蛍見

 こんど蛍を見に行こうと義父母から誘いを受けており、それが先週の土曜日の晩に実行されたのだった。俺を抜いた5人で、義父の車で行けばいいんじゃないかとも思ったが、フリードで6人で行くというのが既定路線となっていて、抗いようがなかった。もっともフリードで6人乗車でどこかへ行くというのが、購入して1年になるが、初めてのことで(納車されてすぐに義父母を乗せて実家の周りを1周したことはある)、そういう意味ではいい機会だった。いざというときは3列目のシートが現れるフリードの、わが家の「いざ」のなさたるや。
 それにしても蛍なんてこの大都会島根に存在するのか、いったいどれほど車を走らせなければならないのか、と危ぶんだが、助手席の義父に案内された道は、僕が日々通勤に使っている道で、そのだいぶ序盤、自宅から10分くらいのあたり(山の中)に、それまでまるで認識していなかった脇道があり、そこを1分ほど、あまりの暗さ、道の狭さ、静けさにおののきながら登ると、「ここだ」と、なんとなく駐車スペースっぽくなっている場所があり、そこに車を停めて、外に出た。山なので、海抜としては上がっているはずなのだが、(深い……)と思った。真っ暗闇、鬱蒼とした木々、そして謎の祠。あまりにも深い、ディープスポットであった。
 実を言うと、僕は以前にも蛍を見たことがある。子どもの頃だ。自然の中で蛍を見た、見に行った、という思い出だけはあるが、それが家からどのくらい離れたどういう場所だったのかはまるで分からない。でもきっと、横浜市内か、せいぜい川崎市くらいだろうと思う。さすがに自宅から10分ということはないだろうが、横浜や川崎にだって山はあり、清流もある。意外と田舎だから、というわけではない。自然というのは強くしぶといので、山も清流もない、完全なコンクリートジャングルなどという世界は、作ろうと思ったって作れないのだ。最近しみじみそんなふうに思う。とは言えやっぱり横浜界隈のことなので、その蛍が見られるスポットには、人がたくさんいた。自分もその一員となり、大勢の人々とともに、蛍が明滅するのを眺めた。もうそれはだいたい30年前の出来事だ。
 それに対して、30年後の島根の蛍スポットには、われわれ6人以外、誰もいなかった。山の中を走る車の音も聞こえない。あるのはせせらぎの音だけである。蛍という虫は、飛ぶとき、羽ばたく音がまるでしないものらしい。漆黒の中を、ふわ、ふわ、と熱を持たない光が幻想的に浮かんでは消えた。数はそれほど多くなかった。その頼りない少なさが、ますます闇を濃くしているような気がした。
 そんな30年ぶりの蛍との邂逅だった。蛍はきれいな水のある所にしか棲息しない、などと言われるが、逆に言えばきれいな水のある場所にはわりと全国的に棲息するわけで、そんなに儚い昆虫ではないのだろうな、と思った。

疲れるスイミング指導と稲佐の浜で壊れたスマホといい刺身の手巻きずし

 ポルガが市でやっている工作教室のようなものに参加していて、それが開催される土曜日で、かつ僕の労働が休みのときは、僕がピイガを連れてプールに行く、というのが、今回から施行されることとなったわが家の恒例のパターンで、今週はそれの初回であった。というわけでピイガとふたり、プールに行く。もちろん会員になっているいつものプールである。実は昨晩、金曜日の退勤後にも僕は行っていたので、15時間くらいしか間が空いていない。大みそかから5月まで泳がずにいたことを思えば、とんでもない間の詰まり方である。ピイガは、去年の10月24日に家族でおろち湯ったり館に行った記録があるので、泳ぐのはこれ以来だろう。果たして今年の夏は、学校でプール授業はあるのだろうか。だいぶ怪しい。せいぜいこうして、ポルガも含め、練習のために連れてきてやろうと思う。半年以上ぶりのプールで、ピイガは初めのうちは戸惑い、体の動きが見事にバラバラだったが、ぴたりと横について矯正し、1時間半ほどやって、まあまあ整った。顔を水につけるのができないとかではないので、体の動きさえ身に付けばそのうちいい具合に泳げるようになるだろう。
 子どもとの午前中のプールは気持ちがよく、夜は夜でファルマンとHIITをして(なんだかいやらしい行為の隠語のようだが、YouTube動画に従いながらの純然たるエクササイズである)、実に健康的に過した1日だったのだけど、少しオーバーワークだったのか、次の日に疲労が残った。水の中での指導って、自分でクロールで泳ぐのとはぜんぜん別の力が入るらしい。
 残っていたのだが、好天の日曜日だったので、外出しないのももったいない気がし、子どもは公園をせがんだがそれは回避し、稲佐の浜なんかに行ってみる。地元民はあまり、「よし、稲佐の浜に行こう」と言って稲佐の浜に行ったりしないので、ずいぶん久しぶりだった。


 引き潮のタイミングだったようで、あの巨岩はすっかり陸上にあり、間近で見ることができた。季節もいいのか、岩の上の草むらに花も咲いていて、本当にとてもよかった。稲佐の浜って、前に来たときはもっと、荒々しくて素っ気なくて武骨な感じがあった気がするが、観光地化に力が注がれたようで、周囲の整備も進められていて、どうやらいい具合に仕立て上げられているらしかった。いいことだと思う。実際に人出もそれなりにあった。僕と子どもたちは、海に足を浸しもした。海の水はまだ冷たかった。日中は夏日になってそれなりに汗ばんだりもするが、まだ朝晩はだいぶ涼しいものな。
 そんな、来てよかった大満足の稲佐の浜だったのだが、ここでアクシデントが。ファルマンがスマホや一眼レフでの撮影中、スマホを地面に落下させてしまい、そこからスマホがうんともすんともいわなくなってしまったのだった。でも充電がちょうどなくなっただけかもしれないから充電しよう、とか、カードをいちど抜き差ししてみよう、とか、帰宅後にもいろいろ試すが、それでも一切の反応がない。ファルマンがスマホを落とすところを、僕は波打ち際から見ていたが、ぽとり、という感じで、そこまで強く落ちた様子はなかった。ファルマンの使っていたスマホは、僕が1年ちょっと前に、スマホをポケットに入れて持ち歩いていなければならない環境になったため、買って使っていたもののお下がりで、その当時になんども、走った際に尻ポケットからスマホが放り出される、なんてことがあったので、そんな程度で壊れるはずはないと思った。だとしたら原因は砂だろうか。稲佐の浜の砂は見るからに細かかった。さらには落としたあとに拾い上げたら、元々のものなのか、整備工事によるものなのか、その場所の砂には砂鉄がだいぶ含まれるようで、スマホにはカバー越しに砂がびっしりとくっついていた。めっちゃ細かい磁力交じりの砂。なるほどいかにもスマホによくなさそうだ。だとしてもいちど落としただけで瞬殺とは。たまたまだろうか。落としただけでスマホが壊れるのなら、稲佐の浜の観光地化に暗雲が立ち込める。ファルマンのスマホは、そもそもが安物の僕のお下がりだから諦めがついた。これが10万円くらいするような最新のものだったら目も当てられない。
 ともかく急いで新しいものを調達せねばならず、ネットも見たが、これというものは見出せず、仕方なく午後ふたたび車を出し、家電量販店へ。しかし家電量販店というのは、SIMフリーのスマホ本体だけの販売なんてことはしていないそうで、諦めかけ、ネットで注文したらあさってには届くかねえ、などと話していたが、ふと思いついて中古屋に行ったらわりと新しいものがお手頃な値段で売っていたので、ええやん、となって買って帰った。まあ本当に、そもそもがお下がりだったから、壊れても「まあしょうがないか」となったが、普通に考えればひどい話である。ともあれファルマンのスマホは、これまでよりちょっとスペックがよくなって、刷新された。
 帰宅後は、そもそも昨日からの疲労があったのに加え、浜辺で陽射しを浴びたのも効いたのか、いよいよぐったりしたので、最近にしては珍しく、昼寝をした。窓を開け、5月の16時の風を感じながらの昼寝は、こういう気持ちよさを感じるために生きているのかもしれない、と思うほどに心地よかった。
 晩ごはんは手巻きずし。GWに実家でもやったが、たらこやアボカドなど、にわかに周囲の材料がいい具合に調達できたため、外堀を埋められるようにして機運が高まった。刺身はいつもの、近所のスーパーの日曜日に出す盛り合わせだったのだが、なんか今日はこのラインナップの質がやけによくて、マグロなんか明らかに中トロで、サーモンも水っぽくなく、だいぶ祝福されていた。そうして家族で囲む手巻きずしは、やはりとてもおいしく、しあわせを感じた。手巻きずしの多幸感は、なんか突き抜けていると思う。たらこマヨや玉子焼きは途中で売り切れ、刺身は予想通り余った。日曜日の夜の晩酌の肴が豪華だと嬉しい。このあと「鎌倉殿の13人」を観ながら、いい刺身で酒を飲むのだ。

フリードの1年点検とたこ焼き

 フリードの1年点検を行なう。もう1年が経ったのだ(正確に言うとまだ11ヶ月くらいなのだが、ちょうどオイル交換のタイミングになったので早々にやってもらった)。フリードは最初こそ軽自動車からの変化で違和感があったが、今ではすっかり気に入っている。車体カラーの黒も、納期的にそれしかちょうどいいのがなかったから渋々の黒だったが、今はもう「黒のもんだな」という気持ちになっている。なにしろ滞在時間が長い(すなわち通勤時間が長い)ので、居心地はどんどんよくなるに決まっているのだった。
 フリードがやってきて1年になんなんとするということは、ファルマンが免許を取得してからも1年が経つということだ。ということは初心者マークを外してもいいということになるが、どうやらファルマンにその気はまるでないようだ。たったいま検索をしたら、初心者マークは1年以内に着けないで運転すると違反だが、1年以上経って着けていても別に違反ではないらしい。じゃあ着けていればいいと思う。客観的に、ファルマンの運転の様を見ていて、心の底からそう思う。ファルマンは子どもを病院に連れていった際、診療の前に付き添いの親も含めての体温検査を求められたが、運転の緊張によるヒートアップのためにとんでもない高温をはじき出してしまい、院内に不穏な空気を漂わせたことがあるため、次からは病院に行くときは額にひえピタを貼っていくことにしている、というエピソードがあり、それを先日の横浜で披露したらとてもウケた。まだそんな塩梅なので、初心者マークは決して外せない。
 午前中にホンダに車を持っていき、代車で帰り、夕方に作業完了の連絡を受けるまでは、家でのんびりと過した。子どもたちは昨日、2回目の新型コロナワクチンの接種を行ない、5歳から11歳までが受ける子ども用のそれなので、ポルガにとっては負担は小さいようだが、ピイガにはけっこう来るらしく(今年も学校では1年生に間違えられたようだし)、しかも昨日から微妙に風邪気味ということもあり(病院でそのことは伝えたが、医師曰く「ぜんぜん関係ないから大丈夫」とのことだった)、今日は不調そうだった。昼はうどんにした。裁縫は、母の日の宿題を終えたので、久々に自分のビキニショーツに掛かることができ、癒された。ショーツ縫ってると、やけに癒される。健全な趣味だな。
 車を回収したあとは、晩ごはん。晩ごはんは、たこ焼きの予定を前から立てていて、ピイガもそれなりに回復していたので、実行した。ただし食卓を一緒に囲むのは僕は止すことにして、しかしたこ焼きを焼く役目は僕なので、どうしたかと言えば、IHクッキングヒーターからたこ焼きの鉄板、材料一式を部屋に持ち込み、工業用ミシンの横のスペースでせっせとたこ焼きを焼いて、焼き上がったらリビングに届ける、という方式にした。なんだかおもしろかった。工業用ミシンのテーブルでパソコンを使う人間はたぶんそれなりに存在するが、たこ焼きを焼いた人類はさすがに僕が初ではなかろうかと思った。たこ焼きはおいしかった。ちなみに今回、ウインナーやうずら、もちたらこ、チーズちくわなど、いつもの具たちにがんばってもらい、とうとうタコを使わなかった。以前から、具の中でタコがいちばん、値段が高いのに人気が低いということが判明していて、それでもたこ焼きという名称を用いる義理からたこは必須としていたのだけど、今回はいよいよ、別にいらないや、となったのだった。まさかたこ社長も、自分の興した会社を追われる羽目になるとは思っていなかったろう。手巻きずしも、刺身はほんの少しでよくて、たらこマヨとか、アボカドとか、納豆とか、卵焼きとか、そんなもののほうが、むしろおいしかったりする。舌がどんどん安くなっているのだろうか。
 そんな休日だった。なんだかあっという間だった。

2年4ヶ月ぶり帰省

 帰省なり旅行なりの外泊を伴うイベントの際、事前にその日取りをウェブ上に晒さない、というライフハックがあり、自意識過剰だよなと思いつつ、今回もそれを実行した。今回は事前に、「3日間しかないので飛行機で帰省するはめになった」という日記を書いたが、4月29日~5月1日の前半3連休か、5月3日~5日の後半3連休か、どちらで帰省するのかはあえて書かなかった。そして今回の場合、実際に帰省をしたのは後半3連休のほうだったわけだが、だとすれば自宅でのんびり過した前半3連休に平常の日記を投稿してしまったら、すなわち僕が帰省するのは後半3連休だということが消去法で判明してしまうため、それを避けるためにこの期間の日記の投稿も自重したのだった。切なくて怖い。ほとんど誰にも読まれていないブログのくせに、この危機意識の高さが切なくて怖い。
 というわけで5月3日~5日、一家で横浜の実家に帰ってきた。一家での帰省は2020年の1月以来(単独帰省は2020年11月に行なっている)なので、実に2年4ヶ月ぶりである。帰省した1月の下旬あたりから新型コロナの災禍が始まっているので、この2年4ヶ月は、そのまま人類が新型コロナに翻弄されていた2年4ヶ月である。コロナ禍になって半年後くらい、最初の盆休みのあたり、「コロナが明けたらまた会おう」みたいなキャッチフレーズで帰省の自粛が呼びかけられたが、このたびこうして帰省できたということは、コロナというものは「明けた」といっていいのだろうか。どうも蓋を開けてみたら、これは明ける明けないという尺度のものではないようでもある。人によっては明けているし、地域によっては明けている。裏を返せば、いつまでも明けない人もいるのだと思う。ちなみに島根県から東京や横浜に行く今回の帰省について、僕は職場で誰にも伝えていないし、子どもたちにも「極力いわないように」と言い含めた。まだまだそういう情勢だったりもする。
 3日の朝の飛行機に乗る。事前視察を行なった出雲空港へはつつがなく到着し、飛行機へと乗り込んだ。後悔することが前もって分かっていた飛行機は、やっぱり動いた瞬間に大いに後悔した。あの勢い。そして飛び立ってすぐの、斜めになっている間がつらい。規定の高みまで上りきり、安定飛行しているときはまだいいが、あの斜めになっているとき、すなわちシートベルト着用のサインが点いているときというのは、たぶんだいぶ、こちらが思っているよりもはるかに、安全が保障されていないんだろうと思う。あのときなにもなかったらめっけもん、くらいの感じだと思う。そのくらいのスリルを感じる。実際、今回もそれの際にそこそこ揺れた。飛行機が揺れるたびに、揺れるってどういうことだよ、と思う。なにぶんこちらは、飛行機が飛べているのはタイトロープ的なバランスでぎりぎり実現しているものと捉えているので、揺らぎなく飛んでくれないと困るというか、揺らいだ状態で浮かんでいられるはずがないと固く信じているのだ。だから揺らいだ瞬間、鉄の重みで一気に地上に叩きつけられるに違いないと思ってしまう。そのため少し揺れるたびに、後ろの座席から背もたれの間を通して伸ばしてもらったファルマンの手を、ぐっと握りしめた。力が入りすぎて、ファルマンは痛がるし、僕も筋肉痛になった。それでもなんとか、飛行機は無事に羽田空港に到着した。時間にすると1時間15分ほど。速い。飛行機はやっぱりびっくりするくらい速かった。もっともこれだけ怖いのだから、そのくらいのメリットがないと困る。
 羽田空港からはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗る。空港周辺の埋め立て地的なエリアを通り、川崎の工業地帯を通り、やがて北山田などの見覚えのあるエリアに入って、1時間ほどで着いた。たまプラーザには母が迎えに来てくれた。久々の再会である。
 家では祖母が待っていた。祖母はぼちぼち94歳になるらしいが、相変わらず元気のようだ。2年4ヶ月の間にポルガは祖母の身長を超えていた。
 しばらくしたら姉一家がやってきた。なにぶん2年4か月ぶりなので、今回は帰省の日取りを打ち合わせし、姉一家もキャンプなどの予定を立てずに待ち受けてくれたのだった。ちなみに僕ひとりの11月の帰省の際にも、姉一家とは顔を合わせなかったので、家族と同じ月日ぶりである。ただし甥(小4)はこの3日間、所属しているサッカークラブの合宿だそうで、今回は会えずじまいとなり、2年4ヶ月はさらに更新されるのだった。その代わり姪(中2)は2泊3日の間、がっつりと娘たちと絡んでくれた。中2になったというのに姪は相変わらず快活で、義兄の遺伝子を強く感じた。なんで中2なのに鬱屈としたものがまるでなさそうなんだろう。自信家とか傲岸不遜とも違う、あの正常さはなんなのだ。ファルマンは「陽キャ」といっていて、まあつまりその一言なんだろうな、としみじみと思った。ポルガは、たぶん年長者と話す機会があまりないこともあるのだろうが、2歳年上の従姉に相変わらずぞっこんで、横浜滞在中ずっと、既存の家族3人に対して冷たかった。そういうところだ。2歳年上の従姉に憧れながら、ポルガにあの快活さの片鱗も見出されないのは、そうやって相対的に家族の扱いがぞんざいになる、そのあたりの性根に原因があるのだと思う(そしてそれはこの両親の子である以上、どうしようもないことなんだよ)。
 それからは近所を少し散歩したり、姉一家が持ってきたモルックをしたり、スーパーに買い物に行ったり、のんびりと過した。今回は2泊3日で、2年4ヶ月ぶりで、コロナも完全に終焉したわけではない、などのもろもろの事情を鑑みて、どこかに行くような予定は一切立てなかったので、半日で早くも時間を持て余し始めたこんな過し方で、しかし合っているのだった。今回はこれでいいのだ。
 晩ごはんは定番の手巻き寿司。それなりに豪華で、実は準備が楽なので、こういうときは手巻き寿司一択だ。叔父もやってきて(もとい叔父は車を運転できないので姉が迎えに行くのだが)、にぎやかに食べた。甥が残念だったが、まあしょうがない。
 2日目は唯一の丸一日動ける日であり、予定は立てないといいつつ、さすがにずっと家でダラダラしているわけにもいかないので、出掛けることにした。目的地はこれも定番の、こどもの国。手巻きずしもこどもの国も、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すことだと思うが、毎回置かれる状況が一緒なので、結論が同じになるのは仕方がないことだ。いちおう、鎌倉はどうだろうということも検討したのだが、準備不足だったし、さすがにハードすぎる気もしたので却下された。こどもの国は大盛況だった。いつぞやテレビで観た、こどもの国はこんな人出です、の中継映像に出ていた、バラックのようにびっしり連なるテントの風景を目の当たりにした。ありとあらゆる設備が順番待ちで、島根の公園の尊さを思い知った。もちろん子どもはそれでも十分に愉しんだだろうが。しかし陽射しがなかなか強く、弁当も持ってきていなかったので、3時間ほどの滞在で、昼前に退園した。
 午後は姪のswitchで、子ども3人と僕の4人プレイで桃鉄をした。なにぶん時間がたっぷりあるので、5年設定でじっくりやる。3年くらいだと運の要素が大きいが、5年になると地力がものをいう。無事に子どもたちに大差をつけて優勝した。だてに大学生の頃、コンピュータとのふたりプレイで99年間やっていない。ゲーム自体はリニューアルされ、マス目も増えているとはいえ、経験値が違う。気分がよかった。
 晩ごはんは餃子。これもかなり定番だな。僕が作る餃子よりも野菜の比重が高く、軽やかに食べられた。ちなみにこの途中で、ホットプレートにつないでいた延長コードの線が焼き切れるという、あわや大惨事な出来事があった。延長コードの劣化が原因だったようで、昔の人間は物持ちがいいが、よすぎるのも考え物で、ちょうど機械類が老朽化したときに、持ち主も年を取っていて、その組み合わせはきわめて恐ろしいと思った。大ごとにならなくてよかった。
 最終日は、昼前くらいに家を出ればいいので、それまではのんびり。姪が朝からやってきたので、ファルマンと子どもたちを連れて散歩ついでに、柏餅を買いに行く。子どもの日なんだから子どもに柏餅を喰わさねば、という使命感に駆られたのだが、姪からは「なんで急に柏餅なの?」と不思議がられた。その家々で、親から子に与えられる情報、伝えられる常識は異なる。そういえば義兄はいつか、「となりのトトロ」を観たことがいちどもないと言っていた。どうもやっぱり人種がぜんぜん違うな、と思った。早めの昼ごはんの焼きそばを食べたあと、母と祖母とともに7人で柏餅を食べた。
 これで今回の帰省は終了である。玄関先で祖母と姪と別れの挨拶をする。祖母の「次はいつだ」という問いかけに、年末年始はやはり気候的に帰るのは難しそうで、だとしたら1年後とかになるかなあと頭の中では思いつつ、明確な返答は避けた。姪やポルガは、「夏休み!」と勝手に話を進めていたが、3ヶ月後は嫌だよ。それはよそうよ。
 おとといと同じく母にたまプラーザ駅まで送ってもらい、そこからバスで羽田空港へ。行きでは空港に着いてすぐに来たバスに飛び乗ったが、帰りは時間に余裕を持って空港にやってきたこともあり、空港の中でしばらく過す。ファルマンの実家へのおみやげを買ったり、行きの飛行機で耳に不調を来したピイガのために飛行機専用の耳栓を買ったりした。あと展望デッキにも出た。羽田空港の展望デッキは、出雲空港と違い、次から次へと飛行機が飛び立つのでおもしろかった。
 帰りの飛行機は、行きよりは揺れなかったが、それでもやっぱり飛んでいるのでどうしたって恐ろしかった。行きは隣がポルガだったので自重したが、帰りはピイガだったので、エロ小説を読んで気を紛らわそうと思った。しかし読んで、それなりに淫らな気持ちになっても、やはり飛行機に乗って高度何千メートルの位置にいるのだという事実が邪魔をするのか、勃起には至らず、もどかしい感触があった。パイプカットした状態ってこんな感じかな、などと思ったが、あれは精子が出ないだけで勃起はするってことだから違うかもしれない、とも思った。かくして飛行機は無事に出雲空港に着陸した。行きも帰りも飛行機は無事に離陸し、着陸した。それゆえにこうしていま日記を書けている。ありがたいことである。
 3日の朝に出発して、5日の夕方に帰ってきたのだから、自宅はたったの2日ぶりということになる。そう考えると非常に大したことないように思えるが、それでも十分に自宅への恋しさは募った。やっぱり自宅は愛しいな、と思った。
 そしてこの夜は、次の日がそれぞれ出勤と登校ということもあり、そしてなにより痛烈な疲労感により、家族全員、22時くらいに寝た。いくら飛行機が1時間ちょいといっても、移動による疲労感というのは、時間よりも距離による作用のほうが大きいように思う。深く寝た。実家の寝具は、畳に布団で、マットがないので固いのだ。あれでだいぶ腰がやられる。自宅の寝床は心地よいなあと思った。
 そんなわけで、無事に2年4ヶ月ぶりの帰省が成った。正月に帰る予定を連絡しておきながら中止した負い目などもあったので、実行できてよかった。心懸かりが取れた。これで当分は行かないでいいだろう。当分は遠出したくない。

出雲空港視察

 図書館に行くついでに、出雲空港まで行ってみる。直前に迫った空の旅の、シミュレーションである。飛行機に乗るにあたり、事前に空港に行って心の準備をしておくって、まるで大昔の人のようだなと我ながら思う。
 前回ここを、すなわち飛行機を利用したのは、いつのことだったか。岡山県民だった時代は、いちども飛行機の世話にならずに済んだ。そもそもピイガは生まれてからまだ飛行機に乗ったことがないと考えると、少なくとも8年以上前だ。こんなときは過去のブログを検索すればよい。その結果、2013年の4月であることが判明した。2012年の夏に第一次島根移住生活が始まり、晩秋から春まで酒蔵に勤め、その年季が明けたところで3人で横浜に帰省、というとき(ちなみにこの1ヶ月後の5月に、ピイガを妊娠していることが判明する)。この際、横浜にはなんと5日間も滞在していて、それならば陸路で移動すればよかったんじゃないかと思うが、当時ポルガは2歳3ヶ月であり、7時間あまりの移動は厳しいと判断したのだろう(7時間なんていつでも誰でも厳しいが)。
 よって飛行機は9年ぶりということになる。9年も経つと、前回の搭乗の思い出はほとんど残っておらず、ただ「飛行機=怖い」という、いたずらな恐怖心ばかりが募ってしまう。今回はそれをいくらかでも払拭するために、空港と飛行機を目の当たりにしておくことにしたのだった。今回の出発はわりと朝早くの便で、慌ただしくなりそうなので、駐車場や搭乗口を確認しておくという、実際的な目的ももちろんあった。
 9年ぶりの出雲空港は、行く前に思い出せたわけではないが、行ったら「こうだった、こうだった」の連続で、びっくりするくらいなにも変わっていなかった。商業施設でも、公共施設でも、9年も経てばなんだかんだでいろいろ変化するものだと思うが、そういうのが一切なかった。考えてみたら、牧歌的なダイヤで飛行機が発着する地方空港って、流行りも廃りもなく、ただひたすらに悠然と機能をこなすだけなので、本っ当になんっにも変わる必要がないのだ。ここまで長年なんにも変わらない場所というのも珍しいのではないかと思った。僕はこれまで10回もここを利用したことがないと思うが、それなのに郷愁に駆られた。移り変わりの激しい世の中で、ここの時は止まっているように思えた。ロビーを9年前の我々が歩いていても不思議ではなかった。
 3階の展望デッキに出ると、飛行機が停まっていた。我々が乗る羽田行きではなく、それよりもひと回り小さい機体の大阪行きだったが、20分後くらいに出発するというので、待って離陸の瞬間を見学することにした。滑走路を眺めると、出雲空港は本当に広々とした場所に、のっぺりと存在していて、周囲に高い建物など一切なく、たぶんパイロットにとってはとても操縦しやすい空港であるに違いない、と思った(冬は気候が荒れるので別だが)。それをファルマンに言ったら、「でも鳥が突っ込んでくるかもよ」などという言葉が返ってきたので、頭に来た。出雲空港は宍道湖のほとりにあり、そして宍道湖の水鳥はラムサール条約によって丁重に守られているのだ。そういうことを思い出させるんじゃないよ。
 タラップや牽引車から引き離された飛行機は、やがて自力で動き始める。飛行機の巨大な機体を支えるにしては、3つの車輪はあまりにも矮小のような気がして、特に先端のひとつには過度な力がかかってしまっているのではないか、と見ていて思った。なにしろ着陸の時、あれはまず地面に着く所だろう。そのわりに頼りなくないか、とやきもきする。動き始めた飛行機は、滑走路の端までやってくると、くるりと旋回する。羽田空港などだと、この動き始めから、「滑走路に入る順番待ち」の時間が長かったりして、ハラハラの時間が長引いて精神が削られたりするが、出雲空港ではそんなことはない。周囲からのプレッシャーもなく、パイロットも平静な気持ちで運転ができるに違いないと思う。旋回してから再び動き出すと、それはもう離陸のための走行であり、轟音とともにすぐに猛スピードとなり、機体は進む。そして右から左へ、展望デッキの我々の前を通り過ぎたと思ったら、ス、と、フワ、と飛行機は空中に持ち上がって、そのまま斜めに飛んでいった。やはり見れば見るほど、このス、フワ、の瞬間が分からない。すごい勢いなのは分かる。分かるが、なぜ上に行くのか。翼をはためかせているのならまだしも、そのままの形で上がるのだ。どういう理屈なのか。やっぱり嘘なんじゃないのか、と思う。
 実際に見たことで、心構えができたのかどうなのか、自分でもよく分からなかった。これまでの恐怖心とは少し違う心理になったような気はした。ではどんな心理かと言えば、釈然としない気持ちだ。飛行機が飛ぶのは、見れば見るほど納得がいかない。納得がいかないまま、数日後には機上の人となる。まあ、世の中は、納得のいかないことばかりだけどさ。

 ここで巻末付録として、8年前に飛行機に乗った際の記事を引用しておく。
 まずは行き(「USP」2013年4月8日)。
 搭乗口の待機場所のガラス越しに、これから乗る飛行機が見えて、操縦席のパイロットが、子どもたちが手を振るのに応えて手を振っていて、(いいパイロットさんのようだ)と感じると同時に、(しかし伏線ではないのか)とも思った。普段はパイロットの実存なんて気にするものではないのだ。それが今回に限って存在を主張してきたことに、自分たちは「あのパイロット」によってひどい目に遭わされることになるのではないか、と思った。飛行機に乗る前ってなにもかもが伏線のような気がしてくる。
 そして乗った9ヶ月ぶりの飛行機は、相変わらずおそろしかった。今回思ったのは、そのタイミングしかないのは分かるけれど、あの僕がいちばん嫌いな、離陸の時の、車輪がそろそろと動き出して、滑走路まで移動し、飛行機が本気を出し、ボバーッと前方に向けて突進を始めるあの瞬間、あの瞬間に、モニターで緊急の際の対応についてやるのはいかがなものか、ということだ。離陸してからでは遅いので、本当にあの時しかないんだろうけど、でもやっぱりちょっと悪意がある気がしてならない。さらされている状況だけで十分にエマージェンシーなのに、そこへエマージェンシーな映像が画面に展開されるのだから、心拍数は一気に上昇し、取り乱し、もうダメだ、という気分になる。
 飛び立つ瞬間、僕の体は左斜め前方の虚空に向けて引き攣りつつ伸びていたという。「なんだったの、あのポーズ?」とあとからファルマンに訊かれたが、僕がああしないと離陸がままならなかったのだ、と正直に答えたところで信じてもらえないだろうから、「ははは……」と力なく笑うにとどめた。離陸して、シートベルト着用のランプが消えてからも油断はできず、高度が増していることを思えば危険性が増していることは間違いなく、少しの揺れに、すわ「これまでの航空史上で確認されたことのないレベルの突風」か、そもそも天気予報があれほど当たらないのにどうして航路の気流が問題ないかどうか分かるというのか、と絶望的な気持ちになるが、顔を見上げるとCAさんたちが何事もなかったように飲み物を配っているし、乗客の誰もパニックを起こしていないので、仕方なくそのたびに平静を装う。飛行機は斯様に敏感な人間ばかりが損をする乗り物だ。高度何千メートルという状況にあって危機感を抱かないなんて、動物としての正常な感覚が鈍磨してしまっているんだと思う。そんな中でポルガの無邪気さが切なかった。自分はなんという不憫な状況下に大事な娘を置いてしまっているのか、と思った。親のエゴで。
 ちなみに9ヶ月前とは較べものにならない2歳児のやかましさを、飛行機に乗る前は危惧していたのだけど、乗ってみたら飛行機は割とずっとゴーッとうるさくて、2歳児が少々わめこうが周りに音が響くようなことはなかったのだった。よかった。かくして飛行機は無事に羽田空港に着陸した。着陸した瞬間、ああ、僕の人生はもうちょっと継続するのだ、と思った。帰りにも乗るので、あと5日は継続するほうのパターンだ。その5日間をせいぜい悔いの残らないように生きよう、と思った。
 続いて帰り(「USP」2013年4月12日)。
 そして飛行機に乗り込む。行きの飛行機よりも大きい機体のようで、「大きい機体は揺れが少ないよ」とファルマンが甘い囁きをする。それでもやっぱり走り出し、ディスプレイで非常時の身の振り方を伝え出し、やがて体が上斜めに向かう不自然な状態になると、後悔した。飛行機が飛ぶといっつも後悔する。飛ぶ前は、せっかく地に足がついていて、死の危険とは縁のない状態だったのに、みすみす落ちたら死ぬ状態に身を置いてしまった、という後悔だ。置かなければ済む話だったのに、なんで置いてしまったんだ、といつも失敗した気持ちになる。こんなことを思ってしまうのは、基本的に乗客は座っているだけで、気持ちに余裕があるからで、恐怖はこの余裕につけ込んでくるのだ。なにか他のことに集中しようと、吉祥寺のブックオフで買ったグルメ雑誌の、駅弁特集のページを必死になって眺め、「ごはんに刻んだ胡桃が混ぜ込んであり意外な食感が愉しめる」などと書いてあるのを、ごはんに胡桃はどうなんだろう、と思ったりするのだけど、それで救われるのは全体の1割くらいで、やはりまだまだ余裕があってしまい、恐怖を感じることができてしまう。それで思ったのだけど、こんな僕みたいな人間のために、株主総会における総会屋のような感じで、そちら側の人を雇って乗せ、飛行機に乗っている間、その人が僕のことをさんざん怒鳴りつけていればいいんじゃないだろうか。そんな事態に陥れば、飛行機の恐怖感がだいぶ薄れる気がする。だけど到着後、心底くたくただろうな。あるいは気絶させ屋(しめ技の達人とか)ということになるけれど、しかし死の恐怖を味わいたいわけではないが、いざ飛行機が墜落するとなったとき、意識がなく眠ったまま死ぬというのはやはり嫌なので、やはり怒り屋のほうがいい気がする。怒り屋。だめだこりゃ。こんなくだらないジョークを言ってしまうのも仕方ないくらいに、山陰の飛行機って本当に怖いのだ。今回も中国地方に入り、高度を下げるため厚い雲を抜けようとするあたりで、ファルマンでも「わあっ」と声を上げてしまうほどの揺れがあったのだ。本当に信じられない。山陰地方信じられない。山で隔てられているせいで陸路が不便なくせに、空路もこんなんで、一体なにを考えているの、と思う。山陰地方がまるごと天の岩戸なのかもしれないね。しれないよ。
 それでもこうしてこのことをブログに書けているということは、飛行機はなんとか無事に着陸したのである。たぶん、いつか「飛行機が嫌だった話」が書けず終いのときが来るのだろうな、と思う。 
 

 

広島旅行2022浅春 ~39歳の目覚め~

 日付が変わってファルマンの誕生日になった、その1時間後あたり、ファルマンは物音で目を覚ましたという。それは隣室から聞こえてきているようで、はじめはなんなのか判らなかったが、繰り返される一定のリズムの正体に、ファルマンはやがて思い至ったという。そしてリズムは次第にペースを上げ、やがてフィニッシュを迎えたそうだ。ファルマン、39歳になって最初に起った出来事がこれ。これからの1年間を暗示しているのだろうか。
 そのめっちゃおもしろい事態の間、ぐっすり眠っていた僕は、いつものように6時過ぎに目を覚まし、家族を起こさぬよう準備をして、朝風呂に向かった。気持ちがよかった。とてもいい目覚めだった。ドーミーインを心ゆくまで堪能した。
 チェックアウト後は、ビル街の中を車で進み、広島城へとやってきた。そっち方面は本当に詳しくないので、広島に城があるなんてこれまで知らなかった。ならばなぜ来たかと言えば、ポルガが、今年の初詣から御朱印帳を始めたことで神社や城に興味を持ち始めたため、広島城で御城印をもらう(買う)というイベントが旅行に組み込まれたのだった。ちなみにもちろん昨日の厳島神社でも御朱印を書いてもらっていた。
 案内された少し遠い市営駐車場に車を停め、歩いていくと、広島城のお膝元には、広島護国神社という神社があり、桜がちょうど満開の晴れた大安の日曜日ということもあって、お宮参りやら祈祷やらの人々でとても賑わっていた。なんならあとでこちらでも御朱印をもらおうと話しながら、まずは広島城へと入城する。中は5階建てくらいで、当時の文化や道具などが紹介される、博物館のようになっていた。最上階の天守閣では、建物の外側に設置された通路で360度を見渡すことができ、なかなかいい景色だった(もっと高い建物が周りにあったけど)。昨日行った宮島も見えた。城を出たあとで、やはり護国神社にも立ち寄り、参拝したり、御朱印をもらったりした。つまり今回の広島旅行で、ポルガは新たに3枚分をゲットしたのだった。御朱印帳、なるほどコレクター心というか、スタンプラリー心というか、そういったところを刺激されてなかなか愉しそうだ。ただ旅行するより、旅行先のそういうのを目的にすると、より面白みが増すだろうと思う。
 広島城からは、歩いて次の目的地、原爆ドームや平和記念公園のエリアへと向かう。幸いなことに、このあたりは徒歩圏内なのである。ちょっと歩いて、大きな道を渡ると、すぐ目の前に原爆ドームがあった。たぶん子どもの頃も見て、修学旅行では確実に見て、そのためおそらく3回目になると思うが、やはり迫力があり、そこだけ空気の質が違っているような気がした。世界遺産であり、有名スポットだが、観光地と無邪気に言うわけにもいかず、子どもらを前に立たせて写真というのもどこか違う気がして、ふむー、と粛々とした気持ちでしばし眺め、先に進んだ。先には平和記念公園があって、花見客でとても賑わっている様子だった。平和記念公園って8月15日の式典でしか見ないので、いつもあんなふうな、かしこまった空間なのかと思っていたが、街の中にある公園として、明るく利用されているようで、なんだかホッとした。なにしろ平和を記念する公園である。平和ならば平和に使えばいいのだ。いま世の中が平和なのかと言えば、あまりそんなこともないけれども。
 園内では大勢の人が、ベンチに座ったり芝生に腰を下ろしたりして、酒を飲んだり食事をしたりしていたので、わが家もここで昼ごはんを食べることにした。公園からの脇道にセブンイレブンが見えたので、お弁当でも買おうかと歩みを進めたところ、松屋の袋を提げている人とすれ違い、松屋があるのか! と色めき立ち、松屋に方針転換した。広島まで来てなぜ松屋、という話だが、実は島根県どころの話ではなく、山陰地方には松屋がないのだ。そのため松屋は十分に、旅先でしか味わえないグルメの要件を満たすのだった。セブンイレブンの向かいには、広島風お好み焼きの店が行列を作っていたが、そんなものには目もくれず、松屋を探し求めて歩く。セブンイレブンの奥には、予想外の商店街が続いていた。阿佐ヶ谷パールセンターを連想するような、この商店街の感じが、やっぱり都会なのだと思った。いろいろな店があり、歩いているだけでおもしろかった。そしてしばらく進んだところで無事に松屋を発見し、牛めし弁当などを買い込む。嬉しい。ほくほくした気持ちで平和記念公園へと戻り、花壇の前のブロックに場所を確保して、食べた。おいしかった。松屋は、一時期(書店員時代だ)あまりにも食べ過ぎて食べられなくなった時期があったが、たぶん僕は牛丼3大チェーンの中で、本当は松屋がいちばん好きなのだ。数年ぶりに食べて、そのことを再認識した。でも山陰にはないのだ。もしかするとそれもまた美味しさの一助になっているのかもしれないとも思う。松屋はおいしく、春の陽気がぽかぽかと暖かく(昨日は実はわりと寒かった)、桜は満開で、とても心地よい時間だった。4月3日はいつもわりと桜が満開で、ファルマンは柄にもなく溌溂として朗らかな、とてもいい時期に生まれたものだと、毎年思う。印象深い39歳の誕生日になったのではないかと思う。
 腹ごしらえをしたあとで、平和記念公園の平和記念公園たる部分を見て回る。原爆ドームほどのピリピリした感じはないにせよ、やはりここもまた、それなりに粛々と受け止めた。原爆資料館へは、入らなかった。修学旅行の代替として来ているので、行くべきなのかもしれなかったが、しかしながらここは、家族と離れ離れの状況で見るべきものなんじゃないかという気もした。原爆資料館を見て、家に帰ったら、原爆資料館を一緒に見たわけではない家族がいるから救われるという、ここはそういう場所だと思った。だから一家で入るわけにはいかなかった。ピイガが修学旅行をする頃には、さすがに県外に行けるだろうから、ピイガはその時に見ることになるのではないかと思う。
 広島旅行の行程はこれでおしまい。宮島、広島城、原爆ドーム、平和記念公園と、とてもオーソドックスに広島の要所を拾った1泊2日であった。大成功と言っていいのではないかと思う。家族旅行はやっぱり愉しいな。しかし鳥取と広島をやってしまったので、次の目的地の当てがない。車で行けて、1泊2日の範囲がいいなと思うが、岡山に行ってもしょうがないし、山口はどうも食指が動かない。いっそ移動を少しがんばって福岡か? いよいよ九州バージン喪失か? とも思うが、福岡はやろうと思うといろいろ大変そうだとも思う。まあどちらにせよしばらく先だ。11月の鳥取は、秋からのレジャーの集大成だったが、今回の広島は、いわばレジャー時期の幕開けを告げる鐘だ。これからは公園やプールや海など、近隣の大自然を堪能しようと思う。

広島旅行2022浅春 ~日本シリーズとたけしと開幕と三谷幸喜~

 広島市街は都会だった。さすがは中国地方最大だと思った。ビル街のような風景を、とても久しぶりに見た気がした。島根でいちばん栄えているのはどうしたって松江ということになるが、松江にビル街はない。おらの県にはビル街がないのだ。そして中心部のビル街から少し抜けると、島根ではとても見かけないような大規模のマンション群もあり、人口の多さ、すなわち力強さを痛感した。横浜市の中学生時代、広島に来てもそんなことはまるで感じなかった。ビルに気圧されたりなんて全然しなかった。それはそうだろう。逆に、20代前半に初めて島根に来たとき、その田舎っぷりに大きなショックを受けたものだ。隔世の感があるな。
 ホテルはドーミーインの、去年の11月にできたという、新しいほう。泊まる場所は、前回の鳥取もだったが、「サウナイキタイ」から探すスタイルで、オーシャンのような愉しそうな場所はなかったけれど、ドーミーインならまず間違いなかった。なんてったってコスパだ。おとなひとりの宿泊料が安い上に、子どもの添い寝は無料とのことで、とても安く上がった。半月前でこのプランが取れたのは、この週末に広島でカープの試合がなかったことも関係しているんだろうと思う。建物も部屋も新しくきれいで、とてもよかった。
 晩ごはんを食べる前に、お風呂を済ませることにする。お風呂は14階にある。14階のお風呂で、露天もあるというので、どんな光景だろうと期待していたが、大都会広島には14階よりも高い建物がたくさんあるため、そこまで開放的な作りであるはずもなかった。オーシャンの、2階のテラスから無人の海に向かって外気浴、というほうが異常なのだ。18時になったばかりくらいの大浴場は人が少なく、快適だった。女風呂のファルマンたちに至っては貸し切りだったそうで、なにぶん子どもたちはちょこまかと動いていつもハラハラさせられるので、他者に気兼ねしなくてよかったのはとてもよかったという。オーシャンでは、入浴後ファルマンは不機嫌になっていたため、それがなかったのはありがたかった。サウナにも少しだけ入り、コンパクトに1セットこなしたが、空腹もあり、家族との兼ね合いもあり、本格的に入るのはまた夜にすることとして、素早く上がる。打ち合わせをしたわけではなかったが、ちょうど同じようなタイミングで出てきたので、みんなでサービスのアイスをもらって部屋に戻った。
 部屋で夕飯のスシローを食べる。一応ビジネスホテルなので大きいテーブルがあるわけではなく、少々食べづらかったが、鮨なのでなんとかなった。おいしかった。冷蔵庫で冷やしておいたアサヒのジョッキ生が、涙が出るほどにおいしかった。お風呂に入って、鮨を喰って、ビールを飲んで、家族がいて、すぐ横にはベッドがあって、くっつけたふたつのベッドで今晩は旅先で4人で寝るのだと思うと、寝不足と疲労によってすぐに襲ってきた酩酊感と眠気もあり、ふわふわと夢心地のような幸福感があった。
 鮨だけでだいぶお腹がいっぱいになったが、ドーミーインと言えば夜鳴きそばということで、時間になるのを待って、食べにいく。もちろん人数分はもらわない。そんなに喰えない。だけどおいしかった。話には聞いていたが、ドーミーインは本当に至れり尽くせりだな、と思った。
 それから子どもたちは就寝するので、僕はひとりで大浴場に向かった。ここで本格的にサウナを堪能するつもりだったが、いかんせん満腹感やら疲労感やら眠気やらで、もたなかった。行くだけ行ったが、今回もさっきと同じくらいの小上がりで終えた。人は、夕方よりは多少増えていたが、それでもそんなに多くなかった。オーシャンは大賑わいだったな、とあの日のことを思い出した。あの晩は、日本シリーズ、ヤクルト対オリックスの初戦で、狭くないサウナに、詰めるように大勢で入り、試合を眺めたのだった。懐かしい。愉しかった。あれからちょうど1週間後の土曜日に、ヤクルトが4勝目を挙げ、シリーズは終了した。そしてその試合が長引いたことで、「ニュース7Days」の放送開始が大幅に遅れ、それがきっかけとなってビートたけしが体力の減退を理由に番組を降りることとなり、そして今年のペナントレースが始まって1週間後のこの日の夜が、たけしに代わって三谷幸喜が新キャスターとなった新体制の放送初日なのだった。そのあたりのことが妙に印象深かったので、こうしてここに書き残しておいた。三谷幸喜は、思っていたよりも当たり障りなくやっていた。生のニュース番組でボケたりジョークを言ったりするのは難しいだろうな。
 風呂から出て、部屋に戻ったあとは、すぐに寝た。日付が変わればファルマンの誕生日だが、そこまで起きていられるはずもなかった。子どもたちもわりとすぐに寝た。シングルサイズのベッドふたつだが、合体させたら4人で寝てもそう狭く感じなかった。全体的に、細目で小さ目な4人なのだ。深く寝た。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~ファルマン38歳最後の叫び~

 宮島から本州に戻ったあと、ホテルに直行するにはまだわりと時間があった。たぶんそうなるだろうと思いつつ、しかし宮島に予想外に長居する可能性もなくはなかったので、この間の計画はふんわりとしていた。眼鏡を新調したいという思いがずっと燻っていて、しかしながら島根で見る店ではこれぞというものに出会えず、今の眼鏡を作った倉敷のアウトレットのゾフにいつか行く日までは耐えるしかないか、と思っているのだが、もしやと思って事前に検索したところ、広島市街から少しだけ外れた所にある、イオンが経営するというジ・アウトレットという施設に、ゾフが入っているのを発見し、ワンチャンそこへ行くのもありなんじゃないかと目論んでいたのだが、いざ家族旅行に身を置いてみると、自分の眼鏡のためだけに、妻子はたぶんまるで魅力を感じないだろうアウトレットモール行きを断行するのは、間違いなくいい結果をもたらさないと判断し、あきらめた。あきらめて、かなりホテルまでの通り道といってもいい立地なので、おそらく時間が余った場合はここに立ち寄るのが現実的だろうと考えていた、マリーナホップという商業施設に赴いた。海沿いの、埋め立て地に作られた施設で、どうも正直あまり盛り上がっていないらしく(2025年に解体予定だそう)、入っている店もあまり聞いたことがない、縁のないものばかりなのだが、ここの一角にマリホサーカスと銘打って、小さい子向けのミニ遊園地があるというので、それ目的で参った次第である。1回300円くらいで、すべての冠にミニがつくような、ジェットコースターやバイキング、ディズニーランドで言うところの空飛ぶダンボみたいな乗り物に乗れて、なにぶん遊園地のない島根県の子どもたちなので、これでも目にした瞬間、十分にワクワクした様子だった。子どもたちは、急流すべりという、流れる水の上を進む乗り物と、あとファルマンと3人でジェットコースターに乗った。


 ファルマンは3人の貸し切りだったジェットコースターで大きな悲鳴を上げていた。たぶん大の大人が悲鳴を上げるようなジェットコースターでは決してないのだが、そんなジェットコースターでさえ断固として乗るのを拒んだ僕がそれについてとやかく言う筋合いもない。ちょうど前回の鳥取の、子どもの国のゴーカートを踏襲するような動きとなり、いい具合に愉しんで時間を調整することができた。
 それから車はちゃんと都会の広島市街の中心部へと突入し、スーパーに寄り道して(駐車券があった!)酒など買い込み、さらにはこれも前回と同じ、夕食としてのスシローの、予約しておいたものを受け取って、ホテルへと無事に到着した。土地勘のまったくない広島において、それなりに入念な準備をして、うまく立ち回ったものだと思う。もっと家族から褒められてもいいと思うので、ここで僕自身が褒めておく。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~宮島のログポース~

 唐揚げの匂いに反応したのかなんなのか、鹿たちの食いつきたるや、とんでもなかった。宮島の鹿には食べ物を与えてはならず、鹿せんべいのようなものも販売していなくて、ということはどこかできちんと餌が与えられているはずで、そっちの心配がないからこの鹿たちはこんなにも超然とした面持ちで、悠然と人ごみの中を闊歩しているのだろうと思っていたのだが、お弁当を広げる様子を見せるやいなや、顔は相変わらずの超然顔のまま、わらわらと湧き立つように無数の鹿が姿を現し、われわれ一家の座るベンチを取り囲んだのだった。本当に囲まれたので、囲まれた図というものを写真に撮ることはできなかった。公園内にいた他の人たちが、鹿が群がる様子をおもしろがってスマホを構えていたので、「宮島の鹿に取り囲まれてる一家がいたんだがwww」としてネットにアップされているかもしれない。
 もちろんお弁当はとても食べられるはずもなく、早々に避難する。登ってきたのとは別の口から、傾斜になっている公園を下ってゆくと、要所要所にベンチや東屋が設置されていたので、近くに鹿がいないのを確認して、「ここならいいだろう」と腰を下ろし、お弁当を広げた。すると、ぬ、と、本当に空気中の粒が結合して発生するかのように鹿が音もなく現れ、たまらず退散、ということをさらに2回繰り返した。鹿、がつがつした素振りは一切見せないが、飄飄と執拗だった。飄飄と執拗。これを鹿のキャッチコピーとしよう。
 仕方なく公園での食事はあきらめ、厳島神社に向かって歩いた道に再び出て、海に向かって備えられたベンチを確保し、そこで食べた。ここにも鹿はいたが、なにぶん人が多いので、こちらに殺到してくるということはなかった。自然の中だと鹿が強すぎた。
 腹ごしらえをしたあとは、おみやげを物色する。子どもたちはばあば(義母)から、広島で好きなものを買ってね、という小遣いを受け取っていた。いろいろな店を眺め、ポルガは厳島神社の鳥居の形をしたお守り、ピイガは鹿のかわいらしい置き物を買っていた。僕はなんといってももみじまんじゅうだ。もみじまんじゅう、叔父が出張で横浜の家に来るたびに手みやげで持ってきたので、小学生の頃はよく食べていた。僕があんこに関し、極度のこしあん派であるのは、たぶんもみじまんじゅうの影響だろうと思う。とにかくこしあんのもみじまんじゅうが好きだった。ところがある時期から、もみじまんじゅうの中身にバリエーションが生まれ、叔父はそのアソートセットのようなものを持ってくるようになり、それにはつぶあんだのチョコレートだの、食指が動かないものが多く入り、その分こしあんが少なくなっていたため、忸怩たる思いを抱いた。さらにそのあと、もはやもみじまんじゅうでさえない、桐葉菓というものを持ってくるようになり、いよいよ僕ともみじまんじゅうの縁は遠のいたのだった。しかしながら、とうとう宮島にやってきたのである。懐かしのもみじまんじゅうを、思う存分に自由に買えばいいのだ。というわけで、こしあんだけの時代、叔父がよく持ってきてくれた、やまだ屋で、1個ずつで売っているのを、こしあんを中心に、熟考の末に選んで買った。抹茶や、期間限定の桜もち風というのも買った。


 しかし買って、帰りのフェリーに乗ったあたりで、(あれ、もしかして、桐葉菓がやまだ屋なだけで、俺が子どもの頃にいちばん好きで食べてたメーカーって、にしき堂じゃなかったっけ……)ということが頭をよぎった。やまだ屋のそれが、記憶のそれとパッケージがぜんぜん違うのは分かっていたが、しかしそれは時代によるものだろうと解釈していた。しかし思えば思うほど、やまだ屋じゃなくてにしき堂のような気がしてくるのだった。そのあとインターネットでちゃんと調べたところ、やまだ屋でもにしき堂でもなく、藤い屋だった。なんじゃそりゃ。もっとちゃんと下調べしてから臨めばよかったな。とはいえやまだ屋のももちろんおいしかったし、別に藤い屋の味を覚えているわけでもない。というか、たぶんほとんどのもみじまんじゅう、そう味に違いはない。そもそも味にそうそう違いの出るような菓子ではない。
 まあそんな宮島探訪であった。とにかく鹿がおもしろい島だった。うさぎの大久野島、鹿の宮島と、広島の島はキャラが立ってるな。ワンピースみたいだな、と思う。
 つづく。

広島旅行2022浅春 ~鹿~

 実は今回の広島旅行を計画するまで、宮島のことをあまり把握していなかった。本当に海に浮かんでいるほうの島ではなく、児島とか水島とか、それこそ広島とかの、かつては島だったのかもしれないけど今はもう本州の一部みたいな、そういう類の地名かと思っていた。厳島神社が海上にあるというのは知っていたのだけど、つまり広島市の浅瀬にあるのだろうと勝手に解釈していた。ガイドブックを見たらしっかりと島だったので驚いた。
 フェリーで近づくと、島はだいぶ大きかった。大久野島より大きいのはもちろん、直島よりも実は大きいのだ。ちなみに宮島というのは通称で、お宮、すなわち厳島神社があるから宮島と呼ばれるだけで、正式には厳島だという。そして厳島神社の印象がとにかく強いものだから、神の島的な、文字通り厳かな、閉鎖的な空間のようなイメージが浮かびがちだが、島内には小中学校もあり、水族館もあり、商店街もあり、とにかくなんだか一筋縄ではいかない島なのだった。
 船着き場から出て、右に向かう。左方面は普通の町ゾーンのようだった。歩いて少しすると、海のそばに平清盛の像が建っていた。厳島神社と言えば平清盛。さも詳しい人のように言ってみたが、もちろんそれも今回ガイドブックで知った。「鎌倉殿の13人」では、先々週あたりに病死していて意外だった。なんか昔の読み物では、平清盛は義経の進撃に顔を真っ赤にして怒る、みたいな場面があったような気がするが、記憶違いだろうか。とりあえず娘らを隣に立たせて写真を撮った。
 それからさらに進むと、厳島神社までの道はひたすら観光地の賑わいで、みやげ物屋やら屋台やら人力車やらの風景が広がる。その喧騒の中に、ひょいと鹿がいた。宮島には鹿がいるということは当然ガイドブックで読んでいたが、本当にこんなにもひょいといるのかとびっくりした。そして鹿は、がやがやとした人間界のざわめきなど完全に遠い世界の出来事であるかのように、やけにきれいな無表情で、超然と歩いていた。厳島は言うほど厳かな島ではないな、と思っていたのが、この鹿の登場によって覆された。やっぱりすごい島なのかもしれない、と思った。
 数頭の鹿とすれ違いながらさらに進むと、右手の海上に例の鳥居が見えてきた。あの有名なやつである。実はフェリーからも見えた。しかし鳥居はいま、と言っても数年も前から改修工事中で、灰色の覆いが掛けられているのだった。まあそれは残念は残念なのだろうが、改修工事の終了時期は未定とのことで、待ってもいられないので仕方がなかった。
 入場料を払って入った厳島神社は、まあまあさらっと通り過ぎた。神社って、本尊みたいなものがあるわけではないので、いざ行ってみると結構さらっと終わる。とはいえ世界遺産である。世界遺産。世界遺産だからってとんでもなく見応えがわるわけではない。ちなみに潮の満ち引きによって、厳島神社のエリアから完全に水が干上がるタイミングもあるそうで、そうなるとたぶんさらに見どころはなくなる。幸いこの日の満潮は午前10時半で、その1時間後くらいだったので、まあまあいいタイミングだったろう。


 神社を見終えたあとは、お腹が空いたのでお弁当タイムにする。今回もちゃんと早起きして拵えてきた。さてどこで食べようかと地図を探り、弥山という山の頂上まで行くつもりはないが、その中腹、もとい麓らへんにある公園で食べようじゃないかと、みやげ物屋の商店街を抜け、坂を上り、目的地に到着する。宮島と言えばなんといってももみじで、だから紅葉の季節が1年のピークなのだろうが、公園には満開の桜が咲き誇っていて、なかなかどうして、宮島で桜というのもオツじゃないか、と思った。いい具合のベンチもあり、それではここで昼ごはんをいただくことにしようと、荷解きを始めたそのときである。


 ぬ、と厳かに現れたのだった。
 つづく。