疲れるスイミング指導と稲佐の浜で壊れたスマホといい刺身の手巻きずし

 ポルガが市でやっている工作教室のようなものに参加していて、それが開催される土曜日で、かつ僕の労働が休みのときは、僕がピイガを連れてプールに行く、というのが、今回から施行されることとなったわが家の恒例のパターンで、今週はそれの初回であった。というわけでピイガとふたり、プールに行く。もちろん会員になっているいつものプールである。実は昨晩、金曜日の退勤後にも僕は行っていたので、15時間くらいしか間が空いていない。大みそかから5月まで泳がずにいたことを思えば、とんでもない間の詰まり方である。ピイガは、去年の10月24日に家族でおろち湯ったり館に行った記録があるので、泳ぐのはこれ以来だろう。果たして今年の夏は、学校でプール授業はあるのだろうか。だいぶ怪しい。せいぜいこうして、ポルガも含め、練習のために連れてきてやろうと思う。半年以上ぶりのプールで、ピイガは初めのうちは戸惑い、体の動きが見事にバラバラだったが、ぴたりと横について矯正し、1時間半ほどやって、まあまあ整った。顔を水につけるのができないとかではないので、体の動きさえ身に付けばそのうちいい具合に泳げるようになるだろう。
 子どもとの午前中のプールは気持ちがよく、夜は夜でファルマンとHIITをして(なんだかいやらしい行為の隠語のようだが、YouTube動画に従いながらの純然たるエクササイズである)、実に健康的に過した1日だったのだけど、少しオーバーワークだったのか、次の日に疲労が残った。水の中での指導って、自分でクロールで泳ぐのとはぜんぜん別の力が入るらしい。
 残っていたのだが、好天の日曜日だったので、外出しないのももったいない気がし、子どもは公園をせがんだがそれは回避し、稲佐の浜なんかに行ってみる。地元民はあまり、「よし、稲佐の浜に行こう」と言って稲佐の浜に行ったりしないので、ずいぶん久しぶりだった。


 引き潮のタイミングだったようで、あの巨岩はすっかり陸上にあり、間近で見ることができた。季節もいいのか、岩の上の草むらに花も咲いていて、本当にとてもよかった。稲佐の浜って、前に来たときはもっと、荒々しくて素っ気なくて武骨な感じがあった気がするが、観光地化に力が注がれたようで、周囲の整備も進められていて、どうやらいい具合に仕立て上げられているらしかった。いいことだと思う。実際に人出もそれなりにあった。僕と子どもたちは、海に足を浸しもした。海の水はまだ冷たかった。日中は夏日になってそれなりに汗ばんだりもするが、まだ朝晩はだいぶ涼しいものな。
 そんな、来てよかった大満足の稲佐の浜だったのだが、ここでアクシデントが。ファルマンがスマホや一眼レフでの撮影中、スマホを地面に落下させてしまい、そこからスマホがうんともすんともいわなくなってしまったのだった。でも充電がちょうどなくなっただけかもしれないから充電しよう、とか、カードをいちど抜き差ししてみよう、とか、帰宅後にもいろいろ試すが、それでも一切の反応がない。ファルマンがスマホを落とすところを、僕は波打ち際から見ていたが、ぽとり、という感じで、そこまで強く落ちた様子はなかった。ファルマンの使っていたスマホは、僕が1年ちょっと前に、スマホをポケットに入れて持ち歩いていなければならない環境になったため、買って使っていたもののお下がりで、その当時になんども、走った際に尻ポケットからスマホが放り出される、なんてことがあったので、そんな程度で壊れるはずはないと思った。だとしたら原因は砂だろうか。稲佐の浜の砂は見るからに細かかった。さらには落としたあとに拾い上げたら、元々のものなのか、整備工事によるものなのか、その場所の砂には砂鉄がだいぶ含まれるようで、スマホにはカバー越しに砂がびっしりとくっついていた。めっちゃ細かい磁力交じりの砂。なるほどいかにもスマホによくなさそうだ。だとしてもいちど落としただけで瞬殺とは。たまたまだろうか。落としただけでスマホが壊れるのなら、稲佐の浜の観光地化に暗雲が立ち込める。ファルマンのスマホは、そもそもが安物の僕のお下がりだから諦めがついた。これが10万円くらいするような最新のものだったら目も当てられない。
 ともかく急いで新しいものを調達せねばならず、ネットも見たが、これというものは見出せず、仕方なく午後ふたたび車を出し、家電量販店へ。しかし家電量販店というのは、SIMフリーのスマホ本体だけの販売なんてことはしていないそうで、諦めかけ、ネットで注文したらあさってには届くかねえ、などと話していたが、ふと思いついて中古屋に行ったらわりと新しいものがお手頃な値段で売っていたので、ええやん、となって買って帰った。まあ本当に、そもそもがお下がりだったから、壊れても「まあしょうがないか」となったが、普通に考えればひどい話である。ともあれファルマンのスマホは、これまでよりちょっとスペックがよくなって、刷新された。
 帰宅後は、そもそも昨日からの疲労があったのに加え、浜辺で陽射しを浴びたのも効いたのか、いよいよぐったりしたので、最近にしては珍しく、昼寝をした。窓を開け、5月の16時の風を感じながらの昼寝は、こういう気持ちよさを感じるために生きているのかもしれない、と思うほどに心地よかった。
 晩ごはんは手巻きずし。GWに実家でもやったが、たらこやアボカドなど、にわかに周囲の材料がいい具合に調達できたため、外堀を埋められるようにして機運が高まった。刺身はいつもの、近所のスーパーの日曜日に出す盛り合わせだったのだが、なんか今日はこのラインナップの質がやけによくて、マグロなんか明らかに中トロで、サーモンも水っぽくなく、だいぶ祝福されていた。そうして家族で囲む手巻きずしは、やはりとてもおいしく、しあわせを感じた。手巻きずしの多幸感は、なんか突き抜けていると思う。たらこマヨや玉子焼きは途中で売り切れ、刺身は予想通り余った。日曜日の夜の晩酌の肴が豪華だと嬉しい。このあと「鎌倉殿の13人」を観ながら、いい刺身で酒を飲むのだ。

フリードの1年点検とたこ焼き

 フリードの1年点検を行なう。もう1年が経ったのだ(正確に言うとまだ11ヶ月くらいなのだが、ちょうどオイル交換のタイミングになったので早々にやってもらった)。フリードは最初こそ軽自動車からの変化で違和感があったが、今ではすっかり気に入っている。車体カラーの黒も、納期的にそれしかちょうどいいのがなかったから渋々の黒だったが、今はもう「黒のもんだな」という気持ちになっている。なにしろ滞在時間が長い(すなわち通勤時間が長い)ので、居心地はどんどんよくなるに決まっているのだった。
 フリードがやってきて1年になんなんとするということは、ファルマンが免許を取得してからも1年が経つということだ。ということは初心者マークを外してもいいということになるが、どうやらファルマンにその気はまるでないようだ。たったいま検索をしたら、初心者マークは1年以内に着けないで運転すると違反だが、1年以上経って着けていても別に違反ではないらしい。じゃあ着けていればいいと思う。客観的に、ファルマンの運転の様を見ていて、心の底からそう思う。ファルマンは子どもを病院に連れていった際、診療の前に付き添いの親も含めての体温検査を求められたが、運転の緊張によるヒートアップのためにとんでもない高温をはじき出してしまい、院内に不穏な空気を漂わせたことがあるため、次からは病院に行くときは額にひえピタを貼っていくことにしている、というエピソードがあり、それを先日の横浜で披露したらとてもウケた。まだそんな塩梅なので、初心者マークは決して外せない。
 午前中にホンダに車を持っていき、代車で帰り、夕方に作業完了の連絡を受けるまでは、家でのんびりと過した。子どもたちは昨日、2回目の新型コロナワクチンの接種を行ない、5歳から11歳までが受ける子ども用のそれなので、ポルガにとっては負担は小さいようだが、ピイガにはけっこう来るらしく(今年も学校では1年生に間違えられたようだし)、しかも昨日から微妙に風邪気味ということもあり(病院でそのことは伝えたが、医師曰く「ぜんぜん関係ないから大丈夫」とのことだった)、今日は不調そうだった。昼はうどんにした。裁縫は、母の日の宿題を終えたので、久々に自分のビキニショーツに掛かることができ、癒された。ショーツ縫ってると、やけに癒される。健全な趣味だな。
 車を回収したあとは、晩ごはん。晩ごはんは、たこ焼きの予定を前から立てていて、ピイガもそれなりに回復していたので、実行した。ただし食卓を一緒に囲むのは僕は止すことにして、しかしたこ焼きを焼く役目は僕なので、どうしたかと言えば、IHクッキングヒーターからたこ焼きの鉄板、材料一式を部屋に持ち込み、工業用ミシンの横のスペースでせっせとたこ焼きを焼いて、焼き上がったらリビングに届ける、という方式にした。なんだかおもしろかった。工業用ミシンのテーブルでパソコンを使う人間はたぶんそれなりに存在するが、たこ焼きを焼いた人類はさすがに僕が初ではなかろうかと思った。たこ焼きはおいしかった。ちなみに今回、ウインナーやうずら、もちたらこ、チーズちくわなど、いつもの具たちにがんばってもらい、とうとうタコを使わなかった。以前から、具の中でタコがいちばん、値段が高いのに人気が低いということが判明していて、それでもたこ焼きという名称を用いる義理からたこは必須としていたのだけど、今回はいよいよ、別にいらないや、となったのだった。まさかたこ社長も、自分の興した会社を追われる羽目になるとは思っていなかったろう。手巻きずしも、刺身はほんの少しでよくて、たらこマヨとか、アボカドとか、納豆とか、卵焼きとか、そんなもののほうが、むしろおいしかったりする。舌がどんどん安くなっているのだろうか。
 そんな休日だった。なんだかあっという間だった。

2年4ヶ月ぶり帰省

 帰省なり旅行なりの外泊を伴うイベントの際、事前にその日取りをウェブ上に晒さない、というライフハックがあり、自意識過剰だよなと思いつつ、今回もそれを実行した。今回は事前に、「3日間しかないので飛行機で帰省するはめになった」という日記を書いたが、4月29日~5月1日の前半3連休か、5月3日~5日の後半3連休か、どちらで帰省するのかはあえて書かなかった。そして今回の場合、実際に帰省をしたのは後半3連休のほうだったわけだが、だとすれば自宅でのんびり過した前半3連休に平常の日記を投稿してしまったら、すなわち僕が帰省するのは後半3連休だということが消去法で判明してしまうため、それを避けるためにこの期間の日記の投稿も自重したのだった。切なくて怖い。ほとんど誰にも読まれていないブログのくせに、この危機意識の高さが切なくて怖い。
 というわけで5月3日~5日、一家で横浜の実家に帰ってきた。一家での帰省は2020年の1月以来(単独帰省は2020年11月に行なっている)なので、実に2年4ヶ月ぶりである。帰省した1月の下旬あたりから新型コロナの災禍が始まっているので、この2年4ヶ月は、そのまま人類が新型コロナに翻弄されていた2年4ヶ月である。コロナ禍になって半年後くらい、最初の盆休みのあたり、「コロナが明けたらまた会おう」みたいなキャッチフレーズで帰省の自粛が呼びかけられたが、このたびこうして帰省できたということは、コロナというものは「明けた」といっていいのだろうか。どうも蓋を開けてみたら、これは明ける明けないという尺度のものではないようでもある。人によっては明けているし、地域によっては明けている。裏を返せば、いつまでも明けない人もいるのだと思う。ちなみに島根県から東京や横浜に行く今回の帰省について、僕は職場で誰にも伝えていないし、子どもたちにも「極力いわないように」と言い含めた。まだまだそういう情勢だったりもする。
 3日の朝の飛行機に乗る。事前視察を行なった出雲空港へはつつがなく到着し、飛行機へと乗り込んだ。後悔することが前もって分かっていた飛行機は、やっぱり動いた瞬間に大いに後悔した。あの勢い。そして飛び立ってすぐの、斜めになっている間がつらい。規定の高みまで上りきり、安定飛行しているときはまだいいが、あの斜めになっているとき、すなわちシートベルト着用のサインが点いているときというのは、たぶんだいぶ、こちらが思っているよりもはるかに、安全が保障されていないんだろうと思う。あのときなにもなかったらめっけもん、くらいの感じだと思う。そのくらいのスリルを感じる。実際、今回もそれの際にそこそこ揺れた。飛行機が揺れるたびに、揺れるってどういうことだよ、と思う。なにぶんこちらは、飛行機が飛べているのはタイトロープ的なバランスでぎりぎり実現しているものと捉えているので、揺らぎなく飛んでくれないと困るというか、揺らいだ状態で浮かんでいられるはずがないと固く信じているのだ。だから揺らいだ瞬間、鉄の重みで一気に地上に叩きつけられるに違いないと思ってしまう。そのため少し揺れるたびに、後ろの座席から背もたれの間を通して伸ばしてもらったファルマンの手を、ぐっと握りしめた。力が入りすぎて、ファルマンは痛がるし、僕も筋肉痛になった。それでもなんとか、飛行機は無事に羽田空港に到着した。時間にすると1時間15分ほど。速い。飛行機はやっぱりびっくりするくらい速かった。もっともこれだけ怖いのだから、そのくらいのメリットがないと困る。
 羽田空港からはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗る。空港周辺の埋め立て地的なエリアを通り、川崎の工業地帯を通り、やがて北山田などの見覚えのあるエリアに入って、1時間ほどで着いた。たまプラーザには母が迎えに来てくれた。久々の再会である。
 家では祖母が待っていた。祖母はぼちぼち94歳になるらしいが、相変わらず元気のようだ。2年4ヶ月の間にポルガは祖母の身長を超えていた。
 しばらくしたら姉一家がやってきた。なにぶん2年4か月ぶりなので、今回は帰省の日取りを打ち合わせし、姉一家もキャンプなどの予定を立てずに待ち受けてくれたのだった。ちなみに僕ひとりの11月の帰省の際にも、姉一家とは顔を合わせなかったので、家族と同じ月日ぶりである。ただし甥(小4)はこの3日間、所属しているサッカークラブの合宿だそうで、今回は会えずじまいとなり、2年4ヶ月はさらに更新されるのだった。その代わり姪(中2)は2泊3日の間、がっつりと娘たちと絡んでくれた。中2になったというのに姪は相変わらず快活で、義兄の遺伝子を強く感じた。なんで中2なのに鬱屈としたものがまるでなさそうなんだろう。自信家とか傲岸不遜とも違う、あの正常さはなんなのだ。ファルマンは「陽キャ」といっていて、まあつまりその一言なんだろうな、としみじみと思った。ポルガは、たぶん年長者と話す機会があまりないこともあるのだろうが、2歳年上の従姉に相変わらずぞっこんで、横浜滞在中ずっと、既存の家族3人に対して冷たかった。そういうところだ。2歳年上の従姉に憧れながら、ポルガにあの快活さの片鱗も見出されないのは、そうやって相対的に家族の扱いがぞんざいになる、そのあたりの性根に原因があるのだと思う(そしてそれはこの両親の子である以上、どうしようもないことなんだよ)。
 それからは近所を少し散歩したり、姉一家が持ってきたモルックをしたり、スーパーに買い物に行ったり、のんびりと過した。今回は2泊3日で、2年4ヶ月ぶりで、コロナも完全に終焉したわけではない、などのもろもろの事情を鑑みて、どこかに行くような予定は一切立てなかったので、半日で早くも時間を持て余し始めたこんな過し方で、しかし合っているのだった。今回はこれでいいのだ。
 晩ごはんは定番の手巻き寿司。それなりに豪華で、実は準備が楽なので、こういうときは手巻き寿司一択だ。叔父もやってきて(もとい叔父は車を運転できないので姉が迎えに行くのだが)、にぎやかに食べた。甥が残念だったが、まあしょうがない。
 2日目は唯一の丸一日動ける日であり、予定は立てないといいつつ、さすがにずっと家でダラダラしているわけにもいかないので、出掛けることにした。目的地はこれも定番の、こどもの国。手巻きずしもこどもの国も、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すことだと思うが、毎回置かれる状況が一緒なので、結論が同じになるのは仕方がないことだ。いちおう、鎌倉はどうだろうということも検討したのだが、準備不足だったし、さすがにハードすぎる気もしたので却下された。こどもの国は大盛況だった。いつぞやテレビで観た、こどもの国はこんな人出です、の中継映像に出ていた、バラックのようにびっしり連なるテントの風景を目の当たりにした。ありとあらゆる設備が順番待ちで、島根の公園の尊さを思い知った。もちろん子どもはそれでも十分に愉しんだだろうが。しかし陽射しがなかなか強く、弁当も持ってきていなかったので、3時間ほどの滞在で、昼前に退園した。
 午後は姪のswitchで、子ども3人と僕の4人プレイで桃鉄をした。なにぶん時間がたっぷりあるので、5年設定でじっくりやる。3年くらいだと運の要素が大きいが、5年になると地力がものをいう。無事に子どもたちに大差をつけて優勝した。だてに大学生の頃、コンピュータとのふたりプレイで99年間やっていない。ゲーム自体はリニューアルされ、マス目も増えているとはいえ、経験値が違う。気分がよかった。
 晩ごはんは餃子。これもかなり定番だな。僕が作る餃子よりも野菜の比重が高く、軽やかに食べられた。ちなみにこの途中で、ホットプレートにつないでいた延長コードの線が焼き切れるという、あわや大惨事な出来事があった。延長コードの劣化が原因だったようで、昔の人間は物持ちがいいが、よすぎるのも考え物で、ちょうど機械類が老朽化したときに、持ち主も年を取っていて、その組み合わせはきわめて恐ろしいと思った。大ごとにならなくてよかった。
 最終日は、昼前くらいに家を出ればいいので、それまではのんびり。姪が朝からやってきたので、ファルマンと子どもたちを連れて散歩ついでに、柏餅を買いに行く。子どもの日なんだから子どもに柏餅を喰わさねば、という使命感に駆られたのだが、姪からは「なんで急に柏餅なの?」と不思議がられた。その家々で、親から子に与えられる情報、伝えられる常識は異なる。そういえば義兄はいつか、「となりのトトロ」を観たことがいちどもないと言っていた。どうもやっぱり人種がぜんぜん違うな、と思った。早めの昼ごはんの焼きそばを食べたあと、母と祖母とともに7人で柏餅を食べた。
 これで今回の帰省は終了である。玄関先で祖母と姪と別れの挨拶をする。祖母の「次はいつだ」という問いかけに、年末年始はやはり気候的に帰るのは難しそうで、だとしたら1年後とかになるかなあと頭の中では思いつつ、明確な返答は避けた。姪やポルガは、「夏休み!」と勝手に話を進めていたが、3ヶ月後は嫌だよ。それはよそうよ。
 おとといと同じく母にたまプラーザ駅まで送ってもらい、そこからバスで羽田空港へ。行きでは空港に着いてすぐに来たバスに飛び乗ったが、帰りは時間に余裕を持って空港にやってきたこともあり、空港の中でしばらく過す。ファルマンの実家へのおみやげを買ったり、行きの飛行機で耳に不調を来したピイガのために飛行機専用の耳栓を買ったりした。あと展望デッキにも出た。羽田空港の展望デッキは、出雲空港と違い、次から次へと飛行機が飛び立つのでおもしろかった。
 帰りの飛行機は、行きよりは揺れなかったが、それでもやっぱり飛んでいるのでどうしたって恐ろしかった。行きは隣がポルガだったので自重したが、帰りはピイガだったので、エロ小説を読んで気を紛らわそうと思った。しかし読んで、それなりに淫らな気持ちになっても、やはり飛行機に乗って高度何千メートルの位置にいるのだという事実が邪魔をするのか、勃起には至らず、もどかしい感触があった。パイプカットした状態ってこんな感じかな、などと思ったが、あれは精子が出ないだけで勃起はするってことだから違うかもしれない、とも思った。かくして飛行機は無事に出雲空港に着陸した。行きも帰りも飛行機は無事に離陸し、着陸した。それゆえにこうしていま日記を書けている。ありがたいことである。
 3日の朝に出発して、5日の夕方に帰ってきたのだから、自宅はたったの2日ぶりということになる。そう考えると非常に大したことないように思えるが、それでも十分に自宅への恋しさは募った。やっぱり自宅は愛しいな、と思った。
 そしてこの夜は、次の日がそれぞれ出勤と登校ということもあり、そしてなにより痛烈な疲労感により、家族全員、22時くらいに寝た。いくら飛行機が1時間ちょいといっても、移動による疲労感というのは、時間よりも距離による作用のほうが大きいように思う。深く寝た。実家の寝具は、畳に布団で、マットがないので固いのだ。あれでだいぶ腰がやられる。自宅の寝床は心地よいなあと思った。
 そんなわけで、無事に2年4ヶ月ぶりの帰省が成った。正月に帰る予定を連絡しておきながら中止した負い目などもあったので、実行できてよかった。心懸かりが取れた。これで当分は行かないでいいだろう。当分は遠出したくない。