横浜での予定は昨日がすべてで、この日はなんの用件も入れていなかった。さてどうしたものか、また子どもたちを連れて、VS PARKのような、人が多くて疲れるだけのような場所に行くはめになるのか、とビクビクしていたら、ポルガが「いとこでカラオケに行きたい」と言い出したので、それはいい、4人でカラオケに行ってくれるなんて、それほど楽なことはない、と諸手を挙げて大賛成した。
しかし成長した子どもたちが勝手に遊んでくれるのはありがたいが、付き添いがお役御免となった大人は、じゃあどうしよう、となった。せっかく横浜まで来ておいて、家でぐだぐだ過すというのもさすがにもったいない。ファルマンと話し合った結果、ふたりで身軽だということもあり、じゃあ渋谷とか池袋とか行っちゃう? ということになった。去年は東京には足を踏み入れなかったので、島根・鳥取・岡山・兵庫・京都・大阪・滋賀・三重・愛知・静岡・神奈川の、その先への進出である。
まず田園都市線で渋谷へ。山手線に乗り換える前に、わざわざ外に出て、スクランブル交差点のあたりの様子を眺めた。渋谷駅周辺はここ数年ですごく変わったと言われるが、このあたりはそうでもないという印象を受けた。ハチ公前には外国人がわんさかいて、もうこのエリアは観光地以外の何物でもないのだな、と思った。かくいう我々も、スクランブル交差点でまったく無意味に行って帰ってをしたし、スマホで映像配信しているっぽい人もいた。ともすればあそこを歩いている人の7割くらいは、どこかに行くために歩いているのではなく、歩くために歩いているのかもしれない。
山手線に乗ったのもずいぶん久しぶりだ。渋谷から池袋は7駅、というのは覚えていたが、間にある駅の記憶はまばらだった。原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白が正解で、さすがは錚々たるラインナップである。山陰本線との情報量の違いたるや。
かくして池袋に到着する。田園都市線だったのでもちろん渋谷には子どもの頃からの馴染みがあるのだが、大学以降は池袋のほうが縁が深くなった。なにしろ数年間、駅構内で働いてさえいたのだ。ちなみに勤めていた書店は、そもそも会社がなくなったこともあり、いまはチュチュアンナになっていた。そうか、俺が二次元ドリーム文庫とか売っていた場所が、いまはチュチュアンナなのか、因果は巡るのだな、と感慨深い気持ちになった。そのあとも駅構内を散策するが、当時はまさにシマで、ホープセンターの、知る人ぞ知るさらに地下の喫茶店まで把握していたというのに、いまはもはや普通に道に迷う。駅の造りそのものは変わっていないというのに、15年ほどの歳月が、僕と池袋駅をこんなにも引き離してしまったのだった。西武デパートも閉鎖されているし、なんだか切ない気持ちになった。
ひとしきり駅を堪能したあと、地上に出て、とりあえずサンシャイン方面を目指して歩き出す。道がいちいち懐かしかった。街や人の様子は、まあそこまで15年前と変わっていないような気がした。サンシャインの入り口が巨大なニトリになっていて驚いた。そうか、ハンズがニトリになったか。検索したところ、2021年の出来事らしい。そうか。サンシャインシティにも入館し、動く歩道が相変わらずでなんだか嬉しかった。そして当時からそうだったが、サンシャインシティってなんとなく行くけど、別に買うものはなにもないのだった。右の通路で奥まで行って、それから反対側の通路で戻った。途中のイベント会場では、イケメンがたくさん出る感じの、たぶん女性向けのゲームのイベントをやっていて、しかしあまりにも知らない世界だった。ファルマンはそのさまを眺め、「私は昔、ここで波田陽区がトークイベントをしているところをたまたま通りかかった」と言っていた。古すぎる。ただサンシャインまで行って帰っただけで、なにをしたというわけでもないのだが、とにかく久しぶりでエモかった。
駅に戻って、お昼ごはんを食べることにする。なににするかは出発前から決めていた。立ち食いそばだ。田舎にはない立ち食いそばが、何年も前からずっと食べたかったのだ。子どももいない今が、千載一遇のチャンスである。当時毎日のように食べていた「のとや」は、自分がまだ東京にいた頃に閉店してしまったので、構内で見かけた適当な店に入る。テーブル席のない、本当の立ち食いそば屋だった。冷たい麺とカレーのセットを注文し、食べる。びっくりするくらいおいしかった。出雲そばに対して、初めて食べたときからずっと悶々とした気持ちを抱いているけれど、やっぱり僕は断然こっちのそばが好きなんだな、と確信した。いいないいな、立ち食いそば、いいなあ、と久々に都会に羨ましさを覚えた。人が多くて薄利多売が成立するからやっていけるんだろうな。島根では絶対に無理だろうな。
冷たいそばを食べて元気が出たので、どうしようか迷っていた池袋のさらに先、西武池袋線エリアへも足を延ばすことにした。各駅停車に乗り、江古田駅で降りる。何年ぶりだろう。駅舎が新しくなってから来たことがあっただろうか。様子がだいぶ違っていて驚いた。喫茶店「トキ」はなくなっていたし、「お志ど里」もなくなっていた。「洋庖丁」もなかったし、ラーメン「大番」もなかった(それなのに跡地で猛烈に大番のにおいがしたのだけどあれは一体なんだったのだろう)。その一方で、竹島書店やライブハウス「BUDDY」、そして「江古田コンパ」が健在だったのは驚いた。意外な所がなくなり、意外な所が残った感じ。いちおう悪質なタックルで有名な大学の、夢見がち学部キャンパスにも足を踏み入れるが、中まで入ろうとすると受付で面倒なことになりそうだったのですぐに引き返した。まあ入ったところで、卒業してから完成した新校舎に思い入れなどなにもないのである。
それで帰ってもよかったのだが、なんとなく隣の駅である桜台まで歩いてみようかということになり、炎天下だったが実行する。「松屋」の創業店を眺めて、千川通りではなく、中の道を歩く。桜台にあったファルマンのアパートから大学に行くとき、よく使った道のはずだったが、わりとただの住宅街なのでこみ上げてくるものは別になかった。桜台駅周辺も、変わったようなあまり変わってないような、という感じだった。
これでさすがに帰ろうかとも思ったが、練馬まで行けば有楽町線で帰りやすくなるなあと考え、さらにひと駅行くことにする。なにしろ近い。いま検索したところ、わずか800mほどだという。ピイガの通う小学校までの距離よりも短いのだ。かつて「せと」という個人経営のコンビニだったセブンイレブンが懐かしかった。ここを曲がって北に進むと、新婚時代に住んでいた早宮のエリアになるが、さすがに遠いので行かない。すぐに着いた練馬は、わりと相変わらずのように感じた。
やれやれ、しっかり思い出の地を堪能したものだと満足し、電車の切符を買おうかとしていたまさにそのとき、ファルマンのもとに連絡が来る。先ほど池袋で、江古田方面にも行ってしまうかという話になったとき、もしも会えたらということで連絡を入れた、当時ほぼ唯一付き合いのあった「いつもの一家」の母、大学時代のファルマンの友達からであった。あまりにも急で少しバタバタしているが(これは本当に申し訳なかった)、せっかくだから会いたいと言ってくれて、向こうの住まいからアクセスしやすい中村橋で落ち合うこととなった。練馬から中村橋は、ひと駅だがさすがに電車を使った(桜台よりは離れている)。待ち合わせ時間まで少し間があったので、大学卒業後すぐに住んだアパートの前まで行ってみる。僕は7、8年前、そのときも今から会ういつもの一家とこのあたりで会ったときにひとりで行ったけれど、ファルマンは引っ越し後、初めての再訪である。ナメクジが這うようなスピードでしか進まない「おもひでぶぉろろぉぉん」でも、さすがにもうこのアパートからは引っ越し、早宮に移っている。自分のブログなんだからそういうものだとしても、それにしたって僕はあまりにも自分の話ばかりしているような気がする。
しばらくして、懐かしい顔が自転車でやってきた。その自転車の後部座席には男児がいた。5歳となる末っ子である。もともとポルガの2個上の長女、ポルガとピイガの間の次女がいたのだが、そこから少し間が空いて男児ができていたのである。ちょうど秋篠宮家スタイル。存在はもちろん知っていたのだが、これが初邂逅となった。駅前のマクドナルドで、しばし話す。同級生は相変わらずの感じだった。娘たちの画像など見せてもらい、おお、と思う。今回、娘たちにも声を掛けたが、「向こうの子たちがいないんなら行ってもしょうがない」と、もっともな理由で断られたそうで、次は娘たちも含めてきちんと予定を組んで会おうよ、という話になった。そんなのも愉しそうだ。そのときは車で行ける場所がいい。
渋谷とか池袋をフラッとするだけの予定が、かなりの大行脚となった。暑さもあり、だいぶヘトヘトになって帰宅する。子どもたちだけでのカラオケは、いとこにアレルギー性鼻炎が発症したこともあり、フリータイム最低3時間保証のところ、2時間半ほどで切り上げたらしい。つまりまあ、いまいちな感じだったんだろうな。いとこはふたりとも、あまりカラオケをするようなタイプではない。
晩ごはんは定番の手巻きずし。食べ終わったあと、みんなで集合写真を撮る。いつもなんだかんだで撮るが、現像して年ごとに並べるようなマメな人間はひとりもおらず、過去の画像がどうなっているのかは知る由もない。それでいい。切り取ろうが、切り取るまいが、時代は進む。かつての勤務先はチュチュアンナになり、波田陽区はすっかり見なくなり、トキはなくなり、子どもは育ち、新しい子は生まれる。おもひでぶぉろろぉぉん。