閉鎖されているし、なんだか切ない気持ちになった。
 ひとしきり駅を堪能したあと、地上に出て、とりあえずサンシャイン方面を目指して歩き出す。道がいちいち懐かしかった。街や人の様子は、まあそこまで15年前と変わっていないような気がした。サンシャインの入り口が巨大なニトリになっていて驚いた。そうか、ハンズがニトリになったか。検索したところ、2021年の出来事らしい。そうか。サンシャインシティにも入館し、動く歩道が相変わらずでなんだか嬉しかった。そして当時からそうだったが、サンシャインシティってなんとなく行くけど、別に買うものはなにもないのだった。右の通路で奥まで行って、それから反対側の通路で戻った。途中のイベント会場では、イケメンがたくさん出る感じの、たぶん女性向けのゲームのイベントをやっていて、しかしあまりにも知らない世界だった。ファルマンはそのさまを眺め、「私は昔、ここで波田陽区がトークイベントをしているところをたまたま通りかかった」と言っていた。古すぎる。ただサンシャインまで行って帰っただけで、なにをしたというわけでもないのだが、とにかく久しぶりでエモかった。
 駅に戻って、お昼ごはんを食べることにする。なににするかは出発前から決めていた。立ち食いそばだ。田舎にはない立ち食いそばが、何年も前からずっと食べたかったのだ。子どももいない今が、千載一遇のチャンスである。当時毎日のように食べていた「のとや」は、自分がまだ東京にいた頃に閉店してしまったので、構内で見かけた適当な店に入る。テーブル席のない、本当の立ち食いそば屋だった。冷たい麺とカレーのセットを注文し、食べる。びっくりするくらいおいしかった。出雲そばに対して、初めて食べたときからずっと悶々とした気持ちを抱いているけれど、やっぱり僕は断然こっちのそばが好きなんだな、と確信した。いいないいな、立ち食いそば、いいなあ、と久々に都会に羨ましさを覚えた。人が多くて薄利多売が成立するからやっていけるんだろうな。島根では絶対に無理だろうな。
 冷たいそばを食べて元気が出たので、どうしようか迷っていた池袋のさらに先、西武池袋線エリアへも足を延ばすことにした。各駅停車に乗り、江古田駅で降りる。何年ぶりだろう。駅舎が新しくなってから来たことがあっただろうか。様子がだいぶ違っていて驚いた。喫茶店「トキ」はなくなっていたし、「お志ど里」もなくなっていた。「洋庖丁」もなかったし、ラーメン「大番」もなかった(それなのに跡地で猛烈に大番のにおいがしたのだけどあれは一体なんだったのだろう)。その一方で、竹島書店やライブハウス「BUDDY」、そして「江古田コンパ」が健在だったのは驚いた。意外な所がなくなり、意外な所が残った感じ。いちおう悪質なタックルで有名な大学の、夢見がち学部キャンパスにも足を踏み入れるが、中まで入ろうとすると受付で面倒なことになりそうだったのですぐに引き返した。まあ入ったところで、卒業してから完成した新校舎に思い入れなどなにもないのである。
 それで帰ってもよかったのだが、なんとなく隣の駅である桜台まで歩いてみようかということになり、炎天下だったが実行する。「松屋」の創業店を眺めて、千川通りではなく、中の道を歩く。桜台にあったファルマンのアパートから大学に行くとき、よく使った道のはずだったが、わりとただの住宅街なのでこみ上げてくるものは別になかった。桜台駅周辺も、変わったようなあまり変わってないような、という感じだった。
 これでさすがに帰ろうかとも思ったが、練馬まで行けば有楽町線で帰りやすくなるなあと考え、さらにひと駅行くことにする。なにしろ近い。いま検索したところ、わずか800mほどだという。ピイガの通う小学校までの距離よりも短いのだ。かつて「せと」という個人経営のコンビニだったセブンイレブンが懐かしかった。ここを曲がって北に進むと、新婚時代に住んでいた早宮のエリアになるが、さすがに遠いので行かない。すぐに着いた練馬は、わりと相変わらずのように感じた。
 やれやれ、しっかり思い出の地を堪能したものだと満足し、電車の切符を買おうかとしていたまさにそのとき、ファルマンのもとに連絡が来る。先ほど池袋で、江古田方面にも行ってしまうかという話になったとき、もしも会えたらということで連絡を入れた、当時ほぼ唯一付き合いのあった「いつもの一家」の母、大学時代のファルマンの友達からであった。あまりにも急で少しバタバタしているが(これは本当に申し訳なかった)、せっかくだから会いたいと言ってくれて、向こうの住まいからアクセスしやすい中村橋で落ち合うこととなった。練馬から中村橋は、ひと駅だがさすがに電車を使った(桜台よりは離れている)。待ち合わせ時間まで少し間があったので、大学卒業後すぐに住んだアパートの前まで行ってみる。僕は7、8年前、そのときも今から会ういつもの一家とこのあたりで会ったときにひとりで行ったけれど、ファルマンは引っ越し後、初めての再訪である。ナメクジが這うようなスピードでしか進まない「おもひでぶぉろろぉぉん」でも、さすがにもうこのアパートからは引っ越し、早宮に移っている。自分のブログなんだからそういうものだとしても、それにしたって僕はあまりにも自分の話ばかりしているような気がする。
 しばらくして、懐かしい顔が自転車でやってきた。その自転車の後部座席には男児がいた。5歳となる末っ子である。もともとポルガの2個上の長女、ポルガとピイガの間の次女がいたのだが、そこから少し間が空いて男児ができていたのである。ちょうど秋篠宮家スタイル。存在はもちろん知っていたのだが、これが初邂逅となった。駅前のマクドナルドで、しばし話す。同級生は相変わらずの感じだった。娘たちの画像など見せてもらい、おお、と思う。今回、娘たちにも声を掛けたが、「向こうの子たちがいないんなら行ってもしょうがない」と、もっともな理由で断られたそうで、次は娘たちも含めてきちんと予定を組んで会おうよ、という話になった。そんなのも愉しそうだ。そのときは車で行ける場所がいい。
 渋谷とか池袋をフラッとするだけの予定が、かなりの大行脚となった。暑さもあり、だいぶヘトヘトになって帰宅する。子どもたちだけでのカラオケは、いとこにアレルギー性鼻炎が発症したこともあり、フリータイム最低3時間保証のところ、2時間半ほどで切り上げたらしい。つまりまあ、いまいちな感じだったんだろうな。いとこはふたりとも、あまりカラオケをするようなタイプではない。
 晩ごはんは定番の手巻きずし。食べ終わったあと、みんなで集合写真を撮る。いつもなんだかんだで撮るが、現像して年ごとに並べるようなマメな人間はひとりもおらず、過去の画像がどうなっているのかは知る由もない。それでいい。切り取ろうが、切り取るまいが、時代は進む。かつての勤務先はチュチュアンナになり、波田陽区はすっかり見なくなり、トキはなくなり、子どもは育ち、新しい子は生まれる。おもひでぶぉろろぉぉん。

24年~25年の年末年始記録 後期編

 7日目。1月3日。昨晩あたりからうっすらとその気配を感じていたが、喉に違和感があり、ゆるやかに体調が下り坂にあるようだった。加えて、しゃがむときなどに下半身に強張りを感じる。前日のランニングによる筋肉痛なのだった。全長3kmくらいの、途中で息が続かなくてだいぶ歩いた、あのランニングで筋肉痛になるのかよ、と驚いた。
 午前中は朝ごはんのあと、そのまま家族全員でのゲーム大会となった。おとといのブックオフで子どもたちが「スーパーマリオパーティー ジャンボリー」を買っていて、「パパもやるか」という誘いをこれまでは断っていたのだけど、この日は気が向いたので応じ、ファルマンも含めて4人でやることになった。前作「スーパーマリオパーティー」も子どもたちは持っており、こういうゲームが好きなんだなあ、と少し意外に思う。僕は美少年の頃、この手の、ミニゲームたくさん系のゲームは、ぜんぜん視界に入らなかった。もしかするとそれは家族の仲の良さとかが影響するのかな、などと思った。正月らしい愉しいひと時だった。
 11時くらいになって実家から連絡が来る。昼にマクドナルドを買うことにしたのでそちらも一緒にどうかという誘いだったので、喜んで受ける。次女夫妻が取りに行ってくれるというので、わが家のオーダーを伝えた。というわけで昼ごはんは実家でマクドナルド。助かった。
 食べ終わったあとファルマンと娘たちはそのまま実家で遊ぶというので、僕だけ帰る。帰って、しばし裁縫したのち、プールへと繰り出す。この日が今年の初開館日なのである。12月29日に行って、1月3日なので、4日あいただけのことか。よくあることだな。29日もわりとそうだったが、この日も家族連れが多かった。案外、真冬でも家族でプールに行くのだな。この時期、僕はプールに行くと言うたびに、妻から奇異な目で見られるのだけど。
 初プールをたっぷりと堪能し、その足で実家に寄り、家族を回収する。もう空は暗かった。遅く起きて、ゲームして、マック喰って、裁縫して、泳いで、そして終わった日だった。薄いと言えば薄い、ハッピーと言えばハッピー、なんかそんな日だった。
 8日目の1月4日は、わりと盛りだくさんだった。まず次女一家が午前中に出発するというので、その見送りに行く。いつものことながら、濃密に絡んだ日々だった。次に会うのは、順当にいけば春休みだろう。
 次女一家の車を見届けたあとで、われわれ一家もすぐに車に乗り込む。今日はこれから出雲大社にお参りに行くのだ。せっかくだからということで実家の3人もこのタイミングで行くことになり、現地で落ち合おうという話になった。三が日はそもそも近付かないのでよく知らないが、4日の出雲大社は、大いに賑わいつつも、近隣の駐車場に車がとても停められないということもなく、なかなかいい具合であった。元日の初詣とは別で、やはり新年、地元民として、出雲大社に行っておかないと、ずっと頭の片隅で気になったりするので、連休中に行くのが得策なのだった。また5日までは、ふだん開放されていないエリアが開放されている、という特典もあるわけだが、今回ももちろん入りはしたのだけれど、毎年のことながら、入ったところで別に感動するような場所ではないのだった。子どもや三女はここでもおみくじを引いていた。僕はもう引かなかった。三女の縁談の項が気になったが、あまり覗き込んだりするのもな、と思って自重した。噂によると、婚活に本腰を入れる決意をしたとのことである。いいご縁がありますように。
 大社のあと図書館へも行って、ずいぶん遅くなった。途中、ご縁横丁の店で焼き菓子を買い食いしたものの、昼を大幅に回ってしまった。帰りにスーパーに寄り、弁当を買って帰った。帰宅してそれを食べたあとは、いよいよピイガの誕生日祝いの準備である。ポルガがポスターを描き、ファルマンが部屋のセッティング、僕は食べ物担当。まずケーキに取り掛かる。イチゴはまったくもって法外な値段であったが、ここでケチったらクリスマスの二の舞だな、と思って十分な量を買い揃えた。そしてクリスマスのケーキが小ぶりだった雪辱を果たすため、高さにこだわり、生クリームのパックを2つ用いる、4段構成の立派なものを作り上げた。これでようやく溜飲が下がった。晩ごはんのメニューは、ピイガのリクエストである、たらこマヨネーズを塗った餃子の皮のピザと、それとメインをどうしようかと悩んでいたが、ピイガの好物であるうどんの入った寄せ鍋にした。出雲大社で、空腹で寒い思いをしたので、もうこれは鍋にするしかない、と思ったのだった。
 というわけでピイガ11歳の誕生日祝いの宴を執り行なう。鍋はもちろんおいしかったし、ケーキは8等分してもひとりひとりのケーキ皿にデデンとすさまじい存在感の塊として鎮座し、その表面や断面にはふんだんにイチゴがあしらわれていると来て、心がとても満ち足りた。なにより味がおいしかった。今年はクリスマスケーキも手製にしようかな、と思った。ちなみに、子どもが誕生日を今年も無事に迎えられたことはもちろんめでたいが、10歳から11歳という数字の変化は、特になんの感想ももたらさないな、と思う。11歳もすくすくと成長してほしいものですね。
 そして最終日、1月5日。この日はもう、体調もじわじわ悪くなっている感があったし、なにより気持ちがダウナーだった。サザエさん症候群の、特大版。だって9連休だったんだもの。自分がフルタイムで勤めに出ている人間であることを、ちょうど体がすっかり忘れかけたくらいのタイミングで、翌日からそれが再開するのである。ひどい! 人の営みっていったいなんだろう。勤めがあるから、尊い尊い9連休があるわけで、書店員時代の自分が9連休なんて得たら半狂乱だったろう、みたいなことを初日に書いたけれど、それで言えば、つい5年前くらいに、9連休どころではない、長い長い休みがあった。じゃああれは夢のようにしあわせな日々であったかと言えば、もちろんそんなことはなかったわけで、休み明けの憂鬱さに苛まれつつ、休みが終わるということに感謝をしなければならない、とも思う。とも思うが、やはり気持ちはダウナーなのだった。この日はもうどこにも出掛けない、と決意をしていたのだが、おやつの時間のあとで、いろいろ憂わずにおれないのだから、せめて冷蔵庫の中が充実していない憂いくらい解決させて明日を迎えようと思い、スーパーに繰り出した。そしてそれなりにいろいろ、明日からの食材を買い込んだ。明日からはファルマンが調理担当に戻る。ファルマンのなんとも言えない料理が恋しい(気がしないでもない)。そんな感傷的な、連休最終日であった。
 最後はどうしたって切なくなるけど、今年で言えば9分の8、つまり正月休み全体の約89%はひたすらに愉しいわけで、早くも1年後のそれを待ち遠しく思っている。それまでせっせと生きてゆこうと思う。

24年~25年の年末年始記録 中期編

 4日目、31日の大みそかは、日中は相変わらず裁縫をしたり、スーパーに買い出しに出たりして、地味に過した。おろち湯ったり館への思いが、この日々の端々で何度も募るのだけど、もちろん実際に行くことはない。行ったところで、在りし日の姿を期待している僕が満足するはずがないことは判っている。切ない。昼ごはんはカレーうどん。
 午後はファルマンと子どもたちが実家へ行ったので、自由に過す。もちろん裁縫や筋トレもしたが、この3時間あまりの中で行なったある行為が、最終日にして、結果として1年間の印象をガラリと変える、劇的な効果をもたらすこととなった。内容は「BUNS SEIN!」に詳しいのでそちらをご覧ください。
 夕方になって家族が帰ってきたので、大みそかの宴の準備をする。紅白歌合戦を眺めながら、5時間あまり過すための、お酒と食べ物。メニューについては数日前からいろいろ思案していたが、午前中のスーパーで、オードブルセットとして、円形の容器に盛られた、スモークサーモンであるとか、鴨肉のソテーであるとか、海老とアボカドのサラダであるとか、もうこれさえあればほぼ他になにもいらないじゃん、みたいなものを見つけ、それを買って帰ったので、とても楽だった。あとポテトを揚げたり、鶏肉を焼いたり。それともちろんポルガ以外の3人は蕎麦を食べ、ポルガは横浜の実家から送られてきた中華ちまきを食べた。
 今年の紅白歌合戦の印象は、言うまでもなく、B'zに尽きた。ファルマンは当然ながら大興奮だったが、ファルマンでなくたってあれは興奮するというものだ。圧倒的なパワーを見せつけられた。紅白はなんだかんだで、数年前のユーミンと桑田佳祐であったり、去年のYOASOBIの「アイドル」であったり、そして今年のB'zであったり、わりときちんと多幸感のあるエンターテインメントを見せてくれるな、と思う。1年の最後に感動があると、それは年間全体にいい作用をもたらすような気がする。すばらしいことだ。
 年が明けて、「2355-0655」恒例の、新春たなくじを行なう。画面でパッパッと高速で切り替わるおみくじの文面を、スマホのカメラで撮影し、捉えた1枚が今年の運勢という、現代的なスタイルのおみくじ。こちらが今年、「大大大大大吉」であったため、とても気分のいいスタートとなった。田中裕二の顔もこれ以上ないほどのドヤ顔であった。
 明けて5日目の元日。ポルガ以外の3人はお雑煮を食べ、ポルガはトーストにジャムを塗って食べた。もはや14年近くも育てていると、食べようとしないものを無理に食べさせようとするような、無駄な労力は使わないのだった。あと横浜から送られてきた黒豆と、スーパーでなんとなくそれだけ買った、紅白かまぼこと伊達巻の3本セットのものを切って並べた。伊達巻が、口に入れた瞬間に時空が歪むくらい甘くてびっくりした。
 そのあと昼前くらいに、毎年なんだかんだで元日に行っている神社へと向かう。地元民なので少なくとも三が日は出雲大社に近付かないのだ。参拝ののち、ここでもおみくじ。これがなんと、大吉なのであった。今年はやけに運勢を褒めそやされることだ。「願望(ねがいごと)」の項目では、「思うまゝです」とまで持ち上げられた。マジかよ。ただしそのあとで「しかし油断すれば叶わず」とあったり、他の項目でも「色に溺れ酒に狂えば凶なり」という注意喚起がなされていたり、多少の懸念はある。色に溺れ、酒に狂えば凶なのか。そうか。しかしそれらの、溺れたり、狂ったりというのは、いったいどのような度合を指すのだろう。ある程度は溺れ、狂うわけで、そのあたりを詳細に教えてほしいと思った。
 初詣のあとは、新春セールのブックオフへと元日から繰り出す。子どもたちは、このあと受け取るだろうお年玉のことを見越して、かなり買い込んでいた。やばい生き様だな。僕は僕で、どういう風の吹き回しか、110円のコーナーに並んでいた、社会契約論であったり純粋理性批判であったりの二次元エロ小説を、とても久しぶりに何冊か(子どもに隠れて)買った。買いはしたが、決して色目的ではないので、これはセーフだろうと思う。
 帰宅して昼ごはんのあとは、この日は夕餉を実家で、カラオケのときと同じメンバーで行なうので、ファルマンと子どもたちは先行してもう移動した。僕は家に残り、やはり裁縫であったり、筋トレであったり、そして「BUNS SEIN!」を書いたりして過した。元日も浮ついたところが一切ない。これはもう願望は思うまゝだな、と我ながら思う。
 夕方になってファルマンが迎えに来てくれ、ふたりで車に乗り込み、そのまま鮨屋に鮨を取りに行く。これももはや毎年定番のパターンだな。そして鮨を持って実家へ。鮨を食べ、酒を飲み、愉しく過す。プールで知らないじいさんに「腹、割れとったな」と言われたエピソードなどを開陳し、それなりに場を盛り上げたと思う。
 そこまでたくさん飲んだ気もしなかったが、帰宅後はなんとなく気怠くなり、運転役だったファルマンの晩酌には付き合えず、飲まずに寝た。なんだかこうして書くと本当に、おみくじを引いた初日から、わりと果敢にギリギリのラインを攻めていることだな。
 6日目、1月2日。のんびり起きてテレビを点けたら、箱根駅伝をやっている。年齢を重ねて、若いときには興味が湧かなかった事柄について、だんだん面白味を感じてきたりする部分もあるが、箱根駅伝はどうも、今年もまだらしい。ピイガと餅を食べている間だけ漫然と眺めたが、食べ終わったところで消した。
 午前中にひとり買い出しに出る。この3日間ほど、ごはんを炊きさえしない食生活だったので、さすがに地に足のついたものが食べたくなって、そういうものを買う。あとピイガの誕生日祝いのケーキ材料として、スポンジと生クリームを仕入れた。あとはイチゴだけだが、これがもう、今年の大河ドラマかよ、と言いたくなるくらい、べらぼうに高いのだった。三が日が終わった4日、少しでも値段が下がればいいのだけども。
 というわけで昼ごはんは、炊き立てのごはんでおにぎりと、キャベツの千切り、ベーコンエッグ、そして味噌汁という、本当に実直なメニューにする。白菜の浅漬けなんかも添えちゃって、しみじみとおいしかった。
 午後は今日もファルマンと子どもたちは実家行き。もはやオートメーションのような次元で行くことだ。帰省してきている従姉妹らは、実家で特にすることがないので、まあうちの子たちが行けば、それは喜ばれるわけである。娘たちも、家にいると「どっか連れてけ」だの「宿題したくない」だのとうるさいので、まあ行ってくれるのに越したことはない。
 ただし今日は、次女一家は今晩は夫側の実家で会食ということで、16時くらいにはそっちへ移動するという話だったので、だったら俺、15時過ぎくらいに実家にランニングで行って、おやつをみんなと一緒に食べて、そんでファルマンたちが乗っていった車に一緒に乗って帰るという、前にもいちどやったパターンのやつをやろうと思い、ひそかにファルマンたちが出発する前に、車に着替えや入浴グッズなどを載せておく。そして14時45分くらいまではいつも通り、裁縫や筋トレをして過したあと、ランニングウェアに着替え、家を出た。こうして走るのはずいぶん久しぶり、たぶん前の冬以来のため、自分の走れなさにびっくりした。水泳とは使う能力がぜんぜん違うらしい。3kmほどの道のりを、たびたび息が持たず歩きながら、なんとか辿り着いた。
 到着は15時15分頃だったので、さあちょうどおやつの時間だろうな、と思ったら、実家には義父とファルマンと子どもたちしかいない。義母と義妹らは、初売りセールへと繰り出したのだそうだ。16時に移動するんじゃなかったのかとファルマンに問い質したら、「その予定で、私もそのつもりで子守りを買って出たけど、なかなか帰ってこないのだ」とのことだった。仕方なくシャワーを浴びたりして過すが、それ以降もなかなか帰ってこない。結局3人が帰ってきたのは16時半を過ぎてからだった。そのあとせわしなくおやつを食べ、われわれ一家は帰った。予定時刻を聞きつけ、呼ばれてもないのに勝手に現れたわけで、文句が言える筋合いではないが、2歳児の相手などしながら、これならもっと遅くなってから来ればよかったなあ、と思った。
 晩ごはんは、こちらも日常を求め、豚肉と舞茸とネギの卵とじに、鯖、そして納豆という、どこまでも優しい献立。白米がひたすらにおいしいのだった。
 そんな中期3日間であった。休みはこれで残りあと3日。まだ3日もあるとも思うし、もうあと3日なのか、とも思う。普通ならダレそうなラスト3日間だが、わが家の場合、4日に誕生日の人がいる関係で、その心配はない。せいぜい愉しく過そうと思う。

41歳

 22日に誕生日を祝ってもらい、かくして41歳となる。
 40歳から41歳という、単なる数字による印象の違いは、もちろんないわけではないけれど、たぶん当人にしか知覚できないくらい繊細なものだろうと思う。だからそれについてはとやかく言わない。ただ1年前の自分と較べたとき、腰であるとか関節であるとか、さらには目や耳といった器官にも、一時的なものではない、これを加齢によるものと捉えないのは至難の業だろ、というような、じっとりと湿り気のある不調が現われはじめているという、年を取ったことの実感を抱きやすい事象がたびたび散見されるようになった気はするのだけど、それに関して語ることの箍を外してしまうと、そのあとはもう坂を転がり落ちるようにその話題を唱え続けてしまう気がするので、これについてもとやかく言わないでおこうと考えている。
 とにもかくにも、41歳である。
 誕生日祝いの宴のメニューは、手巻きずしにした。持ち帰りの鮨という案もあったのだけど、食費とは別でその予算が下りるならば、その資金で買い出しをして自分好みの手巻きずしのほうがいいという、当人のめんどくさい希望を通すこととなった。かくして買い出しから、玉子焼きを作ったり、酢飯を拵えたりするのも、すべて当人で行なった。それでいいのか。それがいいのだ。最後のほうなんか、おいしそうな具材はどんどん揃うし、これから俺の誕生日祝いだし、ということでテンションが上がって、バースデーソングのプレイリストを当人がスマホで流しはじめる始末であった。その結果、思春期の長女から「うるさい、ヘッドホンして」と文句を言われた。嘘だろ、俺の誕生日の祝いなんだぜ? と愕然とした。
 手巻きずしはもちろんおいしかった。盛り合わせとかを買うと白身魚を持て余す、という経験則から、今回はネギトロとサーモンと海老をそれぞれ買い、生もの系はそれのみとした。ただしそれでも余った。ピイガなんて、なにを包んでいるのかちゃんと見ていないけど、もしかしたら納豆とか玉子焼きとかばっかりなんじゃないのか。
 食後にケーキ。ガトーショコラだの、クリームぜんざいだの、9月のバースデーケーキには毎年腐心していたが、今年はちょうどバナナとキウイフルーツが家にあったので、ロールケーキをリクエストし、採用される。ファルマンとピイガで、午前中に作ってくれた。現代のネットのレシピは優秀だ。ちゃんと包めていたし、ちゃんとおいしかった。画像を載せようかと思ったが、撮った写真は、ベージュ色の皿に、たまご色のスポンジのロールケーキがズドンと乗った、なんとも言えないものだったので、よしておく。
 代わりに恒例の誕生日ポスターを載せておこう。


 去年の、膝から崩れ落ちそうになるようなものではなく、今年はきちんと描いてくれた。姉妹での合作である。ロゴや家族の似顔絵、オリジナルキャラであるカメラメ先生などを先にピイガが描き、空いたスペースにポルガが、やはりオリジナルキャラを描いた。相変わらず、ポルガはぜんぜん誕生日のお祝いイラストということを意識せず、自分の描きたいものを描く。これはもう反抗期とかそういうことではない。こいつの心性だ。
 ちなみにピイガの手による似顔絵は、左下がポルガ(切るのを拒む髪がうっとうしい)、右下がピイガ、紙面の中央あたりでヒット君に乗って空を飛んでいるのがファルマン、そして中央最前にいるのが僕。アップにするとこう。


 まあまあ似ているような気がする。LINEのプロフィール画像にしようかな。
 ちなみに誕生日プレゼントは、思案した挙句、今年こそは生地に逃げず、靴にした。しかしネットで注文したのだが、まだ届いていない。早く届いてほしい。
 そんな感じで、加齢の実感であったり、娘の思春期であったり、もちろんそれ以外にも、日々の懸案はそれなりにありつつも、それでもこうして家族3人から誕生日を祝ってもらえたのだから、これ以上望むことはない。本当にありがたいことである。これからの1年も、愉しい日々が続けばいいと思う。

2024年夏の自家用車横浜帰省 4日目

 そう言えば、気になる人は気になっているであろう、『実家においてオートメーションで祖母が行なう衣類の洗濯に、この2年あまりですっかり、手作りのビキニショーツしか穿かないタイプの人になったパピロウは、どう立ち向かったか問題』なのだが、前回の帰省から1年半経って、祖母は95歳となり、実はうすうすそんな予感はしていたが、祖母はさすがに日々の洗濯係からは引退した模様で、そして母というのはあまり洗濯を積極的にするタイプの人ではないので(よく洗濯機を回したあと干すのを忘れて丸一日経ったりしていた)、帰省中の洗濯はセルフと言うか、なんなら祖母と母の分も一緒に回してわれわれが干す、みたいな形になったのだった。そしてそれはほぼ理想的な形と言っていいもので、滞在中は勝手に回し、勝手に干し、勝手に取り込んで、勝手に畳んだのだった。とは言え初日からそのスタイルが確立されていたわけではないので、そこではショーツは洗濯に出さず、かと言って荷物の中に入れていた、実際には穿いていないのに洗濯に出すカムフラージュ用のボクサーパンツもまた、出さない、すなわち下着はなにも洗濯に出さないという選択をしていたのだけど、滞在3日目となるこの日、初めてショーツを洗濯に出し、横浜の空の下に干したのだった。いったい僕はなにについて、こんなに言葉を弄して語っているのだろうかと、我ながら思う。
 さすがに洗濯を引退した祖母だが、しかし傍から見れば変わりなく元気そうで、長生きの年寄りというのは基本的にそういうものなのだろうとも思うが、なにより自分の健康についての自信、そしてそれを自分のみならず周囲へも十全に認識させようとするガツガツ感が、とにかくすごいと思った。実際、体もまだよく動くようで、それは誇るべきことだろうとは思うが、週一で通うようになったというデイサービスにおいて、自分よりも年少でありながらもはやよぼよぼの老人たちに較べ、自分がどれほど健康体であるかを朗々と語る祖母の姿を見て、人間および生き物の本性、とにかく長く生き抜こうと思ったときに必要なのは、倫理や貞節などでは決してなく、他者を見下して自尊心を高めることとなのだな、と思った。今回の祖母の言い回しで感心したのは、「80代の人もみんな杖をついているが、私は杖のつき方を知らない」というものだ。この驕り高ぶりと来たらどうだ。「負け方を忘れてしまった」というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、それと同種だ。ただし「負け方を忘れてしまった」のほうは、フラグと言うか、そんなことを言っている奴はいつかコテンパンに痛い目に遭うだろう、という気がするけれど、95歳の祖母は、もう何を言っても許されるので、要するに最強だと思った。いいなあ、95歳で、「杖のつき方を私は知らない」と言える人生。血筋としては素質があるはずなので、目指して生きていこうと思う。
 さて全体4日目の予定だが、この日は特に予定を入れず、事前に姉に、「この日にいとこで一緒に遊んでやってよ」とだけ打ち合わせをしていた。この日もなにも、近所に住むいとこたちは隙あらばこちらにやってくるわけだが(そのためこの前日などは、来てくれるなとわざわざ頼む必要があった)、せっかくの1日フリーということで、横浜に来たからには、みたいな所へ繰り出したいという思いがあった。しかし前日ポルガはあんな状態だったし(回復したようだったけれど)、なにより山陰よりもやはり強く感じられる関東の暑さに参っていたしで、「家で4人で桃鉄でもすればいいんじゃない?」と提案したのだが、もちろんあえなく却下され、結果的にみなとみらいにある「VS PARK」という屋内型ゲーム施設に行くことになった。ちなみにもうひとつの候補として、渋谷および原宿という、これはこれでド田舎の中学生にとってはだいぶ訴求力のあるスポットに繰り出すという案もあり、どちらかと言えば僕はそちらのほうがよかったのだが、具体的にどこでなにをするというプランのないそちらに対し、「VS PARK」のホームページはやることが明確かつ魅力的で、どうしたって子どもたちの希望はそちらに傾いてしまったのだった。島根からスタートし、8県2府を跨った今回の旅路で、最後に東京都まで踏破したいという思いがあったのだが、残念だった。僕が利用していた頃とは様変わりしたらしい渋谷の街を、今回こそは味わいたいと思っていたが、また持ち越しになってしまった。
 というわけで、みなとみらいに向けて出発する。母も姉も来たので、計8人の大所帯だ。あざみ野から市営地下鉄で桜木町まで。ちなみにこのときわが家4人は、去年3月の帰省以来、1年半ぶりに公共の乗り物に乗った。田舎暮し、マジで公共の乗り物に乗らない。そして公共の乗り物って、乗らずに生きていると、どんどん乗りたくない気持ちが強まってくるものだな、と思った。
 みなとみらいは、「USP」で確認したところ、2015年の9月以来であるらしい。当時、ポルガは4歳、ピイガは1歳。シルバーウィークでの帰省の最終日、新幹線で岡山に帰るという日に、ファルマンの大学時代の友達と集ってごはんを食べ、最後に子どもたちにせがまれコスモワールドでメリーゴーランドに乗ったところ、想定外に時間がかかり、このままでは乗るはずの新幹線に乗り遅れてしまう、となって、コスモワールドから桜木町駅まで全力疾走した記憶がある(子どもにはもちろんない)。当時からの違いとして、聞き知ってはいたがロープウェイができていた。なるほどなあ、という感じのロープウェイだった。「VS PARK」の入る施設までは、ランドマークタワーの足元などを通りながら、歩く。途中のビルでドラクエのイベントをやっていて、巨大なスライムが吹き抜けの中空に浮かんでいたので、写真を撮って義妹に画像を送って自慢した。
 わりと歩いて(都会特有の、気付けばわりと歩くやつ)、目的の商業施設に到着した。施設はコスモワールドのすぐ隣だった。ここまでもそうだったが、中もすごい人の数。お盆だから逆に関東からは人が減っているんじゃないか、という希望的観測は泡と消えた。「VS PARK」も当然ながらすごい行列で、たじろぐが、8人でわざわざここまで出向いている以上、じゃあやめよう、というわけにもいかず、並ぶ。これが実に長かった。当初見えていた列は、先へ進んで道を曲がるとさらに奥に続いていたので、心底うんざりした。わが家は、島根在住者なんですよ! 行列耐性が、日本でいちばん低いと言って差し支えないんですよ! 容赦してくださいよ! ファルマンは途中からうずくまり、スマホをじっと眺めるだけになり、なにを見ているのかとそっと覗いたら、あだち充の漫画を読んでいた。この人は今、あだち充の漫画を読むことで、ギリギリ踏ん張っているのだな、と思った。
 並んだ末にようやく入った「VS PARK」は、その名の通り「フレンドパークⅡ」や「VS 嵐」をモチーフにしたような施設で、中には「そのまんまじゃねえか」みたいなゲームもあった。入場まで待たせる代わりに、中はそこそこの混雑に抑えるという仕組みのようで、2時間の制限時間の中で、並んでるだけでぜんぜん遊具にありつけねえじゃねえか、ということはなく、それなりに遊んだ。子どもたちは愉しそうだった。大人は、もう行列の時点で腰などがだいぶ悲鳴を上げていたので、子どもたちの撮影を中心にやって、あと穏当そうなゲームを少しだけこなした。ヘロヘロだった。
 退場後は、もう15時近くになっていて、昼ごはんがまだだったので空腹だったが、施設内のフードコートには人が溢れていたので諦め、駅に戻る途中のファストフードで済ませた。連休中の観光地なのだから当然だが、とにかく、とにかく人が多かった。
 夕方に帰宅したら、祖母によって洗濯物が取り込まれ、畳まれていた。初めて油断してショーツを干した日にこんなことになったか、と思った。祖母はたぶん、ファルマンかポルガのものと思ったろうな。
 実家で過す最後の晩ということで、夕飯時にはふたたび叔父と義兄もやってきて、食卓を囲んだ。叔父とは今回、ほとんど会話をしなかったな。広島大学に遊びに行ったという話も、するのを忘れてしまった。最後に全員での集合写真を撮ってお開き。くたくたになった1日だった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 2日目

 2日目。早く寝たので、6時台に起きた。起きてすぐ、とりあえずこのホテルでの被災は免れたのだ、と思った。ピイガも起きたが、確認するまでもなく隣室のふたりはまだ起きていないだろう。ピイガに断りを入れて朝風呂に行った。少し大きいだけの単なる風呂だったが、それでもまあ、せっかくだから入っておこうという貧乏根性である。そのあと寝起きの悪いふたりとも合流し、朝ごはんはホテルのビュッフェ。宿泊プランに入っていたので、ワホーイと会場へと向かった。特段豪勢ということもなかったが、普通においしく、なにより朝のビュッフェはテンションが上がることだよ、と思った。
 そして出発。この日はこの地から横浜への移動だけの予定だが、さすがにこの日に伊勢参りをスライドさせるという考えはなかった。津から伊勢神宮は、60キロくらいあるらしい。行って、回って、また三重県の北部まで戻ってこようとすると、どう考えても半日以上かかるだろう。いま自分たちが、人生でいちばん伊勢神宮に近付いているという認識はありつつも、さすがによした。縁があればまた機会は巡ってくるだろう。
 津からまた高速道路に入って走り出すと、すぐに中京工業地帯のあたりに出て、海上を進むような沿岸の道が、若干おそろしくも気持ちよかった。長島スパーランドの、信じられないようなジェットコースターの骨組みを目にし、震え上がったりした。そのまま愛知県を突っ走り、新東名に入り、静岡県の浜松サービスエリアで休憩。なかなか賑わっていた。車はさらに進み、とうとう神奈川県に入る。島根をスタートし、鳥取、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、三重、愛知、静岡と来て、ラストの神奈川である。来れるもんだな、繋がってるんだな、と思った。1日でやれと言われるとつらいが、2日がかりの悠々スケジュールだったこともあり、新鮮で愉快な経験だった。飛行機は論外として、時間に余裕さえあれば、新幹線よりもこっちのほうがいいな、と思った。家族水入らずで過せるし、ホテル代、高速代、ガソリン代を含めてもたぶん安上がりだ。今後はこれで決定だな、と思ったが、子どもがこうしてようやく長距離の車移動に堪えられる年齢になって、そして子どもが帰省についてきてくれる間だけだから、人生の中でかなり限られた期間だろうけども。
 厚木を過ぎて、もうほとんど実家のエリアだな、となったところで、綾瀬から町田にかけてのところで、この旅程でいちばんの渋滞に巻き込まれたが、それでもなんとか横浜青葉インターチェンジまでたどり着いた。ここまで来ればいよいよホームである。いつも島根の街を走っている車で走る青葉区の住宅街は、傾斜のある土地にギューっと建物を詰め込んでるんだな、というギチギチ感がすごかった。実家に到着したのは15時台。母と祖母が出迎えてくれた。祖母は、第一声がなんだったかは忘れたが、第三声くらいが、「次はいつ来るんだ、正月は来るのか」だったのは覚えている。濁してもしょうがないのではっきり言った。「正月は確実に来ないよ」。
 われわれの到着が伝わり、近所に住む姉の子どもたちもやってくる。姪は高1、甥は小6である。再会は去年の3月(WBCをやっていたので覚えやすい)以来だが、どちらも大した変化はなかった。この期間、4人の中でいちばん発育したのはポルガだろうと思う。身長がファルマンに匹敵するポルガは、縮みつつある母の身長を超えていた。そして子どもが4人揃うと、毎度のことながらとても喧しかった。島根のほうのいとこは、ピイガの1個下の子はおとなしいし(心を開いた相手には延々としゃべり続けるけれど)、その妹はまだ2歳なので、4人いてもほぼポルガとピイガのうるささしかないのだけど、こちらの4人は、4人がそれぞれしっかりとうるさいので、本当にすごいことになる。久々に味わうその感じに、ああそうだった、こんな感じだった、こんな感じの、すごいストレスなのだった、と思った。
 晩ごはんまでの間に、納戸からアルバムを持ってきて、眺めた。僕の幼少期のアルバムである。相変わらずかわいかった。もちろん今も今で至極かわいいのだけれど(そのうえ40歳としての艶も出てきた)、やっぱり手足が短いかわいさというのは格別だな。自分の小さい頃の写真を見ることでしか満たされない容器が満たされるのを感じ、満足した。
 やがて叔父や姉夫婦も現れ、一族が全員集合し、晩ごはんのメニューはもはやオートメーションの手巻きずし。叔父は叔父だったし、姉は姉だったし、義兄は義兄だった。集う感じも、手巻きずしも、人間も、実に不変。こうも不変ならば、もう実際に集合しなくても、VRでもいいのではないかと思うほどだった。
 そんな感じで全体の2日目は終わった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 1日目

 横浜帰省から無事に戻った。
 南海トラフ地震注意に怯えつつ、さらには台風7号に追い立てられながら、しかし結果的には何事もなく、住まいへと戻ってくることができたのだった。本当によかった。
 移動日のホテル宿泊も含めれば5泊6日にも及ぶ日々を、これから綴っていく。ちなみに車だったので、ノートパソコンも持っていったのだが、結局いちども起動させなかった。毎日日記を書いておけば楽だったろうにな。
 出発は8月11日であった。発生から1週間が経過し、注意報も解除された今となっては、結果論として過剰な反応ということになってしまうが、降って湧いた南海トラフ地震注意に、出発前の2日間はだいぶ悩んだ。移動は長く、そしてその道程はだいぶ南海トラフの警戒地域である。わざわざこのタイミングで、南海トラフの話題は普段、はっきり言って他人事である山陰の人間が、ノコノコそっちへ出ていく。これで本当に被災したら目も当てられない。宿泊先が実家だけならまだいいが、行きは三重県、帰りは愛知県の、それぞれなんの土地勘も縁故もない地方のホテルに泊まるのである。もしもその夜に地震が起ったら――? とまあ、不安は大きかったのだが、実際に取り止める踏ん切りもつかなかったので、決行した。
 行きの宿泊先は三重県と書いた。三重県は津市である。津は、スムーズに島根から横浜を目指すのであれば、少し寄り道になる位置にある。ではなぜ津かと言えば、今回のこの帰省には、伊勢参りというオプションも付けていたからだ。せっかく車でこのあたりを通るのだから、いつか行きたいと思っていた伊勢神宮観光も兼ねようではないかと。三重県の南方にある伊勢はだいぶ遠いが、早朝に出発し、昼あたりに着いて、半日ほど伊勢神宮を巡り、そして夜に津のホテルに入る、という算段を立てていた。しかしこの予定は、ポルガの部活動の影響(あまり誰も行けると思っていなかった上の大会に進出してしまったのだ)により、急遽中止することになった。11日の午前に部活が入ってしまったのだ。残念は残念だったが、この旅程の初日に、早朝に起きて炎天下で伊勢参りというのは、やったらけっこうハードだったかもな、とも思う。
 というわけで昼過ぎ、ポルガを学校で拾っての出発となった。伊勢参りがなくなったことで、この日は津まで行ってホテルにたどり着ければそれでいい。渋滞がなければいいな、と思いながら長い旅路が始まった。車内では、このために作ったプレイリストをひたすら流した。横浜帰省用として、2ヶ月ほど前から、ひとり10曲、計40曲というプレイリストを、12個作っていたのだ(ポルガやピイガは意気揚々とやっていたが、僕とファルマンは120曲を選出するのに大いに苦労した)。1つで大体2時間あまりとなるそれを、順番に再生し、最後に家に戻ってきたときは、ナンバー10の途中だった。自分が聴きたいと思って入れた曲と、家族の選んだ聴いたことのない曲が流れるので、飽きずに道中ずっと愉しめた。日々の運転でもだが、音楽のサブスクはだいぶ車中のQOLを上げてくれていることだな、と改めて思った。
 道は、岡山(倉敷)との行き来では、広島県を通る、しまなみ街道を使って尾道まで出るルートだが、検索したところ今回のような場合はそっちではなく、しまなみ街道ができるまでは使っていた、鳥取県を通って蒜山や津山など岡山県の北部に出て、そこから兵庫県へと進んでゆくルートのほうが早いということで、久しぶりにそっちの道を走った。途中、蒜山高原や宝塚北のサービスエリアで休憩した。宝塚には手塚治虫コーナーがあったので、寄ってよかった。兵庫県を越えると大阪府で、さらには京都府、そして滋賀県も少し掠める。ちなみに大阪と京都は、イメージしていたような風景ではぜんぜんなかった。そういうものだな。島根だってほとんどの地域は神の国でもなんでもない。それにしても京都だ。「京都市街」みたいな表示のインターもあり、ここを降りたら京都観光ができてしまうのかー、と思った。宿泊先さえ確保できれば、片道4時間ちょっとくらいで、京都旅行ってできるんだな。今回の経験を通して、これまでなんとなく畏敬の対象で遠かった京都が、存外そうでもないのだということを知った。そのうちやれたらいい。そして滋賀を抜けたらそこはもう三重県である。この道程において、大阪や京都あたりの渋滞が不安だったが、そこはぜんぜん問題なくて、でもなぜか唯一、滋賀から三重までの間の、具体的にどのあたりだったかもう忘れたが、トンネルが連続する山道のあたりで、何十分間かの渋滞に巻き込まれた。まあそのくらいで済んだのはよかったと思うべきか。
 ちなみにこの道中で、島根県代表である大社高校の、甲子園1試合目が行なわれており、ここというのはファルマンの上の妹とその夫の出身校であり(妹のほうが2つ上で、高校時代は面識がなかったという)、さらにはパピロウヌーボでおなじみのプロ角マキコこと江角氏の出身校でもあるため、わりと身近に感じているのだった。しかし初戦の相手が、春の選抜の準優勝校である兵庫の報徳学園ということで、これは無理だろう、まあ甲子園に行けてよかったよね、などと思っていたら、勝ったのでとても驚いた。試合状況はファルマンが助手席でちょいちょいチェックする形で確認していたのだが、試合が終わってしばらくしてから、そう言えばラジオで聴けたんだな、と気づいた。
 そうして無事に津に到着。ホテルは市の中心地にあって、街と道の感じが、なんとなく岡山を彷彿とさせた。ホテルに入る前にガソリンを満タンにし、あと地元のスーパーで夕飯を買い込む。事前にわざわざ調べさえした地元のスーパーは、しかし期待していたような愉しさのない、いまいちな感じだった。ちなみに酒は買わない。事前の宣言通り、ホテルでは飲まないのだ。5時間近い運転ののちに! 飲まない! 南海トラフ地震注意だから! だいぶん忸怩たる思いを抱えながら、酒をカゴに入れることなくレジを通した。
 ホテルはごく普通のビジネスホテルで、トリプルの部屋があれば、小学生添い寝無料とかで1部屋で済んだのだが、うまいこといかず、ツインの部屋を2つ取ることになり、その部屋割りをどうするかで少し悩んだ。結果として、寝つきがいい組(僕とピイガ)と、寝つきがクソ組(ファルマンとポルガ)で分かれることにした。これはとてもよかったと思う。部屋でごはんを食べたあとで、性分としてどうしても甘いものが食べたくなって、ホテル近くのコンビニまで買いに行くことにした。ポケモンGOをするポルガを誘い、ふたりで夜の津を歩く。コンビニは通りを1本入った、住宅街の中にあった。そもそも伊勢神宮に行くつもりで取った、だから今となってはぜんぜん泊まる謂れのない津に、なぜか一家4人で来ていて、ひと晩泊まるのだと、そして今はその津の中でも、絶対に地元住民しか使わないようなコンビニに娘と歩いて来て、プリンを買うのだと、そういうことを思うと、なんだかとても不思議な気持ちになった。津! 津て! 俺の人生に、津で過す一夜があるだなんて! 部屋に戻り、プリンを食べ、大浴場(サウナはなく、なんの面白味もない浴場だった)で風呂を済ませたあとは、僕もピイガも眠気が来たので、ピイガは21時台に、僕も22時台に、早々に寝た。向こうの部屋のことは知らない。ファルマンは「時計を見たら2時だった」などと言っていたような気がする。エアコンの設定が難しかったこともあり、僕もぐっすりとはいかず、浅い眠りの中で地震のことなどを思って途中で起きたりしたが、そのとき見た時計の時刻が2時台だったように思う。幸い地震は起らなかった。
 とりあえずこれが初日の動き。パピロウ名物、数日間に及ぶ出来事の、序盤はかなりしっかり書き込むが、後半はたぶん流し気味になるやつ。2日目に続く。

17年

 これは本当にまぐれなのだけど、ちょうど先ごろ「おもひでぶぉろろぉぉん」で読み返した、「ファルマンの父方の祖母が餅を喉に詰まらせて植物状態になる」という、2007年の1月下旬に起った出来事が、このほどようやく終結したのだった。
 丸17年である。上の義妹が成人式をした年であった。下の義妹はまだ高校生であった。つまり当時彼女は17歳だったので、彼女の人生の半分、祖母は眠り続けていたということになる。長い。あまりにも長い。かつて麻生太郎がボヤいたように、もはや魂があるのかないのか分からない祖母に、その年月注ぎ込まれた保険料のことを思うと、日々せっせと働くことって一体なんなんだろう……、と虚無的な気持ちになったりもした。でも17年前のあの日、「とりあえず生かすことは可能」という診断結果に対し、親族が処置を断るという選択肢もなかったわけで、これは本当に難しい話だ。なにより誰もそれが17年も続くとは考えていなかったし。とりあえず親族にも、ご本人にも、おつかれさまでした、という言葉をかけるよりほかない。
 僕は故人にいちどだけお会いしている。在学中に島根に行ったのは1回だけだったと思うので、そのときだ。これぞまさに一期一会というものだな、と思う。もちろんそこまでしっかり絡んだわけではないので、印象というのは特にない。でも会ってはいるんだよな、という感慨はあった。俺もなかなかこの一族の中で古参になってきたものだな、と。
 木曜日の朝に亡くなり、金曜日が通夜だった。仕事を少し早上がりして、僕もホールへと向かった。ほぼ身内だけの式なので、集まっていたのはほとんどが知った顔だった。義父の妹の娘、すなわちファルマンの従妹と久々にお会いした。いつぶりかと言えば、祖父の葬式以来だろう。親戚あるあるの定番、「喪服でしか会わない」のやつだな。関西に住む上の義妹一家はまだ到着しておらず、翌日の葬式からの参加ということだった。また従妹の下には従弟もいるのだが、そちらはいま関東に住んでいるため、明朝の早い飛行機で来るらしい。通夜の儀式はつつがなく終わった。純度の高いメンツなので、僕はどうしたってわりと部外者的な感じで、それでいて通夜というのは、ご遺体とかなり接する場面があるため、なかなか戸惑った。下の義妹や従妹は肩を震わせたりしていたが、ファルマンは一切そんな様子がなく、前日に初めて祖母の遺体と対面したときも、ファルマンは開口一番に「鼻毛」と口に出して言ってしまい、顰蹙を買ったそうだ。ドンマイドンマイ、僕は好きだよ。
 翌日は午前に火葬、午後から葬儀というスケジュールで、午前中のそれにはわが家からはファルマンだけが参加することとなり、午前は子どもとのんびりと過した。ちなみにこのタイミングで鳥山明の訃報が届いており、追悼の気持ちを込めてドラクエ11を進めた。
 昼ごはんを食べてから再びホールへ。上の義妹一家と、従弟が参上していた。上の義妹一家は、日記にも書いたとおり、2月下旬に会ったばかりで、別れるとき、どうせまた1ヶ月後の春休みになったら会うのだなー、などと思っていたら、それよりさらに短いスパンで顔を合わせた形だ。こっちが移動しているわけではないので、居住地が関西であるという距離を感じさせない遭遇ぶりである。それに対して従弟は本当に久しぶり。当然こちらも祖父の葬式以来である。その頃が20代半ばから後半くらいで、いまが34歳。前回のときの記憶が残っているわけでもないが、彼にとっての母と姉が通夜の際に「老けたよ」と評していた通り、なかなか貫禄が出ているように感じた。太ったというわけではなく、なんというか、トーンが落ちたというか、渋くなったというか、若々しさがなくなったというか、くすんだというか、とにかくこれがリアル加齢というものだな、と思った。向こうもこちらを見てそう思ったろうか。彼の数年間がたまたまそれが顕著に出る時期だったのであり、こちらも一律にあの変化が起っていて、身近な人間では気づきにくいが、数年ぶりに対面したら僕も劇的に変わっているように見えているのだ、とは思いたくない。おそろしくてしょうがない。いや、人は老い、そして死ぬものだけども。それを痛感させる最たる行事にまさに参加している身の上なのだけれども、それだから余計にかもしれない、数年ぶりに会う親戚に「老けたなー」って思われるのきっつ、と思った。
 葬式は、ご遺体が遺骨になった以外は、通夜とあまりやることに違いはなかった。お坊さんが戒名の説明をする際、脇の台に置かれた位牌を取ろうとして、水平チョップのようになってしまい、位牌を思いきり倒したのがおもしろかった。ファルマンとは席が離れていたのだが、いまあいつは絶対に笑いをこらえているのだろうな、と思った。ファルマンは昔から、葬式のときはずっと頭の中で志村けんが躍動するのだそうだ。そのあとはひたすらお経。今日は鳴り物要員もいて、やかましかった。どうも一丁前に、音の強弱や鳴らす所作などにこだわりがありそうで、なんじゃそりゃ、と思った。死後の世界のことは生きている人は誰も分かってない、分かりようがない、ということを、みんなもう知っているのに、なんでお坊さんって、あんなふうに「こういうものですよ」という感じで振る舞えるのだろう。あれって一体どういう精神構造なのだろう。嘘を自分で信じ込み過ぎて、嘘と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。あるいはもう完全にビジネスライクなのだろうか。それならそのほうがよほど健全だと思う。そして僕はそのビジネスにはお金は払いたくないな、ということを今回改めて思った。もしもいま僕が突然に死んだら、何宗なのかも知らないが、家のなんかしらの宗派の寺の取り仕切りで葬式がなされることになるが、それは事前にきちんと、決してやってくれるな、ということを意思表明しておかなければならないと思った。僕の葬式は和民かサイゼリヤでやってほしい。そこでみんなリーズナブルに、食べたいものを食べ、飲みたい酒を飲んでほしい。そして願わくば、最後に死体でフィッシュパニック(胴上げ)してほしい。そうすれば、僕は文字通り浮かばれると思う。
 とまあそんなことを思った、久々の葬式だった。式はこれでおしまい。ファルマンのいとこたちと、別れの挨拶を交わす。「また長いお別れだね」と口からついて出たのだが、もうファルマンとこのいとこたちの共通の祖父母は、これにていなくなったわけで、滅多なことを言うものではないが、次の葬儀は次の世代の番ということになり、そう考えれば彼等との再会は本当にだいぶ先のことになりそうだ。その頃にはもうどうしたって、お互いに「老けたなあ」と思わずにはいられないに違いない。
 そのあと納骨などもあったが、火葬と同じくそちらはパスし、義妹の娘を含めて子どもたちを連れて僕だけ先に実家に帰った。ちなみに子どもたちは、通夜も葬式も、ホール内のホテルのような控室で遊んで待機し、式には参加していない。なにしろ故人とはいちども触れ合っていないので、その距離感は仕方がないと思う。17年間というのは本当に長かった。僕は「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっているので、強い実感とともにそう思う。ただそのおかげで、ということもないが、今回の一連の葬儀に悲愴感はほぼなかったと言ってよく、この、親戚一同が喪服を着て式に参加しているのに、故人に対しての喪失感がない感じって、あれだな、これはもはや法事だったのだな、とも思った。葬式と、17回忌を、足して2で割ったような、今回はそんな儀式だったような気がする。不思議な感触で、なんだか早くも白昼夢のような記憶になりそうな気配がしている。