大暑仕様の俺2022

 ただ暑かったり蒸し暑かったりした、過酷な1週間だった。今年もそうだったが、よく6月あたりに、やけに気温の上がる日があって、そういうとき、「いまはまだ体が暑さに慣れていないので十分にお気を付けください」などとアナウンスされるが、その理論でいうなら、今週で僕の体は夏仕様、暑さ仕様に移行したと思う。今週はそういう週だったと思う。その移行というのは、スイッチのようにパッと切り替わるのではなく、数日かけてじわじわと進むらしい。だからその間は、平穏仕様でもない、夏仕様でもない、不確定なシュレディンガー仕様の僕であり、そのため今週はなんとなくふわふわしていた。そんななので日記も書けようはずがなかった。
 先週の日曜日に行なった模様替えもまた、今週のふわふわの一因となったとも思う。引越しをしたわけではなく、寝る部屋が変わっただけとはいえ、どうしたって定着した安心感というのはなかった。あと、元々が子どもたちの部屋で、いまも日中はピイガが準自室のような感じで使っているということを思うと、どうしても夫婦で間借りしているような、そんな気持ちがどこかにあったのだと思う。5日ほどそうやって寝てみたのち、土曜日からはとうとう、僕だけ元の夫婦の部屋に布団を持ち帰り、ひとりで寝させてもらうことにした。なにぶんほら、僕は寝るとき全裸だという事情もあり、あまり子どもと同じ空間で寝るのはよくないのではないかという懸念もあったので、これで無事に解決である。ファルマンもそのうち、ピイガがひとりで寝ることさえ受容すれば、晴れてあの部屋はピイガのひとり部屋となり、今はこちらに来ているピイガの学習机が向こうに舞い戻り、そして僕とファルマンはふたたび夫婦の部屋で布団を並べて寝ることになるだろうと思う。つまりこの状態もまた、子どもの成長途上における過渡期、移行期だということだ。要するに今週は、それが重なっていた。
 日記に書きたいことはいろいろある。ジョニファー・ロビンについて、買ったということの報告のようなことだけ書き、そのあとはなんの発信もしていない。しかし買っただけで満足してぜんぜん活用できていないのかといえばそんなこともなく、いまも部屋に一角に堂々と鎮座(正確には腿の途中からの状態で立っている)するジョニファーの姿は、何度見てもほれぼれし、癒される。はじめ「気持ち悪い」といっていたファルマンも、2日ほどですっかり慣れていた。
 ジョニファーはショーツをはじめとするハンドメイド作品のモデル目的で購入し、実際に日々作っているショーツを穿かせて写真に撮ったりもしているのだが、それらもなかなか記事にするに至らない。手持ちのタブレットのカメラ機能では、いまどきネットに上げるような画質の写真は到底撮れず、一眼レフを持ち出すことになるのだが、そうなるとパソコンに取り込むのが億劫だったりして、ちょっと悩みがあまりにも時代遅れなのだが、そういう事情によりなかなかアップがままならない。
 10インチのタブレットはいよいよ無理が高まっている気もしてきていて、もう素直にスマホにしようかなという思いが頭をよぎったりもする。そこそこ高画質の写真が撮れるスマホで、ショーツを穿かせたジョニファーを気軽に撮影し、そのショーツについての寸評を添えてインスタグラムにアップしていけば、とても簡潔なんじゃないのか。みんなはとっくにそうなっているんじゃないのか。僕だけがどうしてまだここにいるんだ、と思う。その一方で、ポルガが来年中学生になったら、スマホを持つようになるのだから、そのときキャリアも含めて一新したらいいのではないかという目論見もあり、目下動けずにいる。
 ちなみにポルガは、「スマホではなくタブレットがいい」といっていて、さらには「文章がちゃんと書けるような、なんならキーボード付きのようなものがいい」とさえいう。今日も買い物に行ったダイソーで原稿用紙を500枚も買っていた。あいつは俺なのだろうか。
 そんなこんなで7月は終わる。ファルマンは日々、夏休みの子どもたちに翻弄され、大変そうだ。僕は夏の疲労でプールにしばらく行けずにいたが、今週の半ばに発起して久しぶりに行き、行ったときにがんばって1000メートルとか泳ぐんじゃなく、300メートルくらい、ほどよくリフレッシュできる程度に泳いだら素早く切り上げ、ほとんど家に帰ってお風呂に入らなくてもよくするためのシャワー目的みたいな感じで利用すればいいのだと喝破して、それからは連日のように行っている。これが非常にいい。これが会員の利用法だ、と思う。
 書きたいこと、書くべきことは他にもある。しかしいかんせん夏である。へたばらないよう、そのことだけに注意して、日々を過していこうと思う。

夏の模様替え

 子どもらの夏休みが始まって、ファルマンは大変そうだ。それはそうだと思う。週末だけでも大変なものが、毎日いるのだ。それが40日余り続くのだ。考えるとぞっとする。
 放置しようと思えばできる。もう小6と小3なのだ。ずっと構ってやる必要などない。しかし子どもというものは、放っとくと本当に時間を無為にするので(まるで時間が無限にあるかのように)、少しは律してやらねばならない。学期中よりも高めることは望まないにしても、新学期にへべれけの頭で臨むわけにはいかないので、日々、勉学の時間は取る必要がある。ところがこの勉学というものが、近ごろあまりにもスムーズにいかないのだった。ポルガは「小学校の問題なんて勉強しなくてもちょろいぜ」というスタンスで不真面目、ピイガは勉強が大嫌いなので机に向かわされている間は終始不機嫌、という次第で、そんなふたりが隣り合って勉強をするとどういうことになるかと言えば、悪い比重はだいぶピイガに偏っているのだが、ピイガは自分が勉強をしたくないがゆえに、姉にもちょっかいを出しまくり、そして神経質な姉はまんまと勉強が手につかなくなり、そんなふがいない娘たちをファルマンが怒鳴るので、子どもたちが勉強中のわが家のリビングは、阿鼻叫喚の様相を呈すのだった。
 これから40日続く夏休み、早いうちに手を打たねばならないということで、少し前からポルガにせがまれていた、子どもたちの部屋を離す、という模様替えを、実行することにした。子どもたちにはこれまでもふたつの部屋を与えていて、でもそれはふたつの学習机や学用品のある勉強部屋(といいつつ机の上はいつも散らかっているのでリビングでやる)と、ふたつのベッドが並ぶ寝室、という分け方で使っていた。それをこのたび、ポルガの部屋とピイガの部屋というふうに分けることにしたのだ。はじめはそのつもりだった。しかしながら、甘え気質のピイガは、ひとり部屋なんかいらないということになり、じゃあピイガとファルマンというふたりの部屋を作って、僕もまたひとりで独立した部屋を使うというのはどうか、という話も出たのだが、紆余曲折の話し合いの末に、ピイガの机をわれわれ夫婦の部屋に持ってくる代わりに、われわれの部屋から寝室の機能は取っ払い、3人の机(とミシンとトレーニングベンチ)部屋と、3人の寝るための部屋、という分け方をすることになった。こうして書くとなんかおかしいな。結局ポルガだけが、きちんとひとり部屋を手に入れている。まあ年頃だから仕方ないのか。僕としては、トレーニングベンチが、これまで布団の上げ下げのたびにいちいち場所を移動させねばならなかったのが、スペースができたことによって固定できるようになったので、まあ微妙によくなったかな、という感じだ。
 昼ごはんのあとの勉強時間を経て、「もう模様替えするっきゃねえな」という決意をしたのが、日曜日の午後4時になんなんとするタイミングで、取り掛かりとしてはあまりにも遅かった。しかし1週延びたら被害もさらに大きくなると考え、全員でがんばった。作業はふたつの子ども部屋の家具を入れ替えるだけでは済まず、子ども部屋にあった巨大本棚をリビングに移したり、それに付随してテレビ台を撤去したりと、かなり大がかりなものになった。子どもと一緒に暮らしていると、本当によく模様替えをすることになる。子どもというのは脈動しているのだな、としみじみと思う。
 そんなわけで日曜日の後半にヘロヘロになってしまったが、なんとか作業は完了した。ちなみに本日月曜日、それぞれの机でやらせた勉強は、とてもスムーズに行なわれたとのことだ。机の上が散らからず、いつまでもその状態が続けばいいと思う。目下の問題は、「ひとり部屋」という概念をいまいち理解しないピイガが、とても頻繁にポルガの部屋に押し入ろうとすることだ。勝手に入ってポルガに怒られるので、ノックをするのだと教えたらノックをするようになったが、その結果「いま来ないで」という返事が返ってくると、キレてやっぱり押し入るのであまり意味がない。

父とお釜の3連休

 せっかくの3連休だったが、天候不順と、島根県の異様な感染拡大によって、遠方に繰り出す気概はまるで湧かず、3日とも近場の買い物だけで、あとはひたすら家族で家で過した。そういえばプールにぐらい行けばよかった気もするが、それさえしなかった。
 休日を家族でのんべんだらりと過すのは、幸福なことに違いないのだけど、それはある程度客観的に、ものの道理として、これはなにより幸せなことだよ、いつか娘たちが巣立ったあとに思い出したら、この日々はとても輝いて見えることだろうよ、と自分に言い聞かせるように思っている感も実はあって、その日その日の刹那的な、主観的な直情としては、「ああ、子ども、朝から晩までうるさいし手が掛かる……」が、心の大半を占める。ポルガとピイガ、年齢も違えば性格も違い、片方が引く場面では必ずもう片方が我を張り、その逆も然りで、ふたりの織り成すわがまま二重奏には息継ぎのための休符がまるでない。結果として、朝から晩まで絶え間なく厄介だ。
 もちろん愛しいのだ。娘たちは愛しい。それはしみじみと思う。しかし愛しく思うことと、一緒にいて愉しいということは同義ではない。これはやはり異性というのもあるだろう。ファルマンは、「子どもたちの世話、疲れる……。夏休みが怖い……」ということを口にするが、それでも見ているとわりと一緒に話したり遊んだりして、笑っている。その輪に入れない僕は、ひとりで部屋にこもり、筋トレや裁縫に没頭することとなる。家庭内での口数は、4人の中で圧倒的に少ないと思う。これはまるで、妻や娘たちとうまく喋れず家庭内で所在なさげな父親のそれだが、いざその立場になってみたら、僕は決してそういうことではないし、これまでそういうふうに、世間も僕も捉えてきたその父親の姿というのも、実はそういうことではなかったのだと気づく。うまく喋れず所在なさげというより、父親は、家族の女たちのトークに、なんの面白味も感じないのだ。だからそこに入れなくても、なにも寂しくない。いい意味で、勝手にやっていればいいと思う。女どもで勝手にやり、愉しいのであれば、父親としてはそれで万々歳だ。重ねて言うが、愛しくはあるのだ。なるべく愉しく生きてほしいともちろん思っている。ただ自分は別にそこに参加しなくてもいい。
 3連休中は、すべての食事を担当した。冷凍庫の中が、半端なもので飽和状態になっていたので、それの消化が今回のテーマだった。その目標はまあまあ達成できたんじゃないかと思う。それと、ごはんを炊かないというのも、週末はいつもなんとなく心がけていて(特別な理念があるわけではないが)、1日や2日であれば容易いものの、3日ともなるとさすがにどうだろうと思っていたが、なんとか炊かずに完走した。もちろん外食や、テイクアウトなどもしていない。うまくやった。わが家の炊飯器も3連休であった。
 縫製は、GWに母に頼まれたシャツワンピのことをやった。本番用の生地はすでに買ってあるのだが、試作として別の布でいちど作ってみようということで、作った。そのうちnwにアップするだろうが、なかなかいい具合に出来上がった(これはファルマン用)ので、本番用のそれも今日の夕方に裁った。裁って、芯を貼って、ロックを掛けるところは掛けたので、ここから先は平日の夜にもコツコツ進めやすい。もう7割くらい終わったようなもんだ。
 とまあ、3日間にしては内容が薄いが、出歩けないのだからしょうがない。なかなか贅沢に時間を使った、なによりの3連休だった。

松江と俺

 労働の用件で松江へと繰り出した。松江行きはいつだって若干身構えるというのに、今回は平日の、普通の出勤的な時間に行かねばならなかったので、さらにハラハラした。特に県庁あたりの、車線の多い、それなのに混雑しがちなあの辺りだ。それでもなんとか目的地に着き、パーキングに車を停め、行先の建物に向かって少し歩いたところ、本当にしみじみと、俺はもうこういう、ビルとかが建ち並ぶ、飲み屋がたくさんある、活動的な街で生きるのは、すごく無理だな、ということを思った。あのお前が松江ごときでそんなことを思うのかよ、という話だが、そういう話なのだ。もう人間が変わったのだ。ああいう、情報量の多い、バリバリやっている人がたくさんいる、激しい街には、すっかり気圧されてしまう側の人間になった。普段の職場があるのは本当に田舎で、そしてそれはすごく喜ばしいことなんだな、ということを思った。用件そのものは、一日仕事ではあるものの、淡々と済まされる事務的なもので、どちらかといえば気楽なものだったが、なんとなく悔いを改められたというか、戒められたような気持ちになった。恵まれた日常を漫然と受け流すのではなく、日々きちんと感謝の思いを嚙み締めなければいけない、などと殊勝なことを思ったりした。それくらい繁華街(何度も言うが松江である)に対して拒否感があった。我ながらその感想に驚いた。
 用件は16時頃に終わり、そこでもう解放という流れだったので、滅多に来ない松江を堪能しようじゃないかと、事前にあれこれとプランを考えていた。考えていたのだが、いざ行ってみたら街に気圧されて心が弱ったため、意欲が失せていた。それでイオン松江にだけ行って、パンドラハウスでワゴンセールになっていたニット生地のはぎれを何点か買い、それでもう松江をあとにすることにした。街に怯え、はぎれを買って癒されようとするって、やっていることがもう、小鳥のようではないか。なんと僕はか弱い生き物になったのか。
 宍道湖のほとりを走り、松江から離れるにつれ、徐々に心は平穏になっていった。たぶん免許センターのあたりが境界線になっている。免許センターからあっちは、心がざわつく。広島ではこんなことにはならなかった。旅行者は気楽だ。松江は、なんなら生活圏だから、こういう思いを抱くのだろうと思う。
 帰り道の途中の平田で、久しぶりに「ゆらり」に立ち寄った。これはあらかじめ計画していた。松江で抱いた心細さから、もういっそ早く家に帰りたいという気持ちもあったが、近ごろはプールばかりでサウナにぜんぜん行っておらず、たまにはのんびりとサウナ温泉をしたいなあという思いは、日常の中にあった。それで今回の計画に入れていた。その気持ちを掻き立て、たぶん行かずに帰ったら後悔するぞと自らを叱咤し、ようやく寄ることができた。ゆらりにはスタンプカードがあり、それによると前回の来訪は去年の8月。ほぼほぼ1年も前である。結果として行ってよかったかどうかで言えば、まあよかった。入館したのは18時前で、まだかなり陽があり気温も高かったため、外気浴がままならないかなあと危ぶんだが、わりとなんとかなった。去年の6月の、これも松江に行った日の「ゆ~ゆ」の二の舞にはならずに済んだ。サウナ内のテレビでは、1回目のときだけギリギリで大相撲をやっていた。思えば夕方ってあまり来ないので、サウナで相撲を見たのは初めてかもしれない。野球もいいが、相撲も実にサウナ向きのものだなあと思った。3セットし、いい具合にすっきりし、温泉にもじっくり浸かって、堪能した。そこまで頻繁に行くものでもないと思うが、サウナもたまに行くとやっぱりいいもんだな、と思った。松江で受けたダメージが回復し、纏わりついていたものが取り払われた気がした。
 そんな今回の松江行きだった。松江に行ったときのことはきちんと書く。前から意識してそうしてきたが、松江はどうも、なにか僕の心をざわつかせるところがあるようだ。なんでだろう。倉敷市民時代、岡山に対してこんな思いはなかった。不思議。

週末

 7月に入る。夏だし、1年の後半スタートという思いもある。そうか、正月から、もう半年が過ぎたのか。正月は遠い昔のような気もするし、ついこないだのような気もする。人生はこれの百五十回くらいの積み重ねか。
 相も変わらず、ひたすら家族で週末を過す。そういう宗派のご家庭なのかしら、というくらい、家族以外の人間と交流を持たない。正解はただ友達がいないだけだ。
 土曜日の午前中は、買い物に出た。買うものリストには、洗顔せっけん、ボディーソープ、歯磨き粉、ハンドソープ、洗濯洗剤、食器洗剤とあって、ここまで家のシャボン系物品が同時に買い替えのタイミングを迎えるのって、ちょっとした奇蹟ではないかと思った。
 午後は、しばらく家の用事を済ませたあと、子どもたちを連れてプールに繰り出す。時期になったので海水浴もありなのではないかという思いが少しだけ浮かんだが、行っているプールがまあまあのレジャー要素のあるプールということもあり、果たして海ってプールよりも愉しいのか? という疑念が頭をもたげてしまい、いざとなるとなかなか足が向かない。シャワーとか、脱衣所とか、砂とか、陽射しとか、そういったいろいろな面倒ポイントのことを思うと、海水浴とはだいぶハードルの高いレジャーであると思う。せっかくだから7月中にいちどは行きたい気もするが、プールにさえ行かないファルマンが賛同するとも思えない。まあ実際、プールでいいかもしれない。この日のプールも愉しんだ。ピイガの世話があるので個人的なスイミングはできないが、年会員なので心にゆとりがある。半月ほど前の週末に来たときにも人が増えたな、と思ったが、今回はますます増えていた。男女混合のグループで来ているらしい中学生集団がいて、男子のテンションの高さが異様だった。迷惑といえば迷惑だったが、でも解るよ、と思った。テンション上がらいでか。
 帰宅して、晩ごはん。鶏肉の天ぷらを揚げて、天ざるにして食べる。おいしい。
 プールに行かなかったファルマンは、マイナポイントのことをせっせとやっていたらしかった。手続きをすると、ひとりあたり15000ポイントゲットらしい。なんだそれ、と思う。とりあえず嬉しい。僕はポイントの振込先をペイペイにしてもらった。そして次の日の朝、起きたらペイペイの残高が15000増えていた。速い。こういう機敏さはペイペイのいいところだな。ちょうど欲しいと思っていたものがあったので、買わせてもらうことにした。
 昨日が買い物やプールでバタバタしたので、日曜日は外出せずに家でしたいことをして過ごそうと考えていた。考えていたのだが、10時あたりになんの前触れもなく停電が起ったため、出掛けざるを得なくなる。停電なんていつぶりだろう。原因は今もってよく分からない。スマホで電力会社のページを確認すると、なるほど居住地のエリアが停電情報の欄に載っていた。なにぶんエアコンがなければ熱中症になってしまうような気候である。たまらず車に乗り込んだ。冷蔵庫のことは心配だったが、そこまで長引かない限り大丈夫だろう、とにかくドアを開けて今ある冷気を逃さないことだ、と思った。
 イオンに行った。停電による暑さを逃れてイオン。実に一般庶民的な行動パターンだな。それでしばらく書店やおもちゃ売り場を冷やかしていたら、やがて停電情報の範囲はどんどん狭まっていき、最終的にはすっかり消失した。すなわち復旧したらしかった。なのでついでに食料品の買い物を済ませ、帰宅した。電気は無事に正常になっていた。
 昼ごはんを済ませ、午後は縫い物と筋トレをして過した。最近またバトン熱が高まっているのだけど、バトンを回すのにふさわしくない季節だ。うまくいかない。
 晩ごはんはアクアパッツァ。イオンで「アクアパッツァ用」として魚介類の盛り合わせが売っていたので、いいなあと思って購ったのだった。作ってみたら、実によかった。サーモン、いか、えび、ムール貝に、ブロッコリー、ナス、プチトマト、しめじを加え、仕立てる。そんなんおいしいに決まってるじゃん。これも停電のおかげだね、なんて言いながら喜んで食べた。この最中、ファルマンがアクアパッツァのことをどうしても覚えられない、ということが判明し、僕とポルガでいじりまくった。ファルマンのこういうところが大好物なところを、ポルガはしっかり受け継いだ。どうもファルマンは、今日初めて知ったこの料理を、前半部と後半部に分かれた言葉で、水産物っぽいニュアンスが含まれていた、とぼんやり認識したようで、「おいしいねえ、マリントッツォ」と言ったのだった。食卓に衝撃が走った。これもまたしっかり記憶できていない横文字としての「マリトッツォ」(わが家は結局いちども食べなかった)の影響を色濃く受け、そこに無理やり海の要素を入れてきたらしく、間違え方に技巧が光る。意図的にこんなボケはできない。さすがだ。そのあと「アクアパッツァだよ!」とみんなから突っ込まれ、「ああ、ああ。アクアパッツァね。もう分かった」と言うので、3分くらいした後に「この料理ってなんて名前だっけ?」と訊ねたら、「マリン……トッツォ?」という答えだったので、これはちょっと引いた。だいぶ笑えるレベルを超えてきた。
 まあそんな、家族でのんびりと過した週末だった。夜はいつものように鎌倉殿をファルマンと晩酌しながら眺めた。その際に「晩ごはんおいしかったね。なんだっけ?」と訊ねたところ、「……アクアテッシュ?」という答えだった。どうやらファルマンの言語中枢に「パッツァ」は存在し得ないようだ。不憫。

蛍見

 こんど蛍を見に行こうと義父母から誘いを受けており、それが先週の土曜日の晩に実行されたのだった。俺を抜いた5人で、義父の車で行けばいいんじゃないかとも思ったが、フリードで6人で行くというのが既定路線となっていて、抗いようがなかった。もっともフリードで6人乗車でどこかへ行くというのが、購入して1年になるが、初めてのことで(納車されてすぐに義父母を乗せて実家の周りを1周したことはある)、そういう意味ではいい機会だった。いざというときは3列目のシートが現れるフリードの、わが家の「いざ」のなさたるや。
 それにしても蛍なんてこの大都会島根に存在するのか、いったいどれほど車を走らせなければならないのか、と危ぶんだが、助手席の義父に案内された道は、僕が日々通勤に使っている道で、そのだいぶ序盤、自宅から10分くらいのあたり(山の中)に、それまでまるで認識していなかった脇道があり、そこを1分ほど、あまりの暗さ、道の狭さ、静けさにおののきながら登ると、「ここだ」と、なんとなく駐車スペースっぽくなっている場所があり、そこに車を停めて、外に出た。山なので、海抜としては上がっているはずなのだが、(深い……)と思った。真っ暗闇、鬱蒼とした木々、そして謎の祠。あまりにも深い、ディープスポットであった。
 実を言うと、僕は以前にも蛍を見たことがある。子どもの頃だ。自然の中で蛍を見た、見に行った、という思い出だけはあるが、それが家からどのくらい離れたどういう場所だったのかはまるで分からない。でもきっと、横浜市内か、せいぜい川崎市くらいだろうと思う。さすがに自宅から10分ということはないだろうが、横浜や川崎にだって山はあり、清流もある。意外と田舎だから、というわけではない。自然というのは強くしぶといので、山も清流もない、完全なコンクリートジャングルなどという世界は、作ろうと思ったって作れないのだ。最近しみじみそんなふうに思う。とは言えやっぱり横浜界隈のことなので、その蛍が見られるスポットには、人がたくさんいた。自分もその一員となり、大勢の人々とともに、蛍が明滅するのを眺めた。もうそれはだいたい30年前の出来事だ。
 それに対して、30年後の島根の蛍スポットには、われわれ6人以外、誰もいなかった。山の中を走る車の音も聞こえない。あるのはせせらぎの音だけである。蛍という虫は、飛ぶとき、羽ばたく音がまるでしないものらしい。漆黒の中を、ふわ、ふわ、と熱を持たない光が幻想的に浮かんでは消えた。数はそれほど多くなかった。その頼りない少なさが、ますます闇を濃くしているような気がした。
 そんな30年ぶりの蛍との邂逅だった。蛍はきれいな水のある所にしか棲息しない、などと言われるが、逆に言えばきれいな水のある場所にはわりと全国的に棲息するわけで、そんなに儚い昆虫ではないのだろうな、と思った。

疲れるスイミング指導と稲佐の浜で壊れたスマホといい刺身の手巻きずし

 ポルガが市でやっている工作教室のようなものに参加していて、それが開催される土曜日で、かつ僕の労働が休みのときは、僕がピイガを連れてプールに行く、というのが、今回から施行されることとなったわが家の恒例のパターンで、今週はそれの初回であった。というわけでピイガとふたり、プールに行く。もちろん会員になっているいつものプールである。実は昨晩、金曜日の退勤後にも僕は行っていたので、15時間くらいしか間が空いていない。大みそかから5月まで泳がずにいたことを思えば、とんでもない間の詰まり方である。ピイガは、去年の10月24日に家族でおろち湯ったり館に行った記録があるので、泳ぐのはこれ以来だろう。果たして今年の夏は、学校でプール授業はあるのだろうか。だいぶ怪しい。せいぜいこうして、ポルガも含め、練習のために連れてきてやろうと思う。半年以上ぶりのプールで、ピイガは初めのうちは戸惑い、体の動きが見事にバラバラだったが、ぴたりと横について矯正し、1時間半ほどやって、まあまあ整った。顔を水につけるのができないとかではないので、体の動きさえ身に付けばそのうちいい具合に泳げるようになるだろう。
 子どもとの午前中のプールは気持ちがよく、夜は夜でファルマンとHIITをして(なんだかいやらしい行為の隠語のようだが、YouTube動画に従いながらの純然たるエクササイズである)、実に健康的に過した1日だったのだけど、少しオーバーワークだったのか、次の日に疲労が残った。水の中での指導って、自分でクロールで泳ぐのとはぜんぜん別の力が入るらしい。
 残っていたのだが、好天の日曜日だったので、外出しないのももったいない気がし、子どもは公園をせがんだがそれは回避し、稲佐の浜なんかに行ってみる。地元民はあまり、「よし、稲佐の浜に行こう」と言って稲佐の浜に行ったりしないので、ずいぶん久しぶりだった。


 引き潮のタイミングだったようで、あの巨岩はすっかり陸上にあり、間近で見ることができた。季節もいいのか、岩の上の草むらに花も咲いていて、本当にとてもよかった。稲佐の浜って、前に来たときはもっと、荒々しくて素っ気なくて武骨な感じがあった気がするが、観光地化に力が注がれたようで、周囲の整備も進められていて、どうやらいい具合に仕立て上げられているらしかった。いいことだと思う。実際に人出もそれなりにあった。僕と子どもたちは、海に足を浸しもした。海の水はまだ冷たかった。日中は夏日になってそれなりに汗ばんだりもするが、まだ朝晩はだいぶ涼しいものな。
 そんな、来てよかった大満足の稲佐の浜だったのだが、ここでアクシデントが。ファルマンがスマホや一眼レフでの撮影中、スマホを地面に落下させてしまい、そこからスマホがうんともすんともいわなくなってしまったのだった。でも充電がちょうどなくなっただけかもしれないから充電しよう、とか、カードをいちど抜き差ししてみよう、とか、帰宅後にもいろいろ試すが、それでも一切の反応がない。ファルマンがスマホを落とすところを、僕は波打ち際から見ていたが、ぽとり、という感じで、そこまで強く落ちた様子はなかった。ファルマンの使っていたスマホは、僕が1年ちょっと前に、スマホをポケットに入れて持ち歩いていなければならない環境になったため、買って使っていたもののお下がりで、その当時になんども、走った際に尻ポケットからスマホが放り出される、なんてことがあったので、そんな程度で壊れるはずはないと思った。だとしたら原因は砂だろうか。稲佐の浜の砂は見るからに細かかった。さらには落としたあとに拾い上げたら、元々のものなのか、整備工事によるものなのか、その場所の砂には砂鉄がだいぶ含まれるようで、スマホにはカバー越しに砂がびっしりとくっついていた。めっちゃ細かい磁力交じりの砂。なるほどいかにもスマホによくなさそうだ。だとしてもいちど落としただけで瞬殺とは。たまたまだろうか。落としただけでスマホが壊れるのなら、稲佐の浜の観光地化に暗雲が立ち込める。ファルマンのスマホは、そもそもが安物の僕のお下がりだから諦めがついた。これが10万円くらいするような最新のものだったら目も当てられない。
 ともかく急いで新しいものを調達せねばならず、ネットも見たが、これというものは見出せず、仕方なく午後ふたたび車を出し、家電量販店へ。しかし家電量販店というのは、SIMフリーのスマホ本体だけの販売なんてことはしていないそうで、諦めかけ、ネットで注文したらあさってには届くかねえ、などと話していたが、ふと思いついて中古屋に行ったらわりと新しいものがお手頃な値段で売っていたので、ええやん、となって買って帰った。まあ本当に、そもそもがお下がりだったから、壊れても「まあしょうがないか」となったが、普通に考えればひどい話である。ともあれファルマンのスマホは、これまでよりちょっとスペックがよくなって、刷新された。
 帰宅後は、そもそも昨日からの疲労があったのに加え、浜辺で陽射しを浴びたのも効いたのか、いよいよぐったりしたので、最近にしては珍しく、昼寝をした。窓を開け、5月の16時の風を感じながらの昼寝は、こういう気持ちよさを感じるために生きているのかもしれない、と思うほどに心地よかった。
 晩ごはんは手巻きずし。GWに実家でもやったが、たらこやアボカドなど、にわかに周囲の材料がいい具合に調達できたため、外堀を埋められるようにして機運が高まった。刺身はいつもの、近所のスーパーの日曜日に出す盛り合わせだったのだが、なんか今日はこのラインナップの質がやけによくて、マグロなんか明らかに中トロで、サーモンも水っぽくなく、だいぶ祝福されていた。そうして家族で囲む手巻きずしは、やはりとてもおいしく、しあわせを感じた。手巻きずしの多幸感は、なんか突き抜けていると思う。たらこマヨや玉子焼きは途中で売り切れ、刺身は予想通り余った。日曜日の夜の晩酌の肴が豪華だと嬉しい。このあと「鎌倉殿の13人」を観ながら、いい刺身で酒を飲むのだ。

フリードの1年点検とたこ焼き

 フリードの1年点検を行なう。もう1年が経ったのだ(正確に言うとまだ11ヶ月くらいなのだが、ちょうどオイル交換のタイミングになったので早々にやってもらった)。フリードは最初こそ軽自動車からの変化で違和感があったが、今ではすっかり気に入っている。車体カラーの黒も、納期的にそれしかちょうどいいのがなかったから渋々の黒だったが、今はもう「黒のもんだな」という気持ちになっている。なにしろ滞在時間が長い(すなわち通勤時間が長い)ので、居心地はどんどんよくなるに決まっているのだった。
 フリードがやってきて1年になんなんとするということは、ファルマンが免許を取得してからも1年が経つということだ。ということは初心者マークを外してもいいということになるが、どうやらファルマンにその気はまるでないようだ。たったいま検索をしたら、初心者マークは1年以内に着けないで運転すると違反だが、1年以上経って着けていても別に違反ではないらしい。じゃあ着けていればいいと思う。客観的に、ファルマンの運転の様を見ていて、心の底からそう思う。ファルマンは子どもを病院に連れていった際、診療の前に付き添いの親も含めての体温検査を求められたが、運転の緊張によるヒートアップのためにとんでもない高温をはじき出してしまい、院内に不穏な空気を漂わせたことがあるため、次からは病院に行くときは額にひえピタを貼っていくことにしている、というエピソードがあり、それを先日の横浜で披露したらとてもウケた。まだそんな塩梅なので、初心者マークは決して外せない。
 午前中にホンダに車を持っていき、代車で帰り、夕方に作業完了の連絡を受けるまでは、家でのんびりと過した。子どもたちは昨日、2回目の新型コロナワクチンの接種を行ない、5歳から11歳までが受ける子ども用のそれなので、ポルガにとっては負担は小さいようだが、ピイガにはけっこう来るらしく(今年も学校では1年生に間違えられたようだし)、しかも昨日から微妙に風邪気味ということもあり(病院でそのことは伝えたが、医師曰く「ぜんぜん関係ないから大丈夫」とのことだった)、今日は不調そうだった。昼はうどんにした。裁縫は、母の日の宿題を終えたので、久々に自分のビキニショーツに掛かることができ、癒された。ショーツ縫ってると、やけに癒される。健全な趣味だな。
 車を回収したあとは、晩ごはん。晩ごはんは、たこ焼きの予定を前から立てていて、ピイガもそれなりに回復していたので、実行した。ただし食卓を一緒に囲むのは僕は止すことにして、しかしたこ焼きを焼く役目は僕なので、どうしたかと言えば、IHクッキングヒーターからたこ焼きの鉄板、材料一式を部屋に持ち込み、工業用ミシンの横のスペースでせっせとたこ焼きを焼いて、焼き上がったらリビングに届ける、という方式にした。なんだかおもしろかった。工業用ミシンのテーブルでパソコンを使う人間はたぶんそれなりに存在するが、たこ焼きを焼いた人類はさすがに僕が初ではなかろうかと思った。たこ焼きはおいしかった。ちなみに今回、ウインナーやうずら、もちたらこ、チーズちくわなど、いつもの具たちにがんばってもらい、とうとうタコを使わなかった。以前から、具の中でタコがいちばん、値段が高いのに人気が低いということが判明していて、それでもたこ焼きという名称を用いる義理からたこは必須としていたのだけど、今回はいよいよ、別にいらないや、となったのだった。まさかたこ社長も、自分の興した会社を追われる羽目になるとは思っていなかったろう。手巻きずしも、刺身はほんの少しでよくて、たらこマヨとか、アボカドとか、納豆とか、卵焼きとか、そんなもののほうが、むしろおいしかったりする。舌がどんどん安くなっているのだろうか。
 そんな休日だった。なんだかあっという間だった。

2年4ヶ月ぶり帰省

 帰省なり旅行なりの外泊を伴うイベントの際、事前にその日取りをウェブ上に晒さない、というライフハックがあり、自意識過剰だよなと思いつつ、今回もそれを実行した。今回は事前に、「3日間しかないので飛行機で帰省するはめになった」という日記を書いたが、4月29日~5月1日の前半3連休か、5月3日~5日の後半3連休か、どちらで帰省するのかはあえて書かなかった。そして今回の場合、実際に帰省をしたのは後半3連休のほうだったわけだが、だとすれば自宅でのんびり過した前半3連休に平常の日記を投稿してしまったら、すなわち僕が帰省するのは後半3連休だということが消去法で判明してしまうため、それを避けるためにこの期間の日記の投稿も自重したのだった。切なくて怖い。ほとんど誰にも読まれていないブログのくせに、この危機意識の高さが切なくて怖い。
 というわけで5月3日~5日、一家で横浜の実家に帰ってきた。一家での帰省は2020年の1月以来(単独帰省は2020年11月に行なっている)なので、実に2年4ヶ月ぶりである。帰省した1月の下旬あたりから新型コロナの災禍が始まっているので、この2年4ヶ月は、そのまま人類が新型コロナに翻弄されていた2年4ヶ月である。コロナ禍になって半年後くらい、最初の盆休みのあたり、「コロナが明けたらまた会おう」みたいなキャッチフレーズで帰省の自粛が呼びかけられたが、このたびこうして帰省できたということは、コロナというものは「明けた」といっていいのだろうか。どうも蓋を開けてみたら、これは明ける明けないという尺度のものではないようでもある。人によっては明けているし、地域によっては明けている。裏を返せば、いつまでも明けない人もいるのだと思う。ちなみに島根県から東京や横浜に行く今回の帰省について、僕は職場で誰にも伝えていないし、子どもたちにも「極力いわないように」と言い含めた。まだまだそういう情勢だったりもする。
 3日の朝の飛行機に乗る。事前視察を行なった出雲空港へはつつがなく到着し、飛行機へと乗り込んだ。後悔することが前もって分かっていた飛行機は、やっぱり動いた瞬間に大いに後悔した。あの勢い。そして飛び立ってすぐの、斜めになっている間がつらい。規定の高みまで上りきり、安定飛行しているときはまだいいが、あの斜めになっているとき、すなわちシートベルト着用のサインが点いているときというのは、たぶんだいぶ、こちらが思っているよりもはるかに、安全が保障されていないんだろうと思う。あのときなにもなかったらめっけもん、くらいの感じだと思う。そのくらいのスリルを感じる。実際、今回もそれの際にそこそこ揺れた。飛行機が揺れるたびに、揺れるってどういうことだよ、と思う。なにぶんこちらは、飛行機が飛べているのはタイトロープ的なバランスでぎりぎり実現しているものと捉えているので、揺らぎなく飛んでくれないと困るというか、揺らいだ状態で浮かんでいられるはずがないと固く信じているのだ。だから揺らいだ瞬間、鉄の重みで一気に地上に叩きつけられるに違いないと思ってしまう。そのため少し揺れるたびに、後ろの座席から背もたれの間を通して伸ばしてもらったファルマンの手を、ぐっと握りしめた。力が入りすぎて、ファルマンは痛がるし、僕も筋肉痛になった。それでもなんとか、飛行機は無事に羽田空港に到着した。時間にすると1時間15分ほど。速い。飛行機はやっぱりびっくりするくらい速かった。もっともこれだけ怖いのだから、そのくらいのメリットがないと困る。
 羽田空港からはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗る。空港周辺の埋め立て地的なエリアを通り、川崎の工業地帯を通り、やがて北山田などの見覚えのあるエリアに入って、1時間ほどで着いた。たまプラーザには母が迎えに来てくれた。久々の再会である。
 家では祖母が待っていた。祖母はぼちぼち94歳になるらしいが、相変わらず元気のようだ。2年4ヶ月の間にポルガは祖母の身長を超えていた。
 しばらくしたら姉一家がやってきた。なにぶん2年4か月ぶりなので、今回は帰省の日取りを打ち合わせし、姉一家もキャンプなどの予定を立てずに待ち受けてくれたのだった。ちなみに僕ひとりの11月の帰省の際にも、姉一家とは顔を合わせなかったので、家族と同じ月日ぶりである。ただし甥(小4)はこの3日間、所属しているサッカークラブの合宿だそうで、今回は会えずじまいとなり、2年4ヶ月はさらに更新されるのだった。その代わり姪(中2)は2泊3日の間、がっつりと娘たちと絡んでくれた。中2になったというのに姪は相変わらず快活で、義兄の遺伝子を強く感じた。なんで中2なのに鬱屈としたものがまるでなさそうなんだろう。自信家とか傲岸不遜とも違う、あの正常さはなんなのだ。ファルマンは「陽キャ」といっていて、まあつまりその一言なんだろうな、としみじみと思った。ポルガは、たぶん年長者と話す機会があまりないこともあるのだろうが、2歳年上の従姉に相変わらずぞっこんで、横浜滞在中ずっと、既存の家族3人に対して冷たかった。そういうところだ。2歳年上の従姉に憧れながら、ポルガにあの快活さの片鱗も見出されないのは、そうやって相対的に家族の扱いがぞんざいになる、そのあたりの性根に原因があるのだと思う(そしてそれはこの両親の子である以上、どうしようもないことなんだよ)。
 それからは近所を少し散歩したり、姉一家が持ってきたモルックをしたり、スーパーに買い物に行ったり、のんびりと過した。今回は2泊3日で、2年4ヶ月ぶりで、コロナも完全に終焉したわけではない、などのもろもろの事情を鑑みて、どこかに行くような予定は一切立てなかったので、半日で早くも時間を持て余し始めたこんな過し方で、しかし合っているのだった。今回はこれでいいのだ。
 晩ごはんは定番の手巻き寿司。それなりに豪華で、実は準備が楽なので、こういうときは手巻き寿司一択だ。叔父もやってきて(もとい叔父は車を運転できないので姉が迎えに行くのだが)、にぎやかに食べた。甥が残念だったが、まあしょうがない。
 2日目は唯一の丸一日動ける日であり、予定は立てないといいつつ、さすがにずっと家でダラダラしているわけにもいかないので、出掛けることにした。目的地はこれも定番の、こどもの国。手巻きずしもこどもの国も、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すことだと思うが、毎回置かれる状況が一緒なので、結論が同じになるのは仕方がないことだ。いちおう、鎌倉はどうだろうということも検討したのだが、準備不足だったし、さすがにハードすぎる気もしたので却下された。こどもの国は大盛況だった。いつぞやテレビで観た、こどもの国はこんな人出です、の中継映像に出ていた、バラックのようにびっしり連なるテントの風景を目の当たりにした。ありとあらゆる設備が順番待ちで、島根の公園の尊さを思い知った。もちろん子どもはそれでも十分に愉しんだだろうが。しかし陽射しがなかなか強く、弁当も持ってきていなかったので、3時間ほどの滞在で、昼前に退園した。
 午後は姪のswitchで、子ども3人と僕の4人プレイで桃鉄をした。なにぶん時間がたっぷりあるので、5年設定でじっくりやる。3年くらいだと運の要素が大きいが、5年になると地力がものをいう。無事に子どもたちに大差をつけて優勝した。だてに大学生の頃、コンピュータとのふたりプレイで99年間やっていない。ゲーム自体はリニューアルされ、マス目も増えているとはいえ、経験値が違う。気分がよかった。
 晩ごはんは餃子。これもかなり定番だな。僕が作る餃子よりも野菜の比重が高く、軽やかに食べられた。ちなみにこの途中で、ホットプレートにつないでいた延長コードの線が焼き切れるという、あわや大惨事な出来事があった。延長コードの劣化が原因だったようで、昔の人間は物持ちがいいが、よすぎるのも考え物で、ちょうど機械類が老朽化したときに、持ち主も年を取っていて、その組み合わせはきわめて恐ろしいと思った。大ごとにならなくてよかった。
 最終日は、昼前くらいに家を出ればいいので、それまではのんびり。姪が朝からやってきたので、ファルマンと子どもたちを連れて散歩ついでに、柏餅を買いに行く。子どもの日なんだから子どもに柏餅を喰わさねば、という使命感に駆られたのだが、姪からは「なんで急に柏餅なの?」と不思議がられた。その家々で、親から子に与えられる情報、伝えられる常識は異なる。そういえば義兄はいつか、「となりのトトロ」を観たことがいちどもないと言っていた。どうもやっぱり人種がぜんぜん違うな、と思った。早めの昼ごはんの焼きそばを食べたあと、母と祖母とともに7人で柏餅を食べた。
 これで今回の帰省は終了である。玄関先で祖母と姪と別れの挨拶をする。祖母の「次はいつだ」という問いかけに、年末年始はやはり気候的に帰るのは難しそうで、だとしたら1年後とかになるかなあと頭の中では思いつつ、明確な返答は避けた。姪やポルガは、「夏休み!」と勝手に話を進めていたが、3ヶ月後は嫌だよ。それはよそうよ。
 おとといと同じく母にたまプラーザ駅まで送ってもらい、そこからバスで羽田空港へ。行きでは空港に着いてすぐに来たバスに飛び乗ったが、帰りは時間に余裕を持って空港にやってきたこともあり、空港の中でしばらく過す。ファルマンの実家へのおみやげを買ったり、行きの飛行機で耳に不調を来したピイガのために飛行機専用の耳栓を買ったりした。あと展望デッキにも出た。羽田空港の展望デッキは、出雲空港と違い、次から次へと飛行機が飛び立つのでおもしろかった。
 帰りの飛行機は、行きよりは揺れなかったが、それでもやっぱり飛んでいるのでどうしたって恐ろしかった。行きは隣がポルガだったので自重したが、帰りはピイガだったので、エロ小説を読んで気を紛らわそうと思った。しかし読んで、それなりに淫らな気持ちになっても、やはり飛行機に乗って高度何千メートルの位置にいるのだという事実が邪魔をするのか、勃起には至らず、もどかしい感触があった。パイプカットした状態ってこんな感じかな、などと思ったが、あれは精子が出ないだけで勃起はするってことだから違うかもしれない、とも思った。かくして飛行機は無事に出雲空港に着陸した。行きも帰りも飛行機は無事に離陸し、着陸した。それゆえにこうしていま日記を書けている。ありがたいことである。
 3日の朝に出発して、5日の夕方に帰ってきたのだから、自宅はたったの2日ぶりということになる。そう考えると非常に大したことないように思えるが、それでも十分に自宅への恋しさは募った。やっぱり自宅は愛しいな、と思った。
 そしてこの夜は、次の日がそれぞれ出勤と登校ということもあり、そしてなにより痛烈な疲労感により、家族全員、22時くらいに寝た。いくら飛行機が1時間ちょいといっても、移動による疲労感というのは、時間よりも距離による作用のほうが大きいように思う。深く寝た。実家の寝具は、畳に布団で、マットがないので固いのだ。あれでだいぶ腰がやられる。自宅の寝床は心地よいなあと思った。
 そんなわけで、無事に2年4ヶ月ぶりの帰省が成った。正月に帰る予定を連絡しておきながら中止した負い目などもあったので、実行できてよかった。心懸かりが取れた。これで当分は行かないでいいだろう。当分は遠出したくない。

出雲空港視察

 図書館に行くついでに、出雲空港まで行ってみる。直前に迫った空の旅の、シミュレーションである。飛行機に乗るにあたり、事前に空港に行って心の準備をしておくって、まるで大昔の人のようだなと我ながら思う。
 前回ここを、すなわち飛行機を利用したのは、いつのことだったか。岡山県民だった時代は、いちども飛行機の世話にならずに済んだ。そもそもピイガは生まれてからまだ飛行機に乗ったことがないと考えると、少なくとも8年以上前だ。こんなときは過去のブログを検索すればよい。その結果、2013年の4月であることが判明した。2012年の夏に第一次島根移住生活が始まり、晩秋から春まで酒蔵に勤め、その年季が明けたところで3人で横浜に帰省、というとき(ちなみにこの1ヶ月後の5月に、ピイガを妊娠していることが判明する)。この際、横浜にはなんと5日間も滞在していて、それならば陸路で移動すればよかったんじゃないかと思うが、当時ポルガは2歳3ヶ月であり、7時間あまりの移動は厳しいと判断したのだろう(7時間なんていつでも誰でも厳しいが)。
 よって飛行機は9年ぶりということになる。9年も経つと、前回の搭乗の思い出はほとんど残っておらず、ただ「飛行機=怖い」という、いたずらな恐怖心ばかりが募ってしまう。今回はそれをいくらかでも払拭するために、空港と飛行機を目の当たりにしておくことにしたのだった。今回の出発はわりと朝早くの便で、慌ただしくなりそうなので、駐車場や搭乗口を確認しておくという、実際的な目的ももちろんあった。
 9年ぶりの出雲空港は、行く前に思い出せたわけではないが、行ったら「こうだった、こうだった」の連続で、びっくりするくらいなにも変わっていなかった。商業施設でも、公共施設でも、9年も経てばなんだかんだでいろいろ変化するものだと思うが、そういうのが一切なかった。考えてみたら、牧歌的なダイヤで飛行機が発着する地方空港って、流行りも廃りもなく、ただひたすらに悠然と機能をこなすだけなので、本っ当になんっにも変わる必要がないのだ。ここまで長年なんにも変わらない場所というのも珍しいのではないかと思った。僕はこれまで10回もここを利用したことがないと思うが、それなのに郷愁に駆られた。移り変わりの激しい世の中で、ここの時は止まっているように思えた。ロビーを9年前の我々が歩いていても不思議ではなかった。
 3階の展望デッキに出ると、飛行機が停まっていた。我々が乗る羽田行きではなく、それよりもひと回り小さい機体の大阪行きだったが、20分後くらいに出発するというので、待って離陸の瞬間を見学することにした。滑走路を眺めると、出雲空港は本当に広々とした場所に、のっぺりと存在していて、周囲に高い建物など一切なく、たぶんパイロットにとってはとても操縦しやすい空港であるに違いない、と思った(冬は気候が荒れるので別だが)。それをファルマンに言ったら、「でも鳥が突っ込んでくるかもよ」などという言葉が返ってきたので、頭に来た。出雲空港は宍道湖のほとりにあり、そして宍道湖の水鳥はラムサール条約によって丁重に守られているのだ。そういうことを思い出させるんじゃないよ。
 タラップや牽引車から引き離された飛行機は、やがて自力で動き始める。飛行機の巨大な機体を支えるにしては、3つの車輪はあまりにも矮小のような気がして、特に先端のひとつには過度な力がかかってしまっているのではないか、と見ていて思った。なにしろ着陸の時、あれはまず地面に着く所だろう。そのわりに頼りなくないか、とやきもきする。動き始めた飛行機は、滑走路の端までやってくると、くるりと旋回する。羽田空港などだと、この動き始めから、「滑走路に入る順番待ち」の時間が長かったりして、ハラハラの時間が長引いて精神が削られたりするが、出雲空港ではそんなことはない。周囲からのプレッシャーもなく、パイロットも平静な気持ちで運転ができるに違いないと思う。旋回してから再び動き出すと、それはもう離陸のための走行であり、轟音とともにすぐに猛スピードとなり、機体は進む。そして右から左へ、展望デッキの我々の前を通り過ぎたと思ったら、ス、と、フワ、と飛行機は空中に持ち上がって、そのまま斜めに飛んでいった。やはり見れば見るほど、このス、フワ、の瞬間が分からない。すごい勢いなのは分かる。分かるが、なぜ上に行くのか。翼をはためかせているのならまだしも、そのままの形で上がるのだ。どういう理屈なのか。やっぱり嘘なんじゃないのか、と思う。
 実際に見たことで、心構えができたのかどうなのか、自分でもよく分からなかった。これまでの恐怖心とは少し違う心理になったような気はした。ではどんな心理かと言えば、釈然としない気持ちだ。飛行機が飛ぶのは、見れば見るほど納得がいかない。納得がいかないまま、数日後には機上の人となる。まあ、世の中は、納得のいかないことばかりだけどさ。

 ここで巻末付録として、8年前に飛行機に乗った際の記事を引用しておく。
 まずは行き(「USP」2013年4月8日)。
 搭乗口の待機場所のガラス越しに、これから乗る飛行機が見えて、操縦席のパイロットが、子どもたちが手を振るのに応えて手を振っていて、(いいパイロットさんのようだ)と感じると同時に、(しかし伏線ではないのか)とも思った。普段はパイロットの実存なんて気にするものではないのだ。それが今回に限って存在を主張してきたことに、自分たちは「あのパイロット」によってひどい目に遭わされることになるのではないか、と思った。飛行機に乗る前ってなにもかもが伏線のような気がしてくる。
 そして乗った9ヶ月ぶりの飛行機は、相変わらずおそろしかった。今回思ったのは、そのタイミングしかないのは分かるけれど、あの僕がいちばん嫌いな、離陸の時の、車輪がそろそろと動き出して、滑走路まで移動し、飛行機が本気を出し、ボバーッと前方に向けて突進を始めるあの瞬間、あの瞬間に、モニターで緊急の際の対応についてやるのはいかがなものか、ということだ。離陸してからでは遅いので、本当にあの時しかないんだろうけど、でもやっぱりちょっと悪意がある気がしてならない。さらされている状況だけで十分にエマージェンシーなのに、そこへエマージェンシーな映像が画面に展開されるのだから、心拍数は一気に上昇し、取り乱し、もうダメだ、という気分になる。
 飛び立つ瞬間、僕の体は左斜め前方の虚空に向けて引き攣りつつ伸びていたという。「なんだったの、あのポーズ?」とあとからファルマンに訊かれたが、僕がああしないと離陸がままならなかったのだ、と正直に答えたところで信じてもらえないだろうから、「ははは……」と力なく笑うにとどめた。離陸して、シートベルト着用のランプが消えてからも油断はできず、高度が増していることを思えば危険性が増していることは間違いなく、少しの揺れに、すわ「これまでの航空史上で確認されたことのないレベルの突風」か、そもそも天気予報があれほど当たらないのにどうして航路の気流が問題ないかどうか分かるというのか、と絶望的な気持ちになるが、顔を見上げるとCAさんたちが何事もなかったように飲み物を配っているし、乗客の誰もパニックを起こしていないので、仕方なくそのたびに平静を装う。飛行機は斯様に敏感な人間ばかりが損をする乗り物だ。高度何千メートルという状況にあって危機感を抱かないなんて、動物としての正常な感覚が鈍磨してしまっているんだと思う。そんな中でポルガの無邪気さが切なかった。自分はなんという不憫な状況下に大事な娘を置いてしまっているのか、と思った。親のエゴで。
 ちなみに9ヶ月前とは較べものにならない2歳児のやかましさを、飛行機に乗る前は危惧していたのだけど、乗ってみたら飛行機は割とずっとゴーッとうるさくて、2歳児が少々わめこうが周りに音が響くようなことはなかったのだった。よかった。かくして飛行機は無事に羽田空港に着陸した。着陸した瞬間、ああ、僕の人生はもうちょっと継続するのだ、と思った。帰りにも乗るので、あと5日は継続するほうのパターンだ。その5日間をせいぜい悔いの残らないように生きよう、と思った。
 続いて帰り(「USP」2013年4月12日)。
 そして飛行機に乗り込む。行きの飛行機よりも大きい機体のようで、「大きい機体は揺れが少ないよ」とファルマンが甘い囁きをする。それでもやっぱり走り出し、ディスプレイで非常時の身の振り方を伝え出し、やがて体が上斜めに向かう不自然な状態になると、後悔した。飛行機が飛ぶといっつも後悔する。飛ぶ前は、せっかく地に足がついていて、死の危険とは縁のない状態だったのに、みすみす落ちたら死ぬ状態に身を置いてしまった、という後悔だ。置かなければ済む話だったのに、なんで置いてしまったんだ、といつも失敗した気持ちになる。こんなことを思ってしまうのは、基本的に乗客は座っているだけで、気持ちに余裕があるからで、恐怖はこの余裕につけ込んでくるのだ。なにか他のことに集中しようと、吉祥寺のブックオフで買ったグルメ雑誌の、駅弁特集のページを必死になって眺め、「ごはんに刻んだ胡桃が混ぜ込んであり意外な食感が愉しめる」などと書いてあるのを、ごはんに胡桃はどうなんだろう、と思ったりするのだけど、それで救われるのは全体の1割くらいで、やはりまだまだ余裕があってしまい、恐怖を感じることができてしまう。それで思ったのだけど、こんな僕みたいな人間のために、株主総会における総会屋のような感じで、そちら側の人を雇って乗せ、飛行機に乗っている間、その人が僕のことをさんざん怒鳴りつけていればいいんじゃないだろうか。そんな事態に陥れば、飛行機の恐怖感がだいぶ薄れる気がする。だけど到着後、心底くたくただろうな。あるいは気絶させ屋(しめ技の達人とか)ということになるけれど、しかし死の恐怖を味わいたいわけではないが、いざ飛行機が墜落するとなったとき、意識がなく眠ったまま死ぬというのはやはり嫌なので、やはり怒り屋のほうがいい気がする。怒り屋。だめだこりゃ。こんなくだらないジョークを言ってしまうのも仕方ないくらいに、山陰の飛行機って本当に怖いのだ。今回も中国地方に入り、高度を下げるため厚い雲を抜けようとするあたりで、ファルマンでも「わあっ」と声を上げてしまうほどの揺れがあったのだ。本当に信じられない。山陰地方信じられない。山で隔てられているせいで陸路が不便なくせに、空路もこんなんで、一体なにを考えているの、と思う。山陰地方がまるごと天の岩戸なのかもしれないね。しれないよ。
 それでもこうしてこのことをブログに書けているということは、飛行機はなんとか無事に着陸したのである。たぶん、いつか「飛行機が嫌だった話」が書けず終いのときが来るのだろうな、と思う。