GW前半

 4月最後の2日間は、もうGWのような、まだGWでないような、とても半端な感触の土日なのであった。
 土曜日はずいぶん久しぶりに、子どもたちを連れてプールに行った。子どもたちは気温が高くない時期ににプールに行くと風邪を引くので、年間の家族会員なのに、たぶん7ヶ月か8ヶ月ぶりである。実にもったいない。僕ひとりで家族会員分の料金の元は十分に取っているけれど、次からは絶対に個人会員にしようと思う。子どもと来る週末の日中のプールは、いつも平日の夜にはまあまあ混んでいる、きちんと泳ぐ人用のレーンが空いているので、いつも少し恨めしい気持ちになる。この前の晩にも僕は来ていて、その際は、上級者向けのレーンには、ガチの上級者がいて入りづらく、初級者向けのレーンには、逆によくそこまでゆっくりと泳げるものだと言いたくなるお年寄りがいて、仕方なく僕はそちらで泳いだのだけど、やはり普通に泳ぐと追いついてしまうので待機の時間を取らねばならず、なんとなくモヤモヤしたのだった。リフレッシュのために泳ぎに来ているのに、微妙にフラストレーションを溜めるという無意味さ。中級者という半端者の悲哀である。もっとも世間的には中級者でも、子どもたちに対してはかなり得意になって泳げる。運動方面で父としての威厳を見せつけることができる部門があってよかった。
 帰宅後、晩ごはんはシューマイを予定し、餡まで作り、米も研いで炊飯器にセットまでしたのだけど、日中に行ったスーパーで見た鮨がずっと頭の中でくすぶっていて、と言うかここ数日、鮨を食べたい気持ちがだいぶ高まっていたので、夕方、もしも安くなっていたら鮨を買って、今晩は鮨ということにしようじゃないかと考え、時間を見計らって再びスーパーに行ったところ、果たして大皿の鮨が半額になっていた。だいぶ豪華なやつで、半額とはいえ、もともと6000円ほどするのが3000円だったので、3000円かー、という気持ちはあったのだけど、まあ祝日だし、GWのオープニングだし、などと意味の分からない弁明をして、えいやっと買った。1人前のパック鮨を4つ買うのに対し、大皿の鮨のテンションの上がること。味は、さすがもともとがいい値段のするものなだけあって、だいぶおいしかった。ここしばらくの鮨欲求がいい形で満たされた。
 明けて今日は、特になんの用件もなかったので、僕だけスーパーに買い物に出たほかは、残りの3人は家から出ることもなく、のんびりと過した。GW、帰省したら慌ただしく終わって切ないのに、帰省をしないと逆に時間を持て余しそうな予感がプンプンする。まるで人生のようだな。
 GW中にどうしてもしたいこととして、台所の、流しの下と上の収納の総ざらい、というのがある。そのくらい今日ちゃっちゃとやっちまえよ、という話なのだけど、なかなか腰が上がらず、後半に持ち越しとなった。
 午後のおやつの時間に合わせ、先般から長くやっている、僕とファルマン(とコンピュータひとり)の桃鉄を行なった。期間を100年に設定し、いま53年目。今のところまだ僕の天下が続いているけれど、キングボンビーがついて4、5回も悪さをされたら、数十年かけて積み上げてきたものはあっという間に崩壊するわけで、人生というのは儚いものだな、などと思う。
 それ以外の時間は、ショーツの試作に励んでいた。「nw」にて絶賛漫談中の、のび助ショーツは、型が定まったような、まだ模索しているような、微妙なところである。結局のところ、形が確定しないもの(ちんこ)の形を表現しようとしているので、定まりようがないのである。正解のない問いの正解を探し続ける、これはまるで人生のようだと思う。
 夕方に少しプールへの色気を出すが、夕飯の準備もあってさすがに厳しくなり、断念する。やはり平日に行こうと思う。ちなみに今週は2日だけ出勤すればGWの後半が始まるわけで、この平日のあとのほう、火曜日の退勤後に、ちょっと長い運転になるが、おろち湯ったり館に繰り出してはどうか、ということを少し考えていたが、ホームページを見ると、普段水曜日が休みの湯ったり館は、今週は水曜日を開ける代わりに、火曜日を休みとするのだそうで、残念だった。ホームページを確認して本当によかった。
 夜は焼売を食べた。おいしかった。「まつもtoなかい」で中居正広と香取慎吾が共演していて感慨深かった。少しだけ「笑っていいとも!」の最終回味があると思った。

散髪顛末

 髪の量が増え、乾かすのに時間が掛かると感じるようになった。そんなこと言ったらお前は2月まで結わうほどの長髪だったじゃないかという話なのだが、今はもうモードが違うのだ。髪を伸ばそうという気がないので、少し伸びて乾かすのに時間が掛かるようになっただけ厄介なのである。
 というわけで散髪することにしたのだが、ファルマンはしてくれない。ファルマンはこれまでも、後片づけなどの面倒さもあって、子どもはまだしも、僕の髪を切るのは億劫がっていたのである。そんな折、3月にポルガが、小学校の卒業式を前に、さすがにこのときばかりは、ということで、生まれて初めて美容師にカットをしてもらったのだが、その状態で横浜に行ったところ、母が「さすがはプロね」とやけに髪の仕上がりを褒めたため、ファルマンは家族の髪を切る意欲をだいぶ削がれてしまったのだった。
 そのため今回はお店に行って切ってもらうほかなかった。それで今朝、お店のページを確認したら、もう間もなく開店という時間だったため、じゃあ一番に切ってもらおう、簡潔でいいや、と慌てて家を出た。もちろん予約をするような上等な店ではない。しかし行ってみたらもう既に何人か順番を待っている人がいた。みな考えることは同じなのだ。仕方なく申し込みだけして、スーパーに買い物に出たりなどして時間を合わせた。結局散髪を終えたのは昼前になってしまった。行って切ってもらうだけだから店はそこが楽だな、なんて思っていたら、思わぬ時間を喰ってしまった。
 そして仕上がりはと言うと、これもよろしくなかった。丸みを保持しつつ、なるべく短く、軽く、というこちらの要望は、たしかに聞き入れられていて、だから文句は言えないのだが、でもなんというか、こういうことではない、という感じがあった。論法が違うとでも言おうか。なるほどいまどきっぽくはあった。だからこそ、論法が違った。
 それですっかりテンションが下がってしまい、このままだと本格的に落ち込んでしまうと思ったので、髪の色を変えることにした。それで午後の買い物でブリーチ剤を買い、ファルマンにやってもらった。まあまあの度合のものを選んだのだが、黒髪からなので金色までは至らない。しかしまあ、なんとか精神は救われた。来週以降、ここへなんかしらの色を入れようと思う。それまでには、髪型も自分の中で折り合いがつくだろうと思う。
 いつぶりか知れないお店カットで、だいぶ懲りた。また次からはファルマンに頼んで切ってもらおうと思う。技術的なことなど知らない。姑のデリカシーのない言葉がなんだ。ファルマンは、こちらの望む論法でやってくれるので、それは何にも代えがたいのだと悟った。

ファルマン生誕祭

 ファルマンが誕生日を迎える。
 当日は月曜日なので、前日の昨日、日曜日にお祝いをした。特別なことをしたわけではないが、4人でちょっと豪華な晩ごはんを食べ、そして手作りのケーキを食べるという、平和でしあわせな時間を過した。なによりだと思う。
 かくしてファルマンは、40歳になった。
 40歳。


 40歳である。
 去年が39歳だったのだから、別に予測不能の展開でも、どんでん返しでも、なんでもないのだが、それでも40歳というのは破壊力がある。来ることは分かっていて、そのために身構えていても、いざ襲来されると、そのパワーはこちらの予想をはるかに上回っている。そんな感じがある。ヒットくんたちは無邪気に、人文字ならぬヒット文字で「40」を描き出しているけれど、なぜか端っこにいるファルマンは、ひとりだけ髪を黒く塗ってもらえていない。そのあたりに、40歳以上と40歳未満の、あまりにも深い溝が見て取れる。
 僕がファルマンと付き合い始めたとき、ファルマンは20歳だった。それが40歳。人を、40歳以上と40歳未満で区分けした場合、僕はまだ、かの日の自分たちと同じ括りの中にいるけれど、ファルマンはそうではない。ファルマンはもう、先の階梯に進んでしまった。
 10年にいちどの、「代」が異なる5ヶ月半が始まり、とても嬉しい。30代の僕は、40代の姉さん女房を、この五ヶ月半の間、味がしなくなるまでいじり続けようと思う。そしてその喜びを掻き立てるかのように、ディズニーランドも40周年の特別イベントのことをCMでやり始めている。開園日である4月15日から開始だそうだ。つまり、もうこれを何度言ったか知れないけれど、ファルマンが生まれた時点では、日本にディズニーランドはなかった。ついでに言えば、1983年7月15日に発売されたファミコンも、まだなかった。じゃあ当時、娯楽はなにがあったんだろう。メンコとか、ゴム紐とか、缶詰に紐を通してカッポカッポするやつとかだろうか。そんな、物質的には貧しかったけれど、それでも戦後の経済成長の途上にあり、日本人が元気だった時代を生き抜いて、今のファルマンがある。時代の生き証人として、これからも元気で居続けてほしい。
 どんなにいじっても、まだいじり足りない気がする。自分より早く生まれた妻とかけて、ちんこととく。そのこころは、どんなにいじっても、まだいじり足りない気がするでしょう。5ヶ月半後に自分が40代になる頃には、あまりにもいじり過ぎた結果、さすがに40代いじりは賢者タイムになっていたらいいなと思う。僕はいじられたくない。

年度末と、はじまり

 山陰も桜が満開である。この週末に花見をしない手はないということで、実家の面々も誘い、土曜日に木次に行くことにした。ちなみに春休みに入り、実家には次女とその娘たち(下の子は間もなく1歳となる)も帰省してきているのだった。
 しかし木次に行くにあたり、ひとつ問題があった。木次に行ったら、僕はおろち湯ったり館に行きたくてしょうがなくなる、という問題である。去年の11月、2階露天が冬季閉鎖する直前に行き、そして3月中旬に再開した湯ったり館に、行きたい欲は俄然高まっていた。湯ったり館はいつだっていいけれど、春はまた格別なのである。しかし職場とおろち湯ったり館は、ほぼ自宅を挟んで正反対のような位置にあるため、夕方まで仕事をしたあと、さすがに行く気にならない。ならば週末に、ということになるわけだが、こうして自ら実家を巻き込んでの花見を計画してしまったものだから、その機会も奪ってしまった。春のおろち湯ったり館に行きたい気持ちと、親類で花見をしたい気持ちは、僕の中のそれぞれ違う部門で、それぞれの最優先事項として立案されたものなので、これは仕方ないことだった。
 ならばなんとかして、親類で花見に行きながら、僕だけがおろち湯ったり館に行くという方法はないものか、必死に探った。しかしどう考えても、車は義父と、僕のフリードという2台で行かねばならず、僕だけが途中でドロンすることはどう考えても不可能だった。木次に行きながらおろち湯ったり館には行けないという事態を前に、僕の心は千々に乱れた。最終的に、花見を終えて、家族らを実家まで送り届けたあと、僕だけがおろち湯ったり館のためだけに木次にとんぼ返りする、という方法しかないだろうと結論付けた。
 そんな折、急転直下の出来事が起る。仕事が、もろもろの事情により、金曜日は半日で終わることになったのである。なんたる僥倖。願いが強いとこんな奇蹟が起るのか、と思った。
 もちろん移動距離が変わるわけではないが、夕方からやるのと、昼からやるのでは、ぜんぜん気持ちが違う。意気揚々と長いドライブをして、4ヶ月ぶりのおろち湯ったり館へとたどり着いた。週末に行くつもりが、平日の午後になったのだから、混雑度的にも万々歳である。もとより労働に費やされるための時間だったと考えれば、せせこましく時間を惜しむ気持ちも湧かず、じっくりと、それはもうじっくりと湯ったり館を堪能した。
 まずプールで泳ぎ、それからサウナ。サウナでは1回目の外気浴で早くも、いわゆる「ととのう」状態になったので驚いた。湯ったり館との相性があまりに良すぎる。あとこれまでのベンチでも十分に満ち足りていたのに、このたびそのベンチに改良がなされていて、座面の半分が背もたれのように稼働するようになっており、これもよかった。湯ったり館はまだ高みを目指すのか、と慄いた。それでも2回目の外気浴では、これまでのフラットなベンチに横たわった。青空以外、視覚的にも聴覚的にもほとんどなにもない空間で、素っ裸で横になっていると、サウナ後の軽い朦朧もあり、日常では決して味わうことのない境地へと至ることができる。たまらなかった。さらに今回は、そのあとで2度目のプールという、新しい展開も試してみた。これもかなりよかった。サウナ後のスッキリ感を伴いながらの水泳は、また別種の快感があった。そして再びサウナへ舞い戻り、骨の髄まで堪能した。
 これで翌日の親類との花見で、おろち湯ったり館に行きたくて終始そわそわする、という事態を避けることに成功した。大成功であった。花見は、本当に見頃の桜を、抜群の気候の中、思ったような食べ物を調達し、ノンアルコールビールを飲んで、朗らかに行なうことができたので、とてもよかった。花見はいいな。春に、桜を、大事な人たちと、愉しむことができるという、そのことにしみじみとした幸福を感じる。
 とてもいい、年度末と、始まりであった。

岡山旅行&横浜帰省記 7 完結

 江ノ電はひどく混んでいた。今回乗った電車の中で、断トツだった。いったいこれがGWにはどうなってしまうのか、とまた思った。予定通り、由比ヶ浜駅で下車。由比ヶ浜駅というくらいだから、降りたらすぐに砂浜の風景が広がるのかと思っていたが、意外とそんなことはなかった。どうも人の流れ的にこちらが海らしい、という方向へ、住宅街の中をしばらく歩いて、ようやく着いた。この道の途中や、あるいは沿岸にコンビニのひとつもあるだろう、そこで食べ物の追加や、そしてノンアルコールビールを買おうと画策していたのだが、意外とひとつもなかった。仕方ないので先ほど調達したもので我慢することにした。箱を開けてみたら稲荷ずしは思っていたよりもボリュームがあったので、食べ物の分量的には問題なかった。ノンアルビールはだいぶ恨めしかった。食べていたら、上空をトンビの大群が旋回し始め、子どもが怖がる。それを憂えたファルマンが、持っていたビニール袋を頭上に突き上げ、変なステップを踏みながら振り回すという、トンビを追い払っているのか人を追い払っているのか判らない謎の動きをしたのでとてもおもしろかった。
 食べ終わったあとは、長谷の方面に向け、砂浜を歩く。わが家は、日本海や瀬戸内海には馴染みがあるけれど、太平洋とはほとんど接触がない。一応みなとみらいでも目にはしているのだが、あれはあまり海という感じがしない。歩いて分かったが、日本海と太平洋の大きな違いとして、太平洋の砂浜には、ハングル文字のプラごみがない。
 長谷駅までは歩いたらけっこうあった。そして長谷駅から、いわゆる鎌倉の大仏のある高徳院までも、けっこう距離があるのだった。しかもゆるやかな上り坂。ファルマンとふたりで来たときも同じ道を歩いたはずだが、まったく記憶にない。こんなにけっこう行くまでに苦労したんだったっけ、大仏様ちょっと奥に移動してない? などと思った。
 高徳院に着き、大仏に相対する。おー、という感想。写真とかテレビで見たことあるやつー、と思った。バカな感想だな。僕とファルマンとポルガの3人は、つい最近「ブッダ」を読んだばかりなので、特別な感慨を持てばいいだろうに、あまりそんなことはなかった。大仏の内部も入れたので入った。たぶんこれは初めてじゃないかと思う。内部が特別どうこうということはなかったが、あの鎌倉の大仏の中に入ったという事実がおもしろいと思う。
 鶴岡八幡宮、小町通り、由比ヶ浜、鎌倉の大仏という、王道ルートをこなし、これにて鎌倉観光は終了。これから長谷駅まで歩いてそこからまたあの激混みの江ノ電かー、とテンションが下がっていたら、高徳院を出てすぐの所にバス停があり、鎌倉駅まで行ってくれるというので飛び乗った。座ることもでき、とても楽だった。
 帰りの電車で母と話をしていて、由比ヶ浜の話題になり、母が「波の音って本当にうるさくて嫌」と言ったのが印象的だった。ああ、この人は息子一家と鎌倉に来て、由比ヶ浜を見て、そしてしみじみと、「波の音がうるさい」ということを思うんだな、ブレないな、と思った。母がこれからもずっとこうやって、老人的なみすぼらしさを見せないでくれたらいいと思った。
 帰りがけにスーパーに寄り、夕飯の買い出し。メニューをどうするか問われたので、焼き鳥やシュウマイや煮豚や枝豆など、おつまみっぽいものをこまごまと作ろうと提案した。帰宅すると既に甥は実家にいた。それから叔父と姪を車で迎えに行き、夕餉を始める。陽射しを浴び、よく歩いたあとの焼き鳥とビールが、どこまでもおいしかった。途中で姉と、今晩は義兄もやってきて、全員集合となる。全員が集合したので、3年ぶりに全員での写真を撮った。見較べてはないが、3年分子どもたちが大きくなっているだろう。それ以外はあんまり見た目の変化はないだろう。
 翌日は最終日。なんとこの日も予定が入っている。新幹線は午後2時新横浜発なので、午前中だけなのだが、ここが今回の帰省で唯一の、いとこで遊べるチャンスなので、姉と事前に協議した結果、つくし野のアスレチック施設に行くことにしたのだった。しかしここまで岡山・上野・鎌倉と動き回り、さらには夕方からは岡山から島根までの運転が待っている身としては、今日はもういいんじゃないか、姉の家の大きなテレビでWBCの準決勝を観る、というのでいいんじゃないかと、やんわりと提案したのだけど、アスレチックにテンションを上げる子どもたちにそんな声が届くはずもなかった。というわけで朝からアスレチックへ。姉によると、ここには自分が子どものころにも来たことがあるそうなのだが、まったく覚えがなかった。園内を巡っているうちに痛烈に思い出す瞬間があるかもしれないと期待していたが、結局最後まで一切の思い出がなかった。子どもたちは普通の公園にはないレベルの設備に、躍動していた。こいつらはもう、こどもの国じゃなくてこっちなんだな、もとい数年前から実はそうだったんだな、と見ていて思った。そして子どもたちをアスレチックで遊ばせながら、大人たちと言えば、やはり誰もが明らかにWBCの試合状況をチェックしているのだった。大抵の大人は、家でWBCを観たいに決まっているのだ。それでも子どもとアスレチックに行く約束をしてしまったから逃れることができなかったのだ。試合は敗色濃厚の様相を呈し、諦めムードの中、われわれのタイムリミットは迫り、アスレチックを後にする。その施設から出て駐車場の車まで歩いている途中で、周囲からワーッという叫び声が響き、慌てて車に飛び乗ってラジオを付けると、村上のサヨナラタイムリーで日本が勝っていた。タイミングが特徴的だったので、なかなか印象深い記憶になったと思う。
 そのあとはいったん帰宅し、少し急いで昼ごはんを食べ、1時ごろに実家をあとにする。濃厚であっという間の2日間だった。
 そのあとは新横浜で新幹線に乗り、5時半ごろに岡山に到着。岡山から再びかつての居住地の街へと移動し、3日間、見知らぬ街に置いていかれていた愛車に乗り込んだ。ここから3時間の運転である。この街に住んでいたらここで行程はおしまいなわけで、楽だなと思うが、でもやっぱり、これは前向きな発言として、ここに住んでいた頃よりも、今の島根県での暮しのほうが好きだな、3時間余計に掛かっても島根の暮しがいいな、というふうに思ったので、自分のことながら安心した。3時間は、ポルガのプレイリストを聴きながら、愉しく運転した。今回は本当にギチギチのスケジュールだったのだが、無事にすべてをやり遂げることができ、よかった。帰省して数ヶ月は、「さすがに顔を出さないとなあ」という懸念から解放されるのがいい。GWはたくさんのんびりしようと思う。

岡山旅行&横浜帰省記 6

 ここまでちょっとゆっくり書きすぎた。ここからペースを上げることにする(どうせそんなことになるだろうと思っていた)。

 3年ぶりの国立科学博物館は、まあ前に来たことがあるな、という感じだった。もちろんおもしろいのだが、1回目に読んでおもしろかった本を、あの本すごくおもしろかったからもう1回読もう、と思って読んだら、もう読んだことがあるのでそんなには愉しめない、みたいなそんな感じがあった。とはいえ、別に僕はいいのだ。ポルガが来たくて来たのだから。たぶん3年生で来た時よりも、知識も増えて、より愉しめたのではないかと思う。
 午後2時ごろに科博を後にし、ようやく実家へ。JR上野駅から田園都市線へのアクセスが、途中のどこかで半蔵門線に乗り換えるとか、検索すれば賢い方法もあったのだろうが、荷物が重かったこともありそんな余裕はなく、山手線で渋谷まで行くという、たぶんとても素人的な経路を採った。ホームに降りてから気付いたが、上野から渋谷って、山手線のほぼ真反対なのな。内回りでも外回りでも変わらない感じ。長いなー、とうんざりしながら、先に来たほうの電車に乗り込んだ。この際、初めて例の「高輪ゲートウェイ駅」を経験する。別に鉄道オタクではないので感慨はないのだが、それにしたってひどい名前だな、と思った。
 渋谷ではせっかくだからスクランブル交差点を歩こうかとも思ったのだが、やはりどうしたって荷物が重く、断念する。ここでも案内板だけを頼りに田園都市線乗り場に向かって歩いた。渋谷駅は、なにしろ田園都市線っ子なので、東京駅よりははるかに土地勘があるはずなのだが、僕が利用していた頃の渋谷駅と今の渋谷駅は、たぶんもう別の駅なのだと思う。乗り換えで歩いた通路の景色が、ひとつも懐かしくなかった。
 田園都市線もそれなりに長い。やはり実家と上野は遠い。そんなこと言ったらそれは岡山から上野のほうが当然遠いのだが、それでもやっぱり今回の作戦は成功だったと思う。たまプラーザに迎えに来てくれた母の車に乗り、ようやく実家に到着する。
 実家には祖母と、姪と甥がいた。甥は、去年のGWの帰省の際はサッカーチームの合宿とかで会えなかったので、科博と同じで3年前の正月以来だ。たまに送られてくる写真で見知ってはいたが、髪の毛を伸ばし、しかも茶髪にしていて、なんだかチャラかった。断っておくが、あの襟足が長いタイプの、ああいうのではない。この喩えがいいのかどうか分からないが、ヴェルディの北澤みたいな感じ。サッカーだし、小さいし、チャラいし、実際かなり共通項はある。そして相変わらずうるさい。男子って基本的に女子よりもバカでうるさいものだと思うが、甥はその中でもだいぶその度合いが強いほうに違いない。
 やがて姉も来て、叔父も来て、晩ごはんは定番の手巻きずし。ビールも含め、おいしかっただろうと思うが、味など覚えていない。とにかく子どもたち4人のやかましさに、滞在中通して、あてられ続けた。上のふたりがじきに中学生や高校生になるので、いまがこの4人組のやかましさのピークの時代ではないかと思う。
 夜は早めに寝た。なにしろ予定はギッチギチなのである。少しでも体調を崩せば計画が瓦解してしまうので、夜はせっせと体力の回復に努めなければならない。ストイックすぎて、愉しもうとしているのか、こなそうとしているのか、よく判らなくなってくる。
 明けて3日目の予定はなんなのかというと、なんと鎌倉である。鎌倉へは、だいぶ前から行きたいと思っていた。でも地方民のわれわれがこちらに来るときは、要するに大型連休期間であり、そんなときの鎌倉はどうせとてつもなく混んでいるのだろうと、いつも二の足を踏んでいた。そんなところへ、とうとう去年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」となり、ああこれはもうダメだ、また当分鎌倉への道は遠のいた、と諦めていたのだが、今回この自前で作り出した4連休の、それも骨子の「自前」の部分、すなわち世の中的には平日であるこの日こそ、われわれが鎌倉に行くことのできる、千載一遇(この旅2度目)のチャンスだと思い、向かうことにしたのだった(それだのに、2日前の晩、岡山のホテルでたまたま眺めた「アド街ック天国」の特集が「鎌倉 長谷」だったので、やめてくれよ! と思った)。
 これにはせっかくなので母も誘った。これで母を伴わなければ、帰省したのにほとんど実家の面々と絡まなかった感じになるので、孫らとの思い出作りとしてよかったんじゃないかと思う。なんなら祖母も来るかなと思ったのだが、さすがにもうそういう遠出はしないようだ。それでも近所の散歩は日々しているそうで、94歳とは思えないほど、変わりなく元気そうだと、こちらがそう感じたい部分もあって、そう見えるのだが、しかし80代と90代というのはやはりだいぶ違うのだろう。ポルガ3歳の七五三の際、2014年のことだが、祖母は母と姪と3人で倉敷にやってきて、一緒に美観地区を回った。さらにその次の日は、広島の知人に会いにひとりで別行動さえしていた。9年前なので、あのときの祖母が85歳ということになる。85歳と94歳は、そうか、それは違うよな、と思った。
 あざみ野から鎌倉へは、1時間くらいで着いた。長年行きあぐねていたわりに、いざ行ってしまえば近いのである。鎌倉と言ったが、下車したのは北鎌倉駅。ここから、円覚寺や建長寺に立ち寄りつつ、ひたすら歩いて、鶴岡八幡宮に後ろ側からたどり着くというルート。特になにも決めずに来ていたのだが、祖母にそう提案されたので、従った次第である。やってみたら、かなり歩くルートだった。
 鶴岡八幡宮の大階段では、ファルマンが「鎌倉殿の13人」の、源仲章の死に際のモノマネを得意としており、「あたい鶴岡八幡宮に行ったら絶対に再現すんねん」と言っていたので、僕は公暁役となり、ファルマンを斬りつける演技をしてやったのだけど、ファルマンは周囲の人間の多さに委縮して結局モノマネせず、だからただ僕が急に妻を手刀で打擲した、デートDV夫みたいになった。そのあとファルマンは、なにを思ったのか、御朱印を書いてもらう列にポルガとふたりで並び、しばらくして戻ってきたら、手に自分用として鶴岡八幡宮仕様の御朱印帳を持っていた。なぜか急にここで、自分も始めることにしたらしい。まあどうせ御朱印帳を始めるなら、ポルガの出雲大社然り、やはりちょっと名のある所の御朱印帳がいい気はする。鶴岡八幡宮なら悪くないな。鎌倉はわれわれの新婚記念デートの場所だし、おみくじで「名付けに注意せよ」というありがたい言葉をいただいた場所だし(守らなかったけど)。
 そのあとは小町通りを通り、鎌倉駅へと向かう。鶴岡八幡宮もだったが、この小町通りがすごい人で、いちおう平日の今日でこうなのだから、週末やGWとなるとどうなってしまうのか、と思った。このあとの予定としては、江ノ電に乗って、長谷を目指しつつ、途中の由比ガ浜で降りて砂浜でごはんを食べようと思っていて、そのために小町通りでなんかしらの食べ物を買っておく必要があったのだが、これが大変だった。食べ物屋はどこもだいたい行列で、とてもガイドブックに載っているような、「小町通りで食べ歩き♪」なんて状況ではないのだ。それでもなんとか稲荷ずしや唐揚げを調達し、ほうほうの体で駅へと進んだ。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 5

 岡山から新横浜までは新幹線で3時間である。夕方に岡山に着き、なぜそこで新幹線に乗るという選択をしなかったか。乗ってしまえば車内での3時間は寝ていればいいのだし、そのあと新横浜からあざみ野までの地下鉄さえ少し耐えれば、駅までは母が迎えに来てくれる。着いて寝るだけの初日になるが、それは仕方がないだろう。でもそうはしなかった。そうは言ってもその移動は体力的にきついだろうというのもあったし、なにより翌日の予定が関係していた。旅程2日目の今日は、上野の国立科学博物館に行くのだった。実家から上野へのアクセスは悪い。アクセスが悪いというか、普通に遠い。前の晩、深夜帯に実家に着いて、翌日の午前中に上野に向けて出発するのは、かなりハードなスケジュールに違いない。それよりは岡山で(それなりに)ゆっくり休み、翌朝早くの新幹線に乗って、上野目的で東京駅まで新幹線で行く、というのが賢い選択だろう。などと偉そうに言っているが、僕が考えたのではない。これはファルマンの采配である。僕ははじめ岡山で1泊すると聞いたときは「へ? なに言ってんの?」となった。でも実際にやってみて、やはりこれは正解だったと思った。
 というわけで早朝の岡山駅である。新幹線は岡山発の、始発か、あるいはその1本あとくらいの、本当に早いものであり、余裕を持って早めに駅に行ったら、なんと新幹線乗り場の改札がまだ開いていなかった。改札の前には人がじりじりと集い、その中には明らかに、ディズニーランドに卒業遠足的なものに行くのだろう学生などもいた。岡山という場所は、新幹線という乗り物は、なるほどそういうものだったな、という感じを思い出した。この感じは、島根県ではまるで味わわないものである。
 やがて改札が開けられ、入場した。もちろん指定席を取ってあるので、乗り遅れさえしなければ、急ぐ必要はまるでないのだ。かくして無事に、やってきた新幹線に乗り込み、旅行&帰省の後半部に突入した。あるいは上野パートはまだ帰省ではなく旅行の延長と捉えるべきだろうか。別にどっちでもいいことだな。
 新横浜を通過し、品川を通過し、東京に着く。時刻はまだ9時過ぎである。永遠に全貌は把握できないのだろう東京駅を、目的の路線の案内表示だけを頼りに、溢れかえる人波の中、進む。東京から上野は、もちろん近い。すぐに着いた。着いたJR上野駅で、動物園などのエリアに近い出口を探し、改札を出たら、なるほど目の前はそのエリアだった。今年やけに早く咲き始めた桜も影響しているのか、まだ午前中だというのに人は多かった。基本的に自分たちが田舎住まいだというのもあるが、コロナ以降、久々にこのような人出を見たような気がする。かくいう我々も、この場所に来たのは2020年の1月以来であり、そういう輩がこういう所に来られるようになったからこそのこの人出なのだな、と思った。

岡山旅行&横浜帰省記 4

 引越しって一種の死みたいなもので、自分がいなくなっても変わらずに全体の営みは続いていく感じが、とても似ていると思う。だから引越した街に顔を出すのって、ちょっと霊界から舞い降りて現世を眺めているような気分だ。ワクワク感と同時に、すごい寂しさもある。かつて自分の居場所であっただけに、今はもうそうではないことに、やるせない喪失感を抱く。
 馴染みのスーパーを覗いてみた。引越しの直前、「当店はリニューアル工事のため下記の日程で休業します」という張り紙があり、それは我々が引越す数日後の日付で、だから一体どんなふうなリニューアルが行なわれたのか、2年以上気になっていた店である。入店してみたら、たしかに2年前とは微妙に違う気もしたが、2年前の記憶自体があやふやになってもいるので、なんとも言えなかった。遠いなあ、当たり前だが、この土地で我々はもはや、地に足がついていないのだなあ、ということをしみじみと思った。今晩、ホテルで食べるものを買い、店を出た。今後また倉敷に来ても、もうあえて、こうして懐かしがってこのスーパーに来ることはないかもしれないな、と思った。
 この街にわざわざ来たのは、こうして回顧するのももちろん目的のひとつだが、車を停めるためでもあった。3日後の火曜日まで、足掛け4日間車を置いておくにあたり、岡山よりもこの街のほうがいいだろうと考えたのだった。岡山市街は土地勘があまりないし、駅の近くの駐車場となれば駐車代金もかなり掛かるだろう。ここならば、岡山まで電車で行く手間は掛かるが、安心感があった。駐車場は、あたりをつけていた場所(もちろん居住時代は使ったことがなかったけれど)が無事に空いていて、停めることができた。1日500円。さすがの安さ。
 なのでここから電車で岡山駅へと移動した。車に軽い気持ちで載せてきた荷物は、持ってみるとだいぶ多く、重く、これはこのような旅程でのトラップだと思った。
 岡山駅ももちろん久しぶりである。ただしこの時点でもう18時を過ぎて暗かったし、荷物も重かったので、駅から歩いて10分ほどのホテルまで、心を無にして歩いた。自業自得だが、3時間の運転後に、僕は泳ぎさえしたのだ。3泊4日の初日から飛ばしすぎだ。
 ホテルの部屋に着いたときにはほっとした。出発前は、夜は岡山の街をブラブラするのも悪くないな、などと考えていたが、とてもそんな気力は残っていなかった。買ってきた総菜を食べ、ビールを飲み、順番にシャワーを浴びて、早めに寝る態勢を整えた。なにぶん翌日の起床もきわめて早いのである。
 22時を待たず、アド街ック天国をぼんやり眺めつつ、ピイガを寝かしつけながら、ともすればピイガよりも早く寝付いた。そこでものすごく深く寝たようで、次に目を覚ましたら、ファルマンはまだ起きていて、時計を見たら23時半くらいだったので、なんだか驚いた。だいぶしっかり寝たつもりだったのに、まだ安住アナの番組が終わった直後くらいじゃないか、と思った。ファルマンは自宅じゃないので緊張して寝付けないらしかった。僕はなんだか驚いたなあ、と思ったあと、たぶんまた秒ですぐ寝た。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 3

 というわけで風呂はすっぱり諦めたのだが、だとしたらどこへ行くのか、結局なにも決められないまま、この日を迎えてしまっていた。プールのあと、入浴施設で体を洗うということ以外、特にしたいことが浮かばなかったのだった。そんな自分に対して、ちょっとどうなんだと思う部分があった。6年半暮した倉敷である。そこへ2年ぶりに戻ってきたのである。万感の思いとともに、いろいろ再訪したい場所があって然るべきではないのか。ないのである。水で泳いだあと、お湯を求めるだけなのである。俺は一体なにをやっているんだろう、俺の生活、俺の人生って、本質は一体なんなんだろう、とまで思った。
 結局、しばらく水泳センターの駐車場で思案した挙句、イオン倉敷に行くことにした。熟考した末にイオン。なんかつらくなってきた。それでも時間を潰すために無為にイオンに行くのではさすがにない。目的はもちろんパンドラハウスである。しかし1週間前の松江のそれで、ニットが冬物ばかりであまりよくなかった、という思いをしたばかりだったので、あまり期待はしないで行こうと思った。それで、ちょっと懐かしい道を走り、イオン倉敷へとたどり着いた。2年でお店のラインナップも変わったりしているのかな、ということにも少し思いを馳せたが、馳せるだけでモール内を見て回るということはせず、ただパンドラハウスに直行した。そしてその収獲はどうだったかと言うと、これが滅法よかったのである。適度な厚みの、いい感じのボーダーのニットはぎれ(130×50くらい)が、色味で分類されて棚に何段も並べられ、しかも1巻が本来500円のところ、セールで380円になっていた。うひゃあ、と興奮しながら、両手いっぱいに抱え、購入した。1週間前の松江の雪辱が果たせて万々歳だったが、その一方で、あんなに行きたいと思っていた、おらが県の県庁所在地である松江のイオンのお店は、実はそれほどの規模ではなくて、岡山のお店のほうがよっぽど品揃えがいいんだ……、ということが明らかになってしまい、少ししこりも生まれた。倉敷在住時代は、ぜんぜんニットに興味なかったんだよな。またいつか、岡山に行った際には、来れたらいいなと思う。
 あまり期待しないで行ったイオン倉敷で望外の喜びがあったため、すっかりテンションが上がった。もう今日の倉敷での行動はこれで打ち止めでいいな、と思ったので、美観地区に向かうことにした。ここまでファルマンに状況を訊ねるメッセージを何度か送っていたが、ぜんぜん既読がつかないのだった。
 美観地区にたどり着き、適当に歩きはじめる。人はかなり多かったが、歩いていればそのうち出くわすだろうと思った。2年よりもさらに、たぶん4年とか5年ぶりの美観地区は、まあ相変わらず観光地だった。観光地なので、倉敷になじみのある人間が来ておもしろい場所ではない。そんなことを思いながらあてもなく歩いていたら、果たして見覚えのある一団を発見し、無事に家族と合流した。それからひとしきり、僕も一緒に美観地区内を巡り、やがて別れた。2年2ヶ月ぶりの心友との邂逅は、ポルガの心を満足させただろうか。そうだったらいいな、と思った。4年生の3学期に転校をさせることになったことに、親としてやはり、一抹の後ろめたさがあるのだった。そしてそれも含めて、倉敷および岡山に対する、僕の複雑な感情が形成されている気がする。
 心友一家と別れたあと、4人で再び車に乗り込み、次の目的地は岡山市街、では実はなくて、倉敷市街からそう離れていない、かつて実際に我々が6年半を暮した街である。
 つづく。

岡山旅行&横浜帰省記 2

 土曜日の朝、最初の目的地である岡山に向けて出発した。出発できてよかった。GWではなくこのタイミングというのはすごくいいなと、計画が立った1ヶ月前あたりは思っていたのだけど、直前になって子どもたちの花粉症が強まったり、僕にもガツンとした症状が現れたりと、この時期特有のトラップに戦々恐々としたが、なんとか中止にせずに済んだのだった。
 岡山までは車である。前回の帰省の際、飛行機を避けたいがために、岡山まで車で行ってそこから新幹線に乗る、という手段を、「こんなトンデモ案もあった」という感じで書いた気がするけれど、今回はそれを実際に選択し、実行した。特急やくもに乗ることへの抵抗や、岡山や倉敷で行動することを思えば、これが今回の最適解だろうと考えた。ちなみにこの1週間前の松江行きで、ポルガがスマホを契約したことや、その夜に音楽のサブスクに加入したことは、実はどちらもこの岡山行きの伏線なのだった。
 車内音楽が新鮮で愉しかったので、3時間の道程は快適だった。これなら10時間くらいかけて全行程を車で行くのもありなんじゃないか、とさえ思ったが、ピイガが1時間過ぎたあたりでぐずり始めたので、やっぱりぜんぜん無理なのだった。
 玉島の出口で高速を降り、倉敷市へとたどり着く。懐かしき倉敷。2021年1月4日以来、実に2年2ヶ月ぶりである。まさかこれほどまでに岡山に行かないことになるとは思っていなかった。
 ポルガの心友との待ち合わせ時刻には、だいぶ余裕を持って家を出ていたが、高速道路の最後のほうで事故渋滞があってだいぶ時間を喰い、昼ごはんをどこかで食べる時間はなくなる。そこで2号線から笹沖のザ・ビッグに立ち寄り、住んでいた頃は買い物ついでによく買って食べたあのたこ焼きを買って食べようじゃないか、懐かしくてちょうどいいじゃないかと閃くが、駐車場に入ったところで、お店がなくなっているのが分かった。寂しい。これが2年2ヶ月の歳月というものか。仕方なくザ・ビッグで弁当を買い、車の中で食べた。
 そこから目的地まではすぐである。目的地は美観地区なのだ。ここでポルガは心友と遊ぶ。ファルマンとピイガ、および心友のお母さんと弟くんの4人は、そんなふたりを少し離れたところで見守りながら一緒に美観地区をブラブラする、という計画になっていた。というわけで集合場所で無事に落ち合い、ポルガと心友は2年2ヶ月ぶりの再会を果たしたのだった。キャラ次第では抱き合って喜んだりするような場面だろうが、おとなしいものだった。まあ親きょうだいの前だしな。
 かくして6人は美観地区へと進み、僕はここから別行動。さすがに僕まで一緒に美観地区を回ってもしょうがない。それよりも僕には行きたい場所があった。倉敷市が誇る50mの巨大プール、倉敷市屋内水泳センターである。居住時代、ちょいちょい行っていたこの場所だが、離れてみて、50mで、レーン数も多く、水深も深く、そしてなにより水が異様に透き通っているこのプールの価値を改めて実感し、いつか岡山に行った暁にはぜひ立ち寄りたいと思っていた。でも岡山に行くときは、1日の中で、もれなく行き3時間、帰り3時間の運転が待っているわけで、その状況下で泳ぐのは難しいかな、とも思っていた。それが今回、帰りの3時間のことは気にしなくていいという千載一遇のシチュエーションに恵まれたため、満を持して赴いたのだった。今回の3泊4日は、かなりギチギチに予定を詰めていたが、個人的にそこへプールまで組み込んだのだから、アグレッシブなことだと我ながら思う。
 美観地区から水泳センターまではすぐである。動線的にも今回は恵まれていた。かくして2年2ヶ月以上、最後がいつだったかは分からないが、とにかく久しぶりの、念願の水泳センターと相成った。相成り、どうだったかと言えば、まあよかった。プールは相変わらずのクオリティだった。でも50mプールって、25mのそれに較べて泳ぐ距離が長いからすぐ疲れるんだよな、ということはもちろん分かっていて、実際その通りで、3時間かけて来た、2年以上ぶりのプールだから、堪能するために死ぬほど泳いだかと言えば、そんなこともなく、それでも合計で1kmほどは泳いだが、35分くらいでフィニッシュした。
 はじめからプールではそれほど時間は潰れないということは判っていた。別れてからまだ1時間ほどしか経っておらず、子どもたちはまだまだ美観地区だろう。さてこのあとどうしよう、と考える。水泳センターは、せっけん類を使ってのシャワーが禁止されているため、髪や体を洗いたい気持ちはあった。実は計画段階でその流れを予想し、そう離れていない位置に「くらの湯」という入浴施設があったから、そこへ行くのはどうかと考えたのだが、検索したらなんと閉鎖していた。居住時、いちどだけ行ったことがあった。真備の水害があった際には、災害に遭った人や復旧作業にあたった人に、風呂を無料開放していたのが印象に残っている。やはりコロナだろうか。2年2ヶ月の歳月をここにも感じた。
 つづく。