泳げていないというのもまた、気持ちを晴れさせない要因のひとつであるに違いない。それまで当たり前に権利を与えらえていたことが、あるときから急に奪われるというこの感じ、なるほどこれが「ロス」というものかと、これまで自分にまつわること以外、なにも「推し」というものを持たずに生きてきたので、初めて実感している(泳ぐことは自分にまつわる個人的な事柄だが、なにぶんプールという外的要素が関係してくるので、自分自身の力ではどうしようもない)。世界を形作っていたものの一部が、あっけなく抜け落ち、それでももちろん生きていかねばならないのだが、どんなに前向きでいようと励んでも、それはかつての日々に対して大事なものが欠落した状態であり、決して十全ではない。ファルマンの短歌に、『楽しくて全部そろっているけれど どれもこれもが前ほどじゃない』というものがあり、言っていることは微妙に違うような気もするけれど、感じている寂しさは似通っているような気がする。
泳ぐこととスイムウェア作りは趣味の両輪であり、そのふたつが連動することによって俺はどこまでも進めるぜ、みたいなことを前にどこかのブログに書いたが、泳ぐほうの車輪がまるで回らない日々の中で、スイムウェア作りのほうはどうなっているのかと言えば、これが気色悪いほどに激しく回転しているのだった。1ヶ月に及んだパターンの刷新プロジェクトが完了したこのタイミングを見計らったかのように、いつも生地を買っている店の、いつも買っている生地が、これまでの2年間ほどで最安値の、ふだんの値段で買うのがバカらしくなるような価格でのセール販売を開始したので、小遣いをだいぶ注ぎ込んで、新しい柄のものを大量に仕入れたのだった。なので、泳がないくせに水着を作ってばっかりいる。作られた水着は、まだいちどもプールに浸かっていないし、泳がれてもいない(「水着が泳がれる」という特殊な表現)。タイヤが片方しか回っていないので、最小限の半径で同じ場所でずっと激しく回転している感じ。傍から見ればそれは完全に故障であろう。
まったく泳がなかったこの1ヶ月、しかし車にはプールグッズ一式が載り続けていて、それはいざというときのため(例えば急に気が向いておろち湯ったり館に行くことにしたとか)などという前向きな理由ではなく、単に自宅にそれを置く場所がなかったからで、地球上の飛行機はすべての機体が同時に地上にいることはできないという話と一緒で、日々生産され続ける、売り物でない僕の水着および下着は、もはやタンスには収まりきらないため、プールグッズと称して車に載せておくよりほかないところまで来ていたのだった。しかしそれはさすがに不健全であると思ったし、なによりこれから製作は新しいパターンになっていくので、このあたりで整理するべきだろうと考え、タンスの中の、これはもうこの先たぶんも穿かないだろうと判断した水着や下着は押し入れへとやってしまい、なんとか1段を丸ごと空けて、そこへスイムウェアを詰め込むことにした。
それがこの状態で、ブリトーみたいにまとめたものを縦に並べていって、満員電車のような、互いが互いを支えて自立しているような、そんな感じで収納してある。壮観である。普通に考えて、もう水泳が趣味の人が一生で使う分の水着が十分にある。ともすれば来世、あるいは来来世くらいまでいけると思う(さらに言えばこれがすべてというわけでもない)。お前には股間がいくつあるんだ、もうこのくらいで打ち止めでいいだろうという話だが、これが穿くことだけを目的に作っているわけではないことは言うまでもなく、これからも数は増え続ける(そもそもが新しく大量に買った生地でこれから作っていくもののための態勢作りの一環で、この作業を始めたのだ)。なるほどイメルダ夫人もこんな気持ちだったのだな、とかつてのフィリピン大統領夫人に共鳴する思いだ。
とにかく、とにかく早く暖かくなり、そしてプールが再開してほしい。生きていて、その不満にばかり意識がいっていて、不健康だなと思う。