2024年夏の自家用車横浜帰省 6日目最終日

 いよいよ夏の帰省も最終日である。目が覚めたとき、とうとう地震から逃げ切ったな、と思った。実際、先週の木曜日から1週間ということで始まった注意期間は、この前夜に終了していたのだった。ああよかった。
 今日は豊川から島根まで、ひたすら長い移動。でもそうは言ってもそれだけなので、10時まで桃源郷をじっくり味わうことにする。朝風呂にももちろん行った。ただしサウナはせず。サウナはどうしてもしたあとで怠くなってしまうので、運転に差支えがあるだろうと判断してやめた。風呂に浸かってのストレッチが気持ちよかった。
 ゲームセンターに行ったり、漫画を読んだり、チェックアウトまでしっかり堪能し、後ろ髪を引かれながらホテルをあとにした。すぐにでもまた行きたいくらい快適な空間だった。実はこれで宿泊代は往路の津のホテルより安いのだ。たまんねえな、常宿にしようかな、と思った。
 ホテル近くの地元スーパーに寄り道し、食料やおやつを買い込んで、いざ最後の移動へと突入した。走り始めは、近付く台風7号の影響であろう、不穏な雲や強風があったが、なにしろ西へ西へ、台風とはどんどん離れてゆくわけで、三重に入ったあたりですっかり平常に戻った。どうせなら行きとは別のサービスエリアに行こうということで、滋賀の土山サービスエリアや、岡山の勝央サービスエリアなどに寄った。島根の実家へのおみやげとして、昨日沼津で富士山モチーフのチョコを買っていて、今日は追加として琵琶湖モチーフの焼き菓子なんかを買った。富士山と琵琶湖のみやげが同時にあるってなんかすごいな、でもわが家は今回まさにそういうことをしたんだよな、と思った(横浜の実家へは、蒜山・宝塚・浜松で買ったみやげを渡した)。
 中国道に入ってからは、明らかに車の数は少なくなり、この日は一切の渋滞にまみえず、18時前には無事にわが家へとたどり着くことができた。これなら大丈夫。次回からは行きも帰りも豊川だな、と思った。ちなみにもしものときのためにファルマンにフリードの運転を練習させていたわけだが、結局はいちども代わらなかった。代わってもらった場合、助手席で余計に疲れることになるのは目に見えていたからだ。まあ得てして、運転手というのは、酔わないし、逆に疲れなかったりするものだ。
 そんな今夏の横浜帰省だった。初めて自分の運転する車で、ここまで本州を横断したので、とても愉しい経験だった。これまであまり馴染みのなかった滋賀・三重・愛知・静岡あたりの県が、とても身近に思えるようになった。途中でも書いたが、京都だってそう遠くないことを知ったし、京都のジャンクションでは福井などの北陸方面に向かう案内もあった。そっちだって行こうと思えば行けるのだ。というわけで今回の横浜行きの感想としては、「高速道路がおもしろかった」ということになる。次回もおそらくこのやり方で行くことになるだろう。成功してよかった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 5日目

 昨日はヘトヘトになったが、この日は今回の旅程のスケジュール的に最も楽な日で、というのも、往路の「島根→津:津→横浜」というのが、比率として「5.5:4.5」だとすれば、この日の宿泊場所は愛知県の豊川市であり、「横浜→豊川:豊川→島根」は、「3.5:6.5」という感じだからだ。今日はただ、横浜から愛知の、それもやや西側まで行けばいいだけの日。
 だから出発も悠々で、なにしろ公共交通機関ではないので自由なのだが、15時からのチェックインよりも早く着いてもしょうがないので、まあ11時半くらいに出ようかね、という感じだった。テレビでは台風7号のことが盛んに報じられていて、関東に最接近する明日は新幹線が計画運休する、などと言っていた。世が世なら、である。わが家の場合、この日のうちに愛知県に移動するので、ギリギリで台風の影響は受けずに済みそうだった。それにしたって、南海トラフ地震注意に始まり、台風まで発生して、帰省というのはこんなにもアドベンチャーなものであったろうか、と思った帰省だった。
 祖母と母、いとこふたりに見送られながら、出発する。出発してわりとすぐ、やっぱり綾瀬のあたりで渋滞に捕まる。行きも帰りもということは、常態として渋滞しやすいスポットなのだろう。これがなければ小一時間くらい、所要時間が短くなるのにな。そこを抜けたあとは快調だった。途中、駿河湾沼津サービスエリアで休憩。ちなみにだが、行きも帰りも富士山は見えなかった。天候的に見えなかったのか、新東名を走ったところで決して見えるものではないのかは判らない。
 豊川へは15時半くらいに着いた。愛知県に、通過するだけでなく足を踏み入れたのはこれが初めてだと思う。豊川はバイパス沿いにあらゆるチェーン店が並ぶ、典型的な地方都市という感じだったが、やはり三大都市の近くで人口規模が大きいのか、チェーン店の層の厚みを感じた。ありとあらゆる店が揃っていた。その一方でごみごみしている感じもなく、田んぼなんかも普通にあったりして、ずいぶん暮しやすそうな場所だな、と思った。
 往路の津は伊勢神宮という事情があったからだが、復路のここにはどういう目的があったかと言えば、土地そのものには関係がない。近隣の観光スポットを検索したところ豊川稲荷があったけれど、行くつもりはなかった。じゃあなにかと言えば、それはひとえに宿泊施設だ。その名もコロナワールドという、温浴施設にゲームセンター、映画館、ファミレス、ボーリング場、そして(わが家には関係ないけど)パチスロが1ヶ所に集まった施設に、キャッスルイン豊川というビジネスホテルも併設されていて、宿泊客は風呂もサウナも入り放題ということで、そんなのもう桃源郷じゃん、と思って、あんまり横浜と島根の中間地ではないなとは思いつつ、ここっきゃないと思って予約を入れたのだった。そんなわけで、施設そのものをレジャーとして堪能するため、ほぼチェックイン時刻めがけてやってきたというわけである。
 期待がだいぶ大きかったので、実際どうなるか不安だったのだが、行きのホテルの名前は出さないのに対し、こちらは明確に書いているということが示すように、ものすごくよかった。本当に桃源郷だった。部屋はトリプルルームで広く、エレベータで降りればそこはゲームセンターで、ひとしきり遊んだらサウナ。宿泊客は専用のエレベータで、一般客がお金を払う入り口の奥から入ることができる、というシステムがよかった。なんかもう、どうしてこんなに甘やかしてくれるの、われわれ一家は庇護対象なの、というくらい心地がよかった。さらには岩盤浴コーナーでは漫画が読み放題と来て、子どもたちも大喜びの様子だった。10時のチェックアウトまで目一杯いよう、この夜が40時間くらいあればいいのに、と思った。晩ごはんは施設内のレストランで食べる。ウェルカムドリンク一杯無料のチケットがもらえ、選択肢の中には生ビールもあり、心が千々に乱れたけれど、ホテルでは酒を飲まないという当初の誓いを守り、なんとか耐えた。生ビールの選択肢があるのにウーロン茶! もはや聖人の所業ではなかろうか。ちなみにこの食事の際、大社高校の2試合目がもう終盤で、やはりスマホでスコア速報を更新しながら確認していたのだが、タイブレークの末に勝利ということで、さらに多幸感のある夜となった。寝てしまうのが惜しかったけれど、翌日の運転は長いので、そうも言っていられず、寝た。

2024年夏の自家用車横浜帰省 4日目

 そう言えば、気になる人は気になっているであろう、『実家においてオートメーションで祖母が行なう衣類の洗濯に、この2年あまりですっかり、手作りのビキニショーツしか穿かないタイプの人になったパピロウは、どう立ち向かったか問題』なのだが、前回の帰省から1年半経って、祖母は95歳となり、実はうすうすそんな予感はしていたが、祖母はさすがに日々の洗濯係からは引退した模様で、そして母というのはあまり洗濯を積極的にするタイプの人ではないので(よく洗濯機を回したあと干すのを忘れて丸一日経ったりしていた)、帰省中の洗濯はセルフと言うか、なんなら祖母と母の分も一緒に回してわれわれが干す、みたいな形になったのだった。そしてそれはほぼ理想的な形と言っていいもので、滞在中は勝手に回し、勝手に干し、勝手に取り込んで、勝手に畳んだのだった。とは言え初日からそのスタイルが確立されていたわけではないので、そこではショーツは洗濯に出さず、かと言って荷物の中に入れていた、実際には穿いていないのに洗濯に出すカムフラージュ用のボクサーパンツもまた、出さない、すなわち下着はなにも洗濯に出さないという選択をしていたのだけど、滞在3日目となるこの日、初めてショーツを洗濯に出し、横浜の空の下に干したのだった。いったい僕はなにについて、こんなに言葉を弄して語っているのだろうかと、我ながら思う。
 さすがに洗濯を引退した祖母だが、しかし傍から見れば変わりなく元気そうで、長生きの年寄りというのは基本的にそういうものなのだろうとも思うが、なにより自分の健康についての自信、そしてそれを自分のみならず周囲へも十全に認識させようとするガツガツ感が、とにかくすごいと思った。実際、体もまだよく動くようで、それは誇るべきことだろうとは思うが、週一で通うようになったというデイサービスにおいて、自分よりも年少でありながらもはやよぼよぼの老人たちに較べ、自分がどれほど健康体であるかを朗々と語る祖母の姿を見て、人間および生き物の本性、とにかく長く生き抜こうと思ったときに必要なのは、倫理や貞節などでは決してなく、他者を見下して自尊心を高めることとなのだな、と思った。今回の祖母の言い回しで感心したのは、「80代の人もみんな杖をついているが、私は杖のつき方を知らない」というものだ。この驕り高ぶりと来たらどうだ。「負け方を忘れてしまった」というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、それと同種だ。ただし「負け方を忘れてしまった」のほうは、フラグと言うか、そんなことを言っている奴はいつかコテンパンに痛い目に遭うだろう、という気がするけれど、95歳の祖母は、もう何を言っても許されるので、要するに最強だと思った。いいなあ、95歳で、「杖のつき方を私は知らない」と言える人生。血筋としては素質があるはずなので、目指して生きていこうと思う。
 さて全体4日目の予定だが、この日は特に予定を入れず、事前に姉に、「この日にいとこで一緒に遊んでやってよ」とだけ打ち合わせをしていた。この日もなにも、近所に住むいとこたちは隙あらばこちらにやってくるわけだが(そのためこの前日などは、来てくれるなとわざわざ頼む必要があった)、せっかくの1日フリーということで、横浜に来たからには、みたいな所へ繰り出したいという思いがあった。しかし前日ポルガはあんな状態だったし(回復したようだったけれど)、なにより山陰よりもやはり強く感じられる関東の暑さに参っていたしで、「家で4人で桃鉄でもすればいいんじゃない?」と提案したのだが、もちろんあえなく却下され、結果的にみなとみらいにある「VS PARK」という屋内型ゲーム施設に行くことになった。ちなみにもうひとつの候補として、渋谷および原宿という、これはこれでド田舎の中学生にとってはだいぶ訴求力のあるスポットに繰り出すという案もあり、どちらかと言えば僕はそちらのほうがよかったのだが、具体的にどこでなにをするというプランのないそちらに対し、「VS PARK」のホームページはやることが明確かつ魅力的で、どうしたって子どもたちの希望はそちらに傾いてしまったのだった。島根からスタートし、8県2府を跨った今回の旅路で、最後に東京都まで踏破したいという思いがあったのだが、残念だった。僕が利用していた頃とは様変わりしたらしい渋谷の街を、今回こそは味わいたいと思っていたが、また持ち越しになってしまった。
 というわけで、みなとみらいに向けて出発する。母も姉も来たので、計8人の大所帯だ。あざみ野から市営地下鉄で桜木町まで。ちなみにこのときわが家4人は、去年3月の帰省以来、1年半ぶりに公共の乗り物に乗った。田舎暮し、マジで公共の乗り物に乗らない。そして公共の乗り物って、乗らずに生きていると、どんどん乗りたくない気持ちが強まってくるものだな、と思った。
 みなとみらいは、「USP」で確認したところ、2015年の9月以来であるらしい。当時、ポルガは4歳、ピイガは1歳。シルバーウィークでの帰省の最終日、新幹線で岡山に帰るという日に、ファルマンの大学時代の友達と集ってごはんを食べ、最後に子どもたちにせがまれコスモワールドでメリーゴーランドに乗ったところ、想定外に時間がかかり、このままでは乗るはずの新幹線に乗り遅れてしまう、となって、コスモワールドから桜木町駅まで全力疾走した記憶がある(子どもにはもちろんない)。当時からの違いとして、聞き知ってはいたがロープウェイができていた。なるほどなあ、という感じのロープウェイだった。「VS PARK」の入る施設までは、ランドマークタワーの足元などを通りながら、歩く。途中のビルでドラクエのイベントをやっていて、巨大なスライムが吹き抜けの中空に浮かんでいたので、写真を撮って義妹に画像を送って自慢した。
 わりと歩いて(都会特有の、気付けばわりと歩くやつ)、目的の商業施設に到着した。施設はコスモワールドのすぐ隣だった。ここまでもそうだったが、中もすごい人の数。お盆だから逆に関東からは人が減っているんじゃないか、という希望的観測は泡と消えた。「VS PARK」も当然ながらすごい行列で、たじろぐが、8人でわざわざここまで出向いている以上、じゃあやめよう、というわけにもいかず、並ぶ。これが実に長かった。当初見えていた列は、先へ進んで道を曲がるとさらに奥に続いていたので、心底うんざりした。わが家は、島根在住者なんですよ! 行列耐性が、日本でいちばん低いと言って差し支えないんですよ! 容赦してくださいよ! ファルマンは途中からうずくまり、スマホをじっと眺めるだけになり、なにを見ているのかとそっと覗いたら、あだち充の漫画を読んでいた。この人は今、あだち充の漫画を読むことで、ギリギリ踏ん張っているのだな、と思った。
 並んだ末にようやく入った「VS PARK」は、その名の通り「フレンドパークⅡ」や「VS 嵐」をモチーフにしたような施設で、中には「そのまんまじゃねえか」みたいなゲームもあった。入場まで待たせる代わりに、中はそこそこの混雑に抑えるという仕組みのようで、2時間の制限時間の中で、並んでるだけでぜんぜん遊具にありつけねえじゃねえか、ということはなく、それなりに遊んだ。子どもたちは愉しそうだった。大人は、もう行列の時点で腰などがだいぶ悲鳴を上げていたので、子どもたちの撮影を中心にやって、あと穏当そうなゲームを少しだけこなした。ヘロヘロだった。
 退場後は、もう15時近くになっていて、昼ごはんがまだだったので空腹だったが、施設内のフードコートには人が溢れていたので諦め、駅に戻る途中のファストフードで済ませた。連休中の観光地なのだから当然だが、とにかく、とにかく人が多かった。
 夕方に帰宅したら、祖母によって洗濯物が取り込まれ、畳まれていた。初めて油断してショーツを干した日にこんなことになったか、と思った。祖母はたぶん、ファルマンかポルガのものと思ったろうな。
 実家で過す最後の晩ということで、夕飯時にはふたたび叔父と義兄もやってきて、食卓を囲んだ。叔父とは今回、ほとんど会話をしなかったな。広島大学に遊びに行ったという話も、するのを忘れてしまった。最後に全員での集合写真を撮ってお開き。くたくたになった1日だった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 3日目

 実家の布団は硬い。重くて硬い。寝るのが和室なので、昔ながらの考えではマットの類は必要ないということになるが、いまどきの高機能マットレス(決して高価というわけではなく)に慣れた身からすると、地べたに薄布1枚敷いたくらいの状態で寝ているような気持ちだ。移動の疲れが取れないどころか、朝には寝返りも困難なほど体がバキバキになるので、なんとかしたいという思いはずっとあるのだが、1年半ぶりに3日だけ泊まる立場で、マットレスを買えとも買うとも言えない。母も物が増えるのは嫌がるだろう。というわけで耐えるほかないのだった。
 日程3日目の予定は、午後からの藤子・F・不二雄ミュージアム行きとなっていて、午前中はのんびりと過す。今日も姉の子どもたちがやってきて、4人でわちゃわちゃとやっていた。わが子が、どちらの実家においても、いとこと愉しそうに触れ合うさまを見るたびに、不思議な気持ちになる。友達とも、きょうだいとも違う、いとこというのはとても独特の距離感の存在なのだな、と思う。自身のいとこ経験値が皆無なので、娘らを見て学習している。ちなみにだが、この前の晩に眺めたアルバムで、僕が幼稚園児くらいの頃の写真で、知らない家族とディズニーランドに行っているものがあり、誰かと母に訊ねたら、それがいとこ一家であった。父の、姉だか弟だかの一家ということだ。一家には同年代の男児もいた。だから、実はいちおう経験はあったのだ。完全に忘れているけれど。
 昼ごはんに、たこ焼きを焼いた。最近またレベルが上がったたこ焼きを、実家の面々に振る舞ってやろうと思ったのである。こちらでいつも買っている粉が、横浜のスーパーでは手に入らなかったけど、まあまあおいしくできた。
 そのあと、Fミュージアムへと向かう。母が送迎してくれるというので甘えた。公共交通機関で行こうとするとかなりの回り道なのだが、実は実家から車で30分かからない。この距離感を思うたびに、ああ僕は、ドラえもんがたまらなく好きだった小学校低学年あたりの頃、藤子・F・不二雄とこんな近い位置関係で暮していたのか、と思うのだった。Fミュージアムに来たのはこれで3回目。前回は、2020年の年明けだった。今回もだったが、当時から中国人の客が多くて、そのあとすぐに新型コロナが流行したので、少しどぎまぎしたものだった。今年は藤子・F・不二雄生誕90周年ということでさまざまなキャンペーンが組まれ、プライムビデオでもいろんなアニメが公開され、わが家のFの機運もまた高まっており、横浜に行く以上はそりゃあ行くだろう、とこれも半ばオートメーションのように定めた目的地であった。しかし意欲的に赴いたはずが、やはり3度目ともなると常設の展示にはもう感動できないし、なによりポルガのコンディションがあまりよくなかった。長距離移動後すぐのいとことの激しい絡みに加え、今朝は母に合わせて早朝に起き、長い散歩などしたものだから、あっという間にキャパオーバーとなり、せっかくのFミュージアムで青い顔をしていた。当然機嫌も悪くなり、その機嫌の悪さに対して我々も不愉快になってくるので(もう少し自分の余力をわきまえろよ、という文句もある)、実に険悪な雰囲気の一家になった。そんな状況で入店したカフェでは、注文した品がいつまでも出てこない、あとから来た客のフードメニューが次々に運ばれてくるのに、ココアとかしか頼んでいないわれわれの注文品がいつまでも来ない、という悲劇に見舞われる。注文から30分が経過したところで、さすがにこれはもう退店しようと思い、店員にキャンセルを申し出たら、「今できたのでお持ちします」と言われ、運ばれてきたココアとカフェラテは、すっかりぬるくなっていた。これはどうやらわが家の今生のFミュージアムは終わったようだな、と思った。また最後に位置するミュージアムショップで売られている商品の高いこと。どうやらこのミュージアムはもう、中国の富裕層しか相手にしないことにしたらしい。そっちがその気なら、こっちももう行かないまでだと思った。
 帰宅後は、母と祖母と、わりと普通の晩ごはんを食べた。一時よりは復調したものの、ポルガがあの調子だったので、カフェで待っている間に姉に連絡し、今晩は子どもをこっちへ寄越してくれるなと頼んだのだ。というわけでこの晩は早めに寝仕舞いし、回復に努めることにした。

2024年夏の自家用車横浜帰省 2日目

 2日目。早く寝たので、6時台に起きた。起きてすぐ、とりあえずこのホテルでの被災は免れたのだ、と思った。ピイガも起きたが、確認するまでもなく隣室のふたりはまだ起きていないだろう。ピイガに断りを入れて朝風呂に行った。少し大きいだけの単なる風呂だったが、それでもまあ、せっかくだから入っておこうという貧乏根性である。そのあと寝起きの悪いふたりとも合流し、朝ごはんはホテルのビュッフェ。宿泊プランに入っていたので、ワホーイと会場へと向かった。特段豪勢ということもなかったが、普通においしく、なにより朝のビュッフェはテンションが上がることだよ、と思った。
 そして出発。この日はこの地から横浜への移動だけの予定だが、さすがにこの日に伊勢参りをスライドさせるという考えはなかった。津から伊勢神宮は、60キロくらいあるらしい。行って、回って、また三重県の北部まで戻ってこようとすると、どう考えても半日以上かかるだろう。いま自分たちが、人生でいちばん伊勢神宮に近付いているという認識はありつつも、さすがによした。縁があればまた機会は巡ってくるだろう。
 津からまた高速道路に入って走り出すと、すぐに中京工業地帯のあたりに出て、海上を進むような沿岸の道が、若干おそろしくも気持ちよかった。長島スパーランドの、信じられないようなジェットコースターの骨組みを目にし、震え上がったりした。そのまま愛知県を突っ走り、新東名に入り、静岡県の浜松サービスエリアで休憩。なかなか賑わっていた。車はさらに進み、とうとう神奈川県に入る。島根をスタートし、鳥取、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、三重、愛知、静岡と来て、ラストの神奈川である。来れるもんだな、繋がってるんだな、と思った。1日でやれと言われるとつらいが、2日がかりの悠々スケジュールだったこともあり、新鮮で愉快な経験だった。飛行機は論外として、時間に余裕さえあれば、新幹線よりもこっちのほうがいいな、と思った。家族水入らずで過せるし、ホテル代、高速代、ガソリン代を含めてもたぶん安上がりだ。今後はこれで決定だな、と思ったが、子どもがこうしてようやく長距離の車移動に堪えられる年齢になって、そして子どもが帰省についてきてくれる間だけだから、人生の中でかなり限られた期間だろうけども。
 厚木を過ぎて、もうほとんど実家のエリアだな、となったところで、綾瀬から町田にかけてのところで、この旅程でいちばんの渋滞に巻き込まれたが、それでもなんとか横浜青葉インターチェンジまでたどり着いた。ここまで来ればいよいよホームである。いつも島根の街を走っている車で走る青葉区の住宅街は、傾斜のある土地にギューっと建物を詰め込んでるんだな、というギチギチ感がすごかった。実家に到着したのは15時台。母と祖母が出迎えてくれた。祖母は、第一声がなんだったかは忘れたが、第三声くらいが、「次はいつ来るんだ、正月は来るのか」だったのは覚えている。濁してもしょうがないのではっきり言った。「正月は確実に来ないよ」。
 われわれの到着が伝わり、近所に住む姉の子どもたちもやってくる。姪は高1、甥は小6である。再会は去年の3月(WBCをやっていたので覚えやすい)以来だが、どちらも大した変化はなかった。この期間、4人の中でいちばん発育したのはポルガだろうと思う。身長がファルマンに匹敵するポルガは、縮みつつある母の身長を超えていた。そして子どもが4人揃うと、毎度のことながらとても喧しかった。島根のほうのいとこは、ピイガの1個下の子はおとなしいし(心を開いた相手には延々としゃべり続けるけれど)、その妹はまだ2歳なので、4人いてもほぼポルガとピイガのうるささしかないのだけど、こちらの4人は、4人がそれぞれしっかりとうるさいので、本当にすごいことになる。久々に味わうその感じに、ああそうだった、こんな感じだった、こんな感じの、すごいストレスなのだった、と思った。
 晩ごはんまでの間に、納戸からアルバムを持ってきて、眺めた。僕の幼少期のアルバムである。相変わらずかわいかった。もちろん今も今で至極かわいいのだけれど(そのうえ40歳としての艶も出てきた)、やっぱり手足が短いかわいさというのは格別だな。自分の小さい頃の写真を見ることでしか満たされない容器が満たされるのを感じ、満足した。
 やがて叔父や姉夫婦も現れ、一族が全員集合し、晩ごはんのメニューはもはやオートメーションの手巻きずし。叔父は叔父だったし、姉は姉だったし、義兄は義兄だった。集う感じも、手巻きずしも、人間も、実に不変。こうも不変ならば、もう実際に集合しなくても、VRでもいいのではないかと思うほどだった。
 そんな感じで全体の2日目は終わった。

2024年夏の自家用車横浜帰省 1日目

 横浜帰省から無事に戻った。
 南海トラフ地震注意に怯えつつ、さらには台風7号に追い立てられながら、しかし結果的には何事もなく、住まいへと戻ってくることができたのだった。本当によかった。
 移動日のホテル宿泊も含めれば5泊6日にも及ぶ日々を、これから綴っていく。ちなみに車だったので、ノートパソコンも持っていったのだが、結局いちども起動させなかった。毎日日記を書いておけば楽だったろうにな。
 出発は8月11日であった。発生から1週間が経過し、注意報も解除された今となっては、結果論として過剰な反応ということになってしまうが、降って湧いた南海トラフ地震注意に、出発前の2日間はだいぶ悩んだ。移動は長く、そしてその道程はだいぶ南海トラフの警戒地域である。わざわざこのタイミングで、南海トラフの話題は普段、はっきり言って他人事である山陰の人間が、ノコノコそっちへ出ていく。これで本当に被災したら目も当てられない。宿泊先が実家だけならまだいいが、行きは三重県、帰りは愛知県の、それぞれなんの土地勘も縁故もない地方のホテルに泊まるのである。もしもその夜に地震が起ったら――? とまあ、不安は大きかったのだが、実際に取り止める踏ん切りもつかなかったので、決行した。
 行きの宿泊先は三重県と書いた。三重県は津市である。津は、スムーズに島根から横浜を目指すのであれば、少し寄り道になる位置にある。ではなぜ津かと言えば、今回のこの帰省には、伊勢参りというオプションも付けていたからだ。せっかく車でこのあたりを通るのだから、いつか行きたいと思っていた伊勢神宮観光も兼ねようではないかと。三重県の南方にある伊勢はだいぶ遠いが、早朝に出発し、昼あたりに着いて、半日ほど伊勢神宮を巡り、そして夜に津のホテルに入る、という算段を立てていた。しかしこの予定は、ポルガの部活動の影響(あまり誰も行けると思っていなかった上の大会に進出してしまったのだ)により、急遽中止することになった。11日の午前に部活が入ってしまったのだ。残念は残念だったが、この旅程の初日に、早朝に起きて炎天下で伊勢参りというのは、やったらけっこうハードだったかもな、とも思う。
 というわけで昼過ぎ、ポルガを学校で拾っての出発となった。伊勢参りがなくなったことで、この日は津まで行ってホテルにたどり着ければそれでいい。渋滞がなければいいな、と思いながら長い旅路が始まった。車内では、このために作ったプレイリストをひたすら流した。横浜帰省用として、2ヶ月ほど前から、ひとり10曲、計40曲というプレイリストを、12個作っていたのだ(ポルガやピイガは意気揚々とやっていたが、僕とファルマンは120曲を選出するのに大いに苦労した)。1つで大体2時間あまりとなるそれを、順番に再生し、最後に家に戻ってきたときは、ナンバー10の途中だった。自分が聴きたいと思って入れた曲と、家族の選んだ聴いたことのない曲が流れるので、飽きずに道中ずっと愉しめた。日々の運転でもだが、音楽のサブスクはだいぶ車中のQOLを上げてくれていることだな、と改めて思った。
 道は、岡山(倉敷)との行き来では、広島県を通る、しまなみ街道を使って尾道まで出るルートだが、検索したところ今回のような場合はそっちではなく、しまなみ街道ができるまでは使っていた、鳥取県を通って蒜山や津山など岡山県の北部に出て、そこから兵庫県へと進んでゆくルートのほうが早いということで、久しぶりにそっちの道を走った。途中、蒜山高原や宝塚北のサービスエリアで休憩した。宝塚には手塚治虫コーナーがあったので、寄ってよかった。兵庫県を越えると大阪府で、さらには京都府、そして滋賀県も少し掠める。ちなみに大阪と京都は、イメージしていたような風景ではぜんぜんなかった。そういうものだな。島根だってほとんどの地域は神の国でもなんでもない。それにしても京都だ。「京都市街」みたいな表示のインターもあり、ここを降りたら京都観光ができてしまうのかー、と思った。宿泊先さえ確保できれば、片道4時間ちょっとくらいで、京都旅行ってできるんだな。今回の経験を通して、これまでなんとなく畏敬の対象で遠かった京都が、存外そうでもないのだということを知った。そのうちやれたらいい。そして滋賀を抜けたらそこはもう三重県である。この道程において、大阪や京都あたりの渋滞が不安だったが、そこはぜんぜん問題なくて、でもなぜか唯一、滋賀から三重までの間の、具体的にどのあたりだったかもう忘れたが、トンネルが連続する山道のあたりで、何十分間かの渋滞に巻き込まれた。まあそのくらいで済んだのはよかったと思うべきか。
 ちなみにこの道中で、島根県代表である大社高校の、甲子園1試合目が行なわれており、ここというのはファルマンの上の妹とその夫の出身校であり(妹のほうが2つ上で、高校時代は面識がなかったという)、さらにはパピロウヌーボでおなじみのプロ角マキコこと江角氏の出身校でもあるため、わりと身近に感じているのだった。しかし初戦の相手が、春の選抜の準優勝校である兵庫の報徳学園ということで、これは無理だろう、まあ甲子園に行けてよかったよね、などと思っていたら、勝ったのでとても驚いた。試合状況はファルマンが助手席でちょいちょいチェックする形で確認していたのだが、試合が終わってしばらくしてから、そう言えばラジオで聴けたんだな、と気づいた。
 そうして無事に津に到着。ホテルは市の中心地にあって、街と道の感じが、なんとなく岡山を彷彿とさせた。ホテルに入る前にガソリンを満タンにし、あと地元のスーパーで夕飯を買い込む。事前にわざわざ調べさえした地元のスーパーは、しかし期待していたような愉しさのない、いまいちな感じだった。ちなみに酒は買わない。事前の宣言通り、ホテルでは飲まないのだ。5時間近い運転ののちに! 飲まない! 南海トラフ地震注意だから! だいぶん忸怩たる思いを抱えながら、酒をカゴに入れることなくレジを通した。
 ホテルはごく普通のビジネスホテルで、トリプルの部屋があれば、小学生添い寝無料とかで1部屋で済んだのだが、うまいこといかず、ツインの部屋を2つ取ることになり、その部屋割りをどうするかで少し悩んだ。結果として、寝つきがいい組(僕とピイガ)と、寝つきがクソ組(ファルマンとポルガ)で分かれることにした。これはとてもよかったと思う。部屋でごはんを食べたあとで、性分としてどうしても甘いものが食べたくなって、ホテル近くのコンビニまで買いに行くことにした。ポケモンGOをするポルガを誘い、ふたりで夜の津を歩く。コンビニは通りを1本入った、住宅街の中にあった。そもそも伊勢神宮に行くつもりで取った、だから今となってはぜんぜん泊まる謂れのない津に、なぜか一家4人で来ていて、ひと晩泊まるのだと、そして今はその津の中でも、絶対に地元住民しか使わないようなコンビニに娘と歩いて来て、プリンを買うのだと、そういうことを思うと、なんだかとても不思議な気持ちになった。津! 津て! 俺の人生に、津で過す一夜があるだなんて! 部屋に戻り、プリンを食べ、大浴場(サウナはなく、なんの面白味もない浴場だった)で風呂を済ませたあとは、僕もピイガも眠気が来たので、ピイガは21時台に、僕も22時台に、早々に寝た。向こうの部屋のことは知らない。ファルマンは「時計を見たら2時だった」などと言っていたような気がする。エアコンの設定が難しかったこともあり、僕もぐっすりとはいかず、浅い眠りの中で地震のことなどを思って途中で起きたりしたが、そのとき見た時計の時刻が2時台だったように思う。幸い地震は起らなかった。
 とりあえずこれが初日の動き。パピロウ名物、数日間に及ぶ出来事の、序盤はかなりしっかり書き込むが、後半はたぶん流し気味になるやつ。2日目に続く。

伏線と予兆の夏

 「パピロウせっ記」に、24歳の自分が結婚についての伏線をまったく張ろうとしなかった話を書いた。それに対して40歳の僕のにおわせと来たらどうだ、という話を今からする。
 まず5月の車検である。この際、フリードにドライブレコーダーを取り付けてもらった。「最近になって、別にヒヤリハットがあったというわけではないが、やっぱりあったほうが安心か、ということになって設置することにした」などと白々しく書いたが、このときには既に計画は頭の中にあり、これはそれに対しての行動に他ならない。
 続いて6月には、ファルマンの運転でゴールデンユートピアおおちまで行く、ということをした。「今後、ファルマンがフリードを運転する必要に迫られる場面もあるやもしれないので、どこかで練習をしておきたいね、ということを前から少し話していた」という、この記述もまた実に白々しい。
 そもそも去年の12月、年末年始に帰省をしないことについて書いた際、ポルガが大人料金になったこともあり新幹線代があんまりにも高いじゃないかよ、ということを記していた。さらには、年末年始にせっかく関東に行ってもどこも閉まっていて果以がない、とも言っている。これらなんかはもはやにおわせですらなく、動機そのままと言ってよい。
 これらの伏線を照らし合わせると、どのような結論が導き出されるか。答えはこうである。
 夏、車で帰省する。
 なぜにおわせなのか、往路も復路も旅行を兼ねた2日がかりで、それぞれの宿泊先を半年以上も前に予約したりしていたのだから、大っぴらに書いていればよかったじゃないかという話なのだが、スケジュールとか体調とか、なにがあるか直前まで分からないので、明記はせず、ひそかに計画を進めていたのだ。実際、つい数日前にポルガの部活動の影響により、ひとつわりと大きなスケジュール変更を余儀なくされる、という出来事が起った。
 それでもまあ、とりあえず行くことは叶いそうだ、という見通しが立った矢先の、宮崎県を震源地とする木曜日の大きな地震であった。島根県でもほどほどに揺れ、どこかで大きな地震があったのかとすぐにテレビで確認したところ、宮崎県だったので、そのときは「そうか」とわりと冷静に受け止めた。しかし帰宅後にテレビを観たら、いつもの地震情報と毛色が違う。これは南海トラフ地震の前触れかもしれない、などと言っている。そして画面に表示される、南海トラフ地震が起った場合に被害が大きいと予測されるエリアと、今回のわれわれの帰省のルート(往路復路の宿泊場所を含む)の、重なり具合たるやどうだ! それはそうだ、まず関西に出て、それから東海道を行くのである。太平洋側をひた走るのである。こんなことあるか、こんなことあるかよ、と思った。元日の能登半島地震というのもだいぶ性悪だと思ったが、盆休みにこれをぶつけてくるというのもだいぶひどい。どうした、今年は。というか令和って本当に災厄が多すぎやしないか。いざというとき思いどおりにいかないことが多すぎやしないか。
 しかしまあ、そこまで過敏になってもしょうがないので、計画を取り止めるということはしない。車に防災グッズを載せ、ガソリンのこまめな補給を心掛け、ホテルに宿泊する夜は酒を飲まないことにした。行くと決めた以上、そのくらいの対策しか打つ手がない。
 まあ大丈夫さ、大丈夫と思って行くしかないさ、と思っていたら、今度は金曜日の夜に神奈川県西部で震度5弱が起ったので、「もう! バカ!」となった。
 予兆とはすなわち伏線であり、伏線はないよりあったほうがいいが、これはそういう話ではないだろう。いや、無防備で行って窮地に立たされるより、ある程度の心の準備ができた状態で行くわけだから、やっぱりいいことなのだろうか。判らない。無事に帰ってくるまで判らない。どうか愉しい日々になりますように、と心の底から強く祈っている。