37歳

  誕生日である。シルバーウィークの真っ只中である。去年がそうであったように、シルバーウィークといえども、肝心の20日が狭間の平日だったり土曜だったりして休みじゃない、なんてことはよくある。その点、今年はきっぱり日曜日なので、ちゃんと当日にお祝いをしてもらうことができた。もっともそんな年に限って、毎日が日曜日の身分である。
 今日でめでたく37歳になったわけだが、予想していた通り36歳と37歳の境にはなにも心を動かすものが存在しなかった。20代と30代の間には国境があり、34歳と35歳の間には県境くらいのものがあったように思うが、36歳と37歳の間は市境よりももっと弱く、町区の境くらいの感覚だ。徒歩というわけにはいかないが、自転車でもあれば簡単に行き来できる気がする。もっとも行き来する意味はない。なぜならこっちの町もあっちの町も、ほぼ同じ一帯だからだ。36歳から37歳になる感慨とは、だいたいそんなものだった。
 零時になった瞬間にお祝いメッセージが殺到したせいで誕生日当日は寝不足気味、といういつものギャグは、もう唱える気にもならなかった。この3ヶ月弱、だいぶ混じりっけなしに家族以外と絡んでいない人間が、1年前の時点でそういうやりとりをする存在がひとりもいなかったのに、なぜ今年そんなことになるというのか。なるはずがない。理屈がない。あまりにも理屈が合わないギャグはつまらない。つまらないというか、もはや悲壮感がある。
 そんなわけでちゃんと7時間ほど快眠し、37歳の誕生日の朝を迎える。気候がよくなったので公園に遊びに行きたいとか、文房具屋に子どもの必要なものを買いに行かなければ、といった用件はあったのだけど、さすがは4連休の余裕で、そういったものは明日以降にすればいいということになり、今日は純粋に僕の誕生日を祝う日として、近所のスーパーへの買出し以外はひたすら家にいて、子どもたちは飾り付けの作製、ファルマンはケーキ作りに勤しんだ。誕生日のお祝いをする日に、誕生日のお祝いの準備だけして過ごすなんて、優雅きわまりないな。僕もまた、ヒットくんのフェルト人形を作ったり、ごはんを作ったりして、37歳の誕生日をゆったりと過ごした。平穏なことだ。
 晩ごはんはエビフライ。いちばん好きな食べものは相変わらず餃子だが、今日はエビフライの気分だった。エビフライは好きな食べものランキングの、4位くらいか。食べてちょっと恍惚とするくらいには好き。たっぷりの時間で下拵えも丁寧にしたので仕上がりは上々で、ちゃんと恍惚とすることができた。
 食事のあとはケーキ。僕の誕生日ケーキは、毎年恒例のチョコケーキ。これがしみじみとおいしい。誕生日ケーキに関して、いちごコンプレックスが数年前まであったが、夏が終わってチョコレートに感激できるタイミングなのだと喝破してから、心が安らかになった。これからは板チョコを持ち歩くのもやぶさかじゃない季節だ。
 ケーキのあとはプレゼントをもらう。ファルマンからは既にひと月ほど前に、財布をもらっていた。子どもたちは、ポルガが縄跳び、ピイガがエコバッグをくれた。どちらもなかなか実用的で、成長したものだと思う。あと恒例の手紙や冊子いろいろ。この3ヶ月弱は特に絡む時間が長く(僕が家にいるからだが)、悩まされる機会も多かったが、しかしまあ素直に誕生日をお祝いしてくれる姿を見ると、問答無用で愛しい。やっぱり家族の誕生日のお祝いは、末永く、なるべく力を注いでやるべきだな、と思いを新たにした。
 そんな37歳の誕生日だった。
 


人生いろいろ

 8月31日という日。
 とはいえ子どもたちの夏休みは、今年は1週間ほど前に終わっていて、すでに日常が戻っているのだった。しかし何度もいうけど、新型コロナで焦点がずれてしまっているが、今年の暑さは異常で、実はちょうど今日をもって、高梁市は今月9日からずっと続いていた連続猛暑日が23日となり、これは1990年と94年に大分県日田市が記録した22日を超えて、歴代最長記録の樹立であるらしい。めでたい! のかめでたくないのかいまいち判らない。こんなに暑くてつらい思いをしているのだから客観的な記録として後世に残るくらいの称揚がなければやってられない、という気もするし、記録なんてどうでもいいから涼しくなれよ、という気もする。あるいは、時おり雨など降って地面が冷えたりして、そこまで連続猛暑日が続いていない地域が見て、「高梁イキってんね笑」と揶揄の対象になっているのだとすれば、一抹の気恥ずかしさもある。とにかくどう捉えていいのかさっぱり判らない。ちなみに、どうしてこの記録に関してこんなに思いを馳せているのかというと、なにぶん今回の高梁市の記録に関しては、同県民というだけで便乗して盛り上がっているわけではないからだ。ひとつ前の記事、「井倉洞へ」で書いたが、まさに連続猛暑日真っ最中の、正確な日付としては8月21日のことになるが、そこでわれわれ一家は猛暑の高梁市の市街を目の当たりにしたのだ。なるほどこの暑さか、というものを体験、体感したのだ。そう考えるともはや、われわれ一家もこの記録には一枚噛んでいるといって差し支えない。日本の気象史に刻まれたこの記録に、パピロウ一家は深い関わり合いを持つ。
 そしてちょうどそれとおんなじくらいのゆるーいつながりの、「としまえん」が、今日をもって営業を終了するのだった。なにしろかつては練馬区民だったので、としまえんには数えきれないほどの思い出がある、……ということはない。そもそも遊園地に行くようなタイプではないのに加えて、としまえんというのはファミリー向けに特化したタイプの遊園地であるわけで、22歳から練馬区民となり、27歳に子どもが生まれて東日本大震災が起こり(ほぼほぼ同時)、28歳で島根県へと移住した僕は、としまえんに行く機会が実際ほとんどなかった。それでも1回、いや2回だったかな、入園したことはあったと思う。なにをしたという思い出もないけど。今回の閉園のニュースを見ながらファルマンと、「あのまま練馬で暮してたらやっぱり子どもと遊びに行ったりしてたのかねえ」なんて話したりした。島根移住を決断した際、ポルガはもちろん既にこの世に存在していたが、ピイガは島根で生まれたので、練馬暮しを続けていた場合ピイガはこの世にいなかったかもしれない。パラレルワールド。
 パラレルワールドといえば、やっぱり今年の夏は「新型コロナのせいで東京オリンピックが行なわれなかったほうの2020年」という感じがあって、そんな夏の終わりに安倍晋三が辞任表明をしたので、いよいよ「ひっちゃかめっちゃかなほうの未来」という感じが強まった。一方の未来の安倍晋三は、無事に開催された東京オリンピックにおいて安倍マリオとして再登場し大喝采を受けていたかもしれないのに、こちらでは心労がたたって持病再発である。未来も、人生も、確定的なことなんてひとつもないんだな、ということをしみじみと思う。安倍晋三は7年8ヶ月も総理大臣だったそうで、就任は2012年の12月26日。僕はこのときの、自民党が民主党から政権を奪還した選挙結果のニュースを、病院のロビーのテレビで見た記憶があったので、あああれはピイガの誕生間近(1月4日)の産婦人科での出来事か、としまえんも安倍晋三もピイガもつながってるんだな、と思ったのだが、よく考えてみたらピイガはいま6歳であり、その誕生は2014年のことなので、別に関係なかった。あの病院は酒蔵で足を挫いたときに行ったやつだ。安倍晋三は僕が酒蔵で働いていたときからずっと総理大臣だったのか。長かったな。

井倉洞へ

 数日前の出来事になるが、そろそろ子どもたちの夏休みも終わるということで、短いし遠出もできなかった今年の夏の、せめてもの思い出作りとして、新見市にあるという井倉洞という洞窟へと遊びに行った。この何日か前、夕方の地方ニュースで紹介されていてその存在を知ったのだった。テレビで紹介されたばかりだから人が殺到しているだろうかという危惧もあったが、なにぶん夏休みとはいえ世間的には平日なので、まあ大丈夫だろうと判断して向かった。
 新見市は、山陰地方への鉄路、特急やくも擁する伯備線が市を縦断するように走っていて、そのひとつ手前の高梁市ともども、地名駅名になんとなく馴染みはありながらも、実際に降り立ったことはないため、知り合いなのか知り合いじゃないのか微妙な距離感の相手、という印象の街。道程は、高梁川と、伯備線と、そして我々の使った180号線が、三つ編みのように入り組み、なかなかフォトジェニックな景色が随所に見られた。高梁市の市街というのも、街の中には入らなかったが道から様子を垣間見て、城下町だからか、なんだか独特の雰囲気がありそうだな、と思った。総社市のように気楽に岡山倉敷に出てこられる距離感ではなさそうだが、それゆえの矜持なんかもあるような気がする。よその土地を覗き、その暮しに思いを馳せて、だとすればこれは小旅行といっていいかもしれない。ちなみに新見市街は、我々の目的地である井倉洞よりもさらに先へ進んだほうにあるため見ていない。東京などだと、細かい間隔で駅があって、その駅ごとにわりとちゃんと駅前の街並みが形成されているため、街と街の間に隙間というものがないけれど、「高梁」から「新見」なんていうのは、昔なんかだと特に、高梁を出て川伝いにずっと進むと、ようやく山の中に新見が現れる、みたいな感じだったんだろう。
 そんなこんなで井倉洞に到着する。駐車場は空いていた。やはり平日だからだろうか。それとも外出は控えたほうがいいレベルの暑さだからだろうか。駐車場から洞窟の入り口までは、そこまで離れているわけではなかったが、それでもだいぶやられた。そもそも高梁市のあたりというのは、県内の天気予報でもいつもやけに高温を記録しているエリアなのである。いわれてみれば陽射しが強い気がする。空気がきれいだからだろうか。岡山倉敷もそんな空気が汚くなるほどの都市だとは思えないけどな。
 入洞料を払って、歩道橋を渡る。高梁川の向こう側にある岩山に、井倉洞はあるのだった。橋を渡りきり、入り口に近づいたところで、空気が明確に変わる。洞窟の中は涼しい、というのは行く前の下調べでもちろん知っていたが、こうも違うものかと思った。ちなみに、そもそも僕は洞窟というものが、おそらく初体験なのである。もちろん子どもたちもそう。ファルマンだけは違う。ファルマンは「子どものころ近所の洞窟で友達と……」みたいなエピソードトークをしていた。近所の洞窟ってなんだろう。
 井倉洞は全長1200メートルあり、アップダウンも激しい鍾乳洞である。他の洞窟のことは知らないが、初体験の洞窟としてはなかなかにアグレッシブだった。子どもが小さ過ぎたら行けないし、年を取り過ぎたら親が行きたくない。そう考えると今回はいいタイミングで行ったのではないかと思う。洞窟内は全体が水気に満ち満ちていて、あちこちから水滴が垂れていた。これも事前調査で、「だから大事なカメラは持ってこないほうがいい」という情報を得ていたので、今回のレジャーにはデジタル一眼レフは携えなかった。そのためタブレットで適当に写真や動画を撮りつつ、洞内を進んだ。洞内は、つらら石や石筍があちこちにあり、というかそれらが壁を形成しているような有様だったが、通路は通路として整備されているので、どこからどこまでが自然物でどこからどこまでが人工物なのか、いまいち判然としなかった。そのため36歳になって初めての鍾乳洞体験をした感想は、「テーマパークみたいだな」という、わざわざ連れてきた果以のないもので、それでもテーマパークにしろ天然の鍾乳洞にしろ、異空間であることには違いはなく、そういう場所に家族で来ると、とにかく思い出的で充足感がある。なので満足だ。それと中を歩きながら、もちろんその場では口には出さなかったものの、やはりずっと(いま大地震が来たら……)という不安が頭の中にあった。いま大地震が来て生き埋めになったら、我々一家が井倉洞に来ていたという事実を誰が知るだろう? 駐車場に車があるからそこから判明するだろうか、などと終始思っていた。幸いなんともなく無事に外界に出ることができた。無用な心配で済んでよかった。
 洞内は涼しかったが、アップダウンが激しいので運動になり、体が冷えるわけではない。そして外に出たらもちろんひどい暑さで、駐車場までの道のりはつらく、結局トータルで、洞窟の優しい涼しさなど掻き消えるほどに暑かった。車内だってエアコンは効かすものの、窓から陽射しは受け続けるのだ。
 帰宅した頃にはヘトヘトで、ポルガは例のごとく「頭が痛い」と言い出し、両親は仮眠を取らずにはおれなくなり、ピイガはひとり元気でうるさく、夕方以降はグダグダだった。でもテレビで見たときから「行ってみたいね」といっていたそこへ、この変な夏の思い出作りとして行かなかったら、たぶんずっと後悔した気がするので、行ってよかった。

夏に打ち勝つ模様替え

 それ以外にほとんどいうことがないのだが、暑すぎる。人生は、なにかをするには短すぎるし、なにもしないには長すぎる、という、誰にとっても絶望的などうしようもない言葉があるけれど、それでいうならこの夏は、なにかをするには暑すぎるし、なにもしないにも暑すぎる。とにもかくにも暑い。
 しかしこのままではあまりにも無駄に日々が過ぎ去ってしまう、どうにかここで一念発起し、夏に対して一矢報いてやろうではないかと夫婦で話し合った結果、模様替えを決行した。もはやプロペ家名物といってもいい、模様替え。聖家族とはよくいったもので、完成しないという完成された芸術としての、我々はプロペダ・ファミリアなのかもしれない。
 今回の模様替えの大きなトピックスとしては、僕とファルマンのパソコン机が、別々の部屋になったことだ。一緒に暮しはじめてからこれまで、このふたつは、背中合わせ、向き合い、横並びと、いろいろな配置を変遷しながらも、常に同じ部屋に在った。それが今回、とうとう別れたのである。別れた、という表現をあえて使い、不穏な空気をにおわせてみたが、もちろん夫婦関係がどうにかなったわけではない。もし本当にそうだとしたらこんなことをわざわざ書くわけがない。じゃあどういう事情か、といえば、これまでパソコン机をふたつ置いていた夫婦の寝室が実は狭くて不便だったとか、エアコンの冷風とベッドの配置がよろしくないとか、寝室のスペースに余裕ができたらクローゼットの中に置いているプリンタ複合機を外の世界に引っ張り出すことができて使いやすくなるとかの、ワールドワイドウェブに記しても仕方ない、生活の中の細々とした事情である。とはいえそれらの理由は、別に最近になって発生したものではない。この形になってからずっとあった問題だった。しかしそれはこれまでずっと黙殺され続け、そしてこのたび突如として改善された。なぜか。それは約1ヶ月半前にわが家にやってきた、工業用ミシンが関係している。あのタイミングで手に入れるしかなかった工業用ミシンは、居間に半ば強引に設置し、それ以来居間の一角は僕のハンドメイドスペースの様相を呈していたわけだが、ならばもういっそのことパソコンもこっちに持ってきて、完全に僕のエリアにしてしまえばいいのではないか。平時にただパソコン机を居間に持ってくる選択肢はなかったが、強制的な工業用ミシンの来襲によって、にわかに機運が高まった。そんなわけで、「工業用ミシンがやってきた」という「nw」に投稿した記事内の写真では、オーバーロックミシンを置いているスペース、ここにパソコンを置くことにした。オーバーロックミシンは、直線ミシンの横にあったらすごく便利だ、ということを記したが、あの当時は無職になってすぐで張り切っていて、子どものブラウスなどを盛んに作っていたのでたしかに便利だったが、最近は衣類はひと段落してヒットくん人形とか小物を中心に作っているため、オーバーロックミシンは実は使っていなかった。実際、服作りをコンスタントに行なうわけではない限り、オーバーロックミシンがすぐに使える状態にあるメリットはそこまでない。というわけでそれは棚に仕舞い、代わりにパソコンを置いた。工業用ミシンのでかいテーブルはなんと便利なのだろう。ミシンのすぐ横にパソコンがあり、マウスを少し大きく動かせば、マウスがミシンの押さえにぶつかってしまうような環境。こじんまりとしているが、足りている。むしろこのコンパクトさが愛しい。そしてファルマンはファルマンで、部屋から僕のパソコン机一式がなくなったのだから、もちろん部屋に余裕ができ、これまでは椅子を満足に引くことさえできないような状態だったのだが(椅子がでかすぎるのだ、という説もある)、それも改善された。だからお互いにとってよかったに違いない。
 あとちなみに、今回のパソコン別離移動が実行に移されたのは、なんだかんだでパソコンの比重が下がっているのも要因だと思う。ふたりとも、毎晩1時間半くらいかけて、とりあえずブログの記事をアップする、というような暮しをしていた頃だったら、その別離はあまりにも別離すぎて、やらなかったと思う。現在はブログの更新頻度がそこまでじゃなくなったし、それぞれタブレットでインターネットもだいぶするようになったので、パソコン=居場所じゃなくなった。そういう時代の趨勢も影響していると思う。
 しかしとにかく気分転換になった。パソコンの配置が変わるとリフレッシュして愉しい。ベッドの向きも変わったので、それも今晩から新鮮だろうと思う。勝ちたい。夏に勝ちたい。勝たないまでも、ちょっとでも軍勢を押し返してやりたいじゃないか。

白昼夢

 子どもが夏休みに入り、僕もなんかずっと家にいる、不思議な夏が始まった。子どもたちに夏休み用のドリルが必要だというので、大きい本屋の入っているイオンに行こう、となったのだが、月のはじめは土日だったので、「じゃあ空いてる月曜日に行こうぜ」なんてことが簡単にできてしまい、特殊な感覚だなあと思った。
 もっとも悠々自適がどこまでも快適かといえばそんなこともなく、けっこう時間を持て余す感じもある。ましてや子どもがいるので、ファルマンとふたりだった7月のように、ひとりでフラッと出掛けるようなことはなんとなく憚られ、かといって一家でどこかへ行くにしても、イオンへはもう行ってしまったし、公園で遊べるような気温じゃないしで、わりとあぐねるのだった。
 そんなわけで今日なんかは、海へと遊びに行った。といってももちろん泳いだりしたわけではない。そもそも今年は、他の地域もそうであるように、我々のところの海水浴場も開設していないのだ。そのため海水浴シーズンじゃないときと同じように、波打ち際でパシャパシャだけをしに行った。行ったら、平日とはいえそれなりに人がいて、海水浴場の営業がないとはいえ自己責任で遊泳している人もいた。普段の夏場には寄り付かないので、これが例年に比べてどの程度の賑わいなのかは定かではない。あと、「それなりに人がいて」という言葉は、ふだん湘南の海とかで遊ぶ人と、地方の人とで、思い浮かべるイメージがぜんぜん違ってくるだろうとも思う。具体的に言うと、端から端までぜんぜん駆け抜けられないくらいの広い海岸に、ざっと20グループくらい。そういう人出。波打ち際で脚を浸して遊ぶ娘たちの写真を撮るにあたり、第三者が入り込んでくる心配はぜんぜんない、当世流行りのソーシャルディスタンスな密度であった。波は穏やかで、砂浜は暑く、水はひんやりとしていて気持ちがよかった。夏の海だった。目的通り、裾をまくって、しばらく脚だけ浸し、波を感じたりして過ごした。猛暑日になろうかという昼過ぎの陽射しは強く、20分ほどで頭はぼんやりしはじめ、少し慌てて車へと戻った。あとから思い返して、この不思議な夏の、白昼夢のように感じるひとときだったかもしれない。
 余談だが、この海岸と、6月まで働いていた職場はまあまあ近いので、海岸に向かう前に、急遽ちょっと様子を見に立ち寄った。様子を見に、というのは現在そこが取り壊しの真っ最中だからで、職場の近くに住んでいた同僚に、「たまに解体状況の写真でも送ってよ」と、数少ないLINE友だちなので在勤時に頼み、すると7月下旬にいちど実際に送ってきてくれて、その画像ではもうけっこう建物は壁だけしか残っていないような状態になっていて、ほほー、と思ったりしたのだが、せっかくここまで来たのだから自分の目でも見ようじゃないか、と思ったのだった。というわけで見に行ったら、建物そのものはまだ残っていたが、壁は一部なくなってきていて、剥離させた壁や鉄骨を、ショベルカーみたいな重機が、かつての駐車場に積み上げていた。そのさまを見て、やっぱり、ほほー、と思った。在籍年数6年あまりというのが、長いのか短いのかよく判らないが、案外ぜんぜん感慨深かったりしないものなんだな、と思った。土地や建物への愛着や愛執というものが、やっぱり広島に半世紀近くいた叔父も(話したわけではないが確信をもっていえることとして)そうであったように、血筋によるものなのかなんなのか、どうもない。軌跡といえば軌跡だが、軌跡が現存しているかどうかって大事なことか? という気がする。一方で、そういう個人的な要素に特別な感情を抱くことこそが人間的ってことだろう、という気もする。爬虫類じゃねんだから、と。かつて勤めた会社の建物が解体されていること自体には感情は揺さぶられなかったが、そのことに対して自分はどう感じるべきか、ということについて思いを巡らせることとなった、かつての職場見学だった。8月中に解体は終わるらしいので、あの建物を肉眼で見るのは今日が最後だったろうな。
 いやはや、なんだか不思議な夏。

2020年の7月が終わる

 2020年の7月が終わる。コロナがぜんぜん流行らなかったパラレルワールドでは、オリンピックの中日といったところで、いま大いに盛り上がっている。競泳は正直ちょっと物足りない結果だったが、柔道は自国開催ということで奮起し見事な成績を収めた。7人制ラグビーはやっぱり見ていておもしろかったし、フェンシングも予想外の健闘を見せた。野球やサッカーの予選は番狂わせが連発しているし、陸上はこれからが本番。大会後半に行なわれるスポーツクライミングもとても愉しみで、大会はこれからまだまだボルテージを上げてゆく。しかしそれにしても開会式の演出はすばらしかった。リオデジャネイロ大会の閉会式でのパフォーマンスから期待を高めていたが、それをはるかに凌駕する圧倒的な感動だった。いやあ、僕は日本という国が、なんだかとても誇らしくなっちゃったな。だけど実際は、僕がいるほうの世界では、コロナが流行ってしまっていて、夏はいったん収まるだろうっていわれてたのに、ここへ来て感染者数はどんどん増えて、それなのに国はGoToトラベルキャンペーンだっつって、もうひっちゃかめっちゃかになっている。ところで今月の金曜ロードショーでは、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を1・2・3と3週連続で放送していたので、録画をして、この1週間くらいでファルマンと3本一気に観たのだけど、このタイミングでこの映画をやるというのは、ここで僕がいっているような、「コロナが流行らなくて東京オリンピックが華々しく開催されている世界」と、「コロナが流行ってひっちゃかめっちゃかになっている世界」の、落差みたいなものに思いを馳せさせるという狙いがあるのだろうか。2でディストピアを作り上げていたビフのモデルはトランプだというし、なんだか本当に、「ドクゥ!」と縋りつきたくなる。こんな、こんな荒廃した、疲弊した、殺伐とした世界が、僕らの思っていた2020年の日本の夏のはずないじゃないか。ドクゥ! 東京の聖火の写真がこのままじゃ消えちゃうよ! マジで消えちゃう! もうだいぶ消えてる。お兄さんとお姉さんは既にすっかり消えた。マーティンも薄くなってきていて、ギターが思うように弾けない。
 それはそれとして、個人的なことをいえば、無職として過した1ヶ月間の終了である。この1ヶ月、僕の行ないはどのようだったかと総括すると、それほどだらけたわけでもなく、かといってなにかが劇的に進展したということもなく、まあ順当に経過した1ヶ月間だったんじゃないかな、と思う。特別ハッピーなこともなかったし、特別落ち込むようなこともなかった。要するに平穏ということで、じゃあだいぶハッピー寄りなのではないかとも思う。職務時代、そこまでストレスを抱いていたつもりもなかったが、なんとなく鏡に映る自分の顔に、翳りがなくなり少し若返ったような印象を受ける。浮世離れということかもしれない。
 今年はやけに区切りがよく、梅雨も月末にようやく明けたし、子どもたちも本日が終業式で明日から1ヶ月弱の夏休みだ。明日からの1ヶ月間は、どんなものになるだろう。たぶん子どもが小学校に通っていた今月ほどは、平穏じゃないだろうと思う。それに、すさまじく暑いのも間違いない。精神も、肉体も、病まないようにしよう。

2020年、無職の夏

 実は7月1日から無職している。
 ただし自己都合ではなく会社都合である(ここが大事)。
 会社からその伝達があったのはもうだいぶ前、1月の終わり頃のことだ。なので今般よく取り沙汰されるコロナ倒産ではない。失業保険の申請に行ったハローワークでも、「やっぱりコロナですか」と行く窓口ごとに訊ねられた。時勢的にはそれ以外考えられないような状況だが、でもそうじゃない。まあ末端には計り知れないいろんな事情があるのだろうが、たぶん直接的な要因は昨冬の、というかここ数年ずっとの暖冬だろうと思う。これまで勤めていた縫製工場では、紳士物の防寒着を生産していたのである。縫製業なんてただでさえ先細りなのに、その取扱品がこの温暖化の世の中で防寒着だなんて、もはやファンタジーの一種だな、とこんなことになる前から感じてはいた。逆にそれがどうしてこれまで持っていたかといえば、工場が大きなアパレル会社の子会社だったからにほかならず、このたびとうとうそこから「面倒見きれん」と匙を投げられた格好なのだった。閉鎖が告げられてから実際の終了まで5ヶ月もの猶予があった(今冬の受注分を生産しなければならないという事情もあった)のも、ひとえにそのおかげであり、それはこのご時世でとても恵まれていることだと思う。
 そんなわけでこの約5ヶ月は僕にとって、コロナ禍と迫りくる失業が同時に発生していて、なかなかに心が落ち着かない日々だった。もっともコロナショックで勤めている会社がどうにかなってしまうかも、という不安からは完全に解放されていて、その点は気が楽だった。ちょうどこの2月3月あたりに「100日後に死ぬワニ」が流行っていて、それに関する言葉の中に、「100日後に死ぬワニは、100日後まで絶対に死なないワニだ」というものがあり、これには状況的に大いに感じ入るところがあった。
 ただしコロナショックがわれわれ工員になんの影響も与えなかったといえばもちろんそんなはずもなく、どうも上の人たちの思惑的には、当初は工場の身売りを画策していたようで、そしてそれはたぶんコロナ前の世の中であれば、おそらく成ったようなのである。2月3月の時点では、まだそういう前提でものが話されていた。それがだんだん「あれ?」という感じにグラデーションで変化していって、コロナによる経済衰退は加速し、工場閉鎖のタイムリミットは迫り、あれよあれよと、そのままGWが明けた。このあたりで関係者はみんな諦観したと思う。僕もそうだった。しかし僕の諦観はたぶん他の人とは少し違っていて、工場が新体制で再スタートすることになったら、引き続き同じ場所に勤め続けるか、それともこれまでの会社が提示した会社都合の退職を選ぶか、そのどちらかでかなり迷うだろうなあと思っていたので、その迷いの余地がなくなったことに清々とした。きっぱり諦めがついてよかった。縫製業は、やりたくてやったので岡山に来てからの日々に後悔はないが、まあ実際そろそろ辞め時だったと思う。衣料品は売れなくなる一方で、ミシンの性能は向上し、縫製工という技術職はその存在意義がどんどんなくなってきているように思えた。少なくとも「国内の縫製工場」という、ファストファッションの大量生産でもなければ高級テーラーでもない中途半端な立ち位置は、いちばん成立しづらいだろうと思う。本当に、ぜんぜん黒字じゃないのになぜか工場が稼働し続けている、これまでがファンタジーだったのだ。
 これまでそんなファンタジックな存在を抱え続けてきた親会社は、それなりにしっかりとした会社なので、工場閉鎖に関してもずいぶん紳士的だった。1月の終わりにその伝達がなされたあと、2月中には退職にあたっての補償などが提示された。その後、何度も言うようにコロナショックで、百貨店およびそれ以外の店舗も閉店を余儀なくされ、親会社の経営状況もなかなかに厳しくなったようだが、条件面に変更はなかった。ありがたい話である。ちなみに親会社は遠方にあるため、次の仕事の斡旋はほとんどなかったのだが、それは縫製工に見切りをつけている身としては問題なかった(などと言いつつ職探しをした結果、縫製工に戻るしかなかったら切ないな)。
 かくして6月末で退職となった。実は6月のはじめくらいから、もう縫製作業はぜんぜんしていなくて、最後の3週間くらいはずっと工場の片付けをしていた。何十年も、常時何十人もが働いていた工場なので、たまに大掃除などはしていたものの、蓄積されたものは非常に多く、それを最終的には空っぽにするのだから、大作業だった。加えてこれは縫製工場の閉鎖に工員として立ち会うという貴重な経験の副産物として、売れない、返せない、引き取ってもらえない、捨てるしかない道具や資材は、最終的に持ってけドロボー状態になったので、実にいろいろと持ち帰らせてもらった。糸もテープ類も、ひとりハンドメイドで使う限りは一生持つんじゃないかというほどの量である。とても嬉しい。
 そんなわけで今は、ハローワークや市役所の手続きはもちろん離職票が手に入った当日に早々に済ませたので、さしあたってすることもなく、のんびりと過している。冒頭でも触れたように、なんといっても会社都合退職である。これまで自己都合退職の経験はあるが、会社都合は初めてで(人生にそう何度もあっては困る)、そのふたつはこうも扱いが違うものか、と感動している。失業保険の給付はすぐに始まるし、その期間もとても長い。とはいえ収入としてはもちろんだいぶ目減りする失業中、経験上とても厄介なのが年金と健康保険の支払いだが、これも会社都合の失業の場合は優遇措置がある。ありがたい。会社都合退職、病みつきになりそうだ(危険な思想)。
 もちろん妻子がいるので、そうそう悠長に構えているわけでもない。いちおう職探しも始めている。2月3月のあたりでは漠然と、今度はデスクワークがいいなあと思っていたのだが、緊急事態宣言の日々で世の中のデスクワーカーたちがリモートワークをするさまを見て、家でパソコンでちょちょいっとできる仕事ってなんだよ、と、どうやら隠し持っていたらしい技術職の矜持のようなものが刺激されて、方針を変えた。まあこんなご時世なので、どうしたって選択肢は限られる。決まらないときは決まらないし、決まるときは決まる。会社都合退職のゆとりはあるので、後悔しない選択ができたらいい。
 それにしたってのんびりだ。子どもたちは学校だし、ファルマンも緊急事態宣言中はさっぱりだった仕事が戻ってきているしで、ひとり、やたら自由である。それでも貧乏性なので、料理などの家事をしたり、裁縫をしたり、プールへ行ったりと、漫然と時間だけが過ぎてゆく、なんてことにはならないよう努めている。なにしろ会社都合退職なので、同僚たちも同時にみんなこの状態になっていて、おそらくみんな暇にしているんだと思う。だいぶ前、唐突に平日に休みがあったとき、結局なんにも事は起らなかったが、「この日に一緒に遊べるのは会社の同僚だけだ」と思い、ちょっとジタバタしたりしたけれど、今回はそれのスペシャル版で、互いに時間があり余っているだろう元同僚とは遊びやすいだろう、ということを思う。思うけれど、思うだけだ。新しい生活様式というのが都合のいい言い訳となったが、果たしてこんな時世でなければ工場閉鎖にあたってお別れ飲み会とかがあっただろうか。なかっただろう、という気も普通にする。結局のところ、あまり和気藹々とした職場ではなかったのだと思う。
 そんなわけで、退職や現在の状況について、わりと赤裸々に書いた。近ごろはそこまで暮しに根差したことを書くわけではないが、それでもこのことを書かないと、なんとなくブログのどんな記事も書きづらい感じがあったので、書いておくことにした。再就職が決まったときに、「決まった!」なんてことはたぶん書かないと思う。この日々がいつまで続くのか(あまり短すぎても損をしたような気になるだろうが、長引くと恐怖感が増してくるだろうとも思う)は分からないが、とりあえずもうすぐ屋外プールがオープンするし、夏をエンジョイできたらいいなあと思う。思えば東京で書店員を辞めたのは8年前の7月だった。辞めるとき、島根でロンドンオリンピックをたくさん観るのかなあ、と思ったのを覚えている。結果的にそこまで観なかったけど。期せずして今回の失業もオリンピックイヤーとなった。自国開催ということもあり、今回こそたくさん観られたらいいなあと思う。
 最後、コロナショックとかにさんざん触れておきながら、東京オリンピック延期というニュースだけがすっぽり抜け落ちている人、という最近お気に入りのギャグで話を終わらせてみた次第である。

ブログとは

 なんとなく芯が定まらない日々を過している。精神衛生があまり良くないということだ。日々の暮しには、いろんな事情があるのだ。だがそんなことは書いても仕方ないので書かない。しかし、それではブログとは一体なにを書くべきものなのだろう。どうもTwitterやminneを始めたことで、他者の反応というものに、これまでよりも囚われてしまっているような気がする。ブログだけをやっていた頃は、反応がないのが当然だった。パッピーナを捏造したり、80年後の人類に大人気だと嘯いたり、「人気があるブログギャグ」をさんざんやったが、それは、ブログというのは人気がないのが当然、という前提があるからできるギャグだった。それはちょっと社会主義的というか、キューバの明るさというか、貧しいのは当たり前で、しかしその中で人々は逞しく愉しく生きるのだ、というような清らかさがあった。それに対してSNSの資本主義、能力主義さったらない。反応、すなわち人気、さらにすなわち作り手の能力は、あまりにも残酷に厳然と白日の下に晒される。うまいことすればちゃんと評価してもらえるということは、裏を返せば評価してもらえないのは作り手がダメダメだからだ、ということを意味し、そこに逃げ道は一切ない。この、作り手がダメダメ、というのは、アップするものの内容も当然あるが、それよりも大事なのは、営業能力、アピール能力で、じゃあもう、それって、あまりにも実社会と同じすぎるじゃないか、と膝から崩れ落ちそうになる。実社会にも友達クーポンというものがあって、あらゆる場面でそのクーポン券が幅を利かせるのが嫌だなあと思って暮しているのに、SNSの世界というのは、もはやそのクーポン券によって組成されていると言っても過言ではない。道理でこんなにも嫌な気分になるわけだ。しかしこの、昔はみんな貧しかったけど生き生きとしていた、と回顧する感じもまた、実社会のそれそのままで、あまり性質のいいものではないな、と思う。そしてこういうことを考えると、ブログに書くべきことはますます判らなくなっていく。記録ならノートに書けばいい。手書きがつらいならワードに作成すればいい。それならばブログとちがってなんだって書ける。冒頭の「事情」だって書ける。なんとなく価値があるような気がする、一個の人間の、嘘偽りのない魂の叫びは、オフラインの記録にこそ生まれ得る。その一方で、他人の評価が欲しいならSNSで気張ればいい。魂なんて売ってしまって、有名人物をフォローしまくって、他人が評価してくれそうなことばかりに心を向けて、名声を求めればいい。いまブログは本当にそのどちらでもない中途半端な位置にあり、意味不明だ。ブログはいま、なにをどう、どういうテンションで綴るべき場所なのだろう。本当に分からない。でもこの分からなさ、存在意義のはっきりしなさって、あれに通じるところがある気がしてきた。あれ。MD。我々は、カセットテープでもなければデータ配信でもなく、モーレツでもなければデジタルネイティブでもなく、無気力ではないけれどどうでもいいやとも思ってない、MD世代である。そしてそんな我々は、手書きでもなくSNSでもない、まさにブログ世代でもある。だとすれば、やっぱりこうして、存在意義を不審がりながら、続けるしかないのか、我々はブログを。ブログの半端さこそ、我々の旗印だから。

緊急事態宣言解除の海へ

 週末、天気がよかったので砂浜に遊びに行く。はじめはどこかしらの公園に行くつもりだったのだが、ファルマンのタブレットの下世話な機能で、「約1年前にあなたはこんな場所に行きましたよ」と砂浜の写真が提示され、それを目にしたら、たぶん1年前の自分たちとまったく同じ熱情で、この時期のこの気候は砂浜だよ、という気分になったのだった。行ったところ砂浜は、ほぼ間違いなく、去年よりも人出が多かった。やはりそれは、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、さすがにショッピングモールとかはちょっと……、と自重する層が多いからだろうか。もっとも人出が多いとはいえ、湘南などの情景を想像してはいけない。砂浜で遊ぶ娘たちを、他の人が映り込まないように撮るのに苦労はぜんぜんしないという、その程度の人出である。
 陽射しが強く、砂は裸足で歩くとだいぶ熱かったが、海水に足を浸すと水温はまだまだ冷たかった。しかしがっつり海水浴っぽいことをしている豪のファミリーもいた。いちど入ってしまえば大丈夫になるのかもしれないが、それまでに高いハードルがあるし、それに浸かってしまったらもう二度と地上に戻れない気もした。ひとしきり波打ち際で遊んだあと、テントの中で昼ごはんを食べた。今年もなんとかこういう季節にたどり着いたのだな、と例年よりも格段に感慨深く味わった。
 緊急事態宣言の解除によって緩みが見受けられる、などと為政者はいうけれど、緊急事態宣言の解除で緩んではいけないのなら、我々はいったい何によって締め付けられていたのだろう。それこそ、ウイルスよりも怖い人の目、というやつで、緊急事態宣言が解除されても、自粛警察の気が済むまでは緩んだ素振りを見せてはいけない、みたいな話になってくる。今回のコロナ禍は、9年前の放射能禍と、違う部分もあるが同じ部分もあって、「いちばん怖がる人がいちばん偉い」的な空気はまったく一緒だと思う。正常性バイアス族はとことんバカにされ、最後まで警告を発し続ける人が最も賢いみたいな、そんな雰囲気がある。でもそれって悪いことばかりいう占い師みたいなもので、「このままだとマズいよ」といわれて、本当に悪いことが起ったら「それ見たことか」となるし、もしも悪いことが起らなかったら「私の占いを聞いて気をつけた結果だね」となるので、絶対に外れないがゆえに最強という、そういう感じがある。つまり、ひたすら最悪のシナリオをいい続ける人というのは、そんな卑怯なスタンスに身を置いていると思う。正常性バイアス族の出歩きを断罪するのなら、同じ振り幅の反対側の、そっちの人のこともちゃんと断罪してほしい。断罪してほしいが、彼らにはいつまでも「それ見たことか」と言う、という望みがなくならないので、難しいだろうな(放射能のなにかの元素の半減期は30年後とかだっけ)。それに対して韓国がそうであったように、収束したかな、と思いきやクラブでクラスター発生、みたいな、正常性バイアス族の不利になる案件は、いくらでも起り得る。だからこの対決は勝てるはずがない。でも悲観論者が勝つことで、いったいどういう救いがあるというのだろう。じゃあ全員で世を儚んで死ぬかよ。
 帰宅後、まだ3時前だったが、全員シャワーを浴びた。正規の入浴時間にはだいぶ早かったが、汗をかき、海風を浴びたので、もういっそ着替えの意味も含めて浴びちまおう、となった。これがとてもよかった。日中の入浴は気持ちがいい。
 日中の入浴は気持ちがいい、で想起されるのは、スーパー銭湯やサウナ、および入浴ではないがプールのことなどだ。これらの施設もさすがにそろそろ再開してくるはずで、それがとても嬉しい。ジムには正直まだあまり行く気にはならないが、風呂やプールはいいだろうと思う。自分の中でそういう線引きがある。コロナの落ち着きとプールシーズンが噛み合ってよかった。夏には(いったん)収束する、というのは以前からいわれてたけど、公共のプールはもしものことを考えて前のめりで休業したがるだろう、ということを危惧していて、もうちょっと不穏な時期が長続きしたら今夏は完全にクローズ、ということになりかねなかったと思う。そうはならなそうだ。よかった。

こもりGW

 GWの最終日である。先週の土曜日から始まったこのGWは、お利口に、ほぼほぼ自宅で過した。一家で4人でずっといると、子どものうるささに耐えきれなくなるような局面も何度かあり、こんなとき通常なら絶対にプールか浴場に逃げていただろうなあ、と思うと、ああ今は非常事態なのだなあ、ということをしみじみと感じた。昨日はとてもいい陽気だったので人口密度の低い公園に遊びにいったのだが、本来ならそこはたぶんプールだったろうと思う。通年営業ではない、半屋外みたいなあのプールは、5月から営業を開始するのだよなあ、などと思って切なくなった。去年のGWは、改元にあたっての10連休と銘打って盛り上がるはずだったのが、天候が全体的に悪くてショボショボした気持ちになったが、今年は天気も大崩れすることなく、わりと5月らしい過しやすい気候だった。でもそれは、どうせたぶんそんなことになるんだろうな、と事前に予想していたのでショックじゃなかった。もうええねん。祝福ムードの10連休は天気が悪いねん。外出自粛のGWは概ねお出かけ日和やねん。わかっとんねん。
 それで長い時間おうちにいてどんなことをしていたかというと、ひとつ前の記事で、図書館が閉鎖されていた話題のときにもにおわせたように、新しく始めようとしていることの準備をしていた。新しく始めようとしていることとはなにかといえば、秘匿したところで仕方ない(そもそもこのブログそのものが秘匿されているようなものだし)ので明かすけれども、ハンドメイド作品の販売である。カッティングマシンを手に入れたことで、ようやく念願の、布に自分の思ったものをデザインする、ということができるようになったので、いよいよちゃんと販売してみようと決意したのだった。というわけでその作品を作ったり、販売サイトへの登録をしたり、作品以外の細々したもの(お礼状や梱包材など)の準備をしたり、なんやかんや作業をしていた。それで、とりあえずの商品は出来上ったものの、備品や写真撮影などがままならないため、開店はもう少し先になりそうだ。ともかく愉しかったし、これからの展開も愉しければいいなあ、と思っている(売れたい)。

そぞろ雑談

 暖かくなってきて、過ごしやすい。暑くも寒くもない、いい季節だ。そのため眠りの質がいい。春眠暁を覚えず、なんてどこ吹く風、やけに短い睡眠時間で済んでいる。休みの日はのんびり8時間とか9時間とか寝ちゃうぞ、なんて思っていても、6時間ほどで目が覚め、それから粘って微睡んでもせいぜい1時間弱ほどしかベッドにいられない。まあ悪いことではないだろうと思う。長く寝られるとそれはそれで、「それだけ体力があるってことだ、年を取るとそんなに寝られない」という褒め言葉があったりするので、どういう状態が最良なのかはよく判らない。短くても長くても睡眠は良いのだとすれば、最適解を常に希求するのが是とされるこの情報化社会において、睡眠というジャンルはやけに判定が優しい。あっさりでもねっとりでもこちらの思いのままで文句を言わないだなんて、都合のいい女のようだ。
 思いのままといえば、当世の思いのままにならなさは相変わらずすさまじい。もうウェブでも現実でも、口を開けば新型コロナの話題ばかりで本当にうんざりするが、「コロナ対策で家に居ろ」といわれているのだから、暮しや思考がコロナ色に染まるのも仕方がない。
 もうすぐGWだが、もちろん帰省の予定はない。今年は休みの配列が悪くてそんなに長くないので、もともとここで帰るつもりはなかった。しかしGWに帰省しないと夏に帰省することになるわけで、今年のお盆というのはオリンピックとパラリンピックの間ということになるのか? それって街はどんな感じなんだ? などとぼんやりと考えていた。1月時点では。そこからいろいろすっかり変わった。なんだか隔世の感がある。この分だと夏もどうなんだろうな。しかし夏に行かないと、じゃあまたウイルスが活発になる冬に移動するの? という話にもなってくる。まったくうざったいな。
 GWはじゃあ家でなにをするかといえば、ちょっと本腰を入れて取り組もうとしていることがあり、そのための資料を数日前に図書館に借りにいったのだが、もうありとあらゆる図書館は新型コロナ対策として休館しているのだった。油断していた。図書館は、家で過すための本を借りる場所だから、休まないと思っていた。抜かったな。すっかり予定が狂ってしまった。
 「STAY HOME」で友達と遊べないことについての渇望というのはもちろんなくて、そんなこといったら俺なんてもう何年も前から「STAY HOME」どころか「STAY MYSELF」で、自分自身の精神的外骨格の中でのみ躍動して暮していたからぜんぜんへっちゃらで、むしろこの期に及んでまだ他人となんとかして絡もうとする人々の精神病理を「繋がらなろうね症候群」と名付け糾弾しているほどなのだけど、しかしプールとサウナとカラオケに行けない鬱憤はだんだん溜まってきた。プールとサウナとカラオケに行く人だ、というとなんだかまるでアクティブな人格のようである。おかしいな。
 家族は相変わらずにぎやかに過している。今回のことでしみじみと、ファルマンが家にいるのはいいことだと思うようになった。政府はこれまで熱心に共働きを推奨していたけれど、果たして今後も言い続けるのだろうか。一体どの口で言うのか。そして子どもたちにとって今回の出来事はどのような印象として残るのだろう。きっと、それがいいことなのかどうなのかは分からないが、学校を休むことに対するハードルは、これまでの時代よりもはるかに低いものになるだろうと思う。その感覚は普通、大学生になってから獲得するものだが、それをもうこの時点で手に入れてしまったのではないかと思う。

人のやさしさ、消防隊員のかっこよさ

 小学校が休校になってから最初の週末。閉鎖空間でなければ連れ出しても問題ないともいうが、読みにくい天候ということもあり、あまりうまいこといかなかった。
 土曜日の午前はとりあえず晴れるようだったので、手芸屋での買い物のついでに、ちょっと公園へと出向くことにした。しかしこれが悲劇の始まりだった。行こうとしたのは田舎名物の、山の上に作られた公園(といっても家からそんなに遠くないし、むしろこの公園のある地域のほうが栄えているくらいだ)で、その山道を車で登っている際、どうも分岐を間違えたようで、しばらく急斜面を進んだ末に、絶対に車が通れないような細い道幅となり、最悪だー、と思いながらゆっくりとバックして分岐まで戻ろうとしたのだが、その途中で右の後輪が排水溝に落ちて、身動きが取れなくなってしまった。この瞬間、全身に寒気が走った。なにしろ急斜面である。車の中にいるので実際どの程度傾いているのかは判らなかったが、そのまま車が右後ろにひっくり返る情景が脳裏に浮かび、体が強張った。とりあえずブレーキを踏んでいる限りは車は安定しているようだったので、安全のためにも様子を確認するためにも、ファルマンと子どもたちを車の外に出す。出してから気付いたが、車は右側に傾いているのだから、助手席のファルマンには出ていってほしくなかったな……、と思った。でもファルマンが出て、動いてくれないことにはどうしようもない。どうもサイドブレーキでは駄目で、ずっと足でブレーキペダルを踏んでいないと、車は後ろに下がってしまうのだった(思い出すだにおそろしい!)。外に出たファルマンは、まず後輪の様を写真に撮って、「こんなふうだ」と見せてくれた。やはりタイヤは排水溝の内側の中空にあった。こういうときはなにかを噛ませてタイヤが回るようにしないといけないんだろうと思うが、そんなちょうどいい石や板があるはずもなく、途方に暮れた。保険会社を呼ぶしかないのだろうか、と話していたところへ、散歩の老婦人が近づいてきて、「落ちちゃったの?」と声をかけてきてくれる。そうなんです、大いに困っているんです、ということを伝えると、「主人に板とかブロックを持ってくるよう連絡してあげる」といって、電話をかけてくれた。なんという聖人か。そして「しばらく時間がかかると思うから、私はぐるっと散歩してるわね」といって老婦人はその場から離れた。状況は大いに改善した。老婦人の旦那さんが板を持ってきてくれたら絶対に抜け出せるとも限らなかったが、ひとまず安心した。それでしばらく待っていたら、別のおじさんたちもやってきて(地元の人の散歩コースであるらしい)、「おお、これはこれは」「たまにやるんだよね」などと声をかけてくる。いや、もう、ほんとに参っちゃって、どうしたらいいんでしょうかね、などと話していたら、そこへなんと消防車が通りかかる。なぜ消防車が? という話で、サイレンは鳴らしていなかったので、緊急出動ではなく、山の上の公園になんかしらの用件で向かうところだったのかもしれない。もちろん通報をしたわけではない。それをおじさんたちが停めてくれる。これは消防隊員の仕事ではもちろんないが、たしかにちょうど消防隊員が通りかかったら、手を貸す流れになる案件ではあるかもしれない。停まった消防車からは、頼りになりそうな屈強な消防隊員が、4人も出てきた。こころづよ! と思った。4人の屈強な消防隊員、こころづよ! と心の底から思った。そして消防隊員は、車を見て少し話し合ったあとは、巧みな連係プレーで、車を溝から救い出してくれた。タイヤの下になにかを噛ませて進むしかないと思っていたが、車体を少し人力で持ち上げた状態で、ギアをニュートラルにさせ、ハンドルを右に切らせ、ブレーキを少しずつ緩めさせて(これらを僕に向かって巧みに指示し)、車体を降下させることで、無事にタイヤを地面へと戻してくれたのだった。なんという手際の良さ。なんという頼りがい。車を少し進めて安全な位置に置いたあと、車外に出て、めっちゃお礼をいった。集まっていたおじさんにももちろんお礼をいい、さらには最初に声をかけてくれた老婦人と、消防隊員の作業の途中で来てくれていたその旦那さんへも、何度もお礼をいった。旦那さんは車のトランクにブロックと板をたくさん積み込んでくれていた。えらい労力だったじゃないか。ありがたかったし申し訳なかった。というわけで、とてもおそろしかったが、人のやさしさ、そして消防隊員の頼りがいに感動した体験だった。もちろんそのあと公園で遊んだりはせず、そのまま帰った。帰り道、ファルマンとふたりで興奮が冷めず、消防隊員のかっこよさについて何度も語り合った。自分が小学生男子ならば将来の夢は消防隊員にするだろうと思った。
 今週末の出来事はこれに尽きる。土曜日は午後から雨が降ったし、今日は昼過ぎまで天気がパッとしなかった。そもそも公園に繰り出す気にはあまりならなかった。平地のものならばまだいいが、ちょっと当分の間は急な上り坂の先にある目的地には行きたくない。斜面で車が不安定な状態になった際のあの揺れは、しばらくトラウマになる気がする。結果的に何事もなくて本当によかった。注意深く、安全運転しようと思う。それにしてもあのタイミングで、緊急出動しているわけでもない消防車が通りかかるって、ちょっと奇蹟的だ。とはいえそもそもが不幸(不注意)から話が始まっているわけで、持っている話なのか、持ってない話なのか、判断がつきづらいと思った。

笠岡へ

 3連休の中日。お出掛けをする。あの笠岡の花畑へ、久しぶりに行ったのだった。一時期、ほぼ花が変わるごとに行って、菜の花、ポピー、ひまわり、コスモスという年間の4種をコンプリートして満足し、それ以来だった。日記で確認したら、それはまだ「USP」時代の、17年10月(コスモス期)のことだった。つまり約2年半ぶりになるのだった。歳月の早さよ。今回の来訪は、もともと菜の花畑が見たい気持ちが高まっていた(僕は上記の4種中はもちろん、あらゆる花の中でも菜の花が割と好き)のと、ポルガがカブトガニ博物館に行きたがっていたのと、さらにいえば義父母がまたおじいさんに会いにこちらに出てくるというので、ならばわざわざ家まで足を延ばさなくても、笠岡で落ち合えば、どうせ帰りの通り道なのだし、一緒にレジャーが愉しめるじゃない、ということを提案したら乗ってきた、という要素が合わさって実現した。
 というわけで義父母は用件を済ませてからの現地集合なので、われわれ一家は昼前くらいに、のんびりと移動を開始した。よく晴れて陽射しが暖かく、コートを脱いでサングラスを掛け、たまに窓を開ける必要さえあった、今年のこの腐った冬を象徴する日和であった。
 そして恐竜公園へと到着する。混んでいた。3連休の中日ということや、このあと行く花畑のあるベイファームでイベントが開催されていたという事情もあるのだろうが、明らかに3年前よりも活気がある。当時だってここに来たときは花の咲いている週末だったはずだが、こんなに盛況していなかった。実はなんとなく道中においても、街並みを見ていてそんな印象を受けていた。さびれた地方の街、という印象しかなかった笠岡だったが、なんかしらの作用でちょっと盛り返しているのかもしれない。まさか絲山秋子効果ではないだろう。公園の設備が増えた様子もない。目玉である恐竜のオブジェは、相変わらず堂々と、僕やファルマンが子どもだった頃の恐竜のイメージで造形されていて、令和の時代に眺める、ジュラ紀の恐竜オブジェに、昭和レトロを感じた。羽毛なんてもちろん生えてないし、ティラノサウルスは前傾姿勢ではなく直立している。古き良き恐竜。ここで弁当を食べたり、ひとしきり遊具で遊んだりした後、義父母とカブトガニ博物館で合流した。
 カブトガニ博物館は、以前にもいちど入館した。それも「USP」で確認したら、16年の5月ということで、なんと4年前だ。歳月! そのときわりと愉しめた思い出があった(ピイガは館内の暗さに怯えて泣いたのだった)ので、けっこう期待していたのだけど、今回の印象は、「あれ? こんなもんだったっけ?」だった。やっぱりいかんせん、わずか1ヶ月半前に国立上野科学博物館に行ってしまっているので、目が肥えてしまっているきらいがある。ありとあらゆる時代の、ありとあらゆる生きものが網羅されたあちらに対し、こちらはカブトガニのほぼ一本鎗である。「カブトガニの這った跡の化石」までもが展示され、好きなアイドルの使用済みの割り箸を収集する変態のごとき、偏執的なカブトガニ愛は感じられ、とてもいい、とてもいいことだとは思うのだが、どうしたってこちら側に、そこまでのカブトガニ熱を受け取る入れ物がない。両手で受けようもないのだった。
 そのあとは車で少し移動し、花畑のあるベイファームへ。駐車場に停めるなり、もう咲き誇っていた。今年の冬は、冬の陰鬱なつらさが希薄な冬だったが、それでも春先の菜の花の鮮やかさには心が鷲掴みにされる。菜の花の黄色さ、緑さは本当にいい。潔さだろうか。小細工がない感じで、とても清らかな気持ちになる。ひとしきり花畑の中を歩き、堪能した。すごくよかった。義父母も喜んでいたようだし、今日はいい企画だった、と満足した。義父母とはここで別れた。
 帰り道は海沿いの道を走り、途中で見かけた砂浜に立ち寄った。ナビに案内されるままに走った、まったく予定していない場所だったが、ここが大当たりだった。夏はちゃんと海水浴場となる場所のようで、砂浜の砂がとても細かい。そこへ大きめの貝殻がゴロゴロ転がっていて、ピイガが躍動した。貝殻の、破片のようなものしかない砂浜と、こういう全形のまま残っている砂浜は、いったいなにが違うのだろう。浜からは小堤防が伸びていて、こういうのって立ち入り禁止になっている所がけっこうあるが、ここは一切それがなく、本当に伸びている先っぽまで行けそうで心が躍ったのだが、遮るもののない浜風が強く、小さい子どもと2月の海に落下する恐怖に駆られたため、ぜんぜんそんな先まで行けなかった。あれはまたリベンジしたい。
 そんな具合の笠岡レジャーだった。とても愉しめた。しかし久しぶりに陽射しを大いに浴びて、少し頭や体がくたびれた。今夜は晩酌とテレビでまったり過し、たっぷり寝ようと思う。

カラオケとバレンタインと子ども

 今年初めてのカラオケに行く。なんとなくカラオケ熱が下がっているのだった。たぶん行きすぎたのだと思う。メンバーも家族で固定だし、子どもたちは毎回おなじ歌を唄うし、僕とファルマンも唄いたい曲は大体もう唄ってしまった。完全に停滞期だな。
 唄った曲は以下の通り。
 1曲目、加藤登紀子「知床旅情」。MAXは、前回の「TORATORATORA」で歌い尽くしてしまったので、その定番ギャグはきっぱりと捨てた。そして加藤登紀子。MAXからの急転直下の渋さ。作詞作曲は森繁久彌。
 2曲目、梓みちよ「二人でお酒を」。追悼歌唱。梓みちよの訃報を聞いたとき、あまり知らない人だなあと思ったのだけど、追悼歌唱のためになにか唄える曲はないかと検索したら、ぜんぜん知ってた。この歌の人だったのか。追悼歌唱といえば、野村克也も数日前に亡くなって、この人が佐知代夫人へ捧ぐ歌(「女房よ……」というらしい)とかを唄っていたのは知っていたので、ファルマンもいることだしそれも唄おうかとも思っていたのだが、準備が整わずに唄えなかった。残念だ。
 3曲目、槇原敬之「どんなときも。」こちらは時事歌唱。カラオケのたびに、亡くなった人と事件を起した人(特にクスリ関係)の歌を唄っている気がするな。ところで近ごろ薬物で捕まった有名芸能人の頭文字が、沢尻、槇原、ASKA、ピエールで、SMAPになる、という非常にどうでもいい話題があるが、そう考えたとき僕は電気グルーヴの歌だけはカラオケで唄わなかったな、と思った。もっともカラオケで唄うような曲じゃないんだろう、たぶん。聴いたことがそもそもないけど。
 4曲目、欅坂46「手を繋いで帰ろうか」。これも時事歌唱ということになるか。平手友梨奈の脱退はもちろん大いにショックだ。ショックだけど、当然の帰結のような感じもする。僕はこういう明るい歌をもっと唄ってほしかった。アイドルの女の子に、鬱屈や葛藤みたいなものは、ぜんぜん求めていない。更衣室で、ユッコがメグの胸を揉むような、そんな集団であればそれでいいのだ。
 5曲目、氷川きよし「大丈夫」。年末年始の帰省の日記内で、紅白の感想としても触れたが、最近の氷川きよしは本当にいい。眺めているととても満ち足りた気持ちになる。さらに本人による解脱のこのタイミングでこの歌、というのが最高にいい。手拍子もちゃんとやった。ファルマンもいちおうやってくれていた。
 6曲目、宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」。先日やっていた大型歌番組で、とにかくCDがたくさん売れた順にランキングして紹介、というのをやっていて、3位が「世界にひとつだけの花」(マッキー!)、2位がこれ、1位が「およげ! たいやきくん」だった。なので唄った。1972年発売ということで、当時の風潮はよく判らない。300万枚以上も売れたらしい。この歌がなぜなのだろう、とも思うが、「だんご3兄弟」のヒットは目の当たりにしたし、なんかまあ、そういうことってあるんだろうな、とも思う。カラオケ映像で、宮史郎がハンサム俳優みたいな扱いのドラマが流れて、ファルマンが爆笑していた。どこまで本当で、どこまでギャグなのか、後世の人間にはさっぱり判らない。
 7曲目、子門真人「およげ! たいやきくん」。というわけで1位も唄う。「女のみち」よりは、いちおう価値が見出せる感じはある。それにしたって450万枚って、とは思う。ある程度の年齢に達した男性ならば絶対にやるだろう、子門真人のモノマネで唄った。わりと似ていたと思う。たぶん誰でもわりと似せられるのだと思う。
 8曲目、欅坂46「不協和音」。再び欅坂に戻った。デビュー曲の「サイレントマジョリティー」の時点で方向性は決まっていたとはいえ、「手を繋いで帰ろうか」や「二人セゾン」などの正統派アイドルソング路線という道筋だって、あるにはあったろうと思うが、この「不協和音」で欅坂はもう引き返せなくなったのだな、と改めて唄ってみて思った。切ない。2回目の「僕は嫌だ!」は長濱ねるなので、ちょっと穏やかにいう、というところまで再現したが、家族は誰も気づかなかったろう。
 このあとは「年度別紅白メドレー」という項目を発見したので、ファルマンとそれを唄った。1曲30秒ずつくらい、次々に出てくるやつ。それでまず「98年紅組」を選んだら、なんとMAXの「Ride on time」で始まったので、期せずして今回もMAXの灯は守られた。このしぶとさ、いかにもMAXらしい。そのあと他の年度もやり、ELTやHitomi、浜崎あゆみや花*花など、自分で入力することは決してないが、懐かしいし唄える、という曲がいろいろ出てきて、愉しかった。ぜんぜん聴いたことのない演歌なんかも出てきたが、思った以上にちゃんと唄えてファルマンに絶賛された。「知ってる曲なの?」と何度も訊かれた。天性の才能としかいいようがない。
 そんなカラオケだった。時事歌唱などに囚われ過ぎて、自分の本当に好きな曲とか、十八番みたいなものを、ほとんど唄わなかったな。なにしろ、そういうのは本当に唄い尽くしてしまったのだ。次回以降、どうしたものか。
 帰宅後、午後は家でのんびり過す。ファルマンと子どもたちがキッチンでなんか作業をしていて、なんだろうなあと不思議に思っていたら、夕食後に冷蔵庫から、パウンドケーキを焼くような型を使った、巨大なプリンが出てきて、えっなんでなんで? と思ったら、いっけね! バレンタインデーなのだった。正確には前日なのだけど。卵を大量に使うというハードタイプのプリンは、とても好みの感じで美味しかった。
 翌、日曜日は、終日小雨ということもあり、だいたい家で過した。子どもがうるさかった。休みはいつもしみじみと「子どもがうるさい……」ということを思い、思って、日が暮れる。子どもはなぜああもうるさく、そして物を散らかすのか。僕がいま子どもに、「子ども」以外の名前を付けるとしたら、もっとそういう特徴を織り込む。「とにかくうるさく、そして物を散らかすもの」を意味する言葉にする。実際に子どもがそういう意味になっている言語も、世界にはあるんじゃないか。それともうちの子だけ特になのか。

2月の公園

 大きな公園へ、おにぎりを持って遊びに行く。まだ2月である。無茶だ。でも近ごろ、梅雨じみたはっきりしない天候が続き、気温的にも寒いんだか暖かいんだか分からない感じがあり、さらにはインフルやらコロナやらで人ごみに対する警戒心が強まっているとなったら、なんとなく閉塞した心持ちに傾きがちで、山陰じゃあるまいしそんな精神状態に陥ってたまるかと発起し、繰り出したのだった。
 季節ごとの花が名物の公園だが、時期が時期なのでまだなにも咲いていなかった。もっとも花を尊ぶ人間は一家の中にいない。子どもたちはやはり公園の一角にある、わんぱく広場の遊具に夢中だった。この公園には、過去2回来たことがあり、最初は岡山に来た年の初夏くらいのことで、ポルガは3歳、ピイガはまだ生後半年ほどだった。その頃のことを思えば隔世の感がある。岡山での暮しは長くなり、子どもたちも成長したことだ。
 遊具でばかり遊ばれると、それをじっと眺めるほかない大人たちは寒くて仕方ないので、せっかく大きい公園なんだから散策しようよ、と遊具から引き剥がす。そして歩いた。山に作られた本当に大きな公園なので、遊歩道といってもスケールが大きい。「←植物園」という立て看板があったのでそちらのほうに進むと、もはやこれは散歩でもなければピクニックでもなく、さらにはハイキングでももはやなく、オリエンテーリング的なイベントではないか、と感じるような鬱蒼とした山道を行かされた(しかもあまりに道程が長く、そして本当にひとりの人ともすれ違わなかったので、おそろしくなって途中で引き返した)。そのあとはもうちょっとメインの遊歩道を通って、池の鳥や鯉、亀などを眺めたりして、気温や陽射しもちょうど求めていたような度合で、純然たる散歩を愉しんだ。途中、ひと気のあまりない原野のようなエリアに出たので、今回の公園行きのもうひとつの目的であった、Tシャツ写真の撮影も行なった。この模様は「nw」に書く。一瞬だけがんばってTシャツ姿にはなったが、さすがに外でおにぎりを食べられるような暖かさではなく、駐車場に戻って車内で食べることにした。しかし車に乗り込む前に、売店などの物販コーナーを覗いたら、自由にごはんを食べたりしていい休憩所があったので、これ幸いとそこで食べた。外弁当の情趣の、65%くらいを享受でき、この時期のそれとしてはとても秀逸な結果であろうと思う。
 帰ってからは、おにぎりだけだとお腹が空くのでパンを食べ、そのあとは映画のハリーポッターを観た。実は昨日の夜に「炎のゴブレット」を観ており、そのため今日は「不死鳥の騎士団」を観た。映画のハリーポッターって、観ても「(役者が)成長した!」と、「展開はや!」くらいしか感想が出ない。こんなふうにいうと、原作をきちんと読み切ったことを鼻にかけているようだが、しかしどう考えても、原作を読んでなきゃこんな映画ぜんぜんおもしろくねえだろう、と思った。
 晩ごはんは餃子と、サッポロ一番塩ラーメンをベースに野菜たっぷりのタンメン風に仕立てたもの。餃子は昨日がメインで、今日はその残りを焼いた次第である。どちらもおいしかった。今日は日中は陽をたくさん浴びて運動もしたし、夜はしっかり栄養を摂ったしで、休日の過し方としてたいへん素晴らしく、リフレッシュができたと思う。精神的にけっこう晴れた実感がある。よかった。この冬がちゃんと寒くならなかったのは、いろんな意味で困窮したが、もうこうなったら半端に寒いのもスパッと終わって、外ごはんとか、Tシャツとか、早くそういうのができるようになってほしい。宙ぶらりんの状態は短いほうがいい。

ポルガ9歳

 当日の22日が水曜日だったので、土曜日にポルガの誕生日の祝いをした。9歳である。しかし8歳が9歳になるのって、どうしたって感慨がない。ひと桁最後の年、というならそれはそうなのだが、それは来年迎える10歳の、10という数字の衝撃に引っ張られているだけの感慨だろう。それにしてもポルガの誕生日は、同時に「東日本大震災から今年で何年になるのか」に思いを馳せさせることだ。
 誕生日が平日なので土曜日にお祝い、といいながら、珍しくポルガには半ドンの授業があった。いまどきの小学校は、道徳やら英語やらプログラミングやら、かつてはなかったカリキュラムが増えたわりに、休日の数は増え、こなさなければならない授業数は汲々らしく、始業式や終業式の日に通常の授業をしたり、こうしてにわかに土曜日が登校になったりするのだった。でもそのおかげで、ファルマンは午前中に仕事をし、僕はピイガとともにお祝いの準備をすることができた。ケーキや晩ごはんの材料を買い、そしてケーキを作ったりした。
 昼過ぎになってポルガが帰ってきたので、すぐに車で出掛ける。昼ごはんは本人のリクエストにより回転ずしなのだった。例のごとく僕は、ほとんど店では食べず、折詰めにして夜に日本酒とともに頂く、ということをしたかったのだけど、今日はこのあといくつかお店に寄ったりする用事があったため、泣く泣く諦め、店で食べた。すしを食べて日本酒が飲めない状況って、どうにもやるせない気持ちになる。
 帰宅後はおやつを食べ、晩ごはんの準備。誕生日のお祝いの日の晩ごはんは、毎年恒例のたこ焼きである。すしも、たこ焼きも、ポルガは本当に食べものとして味が好きというより、細かいものがたくさんあっておもしろいので好きなだけなんじゃないか、と思う。別にいいんだけど。焼くのに時間が掛かるので、早い時間から始めて、食べる。おいしい。ホームたこ焼きは、準備から焼くまで終始面倒だけど、なんだかんだで愉しくておいしい。ただしその愉しさとおいしさが、面倒さに勝つか、といわれるとそこまでではない。子どもが喜ばないなら決してしないメニューだろう。まあ誕生日様のリクエストならば仕方ない。
 たこ焼きのあとはケーキ。今年のケーキは、これも本人のリクエストにより、のび太ケーキ。
 

 何度もいうようにポルガは目下、「ドラえもん」にぞっこんなのだが、それでドラえもんが好きなのかと思いきや、好きなキャラクターは実はのび太なのだという。のび太ってそんな、ドラえもん派のび太派に分かれるような、そういうキャラではないだろう、素直にドラえもんが好きであれよ、と思うのだが、本人の中でそこは譲れないようで、学校の仲のいい友達からも、のび太デザインのマグカップを送られていた。友達に対しても、ドラえもんよりのび太が好きなのだという主張をしているようだ。そんなことあまり知らなった僕は、ドラえもんケーキならば、頭の部分に切ったいちごをバーッとあしらって、赤いのはドラえもんじゃなくてミニドラだけど、そんなふうに仕立てればいいな、と考えていたのだが、急遽のび太に方向転換し、このような仕上がりとなった。いちごはカットせずにまるごとスポンジの間に挟んだ。そのため厚みのあるケーキになった。髪の毛の部分はココアパウダー。ココアパウダーはだいぶ余ったのだが、どうせ20日後くらいに使うんじゃねえの、と思った。まあまあうまくできたと思う。本人の指は、左手はパーになっていて、両手で9を表しているものである。見て喜んでいたのでよかった。味もなかなかよかった。まるごとのいちごが中に入ってるのっていいもんだな、と思った。
 誕生日プレゼントは顕微鏡。いろいろ観察すればいいと思う。
 そんな9歳の祝いであった。8歳からの1年で、だいぶ成長したような、相変わらず甘ったれで幼児じみたところがあるような、微妙な感じ。ほぼ4年生ともなると、同級生の女子の中には、もういっぱしの女子な感じの子も出てきているようだが、ポルガには一向にその気配がない。決して父親の希望的観測ではない。相変わらず昼休みにはひとりで校庭を走っているようだし。

2019-2020帰省5日目

 帰省最終日。15時ごろ東京駅発の新幹線に乗るまで、上野科学博物館をたっぷりと堪能するため、朝早く実家を出る。次に実家に行くのは5月か8月か。この2年、5月に帰るのが続いているが、来年どうなるかは分からない。家を空ける時期をウェブ上に記すのは不用心なので、まだ本当に決めていないだけだが、行って帰ってくるまでは濁す。
 あざみ野から上野へは、田園都市線から半蔵門線へ直通で表参道まで行き、そこから銀座線に乗り換えるのが、普段なら得策らしいのだけど、なんかものすごくタイムリーに、この年末年始に銀座線のそのあたりの工事をしていて全日運休だったため、仕方なく渋谷で降りて山手線を使うことにした。渋谷で降りてJRの乗り口までの移動は、駅の様相は多少変われど、さすがにお手の物なのだが、今度は意図的に地上に出た。そしてハチ公やスクランブル交差点で記念写真を撮った。外国人ばかりが同じことをしていた。山手線は、渋谷から上野へ行こうとすると、もはやどっち回りでも関係ないほど正反対で、かなり時間が掛かった。
 電車はたぶん普段よりもずいぶん空いていたに違いないが、上野に降り立つと、かなり盛況していた。今回は科博にしか意識がいっていなかったが、たぶん美術館や動物園なども、2日からの営業開始なのだろう。ちなみに上野動物園に前回行ったのは、日記を見たらちょうど2年前の正月だった。あの一家がインフルエンザで全滅した年末の正月。あの頃は科博なんて完全に意識の埒外だった。だとすれば数年後には、美術館のために上野に来ることになるのだろうか。たぶんその可能性は低いけど。
 科博は、いま特別展でミイラ特集をやっていて、世界からミイラが何十体もやってきているというそちらは大行列だったのだけど、常設展のほうはそうでもなかった。ちなみにミイラ展は、わが家は子どもたちが本気で怖がるために行くという選択肢はなかった。もちろん僕とファルマンも別にミイラなんて見たくない。というわけで常設展をじっくりと見て回った。そのスケールはさすがのもので、岡山にも島根にも科学館みたいなものはあるが、それの超特大版という感じで、見応えがあった。なんてったって化石や剥製の迫力がすごい。感動しながら眺めた。眺めている最中、ファルマンがブフォッと笑った展示があり、なんなのか見てみたら「ヤリマンボウ」という魚の複製で、この人って本当に低レベルの下ネタに弱いな、と思った。絶滅動物や原始人に興味のある我が子のために科博に来ておいて、「ヤリマンボウ」で爆笑する母親。ファルマンはしばらくの間、「今年の初笑い」といいながら笑っていた。それならよかった。一家で来た果以があったというものだ。途中で館内のレストランで昼ごはんを食べ、午後もしっかりと展示を眺め、開館の9時過ぎから14時過ぎまで、たっぷりと味わった。これは来てよかった。
 そのあとは駅に戻り、今度は短い山手線で、東京駅に移動する。東京駅では獅子舞に遭遇した。ただでさえ正月の混雑する東京駅に獅子舞が現れると、こんな華やかで賑やかな感じになるのか、と感心した。いいものを見た、と思った。ポルガは怖がって拒んだが、ピイガを連れて頭を噛んでもらうやつをやってもらった。そして新幹線に乗り込んだ。今回の帰省は、Fミュージアムも、科博も、きちんと行きたい所に行って、ちゃんと見て回れて、本当によかった。子どもたちの体も強くなったものだ。

2019-2020帰省2、3、4日目

 初日と最終日がレジャーなので、実はあとの3日間には一切の予定を入れなかった。とは言え3日は長い。どこかへ行くべきじゃないのか、とも思ったが、やはり体力と気力が追いつかなかった。子どもたちは、いとこさえいればどこでなにをしようが構わない様子で、姉一家も特に外出の予定はないようなので、結果的にはこの3日間は本当に実家の周辺でのんべんだらりと過した。
 30日の午前は、近所の公園に繰り出して遊んだ。姪らがバスケットボールを持ってきたので、久しぶりにレイアップをしたりした。レイアップのあの独特の動きを、体が覚えていておもしろかった。シュートが意外なほど決まらなくてびっくりした。
 午後はブックオフにファルマンとふたりで行って、書籍に関してはそこまでめぼしい収穫はなかったのだけど(正月のウルトラセール前に買う意欲が湧かないというのもある)、その代わりに、この1年の中でも特出していい買い物をする。wii用のソフト、「スーパーマリオブラザーズ」である。実家には母がビンゴ大会で当てたという「wii Fit」の一式があり、というかそれしかなく、この数年ずっと、子どもたちがそれでジョギングしたりパレードをしたりするのを眺めていたのだが、このたびそれにとうとううんざりして、どうせ子どもたちが貪るようにゲームをするなら、なにか別の画面が観たいと希うようになっていた。というわけで棚を眺め、結果「これっきゃない」と、とてもベタなものを選んだ。500円。帰宅して起動してみたら、余計な要素がぜんぜんない、ファミコンの「3」を彷彿とさせる、つまり最高におもしろいマリオのアクションのやつで、感動しながら、子どもに混ざってプレイした。そうそう、こういうのだよ。これがゲームだよ。なんでこの数年間、wii Fitの画面を延々と眺めていたのか。このソフトの出現によって、今後の実家での時間の過ごし方はだいぶ改善された。大人を含めて下手くそばかりなので、3日かけて2面さえクリアできなかった。これは当分愉しめそうだ。
 それから31日は、昨日子どもたち4人を実家で我々が引き受けた代わりに、今度は姉夫婦が見てくれるということで身軽になり、近所のスーパー銭湯に行くことにした。今年目覚めたサウナ道の、1年最後の締めにしようと臨んだのだった。しかしながら入ってみると、もちろん大型連休中、それも大晦日の日中といういかにも人が時間を持て余すタイミングということもあるのだろうが、それにしたって僕がこれまで行った岡山や島根のそれとは比べ物にならない人口密度の高さで、裸ということもあり、こちらの世界のパーソナルスペースの小ささに慣れない人間にはだいぶ厳しいものがあった。サウナはなんとか入れ、水風呂もひとりひとりの滞在時間が短いので入れたが、そのあとの休憩をする場所がない。そんな有様で、ぜんぜんリラックスできなかった。ここは収容所の類か、と思った。結局そこまで堪能できないまま、早めに退却した。やっぱりおろち湯ったり館のものだな、と改めて思った。温泉だし、プールあるし、人が少ないし、安い。唯一の欠点といえば島根県にあるというところくらい。ああ早くまた行きたい。
 大晦日の夜は、ポルガはそのまま姉一家の所に泊まることとなり、ピイガだけ回収し、紅白を観て普通に過した。レコ大もそうだったが、今年はなんといっても氷川きよしがよかった。氷川きよしが本当の自分をさらけ出してしあわせそうなの、見ていて本当にほっこりする。しかも唄う曲は「限界突破」で「大丈夫」と来た。いいなあ、素晴らしいなあ、と満ち足りた気持ちになった。
 明けて元日はまた姉一家がこちらへやってきて、途中で近所の神社まで初詣に行った以外は、家でのんびりと過した。この年末年始は本当に実家でダラダラした。まあ平和でいいと思う。もうちょっとしたら、子どもがアンテナを張るようになり、都会のあちこちへ連れていけとせがんでくるようになったりするのだろうか。
 翌日は最終日で、新幹線に乗る前に科博行きなので、わりと早く寝た。この夜の初夢は、あまりよく覚えていないが、手羽中の唐揚げを食べていたのは覚えている。どういう夢だろう。特に最近食べたということもないし。せっかくなのであの手羽中は鷹の肉だったということにして、縁起がいいということにしようと思う。

2019-2020帰省1日目

 年末年始の横浜帰省をしていた。例のごとく、帰省や旅行の告知をウェブ上ですると不用心という、誰もこんなブログを読んでいないし、そもそも家に入ったところで盗むものもないわりに、要らない警戒をして、こうして帰宅後にそのことを記した。
 12月29日に岡山を出発して、1月2日に戻ってきた。すなわち4泊5日であり、普段よりも1日多い。これはなぜかといえば、12月29日に、その日が年内最終開館の藤子・F・不二雄ミュージアムへ、そして1月2日に、その日が年始最初の開館の国立科学博物館に行きたかったからである。今回は帰省そのもののほかに、そういう確固たるレジャー計画があったのだった。
 というわけで初日、12月29日は、9時前に岡山駅を発つ、なかなか早い新幹線に乗った。ちなみに荷物は今回、冬服の詰まった大型のキャリーケースを引きずってレジャーをするのは無理だと判断し、段ボール箱に詰めて宅配便で送ったため、僕もファルマンも普段使いの鞄ひとつ、僕なんか普段の出勤時よりもだいぶ小さい鞄にまとめた。宅配料こそ掛かれど、これはやっぱり正解だったと思う。別にレジャーなんかなくても、常にこうするべきなんじゃないかと思った。ちなみに今回の新幹線は東京駅まで。Fミュージアムは登戸にあり、その路線ルートを考えると、新横浜よりもむしろ東京駅のほうがよさそうだと判断したのだった。あるいは品川でもよかったのだけど、そこは、せっかくだから東京駅様を使わせていただこうよ、という田舎者的な発想で、前のめりで東京駅にしたがった結果である。というわけで昼過ぎに東京駅に降り立つ。ここから登戸へは、東京駅に隣接する大手町駅から千代田線で1本とのことで、新幹線の出口から大手町駅を目指して歩く。目指して歩くが、日本全国からやってきた帰省客で溢れる、迷宮のような東京駅の地下は、表示が多すぎてぜんぜん目的地の見当がつかず、途方に暮れた。事前の調べによって、どうも東京駅と大手町駅は地下でそのまま繋がっているようだ、という見通しはあったのだが、確信もないまま地下をぐんぐんと進むのは取り返しがつかないことになりそうで恐怖があり、そんな状況で、出口と表示されている上り階段から、外の光が覗けているのが見えると、もうそっちに縋りつかずにはいられなくなってしまい、とりあえず地上に出ることにした。たぶんここには、「地上に出さえすれば視界が開ける」という誤解があったのだと思う。もちろんそんなはずはないのだ。東京駅の、あの赤レンガの外観が望めたのはよかったが(子どもらを立たせて記念撮影をした)、周囲はどこまでも続くビル群で、大手町駅までの道のりは地下の頃よりもさらに混迷した。結局にっちもさっちもいかなくなって、グーグルのナビを起動させ、ようやく大手町駅へと続く下り階段までたどり着いた。地下鉄って、電車の姿も見えないし、駅もただの下り階段なので、シュッとし過ぎだ。知らない人間には目印となるものがなくて本当に困る。Fミュージアムの入場は、時間指定の前売りチケット制なので、かなり焦った。しかし大手町駅という表示の下り階段を下りたので、そういう意味で「ここは大手町駅だ」という安心感はあったものの、そこから千代田線の乗り場まで、なんだか異常に歩かされた。ふだん車で行く近所のスーパーまでの距離を普通に歩かされたと思う。東京は狭いはずなのに、やけに地下道を歩かされるのは、東京の地下には秘密のとんでもないものが埋まっていて、それを迂回するためにぐるぐると変な道を通らなければならないようになっているからではないかと、よくある陰謀論めいたものを邪推したくなるほどに歩いた。東京駅からここまで、なんだかひどくカルチャーショックを受けてしまった。この街で賢く暮らしていくためには、たぶん気を常に張り詰めさせて、アンテナを目一杯に広げて、そしてたくさんのアプリを駆使しなければいけないんだろうな、と感じた。もういまさら無理だな、としみじみと思った。それでもなんとかかんとか、スマートじゃなく千代田線の乗り場にたどり着き、電車に乗った。登戸までは、長かったがそのまま連れて行ってくれた。
 登戸駅は、Fミュージアムには以前にいちど行ったことがあるのだが、そのときは実家から車で送ってもらったので、駅は利用したことがなかった。Fミュージアムの最寄り駅ということで、それを推そうとしているようで、駅の構内や周辺にはそれなりにドラえもんなどのキャラクターの装飾があった。その一方で、Fミュージアムの存在以外は本当にただの、そこまで柄がいいわけでもない郊外の町のようで、その混在具合がなんともいえなかった。直行のドラえもんバスに乗って、ようやくミュージアム前に降り立った。入場は14時からで、到着はその15分前くらい。東京での迷子時間も含めて、見事な時間配分であるといえよう。
 2度目のFミュージアム。前回はいつかと検索したら、2014年の5月だった。5年8ヶ月前。ポルガは3歳だし、ピイガは生後4ヶ月ということになる。なんだかびっくりする。今回訪れたのは、ポルガが目下ドラえもんにドハマりしているからで、こんなとき実家とFミュージアムの近さは奇蹟的だと思う。なかなか岡山在住の小学生は行きたいと思ってもFミュージアムに行けないだろう。もっともFミュージアム、前回行ったときも思ったが、そこまでむちゃくちゃおもしろい場所でもない。生原画とかは「おお」と思うが、それ以外はわりと淡々としたものだ。それでもシアターで上映されたアニメは、前回がどんなものだったかはすっかり忘れ、日記を見るとやけに酷評しているのだが、今回のものはけっこうおもしろかった。やっぱり違う漫画のキャラクターが贅沢に集合すると、スパロボ的なおもしろさがある。ミュージアムショップでは、メモパッドやピンズ、お菓子などを買った。ピイガはタケコプター型のヘアバンドを欲しがり、それは前回にも買ったもので、その場では滅法おもしろいもののような気がして欲しくなるのだけど、買って帰ったら家ではどうしようもなくなる(そして5年後には家のどこにもない)、ということは経験則で分かっていたのだけど、当時4ヶ月のピイガがそれを知り得ているはずもなく、仕方ないので買ってやった。いつ着けんねん。そんなこんなで今回は、せっかく来たからにはたっぷりとということで、カフェにも行って、閉館の18時までたっぷりと過した。ポルガに愉しかったかと訊ねたら、「うん!」という返事が返ってきて、まあそこで「うん!」以外の返事もないわな、とも思うが、まあ連れていけてよかった。
 帰りは母に迎えに来てもらう。便利。車で30分かからないくらいなのである。というわけで実家へと到着し、今回の帰省が始まる。叔父は来ていたが、今回祖母は山梨に用件があるとのことでいなかった。残念。いったい祖母に、正月に孫や曾孫に囲まれる以上のどんな用件があるのかと思うが、まあ僕には想像もつかない事情があるんだろう。初日から姉一家が訪れ、大人数で夕飯を食べた。夕飯は餃子。実家時代、餃子が好きで、その餃子好きがいまの僕の餃子好きに繋がっているに違いないが、母の作る餃子はいま食べると、おいしいはおいしいが、べらぼうにおいしいわけではなく、僕の作るもののほうがよほどおいしくて、意外な感じがする。僕の餃子好きは、もしかするとあの同じ形のものを作って並べる手仕事感がだいぶ下支えをしていて、それだけでだいぶ好きなところへ、独自の味の追及をしたものだから、それで激烈なものになっているのかもしれない。あと母親は相変わらず、母と姉と僕の3人での暮しが調理のベースになっているせいか、総計10人、酒を飲む人間は除外するにしても餃子をおかずとして食べる人間がその半数以上いる状況でも、米を2合しか炊かず、やはり足りなくなっていて、孫が4人できてだいぶ経つのにこの人これに関していつまでも学習しないな、と思った。
 そんな初日でした。