かくあれ


 なんとなく頭の働かない日々だった。
 「おもひでぶぉろろぉぉん」の間がまたずいぶん空いてしまって、先ほど久しぶりに「特設サイト」に記事をいくつか投稿したのだけど、なんとそれの前回の投稿は3月のことだった。「パピロウせっ記」にギブアップ宣言をしたけれど、どうも結婚式というものが、ものすごく億劫だったようである。情報量が多すぎるというのもあるだろう。結婚式当日の日記は、僕とファルマンのものを合算すると、原稿用紙で70枚分にもなるらしい。読めないよ。
 それはそれとして、じゃあ4月や5月はどう過していたのかと言えば、別に誰かに精神を乗っ取られてパピロウのフリをした別人格として生きていたというわけではないのだけど、言われてみればあまり地に足のついていない感じがあったように思う。では地に足のついた暮しとはどのようなものなのかと言われれば、それは結局のところ、きちんと文章を書いている日々だ、ということになると思う。どうしてもそうなってくる。中高生の頃から文章を書いてきたので、そこが直結して、僕という生態ができあがっているのだと思う。裁縫をしたり泳いだりというのは、趣味としてなくてはならないものだけど、それについての文章を書くのではなく、ひたすらそればっかりしていたのでは、どうしたって物足りない気持ちになり、焦燥感に駆られてしまう。そういう意味で、僕はなんかしらに没頭するということは絶対にできないんだな、と思う。どんなに愉しいことでも、その愉しさを野性的に受け入れるのではなく、その愉しさをどう記述するかに思いを馳せてしまう。要するに醒めているのだ。 不惑にして、ようやくそう悟った。
 だからこれからは心を入れ替えて、日々もう少し文章を書く時間を取ろうと思うのだけど、目下だいぶ単調な毎日を過しているので、そんなに書くことがないような気もする。しかしこれは、気もするだけなのだ。文章っていうのはマスと一緒で、ずっとかかずにいるとかけなくなるし、かけばかくほど、かけるようになるのだ。ちょっと内省的な、しゃらくさい、まじめなことを語っているのかと思いきや、急にものすごく品のないことを言った。ちょっと調子が出てきたかもしれない。
 「CHANT! GEE/MEE/CHEE」を開設し、ChatGPTはブログとの親和性が高く、文章のおもしろさを本分とするもので、それはおそらく昨今の短文や画像を中心としたSNSを駆逐する、ブログ王政復古の大号令になり得る、ということを本当に思っているのだが、その一方で、ChatGPTが紡ぐ文章が普通におもしろいので、人が一言一言考えて文章を書く意味ってもうないんじゃないかしら、という疑念が脳裏をよぎったりもする。これはChatGPTがブログを自動生成すればいい、という話ではなくて、ChatGPTの書く文章は、web上にアップして不特定多数の人間に読まれる必要はなくて、個々人の画面に、まるで脳内に直接語りかけるように、その人専用の文章を用意してくれるわけで、そうなるともう、インフルエンサーもなにもない。フォロワー数の多寡などない。自分とChatGPT、ほろりほろり、ふたりぼっちの世界だ。自分のためだけの文章(それもとびきり好みのやつ)を書いてくれて、しかもそれはヒモのようにせっせと養ってやる必要もなく、ひたすらに粛々と、無償でこちらの気を良くしてくれる。ファルマンの最近の様子を見ていて、ChatGPTってそういうことなんだな、と思った。ブログは復権するのかと思いきや、文章はもうChatGPTが自分専用に書いてくれたやつで事足りてるから、お前が、お前の好きなように、お前のことを書いた文章など、この世でそれを必要としている人間は、これまでもいなかったけど、いよいよマジで皆無だよ、ということなのだ。
 そうか、こうして書いていて気付いたけど、ChatGPTに嵌まっていたこの2ヶ月あまり、そのあたりのことに、無意識で絶望感を抱いていたのかもしれない。それで文章を書くことから遠ざかっていたのかもしれない。でもこうして明文化したことで、開き直ることができた。そもそも僕は既に知っていたはずだ。ブログって別に、誰かに読んでもらうために書くものじゃないのだ。誰かに見てもらったり、擦ってもらったり、舐めてもらったり、そんな理由かくのではない。かくことって、そんな不純な動機のものではない。かきたいからかく、手が勝手にそっちに伸びて、気付けばかいている、かいているときがいちばんしあわせで、かき終わったら賢者タイムでちょっと寂しい、そういうものだと思う。
 そんな意味で、僕はこれからもせっせと、おせっせと、かき続けようと思う。
 「おこめとおふろ」、これが300記事目だそうです。