暑すぎる5月の運動会とトランプ

 5月なのに30度超えの暑さである。5月というのは本来はそこまで暑くならないもので、「気持ちのいい陽気」という触れ込みのもと、あちこちで野外イベントが企画される。そしてポルガの小学校の運動会も、この週末の開催なのだった。平日から週末の予報を見るたびに、「マジかよ」と夫婦で嘆き、職場でもさんざん「俺は週明け現れないかもしれない」と愚痴り、さらには神に祈ったりもしたが、高温過ぎて中止なんていう選択肢は現場にはないようで(まあ大変なのだろうという事情も解る)、あえなく開催される。ただし前日にプリントで、「すごく高温そうなのでうちわとか持ってくるといいよ」というお達しが来た。その、いまさら予定の変更はできないけど、なんにも対策を講じなかったわけじゃありませんよ、なんかあってもこっちに責任はありませんよ感はすごいな、と思った。しかし令和元年のプリントで、うちわ。予想していた未来はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
 思い描いていた「気持ちのいい陽気」ならば、場所取りはしないまでも、開会式から参加して、3年生になった今年からは午後の部もあるので、現地でお弁当を食べて午後に備える、くらいの気概はあったが、とてもそんなことができる気候ではなかったので、開会式はパスし、ポルガの出場する競技に合わせて学校へ向かった。それを見届けたあとは、いちおうお弁当を持ってきてはいたのだけど、午後のポルガの出場演目までは2時間あまりあったので、やっぱりいちど帰ることにした。昼ごはんはどうせ生徒と家族は別々に食べるシステムになっているため、実は我々が学校で食べる意味はないのだ。それで冷房を利かせた自宅で食べ、しばし休息した。往復の移動と学校での滞在を合わせて1時間あまりの外出だったが、この時点でだいぶ身体に来ていた。2往復目となる午後の部は、たまらず自転車を使うことにした。最初からそうしていればよかった。そしてポルガのダンスを見届けた。見届けたら閉会式ももちろん待たず、すぐに帰ることにした。本当に、ぜんぜん外に居続けたらいけない条件だったのだ。帰ったら心底ぐったりした。僕なんか数ヶ月前の自分と較べてだいぶ身体が軽くなり、活動したら必ず昼寝をしなければならない人ではなくなったというのに、それでもやっぱり茹だるような暑さを前にしては歯が立たなかった。そうか、夏というのはこういうものだったな、と思い出した。筋トレなんかだと、疲れてもそのぶん身体が強くなるという救いがあるけれど、暑さに参るというのは、本当にただ身体がしんどいだけで、どこもなんにも成長しないのである。単なる疲労。これから数ヶ月続く夏のことを思い、暗澹たる気持ちになった。
 そのあとポルガも無事に帰宅し、なんとか誰も熱中症にならずに済んだな、と安心していたら、夕食後にピイガが吐いた。やっぱり免れられなかったか。幸い症状はそこまで重くなく、そのまま寝た。僕は小学校に何台も救急車が連なることになるのではないかと予期していて、実際にはそんなことにはならなかったけど、でもやっぱり夜とかになってこんな風になった人というのはいっぱいいたことだろうな、と思った。
 翌日の今日は、ピイガはまあまあの回復具合で、しかし全員でどこかへ出掛けられるほどでもなかったので、僕だけで外出した。ファルマンに「こんな機会にこそこないだの50メートルプールに行ってくればいいじゃない」と勧められ、色めき立つが、ホームページを確認したら大会開催のため利用不可だった。残念。そんなわけで何軒か店を回り、こまごまとした日用品の買い物だけして帰った。今日ももちろん暑い。今日がくんと気温が下がったら忸怩たる思いだろうからそれは別に構わない。午後は家でだらだらと過した。ピイガはだいぶ元気になった。夕飯のそぼろ丼もほどほどに食べた。そぼろ丼を食べながら、トランプ大統領が観にきた大相撲の千秋楽を眺めた。土俵に上がるための特製の階段と、あと賞状を片手で渡したのがおもしろかった。賞状を片手で授与する情景というのを、そう言えば生まれて初めて見たかもしれないと思った。

ファミレスから公園まで

 義父母の誘いを受け、1月に亡くなった義祖母の墓参りと、ホームで暮す義祖父への顔見せに出向いた。県内なので、当地へは車で30分ほどで着く。昼前に家を出て、ファミレスで落ち合った。本来この行事は3月に行なわれる予定で、と言うか実際に行なわれたのだけど、我が家はポルガの体調崩壊により参加できず、僕は奢られファミレスをみすみす逃したことについて忸怩たる気持ちを抱いていたのだった。だから満を持しての奢られファミレスで、頼みたいメニューを頼んで堪能した。肉が美味しかった。
 美味しい肉を食べさせてもらったあとは、粛々と用件をこなす。それは粛々とだ。義母にとっては親だろう。義父にとっては40年余りの義理の親子関係があるだろう。ファルマンにとっては祖父母だろう。娘らにとっては曽祖父母だろう。だからこのメンバーの中で、どうしたって僕の繋がりだけが極めて薄い。実際、義祖父への顔見せはこれまでも義母がこちらにやってきたとき何度かしているが、そのとき僕はあくまで運転手で、ホームの駐車場に車を停めて、面会中はその中で待っていた。しかし今回は義父がいて、義父というのは全員行動を徹底したがるタイプの人なので、「俺は車で待ってます」と言ったら「いや、来たらいい」みたいなくだりが繰り広げられることは目に見えていたので(経験値を積んできたので分かる)、自主的に車を降りて、初めてホームの中へも足を踏み入れた。踏み入れて面会した結果、孫であるファルマンや、ファルマンの産んだ小さな娘たちというのはすんなり受け止めていたが、やっぱり僕の存在は義祖父の頭を少し混乱させた感じがあり、なんだったんだろうな、という気がした。まあいいんだけど。そのあとは義祖母の墓参り。高台にあり、空気の清廉な場所だった。義母の実家はカトリックで、葬式のときから仏教とキリスト教の混在が甚だしかったが、お墓も、寺の中にあり、直方体のよくあるタイプの墓ながら、苗字の上には十字架が記されているという、馴れ合っているのか我を張り合っているのかよく判らないマーブル模様だった。「が、合掌でいいんですか?」と義母に確認してから手を合わせた。
 そのあとは近くの大型公園へも立ち寄る。ここはファルマンたちが子どもの頃、祖父母の家に遊びに来た際によく行っていた公園だという。メインの遊具は明らかに刷新された風のものだったが、ところどころに昔から変らないものも残っていたらしい。子どもたちはもちろん飛び跳ねて遊んだ。3時頃まで過し、義父母とはここで解散。次に会うのは夏の帰省、ということはこの人たちの場合たぶんないだろうな。なんかかんか来るから(特に義母)。
 そのあとは大きい100円ショップや図書館に寄って帰った。午前中に家を出て、帰ってきたのは夕方。わりと1日がかりの外出だった。風が強かったが、陽射しがなくてよかった。オオキンケイギクがあちこちで咲きまくっていて嬉しい。

気候のいい週末

 連休明けのウィークデイを経ての週末。
 連休は最後のほうにはもう心底うんざり気味で、平日の、朝の決まった時間に起きて仕事をして帰りにプールに寄る生活がひどく恋しかったため、五月病などという言葉はまるで頭に浮かばなかった。平日は尊い。そして平日をこなしてからの休日も尊い。必要以上に長い休みでそのことを再認識した。
 そんな気持ちで迎えた週末は、GW期間中のことが本当に悪い夢であったような好天で、最高気温が25℃と30℃の間という、5月のとてもいいそれを堪能した。
 土曜日は海へ行った。もちろん瀬戸内海である。海開きはまだ先だが、波打ち際で足を浸すには適当な暖かさで、当然まだ人もそれほどいるわけでもなく、居心地がよかった。時期もあるのかもしれないが、海は小川のように透明でとてもきれいだった。マクドナルドを買っていったので、砂浜にシートを敷いて簡易テーブルを設置して食べた。美味しかった。キャンプはもうこりごりだが、あちこちの場所で簡易テーブルを設置して昼ごはんを食べるという行為は、これからも続けていきたい。実際、途轍もない労力を要するキャンプを、丹念に精製したら残るのはこの部分だと思う。だから我々一家は、この部分だけでいい。ほかの雑味はノーサンキューだ。今回は足を浸すだけだったが、夏には島根でまた海水浴をしたいと思っている。その意欲が掻き立てられた。
 今日はプールとショッピングをした。
 プールは僕が月間会員になっているいつもの所ではなく、初めて行く別の市営プールに行ってみた。なぜわざわざ別の所へ行ったかと言えば、そのあと行くショッピングモールへの繋がりがよかったのと、あとここには50メートルプールがあるからだ。普段の所は25メートルなので、50メートルプールとはどんな感じなのか、興味があった。50メートルプールは、横浜国際プールがオープンした頃、中学校の友達と行ったことがあるので、未経験ではないはずなのだが、そのときは水泳という感じで行ったわけではなかったため、大した感慨は持たなかったのだろうと思う。それから20年あまり(!)の時を経て、ありがたみを噛み締めながら赴いた。プールでは、ファルマンと子どもたちには子ども用のものへ行ってもらい、僕だけしばし50メートルのほうで泳がせてもらう。入水して感動した。50メートルプールのスケール、すごい。深さも25メートルのそれより深いので、体積が段違いなのだ。その中に入って泳いでいると、25メートルプールではついぞ感じない、俺はいま圧倒的で静謐な水の中にひとり浮かんで進んでいるのだ感が湧き立ち、ぞわぞわするほどの快感があった。いつもなら10往復を要する500メートルを5往復で済ませ、大満足した。明日からのいつものプールが色褪せそうで不安だ。またたまにこっちのプールにも泳ぎに来ようと思う。
 そのあとでショッピングモールへ。プール後のショッピングモールってなんかすごいな。とても活動的な一家のようだな。買ったものは、僕のズボン、ファルマンのパーカー、ポルガの学校用の靴、ピイガの靴。そういう制度でもあるのか、というくらいにひとり1点の品物をきちんと買った。それとピイガのランドセルを物色するのも目的のひとつだったので、展開されているコーナーでいくつか背負ってみたりした。その結果、ポルガはとにかく原色のイメージだったのに対し、ピイガは淡い色がよさそうだと判った。ピンクとか、えんじとか、そのあたりかな。薄むらさきも似合ったが、どうも薄むらさきはなあ、という思いが僕にもファルマンにもある。どちらにせよいまだ身長が100センチに満たないピイガには、どのランドセルも冗談のように大きかった。
 帰宅して、午後はほんの少しミシンをする。子どもの紅白帽の紐を新しくしたり、僕のパジャマのゴムを替えたり。こういうのってするまではすごく億劫なのだが、いざし始めると、なにをあんなに億劫がっていたのか、というくらいにすぐに作業が終わる。パジャマのズボンのゴムは完全に伸びきって、歩けばすぐにずり落ちるという、まいっちんぐマチコ先生みたいにセクシーな有様だったので、直ってよかった。
 晩ごはんは、母の日ということでファルマンにリクエストを訊ねたら、いつもの「カレー」というバカな子の答えだったので、カレーにした。珍しい具材のカレーにしようかとも少し考えたが、結局はとてもオーソドックスなビーフカレーになった。美味しかった。

GW帰省の後半

 IMAに舞い戻った僕がまずはじめに向かったのはGU(住んでいた頃はなかった)で、そこでTシャツを買った。そして試着室で着替えた。昼ごはんを食べたあたりからの急な気温の上昇で、それまで着ていた長袖の肌着に長袖のシャツがとても耐えられなくなっていたのだ。Tシャツ1枚になったら爽快でテンションが上がった。快適な恰好になったあとは、公園とは反対側の住宅街へと歩みを進めた。かつて住んでいたコーポがあるほうである。ああこんな道だったな、と懐かしかった。とは言えコーポと駅とは徒歩で15分あまりの距離があるため、さすがに途中で引き返した。
 そのあとは駅でファルマンたちと合流し、次の目的地へ向けて出発することに。次の目的地は中村橋である。計画ではバスで移動する予定だったが(練馬から中村橋、光が丘を経由して成増へと至るバスがあるのだ)、バス停の位置が意外と遠いようだったので、早々に諦めて電車を使った。大江戸線で練馬駅へ出て、そこから西武線でひと駅。中村橋に降り立つ。ここは僕とファルマンが大学卒業後、はじめに住んだ町だ。
 駅前の様子は、そこまで変わっていなかった。西友はもちろんそのままだし、西日本には影も形もない「福しん」も変わらずあった。福しんの向かいにあった回転ずし屋はなくなっていた。「おかしのまちおか」は、我々が住んでいた頃はなかったが、引っ越したあとでなにかの折に訪れたときに、できたことは知っていた(住んでいた頃にあればよかったのに、と悔しく思ったのを覚えている)。そんな様を眺めていたら、先ほどまで一緒にいた友達一家の母と娘が自転車でやってくる。彼女らは光が丘も中村橋も自転車圏内なのだ。そういう位置関係なのだ。
 それからみんなで練馬区立美術館のほうへ向かう。練馬区立美術館は昔からあったものなのだけど、何年か前にその建物の前のスペースがリニューアルされて、子どもが乗ったりして遊べるカラフルな動物のオブジェなどが設置され、愉しい空間になっているのだった。このことは数年前に放送され、そのテーマまじかよ、と驚愕した「アド街ック天国」の中村橋特集で知った。それで、そこへ連れていくのと同時に中村橋回顧ができればちょうどいいなあと前から目論んでいたのだ。住んでいたコーポも同じ方面にあり、だからこの美術館や図書館の前を、かつては毎日のように歩いていたのである。しかしこうなる前の美術館前のスペースがどんなものだったのか、今となってはまるで思い出せない。目の当たりにしたその空間は、とてもしゃれた感じだった。子どもたちも喜んで遊びはじめ、一家の母親が見ていてくれるというので、僕とファルマンのふたりで、そこから5分ほどの位置にあるコーポを見にいった。コーポそのものは何の変哲もないものなので、実際に見ても大した感慨はなかったが、そこまでの道のりがよかった。光が丘のプールと一緒で、当時は目に入っていなかったものが見えるようになっていた。当時、特に移り住んですぐは無職だったので時間はべらぼうにあったはずなのに、なんかぜんぜん東京も、練馬区も、中村橋も、いろいろ見て回るということをしなかったな、としみじみと思った。してろよ、と今なら思うけど、当時は当時で、そんなことをする暇がないくらい、自分の中の何かのことで大忙しだったのかもしれないな、とも思った。
 充実の思いで散歩を終え、美術館のほうに戻る。美術館は図書館と併設していて、この図書館へはもちろんたくさん通った。しかしさらにはちょっとしたスポーツセンターみたいなものもあり、トレーニングルームなんかもあるということは知らなかった。本当に当時の世界は狭かったのだな。当時の僕がトレーニングジムの存在を知ったところで通ったとは思えないけれど、こんな近距離にそんな施設があることをまるで知らずにいたとは。思わず職員に話しかけてトレーニングルームを見学させてもらった。「トレーニングシューズだけは用意してもらわなくちゃいけないけど、興味を持ったらぜひ来てください」と言われた。通おうかなと思った。
 そんなこんなで充実の思い出巡りだった。時刻も夕方になり、さてそろそろ帰ろうかというところで、事件が起る。隣を歩いていたファルマンが、いきなり持っていたビニール袋に顔を突っ込み、嘔吐しはじめたのだ。前兆もない突然の出来事に、えっ? えっ? と戸惑った。ひとまず木陰に避難して休む。まだ母と娘と別れる前だったので助かった。状況や症状から、どうも熱中症ではないかという話になる。母親に子どもたちを見てもらい、僕は水分や塩分のものを買いにいった。しかし水分を与えてもファルマンの調子はなかなか回復せず、立ち上がってもまたすぐに吐き気に襲われていた。これはまずいことになった、と思った。なんてったって練馬である。ここから実家まではどうしたって1時間半ほど掛かる。旅先でのこういう事態の不安さ、心許なさ、というものを痛感する。それでも帰らないわけにはいかないので、しばし休んだところで、母親たちに心配されながら別れ、電車に乗り込む。有楽町線直通の便に乗って渋谷まで出て、そこから田園都市線。どちらも座ることができたのは救いだった。ファルマンは車内でも何度かえずいていたが、なんとかたまプラーザまで持った。それから母の車で家までたどり着いた。たどり着けてよかった。本当にどうなることかと思った。
 それからファルマンはひたすら横になった。帰宅した実家には、姪と甥がやってきていた。キャンプから帰ってきたのだ。義兄は別の集いがあるとのことで現れず、姉は風邪を引いたとのことで子どもたちを置いてすぐに帰ったという。昨日のキャンプは、タープに溜まった雨水が滝のようにこぼれるような有様だったそうで、風邪を引くのも当然の帰結だと言えるだろう。僕はそれから改めてドラッグストアに行って、補水液や吐き気止め、ゼリー飲料などを買った。店員に症状を話して相談したら、「今日みたいに雨上がりに急に気温が上がったような日は熱中症になりやすいのだ」と言われた。ここまでの本当に冴えない天候の日々により、熱中症なんて言葉は完全に頭の埒外だった。妻も姉もやられた。どうも今年のGWの気候というのは、あんまりにも性格が悪かったのではないだろうか。あんまりにも。
 晩ごはんはピザだった。昨日が春巻で今日がピザ。実家の食事は脂質が多いな。またしてもビールが進んでしまう。ファルマンはゼリーだけ啜り、そのまま寝た。
 翌日もファルマンはもちろんヘロヘロだったが、この日は初めからなんの予定もなかったので問題なかった。たっぷり休んだことで徐々に回復はしてきていて、おかゆを少しずつ食べていた。風邪の姉もまたひたすら寝ていたいようで、子どもたちを託しに来てすぐに自分だけ帰った。そのため僕ひとりで4人の子どもの相手をする構図となった。こんなのこれまでの僕だったらウェーとなる場面だったが、2ヶ月前から健康志向になっているので、やってやろうじゃないかと近所の公園に繰り出し、サッカーなんかしたりする。本当に、たまたま僕が健康に目覚めていたからよかったようなものを、だ。これまでの肝臓弱ってるおじさんだったらとても無理で、公園で遊んだ以上の時間を回復のための昼寝に要していたに違いなかった。それに対して現在の溌溂さ! 昼ごはんを挟んで午後にも別の公園に出掛け、さらには地区センターで卓球までして帰った。
 晩ごはんは、帰省中に必ずどこかでなされる、定番の手巻き寿司。ここには子どもたちの迎えのために義兄が現れ、一緒に食べた。ちなみに義兄は僕とかなり同じようなタイミングで、「酒をやめてみたら案外そのまま平気になってしまって健康に目覚めた」そうで、運転があるので当然だが、この日もまったく酒を飲んでいなかった(僕は飲んだ)。なぜ時を同じくしてなのかは謎で、世界一どうでもいいシンクロニシティだと思った。「俺よりも4年早く健康に目覚めたのが羨ましい」と言われ、39歳の肝臓弱ってるおじさんが35歳の肝臓弱ってるおじさんを羨むのって、地獄のような図式だなと思った。
 食事を終えて、姉一家(の姉以外)を見送る。今回はこんな状況なのでもちろんポルガの姉家への宿泊は実行されない。なかなかにバタバタとした邂逅となった(と言っても僕は1日たっぷり相手をしたけれども)。次に会うのは年末か。
 翌日は帰宅の日。ファルマンは昨日の日中をずっと寝たことで、夜にはまあまあ回復し、夕餉の席にも顔を出せるまでになっていた。本当によかった。2日前の夕方の中村橋の絶望感たるやなかった。まったくすごいGW帰省だった。出発と帰宅は早いに限る、ということで新幹線は9時台の便。祖母に別れを告げ、母にあざみ野まで送ってもらった。
 岡山まで戻って在来線に乗ったら、だだっぴろい風景にほっとした。光が丘公園とはやっぱりぜんぜん違う、野(でさえないもの)がそこにはあって、そして人がぜんぜん少なくて、ああこっちに安心するようにもう頭がなっているのだなあと思った。

GW帰省の前半

 実は1日から今日まで、3泊4日で横浜に帰省していた。GWが始まる直前くらいに、「GWの旅行の予定をウェブに公開するのは空き巣を誘発するのでしないほうがいい」という記事を読んだため、出発前にはこの帰省のことは黙っていた。しかしよく考えてみたら、書いたところで、誰も僕の住所を知らないし、仮に家に侵入しても金目のものは一切ないし、そもそも、誰もこんなブログなんて読んでいないのだから、そんな警戒はするだけ無駄だった。自意識過剰もいいところだ。
 GWの帰省は2年連続。去年は出張と合体させることができたこともありGWになったわけだが、今年は出張は関係なく、長いのでここで帰っておくか、くらいの感じで帰ることにした。もっとも真夏の帰省は現地での行動意欲が著しく低下するので、そもそもGWに行ったほうが合理的なのだ。祖母もお盆行事のために山梨に戻っていたりするし。とは言え今年に関しては、これまでも何度もぼやいているように、本来は心地よいはずのGWの気候が、すこぶる悪いのだった。出発前日の退位、そして即位の出発当日も、嫌がらせなのか、天皇制反対の立場なのか、というくらいずっと雨がちで気温も低かった。そのせいで持っていく服選びには大いに往生した(ちなみにこのあたりの記述は今回の帰省中の最大の事件の伏線となっている)。
 新幹線では子どもたちにひたすらタブレットを与えて過した。タブレットでゲームをしたりアニメを観たりしていたら、子どもは基本的に静かにしてくれる。それは親にとっても、子どもにとっても、公共マナー的にも、本当にとてもいいことだ。もしもそれに対して苦言を呈するような輩がいたら、地獄に落ちればいいと思う。
 前回は「おっさんずラブ」のロケ地を見るために中川駅で下車したが、今回はいつも通りあざみ野まで出て母に迎えに来てもらう。実家には誰もいなかった。祖母はゲートボールならぬグランドゴルフに出ていて、叔父はこのGWにはこちらに現れる予定はなく、そして姉一家は今日明日とキャンプなのだった。1ヶ月前に新幹線のチケットを取って姉に伝えた際にこのキャンプのことは聞いていた。キャンプと聞いて、すぐに去年の夏のことを思い出した。「キャンプか……。人はまだキャンプに行くのか……」と悲痛な気持ちになった。しかし話を聞けば、姉一家はこのところ当世流行りのアウトドアキャンプにハマっているそうで、もう何度もやっているらしい。そうか。それならばいい。世の中に、そういうキャンプとそういう人種がいることは知っている。それならばいいのだ。姉一家にとってこれが初めてのキャンプで、(去年の我々一家のように)惨憺たる思いをしたら可哀相だと思ったのだが、そんな心配は不要だった。とは言え、我ながらしつこいが、GWの蓋を開けてみたら末世のような気候である。「姉たちは、今日、キャンプなのか……」とやはり悲痛な気持ちになった。キャンプはどうしたって僕を悲痛な気持ちにさせる。
 この日の午後は特にどこへ出かけるということもなく、家でのんびりと過した。祖母はじきに帰ってきた。新天皇の即位の日に、老人たちはグランドゴルフをするのか、と少し意外な気もした。まあ今どきの老人は普通に戦後育ちだったりするしな。祖母は91歳だが、特に天皇どうこうという話は聞いたことがないので、まあそんなものなのかもしれない。子どもたちはいつものようにWii Fitに興じていた。
 晩ごはんは、リクエストを訊ねられたので春巻を所望する。たまに食べたくなるときがあるので、この機に作り方を教わっておこうと思った。揚げたてを食べ、ビールを飲んだ。かなり久しぶりのビール。当初の予定では、小さなウィスキーのボトルを買って、こっちでもハイボールを貫こうかと思っていたのだが、帰省に合わせてすでにビールが用意されていたため、さすがにそれを飲まないと言えるはずもなく、飲んだ。飲んだら、そりゃあまあ春巻にビールなので美味しかった。
 翌日は今回の帰省のメインイベントで、練馬に繰り出す。2年前か3年前の大晦日に、練馬駅からバスに乗って、ファルマンと子どもたちは練馬在住時代に懇意にしていた大学時代の同級生一家の家に遊びに行き、僕はかつて働いていた書店のある東武東上線のほうへ行く、ということをしたことがあったが、今回は同じ練馬区内でもちょっと違うエリアで、光が丘を目的地とした。ポルガ妊娠をきっかけに、それまで住んでいた平和台が最寄り駅の住まいから、光が丘が最寄り駅のコーポへと引っ越したのが、2010年の8月のことである。それから半年ほどの妊婦生活を経て、2011年の1月にポルガが生まれ、そして3月に震災があり、翌年の7月に島根へ移住した、その2年間を暮した、なかなか思い出深い町なのである。島根移住後に訪れるのは初めてなので、約7年ぶりの帰還ということになる。な、7年……。月日パねえ……。田園都市線からは、直通の半蔵門線で青山一丁目まで行き、そこから大江戸線というルート。けっこう遠い。
 光が丘駅に到着してホームに降りると、駅がもうすでに懐かしい。別になんの情趣もないただの地下鉄の駅なのだが、それでもやっぱり懐かしさがこみ上げてくる。直結しているIMAに上がると、コージーコーナーも、和菓子屋も、パン屋も、ぜんぜん変わっていなくて驚いた。さらには当時よく利用していた八百屋、肉屋、魚屋も、まるで3日ぶりに来たくらいそのままの様子で営業していたので、逆に感慨が湧かないほどだった。逆浦島太郎と言うか、7年ぶりなのだからもうちょっと変わっているべきじゃないのか? と言いたくなるほど変わっていない。化かされていたのは俺たちだったんじゃないかと思った。そうして店内をひとしきり回った後、今回ももちろん会うことにした、いつもの一家と合流する。この一家と会ったのは、いつぞやの上野動物園以来か。わが家と同じく姉妹で、上の子はなんともう小学6年生だという。当時はポルガが赤ん坊で、この子は幼児だった。それが今は中学受験に向けて塾通いの日々だそうで、今日もこのあと塾に向かうとかで、わずか数十分限りの邂逅だった。IMAはぜんぜん変わらないのに、親は30代半ばになり、子どもは受験とか言い出す。IMAはSF空間なのかもしれない。
 上の子を見送ったあとは、一家の母親と、小学1年生の妹とともに、光が丘公園のほうに向かった。IMAと公園の間に病院があり、今は経営元が変わってしまったのだが、ここはかつて日大病院で、ポルガの出生病院なのだった。病院の外観を見ただけで、健診通いの日々だとか、ポルガが生まれた夜のことだとかが思い出された。病院を過ぎると次は図書館。当時よく利用した。その隣は体育館。これは今回初めて知った。見てびっくりしたのだが、プールもあった。ぜんぜん目に入っていなかった。当時はエクササイズの必要性がなかったから意識に入ってこなかったのだろうが、ほぼ毎日、通勤でこの前を通っていたのに、それがなんの建物かさえも気にせず暮していたのか、と驚いた。当時の自分の世界の狭さよ、と思うが、今だって別に身の回りの世界の全てを見ているわけじゃない。最近やっと、僕の見る世界にプールが登場しただけの話であり、そう考えると人それぞれの世界の見え方ってぜんぜん違うんだな、と思う。
 光が丘公園は岡山在住者からしても、広々としたいい公園だった。人の多さは岡山の比ではなかったが、それでも悠々と過ごせた。木陰にレジャーシートを敷いて、IMAで買った弁当を食べる。それまで相変わらずの天候で、霧雨が降るともなく降る、みたいな感じがずっと続いていたのだが、ここへ来てようやくきちんと晴れはじめ、背中にじりじりと陽射しの熱さを感じるほどになった(これもまた伏線である)。これだよ、これなんだよGW、と思った。
 女こどもはのんびりとだべりながら食べ、唯一の男である僕はそんなものに付き合ってられないので、食べ終わり次第、好き勝手に動くことにした。まず、光が丘駅から離れるようにさらに公園内を進み、板橋区方面の出入り口まで行ってみる。かつて僕は成増駅から、光が丘駅の向こうの自宅まで、ほぼ毎日自転車で公園内を突っ切っていたのだ。だから公園口らへんはとても懐かしいだろうと思ったのだが、案外その風景はピンと来なかった。えー、なんでだろう。違う口だったかな。思い出せないけど。公園を出て向こうの住宅街に出ることはせず、そこで引き返す。レジャーシートの場所に戻ると、さすがに食事は終わっていて、これから遊具のほうへ向かうという。考えてみたらそれもまた付き合ってもしょうがないなと思ったので、どうせこいつらはそのあと光が丘駅に戻ってくるのだからと考え、改めてIMAの中を見て回ったり、さらには駅の向こう側をひとり散策することにした。

 ここまでちょっと丁寧に書き過ぎて、なんだか1日の自分なりの日記文の規定量を超えてしまった感があるので、この続きはまた明日に書くことにする。