東京オリンピックがあった夏

 梅雨明け以来、ずっと晴れが続き、あまりにも暑い夏を過していた。 帰宅後のビールが異様に美味く、毎晩ぽーっとなるほどだった。強い渇望で飲む、異様に美味しいビールって、もう液体の範疇を越えていて、液体には溶け切らない量のなんかしらの成分が横溢しているために、もう若干固体のようだと思った。あるいはビールの味の評価として、喉越しということがよく言われるが、考えてみたら単なる液体であれば、喉越しがどうこうなるはずがなく、喉越しを作り出すのは、飲み手側の喉なのかもしれないとも思った。
 約1ヶ月間、日記を書かずにいた。あれよあれよという間に、1ヶ月が経っていた。
 このあれよあれよ中に、東京オリンピックがあった。相変わらずの新型コロナで、開催については直前、もとい開催中もずっと、果たしてどうなのかという意見が噴出していて、結果的にオリンピックを理由にした7月の4連休のせいで感染が爆発したりしているので、どうもこうもなく、感染状況的にはやらないほうが絶対的によかったんだろうが、でももうこれはしょうがなかったんだろうな、とも思う。別に政治家のことを擁護するわけでもないが、もうこれ以上オリンピックのことでぐじゃぐじゃしてても仕方ないので、そこからすべての日本人が解放されるためには、延期はもちろんのこと、中止でもしばらく火はくすぶり続けるので、「やってしまう」のが最適解だったんじゃないかと思う。むりやり潰さないほうがいいことは判っているが、それでも潰さないわけにはいかないニキビのように、オリンピックは早々に済ませてしまうしかなかった。感動もなにもない。単なる処理だ。
 感染は爆発したが、オリンピックが済んだ今(まだパラリンピックは残っているが、パラリンピックはオリンピックよりはるかに規模が小さいのだから、オリンピックをやった以上、開催の賛否などと意地悪なことに言及せず、粛々と行なえばいいと思う)、我々が憂うべき問題は感染の爆発だけになった、ともいえる。これまで我々は、他の国々と異なり、新型コロナウイルスとオリンピックの開催という、ふたつの悩みに同時に苛まれていた。思えばなんとつらい境遇であったか。それがオリンピックを済ませたことで片方の悩みがなくなり、ようやく人並みの状況に身を置けた。これからは、新型コロナウイルスのことでだけ悩めばいいのだ。オリンピックという重たい道着を脱いだことで、ようやくピッコロとまともに闘える。
 我々、だの、闘える、だのと書いたが、もちろんそんな全体主義的な志向があるわけではない。むしろその逆で、この日記を書かなかった1ヶ月は、それでも一応毎日、Twitterに漫画イラストを投稿していたのだが、思った以上に内省的な、自己について見つめ直す機会となったこの試みによって、僕は本当に誰とも仲良くなれなそうな人間だな、ということをしみじみと痛感することとなった。愉しそうであったり、盛り上がっていたり、好きなことに熱中したりしている人が、どうも僕は好きではないようで、そんなのあまりにも最低な人格だろうと冷静に考えたら思うのだけど、逆に、どういう思考回路をもってすれば、たとえば直近の例でいうならオリンピック選手とかになるのだけど、そういう人たちを応援することで自分たちも喜べる、みたいなことになれるのだろう。僕ももう37歳なので、大勢と異なることを誇る気持ちなんてとっくに摩耗している。そんなことを誇っても、現実世界でいいことなんてひとつもないと、既に知っている。それでも考え方は変えようがない。
 感情をなるべく消したい。他人のそれも見たくないし、自分も出したくない。たまたま同時代に居合わせた、同じ科の生きもの程度の、弱い結びつきだろう。そんなものをさらけ出せるほど、深い関係ではない。
 1ヶ月も日記を書かないでいると、調子が戻らない。今後はもう少し間を空けずに書く。