島根キャンプ帰省

 帰省を終える。もといキャンプを終える。僕にとって3泊4日の今回の島根帰省は、キャンプ帰省だったと言っていい。中心にキャンプという嵐があることで、時空に乱れが生じ、帰省全体の輪郭が歪んだような、そんな帰省となった。疲れた。
 キャンプは12、13日の1泊2日で行なわれた。参加したのは、義父母、われわれ長女一家、次女一家(30歳の夫と3歳の娘)、三女、そして数ヶ月前から新しく飼い始めたビーグル犬という大所帯。奥出雲の山中にあるキャンプ場まで、実家から40分ほど車を走らせた。その道程では、山の形に添うようにくねくねと、下町の路地裏くらいの幅しかないような道が続き、気を張った。その前日に岡山から島根への移動をしたこともあり、なんか車を運転しすぎている、僕の中の一定の期間中における運転許容時間を超過している、と到着前に早くもうんざりした。子どもたち(主にポルガ)はひと月以上も前から続くキャンプハイが依然として続いていたが、僕はしおりが完成した時点である程度もう満足していたので、これから自分が実際にその渦中の人となり、暑さや作業など様々な厄介事にまみえなければならないことなどを憂い、既にキャンプローに陥っていた。
 キャンプ場に到着したのは午前11時頃。コテージへのチェックインは午後3時から。「……へ?」というような4時間の開きがそこにはあった。主催者である義父は明らかに張り切り過ぎていたのだった。炎天下のキャンプ場で過さなければならない4時間というものには、絶望的な迫力があった。仕方なく、とりあえず木陰に陣を取り、そこで昼ごはんとして、買ってきたコンビニの冷麺などを食べた。屋根のある居住空間にありつけず、川べりの木陰でコンビニ飯を喰らう情景は、想像していたキャンプだホイ!的な陽気なイメージとはだいぶ乖離していて、むしろ世知辛さみたいなものが滲み出ていたように思えた。そしてとにかく暑い。この夏の正午の炎天下に、木陰程度で立ち向かえるはずがないのである。汗がダラダラと溢れ出て、「……さ、3時までこの状態で、そのあと夜はバーベキュー(とかの作業もろもろ)、だと……?」と戦慄した。食後は堪らず川の中に入る。ズボンの裾をまくり、ふくらはぎ程度までしか浸からなかったが、川の中は陸上よりはだいぶ涼しかった。しかし川で過すと言っても限界があった。なんとなく水の流れに乗って下流に進む以外、特にすることがない。時間はあまり潰れず、その時点でまだコテージが開くまで2時間近くあった。このままでは熱中症になる、と長女や次女が危惧を訴えると、義父は「熱中症もキャンプの醍醐味だ」と、やけくそなのかなんなのか判らない、どうしようもない発言をして、ちょうど時期的なこともあり、73年前の無茶な時代に思いが飛んだ。それで自衛策として、われわれ2家族はそれぞれ車内に避難し、エアコンで体をクールダウンさせた。これはとてもいい判断だったろうと今でも思う。そうしていよいよ3時まであと30分ほど、という頃合で、天候が急変する。ゲリラ豪雨である。まずは雷鳴が轟き、次の瞬間には激しい雨が降り始めた。豪雨は別にいいけれど、屋外で遭遇する雷鳴の恐怖と言ったらなかった。だってピカッとなってゴロゴロゴロ、となるわけだけど、次のピカッの瞬間にはもう自分は焼け焦げているかもしれないのだ。身を竦ませながら、木陰に広げたレジャーシートや簡易テントを片づけ、車へと避難した。本当に久しぶりにあんな恐怖感を味わった。
 そして車内に避難したまま、待望の3時を迎えた。ちょうどそのタイミングで雨雲は過ぎ去り、コテージへと移動した。コテージは、事前に想像していたほどは現代的な造りではなく、ベッドもなければテレビもなく、Wi-Fiもなかった。「そうか……」とも思ったが、チェックインまで川っぺりでひたすら待った身としては、屋根があってエアコンがあるだけでいいではないか、という謙虚な思いも湧いた。まさかこの感情がキャンプの効用だというのだろうか。だとしたらお節介もいいところだ。それから僕はしばらく寝た。それは寝る。4時間も屋外で過し、最後は雷鳴に怯えたりもしたのだ。寝ないはずがあるか。ちなみに寝たのは幼児らも含めて僕だけだったらしい。いつもそのパターン。板の間に布団という質の悪い寝心地だったが、それでも寝たらある程度楽になった。
 そのあとはバーベキューが始まり、火起こしとか食材を串に刺して焼くとかのくだりは、僕以外のふたりの男が自然とやってくれる感じだったので、僕は特にすることがなく、なんとなくタブレットでキャンプソングを流し、ちょっと唄ったりもして過した。キャンプで男がするとされる作業で僕にできることは本当にないので(だってキャンプもバーベキューもしたことないんだから)、唄う以外にどうしようもなかった。食べものが焼き上がり始めて、いちどは全員が集ってさあ食べようという感じになるが、辺りが暗くなってくると、虻が炎の明かりに引き寄せられるのかたくさんやってきて、子どもやその母親たちは悲鳴をあげてコテージへと逃げていった。「虻もキャンプの醍醐味だ」とは言わなかったが、元ワンゲルの義父母は「この程度で……」と呆れていて、なんか今回のキャンプ、暑さとか虻とか、終始こんな感じだな……、こんな齟齬ばかりの集団行動、誰得なんだろう……、と不可思議な気持ちになった。肉とビールはおいしかった。別に炭で焼いたから特においしいということはなかったろうと思うが、焼いてタレをつけた牛肉はとりあえずおいしかった。コテージの女性たちへ焼けたものを届けに行く際、バーベキュー場に戻ってくるたびにひとつボケる、というのを僕だけが勝手に始めて、頭に大きな葉っぱを飾ったり、Tシャツを裏返して着たりして現れ、そんなことをする僕が僕は好きだなあとしみじみと思った。
 キャンプの夜はそんな風にして終わった。あれっ、フォークダンスは? という話だが、けっこう狭い面積にそれなりのキャンプ客がいて、コテージ以外にもテント滞在のグループなんかもあり、ぜんぜんフォークダンスができる雰囲気ではなかったのだった。まあ若干そんな予感はあった。マイムマイムの踊り方研究は、それ自体が愉しかったので、別に実際に踊れなくても残念さはない。フォークダンス以外にも出し物大会みたいのが開催されるという怪情報もあり、それならば僕はいまこそトワリングバトンを披露する、かと思いきや、背中のバトン入れからバトンを取り出したまではよかったが、BGMとして流しはじめたSuperFlyの「愛をこめて花束を」のオリジナルカラオケバージョンに合わせて、バトンは一切回さず、持ったまま、ただフルコーラス大熱唱する、というコントをしようと練習していたのだけど、それももちろん開催されず、それは少し哀しかった。
 翌朝は塩むすびと味噌汁というメニューで、全員でひとつのコテージの居間に集まり、全員でそのメニューを囲んで朝ごはんにする、という図が想像しただけで嫌だったので、僕だけひとりで勝手に食べ、義母の不興を買う。ちなみに塩むすびはファルマンの手によってなされたので、その点は気にせず僕は口にすることができた。しかし宿舎的な、自分の好みでセレクトしたりできない、こういう食事を、全員で囲んで食べるというのは、僕はどうしてもできないのだった。ファルマンからも「そのくらい我慢すればいいのに」となじられたが、譲れない一線というのは人それぞれある。
 2日目もなんなら川で遊べばいいね、なんてことを序盤では言っていたが、昨日という一日を経て、夜は板の間に布団で寝て、そんな気力が残っているはずもなく、この日はなにもせず、ほうほうのてい、と言ってもいい度合でキャンプ場を後にした。僕にとって今生、最初で最後のキャンプは、こうして終了した。
 そのあとふたたび実家に帰り、1泊した。したのだが、特になにもしなかった。キャンプから帰ったあとの昼ごはんにそうめんが出され(しかもファルマン家のそうめんは本当に素麺で、ほとんど具が供されない)、ちょっと驚き、3口ほど啜って「ごちそうさま! ちょっと俺ガソリン入れたりしてくんね!」と言って、ひとり出掛け、車にガソリンを入れついでに牛丼屋でネギ玉牛丼を食べた。自分にもガソリンを入れる形なのだった。おいしかった。そのあと帰ったら、義父と次女の夫と三女はバッティングセンターに行くというので、朝ごはんが塩むすびで、昼ごはんがそうめんで、そしてなんでこの人たちは運動ができるんだろう、と本当に不思議に思った。もしかして食べた物以外のエネルギー機構で動いているんじゃないのか、と疑った。僕はそれから買ってきたスナック菓子をつまみつつ、「ほろよい」を飲みつつ、次女が持ってきたというスーパーファミコンミニで遊んだ。したかったのはこういうことだよ、と思った。
 大体そんな帰省だった。うん。まあ誰にとっても大変な帰省だったね。うん。