鳥取旅行2021晩秋 ~地獄と天国の砂丘~

 旅行する。1泊2日の家族旅行である。帰省以外の、家族水入らずの旅行は、実はこれが初めてだ。
 目的地は鳥取砂丘。鳥取砂丘って中国地方に縁などなかった時代から気になるスポットだったが、岡山からも島根からも、近くて遠く、日帰りもできないことはないのだが、なんとなく踏ん切りがつかない距離感で、これまでずっと行けずにいた。それが今回、子どもも大きくなったし、車も長距離移動がしやすいものになったし、レジャー欲の高まりもあるし、後述するがキャンペーン特典もあったりで、いよいよ機が熟した感、今しかない感が極まり、ようやく念願が果たせた次第である。
 土曜日の朝に家を出発する。子どもたちも今回のイベントをとても愉しみにし、この1週間はせっせとオリジナルのしおりを作ったりしていた。誰の影響であろうか。天候は、1週間前には日曜日に雨マークがついていて戦々恐々としたが、当日が近づくにつれて、週間予報としては珍しいことに予報が後ろにずれて、土日はなんとか持ちそうな情勢になった。子どもたちがてるてる坊主を作った成果かもしれない。2021年でも子どもはてるてる坊主を作る。
 行きは高速道路を使い、一路鳥取砂丘を目指す。鳥取砂丘は、島根県と同様に横に長い鳥取県の右端にあるため、その道程はまさに横断である。ちなみに考えてみたら、そもそも僕は鳥取県に足を踏み入れるのが、特急やくもに乗って通り過ぎるのをノーカウントとしたら、実は今回が初めてのことなのだった。岡山にしろ島根にしろ、長らく鳥取県は僕にとって隣県であり続けているというのに、意外とそんなものだ。
 途中、大山の近くの道の駅で休憩を取った。もっとも雲が多く、大山の名を謳う休憩スポットでありながら、大山の姿を拝むことはできなかった。それから羽合であったり、青山剛昌記念館であったり、ほうここがあの、みたいな土地を通り過ぎて、11時頃に砂丘へと辿り着いた。憧れの地というと大袈裟すぎるが、鳥取砂丘という場所に自分の身が在るというのが、なんとなく不思議な心地がした。やはり全国的な観光地なだけはあって、おみやげ屋が林立し、大型バスが乗り入れ、それなりに大勢の人がいた。
 駐車場から少し歩き、人の流れに沿って階段を上がると、その先が砂丘だった。鳥取砂丘鳥取砂丘というけれど、少しイメージを膨らませ過ぎているのではないかという疑いがあり、広大に見える写真とかも、賃貸物件の画像のように、そういうふうに写るよう撮っているだけではないかと、わざわざ何時間もかけて行った自分ががっかりするはめに陥らないよう、心に予防線を張っていたのだが、ぜんぜんそんな心配はなく、砂丘はちゃんとすごかった。砂と傾斜しかない、あまりにも広い空間は、現世とはまるで違う世界だった。


 写真中央手前にいるのがポルガとピイガだが、そんなことよりも注目すべきなのは、奥にある通称「馬の背」と呼ばれる盛り上がりである。豆粒のような人々が登っているが、この坂の角度たるや、とんでもないのだ。45度を軽く超えている、と書こうとして、いちおう検索をかけておくか、と思って検索したら、鳥取県の公式ページの紹介文に、「最大傾斜が32度」とあった。おかしいな。たまたまこの日だけ異常な風が吹いた結果、ありえない傾斜になっていたのではないだろうか。体感として55度くらいあった。
 体感と書いたのは、われわれも頑張って登ったからだ。子どもたちはすいすいと登ったが、僕とファルマンは決死の思いだった。登り始める前から、これはつらいだろう、中腹あたりで、行くも地獄戻るも地獄みたいな事態になるだろうと予期していて、写真右方にあり、ヤラセのようにひとり登ってくれている、もう少しなだらかなコースから行こうかとも思ったが、しかしせっかく鳥取砂丘まではるばる来たのだからと一念発起して挑戦し、果して中腹あたりで「これは地獄だ」「ここは地獄」「地獄ってこういうことなんだ」と嘆き合いながら、それでもなんとか登り切った。人工物がないこともあり、鳥取砂丘は精神世界めいた雰囲気があるため、全編を通して天国のようでもあったし、地獄のようでもあった。人生観が変わったとまではいわないが、文明社会で生活している限りはあまり感じない、一個の人間としての生きることと死ぬことに、少し思いを馳せさせられた。ファルマンは「地獄に落ちたくないから善行をして生きていこうと思った」といっていた。それほどの体験だった。


 登った先には日本海が広がり、砂の具合もよく、人口密度も下がり、ご褒美としてフォトジェニックな風景が広がる。左からポルガ、僕、ピイガ。なんとなく芸術作品のような写真になった。こういうのがいくらでも撮れる。子どもたちは、このあとまた車に乗るんだからもう少し気にしろよ、といいたくなるくらい、砂まみれになって遊んでいた。
 つづく。