鳥取旅行2021晩秋 ~ラクダとリフトとカートに乗って~

 いまこの鳥取旅行の日記を、帰宅翌々日、勤労感謝の日に書いているわけだが、部屋の窓からはサッシを動かすほどの風の音が絶え間なく聞こえ続け、午前中には買い物に出たのだが、雪が混じるのではないかと思うほど冷たく細かい雨が降っていた。明確に山陰の冬が到来した。「週間予報がずれて日曜日の雨が免れた」と前の記事で書いたが、それどころの話じゃない。本当にぎりっぎりの秋だったのだ。この気候があと5日早く襲来していたら、鳥取砂丘も相当にどうしようもないことになっていたと思う。幸運だった。
 

 砂まみれになって思う存分に遊んだあとは、入口のほうに戻り、ラクダに乗ることにした。書くとさらっとしたことのようだが、馬の背を登って海のほうまで来ているので、そう楽なことではない。馬の背を降りて、また馬の背ほどではないが坂を登らなければならないのだ。つら……、と思わず口に出た。砂しかない見晴らしのいい世界で、ずっと向こうの上り坂を人々が這いつくばるように進んでいるのが見える。思わず「道化師のソネット」が頭に浮かび、われわれはそれぞれの高さの山を登る山びとのようだ、とやはり精神世界的なことを思った。鳥取砂丘はとにかくそういう場所だった。
 それでもなんとかラクダのもとに辿り着き、子ども二人を乗せて、あたりをぐるっとひと回り(3分ほど)、2600円也、というのが適性なのかどうなのか、ラクダを飼育したことがないのでよく分からないが、なんてったって観光なので、払う。ファルマンも子どもの頃にこの地で乗っているので(もう7代くらい前のラクダに)、わが家でラクダに乗ったことがないのは僕だけになった。もしも神の気まぐれで、そういう括りで人類が選定されることがあったら、一家で僕だけが排除され、妻と子どもたちは、確実にイスラムの比率が高い、残された人類と生きていくことだろう。


 乗る前に「ラクダのこぶの感触を教えてくれ」と頼んでおいたのだが、ピイガいわく「かたかった」そうだ。そうなんだ。
 ラクダのあとはリフトに乗る。リフトは、半月前の三瓶山において、ちょうどリフトが休止中で乗りっぱぐれた(翌週から稼働再開)という経緯があり、それが鳥取砂丘にはある、ということを事前の下調べで知ったため、その雪辱として乗るために乗るような心意気で乗ったのだが、いま思えば別にぜんぜん乗る必要なかった。砂丘に対し、もっといい位置関係で伸びるリフトを想像していたのだが、実際はあまり意義が感じられないような代物で、どっちらけな気持ちになった。
 最後にみやげ物屋で、実家やポルガの岡山時代の友達へのおみやげを買う。繰り返しになるが、鳥取は、島根にとっても岡山にとっても隣県なのだけども。ちなみに買ったのは砂丘の砂の入ったボールペンで、実に無意味でみやげ物らしいみやげ物だと思う。
 砂丘を堪能したあとは、車で数分の場所にある「チュウブ鳥取砂丘こどもの国」という施設に移動する。広場あり、アスレチックあり、変形自転車ありという、横浜のこどもの国と同じような施設。でも横浜のそれに較べると規模はだいぶ小さく、面積でどれくらいの差があるだろうかと検索をした結果、面積は分からなかったが、「こどもの国」は横浜のあそこを示すのであって、それ以外のこどもの国は、この「鳥取砂丘こどもの国」のように、各地の地名を冠するようになっている、ということを知った。ためになったし、ああ俺は正統なこどもの国が御用達だったのだな、と誇らしい気持ちになった。
 ここの広場で、まずは弁当を食べる。家からちゃんと作って持ってきていたのだ。そしてあわよくば鳥取砂丘で食べられないものかと、馬の背を登るときだってレジャーシートとともに提げていたのだが、しかしそういう感じではなかった(当世流行りのテントなんかも一切なかった。あの雰囲気を守るためにはそのほうがいいと思う)ため、ようやくここで食べることができた。おいしかった。食べたあとは子どもたちはアスレチックで遊び、ゴーカートでデッドヒートを繰り広げた。


 両親は下半身に明らかな、根深い、数日続くことが確実視される疲労を感じ、要所要所でひたすらベンチを見つけ、座った。こどもの国で、大人はひたすら座るのだ。
 つづく。