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2025年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日


 最終日は帰るだけかと思いきや、実はそうではない。今年の帰省は、(帰省以外のところで)本当に盛りだくさんなのだ。キャッスルイン豊川にチェックアウトギリギリまで居座らないという贅沢をしてどこを目指したかと言えば、兵庫県は宝塚市である。通り道であり、行きの際も宝塚サービスエリアで休憩したりしたのだが、このたびは高速道路を降りて、とある施設に寄ることにしたのだった。どこか。ここである。


 パピロウ、あなたはもう二度と人間に生まれてくることはないのよ。手塚治虫記念館に、火の鳥のTシャツを着てきてしまう、その心安い性格じゃないくせに半端にお調子者の了見が気に障るから、そう決めたわよ……。
 というわけで、さくらももこ、ツタンカーメン、佐藤雅彦と大スケールで巡った今回のミュージアム探訪旅行(もはや帰省にあらず)の掉尾を飾るのは、手塚治虫記念館なのであった。岡山時代からずっと行きたいと思っていたが、意外な形での来訪となった。画像にあるように、建物の前には他ならぬ火の鳥の巨大なオブジェがあり、テンションが上がった。「俺が火の鳥から啓示を下されているようなイメージで」と頼み、ファルマンに撮ってもらった。なかなかいい写真になって嬉しい。入館すると、まさにこの日僕が着ていたデザインの火の鳥のイラストが掲示されていて、受付の真ん前でだいぶ恥ずかしかったが、その前でも記念撮影をした。展示そのものは、まあ「ふうん」という感じで、なにぶん手塚治虫のすごさというのは、わざわざ記念館に来なくても有名すぎるほどに有名なので、新しい驚きのようなものは特になかった。また企画展は「創聖のアクエリオン」がテーマで、これも残念ながらわが家のセンサーには引っ掛からなかった。ミュージアムショップには初めて目にするような商品が多数あり、テンションが上がった。カード全てにさまざまなキャラクターがデザインされている火の鳥トランプなんかを買った。ポルガは「ブッダがあんまりない」とボヤいていたが、ブッダはほら、キャラクターって言うか、キャラクターじゃないって言うか、微妙なところだから。そもそも手塚キャラの中でブッダ推しっていうのやめろよ、と思った。あとプリクラもあって、せっかくだからということでもちろん手塚キャラフレームであるそれを、一家でやった。普段なら考えられないことだが、さすがに思春期の長女も参加してくれた。しかし家族の中で誰もプリクラを撮り慣れている人間がいないため、まあまあ散々な出来になった。でもまあ、僕はもう二度と人間に生まれてくることはないので、これも人間としてのいい思い出としよう。
 ちなみに順番が逆になるが、ここにたどり着く前、ナビの指示に従って道を走っていたら、窓の外を見ていたファルマンが「あーっ」と言って、見ると右手に太陽の塔があった。初めて実物を目にした。想像よりもだいぶ大きくて驚いた。
 それとさらに順序が逆になるのだが(一体どういう構成で日記を書いているのか)、この朝の出発の際、買い出しなどあって豊川の街を走っていたら、ちょっと異様な雰囲気のエリアに入り込んで、そこはかの有名な豊川稲荷なのだった。出雲大社ほどではないが、かなりのメジャー級であろう。今回は素通りしたが、どうせまたキャッスルイン豊川へは、今回のように行きも帰りも両方じゃなくても、泊まることはほぼ確実にあるだろうから、その際は立ち寄ってもいいかもしれないと思った。
 そんなわけでだいぶさまざまなスポットを巡った、5泊6日の、帰省にかこつけた夏の大旅行であった。結局もちろん100%僕が運転をして、まあまあ疲れたけれど、今年も実行できて、そして無事に帰ってこられて、本当によかった。

2025年夏の自家用車横浜帰省 5日目


 前にも書いたが、実家の布団は硬い。どういう作用によるものか、年々硬くなっているような気がする。3日目ともなると、今晩もあの布団で寝るのかと思うだけで憂鬱になる。それくらい硬い。しかし1年で3日しか寝ない身分でマットレスを所望することもできず、耐え忍ぶしかないとあきらめていた。だが今回、これはさすがに体への負担が大きすぎるとなって、次に帰省する際は、車に自前のマットレスを積んでこようと決心した。子どもたちはさすがなもので平気らしいので、僕とファルマンのふたり分でいい。たぶんキャンプ用品とかで、コンパクトに収納できるいい感じのものが世の中にはあるはずだと検索したら、安い値段でいくらでも出てきた。安くていい。そこまでのクオリティなど求めない。現状の、畳に硬い布団だけのつらさに較べたら、どんなものでもあるだけマシだろうと思う。次は忘れず、必ず。
 この日は実家を立つ日で、しかし例のごとくホテルまで移動するだけなので、急がない。午前中はのんびり過し、早めの昼ごはんをお腹に入れて出発という算段だった。この午前に、僕はプールに行くことにした。横浜でプールに行くチャンスがあるかもしれないと思い、用品は車に載せてきていたのだ。子どもの頃によく行った北部(都筑)プール、中学生の頃よく行った中川(山崎公園)プール、そして横浜国際プールと、行きたいプールはいくつかあったが、実は高校時代から住むいまの実家からいちばん近いプールは、住所は川崎市となるヨネッティー王禅寺というプールであると母に教えられ、じゃあそこに行ってみるか、ということで行った。もちろんひとりである。この世でいちばん狭い駐車場なんじゃないかと思うくらい狭い駐車スペースにヒヤヒヤしながら車を停め、たどり着いたプールは、採光はまあまあ良かったが、水深が浅く、うーん、という感じだった。あとシャワー室や更衣室がだいぶ粗雑な印象で、なんだか遠い島根のホームプールのことが恋しくなった。
 プールの帰りに給油を済ませ、出発する。結局、昨日おとといとがっつり外出したので、なんだかあっという間の帰省だった。本日の目的地はどこかと言うと、これがなんとキャッスルイン豊川なのである。さすがにはじめからそうするつもりではなかったのだが、実は今年もポルガの部活に振り回され、1ヶ月ほど前に帰省の日程が1日後ろ倒しになったことで、帰りに泊まるはずだった三重県のホテルはキャンセルし、行きも帰りもキャッスルイン豊川ということになったのだった。好きすぎるだろ、キャッスルイン豊川。
 この日は途中まで新東名を走ったのだが、御殿場を過ぎたあたりで、たぶんあれは富士山の中腹なのだろう、という姿を目にした。上半分は雲が掛かっていたが、いちおうは見えた。あと2025年に新東名を走る以上、どうしたって参らないわけにはいかないスポット、浜松サービスエリアにももちろん立ち寄った。もっとも本来は上り方面でなければならないのだが、そこはしょうがない。広末涼子は奈良県での撮影のあと、ここで同乗男性と運転を交代し、そして掛川PA付近で事故を起したのだ。そしてこの浜松サービスエリアでは、通行人に「広末でーす」と大声で名乗るなどの奇行が目撃されていたという。この一件が報じられて以来、今年も帰省をするなら絶対に浜松サービスエリアに行かなければいけない、行ったら俺も「広末でーす」と叫ぼう、もしかしたら当地には「広末でーす」を記念した撮影スポットができているかもしれない、などと考えていた。残念ながらそんなものはなかったが(上りにはあるのかもしれない)、ああ自分はいまあの現場にいるのだと感激し、聖地巡礼をするファンの心理が初めて解った気がした。ちなみにだが、広末涼子はあの日、車の運転で140キロを出していたと言われるけれど、このあたりの道は制限速度が120キロだったりするので、140キロというのもそこまで素っ頓狂な数字ではない、ということをここに記しておく。これで世間の広末涼子に対する印象が少しでも改善されればそれ以上の望みはない。
 テレビっ子としての欲求も無事に満たし、4日ぶり3度目のキャッスルイン豊川へ。数日前に泊まったホテルにまた泊まるという経験は初めてで、なんだか不思議な感覚だった。この日も思う存分、漫画やサウナを堪能する。前回の月曜日(11日)がけっこう混雑していたので、金曜日なんてもっと混んでいるだろうと思いきや、この日はそれほどでもなかった。前回のサウナでは、テレビで「ラーゲリより愛を込めて」をやっていて微妙な気持ちになったが、この日の金曜ロードショーでは「火垂るの墓」をやっていたはずで、避けていたわけではなく、ちょうどその時間帯にはサウナに入らなかったのだが、さすがにチャンネルがそこに回されてはなかったろうな、などと思った。
 3日実家の布団で寝たあとのキャッスルイン豊川のベッドは、まるでベッドのようだと思った。雲のよう、などと大袈裟なことを言うつもりはない。ベッドがベッドだった。それでいいのだ。実家の布団は、なんかもう布団としての要件を満たしていないように思う。実家の布団への恨み節がしつこい。でも本当に実家の印象がそれだけになるくらいのインパクトだったんだもの。

2025年夏の自家用車横浜帰省 4日目


 横浜での予定は昨日がすべてで、この日はなんの用件も入れていなかった。さてどうしたものか、また子どもたちを連れて、VS PARKのような、人が多くて疲れるだけのような場所に行くはめになるのか、とビクビクしていたら、ポルガが「いとこでカラオケに行きたい」と言い出したので、それはいい、4人でカラオケに行ってくれるなんて、それほど楽なことはない、と諸手を挙げて大賛成した。
 しかし成長した子どもたちが勝手に遊んでくれるのはありがたいが、付き添いがお役御免となった大人は、じゃあどうしよう、となった。せっかく横浜まで来ておいて、家でぐだぐだ過すというのもさすがにもったいない。ファルマンと話し合った結果、ふたりで身軽だということもあり、じゃあ渋谷とか池袋とか行っちゃう? ということになった。去年は東京には足を踏み入れなかったので、島根・鳥取・岡山・兵庫・京都・大阪・滋賀・三重・愛知・静岡・神奈川の、その先への進出である。
 まず田園都市線で渋谷へ。山手線に乗り換える前に、わざわざ外に出て、スクランブル交差点のあたりの様子を眺めた。渋谷駅周辺はここ数年ですごく変わったと言われるが、このあたりはそうでもないという印象を受けた。ハチ公前には外国人がわんさかいて、もうこのエリアは観光地以外の何物でもないのだな、と思った。かくいう我々も、スクランブル交差点でまったく無意味に行って帰ってをしたし、スマホで映像配信しているっぽい人もいた。ともすればあそこを歩いている人の7割くらいは、どこかに行くために歩いているのではなく、歩くために歩いているのかもしれない。
 山手線に乗ったのもずいぶん久しぶりだ。渋谷から池袋は7駅、というのは覚えていたが、間にある駅の記憶はまばらだった。原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白が正解で、さすがは錚々たるラインナップである。山陰本線との情報量の違いたるや。
 かくして池袋に到着する。田園都市線だったのでもちろん渋谷には子どもの頃からの馴染みがあるのだが、大学以降は池袋のほうが縁が深くなった。なにしろ数年間、駅構内で働いてさえいたのだ。ちなみに勤めていた書店は、そもそも会社がなくなったこともあり、いまはチュチュアンナになっていた。そうか、俺が二次元ドリーム文庫とか売っていた場所が、いまはチュチュアンナなのか、因果は巡るのだな、と感慨深い気持ちになった。そのあとも駅構内を散策するが、当時はまさにシマで、ホープセンターの、知る人ぞ知るさらに地下の喫茶店まで把握していたというのに、いまはもはや普通に道に迷う。駅の造りそのものは変わっていないというのに、15年ほどの歳月が、僕と池袋駅をこんなにも引き離してしまったのだった。西武デパートも閉鎖されているし、なんだか切ない気持ちになった。
 ひとしきり駅を堪能したあと、地上に出て、とりあえずサンシャイン方面を目指して歩き出す。道がいちいち懐かしかった。街や人の様子は、まあそこまで15年前と変わっていないような気がした。サンシャインの入り口が巨大なニトリになっていて驚いた。そうか、ハンズがニトリになったか。検索したところ、2021年の出来事らしい。そうか。サンシャインシティにも入館し、動く歩道が相変わらずでなんだか嬉しかった。そして当時からそうだったが、サンシャインシティってなんとなく行くけど、別に買うものはなにもないのだった。右の通路で奥まで行って、それから反対側の通路で戻った。途中のイベント会場では、イケメンがたくさん出る感じの、たぶん女性向けのゲームのイベントをやっていて、しかしあまりにも知らない世界だった。ファルマンはそのさまを眺め、「私は昔、ここで波田陽区がトークイベントをしているところをたまたま通りかかった」と言っていた。古すぎる。ただサンシャインまで行って帰っただけで、なにをしたというわけでもないのだが、とにかく久しぶりでエモかった。
 駅に戻って、お昼ごはんを食べることにする。なににするかは出発前から決めていた。立ち食いそばだ。田舎にはない立ち食いそばが、何年も前からずっと食べたかったのだ。子どももいない今が、千載一遇のチャンスである。当時毎日のように食べていた「のとや」は、自分がまだ東京にいた頃に閉店してしまったので、構内で見かけた適当な店に入る。テーブル席のない、本当の立ち食いそば屋だった。冷たい麺とカレーのセットを注文し、食べる。びっくりするくらいおいしかった。出雲そばに対して、初めて食べたときからずっと悶々とした気持ちを抱いているけれど、やっぱり僕は断然こっちのそばが好きなんだな、と確信した。いいないいな、立ち食いそば、いいなあ、と久々に都会に羨ましさを覚えた。人が多くて薄利多売が成立するからやっていけるんだろうな。島根では絶対に無理だろうな。
 冷たいそばを食べて元気が出たので、どうしようか迷っていた池袋のさらに先、西武池袋線エリアへも足を延ばすことにした。各駅停車に乗り、江古田駅で降りる。何年ぶりだろう。駅舎が新しくなってから来たことがあっただろうか。様子がだいぶ違っていて驚いた。喫茶店「トキ」はなくなっていたし、「お志ど里」もなくなっていた。「洋庖丁」もなかったし、ラーメン「大番」もなかった(それなのに跡地で猛烈に大番のにおいがしたのだけどあれは一体なんだったのだろう)。その一方で、竹島書店やライブハウス「BUDDY」、そして「江古田コンパ」が健在だったのは驚いた。意外な所がなくなり、意外な所が残った感じ。いちおう悪質なタックルで有名な大学の、夢見がち学部キャンパスにも足を踏み入れるが、中まで入ろうとすると受付で面倒なことになりそうだったのですぐに引き返した。まあ入ったところで、卒業してから完成した新校舎に思い入れなどなにもないのである。
 それで帰ってもよかったのだが、なんとなく隣の駅である桜台まで歩いてみようかということになり、炎天下だったが実行する。「松屋」の創業店を眺めて、千川通りではなく、中の道を歩く。桜台にあったファルマンのアパートから大学に行くとき、よく使った道のはずだったが、わりとただの住宅街なのでこみ上げてくるものは別になかった。桜台駅周辺も、変わったようなあまり変わってないような、という感じだった。
 これでさすがに帰ろうかとも思ったが、練馬まで行けば有楽町線で帰りやすくなるなあと考え、さらにひと駅行くことにする。なにしろ近い。いま検索したところ、わずか800mほどだという。ピイガの通う小学校までの距離よりも短いのだ。かつて「せと」という個人経営のコンビニだったセブンイレブンが懐かしかった。ここを曲がって北に進むと、新婚時代に住んでいた早宮のエリアになるが、さすがに遠いので行かない。すぐに着いた練馬は、わりと相変わらずのように感じた。
 やれやれ、しっかり思い出の地を堪能したものだと満足し、電車の切符を買おうかとしていたまさにそのとき、ファルマンのもとに連絡が来る。先ほど池袋で、江古田方面にも行ってしまうかという話になったとき、もしも会えたらということで連絡を入れた、当時ほぼ唯一付き合いのあった「いつもの一家」の母、大学時代のファルマンの友達からであった。あまりにも急で少しバタバタしているが(これは本当に申し訳なかった)、せっかくだから会いたいと言ってくれて、向こうの住まいからアクセスしやすい中村橋で落ち合うこととなった。練馬から中村橋は、ひと駅だがさすがに電車を使った(桜台よりは離れている)。待ち合わせ時間まで少し間があったので、大学卒業後すぐに住んだアパートの前まで行ってみる。僕は7、8年前、そのときも今から会ういつもの一家とこのあたりで会ったときにひとりで行ったけれど、ファルマンは引っ越し後、初めての再訪である。ナメクジが這うようなスピードでしか進まない「おもひでぶぉろろぉぉん」でも、さすがにもうこのアパートからは引っ越し、早宮に移っている。自分のブログなんだからそういうものだとしても、それにしたって僕はあまりにも自分の話ばかりしているような気がする。
 しばらくして、懐かしい顔が自転車でやってきた。その自転車の後部座席には男児がいた。5歳となる末っ子である。もともとポルガの2個上の長女、ポルガとピイガの間の次女がいたのだが、そこから少し間が空いて男児ができていたのである。ちょうど秋篠宮家スタイル。存在はもちろん知っていたのだが、これが初邂逅となった。駅前のマクドナルドで、しばし話す。同級生は相変わらずの感じだった。娘たちの画像など見せてもらい、おお、と思う。今回、娘たちにも声を掛けたが、「向こうの子たちがいないんなら行ってもしょうがない」と、もっともな理由で断られたそうで、次は娘たちも含めてきちんと予定を組んで会おうよ、という話になった。そんなのも愉しそうだ。そのときは車で行ける場所がいい。
 渋谷とか池袋をフラッとするだけの予定が、かなりの大行脚となった。暑さもあり、だいぶヘトヘトになって帰宅する。子どもたちだけでのカラオケは、いとこにアレルギー性鼻炎が発症したこともあり、フリータイム最低3時間保証のところ、2時間半ほどで切り上げたらしい。つまりまあ、いまいちな感じだったんだろうな。いとこはふたりとも、あまりカラオケをするようなタイプではない。
 晩ごはんは定番の手巻きずし。食べ終わったあと、みんなで集合写真を撮る。いつもなんだかんだで撮るが、現像して年ごとに並べるようなマメな人間はひとりもおらず、過去の画像がどうなっているのかは知る由もない。それでいい。切り取ろうが、切り取るまいが、時代は進む。かつての勤務先はチュチュアンナになり、波田陽区はすっかり見なくなり、トキはなくなり、子どもは育ち、新しい子は生まれる。おもひでぶぉろろぉぉん。

2025年夏の自家用車横浜帰省 3日目


 1年にいちどくらい帰省すべきだよなあという気持ちはありつつ、しかし距離が距離なので、必ずしも毎年じゃなくてもいいんじゃないか、という思いも同時にある。それで言うと今年は、去年帰ったし、なによりポルガが受験生で、かつ部活も忙しいので、パスという手もあった。だが「実家への帰省」に関してはそうだったのだが、それ以外の理由により、今年わが家は横浜に行かないわけにはいかなかったのだった。
 それがこの日の予定であり、われわれ4人は午前中から母にあざみ野まで送ってもらい、市営地下鉄でみなとみらいへと繰り出したのだった。2年連続のみなとみらい。もちろんVS PARKにリベンジに行ったわけではない。こちらである。


 2年前「ツタンカーメンの青春」というタイトルで、所沢で開催されていた展覧会が、画像の中のポスターにあるように、ほぼ今年1年、みなとみらいで開催されているのだった。所沢と横浜。なぜか縁のある土地でばかり開催されるこの展覧会、待っていれば次は関西あたりに来そうだなという気もしつつ、帰省との抱き合わせで行ける以上、このチャンスに行くっきゃないっしょ、ということで行った。2年前の所沢の頃から、ポルガを連れていってやりたいとファルマンは言っていたので、ようやく念願が叶ったのだった。
 ポスターの前に立っているのはもちろんポルガで、自前の「TUTANKHAMUN」Tシャツに、ネットで買った古代エジプト絵画リュックを背負い、そして肩に掛けているヒエログリフ柄のトートバッグはこのミュージアムショップで買ったものである。ガチ勢である。ちなみに顔は、ツタンカーメンのクリアファイル(それもミュージアムショップで買っていた)をお面のように着けているのではなく、僕がパソコンの画面上で貼り付けた。
 展示の内容は、ツタンカーメン関連の調度品や墓などのレプリカがメインで、レプリカである分、ガラスケースの中に収められているということもなく、さすがに触ったりはできないのだが、おそらく原寸大なのだろうし、なかなか見応えのあるものだった。開催期間が長いからか、人もそこまで多くなく、ポルガはハイテンションで館内を巡っていた。連れてくることができて本当によかったと思った。ちなみにだが、ミュージアムショップを物色していたところ、なんとなく知っている感じの顔があり、誰だろうと思ったら、「馬鹿よ貴方は」というお笑いコンビの、平井“ファラオ”光だった。ショップ内にテーブルが用意されていて、いちど目が合って会釈をしたあとはあまりジロジロ見なかったが、たしか10分1000円とかでお話ができる、という商売だったと思う。そうか、平井“ファラオ”光だから、ツタンカーメンミュージアムで仕事をもらったのか、と納得したが、いまWikipediaを見たら、そもそもその芸名にしたのは古代エジプトが好きだったからだそうで、こんな形の好きを商売にする方法がこの世にはあったのだな、と感心する思いだ。ちなみに1984年生まれの神奈川県出身だそうで、ちょっと親近感が湧いた。ポルガの古代エジプト好きが続けば、いつかまた邂逅することがあるかもしれない。そのときは1000円くらい出そうと思う。
 そんな感じでツタンカーメンミュージアムを堪能し、しかしそれで終わりではない。徒歩でわずか10分ほど移動し、次は横浜美術館へ。ここでいま行なわれているのが、こちらである。


 これはミュージアムショップで買った、「パ」のフラッグ。本来はもちろん「ピ」(売り切れ)。言わずもがな、ピタゴラスイッチの「ピ」である。そう、ピタゴラスイッチの生みの親、佐藤雅彦の展覧会なのである。ふだん見ている記事の傾向からか、数ヶ月前にスマホがヌルっと「こんなイベントありまっせ」と教えてきて、なにしろピイガを中心に、毎朝「ピタゴラスイッチ」と「0655」を愉しく観ているので、へえ横浜か、ちょうど夏にやってんなら行けたりすんのかね、などと話していたら、ツタンカーメンミュージアムとは徒歩10分ということが判明し、これまた行くっきゃない、ということで2本立てで巡ることとなったのだった。なんともすばらしい横浜の活用っぷり。もはや実家への帰省ではなく、ただの宿舎なのではないか。
 そしてこちらの展覧会はどうだったかと言うと、もちろん、まあ、おもしろかった。なんとなく快活じゃない感じの言い方になったのは、展覧会に来ておいてこんなことを言うのもなんだが、佐藤雅彦というのは、雑多でベタな日常の中に、ポイント的に出てくると「おおっ」となるけど、完全にそれだけだとさすがにしゃらくせえ、という気持ちが若干湧いたのと、やはりピイガは同担拒否が発動して始終ご機嫌斜めだったのだが、僕もその親なので、他の客やスタッフに対して、ウザったさのようなものを抱いてしまったのだった。要するに僕もピイガも、イベントなんかには参加せず、家でディスプレイを眺めていればそれが最上なんだと、そのことに気付けた展覧会であった。でも行けてよかった。
 去年に続いて2年連続のみなとみらいは、都会あるあるで、なんだかんだでよく歩いた。いっそ車で行くという案もあったのだが、駐車で困ることは目に見えていたので止したのだった。ちなみにわが家はこの市営地下鉄が1年ぶりの公共の乗り物で、みなとみらいに行くときにしか公共の乗り物に乗らないという、なかなか純度の高い状態になっている。

2025年夏の自家用車横浜帰省 2日目


 旅程2日目は、ただ豊川から横浜に移動するだけ、かと思いきや実はそうではない。そうではないのだが、かと言ってそこまで急ぐ必要もないため、本当に10時のチェックアウトギリギリくらいまで、のんびりと居座った。朝サウナも少しやり、すっきりした。
 車に乗り込んで移動を始めたら、すぐに静岡県である。そして静岡となると、どうしたって富士山への期待が高まるのだが、この日も曇天は続いていて、望みは持てそうもなかった。ちなみにルートは新東名ではなくあえての東名で、それはなぜかと言えば、清水ICで降りるからなのであった。そしてその目的は、エスパルスドリームプラザという複合商業施設内にある、ちびまる子ちゃんランドである。ピイガのさくらももこへの傾倒は未だ続いており、GWの米子の展覧会に続き、とうとう本場の清水にある正統なるミュージアムへも参ったという次第である。清水がほぼ通り道であったため、このようなことが可能となった。これぞ自家用車移動の醍醐味というものだろう。
 豊川にはもうだいぶ愛着が湧いているが、清水という街は今回が完全に初めてで、去年の津のような新鮮さがあった。エスパルスドリームプラザは、埋め立て地なのだろう、海のすぐそばにあった。清水エスパルスというサッカーチームは昔から知っているが、そうか、その本拠地にはこういう地域活動があるのだな、などと感慨深い気持ちになったりした。いろんな土地に行くのって、もしかしたらとても愉しいのかもしれない。
 施設は要するにショッピングモールで、その3階に目的のちびまる子ちゃんランドはあった。グッズショップの奥に有料のミュージアムがあって、まずそこに入った。しかし入る前から若干の嫌な予感はあったのだが、これは入らなくてよかった。せっかくはるばる清水に来た以上、入らない選択肢はなかったのだが、結果論として、入らなくてよかった。4人で4000円以上した。これはだいぶもったいなかった。その分グッズを買えばよかった。グッズショップはさすがの品揃えで、ピイガは、ちびまる子ちゃんのアニメも観るけれど、趣味としてはだいぶコジコジに寄っているので、名称の通りちびまる子ちゃんばっかりだったらちょっと困るなあと思っていたら、もはやちびまる子ちゃんよりもコジコジのほうがスペースが広いんじゃないかというくらいに置いてあった。どうもコジコジは今後、ムーミン的なことになっていくようだぞ、という気配というか熱意のようなものが垣間見えた気がした。ただしピイガはここで大喜びでコジコジグッズを選んだかと言えばそんなことはなく、今回の旅行ではっきりしたのだが、ピイガはいわゆる同担拒否のスタンスの人であるらしく、大賑わいのちびまる子ちゃんランドでイライラを募らせ、どんどん不機嫌になっていったのだった。わかるよ、その気持ち、わかるけど、しかしお前のために清水に立ち寄ったっていうのに、とも大いに思った。結局頭に血を上らせながら、何点か忸怩たる感じで買っていた。どないやねん。
 そのあと併設されている簡易遊園地みたいな所で、子どもだけジェットコースターと観覧車に乗った。ちなみにこの前日、三重県の長島スパーランドの横を通って、とんでもないジェットコースターを目にしていた。長島スパーランド、それこそ通り道なので、プールも含めて気にはなるのだが、間違いなくとんでもない混雑だろうと思うと、なかなか実際に行くハードルは高い。そもそも両親とも絶叫系に乗れないので、なおさら意欲が湧かない。まあ簡易なものでもやらせてやれてよかった。
 そんな感じで清水を後にし、いよいよ横浜へと向かう。ここまで渋滞はほぼなかったと言ってよかったが、いつものパターンで、綾瀬のあたりで捕まった。いつも神奈川県だけが足を引っ張る。そして青葉ICで降りたあとは、やはり街のギュウギュウ加減と、そして坂道加減に閉口した。坂道が多いということを、住んでいるときはそこまで意識していなかったが、本当に多い。出雲平野で育つ娘たちは、目まぐるしく上ったり下ったりする道に、車酔いしていた。なんてか弱く愛しい生きものだろう。
 そしてようやく実家へとたどり着いた。実家には母と祖母と、いとこたちが既にいた。やがて姉とその夫、そして叔父も現れた。去年も同じことを書いたが、全員が全員、それぞれらしい発言をしていて、不変だった。もしかしたら僕は、実家に不変を実感しに行っているのかもしれないと思った。

2025年夏の自家用車横浜帰省 1日目


 今年も決行した自家用車での横浜帰省から、無事に戻ってきた。今年は2回目だし、去年と違って南海トラフ地震注意が出ているわけでもなかったので、そのぶん余裕があったと思う。さらに言えば、伊勢神宮に行くはずが急に午後からの出発を余儀なくされて計画を見直す、などということもなかった。こうして考えると去年はなかなかハードモードだったのだな。
 出発は去年と同じ8月11日。そして同じく5泊6日の旅程なので、日付的には去年と丸々同じだということになる。初日はひたすら泊まるホテルに向かうだけなので、出発時間はいつでもよかったのだが、なにぶん泊まるホテルと言ったらあの、1年前わが家を骨抜きにし、2024年のパピロウヌーボの会場にまでなったキャッスルイン豊川なのであるからして、過す時間をなるべく長くするため、朝の8時半に家を出たのだった。
 今年のお盆シーズンの前半は大気が不安定で、この日も山陰から近畿、東海に至るまで、ずっと曇り時々雨という感じで、ピーカンよりはいいのかなあと思いつつ、雨が激しくなる場面も間々あって、そのときは大変だった。しかし渋滞らしい渋滞はなく、計画通りに15時半くらいには豊川の街にたどり着くことができた。ホテルに入る前に、酒など、こまごましたものを買うため、スーパーに立ち寄る。行ったのはサンヨネという地元密着型のスーパーで、豊橋ナンバーしか停まっていない駐車場に車を停めて、ぜんぜん馴染みのない土地の地元民に混じって買い物をしたら、なんだか人生の厚みが増したような、じんわりとした多幸感があった。
 1年ぶりのキャッスルイン豊川は、相変わらずの心地よさで、これから明日の10時まで、ここで気のすむまでのんべんだらりと過せるのだと思うと、これこそが帰省の主目的なのではないか、とさえ思った。ちなみに同施設には映画館も併設されているのだが、ここでポルガが急に、「ああ、ちょうどいいや、ここで『鬼滅の刃』観るわ。観に行く暇がないと思ってたからよかった」と言い出し、早めに晩ごはんを済ませて、ポルガだけ夜の回を観賞するという流れになった。旅先で映画を観るなんて、ずいぶん上級旅行者みたいなことをする奴だな、と思った。晩ごはんは去年と同じく、施設内のレストランで食べた。去年は南海トラフを警戒して自重したホテルでのアルコールを、今年は気兼ねなく取ることにしたので、ウェルカムドリンクのサービスで生ビールを頼んだ。キャッスルイン豊川で、生ビール飲みはじめたら、そんなのもういよいよ最強じゃん、と思った。
 いい気分になって、映画を観に行くポルガと別れたあとは、もちろんコロナの湯へと向かう。宿泊者以外も利用できる温浴サウナ施設であり、去年も書いたが、ホテル宿泊者はその一般客が入浴料とかを払うゾーンの内側にエレベータで直行できるというシステムが、優越感をかき立て、満足感をいや高めるのだった。施設内はわりと混んでいた。ちょうど帰省で若者が帰ってきているということなのかもしれないが、平均年齢が低く、島根のサウナとの違いを感じた。もしかしてだけど、島根ってやっぱり超高齢化なのか。あとここのサウナで、僕は初めてアウフグースというものを体験した。狙っていたわけではないが、入っていたらちょうど始まったのだ。しかもそのとき、このサウナの目玉であるらしい「玉座」という席にいたので、なんだかとても気分がよかった。ちなみにこのときサウナ室内のテレビでやっていたのは、映画「ラーゲリより愛を込めて」で、そこはちょっと複雑な気持ちにさせられた。サウナを堪能したあとは、岩盤浴コーナーで漫画を読み、部屋に戻ってまた少しビールを飲んだりして、思う存分キャッスルイン豊川を堪能したのだった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日

 いよいよ夏の帰省も最終日である。目が覚めたとき、とうとう地震から逃げ切ったな、と思った。実際、先週の木曜日から1週間ということで始まった注意期間は、この前夜に終了していたのだった。ああよかった。
 今日は豊川から島根まで、ひたすら長い移動。でもそうは言ってもそれだけなので、10時まで桃源郷をじっくり味わうことにする。朝風呂にももちろん行った。ただしサウナはせず。サウナはどうしてもしたあとで怠くなってしまうので、運転に差支えがあるだろうと判断してやめた。風呂に浸かってのストレッチが気持ちよかった。
 ゲームセンターに行ったり、漫画を読んだり、チェックアウトまでしっかり堪能し、後ろ髪を引かれながらホテルをあとにした。すぐにでもまた行きたいくらい快適な空間だった。実はこれで宿泊代は往路の津のホテルより安いのだ。たまんねえな、常宿にしようかな、と思った。
 ホテル近くの地元スーパーに寄り道し、食料やおやつを買い込んで、いざ最後の移動へと突入した。走り始めは、近付く台風7号の影響であろう、不穏な雲や強風があったが、なにしろ西へ西へ、台風とはどんどん離れてゆくわけで、三重に入ったあたりですっかり平常に戻った。どうせなら行きとは別のサービスエリアに行こうということで、滋賀の土山サービスエリアや、岡山の勝央サービスエリアなどに寄った。島根の実家へのおみやげとして、昨日沼津で富士山モチーフのチョコを買っていて、今日は追加として琵琶湖モチーフの焼き菓子なんかを買った。富士山と琵琶湖のみやげが同時にあるってなんかすごいな、でもわが家は今回まさにそういうことをしたんだよな、と思った(横浜の実家へは、蒜山・宝塚・浜松で買ったみやげを渡した)。
 中国道に入ってからは、明らかに車の数は少なくなり、この日は一切の渋滞にまみえず、18時前には無事にわが家へとたどり着くことができた。これなら大丈夫。次回からは行きも帰りも豊川だな、と思った。ちなみにもしものときのためにファルマンにフリードの運転を練習させていたわけだが、結局はいちども代わらなかった。代わってもらった場合、助手席で余計に疲れることになるのは目に見えていたからだ。まあ得てして、運転手というのは、酔わないし、逆に疲れなかったりするものだ。
 そんな今夏の横浜帰省だった。初めて自分の運転する車で、ここまで本州を横断したので、とても愉しい経験だった。これまであまり馴染みのなかった滋賀・三重・愛知・静岡あたりの県が、とても身近に思えるようになった。途中でも書いたが、京都だってそう遠くないことを知ったし、京都のジャンクションでは福井などの北陸方面に向かう案内もあった。そっちだって行こうと思えば行けるのだ。というわけで今回の横浜行きの感想としては、「高速道路がおもしろかった」ということになる。次回もおそらくこのやり方で行くことになるだろう。成功してよかった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 5日目

 昨日はヘトヘトになったが、この日は今回の旅程のスケジュール的に最も楽な日で、というのも、往路の「島根→津:津→横浜」というのが、比率として「5.5:4.5」だとすれば、この日の宿泊場所は愛知県の豊川市であり、「横浜→豊川:豊川→島根」は、「3.5:6.5」という感じだからだ。今日はただ、横浜から愛知の、それもやや西側まで行けばいいだけの日。
 だから出発も悠々で、なにしろ公共交通機関ではないので自由なのだが、15時からのチェックインよりも早く着いてもしょうがないので、まあ11時半くらいに出ようかね、という感じだった。テレビでは台風7号のことが盛んに報じられていて、関東に最接近する明日は新幹線が計画運休する、などと言っていた。世が世なら、である。わが家の場合、この日のうちに愛知県に移動するので、ギリギリで台風の影響は受けずに済みそうだった。それにしたって、南海トラフ地震注意に始まり、台風まで発生して、帰省というのはこんなにもアドベンチャーなものであったろうか、と思った帰省だった。
 祖母と母、いとこふたりに見送られながら、出発する。出発してわりとすぐ、やっぱり綾瀬のあたりで渋滞に捕まる。行きも帰りもということは、常態として渋滞しやすいスポットなのだろう。これがなければ小一時間くらい、所要時間が短くなるのにな。そこを抜けたあとは快調だった。途中、駿河湾沼津サービスエリアで休憩。ちなみにだが、行きも帰りも富士山は見えなかった。天候的に見えなかったのか、新東名を走ったところで決して見えるものではないのかは判らない。
 豊川へは15時半くらいに着いた。愛知県に、通過するだけでなく足を踏み入れたのはこれが初めてだと思う。豊川はバイパス沿いにあらゆるチェーン店が並ぶ、典型的な地方都市という感じだったが、やはり三大都市の近くで人口規模が大きいのか、チェーン店の層の厚みを感じた。ありとあらゆる店が揃っていた。その一方でごみごみしている感じもなく、田んぼなんかも普通にあったりして、ずいぶん暮しやすそうな場所だな、と思った。
 往路の津は伊勢神宮という事情があったからだが、復路のここにはどういう目的があったかと言えば、土地そのものには関係がない。近隣の観光スポットを検索したところ豊川稲荷があったけれど、行くつもりはなかった。じゃあなにかと言えば、それはひとえに宿泊施設だ。その名もコロナワールドという、温浴施設にゲームセンター、映画館、ファミレス、ボーリング場、そして(わが家には関係ないけど)パチスロが1ヶ所に集まった施設に、キャッスルイン豊川というビジネスホテルも併設されていて、宿泊客は風呂もサウナも入り放題ということで、そんなのもう桃源郷じゃん、と思って、あんまり横浜と島根の中間地ではないなとは思いつつ、ここっきゃないと思って予約を入れたのだった。そんなわけで、施設そのものをレジャーとして堪能するため、ほぼチェックイン時刻めがけてやってきたというわけである。
 期待がだいぶ大きかったので、実際どうなるか不安だったのだが、行きのホテルの名前は出さないのに対し、こちらは明確に書いているということが示すように、ものすごくよかった。本当に桃源郷だった。部屋はトリプルルームで広く、エレベータで降りればそこはゲームセンターで、ひとしきり遊んだらサウナ。宿泊客は専用のエレベータで、一般客がお金を払う入り口の奥から入ることができる、というシステムがよかった。なんかもう、どうしてこんなに甘やかしてくれるの、われわれ一家は庇護対象なの、というくらい心地がよかった。さらには岩盤浴コーナーでは漫画が読み放題と来て、子どもたちも大喜びの様子だった。10時のチェックアウトまで目一杯いよう、この夜が40時間くらいあればいいのに、と思った。晩ごはんは施設内のレストランで食べる。ウェルカムドリンク一杯無料のチケットがもらえ、選択肢の中には生ビールもあり、心が千々に乱れたけれど、ホテルでは酒を飲まないという当初の誓いを守り、なんとか耐えた。生ビールの選択肢があるのにウーロン茶! もはや聖人の所業ではなかろうか。ちなみにこの食事の際、大社高校の2試合目がもう終盤で、やはりスマホでスコア速報を更新しながら確認していたのだが、タイブレークの末に勝利ということで、さらに多幸感のある夜となった。寝てしまうのが惜しかったけれど、翌日の運転は長いので、そうも言っていられず、寝た。

2024年夏の自家用車横浜帰省 4日目

 そう言えば、気になる人は気になっているであろう、『実家においてオートメーションで祖母が行なう衣類の洗濯に、この2年あまりですっかり、手作りのビキニショーツしか穿かないタイプの人になったパピロウは、どう立ち向かったか問題』なのだが、前回の帰省から1年半経って、祖母は95歳となり、実はうすうすそんな予感はしていたが、祖母はさすがに日々の洗濯係からは引退した模様で、そして母というのはあまり洗濯を積極的にするタイプの人ではないので(よく洗濯機を回したあと干すのを忘れて丸一日経ったりしていた)、帰省中の洗濯はセルフと言うか、なんなら祖母と母の分も一緒に回してわれわれが干す、みたいな形になったのだった。そしてそれはほぼ理想的な形と言っていいもので、滞在中は勝手に回し、勝手に干し、勝手に取り込んで、勝手に畳んだのだった。とは言え初日からそのスタイルが確立されていたわけではないので、そこではショーツは洗濯に出さず、かと言って荷物の中に入れていた、実際には穿いていないのに洗濯に出すカムフラージュ用のボクサーパンツもまた、出さない、すなわち下着はなにも洗濯に出さないという選択をしていたのだけど、滞在3日目となるこの日、初めてショーツを洗濯に出し、横浜の空の下に干したのだった。いったい僕はなにについて、こんなに言葉を弄して語っているのだろうかと、我ながら思う。
 さすがに洗濯を引退した祖母だが、しかし傍から見れば変わりなく元気そうで、長生きの年寄りというのは基本的にそういうものなのだろうとも思うが、なにより自分の健康についての自信、そしてそれを自分のみならず周囲へも十全に認識させようとするガツガツ感が、とにかくすごいと思った。実際、体もまだよく動くようで、それは誇るべきことだろうとは思うが、週一で通うようになったというデイサービスにおいて、自分よりも年少でありながらもはやよぼよぼの老人たちに較べ、自分がどれほど健康体であるかを朗々と語る祖母の姿を見て、人間および生き物の本性、とにかく長く生き抜こうと思ったときに必要なのは、倫理や貞節などでは決してなく、他者を見下して自尊心を高めることとなのだな、と思った。今回の祖母の言い回しで感心したのは、「80代の人もみんな杖をついているが、私は杖のつき方を知らない」というものだ。この驕り高ぶりと来たらどうだ。「負け方を忘れてしまった」というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、それと同種だ。ただし「負け方を忘れてしまった」のほうは、フラグと言うか、そんなことを言っている奴はいつかコテンパンに痛い目に遭うだろう、という気がするけれど、95歳の祖母は、もう何を言っても許されるので、要するに最強だと思った。いいなあ、95歳で、「杖のつき方を私は知らない」と言える人生。血筋としては素質があるはずなので、目指して生きていこうと思う。
 さて全体4日目の予定だが、この日は特に予定を入れず、事前に姉に、「この日にいとこで一緒に遊んでやってよ」とだけ打ち合わせをしていた。この日もなにも、近所に住むいとこたちは隙あらばこちらにやってくるわけだが(そのためこの前日などは、来てくれるなとわざわざ頼む必要があった)、せっかくの1日フリーということで、横浜に来たからには、みたいな所へ繰り出したいという思いがあった。しかし前日ポルガはあんな状態だったし(回復したようだったけれど)、なにより山陰よりもやはり強く感じられる関東の暑さに参っていたしで、「家で4人で桃鉄でもすればいいんじゃない?」と提案したのだが、もちろんあえなく却下され、結果的にみなとみらいにある「VS PARK」という屋内型ゲーム施設に行くことになった。ちなみにもうひとつの候補として、渋谷および原宿という、これはこれでド田舎の中学生にとってはだいぶ訴求力のあるスポットに繰り出すという案もあり、どちらかと言えば僕はそちらのほうがよかったのだが、具体的にどこでなにをするというプランのないそちらに対し、「VS PARK」のホームページはやることが明確かつ魅力的で、どうしたって子どもたちの希望はそちらに傾いてしまったのだった。島根からスタートし、8県2府を跨った今回の旅路で、最後に東京都まで踏破したいという思いがあったのだが、残念だった。僕が利用していた頃とは様変わりしたらしい渋谷の街を、今回こそは味わいたいと思っていたが、また持ち越しになってしまった。
 というわけで、みなとみらいに向けて出発する。母も姉も来たので、計8人の大所帯だ。あざみ野から市営地下鉄で桜木町まで。ちなみにこのときわが家4人は、去年3月の帰省以来、1年半ぶりに公共の乗り物に乗った。田舎暮し、マジで公共の乗り物に乗らない。そして公共の乗り物って、乗らずに生きていると、どんどん乗りたくない気持ちが強まってくるものだな、と思った。
 みなとみらいは、「USP」で確認したところ、2015年の9月以来であるらしい。当時、ポルガは4歳、ピイガは1歳。シルバーウィークでの帰省の最終日、新幹線で岡山に帰るという日に、ファルマンの大学時代の友達と集ってごはんを食べ、最後に子どもたちにせがまれコスモワールドでメリーゴーランドに乗ったところ、想定外に時間がかかり、このままでは乗るはずの新幹線に乗り遅れてしまう、となって、コスモワールドから桜木町駅まで全力疾走した記憶がある(子どもにはもちろんない)。当時からの違いとして、聞き知ってはいたがロープウェイができていた。なるほどなあ、という感じのロープウェイだった。「VS PARK」の入る施設までは、ランドマークタワーの足元などを通りながら、歩く。途中のビルでドラクエのイベントをやっていて、巨大なスライムが吹き抜けの中空に浮かんでいたので、写真を撮って義妹に画像を送って自慢した。
 わりと歩いて(都会特有の、気付けばわりと歩くやつ)、目的の商業施設に到着した。施設はコスモワールドのすぐ隣だった。ここまでもそうだったが、中もすごい人の数。お盆だから逆に関東からは人が減っているんじゃないか、という希望的観測は泡と消えた。「VS PARK」も当然ながらすごい行列で、たじろぐが、8人でわざわざここまで出向いている以上、じゃあやめよう、というわけにもいかず、並ぶ。これが実に長かった。当初見えていた列は、先へ進んで道を曲がるとさらに奥に続いていたので、心底うんざりした。わが家は、島根在住者なんですよ! 行列耐性が、日本でいちばん低いと言って差し支えないんですよ! 容赦してくださいよ! ファルマンは途中からうずくまり、スマホをじっと眺めるだけになり、なにを見ているのかとそっと覗いたら、あだち充の漫画を読んでいた。この人は今、あだち充の漫画を読むことで、ギリギリ踏ん張っているのだな、と思った。
 並んだ末にようやく入った「VS PARK」は、その名の通り「フレンドパークⅡ」や「VS 嵐」をモチーフにしたような施設で、中には「そのまんまじゃねえか」みたいなゲームもあった。入場まで待たせる代わりに、中はそこそこの混雑に抑えるという仕組みのようで、2時間の制限時間の中で、並んでるだけでぜんぜん遊具にありつけねえじゃねえか、ということはなく、それなりに遊んだ。子どもたちは愉しそうだった。大人は、もう行列の時点で腰などがだいぶ悲鳴を上げていたので、子どもたちの撮影を中心にやって、あと穏当そうなゲームを少しだけこなした。ヘロヘロだった。
 退場後は、もう15時近くになっていて、昼ごはんがまだだったので空腹だったが、施設内のフードコートには人が溢れていたので諦め、駅に戻る途中のファストフードで済ませた。連休中の観光地なのだから当然だが、とにかく、とにかく人が多かった。
 夕方に帰宅したら、祖母によって洗濯物が取り込まれ、畳まれていた。初めて油断してショーツを干した日にこんなことになったか、と思った。祖母はたぶん、ファルマンかポルガのものと思ったろうな。
 実家で過す最後の晩ということで、夕飯時にはふたたび叔父と義兄もやってきて、食卓を囲んだ。叔父とは今回、ほとんど会話をしなかったな。広島大学に遊びに行ったという話も、するのを忘れてしまった。最後に全員での集合写真を撮ってお開き。くたくたになった1日だった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 3日目

 実家の布団は硬い。重くて硬い。寝るのが和室なので、昔ながらの考えではマットの類は必要ないということになるが、いまどきの高機能マットレス(決して高価というわけではなく)に慣れた身からすると、地べたに薄布1枚敷いたくらいの状態で寝ているような気持ちだ。移動の疲れが取れないどころか、朝には寝返りも困難なほど体がバキバキになるので、なんとかしたいという思いはずっとあるのだが、1年半ぶりに3日だけ泊まる立場で、マットレスを買えとも買うとも言えない。母も物が増えるのは嫌がるだろう。というわけで耐えるほかないのだった。
 日程3日目の予定は、午後からの藤子・F・不二雄ミュージアム行きとなっていて、午前中はのんびりと過す。今日も姉の子どもたちがやってきて、4人でわちゃわちゃとやっていた。わが子が、どちらの実家においても、いとこと愉しそうに触れ合うさまを見るたびに、不思議な気持ちになる。友達とも、きょうだいとも違う、いとこというのはとても独特の距離感の存在なのだな、と思う。自身のいとこ経験値が皆無なので、娘らを見て学習している。ちなみにだが、この前の晩に眺めたアルバムで、僕が幼稚園児くらいの頃の写真で、知らない家族とディズニーランドに行っているものがあり、誰かと母に訊ねたら、それがいとこ一家であった。父の、姉だか弟だかの一家ということだ。一家には同年代の男児もいた。だから、実はいちおう経験はあったのだ。完全に忘れているけれど。
 昼ごはんに、たこ焼きを焼いた。最近またレベルが上がったたこ焼きを、実家の面々に振る舞ってやろうと思ったのである。こちらでいつも買っている粉が、横浜のスーパーでは手に入らなかったけど、まあまあおいしくできた。
 そのあと、Fミュージアムへと向かう。母が送迎してくれるというので甘えた。公共交通機関で行こうとするとかなりの回り道なのだが、実は実家から車で30分かからない。この距離感を思うたびに、ああ僕は、ドラえもんがたまらなく好きだった小学校低学年あたりの頃、藤子・F・不二雄とこんな近い位置関係で暮していたのか、と思うのだった。Fミュージアムに来たのはこれで3回目。前回は、2020年の年明けだった。今回もだったが、当時から中国人の客が多くて、そのあとすぐに新型コロナが流行したので、少しどぎまぎしたものだった。今年は藤子・F・不二雄生誕90周年ということでさまざまなキャンペーンが組まれ、プライムビデオでもいろんなアニメが公開され、わが家のFの機運もまた高まっており、横浜に行く以上はそりゃあ行くだろう、とこれも半ばオートメーションのように定めた目的地であった。しかし意欲的に赴いたはずが、やはり3度目ともなると常設の展示にはもう感動できないし、なによりポルガのコンディションがあまりよくなかった。長距離移動後すぐのいとことの激しい絡みに加え、今朝は母に合わせて早朝に起き、長い散歩などしたものだから、あっという間にキャパオーバーとなり、せっかくのFミュージアムで青い顔をしていた。当然機嫌も悪くなり、その機嫌の悪さに対して我々も不愉快になってくるので(もう少し自分の余力をわきまえろよ、という文句もある)、実に険悪な雰囲気の一家になった。そんな状況で入店したカフェでは、注文した品がいつまでも出てこない、あとから来た客のフードメニューが次々に運ばれてくるのに、ココアとかしか頼んでいないわれわれの注文品がいつまでも来ない、という悲劇に見舞われる。注文から30分が経過したところで、さすがにこれはもう退店しようと思い、店員にキャンセルを申し出たら、「今できたのでお持ちします」と言われ、運ばれてきたココアとカフェラテは、すっかりぬるくなっていた。これはどうやらわが家の今生のFミュージアムは終わったようだな、と思った。また最後に位置するミュージアムショップで売られている商品の高いこと。どうやらこのミュージアムはもう、中国の富裕層しか相手にしないことにしたらしい。そっちがその気なら、こっちももう行かないまでだと思った。
 帰宅後は、母と祖母と、わりと普通の晩ごはんを食べた。一時よりは復調したものの、ポルガがあの調子だったので、カフェで待っている間に姉に連絡し、今晩は子どもをこっちへ寄越してくれるなと頼んだのだ。というわけでこの晩は早めに寝仕舞いし、回復に努めることにした。

2024年夏の自家用車横浜帰省 2日目

 2日目。早く寝たので、6時台に起きた。起きてすぐ、とりあえずこのホテルでの被災は免れたのだ、と思った。ピイガも起きたが、確認するまでもなく隣室のふたりはまだ起きていないだろう。ピイガに断りを入れて朝風呂に行った。少し大きいだけの単なる風呂だったが、それでもまあ、せっかくだから入っておこうという貧乏根性である。そのあと寝起きの悪いふたりとも合流し、朝ごはんはホテルのビュッフェ。宿泊プランに入っていたので、ワホーイと会場へと向かった。特段豪勢ということもなかったが、普通においしく、なにより朝のビュッフェはテンションが上がることだよ、と思った。
 そして出発。この日はこの地から横浜への移動だけの予定だが、さすがにこの日に伊勢参りをスライドさせるという考えはなかった。津から伊勢神宮は、60キロくらいあるらしい。行って、回って、また三重県の北部まで戻ってこようとすると、どう考えても半日以上かかるだろう。いま自分たちが、人生でいちばん伊勢神宮に近付いているという認識はありつつも、さすがによした。縁があればまた機会は巡ってくるだろう。
 津からまた高速道路に入って走り出すと、すぐに中京工業地帯のあたりに出て、海上を進むような沿岸の道が、若干おそろしくも気持ちよかった。長島スパーランドの、信じられないようなジェットコースターの骨組みを目にし、震え上がったりした。そのまま愛知県を突っ走り、新東名に入り、静岡県の浜松サービスエリアで休憩。なかなか賑わっていた。車はさらに進み、とうとう神奈川県に入る。島根をスタートし、鳥取、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、三重、愛知、静岡と来て、ラストの神奈川である。来れるもんだな、繋がってるんだな、と思った。1日でやれと言われるとつらいが、2日がかりの悠々スケジュールだったこともあり、新鮮で愉快な経験だった。飛行機は論外として、時間に余裕さえあれば、新幹線よりもこっちのほうがいいな、と思った。家族水入らずで過せるし、ホテル代、高速代、ガソリン代を含めてもたぶん安上がりだ。今後はこれで決定だな、と思ったが、子どもがこうしてようやく長距離の車移動に堪えられる年齢になって、そして子どもが帰省についてきてくれる間だけだから、人生の中でかなり限られた期間だろうけども。
 厚木を過ぎて、もうほとんど実家のエリアだな、となったところで、綾瀬から町田にかけてのところで、この旅程でいちばんの渋滞に巻き込まれたが、それでもなんとか横浜青葉インターチェンジまでたどり着いた。ここまで来ればいよいよホームである。いつも島根の街を走っている車で走る青葉区の住宅街は、傾斜のある土地にギューっと建物を詰め込んでるんだな、というギチギチ感がすごかった。実家に到着したのは15時台。母と祖母が出迎えてくれた。祖母は、第一声がなんだったかは忘れたが、第三声くらいが、「次はいつ来るんだ、正月は来るのか」だったのは覚えている。濁してもしょうがないのではっきり言った。「正月は確実に来ないよ」。
 われわれの到着が伝わり、近所に住む姉の子どもたちもやってくる。姪は高1、甥は小6である。再会は去年の3月(WBCをやっていたので覚えやすい)以来だが、どちらも大した変化はなかった。この期間、4人の中でいちばん発育したのはポルガだろうと思う。身長がファルマンに匹敵するポルガは、縮みつつある母の身長を超えていた。そして子どもが4人揃うと、毎度のことながらとても喧しかった。島根のほうのいとこは、ピイガの1個下の子はおとなしいし(心を開いた相手には延々としゃべり続けるけれど)、その妹はまだ2歳なので、4人いてもほぼポルガとピイガのうるささしかないのだけど、こちらの4人は、4人がそれぞれしっかりとうるさいので、本当にすごいことになる。久々に味わうその感じに、ああそうだった、こんな感じだった、こんな感じの、すごいストレスなのだった、と思った。
 晩ごはんまでの間に、納戸からアルバムを持ってきて、眺めた。僕の幼少期のアルバムである。相変わらずかわいかった。もちろん今も今で至極かわいいのだけれど(そのうえ40歳としての艶も出てきた)、やっぱり手足が短いかわいさというのは格別だな。自分の小さい頃の写真を見ることでしか満たされない容器が満たされるのを感じ、満足した。
 やがて叔父や姉夫婦も現れ、一族が全員集合し、晩ごはんのメニューはもはやオートメーションの手巻きずし。叔父は叔父だったし、姉は姉だったし、義兄は義兄だった。集う感じも、手巻きずしも、人間も、実に不変。こうも不変ならば、もう実際に集合しなくても、VRでもいいのではないかと思うほどだった。
 そんな感じで全体の2日目は終わった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 1日目

 横浜帰省から無事に戻った。
 南海トラフ地震注意に怯えつつ、さらには台風7号に追い立てられながら、しかし結果的には何事もなく、住まいへと戻ってくることができたのだった。本当によかった。
 移動日のホテル宿泊も含めれば5泊6日にも及ぶ日々を、これから綴っていく。ちなみに車だったので、ノートパソコンも持っていったのだが、結局いちども起動させなかった。毎日日記を書いておけば楽だったろうにな。
 出発は8月11日であった。発生から1週間が経過し、注意報も解除された今となっては、結果論として過剰な反応ということになってしまうが、降って湧いた南海トラフ地震注意に、出発前の2日間はだいぶ悩んだ。移動は長く、そしてその道程はだいぶ南海トラフの警戒地域である。わざわざこのタイミングで、南海トラフの話題は普段、はっきり言って他人事である山陰の人間が、ノコノコそっちへ出ていく。これで本当に被災したら目も当てられない。宿泊先が実家だけならまだいいが、行きは三重県、帰りは愛知県の、それぞれなんの土地勘も縁故もない地方のホテルに泊まるのである。もしもその夜に地震が起ったら――? とまあ、不安は大きかったのだが、実際に取り止める踏ん切りもつかなかったので、決行した。
 行きの宿泊先は三重県と書いた。三重県は津市である。津は、スムーズに島根から横浜を目指すのであれば、少し寄り道になる位置にある。ではなぜ津かと言えば、今回のこの帰省には、伊勢参りというオプションも付けていたからだ。せっかく車でこのあたりを通るのだから、いつか行きたいと思っていた伊勢神宮観光も兼ねようではないかと。三重県の南方にある伊勢はだいぶ遠いが、早朝に出発し、昼あたりに着いて、半日ほど伊勢神宮を巡り、そして夜に津のホテルに入る、という算段を立てていた。しかしこの予定は、ポルガの部活動の影響(あまり誰も行けると思っていなかった上の大会に進出してしまったのだ)により、急遽中止することになった。11日の午前に部活が入ってしまったのだ。残念は残念だったが、この旅程の初日に、早朝に起きて炎天下で伊勢参りというのは、やったらけっこうハードだったかもな、とも思う。
 というわけで昼過ぎ、ポルガを学校で拾っての出発となった。伊勢参りがなくなったことで、この日は津まで行ってホテルにたどり着ければそれでいい。渋滞がなければいいな、と思いながら長い旅路が始まった。車内では、このために作ったプレイリストをひたすら流した。横浜帰省用として、2ヶ月ほど前から、ひとり10曲、計40曲というプレイリストを、12個作っていたのだ(ポルガやピイガは意気揚々とやっていたが、僕とファルマンは120曲を選出するのに大いに苦労した)。1つで大体2時間あまりとなるそれを、順番に再生し、最後に家に戻ってきたときは、ナンバー10の途中だった。自分が聴きたいと思って入れた曲と、家族の選んだ聴いたことのない曲が流れるので、飽きずに道中ずっと愉しめた。日々の運転でもだが、音楽のサブスクはだいぶ車中のQOLを上げてくれていることだな、と改めて思った。
 道は、岡山(倉敷)との行き来では、広島県を通る、しまなみ街道を使って尾道まで出るルートだが、検索したところ今回のような場合はそっちではなく、しまなみ街道ができるまでは使っていた、鳥取県を通って蒜山や津山など岡山県の北部に出て、そこから兵庫県へと進んでゆくルートのほうが早いということで、久しぶりにそっちの道を走った。途中、蒜山高原や宝塚北のサービスエリアで休憩した。宝塚には手塚治虫コーナーがあったので、寄ってよかった。兵庫県を越えると大阪府で、さらには京都府、そして滋賀県も少し掠める。ちなみに大阪と京都は、イメージしていたような風景ではぜんぜんなかった。そういうものだな。島根だってほとんどの地域は神の国でもなんでもない。それにしても京都だ。「京都市街」みたいな表示のインターもあり、ここを降りたら京都観光ができてしまうのかー、と思った。宿泊先さえ確保できれば、片道4時間ちょっとくらいで、京都旅行ってできるんだな。今回の経験を通して、これまでなんとなく畏敬の対象で遠かった京都が、存外そうでもないのだということを知った。そのうちやれたらいい。そして滋賀を抜けたらそこはもう三重県である。この道程において、大阪や京都あたりの渋滞が不安だったが、そこはぜんぜん問題なくて、でもなぜか唯一、滋賀から三重までの間の、具体的にどのあたりだったかもう忘れたが、トンネルが連続する山道のあたりで、何十分間かの渋滞に巻き込まれた。まあそのくらいで済んだのはよかったと思うべきか。
 ちなみにこの道中で、島根県代表である大社高校の、甲子園1試合目が行なわれており、ここというのはファルマンの上の妹とその夫の出身校であり(妹のほうが2つ上で、高校時代は面識がなかったという)、さらにはパピロウヌーボでおなじみのプロ角マキコこと江角氏の出身校でもあるため、わりと身近に感じているのだった。しかし初戦の相手が、春の選抜の準優勝校である兵庫の報徳学園ということで、これは無理だろう、まあ甲子園に行けてよかったよね、などと思っていたら、勝ったのでとても驚いた。試合状況はファルマンが助手席でちょいちょいチェックする形で確認していたのだが、試合が終わってしばらくしてから、そう言えばラジオで聴けたんだな、と気づいた。
 そうして無事に津に到着。ホテルは市の中心地にあって、街と道の感じが、なんとなく岡山を彷彿とさせた。ホテルに入る前にガソリンを満タンにし、あと地元のスーパーで夕飯を買い込む。事前にわざわざ調べさえした地元のスーパーは、しかし期待していたような愉しさのない、いまいちな感じだった。ちなみに酒は買わない。事前の宣言通り、ホテルでは飲まないのだ。5時間近い運転ののちに! 飲まない! 南海トラフ地震注意だから! だいぶん忸怩たる思いを抱えながら、酒をカゴに入れることなくレジを通した。
 ホテルはごく普通のビジネスホテルで、トリプルの部屋があれば、小学生添い寝無料とかで1部屋で済んだのだが、うまいこといかず、ツインの部屋を2つ取ることになり、その部屋割りをどうするかで少し悩んだ。結果として、寝つきがいい組(僕とピイガ)と、寝つきがクソ組(ファルマンとポルガ)で分かれることにした。これはとてもよかったと思う。部屋でごはんを食べたあとで、性分としてどうしても甘いものが食べたくなって、ホテル近くのコンビニまで買いに行くことにした。ポケモンGOをするポルガを誘い、ふたりで夜の津を歩く。コンビニは通りを1本入った、住宅街の中にあった。そもそも伊勢神宮に行くつもりで取った、だから今となってはぜんぜん泊まる謂れのない津に、なぜか一家4人で来ていて、ひと晩泊まるのだと、そして今はその津の中でも、絶対に地元住民しか使わないようなコンビニに娘と歩いて来て、プリンを買うのだと、そういうことを思うと、なんだかとても不思議な気持ちになった。津! 津て! 俺の人生に、津で過す一夜があるだなんて! 部屋に戻り、プリンを食べ、大浴場(サウナはなく、なんの面白味もない浴場だった)で風呂を済ませたあとは、僕もピイガも眠気が来たので、ピイガは21時台に、僕も22時台に、早々に寝た。向こうの部屋のことは知らない。ファルマンは「時計を見たら2時だった」などと言っていたような気がする。エアコンの設定が難しかったこともあり、僕もぐっすりとはいかず、浅い眠りの中で地震のことなどを思って途中で起きたりしたが、そのとき見た時計の時刻が2時台だったように思う。幸い地震は起らなかった。
 とりあえずこれが初日の動き。パピロウ名物、数日間に及ぶ出来事の、序盤はかなりしっかり書き込むが、後半はたぶん流し気味になるやつ。2日目に続く。

岡山旅行&横浜帰省記 7 完結

 江ノ電はひどく混んでいた。今回乗った電車の中で、断トツだった。いったいこれがGWにはどうなってしまうのか、とまた思った。予定通り、由比ヶ浜駅で下車。由比ヶ浜駅というくらいだから、降りたらすぐに砂浜の風景が広がるのかと思っていたが、意外とそんなことはなかった。どうも人の流れ的にこちらが海らしい、という方向へ、住宅街の中をしばらく歩いて、ようやく着いた。この道の途中や、あるいは沿岸にコンビニのひとつもあるだろう、そこで食べ物の追加や、そしてノンアルコールビールを買おうと画策していたのだが、意外とひとつもなかった。仕方ないので先ほど調達したもので我慢することにした。箱を開けてみたら稲荷ずしは思っていたよりもボリュームがあったので、食べ物の分量的には問題なかった。ノンアルビールはだいぶ恨めしかった。食べていたら、上空をトンビの大群が旋回し始め、子どもが怖がる。それを憂えたファルマンが、持っていたビニール袋を頭上に突き上げ、変なステップを踏みながら振り回すという、トンビを追い払っているのか人を追い払っているのか判らない謎の動きをしたのでとてもおもしろかった。
 食べ終わったあとは、長谷の方面に向け、砂浜を歩く。わが家は、日本海や瀬戸内海には馴染みがあるけれど、太平洋とはほとんど接触がない。一応みなとみらいでも目にはしているのだが、あれはあまり海という感じがしない。歩いて分かったが、日本海と太平洋の大きな違いとして、太平洋の砂浜には、ハングル文字のプラごみがない。
 長谷駅までは歩いたらけっこうあった。そして長谷駅から、いわゆる鎌倉の大仏のある高徳院までも、けっこう距離があるのだった。しかもゆるやかな上り坂。ファルマンとふたりで来たときも同じ道を歩いたはずだが、まったく記憶にない。こんなにけっこう行くまでに苦労したんだったっけ、大仏様ちょっと奥に移動してない? などと思った。
 高徳院に着き、大仏に相対する。おー、という感想。写真とかテレビで見たことあるやつー、と思った。バカな感想だな。僕とファルマンとポルガの3人は、つい最近「ブッダ」を読んだばかりなので、特別な感慨を持てばいいだろうに、あまりそんなことはなかった。大仏の内部も入れたので入った。たぶんこれは初めてじゃないかと思う。内部が特別どうこうということはなかったが、あの鎌倉の大仏の中に入ったという事実がおもしろいと思う。
 鶴岡八幡宮、小町通り、由比ヶ浜、鎌倉の大仏という、王道ルートをこなし、これにて鎌倉観光は終了。これから長谷駅まで歩いてそこからまたあの激混みの江ノ電かー、とテンションが下がっていたら、高徳院を出てすぐの所にバス停があり、鎌倉駅まで行ってくれるというので飛び乗った。座ることもでき、とても楽だった。
 帰りの電車で母と話をしていて、由比ヶ浜の話題になり、母が「波の音って本当にうるさくて嫌」と言ったのが印象的だった。ああ、この人は息子一家と鎌倉に来て、由比ヶ浜を見て、そしてしみじみと、「波の音がうるさい」ということを思うんだな、ブレないな、と思った。母がこれからもずっとこうやって、老人的なみすぼらしさを見せないでくれたらいいと思った。
 帰りがけにスーパーに寄り、夕飯の買い出し。メニューをどうするか問われたので、焼き鳥やシュウマイや煮豚や枝豆など、おつまみっぽいものをこまごまと作ろうと提案した。帰宅すると既に甥は実家にいた。それから叔父と姪を車で迎えに行き、夕餉を始める。陽射しを浴び、よく歩いたあとの焼き鳥とビールが、どこまでもおいしかった。途中で姉と、今晩は義兄もやってきて、全員集合となる。全員が集合したので、3年ぶりに全員での写真を撮った。見較べてはないが、3年分子どもたちが大きくなっているだろう。それ以外はあんまり見た目の変化はないだろう。
 翌日は最終日。なんとこの日も予定が入っている。新幹線は午後2時新横浜発なので、午前中だけなのだが、ここが今回の帰省で唯一の、いとこで遊べるチャンスなので、姉と事前に協議した結果、つくし野のアスレチック施設に行くことにしたのだった。しかしここまで岡山・上野・鎌倉と動き回り、さらには夕方からは岡山から島根までの運転が待っている身としては、今日はもういいんじゃないか、姉の家の大きなテレビでWBCの準決勝を観る、というのでいいんじゃないかと、やんわりと提案したのだけど、アスレチックにテンションを上げる子どもたちにそんな声が届くはずもなかった。というわけで朝からアスレチックへ。姉によると、ここには自分が子どものころにも来たことがあるそうなのだが、まったく覚えがなかった。園内を巡っているうちに痛烈に思い出す瞬間があるかもしれないと期待していたが、結局最後まで一切の思い出がなかった。子どもたちは普通の公園にはないレベルの設備に、躍動していた。こいつらはもう、こどもの国じゃなくてこっちなんだな、もとい数年前から実はそうだったんだな、と見ていて思った。そして子どもたちをアスレチックで遊ばせながら、大人たちと言えば、やはり誰もが明らかにWBCの試合状況をチェックしているのだった。大抵の大人は、家でWBCを観たいに決まっているのだ。それでも子どもとアスレチックに行く約束をしてしまったから逃れることができなかったのだ。試合は敗色濃厚の様相を呈し、諦めムードの中、われわれのタイムリミットは迫り、アスレチックを後にする。その施設から出て駐車場の車まで歩いている途中で、周囲からワーッという叫び声が響き、慌てて車に飛び乗ってラジオを付けると、村上のサヨナラタイムリーで日本が勝っていた。タイミングが特徴的だったので、なかなか印象深い記憶になったと思う。
 そのあとはいったん帰宅し、少し急いで昼ごはんを食べ、1時ごろに実家をあとにする。濃厚であっという間の2日間だった。
 そのあとは新横浜で新幹線に乗り、5時半ごろに岡山に到着。岡山から再びかつての居住地の街へと移動し、3日間、見知らぬ街に置いていかれていた愛車に乗り込んだ。ここから3時間の運転である。この街に住んでいたらここで行程はおしまいなわけで、楽だなと思うが、でもやっぱり、これは前向きな発言として、ここに住んでいた頃よりも、今の島根県での暮しのほうが好きだな、3時間余計に掛かっても島根の暮しがいいな、というふうに思ったので、自分のことながら安心した。3時間は、ポルガのプレイリストを聴きながら、愉しく運転した。今回は本当にギチギチのスケジュールだったのだが、無事にすべてをやり遂げることができ、よかった。帰省して数ヶ月は、「さすがに顔を出さないとなあ」という懸念から解放されるのがいい。GWはたくさんのんびりしようと思う。

岡山旅行&横浜帰省記 6

 ここまでちょっとゆっくり書きすぎた。ここからペースを上げることにする(どうせそんなことになるだろうと思っていた)。

 3年ぶりの国立科学博物館は、まあ前に来たことがあるな、という感じだった。もちろんおもしろいのだが、1回目に読んでおもしろかった本を、あの本すごくおもしろかったからもう1回読もう、と思って読んだら、もう読んだことがあるのでそんなには愉しめない、みたいなそんな感じがあった。とはいえ、別に僕はいいのだ。ポルガが来たくて来たのだから。たぶん3年生で来た時よりも、知識も増えて、より愉しめたのではないかと思う。
 午後2時ごろに科博を後にし、ようやく実家へ。JR上野駅から田園都市線へのアクセスが、途中のどこかで半蔵門線に乗り換えるとか、検索すれば賢い方法もあったのだろうが、荷物が重かったこともありそんな余裕はなく、山手線で渋谷まで行くという、たぶんとても素人的な経路を採った。ホームに降りてから気付いたが、上野から渋谷って、山手線のほぼ真反対なのな。内回りでも外回りでも変わらない感じ。長いなー、とうんざりしながら、先に来たほうの電車に乗り込んだ。この際、初めて例の「高輪ゲートウェイ駅」を経験する。別に鉄道オタクではないので感慨はないのだが、それにしたってひどい名前だな、と思った。
 渋谷ではせっかくだからスクランブル交差点を歩こうかとも思ったのだが、やはりどうしたって荷物が重く、断念する。ここでも案内板だけを頼りに田園都市線乗り場に向かって歩いた。渋谷駅は、なにしろ田園都市線っ子なので、東京駅よりははるかに土地勘があるはずなのだが、僕が利用していた頃の渋谷駅と今の渋谷駅は、たぶんもう別の駅なのだと思う。乗り換えで歩いた通路の景色が、ひとつも懐かしくなかった。
 田園都市線もそれなりに長い。やはり実家と上野は遠い。そんなこと言ったらそれは岡山から上野のほうが当然遠いのだが、それでもやっぱり今回の作戦は成功だったと思う。たまプラーザに迎えに来てくれた母の車に乗り、ようやく実家に到着する。
 実家には祖母と、姪と甥がいた。甥は、去年のGWの帰省の際はサッカーチームの合宿とかで会えなかったので、科博と同じで3年前の正月以来だ。たまに送られてくる写真で見知ってはいたが、髪の毛を伸ばし、しかも茶髪にしていて、なんだかチャラかった。断っておくが、あの襟足が長いタイプの、ああいうのではない。この喩えがいいのかどうか分からないが、ヴェルディの北澤みたいな感じ。サッカーだし、小さいし、チャラいし、実際かなり共通項はある。そして相変わらずうるさい。男子って基本的に女子よりもバカでうるさいものだと思うが、甥はその中でもだいぶその度合いが強いほうに違いない。
 やがて姉も来て、叔父も来て、晩ごはんは定番の手巻きずし。ビールも含め、おいしかっただろうと思うが、味など覚えていない。とにかく子どもたち4人のやかましさに、滞在中通して、あてられ続けた。上のふたりがじきに中学生や高校生になるので、いまがこの4人組のやかましさのピークの時代ではないかと思う。
 夜は早めに寝た。なにしろ予定はギッチギチなのである。少しでも体調を崩せば計画が瓦解してしまうので、夜はせっせと体力の回復に努めなければならない。ストイックすぎて、愉しもうとしているのか、こなそうとしているのか、よく判らなくなってくる。
 明けて3日目の予定はなんなのかというと、なんと鎌倉である。鎌倉へは、だいぶ前から行きたいと思っていた。でも地方民のわれわれがこちらに来るときは、要するに大型連休期間であり、そんなときの鎌倉はどうせとてつもなく混んでいるのだろうと、いつも二の足を踏んでいた。そんなところへ、とうとう去年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」となり、ああこれはもうダメだ、また当分鎌倉への道は遠のいた、と諦めていたのだが、今回この自前で作り出した4連休の、それも骨子の「自前」の部分、すなわち世の中的には平日であるこの日こそ、われわれが鎌倉に行くことのできる、千載一遇(この旅2度目)のチャンスだと思い、向かうことにしたのだった(それだのに、2日前の晩、岡山のホテルでたまたま眺めた「アド街ック天国」の特集が「鎌倉 長谷」だったので、やめてくれよ! と思った)。
 これにはせっかくなので母も誘った。これで母を伴わなければ、帰省したのにほとんど実家の面々と絡まなかった感じになるので、孫らとの思い出作りとしてよかったんじゃないかと思う。なんなら祖母も来るかなと思ったのだが、さすがにもうそういう遠出はしないようだ。それでも近所の散歩は日々しているそうで、94歳とは思えないほど、変わりなく元気そうだと、こちらがそう感じたい部分もあって、そう見えるのだが、しかし80代と90代というのはやはりだいぶ違うのだろう。ポルガ3歳の七五三の際、2014年のことだが、祖母は母と姪と3人で倉敷にやってきて、一緒に美観地区を回った。さらにその次の日は、広島の知人に会いにひとりで別行動さえしていた。9年前なので、あのときの祖母が85歳ということになる。85歳と94歳は、そうか、それは違うよな、と思った。
 あざみ野から鎌倉へは、1時間くらいで着いた。長年行きあぐねていたわりに、いざ行ってしまえば近いのである。鎌倉と言ったが、下車したのは北鎌倉駅。ここから、円覚寺や建長寺に立ち寄りつつ、ひたすら歩いて、鶴岡八幡宮に後ろ側からたどり着くというルート。特になにも決めずに来ていたのだが、祖母にそう提案されたので、従った次第である。やってみたら、かなり歩くルートだった。
 鶴岡八幡宮の大階段では、ファルマンが「鎌倉殿の13人」の、源仲章の死に際のモノマネを得意としており、「あたい鶴岡八幡宮に行ったら絶対に再現すんねん」と言っていたので、僕は公暁役となり、ファルマンを斬りつける演技をしてやったのだけど、ファルマンは周囲の人間の多さに委縮して結局モノマネせず、だからただ僕が急に妻を手刀で打擲した、デートDV夫みたいになった。そのあとファルマンは、なにを思ったのか、御朱印を書いてもらう列にポルガとふたりで並び、しばらくして戻ってきたら、手に自分用として鶴岡八幡宮仕様の御朱印帳を持っていた。なぜか急にここで、自分も始めることにしたらしい。まあどうせ御朱印帳を始めるなら、ポルガの出雲大社然り、やはりちょっと名のある所の御朱印帳がいい気はする。鶴岡八幡宮なら悪くないな。鎌倉はわれわれの新婚記念デートの場所だし、おみくじで「名付けに注意せよ」というありがたい言葉をいただいた場所だし(守らなかったけど)。
 そのあとは小町通りを通り、鎌倉駅へと向かう。鶴岡八幡宮もだったが、この小町通りがすごい人で、いちおう平日の今日でこうなのだから、週末やGWとなるとどうなってしまうのか、と思った。このあとの予定としては、江ノ電に乗って、長谷を目指しつつ、途中の由比ガ浜で降りて砂浜でごはんを食べようと思っていて、そのために小町通りでなんかしらの食べ物を買っておく必要があったのだが、これが大変だった。食べ物屋はどこもだいたい行列で、とてもガイドブックに載っているような、「小町通りで食べ歩き♪」なんて状況ではないのだ。それでもなんとか稲荷ずしや唐揚げを調達し、ほうほうの体で駅へと進んだ。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 5

 岡山から新横浜までは新幹線で3時間である。夕方に岡山に着き、なぜそこで新幹線に乗るという選択をしなかったか。乗ってしまえば車内での3時間は寝ていればいいのだし、そのあと新横浜からあざみ野までの地下鉄さえ少し耐えれば、駅までは母が迎えに来てくれる。着いて寝るだけの初日になるが、それは仕方がないだろう。でもそうはしなかった。そうは言ってもその移動は体力的にきついだろうというのもあったし、なにより翌日の予定が関係していた。旅程2日目の今日は、上野の国立科学博物館に行くのだった。実家から上野へのアクセスは悪い。アクセスが悪いというか、普通に遠い。前の晩、深夜帯に実家に着いて、翌日の午前中に上野に向けて出発するのは、かなりハードなスケジュールに違いない。それよりは岡山で(それなりに)ゆっくり休み、翌朝早くの新幹線に乗って、上野目的で東京駅まで新幹線で行く、というのが賢い選択だろう。などと偉そうに言っているが、僕が考えたのではない。これはファルマンの采配である。僕ははじめ岡山で1泊すると聞いたときは「へ? なに言ってんの?」となった。でも実際にやってみて、やはりこれは正解だったと思った。
 というわけで早朝の岡山駅である。新幹線は岡山発の、始発か、あるいはその1本あとくらいの、本当に早いものであり、余裕を持って早めに駅に行ったら、なんと新幹線乗り場の改札がまだ開いていなかった。改札の前には人がじりじりと集い、その中には明らかに、ディズニーランドに卒業遠足的なものに行くのだろう学生などもいた。岡山という場所は、新幹線という乗り物は、なるほどそういうものだったな、という感じを思い出した。この感じは、島根県ではまるで味わわないものである。
 やがて改札が開けられ、入場した。もちろん指定席を取ってあるので、乗り遅れさえしなければ、急ぐ必要はまるでないのだ。かくして無事に、やってきた新幹線に乗り込み、旅行&帰省の後半部に突入した。あるいは上野パートはまだ帰省ではなく旅行の延長と捉えるべきだろうか。別にどっちでもいいことだな。
 新横浜を通過し、品川を通過し、東京に着く。時刻はまだ9時過ぎである。永遠に全貌は把握できないのだろう東京駅を、目的の路線の案内表示だけを頼りに、溢れかえる人波の中、進む。東京から上野は、もちろん近い。すぐに着いた。着いたJR上野駅で、動物園などのエリアに近い出口を探し、改札を出たら、なるほど目の前はそのエリアだった。今年やけに早く咲き始めた桜も影響しているのか、まだ午前中だというのに人は多かった。基本的に自分たちが田舎住まいだというのもあるが、コロナ以降、久々にこのような人出を見たような気がする。かくいう我々も、この場所に来たのは2020年の1月以来であり、そういう輩がこういう所に来られるようになったからこそのこの人出なのだな、と思った。

岡山旅行&横浜帰省記 4

 引越しって一種の死みたいなもので、自分がいなくなっても変わらずに全体の営みは続いていく感じが、とても似ていると思う。だから引越した街に顔を出すのって、ちょっと霊界から舞い降りて現世を眺めているような気分だ。ワクワク感と同時に、すごい寂しさもある。かつて自分の居場所であっただけに、今はもうそうではないことに、やるせない喪失感を抱く。
 馴染みのスーパーを覗いてみた。引越しの直前、「当店はリニューアル工事のため下記の日程で休業します」という張り紙があり、それは我々が引越す数日後の日付で、だから一体どんなふうなリニューアルが行なわれたのか、2年以上気になっていた店である。入店してみたら、たしかに2年前とは微妙に違う気もしたが、2年前の記憶自体があやふやになってもいるので、なんとも言えなかった。遠いなあ、当たり前だが、この土地で我々はもはや、地に足がついていないのだなあ、ということをしみじみと思った。今晩、ホテルで食べるものを買い、店を出た。今後また倉敷に来ても、もうあえて、こうして懐かしがってこのスーパーに来ることはないかもしれないな、と思った。
 この街にわざわざ来たのは、こうして回顧するのももちろん目的のひとつだが、車を停めるためでもあった。3日後の火曜日まで、足掛け4日間車を置いておくにあたり、岡山よりもこの街のほうがいいだろうと考えたのだった。岡山市街は土地勘があまりないし、駅の近くの駐車場となれば駐車代金もかなり掛かるだろう。ここならば、岡山まで電車で行く手間は掛かるが、安心感があった。駐車場は、あたりをつけていた場所(もちろん居住時代は使ったことがなかったけれど)が無事に空いていて、停めることができた。1日500円。さすがの安さ。
 なのでここから電車で岡山駅へと移動した。車に軽い気持ちで載せてきた荷物は、持ってみるとだいぶ多く、重く、これはこのような旅程でのトラップだと思った。
 岡山駅ももちろん久しぶりである。ただしこの時点でもう18時を過ぎて暗かったし、荷物も重かったので、駅から歩いて10分ほどのホテルまで、心を無にして歩いた。自業自得だが、3時間の運転後に、僕は泳ぎさえしたのだ。3泊4日の初日から飛ばしすぎだ。
 ホテルの部屋に着いたときにはほっとした。出発前は、夜は岡山の街をブラブラするのも悪くないな、などと考えていたが、とてもそんな気力は残っていなかった。買ってきた総菜を食べ、ビールを飲み、順番にシャワーを浴びて、早めに寝る態勢を整えた。なにぶん翌日の起床もきわめて早いのである。
 22時を待たず、アド街ック天国をぼんやり眺めつつ、ピイガを寝かしつけながら、ともすればピイガよりも早く寝付いた。そこでものすごく深く寝たようで、次に目を覚ましたら、ファルマンはまだ起きていて、時計を見たら23時半くらいだったので、なんだか驚いた。だいぶしっかり寝たつもりだったのに、まだ安住アナの番組が終わった直後くらいじゃないか、と思った。ファルマンは自宅じゃないので緊張して寝付けないらしかった。僕はなんだか驚いたなあ、と思ったあと、たぶんまた秒ですぐ寝た。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 3

 というわけで風呂はすっぱり諦めたのだが、だとしたらどこへ行くのか、結局なにも決められないまま、この日を迎えてしまっていた。プールのあと、入浴施設で体を洗うということ以外、特にしたいことが浮かばなかったのだった。そんな自分に対して、ちょっとどうなんだと思う部分があった。6年半暮した倉敷である。そこへ2年ぶりに戻ってきたのである。万感の思いとともに、いろいろ再訪したい場所があって然るべきではないのか。ないのである。水で泳いだあと、お湯を求めるだけなのである。俺は一体なにをやっているんだろう、俺の生活、俺の人生って、本質は一体なんなんだろう、とまで思った。
 結局、しばらく水泳センターの駐車場で思案した挙句、イオン倉敷に行くことにした。熟考した末にイオン。なんかつらくなってきた。それでも時間を潰すために無為にイオンに行くのではさすがにない。目的はもちろんパンドラハウスである。しかし1週間前の松江のそれで、ニットが冬物ばかりであまりよくなかった、という思いをしたばかりだったので、あまり期待はしないで行こうと思った。それで、ちょっと懐かしい道を走り、イオン倉敷へとたどり着いた。2年でお店のラインナップも変わったりしているのかな、ということにも少し思いを馳せたが、馳せるだけでモール内を見て回るということはせず、ただパンドラハウスに直行した。そしてその収獲はどうだったかと言うと、これが滅法よかったのである。適度な厚みの、いい感じのボーダーのニットはぎれ(130×50くらい)が、色味で分類されて棚に何段も並べられ、しかも1巻が本来500円のところ、セールで380円になっていた。うひゃあ、と興奮しながら、両手いっぱいに抱え、購入した。1週間前の松江の雪辱が果たせて万々歳だったが、その一方で、あんなに行きたいと思っていた、おらが県の県庁所在地である松江のイオンのお店は、実はそれほどの規模ではなくて、岡山のお店のほうがよっぽど品揃えがいいんだ……、ということが明らかになってしまい、少ししこりも生まれた。倉敷在住時代は、ぜんぜんニットに興味なかったんだよな。またいつか、岡山に行った際には、来れたらいいなと思う。
 あまり期待しないで行ったイオン倉敷で望外の喜びがあったため、すっかりテンションが上がった。もう今日の倉敷での行動はこれで打ち止めでいいな、と思ったので、美観地区に向かうことにした。ここまでファルマンに状況を訊ねるメッセージを何度か送っていたが、ぜんぜん既読がつかないのだった。
 美観地区にたどり着き、適当に歩きはじめる。人はかなり多かったが、歩いていればそのうち出くわすだろうと思った。2年よりもさらに、たぶん4年とか5年ぶりの美観地区は、まあ相変わらず観光地だった。観光地なので、倉敷になじみのある人間が来ておもしろい場所ではない。そんなことを思いながらあてもなく歩いていたら、果たして見覚えのある一団を発見し、無事に家族と合流した。それからひとしきり、僕も一緒に美観地区内を巡り、やがて別れた。2年2ヶ月ぶりの心友との邂逅は、ポルガの心を満足させただろうか。そうだったらいいな、と思った。4年生の3学期に転校をさせることになったことに、親としてやはり、一抹の後ろめたさがあるのだった。そしてそれも含めて、倉敷および岡山に対する、僕の複雑な感情が形成されている気がする。
 心友一家と別れたあと、4人で再び車に乗り込み、次の目的地は岡山市街、では実はなくて、倉敷市街からそう離れていない、かつて実際に我々が6年半を暮した街である。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 1

 岸田首相がキーウを電撃訪問したのと同時に、わが家もひそかに横浜に帰省していた。
 先週、18日の土曜日から旅程は始まり、日曜日、そして春分の日の火曜日に挟まれた月曜日を、僕は有休、ピイガは家庭の事情による欠席(ポルガは既に卒業式を終えた)にして4連休を拵え、帰省を決行したのだった。もちろん電撃訪問と言いながら、周到に計画は練っていた。それなのに事前に一切その素振りを見せなかったのは、岸田首相とまったく同じ理由で、安全上の観点からそうした次第である。このタイミングでわが家が家を空けることが判ったら、どういう輩がどういう悪事を働くのかはまるで想像つかないが、まあ警戒するに越したことはないだろう。
 ちなみに今回ここで帰省を行なったのは、お盆だとだいぶ先になりすぎる感があり、だとすれば去年に引き続きGWということになるが、なんてったってGWは混雑するので、それを避けるためにこのタイミングが浮上した次第である。ここも岸田首相とまったく同じ行動原理かもしれない。
 交通手段だが、今回は飛行機を免れた。去年やって、飛行機はやっぱりあまりにも僕の心身にダメージが大きい(巨根の弊害)ということが明らかになったし、それ以外にも実は理由があった。今回のツアーは、実家への帰省だけが目的ではなく、実は岡山旅行も兼ねていたのだ。これまで鳥取、広島と、近隣の県への1泊旅行を行なってきたわが家だが、今回はその岡山編ということである。もっとも岡山には6年半住んでいたわけで、普通に考えれば旅行なんてするはずがない。
 それではどういう事情かと言えば、4年生まで倉敷の小学校に通っていたポルガには、僕が「ダイアナ」と呼んでいる、ポルガのことをやけに肯定してくれる心友がいて、ポルガは島根に引っ越してからのこの2年3ヶ月、ずっと彼女に恋い焦がれていたのだった。今回、コロナもとうとう(ほぼ)収束し、その子の母親と打ち合わせをして再会の算段がついたので、横浜帰省と抱き合わせ、初日に倉敷でその子と遊び、夜は岡山市のホテルに泊まり、そして翌朝、岡山から新幹線で横浜に向かう、という計画が立てられた。実に周到に練られた計画である。しつこいようだが、インド訪問からそのまま陸路でキーウ入りした岸田首相との相似を感じずにおれない。
 というわけで3泊4日の、旅行&帰省記をこれから綴ってゆく。しかし今日はその、前フリというか、まだ実際には島根県を出発する前の段階までしか書けなかった。なにぶん、火曜日の夜に島根に帰ってきて、もちろん今日から労働だったのだ。のんびり書いていこうと思う。

2年4ヶ月ぶり帰省

 帰省なり旅行なりの外泊を伴うイベントの際、事前にその日取りをウェブ上に晒さない、というライフハックがあり、自意識過剰だよなと思いつつ、今回もそれを実行した。今回は事前に、「3日間しかないので飛行機で帰省するはめになった」という日記を書いたが、4月29日~5月1日の前半3連休か、5月3日~5日の後半3連休か、どちらで帰省するのかはあえて書かなかった。そして今回の場合、実際に帰省をしたのは後半3連休のほうだったわけだが、だとすれば自宅でのんびり過した前半3連休に平常の日記を投稿してしまったら、すなわち僕が帰省するのは後半3連休だということが消去法で判明してしまうため、それを避けるためにこの期間の日記の投稿も自重したのだった。切なくて怖い。ほとんど誰にも読まれていないブログのくせに、この危機意識の高さが切なくて怖い。
 というわけで5月3日~5日、一家で横浜の実家に帰ってきた。一家での帰省は2020年の1月以来(単独帰省は2020年11月に行なっている)なので、実に2年4ヶ月ぶりである。帰省した1月の下旬あたりから新型コロナの災禍が始まっているので、この2年4ヶ月は、そのまま人類が新型コロナに翻弄されていた2年4ヶ月である。コロナ禍になって半年後くらい、最初の盆休みのあたり、「コロナが明けたらまた会おう」みたいなキャッチフレーズで帰省の自粛が呼びかけられたが、このたびこうして帰省できたということは、コロナというものは「明けた」といっていいのだろうか。どうも蓋を開けてみたら、これは明ける明けないという尺度のものではないようでもある。人によっては明けているし、地域によっては明けている。裏を返せば、いつまでも明けない人もいるのだと思う。ちなみに島根県から東京や横浜に行く今回の帰省について、僕は職場で誰にも伝えていないし、子どもたちにも「極力いわないように」と言い含めた。まだまだそういう情勢だったりもする。
 3日の朝の飛行機に乗る。事前視察を行なった出雲空港へはつつがなく到着し、飛行機へと乗り込んだ。後悔することが前もって分かっていた飛行機は、やっぱり動いた瞬間に大いに後悔した。あの勢い。そして飛び立ってすぐの、斜めになっている間がつらい。規定の高みまで上りきり、安定飛行しているときはまだいいが、あの斜めになっているとき、すなわちシートベルト着用のサインが点いているときというのは、たぶんだいぶ、こちらが思っているよりもはるかに、安全が保障されていないんだろうと思う。あのときなにもなかったらめっけもん、くらいの感じだと思う。そのくらいのスリルを感じる。実際、今回もそれの際にそこそこ揺れた。飛行機が揺れるたびに、揺れるってどういうことだよ、と思う。なにぶんこちらは、飛行機が飛べているのはタイトロープ的なバランスでぎりぎり実現しているものと捉えているので、揺らぎなく飛んでくれないと困るというか、揺らいだ状態で浮かんでいられるはずがないと固く信じているのだ。だから揺らいだ瞬間、鉄の重みで一気に地上に叩きつけられるに違いないと思ってしまう。そのため少し揺れるたびに、後ろの座席から背もたれの間を通して伸ばしてもらったファルマンの手を、ぐっと握りしめた。力が入りすぎて、ファルマンは痛がるし、僕も筋肉痛になった。それでもなんとか、飛行機は無事に羽田空港に到着した。時間にすると1時間15分ほど。速い。飛行機はやっぱりびっくりするくらい速かった。もっともこれだけ怖いのだから、そのくらいのメリットがないと困る。
 羽田空港からはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗る。空港周辺の埋め立て地的なエリアを通り、川崎の工業地帯を通り、やがて北山田などの見覚えのあるエリアに入って、1時間ほどで着いた。たまプラーザには母が迎えに来てくれた。久々の再会である。
 家では祖母が待っていた。祖母はぼちぼち94歳になるらしいが、相変わらず元気のようだ。2年4ヶ月の間にポルガは祖母の身長を超えていた。
 しばらくしたら姉一家がやってきた。なにぶん2年4か月ぶりなので、今回は帰省の日取りを打ち合わせし、姉一家もキャンプなどの予定を立てずに待ち受けてくれたのだった。ちなみに僕ひとりの11月の帰省の際にも、姉一家とは顔を合わせなかったので、家族と同じ月日ぶりである。ただし甥(小4)はこの3日間、所属しているサッカークラブの合宿だそうで、今回は会えずじまいとなり、2年4ヶ月はさらに更新されるのだった。その代わり姪(中2)は2泊3日の間、がっつりと娘たちと絡んでくれた。中2になったというのに姪は相変わらず快活で、義兄の遺伝子を強く感じた。なんで中2なのに鬱屈としたものがまるでなさそうなんだろう。自信家とか傲岸不遜とも違う、あの正常さはなんなのだ。ファルマンは「陽キャ」といっていて、まあつまりその一言なんだろうな、としみじみと思った。ポルガは、たぶん年長者と話す機会があまりないこともあるのだろうが、2歳年上の従姉に相変わらずぞっこんで、横浜滞在中ずっと、既存の家族3人に対して冷たかった。そういうところだ。2歳年上の従姉に憧れながら、ポルガにあの快活さの片鱗も見出されないのは、そうやって相対的に家族の扱いがぞんざいになる、そのあたりの性根に原因があるのだと思う(そしてそれはこの両親の子である以上、どうしようもないことなんだよ)。
 それからは近所を少し散歩したり、姉一家が持ってきたモルックをしたり、スーパーに買い物に行ったり、のんびりと過した。今回は2泊3日で、2年4ヶ月ぶりで、コロナも完全に終焉したわけではない、などのもろもろの事情を鑑みて、どこかに行くような予定は一切立てなかったので、半日で早くも時間を持て余し始めたこんな過し方で、しかし合っているのだった。今回はこれでいいのだ。
 晩ごはんは定番の手巻き寿司。それなりに豪華で、実は準備が楽なので、こういうときは手巻き寿司一択だ。叔父もやってきて(もとい叔父は車を運転できないので姉が迎えに行くのだが)、にぎやかに食べた。甥が残念だったが、まあしょうがない。
 2日目は唯一の丸一日動ける日であり、予定は立てないといいつつ、さすがにずっと家でダラダラしているわけにもいかないので、出掛けることにした。目的地はこれも定番の、こどもの国。手巻きずしもこどもの国も、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すことだと思うが、毎回置かれる状況が一緒なので、結論が同じになるのは仕方がないことだ。いちおう、鎌倉はどうだろうということも検討したのだが、準備不足だったし、さすがにハードすぎる気もしたので却下された。こどもの国は大盛況だった。いつぞやテレビで観た、こどもの国はこんな人出です、の中継映像に出ていた、バラックのようにびっしり連なるテントの風景を目の当たりにした。ありとあらゆる設備が順番待ちで、島根の公園の尊さを思い知った。もちろん子どもはそれでも十分に愉しんだだろうが。しかし陽射しがなかなか強く、弁当も持ってきていなかったので、3時間ほどの滞在で、昼前に退園した。
 午後は姪のswitchで、子ども3人と僕の4人プレイで桃鉄をした。なにぶん時間がたっぷりあるので、5年設定でじっくりやる。3年くらいだと運の要素が大きいが、5年になると地力がものをいう。無事に子どもたちに大差をつけて優勝した。だてに大学生の頃、コンピュータとのふたりプレイで99年間やっていない。ゲーム自体はリニューアルされ、マス目も増えているとはいえ、経験値が違う。気分がよかった。
 晩ごはんは餃子。これもかなり定番だな。僕が作る餃子よりも野菜の比重が高く、軽やかに食べられた。ちなみにこの途中で、ホットプレートにつないでいた延長コードの線が焼き切れるという、あわや大惨事な出来事があった。延長コードの劣化が原因だったようで、昔の人間は物持ちがいいが、よすぎるのも考え物で、ちょうど機械類が老朽化したときに、持ち主も年を取っていて、その組み合わせはきわめて恐ろしいと思った。大ごとにならなくてよかった。
 最終日は、昼前くらいに家を出ればいいので、それまではのんびり。姪が朝からやってきたので、ファルマンと子どもたちを連れて散歩ついでに、柏餅を買いに行く。子どもの日なんだから子どもに柏餅を喰わさねば、という使命感に駆られたのだが、姪からは「なんで急に柏餅なの?」と不思議がられた。その家々で、親から子に与えられる情報、伝えられる常識は異なる。そういえば義兄はいつか、「となりのトトロ」を観たことがいちどもないと言っていた。どうもやっぱり人種がぜんぜん違うな、と思った。早めの昼ごはんの焼きそばを食べたあと、母と祖母とともに7人で柏餅を食べた。
 これで今回の帰省は終了である。玄関先で祖母と姪と別れの挨拶をする。祖母の「次はいつだ」という問いかけに、年末年始はやはり気候的に帰るのは難しそうで、だとしたら1年後とかになるかなあと頭の中では思いつつ、明確な返答は避けた。姪やポルガは、「夏休み!」と勝手に話を進めていたが、3ヶ月後は嫌だよ。それはよそうよ。
 おとといと同じく母にたまプラーザ駅まで送ってもらい、そこからバスで羽田空港へ。行きでは空港に着いてすぐに来たバスに飛び乗ったが、帰りは時間に余裕を持って空港にやってきたこともあり、空港の中でしばらく過す。ファルマンの実家へのおみやげを買ったり、行きの飛行機で耳に不調を来したピイガのために飛行機専用の耳栓を買ったりした。あと展望デッキにも出た。羽田空港の展望デッキは、出雲空港と違い、次から次へと飛行機が飛び立つのでおもしろかった。
 帰りの飛行機は、行きよりは揺れなかったが、それでもやっぱり飛んでいるのでどうしたって恐ろしかった。行きは隣がポルガだったので自重したが、帰りはピイガだったので、エロ小説を読んで気を紛らわそうと思った。しかし読んで、それなりに淫らな気持ちになっても、やはり飛行機に乗って高度何千メートルの位置にいるのだという事実が邪魔をするのか、勃起には至らず、もどかしい感触があった。パイプカットした状態ってこんな感じかな、などと思ったが、あれは精子が出ないだけで勃起はするってことだから違うかもしれない、とも思った。かくして飛行機は無事に出雲空港に着陸した。行きも帰りも飛行機は無事に離陸し、着陸した。それゆえにこうしていま日記を書けている。ありがたいことである。
 3日の朝に出発して、5日の夕方に帰ってきたのだから、自宅はたったの2日ぶりということになる。そう考えると非常に大したことないように思えるが、それでも十分に自宅への恋しさは募った。やっぱり自宅は愛しいな、と思った。
 そしてこの夜は、次の日がそれぞれ出勤と登校ということもあり、そしてなにより痛烈な疲労感により、家族全員、22時くらいに寝た。いくら飛行機が1時間ちょいといっても、移動による疲労感というのは、時間よりも距離による作用のほうが大きいように思う。深く寝た。実家の寝具は、畳に布団で、マットがないので固いのだ。あれでだいぶ腰がやられる。自宅の寝床は心地よいなあと思った。
 そんなわけで、無事に2年4ヶ月ぶりの帰省が成った。正月に帰る予定を連絡しておきながら中止した負い目などもあったので、実行できてよかった。心懸かりが取れた。これで当分は行かないでいいだろう。当分は遠出したくない。

2019-2020帰省5日目

 帰省最終日。15時ごろ東京駅発の新幹線に乗るまで、上野科学博物館をたっぷりと堪能するため、朝早く実家を出る。次に実家に行くのは5月か8月か。この2年、5月に帰るのが続いているが、来年どうなるかは分からない。家を空ける時期をウェブ上に記すのは不用心なので、まだ本当に決めていないだけだが、行って帰ってくるまでは濁す。
 あざみ野から上野へは、田園都市線から半蔵門線へ直通で表参道まで行き、そこから銀座線に乗り換えるのが、普段なら得策らしいのだけど、なんかものすごくタイムリーに、この年末年始に銀座線のそのあたりの工事をしていて全日運休だったため、仕方なく渋谷で降りて山手線を使うことにした。渋谷で降りてJRの乗り口までの移動は、駅の様相は多少変われど、さすがにお手の物なのだが、今度は意図的に地上に出た。そしてハチ公やスクランブル交差点で記念写真を撮った。外国人ばかりが同じことをしていた。山手線は、渋谷から上野へ行こうとすると、もはやどっち回りでも関係ないほど正反対で、かなり時間が掛かった。
 電車はたぶん普段よりもずいぶん空いていたに違いないが、上野に降り立つと、かなり盛況していた。今回は科博にしか意識がいっていなかったが、たぶん美術館や動物園なども、2日からの営業開始なのだろう。ちなみに上野動物園に前回行ったのは、日記を見たらちょうど2年前の正月だった。あの一家がインフルエンザで全滅した年末の正月。あの頃は科博なんて完全に意識の埒外だった。だとすれば数年後には、美術館のために上野に来ることになるのだろうか。たぶんその可能性は低いけど。
 科博は、いま特別展でミイラ特集をやっていて、世界からミイラが何十体もやってきているというそちらは大行列だったのだけど、常設展のほうはそうでもなかった。ちなみにミイラ展は、わが家は子どもたちが本気で怖がるために行くという選択肢はなかった。もちろん僕とファルマンも別にミイラなんて見たくない。というわけで常設展をじっくりと見て回った。そのスケールはさすがのもので、岡山にも島根にも科学館みたいなものはあるが、それの超特大版という感じで、見応えがあった。なんてったって化石や剥製の迫力がすごい。感動しながら眺めた。眺めている最中、ファルマンがブフォッと笑った展示があり、なんなのか見てみたら「ヤリマンボウ」という魚の複製で、この人って本当に低レベルの下ネタに弱いな、と思った。絶滅動物や原始人に興味のある我が子のために科博に来ておいて、「ヤリマンボウ」で爆笑する母親。ファルマンはしばらくの間、「今年の初笑い」といいながら笑っていた。それならよかった。一家で来た果以があったというものだ。途中で館内のレストランで昼ごはんを食べ、午後もしっかりと展示を眺め、開館の9時過ぎから14時過ぎまで、たっぷりと味わった。これは来てよかった。
 そのあとは駅に戻り、今度は短い山手線で、東京駅に移動する。東京駅では獅子舞に遭遇した。ただでさえ正月の混雑する東京駅に獅子舞が現れると、こんな華やかで賑やかな感じになるのか、と感心した。いいものを見た、と思った。ポルガは怖がって拒んだが、ピイガを連れて頭を噛んでもらうやつをやってもらった。そして新幹線に乗り込んだ。今回の帰省は、Fミュージアムも、科博も、きちんと行きたい所に行って、ちゃんと見て回れて、本当によかった。子どもたちの体も強くなったものだ。