GW帰省の前半

 実は1日から今日まで、3泊4日で横浜に帰省していた。GWが始まる直前くらいに、「GWの旅行の予定をウェブに公開するのは空き巣を誘発するのでしないほうがいい」という記事を読んだため、出発前にはこの帰省のことは黙っていた。しかしよく考えてみたら、書いたところで、誰も僕の住所を知らないし、仮に家に侵入しても金目のものは一切ないし、そもそも、誰もこんなブログなんて読んでいないのだから、そんな警戒はするだけ無駄だった。自意識過剰もいいところだ。
 GWの帰省は2年連続。去年は出張と合体させることができたこともありGWになったわけだが、今年は出張は関係なく、長いのでここで帰っておくか、くらいの感じで帰ることにした。もっとも真夏の帰省は現地での行動意欲が著しく低下するので、そもそもGWに行ったほうが合理的なのだ。祖母もお盆行事のために山梨に戻っていたりするし。とは言え今年に関しては、これまでも何度もぼやいているように、本来は心地よいはずのGWの気候が、すこぶる悪いのだった。出発前日の退位、そして即位の出発当日も、嫌がらせなのか、天皇制反対の立場なのか、というくらいずっと雨がちで気温も低かった。そのせいで持っていく服選びには大いに往生した(ちなみにこのあたりの記述は今回の帰省中の最大の事件の伏線となっている)。
 新幹線では子どもたちにひたすらタブレットを与えて過した。タブレットでゲームをしたりアニメを観たりしていたら、子どもは基本的に静かにしてくれる。それは親にとっても、子どもにとっても、公共マナー的にも、本当にとてもいいことだ。もしもそれに対して苦言を呈するような輩がいたら、地獄に落ちればいいと思う。
 前回は「おっさんずラブ」のロケ地を見るために中川駅で下車したが、今回はいつも通りあざみ野まで出て母に迎えに来てもらう。実家には誰もいなかった。祖母はゲートボールならぬグランドゴルフに出ていて、叔父はこのGWにはこちらに現れる予定はなく、そして姉一家は今日明日とキャンプなのだった。1ヶ月前に新幹線のチケットを取って姉に伝えた際にこのキャンプのことは聞いていた。キャンプと聞いて、すぐに去年の夏のことを思い出した。「キャンプか……。人はまだキャンプに行くのか……」と悲痛な気持ちになった。しかし話を聞けば、姉一家はこのところ当世流行りのアウトドアキャンプにハマっているそうで、もう何度もやっているらしい。そうか。それならばいい。世の中に、そういうキャンプとそういう人種がいることは知っている。それならばいいのだ。姉一家にとってこれが初めてのキャンプで、(去年の我々一家のように)惨憺たる思いをしたら可哀相だと思ったのだが、そんな心配は不要だった。とは言え、我ながらしつこいが、GWの蓋を開けてみたら末世のような気候である。「姉たちは、今日、キャンプなのか……」とやはり悲痛な気持ちになった。キャンプはどうしたって僕を悲痛な気持ちにさせる。
 この日の午後は特にどこへ出かけるということもなく、家でのんびりと過した。祖母はじきに帰ってきた。新天皇の即位の日に、老人たちはグランドゴルフをするのか、と少し意外な気もした。まあ今どきの老人は普通に戦後育ちだったりするしな。祖母は91歳だが、特に天皇どうこうという話は聞いたことがないので、まあそんなものなのかもしれない。子どもたちはいつものようにWii Fitに興じていた。
 晩ごはんは、リクエストを訊ねられたので春巻を所望する。たまに食べたくなるときがあるので、この機に作り方を教わっておこうと思った。揚げたてを食べ、ビールを飲んだ。かなり久しぶりのビール。当初の予定では、小さなウィスキーのボトルを買って、こっちでもハイボールを貫こうかと思っていたのだが、帰省に合わせてすでにビールが用意されていたため、さすがにそれを飲まないと言えるはずもなく、飲んだ。飲んだら、そりゃあまあ春巻にビールなので美味しかった。
 翌日は今回の帰省のメインイベントで、練馬に繰り出す。2年前か3年前の大晦日に、練馬駅からバスに乗って、ファルマンと子どもたちは練馬在住時代に懇意にしていた大学時代の同級生一家の家に遊びに行き、僕はかつて働いていた書店のある東武東上線のほうへ行く、ということをしたことがあったが、今回は同じ練馬区内でもちょっと違うエリアで、光が丘を目的地とした。ポルガ妊娠をきっかけに、それまで住んでいた平和台が最寄り駅の住まいから、光が丘が最寄り駅のコーポへと引っ越したのが、2010年の8月のことである。それから半年ほどの妊婦生活を経て、2011年の1月にポルガが生まれ、そして3月に震災があり、翌年の7月に島根へ移住した、その2年間を暮した、なかなか思い出深い町なのである。島根移住後に訪れるのは初めてなので、約7年ぶりの帰還ということになる。な、7年……。月日パねえ……。田園都市線からは、直通の半蔵門線で青山一丁目まで行き、そこから大江戸線というルート。けっこう遠い。
 光が丘駅に到着してホームに降りると、駅がもうすでに懐かしい。別になんの情趣もないただの地下鉄の駅なのだが、それでもやっぱり懐かしさがこみ上げてくる。直結しているIMAに上がると、コージーコーナーも、和菓子屋も、パン屋も、ぜんぜん変わっていなくて驚いた。さらには当時よく利用していた八百屋、肉屋、魚屋も、まるで3日ぶりに来たくらいそのままの様子で営業していたので、逆に感慨が湧かないほどだった。逆浦島太郎と言うか、7年ぶりなのだからもうちょっと変わっているべきじゃないのか? と言いたくなるほど変わっていない。化かされていたのは俺たちだったんじゃないかと思った。そうして店内をひとしきり回った後、今回ももちろん会うことにした、いつもの一家と合流する。この一家と会ったのは、いつぞやの上野動物園以来か。わが家と同じく姉妹で、上の子はなんともう小学6年生だという。当時はポルガが赤ん坊で、この子は幼児だった。それが今は中学受験に向けて塾通いの日々だそうで、今日もこのあと塾に向かうとかで、わずか数十分限りの邂逅だった。IMAはぜんぜん変わらないのに、親は30代半ばになり、子どもは受験とか言い出す。IMAはSF空間なのかもしれない。
 上の子を見送ったあとは、一家の母親と、小学1年生の妹とともに、光が丘公園のほうに向かった。IMAと公園の間に病院があり、今は経営元が変わってしまったのだが、ここはかつて日大病院で、ポルガの出生病院なのだった。病院の外観を見ただけで、健診通いの日々だとか、ポルガが生まれた夜のことだとかが思い出された。病院を過ぎると次は図書館。当時よく利用した。その隣は体育館。これは今回初めて知った。見てびっくりしたのだが、プールもあった。ぜんぜん目に入っていなかった。当時はエクササイズの必要性がなかったから意識に入ってこなかったのだろうが、ほぼ毎日、通勤でこの前を通っていたのに、それがなんの建物かさえも気にせず暮していたのか、と驚いた。当時の自分の世界の狭さよ、と思うが、今だって別に身の回りの世界の全てを見ているわけじゃない。最近やっと、僕の見る世界にプールが登場しただけの話であり、そう考えると人それぞれの世界の見え方ってぜんぜん違うんだな、と思う。
 光が丘公園は岡山在住者からしても、広々としたいい公園だった。人の多さは岡山の比ではなかったが、それでも悠々と過ごせた。木陰にレジャーシートを敷いて、IMAで買った弁当を食べる。それまで相変わらずの天候で、霧雨が降るともなく降る、みたいな感じがずっと続いていたのだが、ここへ来てようやくきちんと晴れはじめ、背中にじりじりと陽射しの熱さを感じるほどになった(これもまた伏線である)。これだよ、これなんだよGW、と思った。
 女こどもはのんびりとだべりながら食べ、唯一の男である僕はそんなものに付き合ってられないので、食べ終わり次第、好き勝手に動くことにした。まず、光が丘駅から離れるようにさらに公園内を進み、板橋区方面の出入り口まで行ってみる。かつて僕は成増駅から、光が丘駅の向こうの自宅まで、ほぼ毎日自転車で公園内を突っ切っていたのだ。だから公園口らへんはとても懐かしいだろうと思ったのだが、案外その風景はピンと来なかった。えー、なんでだろう。違う口だったかな。思い出せないけど。公園を出て向こうの住宅街に出ることはせず、そこで引き返す。レジャーシートの場所に戻ると、さすがに食事は終わっていて、これから遊具のほうへ向かうという。考えてみたらそれもまた付き合ってもしょうがないなと思ったので、どうせこいつらはそのあと光が丘駅に戻ってくるのだからと考え、改めてIMAの中を見て回ったり、さらには駅の向こう側をひとり散策することにした。

 ここまでちょっと丁寧に書き過ぎて、なんだか1日の自分なりの日記文の規定量を超えてしまった感があるので、この続きはまた明日に書くことにする。