サウナについて思う ~仮面の告白~

 思えば21歳くらいの頃、タバコに関しても、なんとなく惰性で吸っていたのを、あるとき急に、俺は他の人たちほどは、タバコの美味さを享受していない気がする、と気が付いて、それから一気に吸う気がなくなり、やめた。やめたらやめたで、ぜんぜんタバコが恋しくなくなって、ああ本当に、別に正式に必要としていたわけではなかったんだな、と少し驚いた。
 いまサウナに関しても、それと同じムードを感じている。
 「ととのう」というのがあるだろう。今年の新語・流行語大賞にもノミネートされた、サウナブームのきっかけとなったといってもいい言葉。サウナ、水風呂、外気浴を繰り返すことで、血流がよくなって、頭が覚醒し、パーッと蒙が啓かれたような状態になることを指すが、実をいうと僕は、本当にきちんと「ととのう」を実感したことはない。ああこれかな、と思う瞬間はあったが、それというのは意識が飛ぶような、地上にありながら少し浮遊するような、そういう感触であって、これをさらに高めれば「ととのう」ということなのかもしれないとも思ったが、だとすればそれって、クスリであったり、首を絞めて意識を失う直前であったり、なんかそういう、少し危険な状態なのではないかとも思った。本当の「ととのう」は違うかもしれないが、どちらにしろ僕はどうやらそこには到達できないようだ、と諦観している。
 そして意識が飛びそうになる、その気配にある種の快感を覚えるという意味なら、僕の場合サウナよりもプールのほうが、手っ取り早く到達できる。トレーニングって結局マゾヒズムなので、もう既にかなり苦しい状態で、なんとか端まで泳ぎ着いたあと、立ち止まって呼吸を整えるかと思いきや、止まらずタッチターンをしてさらに25メートルの旅に出るとき、体は「マジかよ!」と嘆くと同時に、意気を感じるのか、普段の生活では決して引き出されない、なんかしらのものがみなぎるのを感じる。それが僕にとっての「ととのい」なのではないか、というようなことを思う。だからプールはいい。
 それで、前の記事の終わりに引っ張ったが、それだのになぜ僕はこれからもサウナに行かないこともない所存なのか、である。サウナそのものでは、もちろんそれなりの気持ちよさはあるものの、そこまで特別な快感を得られないのに、なぜわざわざサウナに行くというのか。
 それはずばり、裸になるためだ。
 僕はととのえない、ということを喝破する前から、僕はもともと、サウナにおいていちばん大事なのは外気浴だと感じていた。サウナ室の香りであるとか、湿度であるとか、水風呂の温度であるとか、そういうのはそこまで重要ではなく、とにかく外気浴がどれだけ開放的かという、いいサウナの基準は主にそこにあった。そうなのだ、僕はサウナにかこつけて、外で裸になりたかったのだ。
 つづく。