2年4ヶ月ぶり帰省

 帰省なり旅行なりの外泊を伴うイベントの際、事前にその日取りをウェブ上に晒さない、というライフハックがあり、自意識過剰だよなと思いつつ、今回もそれを実行した。今回は事前に、「3日間しかないので飛行機で帰省するはめになった」という日記を書いたが、4月29日~5月1日の前半3連休か、5月3日~5日の後半3連休か、どちらで帰省するのかはあえて書かなかった。そして今回の場合、実際に帰省をしたのは後半3連休のほうだったわけだが、だとすれば自宅でのんびり過した前半3連休に平常の日記を投稿してしまったら、すなわち僕が帰省するのは後半3連休だということが消去法で判明してしまうため、それを避けるためにこの期間の日記の投稿も自重したのだった。切なくて怖い。ほとんど誰にも読まれていないブログのくせに、この危機意識の高さが切なくて怖い。
 というわけで5月3日~5日、一家で横浜の実家に帰ってきた。一家での帰省は2020年の1月以来(単独帰省は2020年11月に行なっている)なので、実に2年4ヶ月ぶりである。帰省した1月の下旬あたりから新型コロナの災禍が始まっているので、この2年4ヶ月は、そのまま人類が新型コロナに翻弄されていた2年4ヶ月である。コロナ禍になって半年後くらい、最初の盆休みのあたり、「コロナが明けたらまた会おう」みたいなキャッチフレーズで帰省の自粛が呼びかけられたが、このたびこうして帰省できたということは、コロナというものは「明けた」といっていいのだろうか。どうも蓋を開けてみたら、これは明ける明けないという尺度のものではないようでもある。人によっては明けているし、地域によっては明けている。裏を返せば、いつまでも明けない人もいるのだと思う。ちなみに島根県から東京や横浜に行く今回の帰省について、僕は職場で誰にも伝えていないし、子どもたちにも「極力いわないように」と言い含めた。まだまだそういう情勢だったりもする。
 3日の朝の飛行機に乗る。事前視察を行なった出雲空港へはつつがなく到着し、飛行機へと乗り込んだ。後悔することが前もって分かっていた飛行機は、やっぱり動いた瞬間に大いに後悔した。あの勢い。そして飛び立ってすぐの、斜めになっている間がつらい。規定の高みまで上りきり、安定飛行しているときはまだいいが、あの斜めになっているとき、すなわちシートベルト着用のサインが点いているときというのは、たぶんだいぶ、こちらが思っているよりもはるかに、安全が保障されていないんだろうと思う。あのときなにもなかったらめっけもん、くらいの感じだと思う。そのくらいのスリルを感じる。実際、今回もそれの際にそこそこ揺れた。飛行機が揺れるたびに、揺れるってどういうことだよ、と思う。なにぶんこちらは、飛行機が飛べているのはタイトロープ的なバランスでぎりぎり実現しているものと捉えているので、揺らぎなく飛んでくれないと困るというか、揺らいだ状態で浮かんでいられるはずがないと固く信じているのだ。だから揺らいだ瞬間、鉄の重みで一気に地上に叩きつけられるに違いないと思ってしまう。そのため少し揺れるたびに、後ろの座席から背もたれの間を通して伸ばしてもらったファルマンの手を、ぐっと握りしめた。力が入りすぎて、ファルマンは痛がるし、僕も筋肉痛になった。それでもなんとか、飛行機は無事に羽田空港に到着した。時間にすると1時間15分ほど。速い。飛行機はやっぱりびっくりするくらい速かった。もっともこれだけ怖いのだから、そのくらいのメリットがないと困る。
 羽田空港からはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗る。空港周辺の埋め立て地的なエリアを通り、川崎の工業地帯を通り、やがて北山田などの見覚えのあるエリアに入って、1時間ほどで着いた。たまプラーザには母が迎えに来てくれた。久々の再会である。
 家では祖母が待っていた。祖母はぼちぼち94歳になるらしいが、相変わらず元気のようだ。2年4ヶ月の間にポルガは祖母の身長を超えていた。
 しばらくしたら姉一家がやってきた。なにぶん2年4か月ぶりなので、今回は帰省の日取りを打ち合わせし、姉一家もキャンプなどの予定を立てずに待ち受けてくれたのだった。ちなみに僕ひとりの11月の帰省の際にも、姉一家とは顔を合わせなかったので、家族と同じ月日ぶりである。ただし甥(小4)はこの3日間、所属しているサッカークラブの合宿だそうで、今回は会えずじまいとなり、2年4ヶ月はさらに更新されるのだった。その代わり姪(中2)は2泊3日の間、がっつりと娘たちと絡んでくれた。中2になったというのに姪は相変わらず快活で、義兄の遺伝子を強く感じた。なんで中2なのに鬱屈としたものがまるでなさそうなんだろう。自信家とか傲岸不遜とも違う、あの正常さはなんなのだ。ファルマンは「陽キャ」といっていて、まあつまりその一言なんだろうな、としみじみと思った。ポルガは、たぶん年長者と話す機会があまりないこともあるのだろうが、2歳年上の従姉に相変わらずぞっこんで、横浜滞在中ずっと、既存の家族3人に対して冷たかった。そういうところだ。2歳年上の従姉に憧れながら、ポルガにあの快活さの片鱗も見出されないのは、そうやって相対的に家族の扱いがぞんざいになる、そのあたりの性根に原因があるのだと思う(そしてそれはこの両親の子である以上、どうしようもないことなんだよ)。
 それからは近所を少し散歩したり、姉一家が持ってきたモルックをしたり、スーパーに買い物に行ったり、のんびりと過した。今回は2泊3日で、2年4ヶ月ぶりで、コロナも完全に終焉したわけではない、などのもろもろの事情を鑑みて、どこかに行くような予定は一切立てなかったので、半日で早くも時間を持て余し始めたこんな過し方で、しかし合っているのだった。今回はこれでいいのだ。
 晩ごはんは定番の手巻き寿司。それなりに豪華で、実は準備が楽なので、こういうときは手巻き寿司一択だ。叔父もやってきて(もとい叔父は車を運転できないので姉が迎えに行くのだが)、にぎやかに食べた。甥が残念だったが、まあしょうがない。
 2日目は唯一の丸一日動ける日であり、予定は立てないといいつつ、さすがにずっと家でダラダラしているわけにもいかないので、出掛けることにした。目的地はこれも定番の、こどもの国。手巻きずしもこどもの国も、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すことだと思うが、毎回置かれる状況が一緒なので、結論が同じになるのは仕方がないことだ。いちおう、鎌倉はどうだろうということも検討したのだが、準備不足だったし、さすがにハードすぎる気もしたので却下された。こどもの国は大盛況だった。いつぞやテレビで観た、こどもの国はこんな人出です、の中継映像に出ていた、バラックのようにびっしり連なるテントの風景を目の当たりにした。ありとあらゆる設備が順番待ちで、島根の公園の尊さを思い知った。もちろん子どもはそれでも十分に愉しんだだろうが。しかし陽射しがなかなか強く、弁当も持ってきていなかったので、3時間ほどの滞在で、昼前に退園した。
 午後は姪のswitchで、子ども3人と僕の4人プレイで桃鉄をした。なにぶん時間がたっぷりあるので、5年設定でじっくりやる。3年くらいだと運の要素が大きいが、5年になると地力がものをいう。無事に子どもたちに大差をつけて優勝した。だてに大学生の頃、コンピュータとのふたりプレイで99年間やっていない。ゲーム自体はリニューアルされ、マス目も増えているとはいえ、経験値が違う。気分がよかった。
 晩ごはんは餃子。これもかなり定番だな。僕が作る餃子よりも野菜の比重が高く、軽やかに食べられた。ちなみにこの途中で、ホットプレートにつないでいた延長コードの線が焼き切れるという、あわや大惨事な出来事があった。延長コードの劣化が原因だったようで、昔の人間は物持ちがいいが、よすぎるのも考え物で、ちょうど機械類が老朽化したときに、持ち主も年を取っていて、その組み合わせはきわめて恐ろしいと思った。大ごとにならなくてよかった。
 最終日は、昼前くらいに家を出ればいいので、それまではのんびり。姪が朝からやってきたので、ファルマンと子どもたちを連れて散歩ついでに、柏餅を買いに行く。子どもの日なんだから子どもに柏餅を喰わさねば、という使命感に駆られたのだが、姪からは「なんで急に柏餅なの?」と不思議がられた。その家々で、親から子に与えられる情報、伝えられる常識は異なる。そういえば義兄はいつか、「となりのトトロ」を観たことがいちどもないと言っていた。どうもやっぱり人種がぜんぜん違うな、と思った。早めの昼ごはんの焼きそばを食べたあと、母と祖母とともに7人で柏餅を食べた。
 これで今回の帰省は終了である。玄関先で祖母と姪と別れの挨拶をする。祖母の「次はいつだ」という問いかけに、年末年始はやはり気候的に帰るのは難しそうで、だとしたら1年後とかになるかなあと頭の中では思いつつ、明確な返答は避けた。姪やポルガは、「夏休み!」と勝手に話を進めていたが、3ヶ月後は嫌だよ。それはよそうよ。
 おとといと同じく母にたまプラーザ駅まで送ってもらい、そこからバスで羽田空港へ。行きでは空港に着いてすぐに来たバスに飛び乗ったが、帰りは時間に余裕を持って空港にやってきたこともあり、空港の中でしばらく過す。ファルマンの実家へのおみやげを買ったり、行きの飛行機で耳に不調を来したピイガのために飛行機専用の耳栓を買ったりした。あと展望デッキにも出た。羽田空港の展望デッキは、出雲空港と違い、次から次へと飛行機が飛び立つのでおもしろかった。
 帰りの飛行機は、行きよりは揺れなかったが、それでもやっぱり飛んでいるのでどうしたって恐ろしかった。行きは隣がポルガだったので自重したが、帰りはピイガだったので、エロ小説を読んで気を紛らわそうと思った。しかし読んで、それなりに淫らな気持ちになっても、やはり飛行機に乗って高度何千メートルの位置にいるのだという事実が邪魔をするのか、勃起には至らず、もどかしい感触があった。パイプカットした状態ってこんな感じかな、などと思ったが、あれは精子が出ないだけで勃起はするってことだから違うかもしれない、とも思った。かくして飛行機は無事に出雲空港に着陸した。行きも帰りも飛行機は無事に離陸し、着陸した。それゆえにこうしていま日記を書けている。ありがたいことである。
 3日の朝に出発して、5日の夕方に帰ってきたのだから、自宅はたったの2日ぶりということになる。そう考えると非常に大したことないように思えるが、それでも十分に自宅への恋しさは募った。やっぱり自宅は愛しいな、と思った。
 そしてこの夜は、次の日がそれぞれ出勤と登校ということもあり、そしてなにより痛烈な疲労感により、家族全員、22時くらいに寝た。いくら飛行機が1時間ちょいといっても、移動による疲労感というのは、時間よりも距離による作用のほうが大きいように思う。深く寝た。実家の寝具は、畳に布団で、マットがないので固いのだ。あれでだいぶ腰がやられる。自宅の寝床は心地よいなあと思った。
 そんなわけで、無事に2年4ヶ月ぶりの帰省が成った。正月に帰る予定を連絡しておきながら中止した負い目などもあったので、実行できてよかった。心懸かりが取れた。これで当分は行かないでいいだろう。当分は遠出したくない。