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37歳

  誕生日である。シルバーウィークの真っ只中である。去年がそうであったように、シルバーウィークといえども、肝心の20日が狭間の平日だったり土曜だったりして休みじゃない、なんてことはよくある。その点、今年はきっぱり日曜日なので、ちゃんと当日にお祝いをしてもらうことができた。もっともそんな年に限って、毎日が日曜日の身分である。
 今日でめでたく37歳になったわけだが、予想していた通り36歳と37歳の境にはなにも心を動かすものが存在しなかった。20代と30代の間には国境があり、34歳と35歳の間には県境くらいのものがあったように思うが、36歳と37歳の間は市境よりももっと弱く、町区の境くらいの感覚だ。徒歩というわけにはいかないが、自転車でもあれば簡単に行き来できる気がする。もっとも行き来する意味はない。なぜならこっちの町もあっちの町も、ほぼ同じ一帯だからだ。36歳から37歳になる感慨とは、だいたいそんなものだった。
 零時になった瞬間にお祝いメッセージが殺到したせいで誕生日当日は寝不足気味、といういつものギャグは、もう唱える気にもならなかった。この3ヶ月弱、だいぶ混じりっけなしに家族以外と絡んでいない人間が、1年前の時点でそういうやりとりをする存在がひとりもいなかったのに、なぜ今年そんなことになるというのか。なるはずがない。理屈がない。あまりにも理屈が合わないギャグはつまらない。つまらないというか、もはや悲壮感がある。
 そんなわけでちゃんと7時間ほど快眠し、37歳の誕生日の朝を迎える。気候がよくなったので公園に遊びに行きたいとか、文房具屋に子どもの必要なものを買いに行かなければ、といった用件はあったのだけど、さすがは4連休の余裕で、そういったものは明日以降にすればいいということになり、今日は純粋に僕の誕生日を祝う日として、近所のスーパーへの買出し以外はひたすら家にいて、子どもたちは飾り付けの作製、ファルマンはケーキ作りに勤しんだ。誕生日のお祝いをする日に、誕生日のお祝いの準備だけして過ごすなんて、優雅きわまりないな。僕もまた、ヒットくんのフェルト人形を作ったり、ごはんを作ったりして、37歳の誕生日をゆったりと過ごした。平穏なことだ。
 晩ごはんはエビフライ。いちばん好きな食べものは相変わらず餃子だが、今日はエビフライの気分だった。エビフライは好きな食べものランキングの、4位くらいか。食べてちょっと恍惚とするくらいには好き。たっぷりの時間で下拵えも丁寧にしたので仕上がりは上々で、ちゃんと恍惚とすることができた。
 食事のあとはケーキ。僕の誕生日ケーキは、毎年恒例のチョコケーキ。これがしみじみとおいしい。誕生日ケーキに関して、いちごコンプレックスが数年前まであったが、夏が終わってチョコレートに感激できるタイミングなのだと喝破してから、心が安らかになった。これからは板チョコを持ち歩くのもやぶさかじゃない季節だ。
 ケーキのあとはプレゼントをもらう。ファルマンからは既にひと月ほど前に、財布をもらっていた。子どもたちは、ポルガが縄跳び、ピイガがエコバッグをくれた。どちらもなかなか実用的で、成長したものだと思う。あと恒例の手紙や冊子いろいろ。この3ヶ月弱は特に絡む時間が長く(僕が家にいるからだが)、悩まされる機会も多かったが、しかしまあ素直に誕生日をお祝いしてくれる姿を見ると、問答無用で愛しい。やっぱり家族の誕生日のお祝いは、末永く、なるべく力を注いでやるべきだな、と思いを新たにした。
 そんな37歳の誕生日だった。
 


人生いろいろ

 8月31日という日。
 とはいえ子どもたちの夏休みは、今年は1週間ほど前に終わっていて、すでに日常が戻っているのだった。しかし何度もいうけど、新型コロナで焦点がずれてしまっているが、今年の暑さは異常で、実はちょうど今日をもって、高梁市は今月9日からずっと続いていた連続猛暑日が23日となり、これは1990年と94年に大分県日田市が記録した22日を超えて、歴代最長記録の樹立であるらしい。めでたい! のかめでたくないのかいまいち判らない。こんなに暑くてつらい思いをしているのだから客観的な記録として後世に残るくらいの称揚がなければやってられない、という気もするし、記録なんてどうでもいいから涼しくなれよ、という気もする。あるいは、時おり雨など降って地面が冷えたりして、そこまで連続猛暑日が続いていない地域が見て、「高梁イキってんね笑」と揶揄の対象になっているのだとすれば、一抹の気恥ずかしさもある。とにかくどう捉えていいのかさっぱり判らない。ちなみに、どうしてこの記録に関してこんなに思いを馳せているのかというと、なにぶん今回の高梁市の記録に関しては、同県民というだけで便乗して盛り上がっているわけではないからだ。ひとつ前の記事、「井倉洞へ」で書いたが、まさに連続猛暑日真っ最中の、正確な日付としては8月21日のことになるが、そこでわれわれ一家は猛暑の高梁市の市街を目の当たりにしたのだ。なるほどこの暑さか、というものを体験、体感したのだ。そう考えるともはや、われわれ一家もこの記録には一枚噛んでいるといって差し支えない。日本の気象史に刻まれたこの記録に、パピロウ一家は深い関わり合いを持つ。
 そしてちょうどそれとおんなじくらいのゆるーいつながりの、「としまえん」が、今日をもって営業を終了するのだった。なにしろかつては練馬区民だったので、としまえんには数えきれないほどの思い出がある、……ということはない。そもそも遊園地に行くようなタイプではないのに加えて、としまえんというのはファミリー向けに特化したタイプの遊園地であるわけで、22歳から練馬区民となり、27歳に子どもが生まれて東日本大震災が起こり(ほぼほぼ同時)、28歳で島根県へと移住した僕は、としまえんに行く機会が実際ほとんどなかった。それでも1回、いや2回だったかな、入園したことはあったと思う。なにをしたという思い出もないけど。今回の閉園のニュースを見ながらファルマンと、「あのまま練馬で暮してたらやっぱり子どもと遊びに行ったりしてたのかねえ」なんて話したりした。島根移住を決断した際、ポルガはもちろん既にこの世に存在していたが、ピイガは島根で生まれたので、練馬暮しを続けていた場合ピイガはこの世にいなかったかもしれない。パラレルワールド。
 パラレルワールドといえば、やっぱり今年の夏は「新型コロナのせいで東京オリンピックが行なわれなかったほうの2020年」という感じがあって、そんな夏の終わりに安倍晋三が辞任表明をしたので、いよいよ「ひっちゃかめっちゃかなほうの未来」という感じが強まった。一方の未来の安倍晋三は、無事に開催された東京オリンピックにおいて安倍マリオとして再登場し大喝采を受けていたかもしれないのに、こちらでは心労がたたって持病再発である。未来も、人生も、確定的なことなんてひとつもないんだな、ということをしみじみと思う。安倍晋三は7年8ヶ月も総理大臣だったそうで、就任は2012年の12月26日。僕はこのときの、自民党が民主党から政権を奪還した選挙結果のニュースを、病院のロビーのテレビで見た記憶があったので、あああれはピイガの誕生間近(1月4日)の産婦人科での出来事か、としまえんも安倍晋三もピイガもつながってるんだな、と思ったのだが、よく考えてみたらピイガはいま6歳であり、その誕生は2014年のことなので、別に関係なかった。あの病院は酒蔵で足を挫いたときに行ったやつだ。安倍晋三は僕が酒蔵で働いていたときからずっと総理大臣だったのか。長かったな。

井倉洞へ

 数日前の出来事になるが、そろそろ子どもたちの夏休みも終わるということで、短いし遠出もできなかった今年の夏の、せめてもの思い出作りとして、新見市にあるという井倉洞という洞窟へと遊びに行った。この何日か前、夕方の地方ニュースで紹介されていてその存在を知ったのだった。テレビで紹介されたばかりだから人が殺到しているだろうかという危惧もあったが、なにぶん夏休みとはいえ世間的には平日なので、まあ大丈夫だろうと判断して向かった。
 新見市は、山陰地方への鉄路、特急やくも擁する伯備線が市を縦断するように走っていて、そのひとつ手前の高梁市ともども、地名駅名になんとなく馴染みはありながらも、実際に降り立ったことはないため、知り合いなのか知り合いじゃないのか微妙な距離感の相手、という印象の街。道程は、高梁川と、伯備線と、そして我々の使った180号線が、三つ編みのように入り組み、なかなかフォトジェニックな景色が随所に見られた。高梁市の市街というのも、街の中には入らなかったが道から様子を垣間見て、城下町だからか、なんだか独特の雰囲気がありそうだな、と思った。総社市のように気楽に岡山倉敷に出てこられる距離感ではなさそうだが、それゆえの矜持なんかもあるような気がする。よその土地を覗き、その暮しに思いを馳せて、だとすればこれは小旅行といっていいかもしれない。ちなみに新見市街は、我々の目的地である井倉洞よりもさらに先へ進んだほうにあるため見ていない。東京などだと、細かい間隔で駅があって、その駅ごとにわりとちゃんと駅前の街並みが形成されているため、街と街の間に隙間というものがないけれど、「高梁」から「新見」なんていうのは、昔なんかだと特に、高梁を出て川伝いにずっと進むと、ようやく山の中に新見が現れる、みたいな感じだったんだろう。
 そんなこんなで井倉洞に到着する。駐車場は空いていた。やはり平日だからだろうか。それとも外出は控えたほうがいいレベルの暑さだからだろうか。駐車場から洞窟の入り口までは、そこまで離れているわけではなかったが、それでもだいぶやられた。そもそも高梁市のあたりというのは、県内の天気予報でもいつもやけに高温を記録しているエリアなのである。いわれてみれば陽射しが強い気がする。空気がきれいだからだろうか。岡山倉敷もそんな空気が汚くなるほどの都市だとは思えないけどな。
 入洞料を払って、歩道橋を渡る。高梁川の向こう側にある岩山に、井倉洞はあるのだった。橋を渡りきり、入り口に近づいたところで、空気が明確に変わる。洞窟の中は涼しい、というのは行く前の下調べでもちろん知っていたが、こうも違うものかと思った。ちなみに、そもそも僕は洞窟というものが、おそらく初体験なのである。もちろん子どもたちもそう。ファルマンだけは違う。ファルマンは「子どものころ近所の洞窟で友達と……」みたいなエピソードトークをしていた。近所の洞窟ってなんだろう。
 井倉洞は全長1200メートルあり、アップダウンも激しい鍾乳洞である。他の洞窟のことは知らないが、初体験の洞窟としてはなかなかにアグレッシブだった。子どもが小さ過ぎたら行けないし、年を取り過ぎたら親が行きたくない。そう考えると今回はいいタイミングで行ったのではないかと思う。洞窟内は全体が水気に満ち満ちていて、あちこちから水滴が垂れていた。これも事前調査で、「だから大事なカメラは持ってこないほうがいい」という情報を得ていたので、今回のレジャーにはデジタル一眼レフは携えなかった。そのためタブレットで適当に写真や動画を撮りつつ、洞内を進んだ。洞内は、つらら石や石筍があちこちにあり、というかそれらが壁を形成しているような有様だったが、通路は通路として整備されているので、どこからどこまでが自然物でどこからどこまでが人工物なのか、いまいち判然としなかった。そのため36歳になって初めての鍾乳洞体験をした感想は、「テーマパークみたいだな」という、わざわざ連れてきた果以のないもので、それでもテーマパークにしろ天然の鍾乳洞にしろ、異空間であることには違いはなく、そういう場所に家族で来ると、とにかく思い出的で充足感がある。なので満足だ。それと中を歩きながら、もちろんその場では口には出さなかったものの、やはりずっと(いま大地震が来たら……)という不安が頭の中にあった。いま大地震が来て生き埋めになったら、我々一家が井倉洞に来ていたという事実を誰が知るだろう? 駐車場に車があるからそこから判明するだろうか、などと終始思っていた。幸いなんともなく無事に外界に出ることができた。無用な心配で済んでよかった。
 洞内は涼しかったが、アップダウンが激しいので運動になり、体が冷えるわけではない。そして外に出たらもちろんひどい暑さで、駐車場までの道のりはつらく、結局トータルで、洞窟の優しい涼しさなど掻き消えるほどに暑かった。車内だってエアコンは効かすものの、窓から陽射しは受け続けるのだ。
 帰宅した頃にはヘトヘトで、ポルガは例のごとく「頭が痛い」と言い出し、両親は仮眠を取らずにはおれなくなり、ピイガはひとり元気でうるさく、夕方以降はグダグダだった。でもテレビで見たときから「行ってみたいね」といっていたそこへ、この変な夏の思い出作りとして行かなかったら、たぶんずっと後悔した気がするので、行ってよかった。

夏に打ち勝つ模様替え

 それ以外にほとんどいうことがないのだが、暑すぎる。人生は、なにかをするには短すぎるし、なにもしないには長すぎる、という、誰にとっても絶望的などうしようもない言葉があるけれど、それでいうならこの夏は、なにかをするには暑すぎるし、なにもしないにも暑すぎる。とにもかくにも暑い。
 しかしこのままではあまりにも無駄に日々が過ぎ去ってしまう、どうにかここで一念発起し、夏に対して一矢報いてやろうではないかと夫婦で話し合った結果、模様替えを決行した。もはやプロペ家名物といってもいい、模様替え。聖家族とはよくいったもので、完成しないという完成された芸術としての、我々はプロペダ・ファミリアなのかもしれない。
 今回の模様替えの大きなトピックスとしては、僕とファルマンのパソコン机が、別々の部屋になったことだ。一緒に暮しはじめてからこれまで、このふたつは、背中合わせ、向き合い、横並びと、いろいろな配置を変遷しながらも、常に同じ部屋に在った。それが今回、とうとう別れたのである。別れた、という表現をあえて使い、不穏な空気をにおわせてみたが、もちろん夫婦関係がどうにかなったわけではない。もし本当にそうだとしたらこんなことをわざわざ書くわけがない。じゃあどういう事情か、といえば、これまでパソコン机をふたつ置いていた夫婦の寝室が実は狭くて不便だったとか、エアコンの冷風とベッドの配置がよろしくないとか、寝室のスペースに余裕ができたらクローゼットの中に置いているプリンタ複合機を外の世界に引っ張り出すことができて使いやすくなるとかの、ワールドワイドウェブに記しても仕方ない、生活の中の細々とした事情である。とはいえそれらの理由は、別に最近になって発生したものではない。この形になってからずっとあった問題だった。しかしそれはこれまでずっと黙殺され続け、そしてこのたび突如として改善された。なぜか。それは約1ヶ月半前にわが家にやってきた、工業用ミシンが関係している。あのタイミングで手に入れるしかなかった工業用ミシンは、居間に半ば強引に設置し、それ以来居間の一角は僕のハンドメイドスペースの様相を呈していたわけだが、ならばもういっそのことパソコンもこっちに持ってきて、完全に僕のエリアにしてしまえばいいのではないか。平時にただパソコン机を居間に持ってくる選択肢はなかったが、強制的な工業用ミシンの来襲によって、にわかに機運が高まった。そんなわけで、「工業用ミシンがやってきた」という「nw」に投稿した記事内の写真では、オーバーロックミシンを置いているスペース、ここにパソコンを置くことにした。オーバーロックミシンは、直線ミシンの横にあったらすごく便利だ、ということを記したが、あの当時は無職になってすぐで張り切っていて、子どものブラウスなどを盛んに作っていたのでたしかに便利だったが、最近は衣類はひと段落してヒットくん人形とか小物を中心に作っているため、オーバーロックミシンは実は使っていなかった。実際、服作りをコンスタントに行なうわけではない限り、オーバーロックミシンがすぐに使える状態にあるメリットはそこまでない。というわけでそれは棚に仕舞い、代わりにパソコンを置いた。工業用ミシンのでかいテーブルはなんと便利なのだろう。ミシンのすぐ横にパソコンがあり、マウスを少し大きく動かせば、マウスがミシンの押さえにぶつかってしまうような環境。こじんまりとしているが、足りている。むしろこのコンパクトさが愛しい。そしてファルマンはファルマンで、部屋から僕のパソコン机一式がなくなったのだから、もちろん部屋に余裕ができ、これまでは椅子を満足に引くことさえできないような状態だったのだが(椅子がでかすぎるのだ、という説もある)、それも改善された。だからお互いにとってよかったに違いない。
 あとちなみに、今回のパソコン別離移動が実行に移されたのは、なんだかんだでパソコンの比重が下がっているのも要因だと思う。ふたりとも、毎晩1時間半くらいかけて、とりあえずブログの記事をアップする、というような暮しをしていた頃だったら、その別離はあまりにも別離すぎて、やらなかったと思う。現在はブログの更新頻度がそこまでじゃなくなったし、それぞれタブレットでインターネットもだいぶするようになったので、パソコン=居場所じゃなくなった。そういう時代の趨勢も影響していると思う。
 しかしとにかく気分転換になった。パソコンの配置が変わるとリフレッシュして愉しい。ベッドの向きも変わったので、それも今晩から新鮮だろうと思う。勝ちたい。夏に勝ちたい。勝たないまでも、ちょっとでも軍勢を押し返してやりたいじゃないか。

白昼夢

 子どもが夏休みに入り、僕もなんかずっと家にいる、不思議な夏が始まった。子どもたちに夏休み用のドリルが必要だというので、大きい本屋の入っているイオンに行こう、となったのだが、月のはじめは土日だったので、「じゃあ空いてる月曜日に行こうぜ」なんてことが簡単にできてしまい、特殊な感覚だなあと思った。
 もっとも悠々自適がどこまでも快適かといえばそんなこともなく、けっこう時間を持て余す感じもある。ましてや子どもがいるので、ファルマンとふたりだった7月のように、ひとりでフラッと出掛けるようなことはなんとなく憚られ、かといって一家でどこかへ行くにしても、イオンへはもう行ってしまったし、公園で遊べるような気温じゃないしで、わりとあぐねるのだった。
 そんなわけで今日なんかは、海へと遊びに行った。といってももちろん泳いだりしたわけではない。そもそも今年は、他の地域もそうであるように、我々のところの海水浴場も開設していないのだ。そのため海水浴シーズンじゃないときと同じように、波打ち際でパシャパシャだけをしに行った。行ったら、平日とはいえそれなりに人がいて、海水浴場の営業がないとはいえ自己責任で遊泳している人もいた。普段の夏場には寄り付かないので、これが例年に比べてどの程度の賑わいなのかは定かではない。あと、「それなりに人がいて」という言葉は、ふだん湘南の海とかで遊ぶ人と、地方の人とで、思い浮かべるイメージがぜんぜん違ってくるだろうとも思う。具体的に言うと、端から端までぜんぜん駆け抜けられないくらいの広い海岸に、ざっと20グループくらい。そういう人出。波打ち際で脚を浸して遊ぶ娘たちの写真を撮るにあたり、第三者が入り込んでくる心配はぜんぜんない、当世流行りのソーシャルディスタンスな密度であった。波は穏やかで、砂浜は暑く、水はひんやりとしていて気持ちがよかった。夏の海だった。目的通り、裾をまくって、しばらく脚だけ浸し、波を感じたりして過ごした。猛暑日になろうかという昼過ぎの陽射しは強く、20分ほどで頭はぼんやりしはじめ、少し慌てて車へと戻った。あとから思い返して、この不思議な夏の、白昼夢のように感じるひとときだったかもしれない。
 余談だが、この海岸と、6月まで働いていた職場はまあまあ近いので、海岸に向かう前に、急遽ちょっと様子を見に立ち寄った。様子を見に、というのは現在そこが取り壊しの真っ最中だからで、職場の近くに住んでいた同僚に、「たまに解体状況の写真でも送ってよ」と、数少ないLINE友だちなので在勤時に頼み、すると7月下旬にいちど実際に送ってきてくれて、その画像ではもうけっこう建物は壁だけしか残っていないような状態になっていて、ほほー、と思ったりしたのだが、せっかくここまで来たのだから自分の目でも見ようじゃないか、と思ったのだった。というわけで見に行ったら、建物そのものはまだ残っていたが、壁は一部なくなってきていて、剥離させた壁や鉄骨を、ショベルカーみたいな重機が、かつての駐車場に積み上げていた。そのさまを見て、やっぱり、ほほー、と思った。在籍年数6年あまりというのが、長いのか短いのかよく判らないが、案外ぜんぜん感慨深かったりしないものなんだな、と思った。土地や建物への愛着や愛執というものが、やっぱり広島に半世紀近くいた叔父も(話したわけではないが確信をもっていえることとして)そうであったように、血筋によるものなのかなんなのか、どうもない。軌跡といえば軌跡だが、軌跡が現存しているかどうかって大事なことか? という気がする。一方で、そういう個人的な要素に特別な感情を抱くことこそが人間的ってことだろう、という気もする。爬虫類じゃねんだから、と。かつて勤めた会社の建物が解体されていること自体には感情は揺さぶられなかったが、そのことに対して自分はどう感じるべきか、ということについて思いを巡らせることとなった、かつての職場見学だった。8月中に解体は終わるらしいので、あの建物を肉眼で見るのは今日が最後だったろうな。
 いやはや、なんだか不思議な夏。

2020年の7月が終わる

 2020年の7月が終わる。コロナがぜんぜん流行らなかったパラレルワールドでは、オリンピックの中日といったところで、いま大いに盛り上がっている。競泳は正直ちょっと物足りない結果だったが、柔道は自国開催ということで奮起し見事な成績を収めた。7人制ラグビーはやっぱり見ていておもしろかったし、フェンシングも予想外の健闘を見せた。野球やサッカーの予選は番狂わせが連発しているし、陸上はこれからが本番。大会後半に行なわれるスポーツクライミングもとても愉しみで、大会はこれからまだまだボルテージを上げてゆく。しかしそれにしても開会式の演出はすばらしかった。リオデジャネイロ大会の閉会式でのパフォーマンスから期待を高めていたが、それをはるかに凌駕する圧倒的な感動だった。いやあ、僕は日本という国が、なんだかとても誇らしくなっちゃったな。だけど実際は、僕がいるほうの世界では、コロナが流行ってしまっていて、夏はいったん収まるだろうっていわれてたのに、ここへ来て感染者数はどんどん増えて、それなのに国はGoToトラベルキャンペーンだっつって、もうひっちゃかめっちゃかになっている。ところで今月の金曜ロードショーでは、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を1・2・3と3週連続で放送していたので、録画をして、この1週間くらいでファルマンと3本一気に観たのだけど、このタイミングでこの映画をやるというのは、ここで僕がいっているような、「コロナが流行らなくて東京オリンピックが華々しく開催されている世界」と、「コロナが流行ってひっちゃかめっちゃかになっている世界」の、落差みたいなものに思いを馳せさせるという狙いがあるのだろうか。2でディストピアを作り上げていたビフのモデルはトランプだというし、なんだか本当に、「ドクゥ!」と縋りつきたくなる。こんな、こんな荒廃した、疲弊した、殺伐とした世界が、僕らの思っていた2020年の日本の夏のはずないじゃないか。ドクゥ! 東京の聖火の写真がこのままじゃ消えちゃうよ! マジで消えちゃう! もうだいぶ消えてる。お兄さんとお姉さんは既にすっかり消えた。マーティンも薄くなってきていて、ギターが思うように弾けない。
 それはそれとして、個人的なことをいえば、無職として過した1ヶ月間の終了である。この1ヶ月、僕の行ないはどのようだったかと総括すると、それほどだらけたわけでもなく、かといってなにかが劇的に進展したということもなく、まあ順当に経過した1ヶ月間だったんじゃないかな、と思う。特別ハッピーなこともなかったし、特別落ち込むようなこともなかった。要するに平穏ということで、じゃあだいぶハッピー寄りなのではないかとも思う。職務時代、そこまでストレスを抱いていたつもりもなかったが、なんとなく鏡に映る自分の顔に、翳りがなくなり少し若返ったような印象を受ける。浮世離れということかもしれない。
 今年はやけに区切りがよく、梅雨も月末にようやく明けたし、子どもたちも本日が終業式で明日から1ヶ月弱の夏休みだ。明日からの1ヶ月間は、どんなものになるだろう。たぶん子どもが小学校に通っていた今月ほどは、平穏じゃないだろうと思う。それに、すさまじく暑いのも間違いない。精神も、肉体も、病まないようにしよう。

2020年、無職の夏

 実は7月1日から無職している。
 ただし自己都合ではなく会社都合である(ここが大事)。
 会社からその伝達があったのはもうだいぶ前、1月の終わり頃のことだ。なので今般よく取り沙汰されるコロナ倒産ではない。失業保険の申請に行ったハローワークでも、「やっぱりコロナですか」と行く窓口ごとに訊ねられた。時勢的にはそれ以外考えられないような状況だが、でもそうじゃない。まあ末端には計り知れないいろんな事情があるのだろうが、たぶん直接的な要因は昨冬の、というかここ数年ずっとの暖冬だろうと思う。これまで勤めていた縫製工場では、紳士物の防寒着を生産していたのである。縫製業なんてただでさえ先細りなのに、その取扱品がこの温暖化の世の中で防寒着だなんて、もはやファンタジーの一種だな、とこんなことになる前から感じてはいた。逆にそれがどうしてこれまで持っていたかといえば、工場が大きなアパレル会社の子会社だったからにほかならず、このたびとうとうそこから「面倒見きれん」と匙を投げられた格好なのだった。閉鎖が告げられてから実際の終了まで5ヶ月もの猶予があった(今冬の受注分を生産しなければならないという事情もあった)のも、ひとえにそのおかげであり、それはこのご時世でとても恵まれていることだと思う。
 そんなわけでこの約5ヶ月は僕にとって、コロナ禍と迫りくる失業が同時に発生していて、なかなかに心が落ち着かない日々だった。もっともコロナショックで勤めている会社がどうにかなってしまうかも、という不安からは完全に解放されていて、その点は気が楽だった。ちょうどこの2月3月あたりに「100日後に死ぬワニ」が流行っていて、それに関する言葉の中に、「100日後に死ぬワニは、100日後まで絶対に死なないワニだ」というものがあり、これには状況的に大いに感じ入るところがあった。
 ただしコロナショックがわれわれ工員になんの影響も与えなかったといえばもちろんそんなはずもなく、どうも上の人たちの思惑的には、当初は工場の身売りを画策していたようで、そしてそれはたぶんコロナ前の世の中であれば、おそらく成ったようなのである。2月3月の時点では、まだそういう前提でものが話されていた。それがだんだん「あれ?」という感じにグラデーションで変化していって、コロナによる経済衰退は加速し、工場閉鎖のタイムリミットは迫り、あれよあれよと、そのままGWが明けた。このあたりで関係者はみんな諦観したと思う。僕もそうだった。しかし僕の諦観はたぶん他の人とは少し違っていて、工場が新体制で再スタートすることになったら、引き続き同じ場所に勤め続けるか、それともこれまでの会社が提示した会社都合の退職を選ぶか、そのどちらかでかなり迷うだろうなあと思っていたので、その迷いの余地がなくなったことに清々とした。きっぱり諦めがついてよかった。縫製業は、やりたくてやったので岡山に来てからの日々に後悔はないが、まあ実際そろそろ辞め時だったと思う。衣料品は売れなくなる一方で、ミシンの性能は向上し、縫製工という技術職はその存在意義がどんどんなくなってきているように思えた。少なくとも「国内の縫製工場」という、ファストファッションの大量生産でもなければ高級テーラーでもない中途半端な立ち位置は、いちばん成立しづらいだろうと思う。本当に、ぜんぜん黒字じゃないのになぜか工場が稼働し続けている、これまでがファンタジーだったのだ。
 これまでそんなファンタジックな存在を抱え続けてきた親会社は、それなりにしっかりとした会社なので、工場閉鎖に関してもずいぶん紳士的だった。1月の終わりにその伝達がなされたあと、2月中には退職にあたっての補償などが提示された。その後、何度も言うようにコロナショックで、百貨店およびそれ以外の店舗も閉店を余儀なくされ、親会社の経営状況もなかなかに厳しくなったようだが、条件面に変更はなかった。ありがたい話である。ちなみに親会社は遠方にあるため、次の仕事の斡旋はほとんどなかったのだが、それは縫製工に見切りをつけている身としては問題なかった(などと言いつつ職探しをした結果、縫製工に戻るしかなかったら切ないな)。
 かくして6月末で退職となった。実は6月のはじめくらいから、もう縫製作業はぜんぜんしていなくて、最後の3週間くらいはずっと工場の片付けをしていた。何十年も、常時何十人もが働いていた工場なので、たまに大掃除などはしていたものの、蓄積されたものは非常に多く、それを最終的には空っぽにするのだから、大作業だった。加えてこれは縫製工場の閉鎖に工員として立ち会うという貴重な経験の副産物として、売れない、返せない、引き取ってもらえない、捨てるしかない道具や資材は、最終的に持ってけドロボー状態になったので、実にいろいろと持ち帰らせてもらった。糸もテープ類も、ひとりハンドメイドで使う限りは一生持つんじゃないかというほどの量である。とても嬉しい。
 そんなわけで今は、ハローワークや市役所の手続きはもちろん離職票が手に入った当日に早々に済ませたので、さしあたってすることもなく、のんびりと過している。冒頭でも触れたように、なんといっても会社都合退職である。これまで自己都合退職の経験はあるが、会社都合は初めてで(人生にそう何度もあっては困る)、そのふたつはこうも扱いが違うものか、と感動している。失業保険の給付はすぐに始まるし、その期間もとても長い。とはいえ収入としてはもちろんだいぶ目減りする失業中、経験上とても厄介なのが年金と健康保険の支払いだが、これも会社都合の失業の場合は優遇措置がある。ありがたい。会社都合退職、病みつきになりそうだ(危険な思想)。
 もちろん妻子がいるので、そうそう悠長に構えているわけでもない。いちおう職探しも始めている。2月3月のあたりでは漠然と、今度はデスクワークがいいなあと思っていたのだが、緊急事態宣言の日々で世の中のデスクワーカーたちがリモートワークをするさまを見て、家でパソコンでちょちょいっとできる仕事ってなんだよ、と、どうやら隠し持っていたらしい技術職の矜持のようなものが刺激されて、方針を変えた。まあこんなご時世なので、どうしたって選択肢は限られる。決まらないときは決まらないし、決まるときは決まる。会社都合退職のゆとりはあるので、後悔しない選択ができたらいい。
 それにしたってのんびりだ。子どもたちは学校だし、ファルマンも緊急事態宣言中はさっぱりだった仕事が戻ってきているしで、ひとり、やたら自由である。それでも貧乏性なので、料理などの家事をしたり、裁縫をしたり、プールへ行ったりと、漫然と時間だけが過ぎてゆく、なんてことにはならないよう努めている。なにしろ会社都合退職なので、同僚たちも同時にみんなこの状態になっていて、おそらくみんな暇にしているんだと思う。だいぶ前、唐突に平日に休みがあったとき、結局なんにも事は起らなかったが、「この日に一緒に遊べるのは会社の同僚だけだ」と思い、ちょっとジタバタしたりしたけれど、今回はそれのスペシャル版で、互いに時間があり余っているだろう元同僚とは遊びやすいだろう、ということを思う。思うけれど、思うだけだ。新しい生活様式というのが都合のいい言い訳となったが、果たしてこんな時世でなければ工場閉鎖にあたってお別れ飲み会とかがあっただろうか。なかっただろう、という気も普通にする。結局のところ、あまり和気藹々とした職場ではなかったのだと思う。
 そんなわけで、退職や現在の状況について、わりと赤裸々に書いた。近ごろはそこまで暮しに根差したことを書くわけではないが、それでもこのことを書かないと、なんとなくブログのどんな記事も書きづらい感じがあったので、書いておくことにした。再就職が決まったときに、「決まった!」なんてことはたぶん書かないと思う。この日々がいつまで続くのか(あまり短すぎても損をしたような気になるだろうが、長引くと恐怖感が増してくるだろうとも思う)は分からないが、とりあえずもうすぐ屋外プールがオープンするし、夏をエンジョイできたらいいなあと思う。思えば東京で書店員を辞めたのは8年前の7月だった。辞めるとき、島根でロンドンオリンピックをたくさん観るのかなあ、と思ったのを覚えている。結果的にそこまで観なかったけど。期せずして今回の失業もオリンピックイヤーとなった。自国開催ということもあり、今回こそたくさん観られたらいいなあと思う。
 最後、コロナショックとかにさんざん触れておきながら、東京オリンピック延期というニュースだけがすっぽり抜け落ちている人、という最近お気に入りのギャグで話を終わらせてみた次第である。