出雲空港視察

 図書館に行くついでに、出雲空港まで行ってみる。直前に迫った空の旅の、シミュレーションである。飛行機に乗るにあたり、事前に空港に行って心の準備をしておくって、まるで大昔の人のようだなと我ながら思う。
 前回ここを、すなわち飛行機を利用したのは、いつのことだったか。岡山県民だった時代は、いちども飛行機の世話にならずに済んだ。そもそもピイガは生まれてからまだ飛行機に乗ったことがないと考えると、少なくとも8年以上前だ。こんなときは過去のブログを検索すればよい。その結果、2013年の4月であることが判明した。2012年の夏に第一次島根移住生活が始まり、晩秋から春まで酒蔵に勤め、その年季が明けたところで3人で横浜に帰省、というとき(ちなみにこの1ヶ月後の5月に、ピイガを妊娠していることが判明する)。この際、横浜にはなんと5日間も滞在していて、それならば陸路で移動すればよかったんじゃないかと思うが、当時ポルガは2歳3ヶ月であり、7時間あまりの移動は厳しいと判断したのだろう(7時間なんていつでも誰でも厳しいが)。
 よって飛行機は9年ぶりということになる。9年も経つと、前回の搭乗の思い出はほとんど残っておらず、ただ「飛行機=怖い」という、いたずらな恐怖心ばかりが募ってしまう。今回はそれをいくらかでも払拭するために、空港と飛行機を目の当たりにしておくことにしたのだった。今回の出発はわりと朝早くの便で、慌ただしくなりそうなので、駐車場や搭乗口を確認しておくという、実際的な目的ももちろんあった。
 9年ぶりの出雲空港は、行く前に思い出せたわけではないが、行ったら「こうだった、こうだった」の連続で、びっくりするくらいなにも変わっていなかった。商業施設でも、公共施設でも、9年も経てばなんだかんだでいろいろ変化するものだと思うが、そういうのが一切なかった。考えてみたら、牧歌的なダイヤで飛行機が発着する地方空港って、流行りも廃りもなく、ただひたすらに悠然と機能をこなすだけなので、本っ当になんっにも変わる必要がないのだ。ここまで長年なんにも変わらない場所というのも珍しいのではないかと思った。僕はこれまで10回もここを利用したことがないと思うが、それなのに郷愁に駆られた。移り変わりの激しい世の中で、ここの時は止まっているように思えた。ロビーを9年前の我々が歩いていても不思議ではなかった。
 3階の展望デッキに出ると、飛行機が停まっていた。我々が乗る羽田行きではなく、それよりもひと回り小さい機体の大阪行きだったが、20分後くらいに出発するというので、待って離陸の瞬間を見学することにした。滑走路を眺めると、出雲空港は本当に広々とした場所に、のっぺりと存在していて、周囲に高い建物など一切なく、たぶんパイロットにとってはとても操縦しやすい空港であるに違いない、と思った(冬は気候が荒れるので別だが)。それをファルマンに言ったら、「でも鳥が突っ込んでくるかもよ」などという言葉が返ってきたので、頭に来た。出雲空港は宍道湖のほとりにあり、そして宍道湖の水鳥はラムサール条約によって丁重に守られているのだ。そういうことを思い出させるんじゃないよ。
 タラップや牽引車から引き離された飛行機は、やがて自力で動き始める。飛行機の巨大な機体を支えるにしては、3つの車輪はあまりにも矮小のような気がして、特に先端のひとつには過度な力がかかってしまっているのではないか、と見ていて思った。なにしろ着陸の時、あれはまず地面に着く所だろう。そのわりに頼りなくないか、とやきもきする。動き始めた飛行機は、滑走路の端までやってくると、くるりと旋回する。羽田空港などだと、この動き始めから、「滑走路に入る順番待ち」の時間が長かったりして、ハラハラの時間が長引いて精神が削られたりするが、出雲空港ではそんなことはない。周囲からのプレッシャーもなく、パイロットも平静な気持ちで運転ができるに違いないと思う。旋回してから再び動き出すと、それはもう離陸のための走行であり、轟音とともにすぐに猛スピードとなり、機体は進む。そして右から左へ、展望デッキの我々の前を通り過ぎたと思ったら、ス、と、フワ、と飛行機は空中に持ち上がって、そのまま斜めに飛んでいった。やはり見れば見るほど、このス、フワ、の瞬間が分からない。すごい勢いなのは分かる。分かるが、なぜ上に行くのか。翼をはためかせているのならまだしも、そのままの形で上がるのだ。どういう理屈なのか。やっぱり嘘なんじゃないのか、と思う。
 実際に見たことで、心構えができたのかどうなのか、自分でもよく分からなかった。これまでの恐怖心とは少し違う心理になったような気はした。ではどんな心理かと言えば、釈然としない気持ちだ。飛行機が飛ぶのは、見れば見るほど納得がいかない。納得がいかないまま、数日後には機上の人となる。まあ、世の中は、納得のいかないことばかりだけどさ。

 ここで巻末付録として、8年前に飛行機に乗った際の記事を引用しておく。
 まずは行き(「USP」2013年4月8日)。
 搭乗口の待機場所のガラス越しに、これから乗る飛行機が見えて、操縦席のパイロットが、子どもたちが手を振るのに応えて手を振っていて、(いいパイロットさんのようだ)と感じると同時に、(しかし伏線ではないのか)とも思った。普段はパイロットの実存なんて気にするものではないのだ。それが今回に限って存在を主張してきたことに、自分たちは「あのパイロット」によってひどい目に遭わされることになるのではないか、と思った。飛行機に乗る前ってなにもかもが伏線のような気がしてくる。
 そして乗った9ヶ月ぶりの飛行機は、相変わらずおそろしかった。今回思ったのは、そのタイミングしかないのは分かるけれど、あの僕がいちばん嫌いな、離陸の時の、車輪がそろそろと動き出して、滑走路まで移動し、飛行機が本気を出し、ボバーッと前方に向けて突進を始めるあの瞬間、あの瞬間に、モニターで緊急の際の対応についてやるのはいかがなものか、ということだ。離陸してからでは遅いので、本当にあの時しかないんだろうけど、でもやっぱりちょっと悪意がある気がしてならない。さらされている状況だけで十分にエマージェンシーなのに、そこへエマージェンシーな映像が画面に展開されるのだから、心拍数は一気に上昇し、取り乱し、もうダメだ、という気分になる。
 飛び立つ瞬間、僕の体は左斜め前方の虚空に向けて引き攣りつつ伸びていたという。「なんだったの、あのポーズ?」とあとからファルマンに訊かれたが、僕がああしないと離陸がままならなかったのだ、と正直に答えたところで信じてもらえないだろうから、「ははは……」と力なく笑うにとどめた。離陸して、シートベルト着用のランプが消えてからも油断はできず、高度が増していることを思えば危険性が増していることは間違いなく、少しの揺れに、すわ「これまでの航空史上で確認されたことのないレベルの突風」か、そもそも天気予報があれほど当たらないのにどうして航路の気流が問題ないかどうか分かるというのか、と絶望的な気持ちになるが、顔を見上げるとCAさんたちが何事もなかったように飲み物を配っているし、乗客の誰もパニックを起こしていないので、仕方なくそのたびに平静を装う。飛行機は斯様に敏感な人間ばかりが損をする乗り物だ。高度何千メートルという状況にあって危機感を抱かないなんて、動物としての正常な感覚が鈍磨してしまっているんだと思う。そんな中でポルガの無邪気さが切なかった。自分はなんという不憫な状況下に大事な娘を置いてしまっているのか、と思った。親のエゴで。
 ちなみに9ヶ月前とは較べものにならない2歳児のやかましさを、飛行機に乗る前は危惧していたのだけど、乗ってみたら飛行機は割とずっとゴーッとうるさくて、2歳児が少々わめこうが周りに音が響くようなことはなかったのだった。よかった。かくして飛行機は無事に羽田空港に着陸した。着陸した瞬間、ああ、僕の人生はもうちょっと継続するのだ、と思った。帰りにも乗るので、あと5日は継続するほうのパターンだ。その5日間をせいぜい悔いの残らないように生きよう、と思った。
 続いて帰り(「USP」2013年4月12日)。
 そして飛行機に乗り込む。行きの飛行機よりも大きい機体のようで、「大きい機体は揺れが少ないよ」とファルマンが甘い囁きをする。それでもやっぱり走り出し、ディスプレイで非常時の身の振り方を伝え出し、やがて体が上斜めに向かう不自然な状態になると、後悔した。飛行機が飛ぶといっつも後悔する。飛ぶ前は、せっかく地に足がついていて、死の危険とは縁のない状態だったのに、みすみす落ちたら死ぬ状態に身を置いてしまった、という後悔だ。置かなければ済む話だったのに、なんで置いてしまったんだ、といつも失敗した気持ちになる。こんなことを思ってしまうのは、基本的に乗客は座っているだけで、気持ちに余裕があるからで、恐怖はこの余裕につけ込んでくるのだ。なにか他のことに集中しようと、吉祥寺のブックオフで買ったグルメ雑誌の、駅弁特集のページを必死になって眺め、「ごはんに刻んだ胡桃が混ぜ込んであり意外な食感が愉しめる」などと書いてあるのを、ごはんに胡桃はどうなんだろう、と思ったりするのだけど、それで救われるのは全体の1割くらいで、やはりまだまだ余裕があってしまい、恐怖を感じることができてしまう。それで思ったのだけど、こんな僕みたいな人間のために、株主総会における総会屋のような感じで、そちら側の人を雇って乗せ、飛行機に乗っている間、その人が僕のことをさんざん怒鳴りつけていればいいんじゃないだろうか。そんな事態に陥れば、飛行機の恐怖感がだいぶ薄れる気がする。だけど到着後、心底くたくただろうな。あるいは気絶させ屋(しめ技の達人とか)ということになるけれど、しかし死の恐怖を味わいたいわけではないが、いざ飛行機が墜落するとなったとき、意識がなく眠ったまま死ぬというのはやはり嫌なので、やはり怒り屋のほうがいい気がする。怒り屋。だめだこりゃ。こんなくだらないジョークを言ってしまうのも仕方ないくらいに、山陰の飛行機って本当に怖いのだ。今回も中国地方に入り、高度を下げるため厚い雲を抜けようとするあたりで、ファルマンでも「わあっ」と声を上げてしまうほどの揺れがあったのだ。本当に信じられない。山陰地方信じられない。山で隔てられているせいで陸路が不便なくせに、空路もこんなんで、一体なにを考えているの、と思う。山陰地方がまるごと天の岩戸なのかもしれないね。しれないよ。
 それでもこうしてこのことをブログに書けているということは、飛行機はなんとか無事に着陸したのである。たぶん、いつか「飛行機が嫌だった話」が書けず終いのときが来るのだろうな、と思う。 
 

 

広島旅行2022浅春 ~39歳の目覚め~

 日付が変わってファルマンの誕生日になった、その1時間後あたり、ファルマンは物音で目を覚ましたという。それは隣室から聞こえてきているようで、はじめはなんなのか判らなかったが、繰り返される一定のリズムの正体に、ファルマンはやがて思い至ったという。そしてリズムは次第にペースを上げ、やがてフィニッシュを迎えたそうだ。ファルマン、39歳になって最初に起った出来事がこれ。これからの1年間を暗示しているのだろうか。
 そのめっちゃおもしろい事態の間、ぐっすり眠っていた僕は、いつものように6時過ぎに目を覚まし、家族を起こさぬよう準備をして、朝風呂に向かった。気持ちがよかった。とてもいい目覚めだった。ドーミーインを心ゆくまで堪能した。
 チェックアウト後は、ビル街の中を車で進み、広島城へとやってきた。そっち方面は本当に詳しくないので、広島に城があるなんてこれまで知らなかった。ならばなぜ来たかと言えば、ポルガが、今年の初詣から御朱印帳を始めたことで神社や城に興味を持ち始めたため、広島城で御城印をもらう(買う)というイベントが旅行に組み込まれたのだった。ちなみにもちろん昨日の厳島神社でも御朱印を書いてもらっていた。
 案内された少し遠い市営駐車場に車を停め、歩いていくと、広島城のお膝元には、広島護国神社という神社があり、桜がちょうど満開の晴れた大安の日曜日ということもあって、お宮参りやら祈祷やらの人々でとても賑わっていた。なんならあとでこちらでも御朱印をもらおうと話しながら、まずは広島城へと入城する。中は5階建てくらいで、当時の文化や道具などが紹介される、博物館のようになっていた。最上階の天守閣では、建物の外側に設置された通路で360度を見渡すことができ、なかなかいい景色だった(もっと高い建物が周りにあったけど)。昨日行った宮島も見えた。城を出たあとで、やはり護国神社にも立ち寄り、参拝したり、御朱印をもらったりした。つまり今回の広島旅行で、ポルガは新たに3枚分をゲットしたのだった。御朱印帳、なるほどコレクター心というか、スタンプラリー心というか、そういったところを刺激されてなかなか愉しそうだ。ただ旅行するより、旅行先のそういうのを目的にすると、より面白みが増すだろうと思う。
 広島城からは、歩いて次の目的地、原爆ドームや平和記念公園のエリアへと向かう。幸いなことに、このあたりは徒歩圏内なのである。ちょっと歩いて、大きな道を渡ると、すぐ目の前に原爆ドームがあった。たぶん子どもの頃も見て、修学旅行では確実に見て、そのためおそらく3回目になると思うが、やはり迫力があり、そこだけ空気の質が違っているような気がした。世界遺産であり、有名スポットだが、観光地と無邪気に言うわけにもいかず、子どもらを前に立たせて写真というのもどこか違う気がして、ふむー、と粛々とした気持ちでしばし眺め、先に進んだ。先には平和記念公園があって、花見客でとても賑わっている様子だった。平和記念公園って8月15日の式典でしか見ないので、いつもあんなふうな、かしこまった空間なのかと思っていたが、街の中にある公園として、明るく利用されているようで、なんだかホッとした。なにしろ平和を記念する公園である。平和ならば平和に使えばいいのだ。いま世の中が平和なのかと言えば、あまりそんなこともないけれども。
 園内では大勢の人が、ベンチに座ったり芝生に腰を下ろしたりして、酒を飲んだり食事をしたりしていたので、わが家もここで昼ごはんを食べることにした。公園からの脇道にセブンイレブンが見えたので、お弁当でも買おうかと歩みを進めたところ、松屋の袋を提げている人とすれ違い、松屋があるのか! と色めき立ち、松屋に方針転換した。広島まで来てなぜ松屋、という話だが、実は島根県どころの話ではなく、山陰地方には松屋がないのだ。そのため松屋は十分に、旅先でしか味わえないグルメの要件を満たすのだった。セブンイレブンの向かいには、広島風お好み焼きの店が行列を作っていたが、そんなものには目もくれず、松屋を探し求めて歩く。セブンイレブンの奥には、予想外の商店街が続いていた。阿佐ヶ谷パールセンターを連想するような、この商店街の感じが、やっぱり都会なのだと思った。いろいろな店があり、歩いているだけでおもしろかった。そしてしばらく進んだところで無事に松屋を発見し、牛めし弁当などを買い込む。嬉しい。ほくほくした気持ちで平和記念公園へと戻り、花壇の前のブロックに場所を確保して、食べた。おいしかった。松屋は、一時期(書店員時代だ)あまりにも食べ過ぎて食べられなくなった時期があったが、たぶん僕は牛丼3大チェーンの中で、本当は松屋がいちばん好きなのだ。数年ぶりに食べて、そのことを再認識した。でも山陰にはないのだ。もしかするとそれもまた美味しさの一助になっているのかもしれないとも思う。松屋はおいしく、春の陽気がぽかぽかと暖かく(昨日は実はわりと寒かった)、桜は満開で、とても心地よい時間だった。4月3日はいつもわりと桜が満開で、ファルマンは柄にもなく溌溂として朗らかな、とてもいい時期に生まれたものだと、毎年思う。印象深い39歳の誕生日になったのではないかと思う。
 腹ごしらえをしたあとで、平和記念公園の平和記念公園たる部分を見て回る。原爆ドームほどのピリピリした感じはないにせよ、やはりここもまた、それなりに粛々と受け止めた。原爆資料館へは、入らなかった。修学旅行の代替として来ているので、行くべきなのかもしれなかったが、しかしながらここは、家族と離れ離れの状況で見るべきものなんじゃないかという気もした。原爆資料館を見て、家に帰ったら、原爆資料館を一緒に見たわけではない家族がいるから救われるという、ここはそういう場所だと思った。だから一家で入るわけにはいかなかった。ピイガが修学旅行をする頃には、さすがに県外に行けるだろうから、ピイガはその時に見ることになるのではないかと思う。
 広島旅行の行程はこれでおしまい。宮島、広島城、原爆ドーム、平和記念公園と、とてもオーソドックスに広島の要所を拾った1泊2日であった。大成功と言っていいのではないかと思う。家族旅行はやっぱり愉しいな。しかし鳥取と広島をやってしまったので、次の目的地の当てがない。車で行けて、1泊2日の範囲がいいなと思うが、岡山に行ってもしょうがないし、山口はどうも食指が動かない。いっそ移動を少しがんばって福岡か? いよいよ九州バージン喪失か? とも思うが、福岡はやろうと思うといろいろ大変そうだとも思う。まあどちらにせよしばらく先だ。11月の鳥取は、秋からのレジャーの集大成だったが、今回の広島は、いわばレジャー時期の幕開けを告げる鐘だ。これからは公園やプールや海など、近隣の大自然を堪能しようと思う。

広島旅行2022浅春 ~日本シリーズとたけしと開幕と三谷幸喜~

 広島市街は都会だった。さすがは中国地方最大だと思った。ビル街のような風景を、とても久しぶりに見た気がした。島根でいちばん栄えているのはどうしたって松江ということになるが、松江にビル街はない。おらの県にはビル街がないのだ。そして中心部のビル街から少し抜けると、島根ではとても見かけないような大規模のマンション群もあり、人口の多さ、すなわち力強さを痛感した。横浜市の中学生時代、広島に来てもそんなことはまるで感じなかった。ビルに気圧されたりなんて全然しなかった。それはそうだろう。逆に、20代前半に初めて島根に来たとき、その田舎っぷりに大きなショックを受けたものだ。隔世の感があるな。
 ホテルはドーミーインの、去年の11月にできたという、新しいほう。泊まる場所は、前回の鳥取もだったが、「サウナイキタイ」から探すスタイルで、オーシャンのような愉しそうな場所はなかったけれど、ドーミーインならまず間違いなかった。なんてったってコスパだ。おとなひとりの宿泊料が安い上に、子どもの添い寝は無料とのことで、とても安く上がった。半月前でこのプランが取れたのは、この週末に広島でカープの試合がなかったことも関係しているんだろうと思う。建物も部屋も新しくきれいで、とてもよかった。
 晩ごはんを食べる前に、お風呂を済ませることにする。お風呂は14階にある。14階のお風呂で、露天もあるというので、どんな光景だろうと期待していたが、大都会広島には14階よりも高い建物がたくさんあるため、そこまで開放的な作りであるはずもなかった。オーシャンの、2階のテラスから無人の海に向かって外気浴、というほうが異常なのだ。18時になったばかりくらいの大浴場は人が少なく、快適だった。女風呂のファルマンたちに至っては貸し切りだったそうで、なにぶん子どもたちはちょこまかと動いていつもハラハラさせられるので、他者に気兼ねしなくてよかったのはとてもよかったという。オーシャンでは、入浴後ファルマンは不機嫌になっていたため、それがなかったのはありがたかった。サウナにも少しだけ入り、コンパクトに1セットこなしたが、空腹もあり、家族との兼ね合いもあり、本格的に入るのはまた夜にすることとして、素早く上がる。打ち合わせをしたわけではなかったが、ちょうど同じようなタイミングで出てきたので、みんなでサービスのアイスをもらって部屋に戻った。
 部屋で夕飯のスシローを食べる。一応ビジネスホテルなので大きいテーブルがあるわけではなく、少々食べづらかったが、鮨なのでなんとかなった。おいしかった。冷蔵庫で冷やしておいたアサヒのジョッキ生が、涙が出るほどにおいしかった。お風呂に入って、鮨を喰って、ビールを飲んで、家族がいて、すぐ横にはベッドがあって、くっつけたふたつのベッドで今晩は旅先で4人で寝るのだと思うと、寝不足と疲労によってすぐに襲ってきた酩酊感と眠気もあり、ふわふわと夢心地のような幸福感があった。
 鮨だけでだいぶお腹がいっぱいになったが、ドーミーインと言えば夜鳴きそばということで、時間になるのを待って、食べにいく。もちろん人数分はもらわない。そんなに喰えない。だけどおいしかった。話には聞いていたが、ドーミーインは本当に至れり尽くせりだな、と思った。
 それから子どもたちは就寝するので、僕はひとりで大浴場に向かった。ここで本格的にサウナを堪能するつもりだったが、いかんせん満腹感やら疲労感やら眠気やらで、もたなかった。行くだけ行ったが、今回もさっきと同じくらいの小上がりで終えた。人は、夕方よりは多少増えていたが、それでもそんなに多くなかった。オーシャンは大賑わいだったな、とあの日のことを思い出した。あの晩は、日本シリーズ、ヤクルト対オリックスの初戦で、狭くないサウナに、詰めるように大勢で入り、試合を眺めたのだった。懐かしい。愉しかった。あれからちょうど1週間後の土曜日に、ヤクルトが4勝目を挙げ、シリーズは終了した。そしてその試合が長引いたことで、「ニュース7Days」の放送開始が大幅に遅れ、それがきっかけとなってビートたけしが体力の減退を理由に番組を降りることとなり、そして今年のペナントレースが始まって1週間後のこの日の夜が、たけしに代わって三谷幸喜が新キャスターとなった新体制の放送初日なのだった。そのあたりのことが妙に印象深かったので、こうしてここに書き残しておいた。三谷幸喜は、思っていたよりも当たり障りなくやっていた。生のニュース番組でボケたりジョークを言ったりするのは難しいだろうな。
 風呂から出て、部屋に戻ったあとは、すぐに寝た。日付が変わればファルマンの誕生日だが、そこまで起きていられるはずもなかった。子どもたちもわりとすぐに寝た。シングルサイズのベッドふたつだが、合体させたら4人で寝てもそう狭く感じなかった。全体的に、細目で小さ目な4人なのだ。深く寝た。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~ファルマン38歳最後の叫び~

 宮島から本州に戻ったあと、ホテルに直行するにはまだわりと時間があった。たぶんそうなるだろうと思いつつ、しかし宮島に予想外に長居する可能性もなくはなかったので、この間の計画はふんわりとしていた。眼鏡を新調したいという思いがずっと燻っていて、しかしながら島根で見る店ではこれぞというものに出会えず、今の眼鏡を作った倉敷のアウトレットのゾフにいつか行く日までは耐えるしかないか、と思っているのだが、もしやと思って事前に検索したところ、広島市街から少しだけ外れた所にある、イオンが経営するというジ・アウトレットという施設に、ゾフが入っているのを発見し、ワンチャンそこへ行くのもありなんじゃないかと目論んでいたのだが、いざ家族旅行に身を置いてみると、自分の眼鏡のためだけに、妻子はたぶんまるで魅力を感じないだろうアウトレットモール行きを断行するのは、間違いなくいい結果をもたらさないと判断し、あきらめた。あきらめて、かなりホテルまでの通り道といってもいい立地なので、おそらく時間が余った場合はここに立ち寄るのが現実的だろうと考えていた、マリーナホップという商業施設に赴いた。海沿いの、埋め立て地に作られた施設で、どうも正直あまり盛り上がっていないらしく(2025年に解体予定だそう)、入っている店もあまり聞いたことがない、縁のないものばかりなのだが、ここの一角にマリホサーカスと銘打って、小さい子向けのミニ遊園地があるというので、それ目的で参った次第である。1回300円くらいで、すべての冠にミニがつくような、ジェットコースターやバイキング、ディズニーランドで言うところの空飛ぶダンボみたいな乗り物に乗れて、なにぶん遊園地のない島根県の子どもたちなので、これでも目にした瞬間、十分にワクワクした様子だった。子どもたちは、急流すべりという、流れる水の上を進む乗り物と、あとファルマンと3人でジェットコースターに乗った。


 ファルマンは3人の貸し切りだったジェットコースターで大きな悲鳴を上げていた。たぶん大の大人が悲鳴を上げるようなジェットコースターでは決してないのだが、そんなジェットコースターでさえ断固として乗るのを拒んだ僕がそれについてとやかく言う筋合いもない。ちょうど前回の鳥取の、子どもの国のゴーカートを踏襲するような動きとなり、いい具合に愉しんで時間を調整することができた。
 それから車はちゃんと都会の広島市街の中心部へと突入し、スーパーに寄り道して(駐車券があった!)酒など買い込み、さらにはこれも前回と同じ、夕食としてのスシローの、予約しておいたものを受け取って、ホテルへと無事に到着した。土地勘のまったくない広島において、それなりに入念な準備をして、うまく立ち回ったものだと思う。もっと家族から褒められてもいいと思うので、ここで僕自身が褒めておく。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~宮島のログポース~

 唐揚げの匂いに反応したのかなんなのか、鹿たちの食いつきたるや、とんでもなかった。宮島の鹿には食べ物を与えてはならず、鹿せんべいのようなものも販売していなくて、ということはどこかできちんと餌が与えられているはずで、そっちの心配がないからこの鹿たちはこんなにも超然とした面持ちで、悠然と人ごみの中を闊歩しているのだろうと思っていたのだが、お弁当を広げる様子を見せるやいなや、顔は相変わらずの超然顔のまま、わらわらと湧き立つように無数の鹿が姿を現し、われわれ一家の座るベンチを取り囲んだのだった。本当に囲まれたので、囲まれた図というものを写真に撮ることはできなかった。公園内にいた他の人たちが、鹿が群がる様子をおもしろがってスマホを構えていたので、「宮島の鹿に取り囲まれてる一家がいたんだがwww」としてネットにアップされているかもしれない。
 もちろんお弁当はとても食べられるはずもなく、早々に避難する。登ってきたのとは別の口から、傾斜になっている公園を下ってゆくと、要所要所にベンチや東屋が設置されていたので、近くに鹿がいないのを確認して、「ここならいいだろう」と腰を下ろし、お弁当を広げた。すると、ぬ、と、本当に空気中の粒が結合して発生するかのように鹿が音もなく現れ、たまらず退散、ということをさらに2回繰り返した。鹿、がつがつした素振りは一切見せないが、飄飄と執拗だった。飄飄と執拗。これを鹿のキャッチコピーとしよう。
 仕方なく公園での食事はあきらめ、厳島神社に向かって歩いた道に再び出て、海に向かって備えられたベンチを確保し、そこで食べた。ここにも鹿はいたが、なにぶん人が多いので、こちらに殺到してくるということはなかった。自然の中だと鹿が強すぎた。
 腹ごしらえをしたあとは、おみやげを物色する。子どもたちはばあば(義母)から、広島で好きなものを買ってね、という小遣いを受け取っていた。いろいろな店を眺め、ポルガは厳島神社の鳥居の形をしたお守り、ピイガは鹿のかわいらしい置き物を買っていた。僕はなんといってももみじまんじゅうだ。もみじまんじゅう、叔父が出張で横浜の家に来るたびに手みやげで持ってきたので、小学生の頃はよく食べていた。僕があんこに関し、極度のこしあん派であるのは、たぶんもみじまんじゅうの影響だろうと思う。とにかくこしあんのもみじまんじゅうが好きだった。ところがある時期から、もみじまんじゅうの中身にバリエーションが生まれ、叔父はそのアソートセットのようなものを持ってくるようになり、それにはつぶあんだのチョコレートだの、食指が動かないものが多く入り、その分こしあんが少なくなっていたため、忸怩たる思いを抱いた。さらにそのあと、もはやもみじまんじゅうでさえない、桐葉菓というものを持ってくるようになり、いよいよ僕ともみじまんじゅうの縁は遠のいたのだった。しかしながら、とうとう宮島にやってきたのである。懐かしのもみじまんじゅうを、思う存分に自由に買えばいいのだ。というわけで、こしあんだけの時代、叔父がよく持ってきてくれた、やまだ屋で、1個ずつで売っているのを、こしあんを中心に、熟考の末に選んで買った。抹茶や、期間限定の桜もち風というのも買った。


 しかし買って、帰りのフェリーに乗ったあたりで、(あれ、もしかして、桐葉菓がやまだ屋なだけで、俺が子どもの頃にいちばん好きで食べてたメーカーって、にしき堂じゃなかったっけ……)ということが頭をよぎった。やまだ屋のそれが、記憶のそれとパッケージがぜんぜん違うのは分かっていたが、しかしそれは時代によるものだろうと解釈していた。しかし思えば思うほど、やまだ屋じゃなくてにしき堂のような気がしてくるのだった。そのあとインターネットでちゃんと調べたところ、やまだ屋でもにしき堂でもなく、藤い屋だった。なんじゃそりゃ。もっとちゃんと下調べしてから臨めばよかったな。とはいえやまだ屋のももちろんおいしかったし、別に藤い屋の味を覚えているわけでもない。というか、たぶんほとんどのもみじまんじゅう、そう味に違いはない。そもそも味にそうそう違いの出るような菓子ではない。
 まあそんな宮島探訪であった。とにかく鹿がおもしろい島だった。うさぎの大久野島、鹿の宮島と、広島の島はキャラが立ってるな。ワンピースみたいだな、と思う。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~鹿~

 実は今回の広島旅行を計画するまで、宮島のことをあまり把握していなかった。本当に海に浮かんでいるほうの島ではなく、児島とか水島とか、それこそ広島とかの、かつては島だったのかもしれないけど今はもう本州の一部みたいな、そういう類の地名かと思っていた。厳島神社が海上にあるというのは知っていたのだけど、つまり広島市の浅瀬にあるのだろうと勝手に解釈していた。ガイドブックを見たらしっかりと島だったので驚いた。
 フェリーで近づくと、島はだいぶ大きかった。大久野島より大きいのはもちろん、直島よりも実は大きいのだ。ちなみに宮島というのは通称で、お宮、すなわち厳島神社があるから宮島と呼ばれるだけで、正式には厳島だという。そして厳島神社の印象がとにかく強いものだから、神の島的な、文字通り厳かな、閉鎖的な空間のようなイメージが浮かびがちだが、島内には小中学校もあり、水族館もあり、商店街もあり、とにかくなんだか一筋縄ではいかない島なのだった。
 船着き場から出て、右に向かう。左方面は普通の町ゾーンのようだった。歩いて少しすると、海のそばに平清盛の像が建っていた。厳島神社と言えば平清盛。さも詳しい人のように言ってみたが、もちろんそれも今回ガイドブックで知った。「鎌倉殿の13人」では、先々週あたりに病死していて意外だった。なんか昔の読み物では、平清盛は義経の進撃に顔を真っ赤にして怒る、みたいな場面があったような気がするが、記憶違いだろうか。とりあえず娘らを隣に立たせて写真を撮った。
 それからさらに進むと、厳島神社までの道はひたすら観光地の賑わいで、みやげ物屋やら屋台やら人力車やらの風景が広がる。その喧騒の中に、ひょいと鹿がいた。宮島には鹿がいるということは当然ガイドブックで読んでいたが、本当にこんなにもひょいといるのかとびっくりした。そして鹿は、がやがやとした人間界のざわめきなど完全に遠い世界の出来事であるかのように、やけにきれいな無表情で、超然と歩いていた。厳島は言うほど厳かな島ではないな、と思っていたのが、この鹿の登場によって覆された。やっぱりすごい島なのかもしれない、と思った。
 数頭の鹿とすれ違いながらさらに進むと、右手の海上に例の鳥居が見えてきた。あの有名なやつである。実はフェリーからも見えた。しかし鳥居はいま、と言っても数年も前から改修工事中で、灰色の覆いが掛けられているのだった。まあそれは残念は残念なのだろうが、改修工事の終了時期は未定とのことで、待ってもいられないので仕方がなかった。
 入場料を払って入った厳島神社は、まあまあさらっと通り過ぎた。神社って、本尊みたいなものがあるわけではないので、いざ行ってみると結構さらっと終わる。とはいえ世界遺産である。世界遺産。世界遺産だからってとんでもなく見応えがわるわけではない。ちなみに潮の満ち引きによって、厳島神社のエリアから完全に水が干上がるタイミングもあるそうで、そうなるとたぶんさらに見どころはなくなる。幸いこの日の満潮は午前10時半で、その1時間後くらいだったので、まあまあいいタイミングだったろう。


 神社を見終えたあとは、お腹が空いたのでお弁当タイムにする。今回もちゃんと早起きして拵えてきた。さてどこで食べようかと地図を探り、弥山という山の頂上まで行くつもりはないが、その中腹、もとい麓らへんにある公園で食べようじゃないかと、みやげ物屋の商店街を抜け、坂を上り、目的地に到着する。宮島と言えばなんといってももみじで、だから紅葉の季節が1年のピークなのだろうが、公園には満開の桜が咲き誇っていて、なかなかどうして、宮島で桜というのもオツじゃないか、と思った。いい具合のベンチもあり、それではここで昼ごはんをいただくことにしようと、荷解きを始めたそのときである。


 ぬ、と厳かに現れたのだった。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~トラウマと思い出と深層心理~ 

 去年11月の鳥取旅行の成功に味を占め、また旅行をしてきた。今回の目的地は広島である。
 鳥取の次は広島だな、ということは前回の旅行が終わってすぐの頃から考えていて、しかし春から6年生となるポルガが、5月だか6月だかに修学旅行で広島に行くらしいので、それとあまり時期的に近すぎるのもちょっとなあ、などと逡巡していたところへ、このたびの第6波によって、修学旅行の行先はあえなく県内に変更されたため、なんの障害もなく広島への家族旅行が決行された。日取りは最初、4月の後半あたりで考えていたが、各人の予定であったり、GWとの兼ね合いであったりの理由からだいぶ早まり、4月2日3日となった。ホテルの予約を取る作業をしたのが3月中旬のことだったので、決めてから本番までが本当に早かった。
 でも結果として、これはとてもいい日取りだった。子どもたちが春休み中なので疲労に関して気兼ねをしなくていいし、なにより2日目がファルマンの誕生日である。誕生日に旅行をしているなんて、なかなかやろうと思ってできることではない。
 天候は、1週間前の週間予報では、広島に雨マークがあって戦々恐々としたが、2日前くらいになると掻き消え、心配なくなった。逆のパターンも往々にしてあるが、1週間前の週間予報って本当に意味がないな。目安にさえならない。
 土曜日は朝早くに出発する。張り切るあまり、僕もポルガも早く起きすぎて、ファルマンを怒らせた。愉しみなことがあると、どうしても早く目が覚めてしまう。その点ファルマンはすごい。どんなイベントが待ち受けていようと、「自分は朝が弱いのだ、朝はなるべくなら起きたくないのだ」というスタンスを崩さない。貫いているな、とも思うが、もしかするとこの人はこの世のなんにもそれほど愉しみじゃないのかもしれない、そういう人なのかもしれない、とも思う。
 道のりは、三次までは、岡山との行き来と同じやまなみ街道で、そこからざっくり言うと、右下(南東)に行けば尾道福山岡山方面で、左下(南西)に行けば広島方面である。これまではひたすら右下方面、すなわち尾道線にばかり進んでいたわけだが(それももうだいぶ久しいが)、しかし左下方面が未知の領域かと言うと実は違って、2019年の夏に僕は、義父母と義弟と4人でカープの試合観戦という行為をしており、義父の運転であったが広島へ行くこの道は使ったことがあった。今回運転をしていて、サービスエリアなどを目にし、そのときの記憶がよみがえってきて、トラウマを刺激された。あの日は本当につらかったな。僕の今生の野球観戦が終了した日。あの日の思い出を上書きするために、広島でたくさんいい思い出を作ろうと思った。
 最初の目的地は宮島である。ちなみに僕はこれまで、たぶん4回広島(市街)に来たことがあって、最初は子どもの頃、母と姉と3人で、叔父を訪ねついでに家族旅行、次は中学の修学旅行、そしてその次があの野球観戦で、宮島に関しては、修学旅行では来なかったし、子どもの頃の家族旅行に関しては、来たという記憶だけはあるが、自分が何歳くらいの頃でどんな場所を巡ったのかはさっぱり覚えていないため、行ったことがあるかどうか定かでない。なんなら母に訊ねればいいではないかという話なのだが、この旅行の数日前、向こうから簡素なLINEが来た折に、「こんど広島に行くけれども、そちらの面々は、見てきてほしい場所や買ってきてほしいものなどあるか」と、問いかけたところ、あまりにも見事に既読スルーされたので、もういいやとなった。ちなみにわが家は、僕が生まれる前、まだ姉しかいなかった時代、父の赴任先が広島だったので2年くらい居住していたり、叔父はなんといっても大学時代からおととしくらいまで、40年くらい広島で生活をしていたし、祖母も一時期まで叔父の面倒を見に(なのかなんなのかよく分からないが)1年のうちの何ヶ月かは広島で暮らす、みたいな感じだったので、広島とは実はだいぶ縁深いのだ。そのことを思い、親切心から問いかけてやったのに、本当に見事な既読スルーであった。
 というわけで、初めてなのか2度目なのかは不明だが、宮島である。事前の下調べ通り、宮島口駅近くの駐車場に車を停めて、フェリー乗り場まで歩いた。世界遺産である厳島神社を擁する宮島だが、宮島口駅近くには立派なボートレース場が鎮座していて、わりと殺伐としていた。そこまで長くないこの道中で、歩きたばこのおっさんと、ふたりも擦れ違った。ただでさえ喫煙に厳しいご時世の上にコロナ禍で、近ごろはいよいよ歩きたばこになんて遭遇せずに暮しているので、とてもびっくりした。
 フェリーはふたつの会社が、少し時間をずらして、頻繁に行き来しているようで、待ち時間も混雑もなく、スムーズだった。フェリーは、やはり瀬戸内海の、直島に行ったときと、大久野島に行ったときにも乗って、それ以来で、果たしてそれらはどっちが先でどっちが後だったっけ、と迷ったが、直島が2014年8月大久野島が2017年3月と、迷うのがおかしいくらい時期が離れていた。前者なんて、ピイガがまだ生後7ヶ月ということではないか。なぜ迷ったのか。やはり深層心理で、ピイガのことをずっと1歳児くらいで扱っているからかもしれない。


 まさか柵から体がはみ出されるはずもないのだが、船がかき混ぜる水面がおもしろいのか、真下を覗き込もうとするピイガの様子に、少しヒヤヒヤした。そういえば。いまこうして書いていて思い出した。子どもの頃の記憶で、乗っている船の進行によって泡立つ水面を眺め、母親に「洗剤を使っているの?」と訊ね、「洗剤なんて使うわけないでしょう」と笑われたことがあった。あれってもしかして、もしかしてもしかして、宮島行のフェリーか? じゃあ訊ねろよ、という話なのだが、まあ訊ねない。でもそんな気がしてきた。他に僕が船に乗る機会があったかな、と思うし。
 ちなみに船上は寒かった。地熱がない上に、実際この日はかなり冷え込んだのだ。われわれ3人もわりと肌寒く感じたほどだったので、ファルマンは凍えていた。別にこの旅行の要旨がファルマンのバースデイ接待というわけではないが、起床の不愉快に加えて寒さまで加わり、うっすらと暗雲が立ち込めながら、船は一路宮島へと向かうのだった。
 つづく。