28日から無事に年末年始の休暇に入っている。今年は暦の巡りがよくて、「奇跡の9連休」と言われている。僕もそうである。もちろん嬉しい。しかしその一方で、9連休にそこまで大興奮していない自分を感じ取っていて、そのことに気を悪くしている。「おもひでぶぉろろぉぉん」当時の、書店員時代の僕は、テレビで「奇跡の9連休」などという話題が出たら、その瞬間にチャンネルを変えていただろうと思う。それが今は享受できているのだから、本当はもっと、過呼吸になるくらい喜ぶべきだろうと思う。
27日は大掃除のあと労働が早めに終わったので、プールへと繰り出した。まだ日が沈む前だったので嬉しかった。これが今年最後になるかもなあと思いつつ、たぶんやっぱりもういちど来るだろうな、と考えていた。実際もういちど行くことになった。
28日は土曜日ということで、ルーティンとして買い出しに繰り出す。しかしなにぶん年末のことなのでいつものようにはいかないだろうと、これはもう行く前から覚悟していた。結果としては、野菜や魚はたしかにそうだったが、肉は思いのほかよくて、豚のひき肉がとても安く手に入ったので、これはもう餃子だな、と思い立った。実家にはこの日から次女一家が帰ってくることになっていて、いつもごはんのことで大騒ぎしているので、大量に作って向こうにも餃子を提供してやろうと考えたのだった。
帰宅後は昼ごはん。焼きそば。ポルガは友達とショッピングモールに遊びに行ったので、3人である。3人なのでいつもは買いづらい3玉入りのものがちょうどよかった。
食後は餃子の餡を仕立てたあと、部屋での作業。溜め込んでいた布を総ざらえして、この連休中に使うかもしれないものを、とりあえず外に出した。そうしたら部屋の床が布で埋まり、ファルマンからブーイングを受けた。9連休でも別にそこまで心が躍っていないみたいなことを言いながら、その一方でひそかに青い炎が燃えたぎってもいるのだった。
16時くらいになって次女一家が実家に到着したというので、実家用の餃子を包み、ピイガを連れて参上する。夏以来の対面となる次女の次女は、2歳4ヶ月だったのが2歳8ヶ月になっているわけで、だいぶ成長を遂げていた。この時期の4ヶ月はでかいな。それに引き換え41歳にとっての4ヶ月と来たらどうだよ、と思う。
ピイガはいとこと遊ぶというので、晩ごはんまで置いておくことに。自宅に戻ったら間もなくポルガが帰ってきて、ピイガは実家に行っていると伝えたら、自分も行くと言って自転車で行ってしまった。中学生は身軽だな。
自宅用の餃子を包み終えたところで、子どもたちを迎えに行く。ポルガの自転車も車に乗せて帰った。どうせこれから連日、いとこと絡み続けるのだろう。
餃子はもちろん美味しく、実家からも甚く感謝された。それはそうだと思う。こんなに気の利く娘の夫はこの世にそうそういないだろうと思う。
夜は裁縫。ピイガのためのキャスケット帽を作っていた。近日中に「nw」にアップするだろうが、実は半月ほど前からピイガ用にコートを作っていて、その余った生地でキャスケットも作ることにし、年末年始に間に合わせたいと思っていたのだが、この日になんとか完成したのだった。とてもいい出来になったので満足している。9連休、なるべく1日も無駄にしたくないので、とりあえず初日に成果があってよかった。
2日目の29日は、次女一家が午後は夫のほうの実家に行くが午前中はいるというので、また子どもたちを連れていく。連れていくと言うか、置いていく。
その間に僕は買い物。ドラッグストアや100円ショップなど、食料品以外のこまごまとしたものを買い出す。その中に蛍光灯があった。僕とファルマンの部屋の蛍光灯が、どう考えてもこれはさすがに暗いだろうという話になり、新年を迎えるこのタイミングで新しくすることにしたのだった。それで帰宅後、付け替える。しかしこの作業をしていた際、僕が椅子に乗り、これまでのものをふたつとも外し、まず大きいほうの環を嵌め、さて次に小さいほうの環を、と思って腕を下げた瞬間に、気を利かせて小さい環を僕に向かって差し出していたファルマンの腕にぶつかり、新しい小さい環は床へと落下し、無残にも粉々になったのだった。大ショックである。部屋を明るくするために買った新しい蛍光灯がダメになってしまった哀しみと、これでもかというくらい細かく粉々になったガラスの後処理の大変さ(しかも床には僕がぶちまけた生地が散乱していて、それならそれで蛍光灯は救われろよと思うが、巧みにそれを避けて硬い床に落ちて割れつつ、破片は布へも散るという最悪のパターンであった)で、年末にとてもつらい気持ちになった。ファルマンなど「今年でいちばん哀しかった」とさえ言った。言ったあとで僕に、「お前は今年、島根のおばあさんと岡山のおじいさんを亡くしただろう」とツッコまれる始末であった。仕方なく小さい環は、これまで使用していた、だいぶくすんだものを再び付けることにした。それでも外側の大きい環が新しくなったことで、これまでよりはだいぶ明るくなったので、当面はこれでいくことにした。ファルマンがガラス片の処理をしてくれるというので、僕は子どもたちを迎えにいって、そして昼ごはんを作った。客観的な記録も証言もないので、この一件については、僕とファルマンのどちらが悪かったのか、もはや究明のしようがない。ファルマンはもちろん僕が悪いと言う。僕は口に出しては言わない。言わないけどここには書く。上を向いて作業をしていた人の、あんな至近距離に、声も掛けず物を差し出しているというのは、よろしくないのではないかと僕は思う。
昼ごはんのあと、午後はひとりプールへと繰り出す。この日がホームプールの今年最後の営業で、僕も今年の締めとしてたっぷりと泳いだ。具体的に言うと、1250m泳いだ。こういうときよく1000mを泳ぐので、今日はそこにもう少し色を付けようと思い、この数字になった。気持ちよかった。これまでなら、このあとおろち湯ったり館へ行く可能性が残るので、そうなるとまだ泳ぐ余地があるということになるが、今年に関してはそれがないため、今年の水泳はここできっぱりとおしまいである。おろち湯ったり館とは後腐れなく別れたつもりだが、こんなときはやっぱり一抹の寂しさを感じる。ちなみにだが、サウナに行きたい気持ちはあるのだ。しかしおろちは嫌だし、ゆらりもなあ、とあぐねている。
晩ごはんはカレーライス。大みそかまで微妙にあるこの日程において、鍋いっぱいのカレーを拵えておけば、夜にも昼にも食べられて便利だろうという算段から作った。
韓国で起った飛行機事故のニュースを見て、いたましいと思うと同時に、飛行機に対する恐怖がまた増大した。去年あんなことがあり、今年は飛行機のメカニズムを学ぼうなどとは目論んでいなかった。それでももちろんそんなこととは一切関係なく、事故は起るときには起るのだ。車だって鉄道だって船だって、不可避で死亡に至るような事故はいくらでも起るけど、不可避の不可避さ加減が、飛行機はそれらとは段違いであるように思え、そこがおそろしくてしょうがないと改めて思った。
3日目の30日、すなわち今日だが、この日の午後から例の、初めての親類カラオケの試みということで、午前は家で粛々と過した。僕は前の晩から、ひたすらに裁断作業に取り掛かっていた。年末年始用に新しく買った生地に加え、これまでに買って自分用のものだけ作り販売用は作っていなかった生地など、所有しているほとんどのスイムウェア用の生地を、もういっそすべて裁ってしまえと、とにかく裁った。なかなかすごい量になった。なんだかんだで書店員だった時代の癖が抜けず、9連休というものを過信しているのかもしれない。そこまで作れんだろう。他にやりたいこともあるのだし。でも裁っておくと気が向いたときに少しずつ進められるから、やっぱりまとめてやれてよかったと思う。
昼ごはんは早速カレーライスを使って、実家へと向かう。そして車2台でカラオケへと繰り出した。大人7人、中学生以下4人、総勢11人の大所帯である。部屋の半分がマット敷きになっているキッズルームだったので、なかなか快適に愉しめた3時間であった。岡山時代に購入したマイクスタンドを、今回久しぶりに発掘して、持っていった。マイクスタンドって、あまり個人で所有しないし、ましてやカラオケに持っていったりしないものらしいので、袋から取り出して組み立てただけでけっこうウケた。こういう会は初めてということで、ならば1曲目はこれであろうとあらかじめ決めていた、「生まれてはじめて」(神田沙也加)で僕が口火を切った。そのあと各人いろいろ唄い、僕は「ALIVE」(SPEED)、「世界中の誰よりきっと」(中山美穂&WANDS)、「あなたの好きなところ」(西野カナ)、「君は薔薇より美しい」(布施明)などを唄ったあと、最後に「さよならの向う側」(山口百恵)で床にマイクを置いた。JOYSOUNDじゃなくてDAMだったので若干の唄いにくさはあったが、まあまあ気は済んだ。この1ヶ月、車内で準備した果以があったというものだ。前回のカラオケの数日後の訃報であった中山美穂の追悼もできてよかった。
実家に戻って人を降ろしたあとは、今日のところは長引かせず退散する。どうせ明日も日中、子どもたちは実家に入り浸るのだろう。帰宅後はまた裁断の続きをして過す。晩ごはんはあんかけラーメンと餃子。とろみのあるラーメンが、熱々でおいしかった。
ここまでが9日間の、前期3日間の記録。中期が年越しと、元日の実家の集いと、初詣などで、そして後期はピイガの誕生日のお祝いとかの話題になってくることだろう。