連休の終わり

 長かった連休が終わりを告げようとしている。と言うより、連休最後の日曜日である今日という日を僕は、ただの日曜日と捉えて過していたので、そういう意味では「連休」は、昨日かおとといあたりに終わっていた。だからなんだ、と言われても困るが、たぶんそうやって、連休がその灯を消す寂寥感を、なるべく分散させているのだと思う。あれだ、なんかあの、虐待とかされた子どもの、心の作用みたいなやつ。あれの一種。
 帰省から戻ってきてからの日々は、ピイガの5歳の誕生日祝いをしたり、そのための買い出しをしたり、餃子を作ったり、図書館へ行ったり、ガソリンスタンドで洗車をしたり、地に足のついた献立を渇望して殊更に家庭料理らしい家庭料理を時間をかけて作ったり、干支4コマ2019をやったり、ポルガのためにハリーポッターのローブを作ろうと型紙を起したり、なんかまあだいたいそんなようなことをして暮した。この日々が本格的に始まる前に、のんべんだらりとして無駄にしないようにしようと意気込んだが、結果として、のんべんだらりとはしなかったが、とことんのんびりと過した。すなわち堕落はしなかったが、特になにかに取り組むということもしなかった。まあ後悔はないのでよしとするか。酒は毎晩きちんと飲んだ。体重は今のところそう増えた様子はない。休肝日は近日中に設けようと思う。そして夫婦揃って、大人のくせに、家族以外の人間との用件で外に出るということを、いちどもしなかった。とことん家族でいた。子どもたちはいつものことながら、どこまでもかわいいが、どこまでもうるさい。そして部屋のドアを閉めない。寒いから閉めろということを、この連休で僕はなんど言っただろう。100回くらい本当に言ったかもしれない。なのに閉めない。連休1日目と、連休最終日の、子どもたちの「ドア閉めレベル」は、まったく同一だと思う。つまり俺の100回の注意は、見事なまでにこの世になんの作用ももたらさなかったのだ。ただ放たれ、ただ失した。でも人の人生って、結局そんなものかもしれない。100回の注意は、子どもたちの心をまるで研磨しなかった替わりに、僕の精神をひとつ高みへと押し上げたのかもしれない。これはそういう説法なのかもしれない。寒いのだからして、お願いだから閉めてほしい。
 今年の目標として、ブックオフの年明けセールで、漢字検定準1級のテキストを見つけて購入したので、試験を受けるかどうかは別として、その勉学にちょっと励もうと思っている。どうせ誰にも読まれないブログを運営するのならば、いっそのこと普通の人がなかなか読めないような漢字を多用することで、それのせいで人に読まれないのだと、原因が先か結果が先かみたいな幻惑効果を意図的に発生させ、人望のなさの原因の在り処を有耶無耶にしたい。おもしろいおもしろくないじゃない、読めないのだと。これを草枕作戦と名付け、今年のテーマとしたい。