2024年夏の自家用車横浜帰省 2日目

 2日目。早く寝たので、6時台に起きた。起きてすぐ、とりあえずこのホテルでの被災は免れたのだ、と思った。ピイガも起きたが、確認するまでもなく隣室のふたりはまだ起きていないだろう。ピイガに断りを入れて朝風呂に行った。少し大きいだけの単なる風呂だったが、それでもまあ、せっかくだから入っておこうという貧乏根性である。そのあと寝起きの悪いふたりとも合流し、朝ごはんはホテルのビュッフェ。宿泊プランに入っていたので、ワホーイと会場へと向かった。特段豪勢ということもなかったが、普通においしく、なにより朝のビュッフェはテンションが上がることだよ、と思った。
 そして出発。この日はこの地から横浜への移動だけの予定だが、さすがにこの日に伊勢参りをスライドさせるという考えはなかった。津から伊勢神宮は、60キロくらいあるらしい。行って、回って、また三重県の北部まで戻ってこようとすると、どう考えても半日以上かかるだろう。いま自分たちが、人生でいちばん伊勢神宮に近付いているという認識はありつつも、さすがによした。縁があればまた機会は巡ってくるだろう。
 津からまた高速道路に入って走り出すと、すぐに中京工業地帯のあたりに出て、海上を進むような沿岸の道が、若干おそろしくも気持ちよかった。長島スパーランドの、信じられないようなジェットコースターの骨組みを目にし、震え上がったりした。そのまま愛知県を突っ走り、新東名に入り、静岡県の浜松サービスエリアで休憩。なかなか賑わっていた。車はさらに進み、とうとう神奈川県に入る。島根をスタートし、鳥取、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、三重、愛知、静岡と来て、ラストの神奈川である。来れるもんだな、繋がってるんだな、と思った。1日でやれと言われるとつらいが、2日がかりの悠々スケジュールだったこともあり、新鮮で愉快な経験だった。飛行機は論外として、時間に余裕さえあれば、新幹線よりもこっちのほうがいいな、と思った。家族水入らずで過せるし、ホテル代、高速代、ガソリン代を含めてもたぶん安上がりだ。今後はこれで決定だな、と思ったが、子どもがこうしてようやく長距離の車移動に堪えられる年齢になって、そして子どもが帰省についてきてくれる間だけだから、人生の中でかなり限られた期間だろうけども。
 厚木を過ぎて、もうほとんど実家のエリアだな、となったところで、綾瀬から町田にかけてのところで、この旅程でいちばんの渋滞に巻き込まれたが、それでもなんとか横浜青葉インターチェンジまでたどり着いた。ここまで来ればいよいよホームである。いつも島根の街を走っている車で走る青葉区の住宅街は、傾斜のある土地にギューっと建物を詰め込んでるんだな、というギチギチ感がすごかった。実家に到着したのは15時台。母と祖母が出迎えてくれた。祖母は、第一声がなんだったかは忘れたが、第三声くらいが、「次はいつ来るんだ、正月は来るのか」だったのは覚えている。濁してもしょうがないのではっきり言った。「正月は確実に来ないよ」。
 われわれの到着が伝わり、近所に住む姉の子どもたちもやってくる。姪は高1、甥は小6である。再会は去年の3月(WBCをやっていたので覚えやすい)以来だが、どちらも大した変化はなかった。この期間、4人の中でいちばん発育したのはポルガだろうと思う。身長がファルマンに匹敵するポルガは、縮みつつある母の身長を超えていた。そして子どもが4人揃うと、毎度のことながらとても喧しかった。島根のほうのいとこは、ピイガの1個下の子はおとなしいし(心を開いた相手には延々としゃべり続けるけれど)、その妹はまだ2歳なので、4人いてもほぼポルガとピイガのうるささしかないのだけど、こちらの4人は、4人がそれぞれしっかりとうるさいので、本当にすごいことになる。久々に味わうその感じに、ああそうだった、こんな感じだった、こんな感じの、すごいストレスなのだった、と思った。
 晩ごはんまでの間に、納戸からアルバムを持ってきて、眺めた。僕の幼少期のアルバムである。相変わらずかわいかった。もちろん今も今で至極かわいいのだけれど(そのうえ40歳としての艶も出てきた)、やっぱり手足が短いかわいさというのは格別だな。自分の小さい頃の写真を見ることでしか満たされない容器が満たされるのを感じ、満足した。
 やがて叔父や姉夫婦も現れ、一族が全員集合し、晩ごはんのメニューはもはやオートメーションの手巻きずし。叔父は叔父だったし、姉は姉だったし、義兄は義兄だった。集う感じも、手巻きずしも、人間も、実に不変。こうも不変ならば、もう実際に集合しなくても、VRでもいいのではないかと思うほどだった。
 そんな感じで全体の2日目は終わった。