フルーツさん一家

 キウイの8個パックが安かったので買った。キウイはたまに買う。家族全員、誰もそこまで好物なわけではないが、たまに気が向く。冷蔵庫にあっても、子どもたちもせがむということはないが、剥いて出してやると食べる。とは言えヨーグルトやプリンのほうが反応がいい。そんな意欲なので、8個パックを買うと、最後のほうは持て余し、ダメにしてしまうこともある。
 そんなタイミングで、実家からマンゴーがやってきた。実家というのはどちらの実家かといえば、複合的であり、僕の実家からファルマンの実家にお中元として贈られたものが、お裾分けとしてわが家にやってきたという次第である。なぜか数年前からこの物品はマンゴーで定着している。おそらく母は思考を停止させているのだろうと思う。マンゴーはキウイよりも足が早そうなので、優先して食べた。下品な味がした。本当に、マンゴーの甘さというのは、下品としか言いようのない甘さだと思う。「気持ち悪い」に片足突っ込んでる美味しさの甘さだ。ファルマンとふたり、義務のように死んだ目で食べた。子どもたちは食べない。
 マンゴーを処理してやれやれと思っていたら、今度は祖母から桃が届いた。これははじめからわが家宛てに、シーズンに毎年来るものだ。とても立派な山梨の桃である。買うとそれなりに高いだろうと思う。段ボールに12個あったか。ファルマンの実家に少し託そうと思ったが、シーズンのさがとして、向こうも桃は充実しているらしい。ならば職場の人とかにお裾分けしようか、と一瞬思うが、これは岡山時代からいつも同じ現象が起きているのだが、お裾分けをすると、向こうがお返しをしなければならなくなるということに思いを馳せるにつけ、渡せなくなるのだった。これは、気を遣わせるのが申し訳ないという気持ちと、あととても神経質っぽい発言になるのだが、自分が桃をあげようとしておきながら、身内ならばまだしも、僕は他人の家に置いてあった食べ物をもらっても食べたくないので、そういう意味でやはりこの、お裾分けをしたりお返しをしたりというのは、止そうと思うのだった。しかし、だとすれば桃の12個というのは、あまりにも多すぎる。桃は美味しいが、1年に夫婦で2個か3個くらいでいい。マンゴーのように、できれば食べずに済ませたいというほどではないが、なければないでいいし、自分から買うことは絶対にない。結局その程度の好きさしかない。夫婦で、といったのは、子どもたちは食べないからだ。なんでだよ! 食べろよ! と思う。子どもたちはやはりヨーグルトやプリンを食べるのだ。子どもたちが整然とした、工業製品のようなヨーグルトやプリンを食べる横で、両親ばかりがせっせと熟れた桃を食むはめになる。また桃というのが、色味がエグく、生々しくて、だいぶ野性味がある食べ物なので、それが子どもたちにはまだなく、われわれには溜まってしまっている、生命体としてのグジョグジョしたものの象徴のように思われ、処理のように食べながら、なんとなく気が滅入るのだった。本当に、あの大箱での地方発送という文化は、ちょっと時代遅れなんじゃないだろうか。直接そうやって送らなくても、今やスーパーで全国の旬のものが売られているではないか。少量パックで。食べたければそれを買えばいい話で、このように大ぶりの桃を12個も送られても困惑のほうが大きい。夏なので外に出してもおけず、冷蔵庫のスペースは大きく圧迫された。
 そんな折に、義父が鳥取に行ったということで、大栄スイカを買って帰り、わが家にもその一部がやってきた。直径から察するにとても巨大な玉の、4分の1。野菜室は桃で支配されていたため、スイカは冷蔵庫の1段を占領することとなった。普段ほとんどフルーツを食べないわが家だのに、軽い気持ちで買ってしまったキウイが呼び水になったのか、にわかにフルーツ王国のようになってしまった。スイカは、切って食べたら、スイカらしい甘みがあり、スイカらしい甘みだなあと思った。2センチくらいの厚みに切ったものを、夫婦で2、3切れずつ食べたか。そのくらいでよかった。1年間でそれくらいでよかった。しかしそれはもらった分の3分の1にもならない消費だった。夫婦で、といったのは、やはり子どもたちは食べないからだ。もはや憤る気持ちさえ起きない。現代の子どもはスイカを喜ばない、というのは、もう何年か前に自分でスイカを買って帰った経験から知っていた。そのため義父が買って帰った気持ちは痛いほど解る。我々には、「夏の子どもがスイカを喜ばないはずがない」という固定観念がある。夏の子どもと、スイカと、食べ終えたスイカの皮をカブトムシに与えるのは、セットだと思っているだろう。しかしそれはもう現代には通用しないのだ。現代っ子には、スイカもカブトムシもぜんぜん魅力的じゃないのだ。
 12個の桃を送ってきた祖母も、巨大な大栄スイカを買って帰った義父も、それは世代的な行動だった。そしてそれを完膚なきまでに無碍にする子どもたちも、世代的であると思った。我々はその間に挟まれ、やはりMD世代だ。MOMOとDAIEIスイカをせっせと処理しなければならない世代だ。ちょっと無理があるな。
 結局最初に買ったキウイはどうなったかといえば、実はまだ、野菜室の二階に居るのです。